ミステリー・サスペンス
ハードボイルド探偵、鮫島蓮
4,784文字
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この街は、淹れたてのブラックコーヒーよりも苦い。
俺の名は鮫島蓮。
この錆びついた街の片隅で、しがない探偵事務所を営んでいる。
男がハードボイルドであるためには、三つの条件が必要だ。冷徹なまでの冷静さ、揺るぎない独自の美学、そして何があってもめくれない強固なトレンチコート。
「あの、鮫島さん。今日、最高気温三十五度って天気予報で言ってたんですけど、そのコート、いい加減脱いだらどうですか?」
デスクの向かい側から、冷ややかな声が飛んでくる。
声の主は、我が探偵事務所の唯一の事務員であり、冷酷な現実主義者でもある女子大生のハルだ。
彼女はハンディファンを最大風量で顔に当てながら、俺をゴミを見るような目で見つめている。
「フッ……ハル、お前にはまだわからないか。ハードボイルドとは、気候に魂を売らないことだ。たとえ太陽が俺を焼き尽くそうとも、このコートこそが俺の鎧──」
「あ、背中、めちゃくちゃ汗染みできてますよ。塩吹いてます」
「……」
俺は静かにコーヒーカップを口に運んだ。中身はただの麦茶だが、気分は常にビターなモカだ。
その時、事務所のドアが勢いよく開き、一人の男が飛び込んできた。
高級そうなスーツに身を包んでいるが、その髪は乱れ、顔は青ざめている。男の名は成金大作。
このエリア一帯の大地主であり、俺たちの数少ない「まともに金を払ってくれる上客」の一人だった。
「鮫島くん! 大変だ! 泥棒だ! 我が家に代々伝わる国宝級の家宝『黄金の招き猫』が盗まれたんだ!」
成金はデスクに両手を突き、息を荒くした。
俺は慌てず、椅子の背もたれに深く寄りかかり、タバコ、の形をしたココアシガレットを口にくわえた。
「落ち着け、成金さん。事件の香りが強すぎて、俺の五感が悲鳴を上げている。……で、その泥棒の足取りは?」
「それが、今朝、美術品室の金庫を開けたら空っぽだったんだ! どうか、私の家に来て犯人を暴いてくれ!」
俺はココアシガレットをボリボリと噛み砕き、ニヒルな笑みを浮かべた。
「いいだろう。この鮫島蓮の辞書に『未解決』の文字はない。ハル、行くぞ。現場が俺を呼んでいる」
「はいはい。成金さん、冷たいお茶どうぞ。鮫島さん、コートの背中、本当に汚いからせめて叩いてから行ってくださいね」
◆
成金の大邸宅。その美術品室は、いかにも金持ちといった悪趣味な絵画や骨董品で溢れていた。
すでに部屋には、昨夜のパーティーの居残り組、あるいは成金の親族らしき三人の男女が集められていた。
一人目は、成金の年の離れた若き妻、麗子。妖艶な美女だ。
二人目は、成金の主治医である医師の藪内。メガネの奥の目が怪しく光る。
三人目は、成金の甥で売れない画家の祐一。いかにも神経質そうな男だ。
俺は部屋の中央に立ち、トレンチコートの襟をバサァッと翻した。
「ふむ……。部屋に漂うのは、欲望と裏切りの硝煙か。みなさん、初めまして。俺はこの事件の終着駅、私立探偵の鮫島だ」
「ちょっと、そこのトレンチコートの人」
麗子が扇子で口元を隠しながら言った。
「部屋の中でそんな厚着して、さっきから汗が床にボタボタ落ちてますわよ。絨毯が痛むわ」
「フッ……これは汗ではない。事件の真相を前にして、俺の魂が流す涙さ」
「絶対汗です。脱ぎなさいよ、見苦しい」
藪内医師が苦笑しながら突っ込む。出鼻をくじかれたが、俺のハードボイルド・ハートはこれくらいでは砕けない。
「さて、現場検証といこうか」
俺は懐からマイ虫眼鏡を取り出し、床に四つん這いになった。ターゲットは金庫の前の床だ。
「ほう……これは面白い」
「何か見つかったんですか、鮫島さん!」
成金が身を乗り出す。
「この微かな白い粉……」
俺は人差し指で床の粉を舐め、目を細めた。
「……間違いない。これは、トリカブトの毒、いや、それとも……コカインか?」
「それ、さっき私たちが食べたハッピーターンの粉です」
