近頃は人間と人工知能の違いがあまりよくわからなくなった。街中で話している目の前の人は人間だろうかそれとも人工知能だろうか。そっと背中を押してみる。
途端に飛び散る赤い飛沫。
……どうやら人間だったらしい。
いや待て、頭部からコードのようなものがいっぱい伸びている。なんだ人間によく似せた人工知能だったのか。
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帰宅した私は車を降り、夜露に濡れた庭の砂利を踏んで玄関へと向かった。
郵便受けには、数通のハガキやチラシに混ざって、見慣れぬ一通の手紙が投函されていた。
上質な茶封筒の表には、震えるような達筆の黒インクで私の名が記されている。裏を返せば、差出人欄には見覚えのない男の氏名と、都心から遠く離れた山の麓にある町の住所があった。
心当たりのない不審さを覚えつつ、ジャケットを脱ぎ、静まり返った吹き抜けのホールを抜けて書斎へ向かった。
机のスタンドライトを灯し、ペーパーナイフを封の隙間に滑り込ませる。
中から引き出した便箋には、狂気じみた文字が踊り狂うように、びっしりと文字が連なっていた。
前略
突然このような、悪趣味極まりない告白文を送りつけます非礼をお許しください。
ですが、この手紙を書かざるを得ないほどに追い込まれているのでございます。
私の住まいは、笹倉岳の麓にございます。標高こそ二千メートルに満たないものの、ひとたび登山道を外れれば人を呑み込む底なしの沢が口を開ける山脈です。年間を通じて遭難者が絶えず、携帯電話の電波すら届きません。私は幼い頃からこの山と共に暮らしており、隅から隅まで知り尽くした、いわば、自分の庭のような存在です。
すべての始まりは、十数年前の秋のことでした。
私はいつも通り趣味の登山をしておりました。季節ごとに移り変わる山の景色は何度登ってもそれは美しいものです。
そんな中、山中で道を見失った若い男女三人の登山者を見かけたのです。
これは特に珍しいことでもございません。年間でも何十人と行方不明や遭難の起こる山です。
そこで、私はいつも通り安全な迂回路を教えてやろうとしました。
その時です、私の脳裏に悪魔のような囁きが響きました。
もし、素人では二度と生きて戻れぬ崩落した山道へと誘い込んだら、彼らはどうなるだろうか。
私は極めて自然な、柔らかな微笑みを浮かべ、偽りの近道を教えました。
彼らは私を救世主のように拝み、感謝の言葉を連ねて、私の示した死の待つ暗い沢へと歩いて行きました。
微塵も疑いも持たず、破滅へと一歩ずつ歩を進めてゆくあの無防備な後ろ姿を見送ったとき、私の喉の奥をせり上がってきた甘美な痙攣を、なんと表現いたしましょう。それは、生贄を祭壇へと運ぶ司祭のそれでございました。
そして三日ほど後の事です。
朝刊の片隅、社会面の無機質な活字の中に、彼ら三人が沢の滑落現場で折り重なるようにして遺体で見つかったという記事を目にしたのです。
その瞬間、頭頂から爪先へと突き抜けたあの戦慄すべき歓喜を、私は生涯忘れることができません。
背骨を強烈な電流が駆け抜け、下腹の奥が熱く煮えたぎるような、世のいかなる肉欲をも凌駕する興奮が押し寄せてまいりました。指先ひとつ触れず、私がほんの少しだけ言葉を発しただけで、見ず知らずの健康な男女三人の血肉が、無惨な肉塊へと成り果てたのです。新聞の紙面を震える指でなぞりながら、私は暗がりの中で激しく息を乱し、独り声を殺し笑いました。。この快楽に、私は陶酔しきってしまったのでございます。
その日を境に、山を歩く目的は完全に変貌いたしました。いつもは季節ごとに移り変わる景色を楽しみにしていた山道は、迷える羊を見つけては、あの甘い毒を含んだ笑顔で奈落へと送り届けてやる為の場所へと変わってしまったのです。
それからというもの、何十人、いえ、何百回となくその行為を繰り返してまいりました。具体的な数はもう覚えてはいません。
なんの恨みも関係もない人間へ行う行為です。もし奇跡的に生還した人間がいたところで、好意で教えた道か、悪意で教えたかなんてことは他人からは絶対に分かりません。警察の捜査の目もこちらへ向くことは毛頭ありませんでした。元より行方不明者の極めて多い山です。事故死の数字が多少増加したところで、世間は何の疑問も持たず、何の捜査もされはしないのです。
ですが、昨年の夏から、私は夜眠る事が出来なくなりました。
どうしようもなく、これまで私が偽りの道へ送っていった者たちの声が聞こえるのです。耳元で囁くのです。耳を塞いでも無駄なのです。
枕元で、背後で、四六時中あの者たちの声が湿った息とともに聞こえてきます。
彼らは一様に、あの日と同じように礼を言うのです。
「教えてくださって、ありがとう」
「助かりました」
「麓で会いましょう」
私自身に罪悪感など全くございません。良心の呵責など欠片もないのです。それなのに、目に見えぬ何かが、暗闇の奥からじわじわと私を追い詰めてくる。
完璧だった私に、たった一人だけ、たった一度だけ、偽りの山道から生きて下山したお方がおられました。
そう、何百人の中でただ一人、あの死の山から生きて戻られた、貴方様です。
ですから、たった一人のその貴方様にこの告白文をお送り致します。
あの日、救助ヘリで運ばれた、あなた様のお名前を聞き知って以来、私は取り憑かれたようにあなた様の消息を追っておりました。
全く恨んでいるわけではございません。ただ、誰かに知っておいて欲しかったのです。
私はもう、正気で生きてゆくことはできません。
今夜、私は山へ向かいます。
これまで幾度となく見送ってきたあの谷底で、今度は私自身が、最後を迎えることにいたします。
では、さようなら。
草々
手紙を握りしめたまま、指先が凍りついたように動かなかった。
一年前、肋骨を折り、血と泥にまみれて山中を彷徨ったあの地獄。
絶望の淵にいた私に「この沢を下りればすぐ街だ」と温かい笑顔で教えてくれた、あの親切な初老の男。
恩人などではなかった。
あの男は、最初から私を殺すつもりで手を振っていたのだ。
ぞっとする悪寒とともに顔を上げた瞬間、鼻腔を突いたのは、手入れの行き届いたこの部屋ではあるはずのない、あの山の匂いだった。
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テスト休みに入った沖昼子調理師専門学校の校舎は、静寂に包まれていた。
芦田タスクは沖昼子校長先生に呼ばれて、シンとする廊下を校長室に向かって歩いていた。
芦田は、この学校で講師アシスタントとして働き始めて一カ月も経っていなかった。そんなペーペーな講師アシスタントを、日本料理界の重鎮で、本校の校長兼理事長であらせられる沖昼子先生が直々に呼び出すことなど前代未聞だった。
なにか取り返しのつかない大失敗をしたのではないか。芦田はまるで心当たりが無かったにもかかわらず絶望していた。
「まだ少しも昼子先生のお役に立ててないのに……」
芦田は校長室の扉の前に立った。そして、何度か深呼吸をした。緊張は少しもほぐれなかった。もういいやと半ばヤケクソ気味にドアをノックした。
