ホラー・怪談
【怪奇小説】案内人
2,355文字
約5分で読了
帰宅した私は車を降り、夜露に濡れた庭の砂利を踏んで玄関へと向かった。
郵便受けには、数通のハガキやチラシに混ざって、見慣れぬ一通の手紙が投函されていた。
上質な茶封筒の表には、震えるような達筆の黒インクで私の名が記されている。裏を返せば、差出人欄には見覚えのない男の氏名と、都心から遠く離れた山の麓にある町の住所があった。
心当たりのない不審さを覚えつつ、ジャケットを脱ぎ、静まり返った吹き抜けのホールを抜けて書斎へ向かった。
机のスタンドライトを灯し、ペーパーナイフを封の隙間に滑り込ませる。
中から引き出した便箋には、狂気じみた文字が踊り狂うように、びっしりと文字が連なっていた。
前略
突然このような、悪趣味極まりない告白文を送りつけます非礼をお許しください。
ですが、この手紙を書かざるを得ないほどに追い込まれているのでございます。
私の住まいは、笹倉岳の麓にございます。標高こそ二千メートルに満たないものの、ひとたび登山道を外れれば人を呑み込む底なしの沢が口を開ける山脈です。年間を通じて遭難者が絶えず、携帯電話の電波すら届きません。私は幼い頃からこの山と共に暮らしており、隅から隅まで知り尽くした、いわば、自分の庭のような存在です。
すべての始まりは、十数年前の秋のことでした。
私はいつも通り趣味の登山をしておりました。季節ごとに移り変わる山の景色は何度登ってもそれは美しいものです。
そんな中、山中で道を見失った若い男女三人の登山者を見かけたのです。
これは特に珍しいことでもございません。年間でも何十人と行方不明や遭難の起こる山です。
そこで、私はいつも通り安全な迂回路を教えてやろうとしました。
その時です、私の脳裏に悪魔のような囁きが響きました。
もし、素人では二度と生きて戻れぬ崩落した山道へと誘い込んだら、彼らはどうなるだろうか。
私は極めて自然な、柔らかな微笑みを浮かべ、偽りの近道を教えました。
彼らは私を救世主のように拝み、感謝の言葉を連ねて、私の示した死の待つ暗い沢へと歩いて行きました。
微塵も疑いも持たず、破滅へと一歩ずつ歩を進めてゆくあの無防備な後ろ姿を見送ったとき、私の喉の奥をせり上がってきた甘美な痙攣を、なんと表現いたしましょう。それは、生贄を祭壇へと運ぶ司祭のそれでございました。
そして三日ほど後の事です。
朝刊の片隅、社会面の無機質な活字の中に、彼ら三人が沢の滑落現場で折り重なるようにして遺体で見つかったという記事を目にしたのです。
その瞬間、頭頂から爪先へと突き抜けたあの戦慄すべき歓喜を、私は生涯忘れることができません。
背骨を強烈な電流が駆け抜け、下腹の奥が熱く煮えたぎるような、世のいかなる肉欲をも凌駕する興奮が押し寄せてまいりました。指先ひとつ触れず、私がほんの少しだけ言葉を発しただけで、見ず知らずの健康な男女三人の血肉が、無惨な肉塊へと成り果てたのです。新聞の紙面を震える指でなぞりながら、私は暗がりの中で激しく息を乱し、独り声を殺し笑いました。。この快楽に、私は陶酔しきってしまったのでございます。
その日を境に、山を歩く目的は完全に変貌いたしました。いつもは季節ごとに移り変わる景色を楽しみにしていた山道は、迷える羊を見つけては、あの甘い毒を含んだ笑顔で奈落へと送り届けてやる為の場所へと変わってしまったのです。
それからというもの、何十人、いえ、何百回となくその行為を繰り返してまいりました。具体的な数はもう覚えてはいません。
なんの恨みも関係もない人間へ行う行為です。もし奇跡的に生還した人間がいたところで、好意で教えた道か、悪意で教えたかなんてことは他人からは絶対に分かりません。警察の捜査の目もこちらへ向くことは毛頭ありませんでした。元より行方不明者の極めて多い山です。事故死の数字が多少増加したところで、世間は何の疑問も持たず、何の捜査もされはしないのです。
ですが、昨年の夏から、私は夜眠る事が出来なくなりました。
どうしようもなく、これまで私が偽りの道へ送っていった者たちの声が聞こえるのです。耳元で囁くのです。耳を塞いでも無駄なのです。
枕元で、背後で、四六時中あの者たちの声が湿った息とともに聞こえてきます。
彼らは一様に、あの日と同じように礼を言うのです。
「教えてくださって、ありがとう」
「助かりました」
「麓で会いましょう」
私自身に罪悪感など全くございません。良心の呵責など欠片もないのです。それなのに、目に見えぬ何かが、暗闇の奥からじわじわと私を追い詰めてくる。
完璧だった私に、たった一人だけ、たった一度だけ、偽りの山道から生きて下山したお方がおられました。
そう、何百人の中でただ一人、あの死の山から生きて戻られた、貴方様です。
ですから、たった一人のその貴方様にこの告白文をお送り致します。
あの日、救助ヘリで運ばれた、あなた様のお名前を聞き知って以来、私は取り憑かれたようにあなた様の消息を追っておりました。
全く恨んでいるわけではございません。ただ、誰かに知っておいて欲しかったのです。
私はもう、正気で生きてゆくことはできません。
今夜、私は山へ向かいます。
これまで幾度となく見送ってきたあの谷底で、今度は私自身が、最後を迎えることにいたします。
では、さようなら。
草々
手紙を握りしめたまま、指先が凍りついたように動かなかった。
一年前、肋骨を折り、血と泥にまみれて山中を彷徨ったあの地獄。
絶望の淵にいた私に「この沢を下りればすぐ街だ」と温かい笑顔で教えてくれた、あの親切な初老の男。
恩人などではなかった。
あの男は、最初から私を殺すつもりで手を振っていたのだ。
ぞっとする悪寒とともに顔を上げた瞬間、鼻腔を突いたのは、手入れの行き届いたこの部屋ではあるはずのない、あの山の匂いだった。
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