空は見事な快晴だ。
彼女は自分のことを晴れ女だと思っている。重要なイベントの日は決まって晴天になるからだ。
今日は、かつて好意を寄せていた男性の結婚式だ。彼が絶世の美女を伴侶に選んだと聞き、彼女はポジティブな感情を抱いている。
さすがは自分が一度は惹かれた男だ。相手が素晴らしい女性なら、自分の過去の選択も間違いではなかったと感じる。
彼女は晴れやかな気分で家を出た。
窓の外は土砂降りだ。
彼女は自分を雨女だと思っている。重要な行事の日は決まって雨が降るからだ。
今日は、かつて密かに心を寄せた男性の結婚式だ。彼女の胸中にはネガティブな感情が渦巻いている。彼への気持ちは整理をつけたつもりだったが、別の女性と結ばれるという事実を素直に喜べないでいる。
彼女は湿った傘を手に、憂鬱な気持ちで家を出た。
二人はそれぞれ別の場所から、同じ式場へと向かっていた。式場に近づくにつれて、天候に変化が生じた。
晴れ女の頭上では、青空が急速に灰色の雲に覆われ始めた。
雨女の頭上では、打ち付けていた雨粒が次第に姿を消していった。
式場に到着して、晴れ女は空を見上げた。彼女が参加するイベントで晴天にならないことは極めて珍しい。
雨女は窓の外を見ていた。自分が参加するイベントで雨が降らないのを不思議に思っていた。
開式の時刻を迎え、新郎と花嫁が入場した。
参列者の視線が花嫁に集まった。
噂通りの絶世の美女であった。透き通るような白い肌。色素の薄い瞳。その静かな佇まいは、人間離れした美しさを放っている。
窓の外を舞い落ちる、季節外れの白い結晶。
二人は納得した。自分のささやかな天候のジンクスなど通用するはずがない。
『本物』に格の違いを思い知らされた。
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我望むあの日の君の春の世に
花ほころびて再会の時
その時に想ひを伝えよう。
だからどうかそれまで待っていて欲しい。
古びた写真の裏にはそう書かれていた。
その写真が一体いつからあるのか、写真に写っているのが誰なのか、一体誰が書いた言葉なのか、僕も家族も誰も知らない。
その写真は書斎の奥から見つかった。
写真には微笑む乙女の姿が映し出されていた。
だから思いもしなかった。その写真にそっくりな女性にこれから出会うことになるなんて。
高校の入学式。
満開の桜の下、これからの学校生活を送る同級生たちと初めて顔を合わせる。新しく着た高校のブレザーはまだ借り物みたいで、どことなく着心地が悪い感じがした。これから始まる高校生活に戸惑いがないと言えば嘘になる。地元からは少し離れた私立高校であるため同級生に知っている顔はいない。
ほころぶ花と舞い散る花びら。
花びらが黒髪にかかり、笑う乙女の姿が僕の目の中に飛び込んできた。僕はその姿を知っている。
微笑む乙女はあの写真と生き写しだったからだ。
驚きのあまり呼吸ができなくなる。
彼女の姿を映したものだったのか……?
いやそんなはずはない。
あの写真はモノクロで古ぼけていて、撮られたのはおそらく家族の中の誰も知らないほど昔だ。
だけど他人の空似というにはあまりにも写真の中の乙女とその姿が一致する。
彼女が僕の視線に気がついてこちらに振り向いた。
僕は気まずくなって軽く会釈をすると後ろを向いて足早にその場から立ち去った。
今日は半日授業、入学式が終わったら家に帰る。
帰りの電車の中でずっと彼女のことを考えていた。家に帰ったら確認しよう。
すぐに書斎の写真を探す。
……やっぱりそっくりだ。
心臓が高鳴る。
写真はモノクロだったけれど、まるで抜け出てきたようにそっくりな女性。写真の中の微笑む乙女と今日出会った女の子の笑顔が重なる。
舞い落ちる桜の花びら微笑む彼女の姿。
心臓の鼓動が早くなる。
一体彼女は誰なのだろう?