「昼子先生、お呼びでしょうか?」
扉の向こうから昼子先生の甲高い声が聞こえた。入室の許可をいただけたのだと判断して、芦田は静かにドアを開けた。
「失礼します」
「貴様が芦田タスクか!」
校長室へ入室した芦田の正面にいきなり大きな男が現れた。昼子先生以外に人がいるとは思っていなかったのと、大男の威圧的な大声に芦田は面食らった。
「え? え?」
「ふむふむ、なるほど……」
大男はアゴに手を当て、芦田の頭の先からつま先までジロジロと見つめた。その眼光は鋭く、日焼けを繰り返して赤茶けた顔の中にあって、その形相は鬼のようだった。背は高く、格闘家のように筋骨隆々、どこかの軍隊の制服に身を包んだ初老の男。胸を張り、ピンと背筋を伸ばした立ち姿は、明治時代の写真にあった、軍隊のお偉いさんを想像させた。
「ちょ、なんですか」
「貴様、歳は?」
「はい? いったいなにを……」
「年齢はいくつかと聞いておるのだ」
「ちょっと! いきなりなんなんですか? 昼子先生、この人いったいなんなんですか?」
ドアの正面、立派な黒檀の机の向こうに昼子先生はお座りになられていた。芦田と山田の騒々しいやり取りを意に介さず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、昼子先生が言った。
「おいしゅうございます」
大男はあらためて胸を張ると、大声で自己紹介を始めた。
「吾輩は、山田登! 日本で一番の登山家だ! 皆からは鬼軍曹と呼ばれておる! 貴様もそう呼んでいただいて結構!」
校長室の窓ガラスがビビビと震えるほどの大声だった。芦田は眉間に皺を寄せ不愉快を表に出しながらも自己紹介に応えた。
「と、登山家の山田登様。えー、私は本校で講師アシスタントをしております、芦田タスクと申します」
「うむ!」
腕を組みながら山田は大きく頷いた。包容力ありげな頷きを返されて、山田はなんだか自分が犬になって調教されているような気分になった。
「で、その日本一の登山家の鬼軍曹さんが、私に何の用ですか?」
「なんだ。昼子先生、まだ、この子に何も説明しておらんのですか?」
「おいしゅうございます」
昼子先生と山田が知り合いだということを芦田は理解した。しかし、料理研究家と登山家が新人講師アシスタントを呼び出す理由は未だ想像もできずにいた。
「一体なんなんですか?」
まるで見当の付いていない芦田に、山田は戦場でミッションを言い渡すが如くテキパキと説明をはじめた。
「先日、エベレストの頂上が意外な成分でできているというニュースが流れたのは知っておるな?」
「それはもう」
「エベレストの頂上は、実は雪が降り積もっているのではなく、フルーチェの元が降り積もっていた、と」
「はい。その報道後、エベレストの頂上を持ち帰って、天然のフルーチェとして売り出す人があらわれ、その希少さから高値で売買されているとか。それが、なにか?」
「そこで昼子先生から吾輩に依頼があったのだ」
芦田は手を叩いた。
「なるほど。鬼軍曹さんに、エベレストへ登ってもらって、そのフルーチェの元を取ってきてもらおうと、そういうわけですね、昼子先生」
「おいしゅうございます」
芦田の浅知恵が、ジョブズのプレゼンの如きファンタスティックな山田の説明を停滞させた。山田は自分が思うように物事を進められないことが嫌いだった。
「黙って聞け、馬鹿者! 貴様、昼子先生のアシスタントでありながら、昼子先生をバカにしているのか!」
出会って間もない人が怒鳴るように話す。そのことが芦田を酷く脱力させた。
「昼子先生は日本一の料理研究家だぞ! そんなお方が未知なる高級料理を味わうためにベストを尽くさないと言うのか!」
昼子先生が日本一の料理研究家なことぐらい知ってるわ。なぜ怒鳴る。めんどくさい。そう思いながらも芦田は尋ねた。
「フルーチェにあった最高の料理法ってなんですか?」
「おいしゅうございます」
「昼子先生のご要望は、エベレストの頂上でとれたての天然フルーチェを食べることだ!」
ゴクリ。固唾が芦田の喉を流れた。
「エベレストの?」
「そうだ!」
「頂上で?」
「そうだ!」
「天然のフルーチェを食べる?」
「そうだ! その登山を吾輩が全面的にサポートさせていただく!」
「え〜、本当に!?」
芦田は昼子先生と山田の二人ともの神経を疑った。
「だって、昼子先生、もう八十八歳ですよ? 大丈夫ですか?」
「おいしゅうございます」
「大丈夫かどうか、ぶっちゃけわからん!」
「わからんって、そんな無責任な!」
「米寿を経てもなお未知なる食材に自ら手を伸ばす! 素晴らしい事じゃないか!」
「素晴らしいですけど……」
と言ったものの、芦田は少しも素晴らしいこととは思わなかった。正気じゃない。芦田はハラハラした。新社会人の、経験の乏しい、決断能力のない新人講師アシスタントをハラハラさせた二人に憎らしさすら覚えた。
「私、よくわからないですけど、結構危ないことしようとしてません?」
「貴様!」
おずおずと物申した若造を一刀両断するように山田が怒鳴った。
「貴様も昼子先生をサポートする立場にいるなら、反対意見を言う前に、夢を実現させるために働くのが道理なんじゃないのか!」
芦田は山田の怒声に頬をぶたれたようなショックを受けた。
芦田は悔しかった。その悔しさは初対面のジイさんに終始高圧的に接せられたことではなく、大好きな昼子先生のことを、料理人ではない山田に諭されたことからくるものだった。
私の方が昼子先生を知ってる。芦田はそう憤った。しかし、その憤りは一時の気の迷いのようなもので、人生を賭けられるような確固たる自信からくるものではないと気がついていた。心のフラつきを感じていた。
精神の直立がやっとの芦田の様子を見て取って、山田は話しを本題に移した。
「さあ、答えたまえ。歳はいくつだ」
「あ、さっきの質問。それ、一体なんなんですか?」
「何を言ってる。登山をするなら体力のある若者にこしたことはない」
「なるほど……。えっ! 登山する!? えっ! 私!?」
「何を言っている。先生が料理をするならアシスタントがいるだろうが」
「でも、フルーチェですよね? ミルクを入れて混ぜるだけですよね?」
「ばかもの! 簡単な料理ほど難しいものだ! ねえ、昼子先生?」
「おいしゅうございます」
「いやいや、プレーンのオムレツじゃないんだから! フルーチェだから! お子様でも簡単に楽しく作れるのが売りだから!」
芦田は畳み掛けた。山田を言い負かそうと口角泡を飛ばした。それはさっきの仕返しだった。フルーチェの手軽さを知らないほどの料理素人の山田に、昼子先生のお心を理解していないと説教され心に傷を負わされたことへの復讐だった。
しかし、その一方で、そうした自分の行動に芦田は嫌悪感を抱いていた。まだ講師アシスタントになったばかりで、少しも昼子先生のお役に立っていない自分が、どの面をさげて昼子先生のお心をより理解していると言えるのか。
山田は見逃さなかった。山田は芦田が抱いた薄っぺらい嫉妬心を踏んづけて反論を始めた。
