「うさぎってさ冬になると毛の色が変わるでしょ。冬毛に生え変わって。雪の中で目立たないように雪そのものにカモフラージュするんだ」
うさぎの背を撫でながら彼女はそう言った。
野生の生物はとてもしたたかで強い。
進化における適応とは生存率を上げるために環境そのものに肉体を変化させる。
最たるものが擬態カモフラージュなのだろう。
彼女はとても目立たない。
だがそれが本当の彼女でないことを私は知っている。
窓辺の3番目の席、そこが彼女の席でいつもそこからどこか遠く窓の外を見ていたのを思い出す。
彼女と仲が良くなったのは高校に入って2学期、ふとしたことからだった。
きっかけはうっかり彼女のノートを私が持って帰ってしまったことだった。
家に帰ってカバンを開けてから気がついた。
ノートにはびっしりと詩が書かれていた。
ただただ、びっくりしてしまった。
話したことがない何を考えているのかわからない、目立たない彼女。
そんな彼女の考えが、それはそれは美しい言葉でつづられていた。
私は文芸に明るい方ではない。
誰かが書いた詩を読んだのなんてそれこそ学校の授業でほんの2から3編ぐらいだろう。
そこには彼女の心があった。
私はその本をすぐに返すことができなかった。
それは、内容を見てしまった気まずさもあったしそこに書かれていた詩が美しくて返したくないという思いもあったからだ。
翌日返しそびれて、さらにその翌日彼女は新しいノートを買っていた。
ノートなしに授業を受けるわけにはいかないので当然といえば当然なのだが……
なんとか覚悟を決めて彼女にノートを返せたのは1週間も経ってからだ。
「ごめん私の荷物に紛れちゃって」
気まずくて何とか言ったのに彼女の対応はあっさりしたものだった。
「あ、そうなの。ありがとう」
ノートを受け取れば本当に何も興味がなくなってしまったかのような彼女。
「あのごめん。ちょっと中身見ちゃった」
私としては思いっきり勇気を出してそう言ったつもりだったがやはり彼女はたいして興味がなさそうに、
「いいよ。中身見ないと誰のかわからないもんね」
と一言返ってきた。
「すごいねノートに書いてあった…詩?」
その一言から少しずつ会話が発展し彼女は自分が書いたものの話や好きなものの話をしてくれるようになった。
そして私たちは友人になったのだ。
それまでの高校生活が一変した。
私には見えていない世界、感じていなかった世界を彼女は感じている。
今までの人生において出会った誰よりも彼女の言葉に惹かれた。
高校生活の3年という歳月がどんな時代よりも鮮やかに記憶に残っているのは彼女がいたからだ。
大学に入り私たちは別々になった。
彼女がその後文学賞を取ったのを私は知っている。
ノートに書かれた詩ではないけれど本という形で私は彼女の作品と再び巡り合った。それは誰もが知っている作品だ。
だが作家の生活というのは表に出てくるものではない。
作者が彼女であることを知っている人間はほんのわずかだろう。
雪に紛れてその姿を隠すうさぎのように彼女の姿を見つけられるものはほんのわずかしかいないのだ。
それはきっと彼女の処世術。この世界に擬態し目立たずに生きている。
だが才能は誰もが愛してやまないものだ。
きっとこの先もずっと……
同窓会に行った時、彼女は来ていなかった。
そのことを気づいていたのは私だけだろうか。
同窓生たちと話すが誰も彼女の名を口にしなかった。
誰も彼女の活躍を知らない。
私は鞄の中の彼女の本を握りしめた。
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カスタムドールがゴミステーションに捨てられていた。
この手の自動人形はもう百年以上前に生産が終了しているはず。ましてや現代、購入しようと思えばあまりにも高額になってしまうはずだ。
私はそれを抱えると自分の家まで連れて帰った。
随分と雑に袋に入れて捨てられていたものだ。
梱包を外してボディを布で拭いてゆく。
顔立ちは幼い少年のようだ。
まだドロイド―自動人形―が作られ始めたばかりの時代、完全に人間にそっくりなドロイドが作られていた。しかしそれらはやはり倫理的に問題が出てくるという理由で生産が中止になった。
色々事件も起きたからだ。
私は改めてその少年の自動人形を眺めた。
顔立ちは全く人間と変わらない。ボディや所々、機械だとはっきりにわかる部分があるが。
生産が中止になった理由は、あまりにも人間に似すぎていたためだ。姿形も内面も。
問題になったケースでは、自分の子供の遊び相手として購入した家族が自動人形の方が可愛くなってしまい子供を殺害してしまったケース、自動人形を捨てると言って生きた人間を殺して捨ててそれが発覚したケース。
自動人形に全財産を譲渡するという遺言を残して大問題になったケース。彼らの人権を認めろと騒ぎ出す政治団体。
人間との境目があやふやな自動人形が作られなくなった理由は他にもあるのだが……
だが、生産中止から百年経って、これらのアンティークの自動人形が作られなくなっても彼らは高額で売買され愛好家たちが手放そうとしない。
彼らはとても高級なアンティークの商品なのだ。
だから、まさかこんなところに自動人形が捨てられていると思わなかった。ジャンク品なのだろうか。
