コメディ・日常
宇宙に一番近いキッチン
4,928文字
約10分で読了
テスト休みに入った沖昼子調理師専門学校の校舎は、静寂に包まれていた。
芦田タスクは沖昼子校長先生に呼ばれて、シンとする廊下を校長室に向かって歩いていた。
芦田は、この学校で講師アシスタントとして働き始めて一カ月も経っていなかった。そんなペーペーな講師アシスタントを、日本料理界の重鎮で、本校の校長兼理事長であらせられる沖昼子先生が直々に呼び出すことなど前代未聞だった。
なにか取り返しのつかない大失敗をしたのではないか。芦田はまるで心当たりが無かったにもかかわらず絶望していた。
「まだ少しも昼子先生のお役に立ててないのに……」
芦田は校長室の扉の前に立った。そして、何度か深呼吸をした。緊張は少しもほぐれなかった。もういいやと半ばヤケクソ気味にドアをノックした。
「昼子先生、お呼びでしょうか?」
扉の向こうから昼子先生の甲高い声が聞こえた。入室の許可をいただけたのだと判断して、芦田は静かにドアを開けた。
「失礼します」
「貴様が芦田タスクか!」
校長室へ入室した芦田の正面にいきなり大きな男が現れた。昼子先生以外に人がいるとは思っていなかったのと、大男の威圧的な大声に芦田は面食らった。
「え? え?」
「ふむふむ、なるほど……」
大男はアゴに手を当て、芦田の頭の先からつま先までジロジロと見つめた。その眼光は鋭く、日焼けを繰り返して赤茶けた顔の中にあって、その形相は鬼のようだった。背は高く、格闘家のように筋骨隆々、どこかの軍隊の制服に身を包んだ初老の男。胸を張り、ピンと背筋を伸ばした立ち姿は、明治時代の写真にあった、軍隊のお偉いさんを想像させた。
「ちょ、なんですか」
「貴様、歳は?」
「はい? いったいなにを……」
「年齢はいくつかと聞いておるのだ」
「ちょっと! いきなりなんなんですか? 昼子先生、この人いったいなんなんですか?」
ドアの正面、立派な黒檀の机の向こうに昼子先生はお座りになられていた。芦田と山田の騒々しいやり取りを意に介さず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、昼子先生が言った。
「おいしゅうございます」
大男はあらためて胸を張ると、大声で自己紹介を始めた。
「吾輩は、山田登! 日本で一番の登山家だ! 皆からは鬼軍曹と呼ばれておる! 貴様もそう呼んでいただいて結構!」
校長室の窓ガラスがビビビと震えるほどの大声だった。芦田は眉間に皺を寄せ不愉快を表に出しながらも自己紹介に応えた。
「と、登山家の山田登様。えー、私は本校で講師アシスタントをしております、芦田タスクと申します」
「うむ!」
腕を組みながら山田は大きく頷いた。包容力ありげな頷きを返されて、山田はなんだか自分が犬になって調教されているような気分になった。
「で、その日本一の登山家の鬼軍曹さんが、私に何の用ですか?」
「なんだ。昼子先生、まだ、この子に何も説明しておらんのですか?」
「おいしゅうございます」
昼子先生と山田が知り合いだということを芦田は理解した。しかし、料理研究家と登山家が新人講師アシスタントを呼び出す理由は未だ想像もできずにいた。
「一体なんなんですか?」
まるで見当の付いていない芦田に、山田は戦場でミッションを言い渡すが如くテキパキと説明をはじめた。
「先日、エベレストの頂上が意外な成分でできているというニュースが流れたのは知っておるな?」
「それはもう」
「エベレストの頂上は、実は雪が降り積もっているのではなく、フルーチェの元が降り積もっていた、と」
「はい。その報道後、エベレストの頂上を持ち帰って、天然のフルーチェとして売り出す人があらわれ、その希少さから高値で売買されているとか。それが、なにか?」
「そこで昼子先生から吾輩に依頼があったのだ」
芦田は手を叩いた。
「なるほど。鬼軍曹さんに、エベレストへ登ってもらって、そのフルーチェの元を取ってきてもらおうと、そういうわけですね、昼子先生」
「おいしゅうございます」
芦田の浅知恵が、ジョブズのプレゼンの如きファンタスティックな山田の説明を停滞させた。山田は自分が思うように物事を進められないことが嫌いだった。
