気がつくと、俺は見知らぬ河原に立っていた。あたり一面にゴロゴロと転がっている無数の石。空はどんよりと重い灰色に覆われ、太陽の姿は見当たらない。
ついに来たのか、この時が。
俺は心の中で拳を握りしめた。直前の記憶はある。交差点、信号無視のトラック、甲高いクラクション。間違いない。俺は命を落とし、異世界への転移を果たしたのだ。
まずは現状の把握だ。
「ステータス、オープン」
声に出して唱えてみた。しかし、眼の前に半透明のウィンドウが現れる気配はない。
「メニュー画面? ウィンドウ? ステータス表示!」
何度叫んでも、視界に浮かぶのは寒々しい河原の風景だけだった。その後も思いつく限りの操作を試したが、全て徒労に終わった。
脳内に直接語りかけてくる女神の声もなければ、固有スキル付与の通知もない。足元の小石をつまみ上げ、魔力を込めてみようとしたが、何の変化も起きなかった。
「ふむ……、システム補助も魔法もなし、か」
思わず苦笑が漏れた。「特殊能力チート」や「いきなり万能無双」のタイプではなかったようだ。
だが、落胆はしなかった。むしろ胸の奥から湧き上がってくるのは、確かな手応えと高揚感だった。
いきなり無双するテンプレも悪くないが、こういう泥臭く地味なスタートだって一定の需要がある。システム補助がないということは、それだけ俺自身の智謀と機転が試されるということだ。攻略のしがいがあるというものだろう。
河原を歩いていくと、頭に角を生やした巨大な人型のモンスター、いわゆる「オーガ」のような連中がいた。作業をしている人間たちを見張り、時には嘲笑うように作業の妨害をしているようだ。
「あいつらがこの世界の『魔王軍』か。住民を虐げて強制労働をさせているんだな」
この世界は魔王の勢力に支配され、人々は苦しみにあえいでいる。そして俺は、彼らを救済するために呼ばれた「勇者」というわけか。
さっそく、俺は作業している人々に紛れ込み、情報を集めることにした。
このあたり一帯を支配しているという魔王は、川を渡った向こう岸にいるらしい。
身体は異常に大きく、真っ赤で恐ろしい顔をしているという。それだけ聞くと、脳筋のパワーファイターのようだが、不思議な鏡を使った特殊な精神攻撃を得意とも言われている。
向こう岸へ行くには船が必要だ。船に乗るには料金がかかり、料金を支払えない場合は、装備を身ぐるみ剥がされてしまうらしい。
最初のミッションは「見張りのオーガを倒して、金と装備を手に入れろ」といったところだろうか。
単純な力比べでオーガに勝つのは容易ではない。しかし、あいつらの知能はそれほど高くないはずだ。そこに勝機があるだろう。
「待っていてくれ、この世界の住人たち。俺が必ずこの不条理な支配を終わらせてみせる」
賽の河原と呼ばれるその場所で、石を積む作業をしながら、俺は決意を固めた。
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「ベテルギウスは間もなく寿命を迎え
超新星爆発を起こし 天体上からその姿を消すのではないか」
天文学者の間では こう考えられている
ベテルギウスはオリオン座の一等星
冬の大三角を形成する星の一つと言えば
ピンとくる人も多いのではないだろうか
古来より 人々の夜を明るく照らし
広い天体上でも十指に入るまばゆさを放っていたこの星は
近年 減光を繰り返し とうとう二等星になるまでその明るさを落とした
ベテルギウスは 元々 変光星と呼ばれる星で
暗くなったり明るくなったりを繰り返す星ではあるが
現在 観測史上 類を見ないほどに暗くなってしまっている
この事から ベテルギウスはもう間もなく寿命が尽き
星の死―― … すなわち星としての一生を終え
最後に超新星爆発を起こし 天体上から消滅するのではないか
こう まことしやかに囁かれている
果たしてそれは 本当なのだろうか?