「貴様、さっきの昼子先生を見くびった発言といい、フルーチェを馬鹿にした発言といい、そのような狭き眼で昼子先生のような立派な料理研究家になれると思っているのか!」
「なに!?」
「いいか、世界の料理を味わいつくした昼子先生だぞ! 日本で一番料理にお詳しい、言わば日本の料理界の宝であらせられる昼子先生だぞ! そんな先生が、その命を投げ出してまで味わおうとされるフルーチェだぞ! そんなフルーチェが、そんじょそこらのフルーチェと同じわけがないだろう!」
「た、確かに……」
芦田はとうとう膝から崩れ落ちた。私は昼子先生のなにもわかっていなかった。その偉大さも志の高さも。芦田は手をついて、荒い息を吐いた。そんな芦田の肩に手を置いて山田が優しく問いかけた。
「どうだ。そんな、世界で一番のフルーチェ、食べてみたいと思わないか?」
芦田は涙に濡れた顔を上げて、先ほどまでのイカつい表情から一転して優しい微笑みを浮かべる山田の顔を見た。
芦田は思い出した。昼子先生を尊敬する一番の理由を。それは料理界に半世紀以上身をおきながらも常に斬新な料理を生み出すガッツ、その飽くなき探究心をお持ちのところだったことを。
「ううう……。私が間違っていました……」
芦田は涙を乱暴に拭って、あらためて山田と向かい合った。
「私! 私! エベレストの山頂で、宇宙に一番近いキッチンで、立派にアシスタントさせていただきます! 昼子先生!」
「おいしゅうございます」
「決まり、だな」
山田はニヤッと笑った。
「はい!」
芦田はいい顔で返事した。
「アタックをかけるのは三ヶ月後! しばし料理から離れ、貴様には登山のノウハウを身につける訓練に徹してもらう! いいな!」
「イエス!」
「馬鹿野郎! 上官の言うことに応えるときは「サー」をつけろ! 卓球の愛ちゃんのように!」
「イエス・サー!」
「吾輩の訓練は厳しいぞ!」
「イエス・サー!」
「やれるのか!」
「イエス・サー!」
芦田に着いてこいと言わんばかりに、山田は校長室のドアの前に立った。芦田は背筋を伸ばした良い姿勢で山田の後ろに着いた。
「では、昼子先生。こやつを三カ月ほどお借りします。次にお会いする時は、エベレストのふもとです」
「おいしゅうございます」
「では行くぞ! ぜんた〜い進め! オイッチニ! オイッチニ!」
そして、三ヶ月後。エベレスト山頂。
「お~い! 大丈夫か~!」
「は~い! こっちは大丈夫で~す! 昼子先生は大丈夫ですか~!」
「おいしゅう~ございま~~す!」
「よし! ここが……頂上だ!」
「やった~!」
「さあ、昼子先生、こちらへ」
「おいしゅうございます」
「やった! やりましたよ! 昼子先生!」
「バカヤロウ! 喜ぶのはまだ早いぞ!」
「そうでした。さっそく料理に取り掛かりましょう。よろしいですか、昼子先生!」
「おいしゅうございます」
「では、器とスプーンを用意して。山田鬼軍曹! 牛乳よろしくお願いします!」
「承知!」
「さあ、先生、念願のフルーチェですよ! 生涯最高の料理をお願いします!」
「おいしゅうございます」
「私、今、エベレストの頂上にいるんですよね。夢にまで見た場所に。初めてエベレストの山頂に行くっていう話を聞いたときは、正直、昼子先生の頭が残念なことになったのかと思いました。でも、そうではなかった。先生は、常に高い志を持ち、自分の限界を決めず、あきらめず、挑戦し続けていた。本当に素晴らしい方だとあらためて尊敬の念を抱かずにはいられません。この三カ月は本当に苦しかった。慣れない登山訓練。生死にかかわるような厳しいものばかりでした。でも、昼子先生のお役に立ちたい! その一心で頑張ってきました。今、この世界最高峰の頂に立ち、胸にこみ上げてくる思いは、先生への感謝しかありません! 本当にありがとうございます! いや、まだ、お礼には早いですね。本当のお礼は、世界一のフルーチェをいただいたときにさせていただきます。先生! ……先生? ……先生っ! ちょっと、先生、昼子先生! 寝たらだめですよ!!」
「おいしゅう……ございま……」
「先生! ちょっと、しっかりしてください! 鬼軍曹! 牛乳まだですか!?」
「いや、ちょっと、これ……」
「もう! どうしたんですか!? 昼子先生がお待ちですよ!」
「いや、その……」
「どうしたんですか! 鬼軍曹!」
「牛乳がね、」
「牛乳がどうかしました?」
「牛乳が……出てこない。凍っちゃって……」
おわり
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ミステリー・サスペンス
1323文字
約3分で読了
僕は、思う。
エントロピーの先、熱的死まで続くこの宇宙の理を。その過程を担うこの肉体と精神とその刹那を。
僕という個体はあらゆる事物と相関しているが、すなわち因果とは言えない。因果はきっと僕という生涯の中で徹頭徹尾完結している。認識ベクトルの違いだ。他と僕と全ては似たる非としてただ存在している。言うなれば粒子と粒子。結合はしても融合はし得ないどこまでも儚い単位の見る夢。
そんなものがこうやって思考をしてみているのだ。
提示された数字という記号の中から任意という甘い蜜を垂らされ6つの選択を行う。
まるで丸が丸の穴に三角が三角の穴に四角が四角にそれぞれ落ちていくように、僕は提示された数字から選択していく。選択しているかのように選択する。
衝動には経緯があってそのまま動機の弁明に当てはまる。
クソったれな人生だった。
誰も傷付けまいと誓った果て、幾度も裏切られ、それでも人を信じよと世間様はのたまうのだ。
故に僕は逆転を要求する。既にどうしようもない帳尻を合わせる為に、六つの数字を呆けて選び散らすのだ。
今日もこの宝くじ売り場で。
*
私は、思う。
人の気持ちを考えなさいと、そう育てられ育ってきた。でもどう? 実際には慮った瞬間に利用されることを受け入れなければならない底無しのこの理不尽さ。
ただ愛し愛されたいと望む心は、くだらないマウントのシーソーゲームに弄ばれ、とうにすっかりと擦り減ってしまった。
あなたを傷付けたくないのか私が傷付きたくないのか、なんて一体誰が明瞭に答えられるの。
少なくとも私には分からない。分からなかった。
トレードオフでしかないというのならなんて無惨で不条理なのだろう。
あなたが傷付くと私も痛い。それが嬉しい。私が私を傷付けても、傍に空白が生まれるだけだったから。
あなたに傷が付くと私も痛い。それが嬉しかった。その痛みがもう今はどうしようもなく恋しい。愛おしい。
あなたのことは傷付けたくないの。それでも誰かと繋がりたいの。丸は丸い穴に抱かれ三角は三角の穴に抱かれ四角は四角に。そんな風に誰かと誰かに私もなりたいの。
ナイフを介してでも私は触れたい。その為の傷が必要なの。痛いことをしたいの。
無性に。
誰かに。
どこまでも。
無性に。
*
僕は、考える。
この人が一体誰なのかを。何故僕なのかを。
その人の眼には孤独が溢れている。少なくとも僕は毎日鏡に同じ眼を見てきた。
それと同じくらい見てきた妬みの生む不条理でお門違いな怨嗟。あるいは理不尽の妖精?