僕はその写真をこっそりと持ち出した。
翌日、しばらくためらった後写真をカバンの中に入れる。
思ったほど似ていないかもしれない。昨日はそっくりだと思ったけどそんなことはないのかもしれない。僕の思い過ごしに違いない。心の中でそう唱えカバンを背負って家を出る。
それだというのにずっとドキドキしている。
やがて電車は止まり僕は高校に向かって歩き出した。
教室に入ると彼女の姿が見えた。
やはり似ている。いや似ているなんてもんじゃない、写真の中の乙女がもし現代にいたらきっとこんな感じだろう。
その姿は生き写しだった。
席順が決まり、隣の席に彼女が座った。
「君、昨日私のこと見てたでしょ?」
放課後、彼女の方から僕に声をかけてきた。
「いや、その」
気まずくなって、しどろもどろになってしまう。
「仲良くしてね!里中君」
笑う笑顔は、写真の中の乙女よりもさらに魅力的にいきいきと輝いていた。
僕の心臓はますます早くなる。
家に帰って写真の中の乙女を眺めた。
一体これは誰の写真だったのだろう。
祖父が言うにはおそらく、曽祖父かその兄弟だろうということだった。昭和の初期ぐらい町の写真館では街で評判の美人のブロマイドなんかを売っていたらしい。
おそらくそのブロマイドの一枚だろうと話していた。
真実は分からないけれど……
5月になって僕と彼女はずいぶんと仲が良くなった。
ある時に思い切ってあの写真を見せてみた。
「あー、これ多分ひいおばあちゃんだと思う」
彼女は笑顔でそう言った。
「同じ写真が家にあるんだ!何枚か似たような写真も。写真館でモデルを頼まれたみたい」
「そうなんだ」
彼女は裏に書いてあるメッセージを眺める。
「これって里中君のひいおじいちゃんが書いたの?」
「分からない。もしかしたらひいおじいちゃんの兄弟かも、戦争に行って亡くなったって聞いてるから」
「もしかしたら、里中君の大おじさんと私のひいおばあちゃん恋人同士だったのかな」
「そうかもしれないし、片思いだったかもしれない」
「そっか……そうだね」
「生きていたらもしかしたら私と里中君親戚だったかもしれないね。あ、でもその時は私もしかして生まれてない?」
あっけらかんとそう話す彼女に僕はちょっとだけ苦笑いした。
「それは困るね」
「そうだね!」
彼女の笑い声が楽しそうに響いた。
僕たちは未来に向かって生きていく。
――あの写真のその先の未来へ。
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「卒業式が終わったらさ、一緒に出かけない?」
「いいよ、どこに行く?」
私がそう言うと彼女は科学館のチケットを出した。
それと一緒に催されるプラネタリウムのチラシもセットで。
「一緒に見に行こうよ」
「うん、いいよ」
彼女が好きなのは天体観測、星占い、こういった天文学専門のイベント。私の周りでそんな風な友人はそれまでおらず、彼女と仲良くなった時にちょっと戸惑ったりもした。
いわゆる、リケジョになるのだろうか……?
高校の進学先も物理や天文学の授業に特化した私立高で私は家の近くの高校。3学期が終われば私たちは離れ離れになる。
残すところあと3日の中学生活。
昨日やっと合格発表を聞いて私はすっかり気合が抜けていた。ほっとしたけれど、彼女と離れ離れになってしまうのは心の底から寂しかった。
一緒に地元の高校に通う友人もいるけれど、一番仲がいい彼女はいないのだ。
胸の内にポツンと冷たい氷の塊が残っているような気がした。
だが、思い悩んでも残すところあと3日。
彼女は私立校に行ってしまうから来週からは引っ越しで忙しい。
自分のなりたい目標のため、まっすぐと前を見て勉強して、4月からの新生活に備えている彼女。
私はと言うと妥協で家の近くの高校。家から通えるし、中学の友達も半数以上は同じ高校に上がる。
それも悪くないのかもしれないけれど、彼女のような明確な将来の目標というのはまだない。
高校の3年間のうちに考えればいいか、ぐらいのゆるい考え方だ。私は彼女から受け取ったパンフレットを見る。
……プラネタリウムか。