人形たちのAIも長い間使用されその間に様々なことを学習してゆく。ひどい扱いを受けたAIはそれをそのまま学習してしまう。
結果的にひどくいびつな性格になってしまったAIはリセットされ場合によってはハードそのものを取り替えられる。
人間にとっては脳である部分を取り替えられるわけだから、正直 私としてはいくら何でも気の毒だと思う。
アンティークではなく中古品として売られる自動人形は全部AIをリセットされている。完全に初期化された状態で発売されている。
同じ自動人形でもその差はずいぶんとあるのだ。
それでもアンティークよりは安いとはいえ高額ではあるのだが。
結局自動人形の価値を決めているのは、使用者の人間の方なのかもしれない。
ゴミステーションで捨てられていたこの子はどうだろうか。
私は1つずつ 修理をしてゆく。ボディに多少傷んだり壊れていたりしたところがあったが 大まかなところは問題がなさそうだ。
この子はカスタムされている。
ボディから型番を割り出しいつ頃作られたものかを調べた。
オリジナルのタイプから客の好みによってカスタムして販売するタイプだったのだろう。あるいは購入してからカスタムしたのかもしれない。
……この子は誰かに似せて作られたのかもしれない。
例えば、死んだ子供に似せて作ったとか。
そういう風な使用のされ方はよくされていたらしい。
性格もプロトタイプのものからあらかじめカスタムして、口調や態度など調整されていたのかもしれない。
私は彼を起動させた。
ゆっくりと目が開く。辺りをキョロキョロと見回す。
「……なんだよ、これ。ここから下ろせよ!お前、誰だ?俺何されてたんだ?」
少年は怪訝な顔をしてそういった。
随分と生意気そうな態度で、だがしかし、あまりにも人間らしいそのセリフに私は思わず笑ってしまった。
――初めまして私は、――
こうして私と彼との新しい生活が始まった。
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どうして、いつも私はこうなんだ。
コンビニに向かう
私の背中や頭や肩に激しい土砂降りが突き刺さる
「ざまあみろ」
「お前だからこうなんだよ」
雨音がそんな風に言っているように聞こえた。
学校もバイト先でもいつも暗くて浮いてる私
意識してるわけじゃないけどさ
そんな風に見えてるらしい。
私は普通に生きてるだけなのに。
どこで何を間違えた、なんて考えるだけ無駄なんだ。
考えたって覆らない。だれも私の言葉に耳を貸さない。
私は異端児で要らない子だから。
何も考えたくなくて、
入ってみたコンビニだけど
別に欲しいものなんて何も無いんだよね。
欲しいものは時間…かな。なんて
嫌なこと言っちゃうし
ほらね、きっとこういうところがダメなんだ。
とりあえず、死なずに今日も生きてくれた自分に
ご褒美ってことでデザートでも買ってあげますか。
何気なく手に取ったモンブランタルトを
見つめながら
「……お前は甘くていいね、甘みも深みも持っててさ」
完全に無意識だった。私から解き放たれた言葉は
いったいどこに向かって世界に溶けたんだろう。
そんなとき有線から流れてきた
ラジオのたった25秒ほどの言葉が
少しだけ、私のこころの中に入り込んできた。
「今日のひとこと。うまくいかなかった日
帰り道にそっと甘いものを買ったなら、
それはボクからの小さなお祝いです。
苦い時間を過ごしたあなたが頑張ってくれて
最後に甘いものをひとつ選んでくれた。
今日はそれだけで、十分。
どうぞ、あたたかくしてお帰りください
これを聴いてくれてるあなたになにか
いいことがありますように」
「…………。」
黙って聴いてしまっている。こんな私が。
なんかちょっといつもとはちがう
そんな風が入ってくる予感だけを残して。
なんだろう。ちょっとだけ嬉しかった。
ほんの少しだけ、まだこの世界にいてもいいのかな
そんな風に思えたからだ。認めてもらえたような気がして
ほんの少しだけ涙ぐんで微笑んでしまった。
だめだ。かなり疲れてんな、私。
今日はもう、早く帰って休もう。
支払いをすべく、私はレジに向かった。
「428円になります」
「はい」
あ…400円しか入っていなかった。これはまずい。
28円足りない…。さっきのラジオのことなんて
頭の中に滞在する余裕がないくらいに
焦りと不安が上書きしていく。
「あ、あの……こっちだけで―」
私が言いかけたタイミングで後ろから
「あ、足りない分はぼくが出しますんで」
若い男性の声だった。
びくっとして私が振り向くと
爽やかで清楚な優しそうな男の子
やば。かっこいい…。じゃなかった。
「……あ、ありがとうございます。すみません」
私は何度も頭を下げた。
申し訳なくて、そそくさと退散しようとしたら
商品を受け取るのを忘れてしまった。
またやってしまった。こんな短い間に。
いろんなことがありすぎたのだ。
こういうとき、時間よ戻れって本気で思う。
こんな見たくもない私を世界に刷り込ませてしまうなら
いっそ何も買わずにコンビニなんて寄らなきゃよかった。
すると足早に足音だけ聞こえてきた。
私はまたびくっとなって振り返る。
「待って……。篠原さんだよね?同じクラスの。はい。商品、忘れてるよ」
どうして私の名前…。いや、そんなことよりも
わざわざ届けてくれた…?こんな私のために?
