コメディ・日常

蝉時雨の向こう側

1,130文字 約3分で読了
作者:綴
「つーかーれーたー」 ミーンミーンと蝉の声が煩い。 八田の嘆きは、蝉の大合唱に打ち消された。 「何て?」 「だーかーらー! 疲れたって! 陰で休もーぜ!」 「…………そうやって、さっきから休んでばかりじゃないか。 いつになったら目的地に着くんだ」 山瀬の顔が険しくなる。 「大体、限定グッズがどうとかって言い出したのはお前の方だろう。 この調子じゃ、今日は諦めた方がいいんじゃないか」 山瀬が腕を組み、八田を睨んだ。 「あちーもんはあちーもん! 無理! 休むぅう!!」 八田は数少ない影を目がけて走り出した。 「……ったく。 昼間に歩くなら帽子か日傘でも用意しろよ。 準備不足なんだよ」 山瀬が舌打ちをする。 「おーん? 山瀬だって用意してないじゃん!」 「俺はお前に急に呼び出されたんだから、用意してるわけないだろ」 「行き先聞けば良かったじゃん」 「……駅からこんなに歩くとは思わないだろ…… 十五分かけて歩いてもまだ半分だぞ…… っ、バスもねぇしよ……!」 山瀬の眉間のシワが深くなる。 「まーまー、そんなに怒るなって! な?」 「はぁ!? 誰のせいだと……!」 「あ! ジュースめっけ!」 「コラ、聞けや!」 脱兎の如く自動販売機に向かって走っていく八田の背中に、山瀬は声を投げつけた。 「山瀬ー! ……と……?」 「何て!?」 煩く鳴く蝉の声で、八田の声は殆ど掻き消されて届かない。 山瀬は大きくため息をつき、汗で胸元に張り付いた服をパタパタとさせた。 淡いグレーのシャツが、いくつも濃いシミを作っていた。 山瀬は一度天を仰ぐと、八田の元に歩いた。 「早くー」 トボトボとやる気のない山瀬の歩速に、八田からの叱咤が入る。 「コーラとコーラとコーラ! どれがいい?」 八田はニカッと笑って、山瀬の首元にペットボトルを一本あてた。 「冷てっ! ……いや、それは全部コーラだろ」 「いや、これは普通の!これはゼロシュガー!これは……」 「あー、はいはい。普通ので」 山瀬は八田から赤いキャップのコーラを受け取ると、蓋を開けて口をつけた。 喉を通る冷たい水分と、強めの炭酸の泡が心地良い。 山瀬は一気にペットボトルの半分を飲み干した。 「……イベント、何時まで」 「おー? んと、17時まで?」 「あと30分はあるな。……ギリギリだ」 「走ったら間に合う」 八田が山瀬に向かってグーサインを出す。 「……走れるか?」 「おーよ! これ飲んでからな!」 「……コケるなよ」 「あはは! 馬鹿にすんな!」 八田は大きく山瀬の背中を叩いた。 「後で疲れたって泣くなよ」 山瀬が八田を肘で小突く。 「ダイジョーブだって!」 「……お前の大丈夫は大丈夫じゃないんだよなぁ……」 蝉の声が煩くて。 山瀬の声は溶けるように消えていった。 「何て?」 「……何でもない。行くぞ」 残りのコーラを飲み干して、山瀬は一歩踏み出した。
2026/09/27 ・ 👁️ 61回 ・ 💬 0件

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