正直見に行ったことはない。家の外でも星座ぐらいは見ることができる。とはいえ天の川は見えないし、満天の星空というのはあくまで想像の中でしか存在しない。
残りの3日間、クラスの仲間たちと 先生達に対するちょっとしたイベントを考えてみたり、黒板でみんなにメッセージを書き合ったり、そうそうプロフィール帳の交換なんて言うのもしてみた。ノートにみんな思い思いのメッセージが書き込んであって それを眺めながら3年間のことを思い出す。
クラス替えは毎年あったし仲良くなる子はその都度変わった。でも彼女とだけはずっと仲が良かった。毎日手をつないで帰った。彼女の話を聞くのは面白くて、私はちょっと口下手だからひたすら彼女の話を聞いて「うんうん」とうなずいているばかりだったっけ。
あっという間に3日後の卒業式当日がやってきた。
3月の風はまだ冷たく、桜はまだ蕾が硬い。校庭に水仙の花が咲いていて甘い香りが漂っていた。
みんなで何回も何回も写真を撮って、泣いてる子もいたけれど私は涙が出なかった。
母に話して彼女と一緒に電車に乗った。
時間は昼過ぎ。駅のホームの売店でおにぎりを買って食べる。
冷たくてあまり美味しいとは言えないけれど、それでも良かった。一緒に電車に乗りながら流れて行く風景を眺める。
これから行く科学館を楽しみにしていたけど、この時間が終わってしまえばもう彼女と会うことは滅多にないのだろう。
それを思うと胸の中の冷たい氷はすっかり心を冷やしてしまう。
やがて目的地に着いた。
そこまで人は多くはないが、プラネタリウムの方はかなり人が入っている。係員の方に促されるまま私たちは真ん中のあたりの席に座った。
あたりがシンと暗くなっていく。
心地よい音楽と優しい語り口調。
プラネタリウムは確かに眠くなる空間かもしれない。
だが初めて見る満天の星空は、たとえそれが作り物だったとしても美しくあまりに魅力的な世界を映し出していたのだ。
私は息を飲んだ。
街の明かりが消えた世界はこんなにも美しいのか。
私たちがいつも見ている世界は、本当は大切なものは覆われて何も見えていないのかもしれない。
子供心にそんなことを考えた。
ふと隣の彼女を見た。
暗くてよくは見えないが、目を輝かせプラネタリウムの映像の星空の世界に入り込んでいるのがわかった。
彼女が愛してやまない、天文学の世界がそこには広がっているのだ。
目に見えるものはほんの少しかもしれない。
普段の私たちの街の中では一等星ぐらいしか夜に見えない。
けれど本当はこの映像のプラネタリウムのように無数の星々が輝いている。
溶けた光の天の川銀河。
かすかな点のようにしか見えないアンドロメダ銀河。
人間の肉眼では決してみることのできない無数の銀河たち。
それを彼女は見ているのだ。
見えなくても見ているのだ。
胸の中の氷の塊は溶けるどころかほんの少し大きくなったような気がした。
プラネタリウムの時間は30分あっという間に終わってしまう。
「終わっちゃったね」
「うん」
「どうする?あんまり遅くなるとお母さんたち心配するし、アメニティグッズ買って帰ろっか!」
「そうだね」
彼女はキーホルダーを2個買った。
「はい!今日の記念だよ」
キラキラとした笑顔で私に渡す。
「ありがとう……」
鞄につけるといつものように2人で手をつないで帰る道。
「高校に行ってもさ、またメールするから!」
「ありがとう、私もする」
「ずっと親友でいようね!」
「うん、そうだね」
本当のことを言うと高校に行ってしまえばきっと連絡は少なくなってしまうと思う。もしかしたら、これきりかもしれない。
だが 彼女の手のぬくもりが伝わってきて、心の中にあった氷は小さくなってゆくような気がした。
冬の終わり、四月になればお互いに新しい生活。
電車に揺られての帰り道。
やがて駅について彼女とお別れ。
手を振る彼女を見送りながら寂しさが胸を覆い尽くす。
私は鞄の中のスマホを握りしめた。
あぁは言ったけれど、私はメールを出したりするのは本当は苦手だ。今まで出せずに削除したメッセージはどれほどあるだろう。
ピピピピピピピッ
着信音。
慌てて確認する。
彼女からだ!