再び私は何度も頭を下げて消えゆくような声で
お礼を何度も囁いた。
「綺麗な眼と髪だったから、そうかなあと思ってさ」
この日の私の胸の高鳴りが今日1番うるさかった。
そこから家に帰るまでの道は
なんだか少し、くすぐったかった。
雨の音に混じって、さっきの声が蘇る。
「今日はそれだけで、十分」
あの人は私のことなんて知らない。
それでも、あの言葉は確かに私に届いた。
こんな私でも、ちょっと変われる気がした。
まだ私、頑張れるかも。
本当にありがとう。
私は今日もあなたの言葉で生きている
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50メートルほどさきのびわの木の下に猫がいる。
枝先に瑞々しく実ったびわに猫はどうしても届かない、ふりをする。
猫の見上げた先で小鳥が実をつつきにやってくる。
そうしているとヤクヤックが小鳥を狙ってやってきて上空をゆるりと旋回し始める。
ヤクヤックはフェニックスの子孫と言われているがもはやただの小中型の猛禽類である。
私は可能な限りゆっくりと横たわっていたゴーレムを起こし2本目のタバコに火をつける。
ヤクヤックが小鳥を捕獲する頃合いを見計らいゴーレムに鷲掴みさせる。
今日の夕食である。
ここ数ヶ月、羽を毟り取る魔術を研究していたがどうも上手くいかず、結局今回も手で毟る羽目になった。
猫が私の足に身体を押し付けゴロゴロと音を立てる。
「あなた、コーヒーを淹れてちょうだい」
毟る最中にも関わらず嫁がコーヒーをねだる。
「自分で淹れてくれないか。私のもついでに」
「いやよ。あなた、自分が一番淹れるのが上手いっていつも言ってるじゃない」
コーヒーごときまともに淹れられないとは正気の沙汰ではない、と平時思っているがこういう時は裏目に返る。
コーヒーを啜りながらヤクヤックを火にかける。
魔力を内包している野生動物はよく火が通り、良い脂の香りが十二分にたつ。
削いだもも肉を猫に与え、私たちは食卓を囲む。
「今日のデザートはびわを剥いたの。ほら、こんなにたくさん」
「お前はなんてことをしてくれたのだ」
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鬱陶しく舞う、桃色の花びらが私は大嫌いになった。
大好きなあなたとの別れ。
それを否が応でも理解させられるようで。
――
あなたの授業は私の胸を暖めた。
内容なんて何も入っていない。
でもあなたの内側を知る私には……
必死に取り繕う、あなたの姿が可笑しくて愛おしかった。
夜更かしでできた隈を隠すコンシーラー、伸ばしてたのに切った爪。
爪、私があげたネイル使ってくれたんだね。
私もリップ使ってみたよ。
この専門学校では珍しく毎日レディーススーツを着こなし、不真面目な生徒にはしっかり注意する厳しいあなた。
でも私には――
目が合った、私はいつも微笑む。
先生は一瞬の硬直ののち、踵を返す。
……分かってるよ。
この教室で私だけが『生徒』じゃない優越感が堪らなかった。
大学受験が嫌で、でも就職も嫌で。
オトナになるまでの時間稼ぎで入った専門学校。
でもあなたのおかげで、学校も学校外も幸せでいっぱいだった。
ああ、温かい手のひらを自分の頬に当てる。
そして安堵する心音に顔をうずめる。
顔を上げ、柔らかい口元に近づく。
これがあれば春なんて……
――突然だった。
先生が逮捕された。
ざわつく教室のウザい騒音も、落としたカバンとバラけた中身の音も、ガラス窓の向こう側のように遠のき、頭の中があなたの顔とともにドロドロに溶けていく。
乾いてく喉の奥から出た唯一の言葉は
「は?」だった。
先生は赦されないことをしていた。
私もその『一人』だった。
でも誰にもそのことを告げなかった。
――
卒業式、当然あなたの姿はない。
……ねえ、こんなのいらないよ。
大好きだったよ。先生は?