この僕は、君と同じくらい孤独で、君が妬むような幸福者ではないというのに。君の生む因果は、誰も君を憎みはしないというのに。
だってそうだろうさ。休日の宝くじ売り場にひとりでいる人間に何を期待するというのか。何を望むというのか。この僕の命を誰が惜しむというのか。
何かを言うべきだろうか。恨み言の一つも吐くべきだろうか。
恨み?
何に?
そう、抗えないのだ。
内側に引っ張られた感触の果て、けたたましく熱するこの身の内。体内にあったむず痒い所にようやく触れた安堵感と爽快感の混交。
脳の報酬系が爆発し、生涯をかけて味わう快感を一挙に凝縮したような酩酊感。
ああ、だからこそ僕は君に伝えなければならない。
「僕じゃない。君は間違えた」
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イツメンとは、『いつものメンバー』の略。
1年C組。
二学期の始まる9月には、クラスにはっきりとした派閥ができあがっていた。
最も大きな派閥は、男女十一人で、クラスの三分の一にあたる僕らのグループだ。
他の奴らとは区別して、仲間内を『イツメン』と呼んでいる。
そして、クラスの奴らはみんな僕ら『イツメン』のメンバーになりたがっている。
小学校の頃仲良かったサトシもそう。でも、サトシはちょっと入れてやれない。
だって、ソウタはクラブチームのレギュラーだし、ミユキは女バスのリーダー、ユキヤは塾で成績一位だ。
僕だって、ホッケーのオリンピック強化選手に選ばれていたりなんかする。
プラス、メンバーは顔面偏差値も高いんだ。
可哀想だけど、サトシでは、アツヤとユイナ、両リーダーの許可が下りないだろう。
僕達、〝イジメ〟なんてやってない。
けれど、〝イジり〟はやっている。
あ、でも誤解しないで。
そんな大げさなものじゃないから。
グループラインで悪口を言ったり、授業の発表を無視したり、机を班編成にするときに皆でちょっと離したりする程度のこと。
ちなみに、標的《ターゲット》は女の子で、浅井イツキ。
きっかけはあまり知らないが、ラインで誰かが〝キモい〟って言ったのが始まりだったような気がする。
でも、アイツだって悪い。
ただの陰キャってだけじゃない。
小学校の時から、よく忘れ物をするし、遅刻もする。
あと、暗くてジメジメしてて、イヤなことされても言い返さない。
いつもただ、ジトッと能面みたいな顔して睨んでくる。
あいつさえいなければ、僕たちクラスの団結力はもっと高くなるだろう。
浅井も早く反省するか、いっそ学校に来なけりゃいいのに。
団結を乱すのは悪。
先生だって、きっと僕らと同じ考えだ。
クラスにおけるマジョリティ。
僕達は、いつだって正しい。
なのにその日。
とうとう、浅井がクラスで泣いた。
土曜日に運動会を終えた、火曜日の登校日。
僕とユイナは、皆の使ったゼッケンとハチマキを集める係をやっていた。
みんなは、家でアイロンをかけてきたやつを、僕らに渡すことになっていた。
僕が男子のを集めていると、
「あ、ゴメン。忘れた」
友達のサトシが額の前に両手を合わせた。
「あ、いいよいいよ、また明日で」
僕が笑って手を振った時、向こうからユイナの甲高い声が聞こえてきた。
「ええ、浅井さん、忘れちゃったの~」
見ると、ユイナと仲間の女子ふたりが、浅井の机を囲んでいた。
「困るんだけど。家に電話して」
先生に持っていくのはまだ先だから、別に困らないんだけどな。
思いながらも眺めていると、浅井が珍しく口ごたえした。
「だって……お母さん、今日仕事だから」
「だからって私達に迷惑かけていいの? 西本先生《ニシセン》に叱られるのは、ユイナなんだよ」
「えー、困るー」
浅井は、俯いて黙りこんだ。
あーあ、だる。
責める女子の金切り声にうんざりしつつも、僕は黙ってそれを眺めていた。
すると、僕と同じように状況を眺めていたアツヤがコールをかけた。
「でーんーわ」
メンバーの何人かが、ゆっくりと席から立ち上がってコールに加わった。
「でーんーわ」
また一人、二人と立ち上がり、浅井の席を取り囲んで、コールは次第に大きくなった。
ああ、僕もでもそろそろ行かなきゃだめかな。
僕はゆっくり席を立つと、その輪の中に加わった。
「でーんーわ」
浅井さんを中心に二重の輪。
クラス中にコールが響き渡った。
そうして。
彼女は泣きながら輪を破り、職員室前の公衆電話に駆けていって__
それっきり、教室には戻らなかった。
一週間後。
放課後僕らは、担任に呼び出され、こっぴどく叱られた。
「何故、イジメなんかするんだ。先生は、君たちを信じていたのに。このことは、親にも連絡するからな」
先生は、紋切り型のつまらない台詞を、何度も繰り返した。
僕は思った。
――大人って、ズルいよな。
近くにいて、今まで見てみないふりしてたくせに。
にしても参った。
親まで巻き込んだとなると、家でもかなり鬱陶しいことになりそうだ。
僕らはその夜、グループラインで話し合った。
「ねえ、私たちばっかりが悪いみたいに言われるなんて、おかしくない?」
「だって、ゼッケン忘れてきたのアイツじゃん。いつも、忘れ物はダメって言うくせに」
「浅井さ、練習来ないで体育祭の日だけリレー参加とかマジありえん。あいつのせいでビリだったしよ」
「オレら、悪くなくない? 親つかうとか、反則だろ」
…………
親指で画面を送りながら、僕は小さく溜め息をついた。
――そうだ、その通りだ。
吹き出しのひとつひとつに頷き、相づちを打ちながら。
けれど、そこに意見を書き連ねることは、なぜか出来なかった。
そのグループラインも長くはもたなかった。
ほどなくして、その存在を知った先生に、解散させられてしまったから。
職員室に抗議にいくぞ!