『今日は楽しかったね!』
短いメッセージとともに、たくさんの写真、たくさんの笑顔。
それは私の胸の氷を完全に溶かしてしまった。
春はもう少し先。
甘い水仙の香りが辺りに漂っていた。
続きを読む
屋上の扉を開けると暖かな春の風が頬を抜けて行く。
男の人の後ろ姿、同期入社の桜井君だ。
「隣いいかな?」
「え?あ、どうぞ」
桜井君はちょっと戸惑ったようにそう言った。
「いつもここで食べてるの?」
「いや、いつもってわけじゃないよ。本当は下の桜の木のところで食べようと思ったんだけど昨日雨降っただろ。びしょびしょになっててさ。でもここなら桜を見ながら食べれるし、今日は天気もいいからな」
2階の屋上は下に生えている彼岸桜の枝が伸びて金網に当たっている。花が手に届くところに咲いていて、それはそれで風情があって良いかもしれないなと思った。
「如月さんも弁当?」
「うん今日はね」
私は弁当包みを開いた。
目玉焼きにウインナー、ご飯はそのままでふりかけ付け合わせにブロッコリー。いつものオーソドックスなメニュー。
「自炊してんの?うまそうじゃん!」
「まあ、これぐらいはね」
正直に言うと平凡なお弁当の中身は大して美味しそうでもない。朝から凝ったものを作っている時間はないから仕方がないと言えば仕方がないのだが。
「仕事慣れた?」
「いや、全然」
桜井君は苦笑いしてそう言った。
「私も。四月になったら後輩ができるのにね!」
「まだ俺らも新人みたいなもんなのに、新人の指導とかきついよな」
そろそろ私たちが入社してから1年だ。
彼岸桜の花びらがかすかに舞い上がり、遠くの空まで飛んで行く。その途端水筒がひっくり返り慌てて桜井君は蓋を閉めた。
手元に時計をしているのが見えた。
「へぇ、随分いい時計してるじゃん」
そう言うと桜井君はちょっと恥ずかしそうな顔をする。
「わかる?」
「実はね、うちの父親が同じやつ持ってる」
「あーそうなんだ」
何十万かするらしく父はその時計がお気に入りだった。
「実はこれ、うちのひい爺ちゃんの工房で作ってたやつなんだ」
「えー本当⁉」
「うん、子供の頃にさぁ、ひい爺ちゃんの工房を継ぐのが夢だったんだけど、なかなか思い通りにいかないよな」
そう言って照れた笑みを浮かべる桜井君。
「そうなんだ、かっこいいね!」
「いや継げてないからかっこよくはないだろ」
「そんなことないよ!私はそんな夢なんて持ってなかったもの」
私はちょっとだけ嘘をついた。
本当は子供の頃 アイドルになりたかった。けれどそんな子供じみた夢を口にするのが恥ずかしかった。
「……子供の頃ひい爺ちゃんの工房にはさ、壊れた時計とかがいっぱいあってな。それを修理するひい爺ちゃんがすごくかっこよくて、俺も大きくなったらそんな風になりたいなって思っていたけど」
「それすごくかっこいい!」
「いや、やっぱり夢は夢だなー。あんな風には無理だよ。それに修行めちゃくちゃいるし。俺はひい爺ちゃんの時計をつけるだけで精一杯」
笑いながらそういう彼を見て、それでも夢を口にすることすら 諦めてしまった自分よりずっとかっこいいと思う。
「いいじゃん、きっとおじいちゃん 喜んでくれてるよ」
「……だと、いいな!」
屈託ない笑顔で笑う桜井君。
胸が高鳴るのはこの春の陽気のせいだけではないと思う。
3月の風はまだ肌寒く、だが確かな春の気配を運んできてくれる。
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東北地方にある老舗の犬カフェを訪れた。
創業数百年とも伝わるその店は、この地方でも屈指の人気を誇る。暖簾をくぐり座敷に通されると、期待で胸が高鳴った。
席に着いた瞬間から、圧倒的な体験が始まる。
スタッフの威勢のよい独特の掛け声とともに、次から次へと犬が差し出される。撫で終える間もなく別の犬が目の前に用意され、間髪入れずにモフり放題の状態が続いた。
熟練のスタッフによる息の合った手際によって、途切れることなく愛くるしい毛並みに包まれる時間は、まさに至福だった。
限界までモフり欲を満たし、こちらが満足の意を示すと、スタッフは心得たように、小さな椀を一つ運んできた。