大切な『生徒』からの質問に応えてよ。
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怪談を書いてみようと思った。
普段は悪役令嬢モノやファンタジーばかり書いている。怪談にはあまり触れてこなかったが、短いものなら一度くらい試してみてもいい気がした。
いざパソコンを前にすると、何を書けば怪談になるのかよく分からなかった。幽霊を出せばいいのか。血まみれの女でも立たせれば、それらしくなるのか。たぶん、少し違う。
怪談というのは、もっと普通の生活の中に、説明のつかない異物がひとつまみ混じるような話ではないか。そう考えて、身近な出来事を探した。
ちょうど、その日の帰宅時に妙なことがあった。朝、電源を落として出たはずのパソコンが起動していたのだ。
シャットダウンしたつもりで、スリープにしていたのかもしれない。一応、設定も確認したが、自動で起動するような項目は見当たらなかった。とはいえ、パソコンのことだ。更新か何かで、こちらの知らない動きをすることくらいはあるのだろう。
その程度で済ませた。ただ、怪談の導入には使えそうだった。
『――家に帰ると、消したはずのパソコンがついていた。』
そう書いてみたものの、これだけではただの不具合だ。少し考えて、その続きに一文を足した。
『――それから、部屋にいるあいだ、ずっと誰かに見られているような気がした。』
書き終えたところで、ふと背後が気になった。
振り返っても、もちろん何もいない。自分で怪談を書いて、自分で怖くなるとは世話がない。その夜はそう考えて、続きを閉じた。
翌日、視線の正体をどうするか考えた。誰かがいることにするのか。どこから見ているのか、なぜ見ているのか。設定はいくらでも作れる。
けれど、考えているうちに、また背後が気になった。気配はない。ただ、振り向けば目が合うような気がする。それだけだった。
結局、正体について書きかけた部分は消した。何なのかも、なぜ見ているのかも分からない。そのほうが嫌だったし、怪談ならそれでいい気がした。
それからも書き進めているあいだ、まとわりつくような視線は消えなかった。食事をしていると天井が気になり、髪を乾かしていると、ドライヤーの音に何かが紛れているような気がした。照明を消したあとは、部屋のどこを見ればいいのか分からなくなる。
けれど、どこから見られているのかは分からなかった。
ある夜、執筆を終えて席を立った。スリープに入ったモニターが黒くなり、そこに部屋がぼんやり映った。机と椅子、ベッド。その奥に、自分の姿もある。
自分の背後だけが、少し暗かった。何かが立っているようにも見えた。
振り返ったが、何もいない。もう一度モニターを見ると、ただの暗い部屋が映っていた。
そのことも小説に書こうとしたが、数行ほど書いてからやめた。姿まで出したら、説明しすぎる気がした。
結局、最後まで視線の正体は書かなかった。原因も、最後にどうなったのかも書かなかった。分からないものは、分からないままにしておいた。
それで完成とし、その夜、投稿サイトで公開した。
反応は思っていたよりよかった。
「じわじわ怖かったです」
「こういう怪談好きです」
「最後まで何だったのか分からないのがいいですね」
そんな感想がいくつも届いた。
そして、投稿した翌日から視線を感じなくなり、パソコンも勝手に起動しなくなった。三日経っても、一週間経っても、何も起きなかった。
夜に後ろを気にすることもなくなり、パソコンの電源を落としたかどうかをわざわざ確かめることもなくなった。作品のアクセス数も落ち着き、感想欄を開くことも減った。
やはり、書いているあいだだけ神経質になっていたのだろう。そのこと自体、ほとんど忘れかけていた。
ある夜、久しぶりに投稿サイトを開いた。新しい感想が一件ついていた。
「なぜ、投稿した」
投稿者は、退会済みユーザーだった。
しばらく、その一文を眺めたあと、その感想を削除した。
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「つーかーれーたー」
ミーンミーンと蝉の声が煩い。
八田の嘆きは、蝉の大合唱に打ち消された。
「何て?」
「だーかーらー! 疲れたって!
陰で休もーぜ!」
「…………そうやって、さっきから休んでばかりじゃないか。
いつになったら目的地に着くんだ」
山瀬の顔が険しくなる。
「大体、限定グッズがどうとかって言い出したのはお前の方だろう。
この調子じゃ、今日は諦めた方がいいんじゃないか」
山瀬が腕を組み、八田を睨んだ。
「あちーもんはあちーもん! 無理!
休むぅう!!」
八田は数少ない影を目がけて走り出した。
「……ったく。
昼間に歩くなら帽子か日傘でも用意しろよ。
準備不足なんだよ」
山瀬が舌打ちをする。
「おーん? 山瀬だって用意してないじゃん!」
「俺はお前に急に呼び出されたんだから、用意してるわけないだろ」
「行き先聞けば良かったじゃん」
「……駅からこんなに歩くとは思わないだろ……
十五分かけて歩いてもまだ半分だぞ……
っ、バスもねぇしよ……!」
山瀬の眉間のシワが深くなる。
「まーまー、そんなに怒るなって! な?」
「はぁ!? 誰のせいだと……!」
「あ! ジュースめっけ!」
「コラ、聞けや!」
脱兎の如く自動販売機に向かって走っていく八田の背中に、山瀬は声を投げつけた。
「山瀬ー!