アツヤたち一部のメンバーだけが、暫くの間息巻いていた。
けれど、最初こそ学校にクレーム入れると鼻息を荒くしていた親達も、子どもがスマホに触る時間が減ったことに気がつくと、学校を責める気も失せたらしく、僕らが助けてと言っても、はぐらかすようになった。
僕らもまた、部活の大会やら、塾やらで皆忙しくなり、いつの間にかそんな話も立ち消えた。
その流れに合わせるように、僕らイツメンも、組んだ紐がほどけるみたいに散っていった。
*
「最近、アツヤ達とつるまないのな」
昼休憩。
早々に給食を食べ終えたサトシが、僕の机に来て言った。
「うん、アツヤ、県大会の練習とかで忙しいらしい」
「ふーん、そ。俺にとっちゃよかったけどな。お前のこと、誘いやすいし。な、早く食えよ。体育館行ってバスケやろ」
「ああ、ちょっと待ってて」
僕は、かなり苦手な給食の野菜炒めをパンに詰めこみ、牛乳と一緒くたにかっ込んだ。
先生が来ないのを確認すると、サトシは隣の空席の机に尻を乗せた。
教室を見回し、ポツリと呟く。
「浅井のやつ、まだ来ねーな」
「え……」
指差されたわけでもないのに、僕は顔をあげ、その方向を見てしまった。
運動会以来、ポツンと空いた浅井の席。
「なんかさ、先生が家までいったりしてるらしい」
「……ふうん」
僕は、興味なさそうに給食に目を落とした。
サトシもそれっきり話を変え、昨日放映されたワールドカップの日本代表のプレイについて論じ始めた。
結局のところ。
浅井が学校に来なくなっても、僕達の生活はなにひとつ変わらなかった。
学校も、先生も親も友達も。
特別なことは何もなく、ただ一日が過ぎてゆく。
ただひとつ変わったのは、僕のクラスにはいつも、必ずひとつ空席があることだ。
そこだけが、空間に空いた穴みたいに空虚に。
そして、それを見るたびに、僕の胸は、いつも少しだけ痛くなる。
あと一口のパンの欠片を手にしたまま、僕はチラッとアツヤを見、それからユイナに視線を移した。
相変わらずクラスの中心にいる彼らは、いつも四、五人に囲まれて、楽しそうに笑ってる。
あの時、明らかに首謀者であった彼らは、あのぽつんと空いた席を見て何を思っているのだろうか。
彼らもまた、僕と同じ胸の痛みを感じるのだろうか。
ならば聞きたい、この痛みの正体が一体何であるのかを。
大人たちに引き離されても、僕らは今でも、いつものメンバー、イツメンという、固い絆で結ばれた仲だ。
一度、軽いノリで聞いてみるのもアリかもしれない。
なーんて。バカだな僕は。
そんなノリ、彼らがもっとも嫌うところだったじゃないか。
忘れてた、暫くつるんでなかったから。
「おい、何ひとりで笑ってんの?気持ち悪《わり》いよ」
ふと見ると、サトシが妙な顔つきで僕を見ている。
「何でもない。いこっ」
僕は最後の一欠片を口に放り込むと、サトシより先に、食器を持って駆け出した。
「先に行ったほうが先制」
「あ、こら。せっかく待っててやったのに!」
サトシが慌てて僕の後を追ってきた。
そうさ。
その気持ちを誰かに話して、分け合ったところで、その質量は決して軽くなるわけじゃない。
きっとそれは、みんな知ってても言わずに、胸の中に秘めてる気持ちだ。
大人も子供も、父さんも母さんも、先生も友達もみんな。
その痛みに、いつしか折り合いをつける術を覚えて、僕は僕の周りにいる、自己防衛に長けた大人になっていくんだろう。
《おわり》
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《中三の夏》
中学生活最後の夏休みが半分すぎた頃。幼稚園からの親友、|琉生《るい》からメッセージが届いた。
『知ってるか? |結愛《ゆあ》ちゃんが死んだって。病気で』
結愛ちゃんは小学校で、僕らと仲の良かった女子だ。転校してしまうまで、ずっと三人で遊んでいた。
『嘘だろ? 病気で? 一週間前に荷物が届いたばかりだよ』
『そっか。俺の方が先だったのか』
実は結愛ちゃんのことは、荷物が届くまで、すっかり忘れてしまっていた。肌が白くて、静かに笑う子で、どこか守ってやりたくなる子だった。
懐かしくなって、ちょうど琉生に連絡して、また三人で会いたいなと思っているところだった。
『詳しい話は、今度会ったときに』
『オッケー』
久し振りに思い出した友達。その突然の死を、実感できるはずもなかった。僕は棚に飾った、結愛から届いたお土産を手に取った。それは|高崎宮神社《たかさきのみやじんじゃ》の身代わり人形。体が小さく、手足と頭の大きいコミカルな見た目だが、自分の代わりに厄を受けてくれるお守りだ。
「会いたかったな」
さっきの口ぶりだと、琉生にも届いてたみたいだし、覚えていてくれたんだなと嬉しさと淋しさで複雑な気持ちになった。そして僕たちの、ある夏の日を思い出した。
《小四の夏》
「夏休み終わったら、席替えするからなー。ちゃんと机の中を綺麗にして帰れよー」
「わたし後ろの席がいいー」
「俺は、窓がわー」
「はいはい。席は、くじ引きで決めます。文句はなし」
「「ええー!」」
みんなの不満の声を、楽しそうに浴びて先生は教室を出ていった。僕は、どうしたら好きな子と隣の席になれるかを考えていた。
放課後いつものように|琉生《るい》と|結愛《ゆあ》ちゃん、ふたりと一緒に校門を出た。
「今日どうする? 俺、ゲームやりたい」
「じゃあ僕んちにする?」
「わたし図書館で借りたい本があるの」
「じゃあ図書館の前の公園に集合!」
結愛ちゃんの言葉を聞いた琉生が、すぐに行き先を決めた。嫌じゃないけど、先にやられたと思った。
「おかえりなさい。|陽斗《はると》くん、琉生くん、いつも結愛をありがとうね」
下校でも、遊んだあとでも、いつも僕と琉生は、結愛ちゃんを家までおくっていた。
「今日は公園で待ち合わせして、図書館に行きます」
玄関先で迎えてくれた結愛ちゃんのお母さんに、僕はすぐに報告した。僕が一緒だと安心だと思って欲しいからだ。
図書館は好きじゃなかった。教科書みたいなマンガばかりで、僕が好きな物なんてないし、おしゃべりもできない。|結愛《ゆあ》ちゃんが本を探している間、|琉生《るい》は恐竜図鑑を見ていて、僕はただ棚をながめて歩いていた。
『おまじないじてん』
カラフルで女子が好きそうな表紙の本があった。まわりを気にしながら手にとって、もくじのページを開いた。
「あった……」
『席がえで、好きな人の隣になる方法』
家に帰ると、今日覚えた、おまじないのことを考えた。
自分の小指の爪に太陽を書く。これは簡単だ。ただ相手の小指の爪に、月を書くのが難しい。それさえできればいい。さて、どうしよう。
日曜日。琉生に内緒で結愛ちゃんの家に行った。
「あら、いらっしゃい。|陽斗《はると》くん、ひとり? めずらしい」
「結愛ちゃんと、ふたりでやる宿題があって」
あわてて僕はウソをついた。そして家に入れてもらった。すごく悪いことをしているみたいで、少し気持ちが落ちこんだ。だけど結愛ちゃんの顔を見たら、すぐに治った。
「琉生くんは?」
「今日は勉強がしたくて。琉生がいると、遊んじゃうから」