「黙って聞け、馬鹿者! 貴様、昼子先生のアシスタントでありながら、昼子先生をバカにしているのか!」
出会って間もない人が怒鳴るように話す。そのことが芦田を酷く脱力させた。
「昼子先生は日本一の料理研究家だぞ! そんなお方が未知なる高級料理を味わうためにベストを尽くさないと言うのか!」
昼子先生が日本一の料理研究家なことぐらい知ってるわ。なぜ怒鳴る。めんどくさい。そう思いながらも芦田は尋ねた。
「フルーチェにあった最高の料理法ってなんですか?」
「おいしゅうございます」
「昼子先生のご要望は、エベレストの頂上でとれたての天然フルーチェを食べることだ!」
ゴクリ。固唾が芦田の喉を流れた。
「エベレストの?」
「そうだ!」
「頂上で?」
「そうだ!」
「天然のフルーチェを食べる?」
「そうだ! その登山を吾輩が全面的にサポートさせていただく!」
「え〜、本当に!?」
芦田は昼子先生と山田の二人ともの神経を疑った。
「だって、昼子先生、もう八十八歳ですよ? 大丈夫ですか?」
「おいしゅうございます」
「大丈夫かどうか、ぶっちゃけわからん!」
「わからんって、そんな無責任な!」
「米寿を経てもなお未知なる食材に自ら手を伸ばす! 素晴らしい事じゃないか!」
「素晴らしいですけど……」
と言ったものの、芦田は少しも素晴らしいこととは思わなかった。正気じゃない。芦田はハラハラした。新社会人の、経験の乏しい、決断能力のない新人講師アシスタントをハラハラさせた二人に憎らしさすら覚えた。
「私、よくわからないですけど、結構危ないことしようとしてません?」
「貴様!」
おずおずと物申した若造を一刀両断するように山田が怒鳴った。
「貴様も昼子先生をサポートする立場にいるなら、反対意見を言う前に、夢を実現させるために働くのが道理なんじゃないのか!」
芦田は山田の怒声に頬をぶたれたようなショックを受けた。
芦田は悔しかった。その悔しさは初対面のジイさんに終始高圧的に接せられたことではなく、大好きな昼子先生のことを、料理人ではない山田に諭されたことからくるものだった。
私の方が昼子先生を知ってる。芦田はそう憤った。しかし、その憤りは一時の気の迷いのようなもので、人生を賭けられるような確固たる自信からくるものではないと気がついていた。心のフラつきを感じていた。
精神の直立がやっとの芦田の様子を見て取って、山田は話しを本題に移した。
「さあ、答えたまえ。歳はいくつだ」
「あ、さっきの質問。それ、一体なんなんですか?」
「何を言ってる。登山をするなら体力のある若者にこしたことはない」
「なるほど……。えっ! 登山する!? えっ! 私!?」
「何を言っている。先生が料理をするならアシスタントがいるだろうが」
「でも、フルーチェですよね? ミルクを入れて混ぜるだけですよね?」
「ばかもの! 簡単な料理ほど難しいものだ! ねえ、昼子先生?」
「おいしゅうございます」
「いやいや、プレーンのオムレツじゃないんだから! フルーチェだから! お子様でも簡単に楽しく作れるのが売りだから!」
芦田は畳み掛けた。山田を言い負かそうと口角泡を飛ばした。それはさっきの仕返しだった。フルーチェの手軽さを知らないほどの料理素人の山田に、昼子先生のお心を理解していないと説教され心に傷を負わされたことへの復讐だった。
しかし、その一方で、そうした自分の行動に芦田は嫌悪感を抱いていた。まだ講師アシスタントになったばかりで、少しも昼子先生のお役に立っていない自分が、どの面をさげて昼子先生のお心をより理解していると言えるのか。
山田は見逃さなかった。山田は芦田が抱いた薄っぺらい嫉妬心を踏んづけて反論を始めた。
「貴様、さっきの昼子先生を見くびった発言といい、フルーチェを馬鹿にした発言といい、そのような狭き眼で昼子先生のような立派な料理研究家になれると思っているのか!」
「なに!?」
「いいか、世界の料理を味わいつくした昼子先生だぞ! 日本で一番料理にお詳しい、言わば日本の料理界の宝であらせられる昼子先生だぞ! そんな先生が、その命を投げ出してまで味わおうとされるフルーチェだぞ! そんなフルーチェが、そんじょそこらのフルーチェと同じわけがないだろう!」