……と……?」
「何て!?」
煩く鳴く蝉の声で、八田の声は殆ど掻き消されて届かない。
山瀬は大きくため息をつき、汗で胸元に張り付いた服をパタパタとさせた。
淡いグレーのシャツが、いくつも濃いシミを作っていた。
山瀬は一度天を仰ぐと、八田の元に歩いた。
「早くー」
トボトボとやる気のない山瀬の歩速に、八田からの叱咤が入る。
「コーラとコーラとコーラ! どれがいい?」
八田はニカッと笑って、山瀬の首元にペットボトルを一本あてた。
「冷てっ! ……いや、それは全部コーラだろ」
「いや、これは普通の!これはゼロシュガー!これは……」
「あー、はいはい。普通ので」
山瀬は八田から赤いキャップのコーラを受け取ると、蓋を開けて口をつけた。
喉を通る冷たい水分と、強めの炭酸の泡が心地良い。
山瀬は一気にペットボトルの半分を飲み干した。
「……イベント、何時まで」
「おー? んと、17時まで?」
「あと30分はあるな。……ギリギリだ」
「走ったら間に合う」
八田が山瀬に向かってグーサインを出す。
「……走れるか?」
「おーよ! これ飲んでからな!」
「……コケるなよ」
「あはは! 馬鹿にすんな!」
八田は大きく山瀬の背中を叩いた。
「後で疲れたって泣くなよ」
山瀬が八田を肘で小突く。
「ダイジョーブだって!」
「……お前の大丈夫は大丈夫じゃないんだよなぁ……」
蝉の声が煩くて。
山瀬の声は溶けるように消えていった。
「何て?」
「……何でもない。行くぞ」
残りのコーラを飲み干して、山瀬は一歩踏み出した。
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ミステリー・サスペンス
4784文字
約10分で読了
この街は、淹れたてのブラックコーヒーよりも苦い。
俺の名は鮫島蓮。
この錆びついた街の片隅で、しがない探偵事務所を営んでいる。
男がハードボイルドであるためには、三つの条件が必要だ。冷徹なまでの冷静さ、揺るぎない独自の美学、そして何があってもめくれない強固なトレンチコート。
「あの、鮫島さん。今日、最高気温三十五度って天気予報で言ってたんですけど、そのコート、いい加減脱いだらどうですか?」
デスクの向かい側から、冷ややかな声が飛んでくる。
声の主は、我が探偵事務所の唯一の事務員であり、冷酷な現実主義者でもある女子大生のハルだ。
彼女はハンディファンを最大風量で顔に当てながら、俺をゴミを見るような目で見つめている。
「フッ……ハル、お前にはまだわからないか。ハードボイルドとは、気候に魂を売らないことだ。たとえ太陽が俺を焼き尽くそうとも、このコートこそが俺の鎧──」
「あ、背中、めちゃくちゃ汗染みできてますよ。塩吹いてます」
「……」
俺は静かにコーヒーカップを口に運んだ。中身はただの麦茶だが、気分は常にビターなモカだ。
その時、事務所のドアが勢いよく開き、一人の男が飛び込んできた。
高級そうなスーツに身を包んでいるが、その髪は乱れ、顔は青ざめている。男の名は成金大作。
このエリア一帯の大地主であり、俺たちの数少ない「まともに金を払ってくれる上客」の一人だった。
「鮫島くん! 大変だ! 泥棒だ! 我が家に代々伝わる国宝級の家宝『黄金の招き猫』が盗まれたんだ!」
成金はデスクに両手を突き、息を荒くした。
俺は慌てず、椅子の背もたれに深く寄りかかり、タバコ、の形をしたココアシガレットを口にくわえた。
「落ち着け、成金さん。事件の香りが強すぎて、俺の五感が悲鳴を上げている。……で、その泥棒の足取りは?」
「それが、今朝、美術品室の金庫を開けたら空っぽだったんだ! どうか、私の家に来て犯人を暴いてくれ!」
俺はココアシガレットをボリボリと噛み砕き、ニヒルな笑みを浮かべた。
「いいだろう。この鮫島蓮の辞書に『未解決』の文字はない。ハル、行くぞ。現場が俺を呼んでいる」
「はいはい。成金さん、冷たいお茶どうぞ。鮫島さん、コートの背中、本当に汚いからせめて叩いてから行ってくださいね」
◆
成金の大邸宅。その美術品室は、いかにも金持ちといった悪趣味な絵画や骨董品で溢れていた。
すでに部屋には、昨夜のパーティーの居残り組、あるいは成金の親族らしき三人の男女が集められていた。
一人目は、成金の年の離れた若き妻、麗子。妖艶な美女だ。
二人目は、成金の主治医である医師の藪内。メガネの奥の目が怪しく光る。
三人目は、成金の甥で売れない画家の祐一。いかにも神経質そうな男だ。
俺は部屋の中央に立ち、トレンチコートの襟をバサァッと翻した。
「ふむ……。部屋に漂うのは、欲望と裏切りの硝煙か。みなさん、初めまして。俺はこの事件の終着駅、私立探偵の鮫島だ」
「ちょっと、そこのトレンチコートの人」
麗子が扇子で口元を隠しながら言った。
「部屋の中でそんな厚着して、さっきから汗が床にボタボタ落ちてますわよ。絨毯が痛むわ」
「フッ……これは汗ではない。事件の真相を前にして、俺の魂が流す涙さ」
「絶対汗です。脱ぎなさいよ、見苦しい」
藪内医師が苦笑しながら突っ込む。出鼻をくじかれたが、俺のハードボイルド・ハートはこれくらいでは砕けない。