蓋を開けると、一口分の蕎麦が入っている。お腹を満たすにはほど遠い量だ。一啜りで食べ終えて、お椀の蓋をカチャンと閉じた。
お会計の際、素朴な疑問をスタッフに投げかけてみた。
「なぜ最後に一口だけ蕎麦を食べるんですか?」
「さあ……、創業当時から続く習わしとしか聞いておらず、詳しい理由は私たちも分からないんです」
首をかしげるスタッフに見送られ、ワンコそばの名店を後にした。
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廃墟に1人の男が住み始めた。
戦争で済む場所を失った男だった。
男に妻ができた、家族ができた。
家族は増え、外からやってきた人間も住み始めた。
いつのまにか小さな村になった。
小さな村はどんどんと大きくなり大きな町になった。
大きな町は都市へとなった。
いつのまにか廃墟は廃墟でなくなった。
そこは大勢の人がその大きな国になった。
だが戦争が起きて再びその国は廃墟となった。
今では、その歴史と名残を残すのみである。
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最近、楽しいと思うことが減ってきた。
心を動かされることもほとんどない。
仕事になんら支障もないので、このままでいいかと思うことも少なくない。
この前、久しぶりに甥っ子に会った。
目を輝かせて、ゲームの話をたくさんしてくれた。
推しがどうとか、モンスターがどうとか。
僕にはほとんどわからない話だったけれど。
僕もかつて、あんな風に楽しそうだったのだろうか。
好きな物に向かって、全力だったのだろうか。
僕はスマホでニュース記事を読みながら、朝食のソーセージを一口かじった。
お行儀が悪いと叱られることもない。
それはそれで楽なのだけれど、母の声が恋しい気もする。
久しぶりに電話でもかけてやろうか。
僕はスマホを置いて、まず食べることに集中した。
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ザアッ、ザザアアッ。
小波、大波。
重く垂れこめた黒い雲。
波が荒いので有名な白兎海岸だが、今日は珍しく凪いでいる。サーフィン客で賑わう海辺に、今は人っ子一人見あたらない。
私は外科医だ。隣県の山村で小さな医院を経営している。
このザアッ、
ザザアアア…
小波、大波。
重く垂れこめた黒い雲。
波が荒いので有名な白兎海岸だが、今日は凪いでいる。夏にサーフィン客で賑わう海辺には、人っ子一人見あたらない。
私は外科医だ。
隣県の山村で小さな医院を経営している。
私がこの海辺に降り立ったのは、数日前。
「あれまあ、こんな冬場に来んさるなんて」
民宿の女将には笑われたが、今回私は、観光に訪れたのではなかった。
私は、かの有名な日本神話『因幡の白兎」を調べるために来たのだ。
事の発端は二か月前のことだった。
趣味の民俗伝承サークルのオフ会で、興味深い話を聞いた。
「『因幡の白兎』の話を知ってるかい」
「ああ、知ってるさ、それくらい。島に住む兎がサメを騙し、その背を伝って海を渡るが、陸まであと一歩のところで嘘をばらした。怒ったサメが兎を捕らえ、全身の皮を剥いだ、ってやつだろう」
「そう。で、そこにたまたま通りかかった大国主が、兎に治療を施した。兎はめでたく元通り、ってな」
「だが、それがどうしたんだ?」
「いやな、鳥取出身のヤツに聞いた話じゃ、あの時兎が包まっていた"蒲の穂綿"。あれ、マジであるらしい」
「ははっ」
私は思わず失笑した。
だが、そいつは真剣な顔で言った。
「なんでも、海岸沿いに古びた神社があってよ。その山奥の小さな沼に、黄金色に光る|蒲《ガマ》が生えている。心正しき人間にだけ視えるそうだ。なあ、赤むけの兎の皮膚を再生させるんだぜ? 医者のお前なら垂涎ものだろう」
「ふん、バカ言うな」
何とも荒唐無稽な話だと、その時は鼻で嗤ったのだが。
その後、それを探すことを本気で考えだしたのは、我が医院を訪れた患者のためであった。