「た、確かに……」
芦田はとうとう膝から崩れ落ちた。私は昼子先生のなにもわかっていなかった。その偉大さも志の高さも。芦田は手をついて、荒い息を吐いた。そんな芦田の肩に手を置いて山田が優しく問いかけた。
「どうだ。そんな、世界で一番のフルーチェ、食べてみたいと思わないか?」
芦田は涙に濡れた顔を上げて、先ほどまでのイカつい表情から一転して優しい微笑みを浮かべる山田の顔を見た。
芦田は思い出した。昼子先生を尊敬する一番の理由を。それは料理界に半世紀以上身をおきながらも常に斬新な料理を生み出すガッツ、その飽くなき探究心をお持ちのところだったことを。
「ううう……。私が間違っていました……」
芦田は涙を乱暴に拭って、あらためて山田と向かい合った。
「私! 私! エベレストの山頂で、宇宙に一番近いキッチンで、立派にアシスタントさせていただきます! 昼子先生!」
「おいしゅうございます」
「決まり、だな」
山田はニヤッと笑った。
「はい!」
芦田はいい顔で返事した。
「アタックをかけるのは三ヶ月後! しばし料理から離れ、貴様には登山のノウハウを身につける訓練に徹してもらう! いいな!」
「イエス!」
「馬鹿野郎! 上官の言うことに応えるときは「サー」をつけろ! 卓球の愛ちゃんのように!」
「イエス・サー!」
「吾輩の訓練は厳しいぞ!」
「イエス・サー!」
「やれるのか!」
「イエス・サー!」
芦田に着いてこいと言わんばかりに、山田は校長室のドアの前に立った。芦田は背筋を伸ばした良い姿勢で山田の後ろに着いた。
「では、昼子先生。こやつを三カ月ほどお借りします。次にお会いする時は、エベレストのふもとです」
「おいしゅうございます」
「では行くぞ! ぜんた〜い進め! オイッチニ! オイッチニ!」
そして、三ヶ月後。エベレスト山頂。
「お~い! 大丈夫か~!」
「は~い! こっちは大丈夫で~す! 昼子先生は大丈夫ですか~!」
「おいしゅう~ございま~~す!」
「よし! ここが……頂上だ!」
「やった~!」
「さあ、昼子先生、こちらへ」
「おいしゅうございます」
「やった! やりましたよ! 昼子先生!」
「バカヤロウ! 喜ぶのはまだ早いぞ!」
「そうでした。さっそく料理に取り掛かりましょう。よろしいですか、昼子先生!」
「おいしゅうございます」
「では、器とスプーンを用意して。山田鬼軍曹! 牛乳よろしくお願いします!」
「承知!」
「さあ、先生、念願のフルーチェですよ! 生涯最高の料理をお願いします!」
「おいしゅうございます」
「私、今、エベレストの頂上にいるんですよね。夢にまで見た場所に。初めてエベレストの山頂に行くっていう話を聞いたときは、正直、昼子先生の頭が残念なことになったのかと思いました。でも、そうではなかった。先生は、常に高い志を持ち、自分の限界を決めず、あきらめず、挑戦し続けていた。本当に素晴らしい方だとあらためて尊敬の念を抱かずにはいられません。この三カ月は本当に苦しかった。慣れない登山訓練。生死にかかわるような厳しいものばかりでした。でも、昼子先生のお役に立ちたい! その一心で頑張ってきました。今、この世界最高峰の頂に立ち、胸にこみ上げてくる思いは、先生への感謝しかありません! 本当にありがとうございます! いや、まだ、お礼には早いですね。本当のお礼は、世界一のフルーチェをいただいたときにさせていただきます。先生! ……先生? ……先生っ! ちょっと、先生、昼子先生! 寝たらだめですよ!!」
「おいしゅう……ございま……」
「先生! ちょっと、しっかりしてください! 鬼軍曹! 牛乳まだですか!?」
「いや、ちょっと、これ……」
「もう! どうしたんですか!? 昼子先生がお待ちですよ!」
「いや、その……」
「どうしたんですか! 鬼軍曹!」
「牛乳がね、」
「牛乳がどうかしました?」
「牛乳が……出てこない。凍っちゃって……」
おわり
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