「さて、現場検証といこうか」
俺は懐からマイ虫眼鏡を取り出し、床に四つん這いになった。ターゲットは金庫の前の床だ。
「ほう……これは面白い」
「何か見つかったんですか、鮫島さん!」
成金が身を乗り出す。
「この微かな白い粉……」
俺は人差し指で床の粉を舐め、目を細めた。
「……間違いない。これは、トリカブトの毒、いや、それとも……コカインか?」
「それ、さっき私たちが食べたハッピーターンの粉です」
ハルが横から冷たく言い放った。
「鮫島さん、さっき移動中の車内で『ハッピーパウダー最高』って言いながら貪り食ってたじゃないですか。それがコートの袖から落ちただけです」
「……」
容疑者たちの間に、何とも言えない生温かい空気が流れた。
だが、俺の目は死んでいない。なぜなら、俺の超人的な直感が、すでに真犯人を捉えていたからだ。
「みなさん、茶番はここまでだ」
俺は立ち上がり、静かに一同を見回した。
「犯人はこの中にいる。それも、きわめて用意周到に、この金庫のダイヤルロックを解除した人物だ。成金さん、この金庫の暗証番号を知っているのは?」
「私と、妻の麗子、そして主治医の藪内くんだけだ。藪内くんには、もしもの時のために私の遺言書と一緒に番号を預けてあるんだ」
「なるほど。では、甥の祐一さん、あなたには暗証番号は知らされていなかったわけだ」
「ええ、僕がそんな大金に興味を持つはずがないでしょう!」
祐一は不快そうに顔をそむけた。
俺はフッ、と鼻で笑った。
「興味がない、か。だが、あなたが資金繰りに困っていたという噂を聞いている。そして、あなたが持っているその『高級な絵の具の匂い』。今、この部屋に微かに漂っている匂いと同じだ。犯行時、焦って絵の具を金庫に付着させたんじゃないか?」
祐一の顔が引きつった。
「な、何を根拠に……!」
「決まりね!」
麗子が叫んだ。
「祐一、あなたが犯人だったのね! 叔父様の優しさを踏みにじるなんて!」
「待て待て、麗子さん。あなたも怪しい」
俺は麗子に指を突きつけた。
「あなたのその香水の匂い……『シャネルの5番』だろう? 金庫のレバーにも、全く同じ香水の香りが残っている。あなたが昨夜、どさくさに紛れて金を盗み出した。違うか?」
「あら、失礼ね! 私はシャネルなんて安っぽいものは使ってないわ、これはディオールよ!」
麗子が怒髪天を突く。
二人が言い争いを始め、部屋の中は大混乱になった。成金は頭を抱え、藪内医師はおろおろしている。
「鮫島さん」
ハルが俺のトレンチコートの袖を引っ張った。
「なんだハル。今、俺の脳細胞が過去最高速度で回転しているところだ」
「あの……さっきから気になってたんですけど。その、窓の外」
ハルが指さした先──美術品室の大きな窓のすぐ外にある庭の木に、何かが引っかかっていた。
それは、太陽の光を浴びてギラギラと輝く、悪趣味なほど純金製の──『黄金の招き猫』だった。
しかも、その招き猫の首には、大きな黒いカラスが止まっており、必死にそれを突っついていた。招き猫の首元には、パーティーの残りの「ローストビーフの脂身」が紐で巻き付けられている。
「あ」と、成金が声を上げた。
「思い出した。昨夜のパーティーの最後、僕、酔っ払って『カラスをペットにするんだ』って言って、招き猫にエサを縛り付けて庭に置いた気がする……」
部屋全体が凍りついた。
つまり、最初から泥棒などおらず、単に酔っ払った家主の奇行と、エサに釣られたカラスが招き猫を木の上に運んだだけだったのだ。
「な、なんだ……私の勘違いか。ははは、人騒がせなカラスめ」
成金が照れくさそうに頭を掻く。
「なんだよ叔父さん! 僕を泥棒扱いして!」
祐一が怒る。
「私も疑われて心外ですわ!」
麗子も怒る。
誰もが安堵し、あるいは呆れ果て、事件はここに「幕引き」となるはずだった。
「──待て。まだ終わっていない」
俺の低い声が、部屋の空気をピリッと引き締めた。
全員の視線が、再び俺に集まる。
「鮫島さん、もういいじゃないですか。家主のボケだったってことで」
ハルが呆れる。
「いや、ハル。カラスが招き猫を運んだ、それは事実だろう。成金さんが酔ってエサを縛り付けた、それも事実だ。だが……」
俺はゆっくりと歩き、部屋の隅にある『藪内医師』の前に立った。
藪内医師は、一瞬だけ、微かに身を硬くした。
「藪内先生。あなたのポケットに入っている、その『白い手袋』。先ほどから、あなたが何度もポケットの上から触れて確かめているのを、俺の目は見逃さなかった」
「な、何のことかね? 私は医師だ、手袋くらい持っている」
「ただの手袋じゃない。成金さん、あなたの金庫の中には、招き猫の他に何が入っていた?」
「え? ああ、招き猫の台座の裏に、我が家の隠し資産である『無記名の債権一億円分』を張り付けておいたんだが……」
俺は藪内に鋭い視線をぶつけた。
「カラスが持っていったのは、上の『招き猫』だけだ。台座は金庫の中に残されていたはず。しかし、今、金庫の中は完全に空っぽだ。カラスが債権だけを綺麗に剥がして、自分の財布にしまうと思うか?」
一同がハッと息を呑む。