「あー、たしかに」
僕はまたウソをついた。上手く笑えたかわからないけど、結愛ちゃんは笑ってくれた。
いつもは三人でいる部屋に、今日はふたりだけ。すごくノドがかわいて、もらったジュースを飲んでばかりで、目の前のドリルは白紙のままだ。
「|結愛《ゆあ》ちゃんは、ネイルとか、きょうみないの?」
「ネイル? どうして?」
「ほら。こっそり蛍光ペンで爪ぬってる子とかいるし」
「そうなの? 休みの日に、つけ爪してる子いるもんね」
急だったけど、上手く話を続けられた。
「ためしに絵をかいてあげるよ。これなら、すぐに消えるし」
返事も待たずに、僕は黄色の蛍光ペンのフタを取った。
「できるのー?」
静かに笑いながら、結愛ちゃんが手をさし出した。僕はドキドキが伝わらないように、結愛ちゃんの小指にふれて、その爪に月の絵をかいた。
「どう?」
「えーかわいい」
顔の横で小指を立てて笑う結愛ちゃんがかわいくて、僕はドリルに視線を落とした。
ほんとうは消えないようにマーカーペンでかきたかったけれど、それじゃ結愛ちゃんが怒られてしまう。僕ができることはやった。あとは祈るだけだ。
席替えが終わった。僕のとなりには結愛ちゃんがいた。そして、その向こうには|琉生《るい》がいた。三人並べたのは嬉しいけれど、ちょっと残念な気もした。でも、班は琉生とわかれることになった。
おまじないの力か、それともくじ運か。どっちでも僕は、結愛ちゃんに近づけた。これから、もっと仲良くなれると思った。だけど結愛ちゃんは転校して、町からいなくなってしまった。
《中三の夏》
「ねえ、|結愛《ゆあ》ちゃんて覚えてる?」
帰ってきたお母さんに聞いてみた。
「懐かしいわね。大きな病院に入院したわよね」
「え、そうなの?」
「そっか。難しい病気で、結愛ちゃんの希望で、子供たちには転校とだけ伝えたんだっけ」
結愛ちゃんは、ずっと病気だったんだ。知っていれば、お見舞いに行けたのに。もう二度と会えないなんて。ショックを受けていると、お母さんのスマホが鳴った。
話してる声が遠く聞こえた。そして、とつぜん肩をつかまれた。
「|陽斗《はると》、落ち着いて聞いてね。|琉生《るい》くんが交通事故にあってね」
急に胸が苦しくなって、イヤな気持ちが体に広がっていく気がした。
「亡くなったって」
「ウソでしょ……」
『今どこ?』
『今すぐ会えない?』
『これから家に行くよ』
慌てて琉生にメッセージを送っていたら、知らない番号から電話がかかってきた。とっさに琉生かもしれないと思って出てみると、女性の声が聞こえた。
「陽斗くん? 結愛の母です。覚えているかな?」
「え。あ、お久しぶりです」
「お母さまから番号は聞いていたの。荷物は届いたかしら。人形」
「と、届きました。結愛ちゃんからかと」
結愛ちゃんが送れるわけがないのだと、今さら気が付いた。
「そう、よかったー。|結愛《ゆあ》が、ずっと会いたがっていたのよ。ほら、小指の爪に絵をかいてくれたことがあったでしょ。あの時も、消えないようにって、両方の指にばんそうこうをはったりして」
結愛のお母さんの声は、とても嬉しそうだった。でも僕には、気になるところがあった。
「両方の指?」
「そうよー。|琉生《るい》くんと三日月のマークを書いてくれたでしょ」
そうかと思った。琉生もおまじないを使ったんだ。て、ことは。琉生も結愛ちゃんが好きだったんだ。
「仲良しのおまじないだったんでしょ? また仲良くしてあげてね。ふふ」
首すじに冷たい息がかかった気がした。今のは、どういう意味だろう。自然と身代わり人形を見ていた。小さな体。大きな頭。大きな手。大きな足。
つばを飲み込み、人形に手をのばす。足の裏には、神社の印がついた僕の名前がかかれた名札が付いている。握手するみたいに手を握る。指先を見つめる。小指の先。爪のあたり。
「ああ……」
見覚えのある絵だった。もしも結愛ちゃんの小指の爪に太陽がかかれていたら。そんなバカな想像をしてしまった。でも。だけど。だとしたら琉生は。
「そんな、おまじないじゃない!」
僕は人形を床にたたきつけると頭をかかえた。これは、まさか、あの人が……
僕はもうすぐ、その答えを知ることになる。
〈なかよしの太陽さびしがりの月〉
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今日 生きた事を否定するための銃
使い方はこうだ
最初は空なので
とりあえず弾を込める必要がある
まずは
今日あった嫌な事を思い浮かべる
少しでも構わない
だが たくさんでも構わない
浮かべた思い出の数だけ 弾数は増える
弾数が多いに越した事はない
いっそ詰められるだけ詰めておけ
そうしたら
あとはそいつをこめかみにあて
そのまま力いっぱい引き金を引く
大丈夫
痛みはない
発砲音さえしない
それどころか硝煙すら上がらない
僅かに感じるとすればカチッという
引き金を引く乾いた音
それだけが
今日 生きた事を否定するための銃に手を掛けた
唯一の証になる
今日あった嫌な事だけ綺麗さっぱり忘れられる
弾痕は残るが
それ以上も以下もない
この様に便利な銃ではあるが 多用はあまり勧めない
まず
銃なので弾倉には当然 限りがある
限界まで弾を込めた場合
空きを作らない限り 次の弾を込める事は出来ない
次に
証は消えない
嫌な思い出は消えるが
それを消したという事実は消えない
最後に
よく考えてから使ってほしい
撃つ前に
出来ればその前に 弾を込める時点で
しっかり悩んでから手に取ってほしい
嫌な思い出は確かに消せる
ただし
一度 撃った弾をもう一度使う事は出来ない
なぜならばその記憶はすでにない
撃ったが最後
その思い出はもう戻らない
以上
これらの点をよく踏まえた上で使用していただきたい
なお
今日 生きた事を否定するための銃の使用に際して
一切の責任は負わない
嫌な思い出の中に消したくない
何かが混じっていたとしても
抗議には応じかねる
全ては自己判断で願う
ちなみに私の場合
とりあえず近いうちこの銃を持ち
質にでも足を運ぼうと考えている
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ミステリー・サスペンス
1446文字
約3分で読了
「今ならまだ罪も軽いので、出来れば自分からやったことを名乗り出てくれませんか。」
先生の発言に、しん、と。場の空気が凍りました。
でも、ここで、私がしたことがばれるわけにもいきません。
私は下を向いて、私以外の誰かに、冤罪がかけられることを祈りました。
しかし、そんな私の願いも虚しく、先生は私の名前を呼びました。
「山田さん。あなたですよ。証拠もあるんです。それを出す前に、自分で認めませんか?」
そう言われたところで、もはや私には、だんまりを決め込むしか術がありません。ただ、私は、自分に後ろ暗いことがないかのように、前を向くしかできませんでした。
「はあ……。仕方ないですね……」
そういうと、ため息とともに、私の目の前に、決定的な証拠が突きつけられました──。