酷い火傷を負ったその子どもは、将来、酷い跡が残るのが目に見えていた。両親は己の不注意を責め、嘆いていた。
何とか彼らを救いたい。
その日の診察を終えた後、私は半ば勢いで山陰行きの特急に乗りこんだのだ。
数日間、海辺の民宿に泊まり込み、海岸沿いの神社の裏山を、私は足を棒にして探して回った。
それは、あった。
「おおお」
神社の裏山、そのさらに奥の湖沼に、金色に輝く蒲が群立しているのを見た時、私はその美しい光景を、一生忘れないと思った。
*
金の穂から液を抽出し、それを煮詰めて粉状にする。
苦心の末に、体組織の再生薬を作ることに成功し、神話にちなんで『穂綿』と名付けた。
穂綿は、少し患部に振りかけるだけでひどい傷さえ忽ち癒す、まさに魔法の薬であった。
子どもの火傷がすっかり癒えると、両親は涙を流して喜んだ。
嬉しかった。
私はこれを、もっと人助けに役立てたいと考え、治療例を病院のホームページに掲載した。
すると、意外にも大勢の人がこの山奥の医院を訪れるようになった。
中には、とんでもない相談をしにくる人もいた。
贅肉をとりたい、もっと美しくなりたい、といった美容整形の類いである。
彼らは、そのためならばいくら対価を支払っても惜しくはないと言う。
無論それは、穂綿の再生力をもってすれば可能だ。
スタイルであれば余分な贅肉を切除し、顔面であれば、醜いパーツを美しく整形してから、穂綿で必要な組織を戻せばいい。
私は迷った。
なぜならばそれは、健康な皮膚を切り取るという、いわば余分な手術だ。
だが、彼らの事情をよく聞いてみると、それらは実に切実で、中には自殺しかねない人すらいた。
ならばこれは、私が最初の親子にしたのと、何ら変わらぬ人助けだ。
悩んだ末、私はそれを引き受ることにした。
医院には、これまで以上に人が殺到した。
しかし、穂綿は株が少なく、生産量に限りがある。
私は、医院の裏にハウスをつくり、金の蒲の栽培を試みた。
すると、天が私に味方しているように易々と成功した。
気がつけば医院はすっかり有名になっていた。
寒村の開業医に過ぎなかった私には、テレビの出演依頼まで来るようになっていた。
*
そんなある日。
夜間に医院の扉を叩く者があった。
――誰だ、こんな時間に。
夜間診療の依頼は、受けるなと言ったはずだが。
コン、コンコン。
無視していると、しつこく扉を叩いてくる。
――やれやれ、連日の収録で疲れているというのに。
「はい、何でしょうか」
少し戸を開いた途端、押し入るようににぼろを着た女が入ってきた。
「お願いします、私の子どもが……!」
「おお、これは」
女は、手にした赤ん坊を私の前に差し出した。
それは、何とも酷い有様だった。まるで全身に火傷を負ったような、さながら「皮を剥かれて赤裸」だ。
「気の毒に、早速穂綿で……」
私ははたと足を止めた。
――この親子、何者だ?
貧しい身なりの母親に、襤褸布で包んだ赤ん坊。医療費はおろか、保険証すら持っていなさそう。
実は最近、穂綿の生産量が落ちてきている。
あれは、整形目的のセレブ達が大金を投じる価値を持つもの。
だがこの母親は、通常の医療費すら払えそうにない。
その上、この時間にこの火傷。児童虐待ではないか。厄介ごとには関わりたくない。
ある時期から私は、医院の規模を大きくするのを止めた。新しく人を雇って、穂綿の秘密を知られるのが嫌だったからだ。
穂綿は、開発者である私のものだ。
その恩恵は、私だけが受けるべきだ。
「すまないが、他をあたってもらえないかね」
「そんな! この子は、こちらでしか直せないのよ」
「いや、それは逆だよ。うちのような小さな病院で、大掛かりな処置はできない。
そうだ、救急車を呼んであげようか」
「いいえ、この子は『穂綿』でしか治せない」
「馬鹿を言うな。そんなもの、うちにはない!」
「ああっ」
振り払った手が赤ん坊に当たり、母親の手から吹っ飛んだ。
ぎ、ぎゃあああ……
悲鳴とも、叫びともつかぬ声があたりに響き渡った。
――しまった。力が入りすぎたか。
途端、七色の煙があたりに立ち込め、私と母子の周りを包んだ。
母子の姿が、みるみるうちに変わってゆく。
母親は、筋骨逞しい男の姿に、赤ん坊は、白い兎の姿に。