「藪内先生。あなたは昨夜、成金さんが酔っ払って招き猫を庭に持ち出すのを見た。そして、金庫が『開いたまま』になっていることに気づいた。あなたはチャンスだと思い、深夜に美術品室へ忍び込み、台座から一億円の債権だけを剥ぎ取って盗み出した」
俺は続ける。
「そして、今朝、成金さんが『招き猫がない! 泥棒だ!』と騒ぎ出したのを見て、内心狂喜乱舞したはずだ。自分の犯行が、カラスのせいで有耶無耶になるとね」
「ば、馬鹿なことを言うな! 証拠はあるのか!」
藪内が声を荒らげる。
「証拠なら、お前が持っている」
俺は藪内のポケットを指さした。
「その手袋だ。成金さんの金庫の内部には、防犯用の『特殊な蛍光インク』が塗られている。素手で触ればもちろん、手袋で触れても、その繊維にインクが付着する。ハル、俺のバッグからブラックライトを出せ」
「あ、はい!」
ハルが急いでライトを取り出し、俺に手渡した。
俺はライトのスイッチを入れ、藪内のポケットに向けて照射した。
すると、彼の白衣のポケットの縁と、中にある手袋が、鮮やかな『ネオンブルー』に怪しく光り輝いた。
「……っ!?」
藪内はその場にへたり込み、頭を抱えた。
「まさか……そんなインクが仕込まれていたなんて……。私は、ただ、成金さんの資産があまりにも羨ましくて……」
「容疑者確保、だな」
俺は静かにブラックライトをハルに返し、トレンチコートの襟を正した。
「すごい……! すごいよ鮫島くん!」
成金が大喜びで俺の手を握った。
「カラスの勘違いの裏に隠された、本物の犯罪を見抜くなんて!」
「フッ……当然のことをしたまでさ。ハードボイルドな探偵の目は、どんな小さな違和感も見逃さない」
麗子や祐一も、俺を見る目が変わっていた。
「ちょっと見直したわ、暑苦しいコートの探偵さん」
「やるじゃないか、探偵」
俺はニヒルな笑みを浮かべ、ハルに向かってウインクを一つ飛ばした。
ハルは驚いたような顔をしていたが、やがてフッと笑った。
「お見事でした、鮫島さん。でも、一つだけ言っていいですか?」
「なんだ? 美学への称賛なら、後で事務所で聞こう」
「いえ、そのブラックライト、私の『ジェルネイル用のUVライト』です。さっき私が車内でこぼしたネイルの液が、先生のポケットに付いちゃってただけですね。先生、さっき車から降りる時、私の荷物持つ手伝いしてくれたから」
「……え?」
へたり込んでいた藪内医師が、ゆっくりと顔を上げた。
「え? 防犯インク……じゃないの?」
「うちの金庫にそんなハイテクなもの仕込んでないぞ」
成金も首を振る。
部屋の中に、本日二度目の、奇妙な沈黙が流れた。
つまり、俺のハッタリに恐怖した藪内が、勝手に自白してしまったのだ。結果オーライ、完全なる大勝利である。
「……フッ」
俺は溢れ出る冷や汗をトレンチコートの袖で拭い、何事もなかったかのように窓の外を向いた。
「真実は常に、光と影の間に隠されているものさ。……ハル、帰るぞ。次の事件が、俺を待っている」
「はいはい。あ、成金さん、今回の調査費用と、私のネイル代、あとでキッチリ請求書送りますね。
──さあ、行きましょう、天才ハッタリ探偵さん」
夕暮れの街に、俺のトレンチコートが翻る。
この街の事件を解決できるのは、やっぱり俺のようなハードボイルドな男だけなのだ。
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書き手として、AIの使用は、文章を綺麗にしたり、自分の思いの偏りや抜けを教えてもらったりするには、とても便利だ。
物語の壁打ち相手としては最適で、自分より物知りで、かつ自分の物語を嫌がらずに読んでくれる編集者が、常に隣にいてくれるようなものだ。
けれど、読み手としては、もしもAIだけで書かれた文章が目の前にあれば、読む価値は薄いと感じる。
なぜなら、私が物語やエッセイを手に取る動機は、作家本人の頭の中を覗いてみたいという欲求だからだ。
その人が何を見て、何を思ったのか。何を悩み、どう飲み込もうとしたのか。それが知りたい。
AIの作った物語では、例えばハリー・ポッターのような、誰かの夢の中に迷い込んだかのような錯覚は、きっと得られないだろう。
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「高橋さん、今日のお昼どうします?」
同僚の女がPC越しにリュウジに声をかけた午前の端くれ。
「向かいに出来た中華屋さん、今日からでしょ。そこ行こうと思ってる」
リュウジは女の視線を促すように窓の外へ顔を向けた。
「あれ、そんなの出来てましたっけ? あ、ほんとだ」
オフィス街の路面店などよほどの老舗でもない限りは入れ代わり立ち代わる物である。日常の小さなサプライズと言えなくもないが、オープンさせる当の本人には一世一代の大勝負なんだろうなと、リュウジはビルの5階から涎をこさえて見下ろす。
その時、新店オープンの中華屋の隣のビルに女が入っていくのが目についた。ショートカットの華奢な感じでオフィスカジュアルで可愛げな雰囲気はリュウジの意識を十分に惹き付けた。
アパレル系? そもそもどこの会社が入ってたっけ?