ーーーーーーーー
その事件は、屋敷の中で、1人の男の死体が見つかるところから始まりました。
犯人に背中へ包丁を刺され、うつ伏せに倒れている被害者を見て、その場にいる人々は慌てふためいています。
しかし、ひとりが、男の近くに犯人を指すヒントとなる血の文字を見つけて、皆がそのメッセージを読んでしまいました。
私は、この『ダイイング・メッセージ』を読んで、物事を成すときは、最後まで気を抜いてはいけないと思いました。
これまで用意周到に、計画を立て、取り組んでいたとしても、たった一つのミスから、全てが失敗してしまうかもしれない、と言うことが分かったからです。
このとき、私が真っ先に思い出したのは、小学5年生のときの授業参観でした。私は、参観に来る母親に良いところを見せようと考え、その日に行う理科の実験の内容を、1週間前から逆算して、入念に勉強しました。しかし、授業参観が行われる授業は、4時間目の理科ではなく5時間目の社会だったため、勘違いをした私の準備は無駄となり、恥をかいてしまいました。
この事件でも、刺殺ではなく毒殺を選んでいれば、あるいは被害者の動きをよく見ていれば、血でメッセージを残されることはなかったはずでした。授業参観でも、犯罪でも、用意周到に準備した時こそ、詰めが甘くならないように、丁寧にミスが無いか確認することが大切だと思いました。
このような形で課題図書『ダイイング・メッセージ』の感想文が書けました!もし文章構成を変えたい、もっと賢そうに、というオーダーがあったら教えてください。
ーーーーーー
「というわけで、何か言いたいことはありますか、山田さん」
「……ありません。読書感想文にAIを使ってしまい、すみませんでした。」
まさか自分が提出した作文自体が証拠になってしまっていたとは……。私はもう素直に謝るしかありませんでした。
「まあ、先生も、皆の『紙に書くのが大変なのでデジタルで提出をOKにしてほしい』という意見を通したら、まさかAI作文をそのまま出してくる生徒がいるとは思っていませんでした。でもせめて、詰めの甘さについて書いた作文を提出するなら、最後の部分だけは読み返して消してから提出して欲しかったですよね……」
「はい。すみません。自分でも、一周回って高度な皮肉だな。って思っていました。」
「ずいぶん余裕がありますね山田さん……。あまり反省してなさそうなので、反省文を書いて、明日までに提出してくださいね。」
「えっ。あ、いや反省してます!ごめんなさい!」
私のとってつけたような反省の言葉は、受け入れられませんでした。
*****
翌日、私はしぶしぶ、先生に反省文を提出しました。
今回は、最後の2行を消すことは忘れませんでした。
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「ねぇ、貴方。この本知ってる?」
リビングのソファに腰かけ寛ぐ男に、女はにわかにそう尋ねた。
「雑誌かい? 随分と古いみたいだけれど」
背もたれの後ろに立つ女の見せた本の表紙を、首を傾けた男が見やる。そのくすんだ本は酷く色褪せており、霞んだタイトルから見るに旅行雑誌のようであった。
「仕事先で、古本の整理をしていた時に見つけたの。5億年前の星間旅行雑誌。『地球』って言う星の特集をしていたみたいよ」
ぱらぱらとページが捲られるその古本は、どうやら司書として働いている彼女が勤め先から借りてきた物の様だった。
彼女がめくって見せたページ。灰色の木が連なり、赤子の掌のような葉が舞うその光景は、どうやら色褪せた森の写真の様だった。
「ほら、ここの記事。地球の森は季節が巡ると、葉が赤や黄色に色付くみたいなの。山が燃え盛るように粧うその景色はこの世の物とは思えないくらい美しいそうよ」
興奮気味にそう話す女に対して、男は少し冷めた様子で応えた。
「うーん、この古びた写真だと良く分からないけれど……」
眉をひそめて男が写真を見つめているとその雑誌は突然閉じられ、代わりに男の視界いっぱいに、女がぐいっと顔を寄せた。
「ねぇ、私この『地球』って星に行ってみたいわ。この雑誌に写る『紅葉』って物をこの目で見てみたい」
男の目をじぃと覗き込み、女はにっこりと笑う。男は少し考え込むと、彼女のその絹のような白い頬にそっとくちづけをした。
「わからないな。君より美しい景色がこの世界にあるとは思えない」
むっとしたように頬を膨らませ、彼女はソファの前まで回ると彼の膝の上に腰掛けた。
「狭い世界で満足しようとするのは貴方の悪い癖よ。海の深さを知らない蛙に空の深さは測れない。そんな中途半端な『美しい』を私に贈るつもりかしら?」
男に体重を預け、その両手を彼の首に回す。男は観念したように体の力を抜き、2人は重力のままソファに横になった。
「……それで、いつ頃行くつもりだい。記事を読むに、それを見るには時期が大切なんだろう?」
「地球の時差を計算すると丁度今の時期みたい。明日は2人とも休日だし、しばらく2人で出かけてなかったでしょう?
「了解。ワープ旅行機のチケットを予約しておくよ」
男がポケットから端末を取り出し操作する。今度は女の方からゆっくりと、慈しむようにその唇を重ねた。
◆
施設には、電話ボックスのような黒い箱が幾つも並んでいる。2人は互いに身を寄せあい、その箱のひとつに足を踏み入れた。
ワープ旅行機。2人の住む星の旅行客が一般に利用するその装置は、星の旅行会社が運営する施設に設置されている。顧客は会社からチケットを購入することでその装置を利用することができた。
狭いボックスの中には仄かに光るパネルが1枚だけ設置されている。2人はボックスの扉を閉めると、そのパネルに手を触れた。
「さて、『地球』の座標は調べているのかい?」
「えぇ、勿論よ」
女に言われた通りに、男は座標を入力する。パネルは数多の星々のデータを瞬く間に走査し、やがて該当するひとつの惑星を導き出した。
「あったよ、『地球』。あまり人気は無いようだね。口コミが1件も無いけれど、本当にここで合っているのかい?」
「えぇ、合っているはずよ。あの雑誌も5億年前の話だからもうトレンドが変わってしまったのかもしれないわね」
「今からでも流行りの星にするかい?」
「いいえ、私は貴方とこの星に行きたいの」
頑固にも思える程に真っ直ぐな意志を持ち、女はきっぱりとそう言い切った。
そんな彼女の性格をよく知っているからか、男もそれ以上は何も言わず、ただ頷きながらパネルを操作した。
「……ワープが始まる。掴まって」
「えぇ」
男が女を片腕で抱き寄せる。最後のボタンを押し、パネルの青白い光が段々と強くなってゆく。
システムの回る甲高い音が、ワープ旅行機の狭い空間に反響する。隙間風の吹き込むようなその音ともに、強くなった光が2人を包み込む。
そして高潮が舞台照明を落とすように断ち切られた時、2人はその空間から消失し、狭いその箱の中には暗闇だけが残っていた。
◆
2人の住む星から遠く離れた宇宙の彼方。その銀河系の惑星である『地球』の表面に、突如として黒い箱が出現した。