――そんな、ばかな。
腰を抜かしている私の頭に、低い声が響き渡った。
『全く、そなたの美しい志に胸を撃たれ、力を授けたというのに。やはり人は、身に余る力を我欲にしか使えぬものか』
『大国主、だからボクは言っただろう? あいつはダメってさ。もう少し待とうよ。きっといつか、本当に美しい魂を持つ人が現れるさ』
『やれ、ならばお前を信じて待とうか……だがその前に』
二人が私を振り向いた。
『弱き者を排し、金銀を欲する魂を浄化せねば』
ぐわん。
二人の声が共鳴した。ギラリと光る四つの瞳が私を捉えた。
「ひ、た、助けて……」
咄嗟に逃げようとしたが、身体が金縛りにあったように固まっていた。
ゴキッ、ゴキゴキッ。
筋骨の音を響かせて、男が私に近づいてきた。
「ま、待ってくれ、心を入れ換える、貧しい人を救うから、だから、あ、あ、ああああっ」
ゴキン。
*
以来、私はここにいる。
無限地獄。生きながらに皮を剥がされ、穂綿に包まり再生する。
それを幾度も、未来永劫繰り返す。
穂綿に包まれる間は、大昔に見た日本神話を思い出した。
大国主は、優しく美しき心の持主。人の縁をつかさどる、別名黄泉の国の王。
ならばひとつ、聞かせてほしい。
私は、それほどの咎を受けるべきなのか。
――さあて、そろそろ治癒したか。
「ああ、嫌だ、あああああっ」
《終》
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橙色の水しぶきが舞う。
私の恋人を彩るように。
この歳で無邪気に、はしゃげるあなたが嫌味でなく羨ましい。
「ねー、アカリちゃんも遊ぼうよ!」
少し遠くで遊ぶあなたの声が、彼方の夕焼けと混じって私に届く。
そのワンピース、せっかくプレゼントしたのに……。
「海水で服ダメにしても、知らないよー!」
私も大きな声で返してみた。
「あっ!」って今更気付いたあなたのリアクションが、ここからでも見える。
照れてしまった顔で。
今度は少し困った顔で。
でもやっぱり、私と一緒に遊びたいのか、屈託のない笑顔で。
表情をころころと変えていく。
まるで照らされた宝石が光り方を変えていくように。
そして、海に溶けていく。
耳に残る、波の音。
幼少期の美しい風景への思い出。
まばらに浜辺に残る人々。
楽しい時間の終わりを告げる夕暮れ。
あなたへの愛おしさ。
誰にでもいつしか訪れるであろう死別。
全て溶けていく。
哀しみとも感動とも区別できない、名前のない感情が溢れ出る。
怖くなった。
急いでバシャバシャと海水を除け、あなたのところに向かう。
あなたは最初、私が来たことに嬉しそうな顔を浮かべた。
でも、すぐに私の青ざめた顔に気付いたのか心配してくれた。
「大丈夫?」
「……」
「悲しい?怖い?」
「……うん」
あなたは、そっと抱きしめてくれた。
「大丈夫、ここにいるよ」
「……死んじゃわない?」
「あなたより先にはねー」
「お、同じタイミングがいい」
「よしよし、分かった、分かった」
「……馬鹿にせんといて」
「あ、アカリちゃんの方言久しぶりに聞いた!」
茶化されたおかげで、少し落ち着いた。
改めてあなたと向き合い手を握る。
あなたの綺麗な瞳も、夕日に透ける長い髪も、安心感を与える心音もいつか灰になる。
それがたまらなく怖い。
与えられ、巡り会えた幸せを波に攫われるのが。
ならいっそ、このまま一緒に海に溶け合いたい。
抱き合うのに邪魔な皮膚でも、骨でも、脳でも、心臓でもなく「あなたと私」で溶け合いたい。
あなたと一緒に。
この橙色の海に。
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飲んだくれている俺の耳に、テレビの音が聞こえてくる。くそいまいましい、どのチャンネルも祈りだらけだ。夜なのに窓の外は赤く明るい。暴徒の焼き討ちだろう。「なにもかも、あの月のせいだ」半年前までは普通の大きさが、今は夜空の半分を占めている。ああ、のたくる触手までハッキリ見えるなんて。
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