ハルが横から冷たく言い放った。
「鮫島さん、さっき移動中の車内で『ハッピーパウダー最高』って言いながら貪り食ってたじゃないですか。それがコートの袖から落ちただけです」
「……」
容疑者たちの間に、何とも言えない生温かい空気が流れた。
だが、俺の目は死んでいない。なぜなら、俺の超人的な直感が、すでに真犯人を捉えていたからだ。
「みなさん、茶番はここまでだ」
俺は立ち上がり、静かに一同を見回した。
「犯人はこの中にいる。それも、きわめて用意周到に、この金庫のダイヤルロックを解除した人物だ。成金さん、この金庫の暗証番号を知っているのは?」
「私と、妻の麗子、そして主治医の藪内くんだけだ。藪内くんには、もしもの時のために私の遺言書と一緒に番号を預けてあるんだ」
「なるほど。では、甥の祐一さん、あなたには暗証番号は知らされていなかったわけだ」
「ええ、僕がそんな大金に興味を持つはずがないでしょう!」
祐一は不快そうに顔をそむけた。
俺はフッ、と鼻で笑った。
「興味がない、か。だが、あなたが資金繰りに困っていたという噂を聞いている。そして、あなたが持っているその『高級な絵の具の匂い』。今、この部屋に微かに漂っている匂いと同じだ。犯行時、焦って絵の具を金庫に付着させたんじゃないか?」
祐一の顔が引きつった。
「な、何を根拠に……!」
「決まりね!」
麗子が叫んだ。
「祐一、あなたが犯人だったのね! 叔父様の優しさを踏みにじるなんて!」
「待て待て、麗子さん。あなたも怪しい」
俺は麗子に指を突きつけた。
「あなたのその香水の匂い……『シャネルの5番』だろう? 金庫のレバーにも、全く同じ香水の香りが残っている。あなたが昨夜、どさくさに紛れて金を盗み出した。違うか?」
「あら、失礼ね! 私はシャネルなんて安っぽいものは使ってないわ、これはディオールよ!」
麗子が怒髪天を突く。
二人が言い争いを始め、部屋の中は大混乱になった。成金は頭を抱え、藪内医師はおろおろしている。
「鮫島さん」
ハルが俺のトレンチコートの袖を引っ張った。
「なんだハル。今、俺の脳細胞が過去最高速度で回転しているところだ」
「あの……さっきから気になってたんですけど。その、窓の外」
ハルが指さした先──美術品室の大きな窓のすぐ外にある庭の木に、何かが引っかかっていた。
それは、太陽の光を浴びてギラギラと輝く、悪趣味なほど純金製の──『黄金の招き猫』だった。
しかも、その招き猫の首には、大きな黒いカラスが止まっており、必死にそれを突っついていた。招き猫の首元には、パーティーの残りの「ローストビーフの脂身」が紐で巻き付けられている。
「あ」と、成金が声を上げた。
「思い出した。昨夜のパーティーの最後、僕、酔っ払って『カラスをペットにするんだ』って言って、招き猫にエサを縛り付けて庭に置いた気がする……」
部屋全体が凍りついた。
つまり、最初から泥棒などおらず、単に酔っ払った家主の奇行と、エサに釣られたカラスが招き猫を木の上に運んだだけだったのだ。
「な、なんだ……私の勘違いか。ははは、人騒がせなカラスめ」
成金が照れくさそうに頭を掻く。
「なんだよ叔父さん! 僕を泥棒扱いして!」
祐一が怒る。
「私も疑われて心外ですわ!」
麗子も怒る。
誰もが安堵し、あるいは呆れ果て、事件はここに「幕引き」となるはずだった。
「──待て。まだ終わっていない」
俺の低い声が、部屋の空気をピリッと引き締めた。
全員の視線が、再び俺に集まる。
「鮫島さん、もういいじゃないですか。家主のボケだったってことで」
ハルが呆れる。
「いや、ハル。カラスが招き猫を運んだ、それは事実だろう。成金さんが酔ってエサを縛り付けた、それも事実だ。だが……」
俺はゆっくりと歩き、部屋の隅にある『藪内医師』の前に立った。
藪内医師は、一瞬だけ、微かに身を硬くした。
「藪内先生。あなたのポケットに入っている、その『白い手袋』。先ほどから、あなたが何度もポケットの上から触れて確かめているのを、俺の目は見逃さなかった」