電話ボックスのようなその黒い箱の扉が開き、最初に男がその惑星に降り立った。
「段差があるよ、気をつけて」
「えぇ、ありがとう」
男が伸ばした手を取り、女もまたその惑星に降り立つ。2人は揃ってその星の光景を見上げ、そして思わず息を吐く。
その息には、隠しようもない喪失感が溶け込んでいた。
「あら、まぁ……」
「これは……」
2人の目に映ったのは、高くそびえ立つ灰色の山。そして周囲のどこまでも続いてゆく、砂漠のように真っさらな灰色の荒野だった。
空は青を忘れ、虚脱感すら覚えるような黒が広がる。そのてっぺんからはギラギラと燃える太陽だけが残酷にその熱を浴びせかけている。
途方も無いほどに巨大な災害がこの星を襲ったのだろうか、それともこの星に住む人々が互いに争い、自ずから自らの故郷を火炙りにしたのだろうか。頬を撫でる乾いた風にはもはや生命の息吹を感じることもできず、その全てが焼き尽くされた後であることを積もった灰だけが物語っている。
――地球は、死んでいた。
「あぁ。これじゃあ本当に、あの色褪せた写真そっくりじゃないか」
モノクロの景色を眺めながら、少しだけ歩いた男が足を止める。地面を覆う粉雪の様な灰に、靴裏の跡だけが残った。
照りつける太陽が煩わしかったのか、女は黒い日傘を取り出すとそれを開きながら男の隣に立った。
「……。」
女は何も言わずに、目の前にそびえる山を見上げていた。植物の生える気配もなく、ただ淀んだ煤と灰に塗れたセピア色の山。侘しさだけを身に纏うその姿は、昨日まで彼女が期待していた華やかさとは似ても似つかない。
「僕達の見たあの秋の光景は、5億年以上前に置き去りにしてしまったんだね」
男は、女がきっと不機嫌になっているだろうと思った。だから、彼女を励ます言葉を探してこう続けた。
「木の葉は尽き果て、森は枯れてしまった。君の望んだ彩やかな景色はとっくに消え去ってしまったのだろう。でも、きっと儚いからこそ美しかったんだろうね」
傘を差して佇んでいた彼女が、流れるような目で自らの足元を軽く見つめた。
「それは、……どうかしらね」
穏やかな声色で、女はそう呟いた。目を伏せて、しばらく2人の足跡だけが残る灰の大地を眺めてばかりいた彼女は、静かな風の音を聴きながら男に尋ねかけた。
「……ねぇ、私達の愛情はこの世の何よりも美しいけれど、貴方はこの関係が刹那に終わった方が良いと思うかしら」
「まさか」
間髪を入れずに、男はそう答えた。その言葉を聞き、女は愛おしそうに微笑む。
「……きっと秋が美しかったのは、儚いからではなく移ろうものだったからなのだと思うわ。消えない、ただ、変わって行く」
傘の外に掌を広げる。風にまった灰の粒が、その手に優しく舞い降りる。
「あの本では、秋が巡ると冬が訪れたわ。裸になった木々には綿のような雪が穏やかに降り積もるの。秋になれば木々は彩やかなドレスで着飾っていたように、冬にはありのままの身体に白粉《おしろい》だけを纏わせるのでしょう」
男は女の話す意図が読めなかった。だから下手に何かを言う気にもなれず、黙ってその目を閉じた。
そうして沈黙のまま耳を澄ませると、乾いた風の隙間から、微かに水の流れる音が聞こえてきた。
「……?」
瞼を開ける。目の前には女が、こちらを見つめて笑っている。彼女の指さす先を見ると、何も無いように思えた灰の大地の割れ目から、滲み出るように流れる綺麗な小川があった。
「見て。山は既に灰となったけれど、水は未だせせらぐのだわ。積もった灰が雨水を濾過して、小川は硝子玉のように透き通っているわね」
女に連れられ、男もその小川を覗き込む。くるぶし程度の深さの、小さな川。水草は無く、魚も当然暮らしてはいない。しかし、彼女の言う通り、その水はどこまでも透き通っていた。
「……綺麗だね」
しゃがみこみ、その水の流れに軽く手を触れる。さらさらとした水の流れが指に跳ね、鈴のような音が心地よく耳を撫でた。
「その言葉、今日の私はまだ聞いてないのだけれど」
「今日も一段と綺麗だよ。そのドレスもよく似合っている」
傘を差したまま男の隣にしゃがみこんだ女が、冗談めかしてそう言った。それに真っ直ぐに応える男の態度が愛おしく、彼女はクスクスと笑う。
「いつか私が新しいドレスを買った時、古くなったこのドレスを、やがて着なくなってしまうでしょう。それでも貴方は、新しい衣装を身に纏う私をまた恋しく思うはずよ」
ポケットから取り出した黒いレースのハンカチを男に差し出しながら、女は落ち着いた声色でそう言った。
男がハンカチを受け取り、水に濡れた手を拭う。そうしながら、男はようやく、あの時の彼女の言葉の意図が少し理解できた気がした。
「来てよかったでしょう?」
女が尋ねる。
「そうだね、僕の心も変わってゆくみたいだ」
「ふふ。……大好きよ、貴方」
何度も伝えた言葉。しかし、まるで初めて口にしてみるかのように、彼女はその想いを幸せそうに紡いだ。
「うん、僕もだ」
ハンカチをポケットにしまう。そして、男は女の手を取り、2人は一緒に立ち上がった。
振り向くと、黒い電話ボックスが小さく目に映る。2人はいつの間にか、随分と遠くまで歩いてきた様だった。
「そろそろ帰ろうか。晩御飯の支度をしなきゃいけないからね」
「えぇ、そうしましょう」
女の手を軽く握ったまま、2人は並んでゆっくりと歩く。
乾いた風が、一際強く吹き抜ける。舞い上がった風が灰を巻き込み、色褪せた雪が静かに降り始めた。
――髪の1本が風に吹かれ、落葉のように灰の大地に降り立った事に、2人は気付かなかっただろう。
付着した微生物が、死滅した星に取り残される。死の星もまた移ろい、生命が再び、微かに息づき始めた。
また5億年後、この星はどのように色付くのだろうか。
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秋晴れの十月、小説家の兄が死にました。
僕が兄のアパートへ一ヶ月ぶりに顔を出しますと、兄は敷布団の上で腐り散っておりました。
黒ずんだ手にはボールペンが握られ、近くにあった低い机には「明日目が覚めたら続きを書く」というメモ書きが残っていました。
きっと、死ぬ寸前まで小説を書く気だったのでしょう。アマチュアよりも未熟で、本も自分が遊ぶ程度にしか作ったことがないくせに。
それから慌ただしく葬儀やアパートの整理が行われ、気づけば僕の手には兄の残したメモ書きと手帳だけが残りました。
僕は、貧乏を極めながら自由にこの世を遊んで暮らす兄が憎かったです。けれど、兄が文章を書き続けられなかったことの方が、もっと憎いです。
僕は、悔しかった。兄がもう文章を書けないことが。悔しい、悔しい、悔しい。僕は初めて、兄のために泣きました。
それから、僕は兄の代わりに文章を書き始めました。兄が、明日目が覚めたら書きたかった続きを、勝手に書き始めました。
それは償いでも、何でもありません。僕が文章を書くのは、何も言わずに遠くへ行った貴い兄への復讐なのです。
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