うまく顔が見えなかったことが嫌に惜しく思え、あと送信するだけのメール画面のままリュウジの午前の仕事は終える。
中華屋はぞろりと並んでいた。まぁ当然かとリュウジは大して驚きもしなかったが、先ほど目についた女がどうしても気になりコンビニで昼食を買った。パンを齧りながらデスクにつき、呆けながらビルの出入り口を見張る。
女は夕方まで出て来なかった。さらに一度見ただけの女に気を取られ過ぎたリュウジは残業をする羽目になる。そうして仕事を終えたのは午後8時過ぎ。なにやってんだと空に悪態を吐きながらも、女の入っていったビルの下で足を止めた。
ビルの案内板は全て空欄。入り口階段の電灯は健気に働いている。
警備員がいる様子もなく、別に不法侵入にもならないだろうと、リュウジはその階段を昇る。埃くささと湿った空気に二度三度蒸せ返る。どのフロアもアルミ扉が3つあるだけの同じ作り。3階までの全ての扉はしっかりと施錠されていた。
いい加減次の階で諦めようとリュウジは4階に進む。4階に着くとまだ上階があることにリュウジは一つ大きく息を吐いた。なんでエレベーターが無いんだと、漏らしたところで、
「こんばんは」
と、背後から男性の声がする。
「どちら様で?」
アルミ扉のどれかから出てきたと思われるスーツ姿の初老の男は、柔らかな表情で尋く。
「あ、すみません、ちょっと」
とリュウジは乾いた口で答える。
初老の男は表情を変えず首を傾げ、何か御用ですかと無言で催促する。
「あ、あの、私向かいのビルで働いているんですけど、ここ何の会社が入ってたかなぁと、ふと、そう思いまして」
「それは素晴らしい。このビルには我々だけですよ」
素晴らしい? いやそれよりも、我々ということはやはり昼間の女はここの社員か。
「失礼ですが、どんな事業をされているのですか? あ、営業とかではなくてほんの好奇心です」
「スライムを研究しております」
「スライム? スライムってあの山とか海とかにいる、あのスライムでしょうか?」
初老の男は孫の質問に応じるかのように、いかにも優しく微笑を作ってみせた。
「ご覧になりますか?」
そういって手前のアルミ扉の鍵を開ける。
扉の先はいくつかのデスクとPCにプリンター、書類棚だけの殺風景なオフィスだった。スライムの標本でもあるのかと期待したリュウジは、一頻り見た後で聞こえないようにはぁと声を漏らした。
「あなたは何故スライムが存在しているとお考えですか?」
椅子にかけるよう促しながら初老の男も椅子にかける。
「なぜ、と言われましても。それは、例えば、何故鳥が存在するかと同じ質問のように思えますが」
「スライムは何を食べるかご存知でしょうか?」
「スライムは何も食べないでしょう。小学校で習いますよ。無害だと」
「そう。仰る通り。おかしいと思いませんか?」
「おかしい?」
「鳥は虫を食べます。虫は植物を食べます。植物は土から栄養を得て水で育ちます。ではスライムは?」
「それこそ、土や光や水で生かされているのでは?」
「いいえ、スライムは何も食べません。あなた、今『生かされている』と仰いました?」
「はい。まぁちょっと語弊がありまーー」
「誰に?」
初老の男は嬉しそうに口角を上げる。リュウジは首筋が冷たく粟立つのを感じ、背を正した。
「……誰、というのは?」
「我々の現時点での見解を申しますと、スライムは世界間の調整者、という説が濃厚です」
「世界間? 宇宙、ということですか?」
「いいえ。宇宙ではありません。この世界がいくつもある、と今は仮想してみてください」
「うん? えっと……━━」
「ほんの2000年前。神や魔の時代が事実であるならば、伝記にある様々な事象はあらゆる物理を無視して神々によって行われています。当然そんなことは許されない。物理法則には原則と限界があります。例えば宇宙空間であっても光の速さを超越出来ないのはルールです。光が出て来れないブラックホールですらその理の上に存在します。しかし、実際に、山は抉られ、地質学上あり得ない場所に川があり、無限ともされる不可侵の穴が開いていたりする」
「はぁ……」
「この違和感の根底には質量とエネルギーは正しく置換されるべき、という主観が確かにありますが、考えれば考えるほど、そうでなくては世界は形状を保てない筈なのですよ」
「ちょっと、お話のスケールが……。それで、スライムは」
「我々はその神が消費したエネルギーはどこから来たのかを探求しております。そしておそらく、ですが、そのエネルギーは他の世界の物を消費している。お金の信用借りの循環を思い出していただきたい。スライムはエネルギーを世界間を跨いで再分配している装置なのでは、と。つまり神の尻ぬぐいを何千年もさせらていることになります。何を言っているのかとお考えでしょうが、あなたがここを認識出来たということがまず素晴らしい」
「認識? えっと、幽霊じゃ、ないですよね?」
「スライムと同じです。誰も、いや多くの人はスライムを不思議に思わない。そう認識するよう設定されているかのように。我々の研究は神の意に反するのでしょう。あるいは意地の悪い魔王か。どこで研究しようが我々の研究所は人々の認識の外に置かれるのです」
「あぁ、えっと、そうですか。勉強になりました」
喉が張り付きそうな程口を乾かしたリュウジは、不躾など知ったことかと、初老の男から逃げるようにオフィスを出た。
とんでもないオカルトに出会ってしまったと、リュウジは不快な汗で湿った胸を掻きむしりたい欲求に駆られながらかけ落ちるように階段を下る。
通りに出ると何処からともなく炭と肉と煙の香り。ああ、とリュウジはたまらなくビールを欲した。
あの女を追うのはもう止めようと、今出てきたビルを見上げる。
そのビルは高く高く、雲を貫いていた。
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