「な、何のことかね? 私は医師だ、手袋くらい持っている」
「ただの手袋じゃない。成金さん、あなたの金庫の中には、招き猫の他に何が入っていた?」
「え? ああ、招き猫の台座の裏に、我が家の隠し資産である『無記名の債権一億円分』を張り付けておいたんだが……」
俺は藪内に鋭い視線をぶつけた。
「カラスが持っていったのは、上の『招き猫』だけだ。台座は金庫の中に残されていたはず。しかし、今、金庫の中は完全に空っぽだ。カラスが債権だけを綺麗に剥がして、自分の財布にしまうと思うか?」
一同がハッと息を呑む。
「藪内先生。あなたは昨夜、成金さんが酔っ払って招き猫を庭に持ち出すのを見た。そして、金庫が『開いたまま』になっていることに気づいた。あなたはチャンスだと思い、深夜に美術品室へ忍び込み、台座から一億円の債権だけを剥ぎ取って盗み出した」
俺は続ける。
「そして、今朝、成金さんが『招き猫がない! 泥棒だ!』と騒ぎ出したのを見て、内心狂喜乱舞したはずだ。自分の犯行が、カラスのせいで有耶無耶になるとね」
「ば、馬鹿なことを言うな! 証拠はあるのか!」
藪内が声を荒らげる。
「証拠なら、お前が持っている」
俺は藪内のポケットを指さした。
「その手袋だ。成金さんの金庫の内部には、防犯用の『特殊な蛍光インク』が塗られている。素手で触ればもちろん、手袋で触れても、その繊維にインクが付着する。ハル、俺のバッグからブラックライトを出せ」
「あ、はい!」
ハルが急いでライトを取り出し、俺に手渡した。
俺はライトのスイッチを入れ、藪内のポケットに向けて照射した。
すると、彼の白衣のポケットの縁と、中にある手袋が、鮮やかな『ネオンブルー』に怪しく光り輝いた。
「……っ!?」
藪内はその場にへたり込み、頭を抱えた。
「まさか……そんなインクが仕込まれていたなんて……。私は、ただ、成金さんの資産があまりにも羨ましくて……」
「容疑者確保、だな」
俺は静かにブラックライトをハルに返し、トレンチコートの襟を正した。
「すごい……! すごいよ鮫島くん!」
成金が大喜びで俺の手を握った。
「カラスの勘違いの裏に隠された、本物の犯罪を見抜くなんて!」
「フッ……当然のことをしたまでさ。ハードボイルドな探偵の目は、どんな小さな違和感も見逃さない」
麗子や祐一も、俺を見る目が変わっていた。
「ちょっと見直したわ、暑苦しいコートの探偵さん」
「やるじゃないか、探偵」
俺はニヒルな笑みを浮かべ、ハルに向かってウインクを一つ飛ばした。
ハルは驚いたような顔をしていたが、やがてフッと笑った。
「お見事でした、鮫島さん。でも、一つだけ言っていいですか?」
「なんだ? 美学への称賛なら、後で事務所で聞こう」
「いえ、そのブラックライト、私の『ジェルネイル用のUVライト』です。さっき私が車内でこぼしたネイルの液が、先生のポケットに付いちゃってただけですね。先生、さっき車から降りる時、私の荷物持つ手伝いしてくれたから」
「……え?」
へたり込んでいた藪内医師が、ゆっくりと顔を上げた。
「え? 防犯インク……じゃないの?」
「うちの金庫にそんなハイテクなもの仕込んでないぞ」
成金も首を振る。
部屋の中に、本日二度目の、奇妙な沈黙が流れた。
つまり、俺のハッタリに恐怖した藪内が、勝手に自白してしまったのだ。結果オーライ、完全なる大勝利である。
「……フッ」
俺は溢れ出る冷や汗をトレンチコートの袖で拭い、何事もなかったかのように窓の外を向いた。
「真実は常に、光と影の間に隠されているものさ。……ハル、帰るぞ。次の事件が、俺を待っている」
「はいはい。あ、成金さん、今回の調査費用と、私のネイル代、あとでキッチリ請求書送りますね。
──さあ、行きましょう、天才ハッタリ探偵さん」
夕暮れの街に、俺のトレンチコートが翻る。
この街の事件を解決できるのは、やっぱり俺のようなハードボイルドな男だけなのだ。
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