天体の間もなくというのは 何十年や何百年が一瞬という世界なので
それらが人間の感覚で すぐ訪れるとは限らないし
私達が生きてるうちに起こるとも限らない
結論を言うと 半分は事実であり本当である
しかし もう半分
その真相は寿命などではなく 真実は他にある
ベテルギウスはこれまで 人々の夜を
長い事 ずっとずっと照らし続けてきた
しかし
近年の人類は 科学の発展により電気を発明し
自力で 夜を明るく照らす事に成功した
これは 人類が夜に打ち勝ち
夜を克服したとも言えるだろう
それを目の当たりにしたベテルギウスは思った
「私の役目も終ったのだろう」 と
無論 夜の全てを電気が照らせるわけではない
電気の通わぬ地では 未だに夜は星明かりを頼りに
人々や原生生物が暮らしているのだが
だから 大半の星は
今も夜空から我々を照らし続けてくれている
けれど 星にも意思があり意志がある
人にも性格があり 個人差があり 考えにも違いがあるように
星も各々 考え そして感じている事は様々なのである
だから ベテルギウスは思った
「私はもう必要ない存在なのだろう」 と
それぞれ 考える事が違うのだから
そう考える星が出てきても 別段 不思議ではない
ベテルギウスは寿命を迎えたわけではない
単に 自分の使命を終えたと考えたのだ
「ならば 私はもう不要だろう」
そう考えたベテルギウスは活動を終息させる決意をする
これがすなわち 近年のベテルギウスの減光の原因なのである
夜を照らす必要がなくなったのであれば
我々はもう必要ない
これがベテルギウスの答えだ
では 寿命ではないのであれば
超新星爆発は起こらず 減光した状態のまま 残り続けるのだろうか?
それはまだ 分からない
ベテルギウスは云う
活動を終らせる決心はしたが その先の事はまだ考えてない と
役目は終えたと感じたが
これまで夜空をずっと明るく照らしてきた
それ以外の自分を想像出来ないのだという
夜空を照らすのをやめ ただの一惑星として
数ある星に紛れて 静かに余生を過ごすのか
それとも 存在価値を失くした者として
やはり 天文学者の言うように 遠からず超新星爆発を起こし
天体の塵となり 華々しく星としてのその生涯に幕を下ろすのか
今はまだ分からない と
―――
もしかしたら ベテルギウスを観測出来なくなるかもしれない
それは 明日かもしれないし
百万年後なのかもしれない
ベテルギウス自ら 生涯を閉じるかもしれないし
本当に寿命がくるその時まで 生き続けるかもしれない
それは 私達には分からないし
ベテルギウスにも まだ分からない
だから思う
今 観測出来る星々を 強く心に焼き付けておこうと
見慣れた星空ではあるが
その中のたった一つの星ではあるが
それが存在し続ける事は 永遠ではないし永久でもないのである
もし 星としての結末がどうなったとしても
観測する我々に出来るのは
その行く先を見届け そして心と記録に残す事だけである
ありがとう ベテルギウス
貴方がこれまで 人類の夜をずっと照らし続けてくれた事を
私は決して忘れない
ゆっくりお休み
星が最期を迎えるその時まで 我々は観測し続け
そして 最後まで彼らを愛すのみである
「どんなものでも いずれ終わりは訪れる」
それは 星も 人類も
その事を忘れずに 皆も天体観測にいそしんでほしい
(ちなみに 地球からベテルギウスまでの距離は 約642光年
光が一年掛かって辿り着く距離 (約9兆4600億km) が
一光年の定義なので
現在 我々が見ているベテルギウスの姿は
およそ 642年前のものという事になる
つまり 実際にはもう642年前には爆発している可能性もある
肉眼では確認出来るのに
実際は既に宇宙の塵となり 跡形もないかもしれない
そう考えると なかなか不思議な気分である)
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目が覚めて、窓から外を見ると、もう日が沈んだ後だった。
――しまった。
夜の風が来る前に買い物に行こうと思ってたのに、さすがに今からだと間に合わない。冷蔵庫を開けて中を確認していると、ドンドンと玄関のドアを叩く音がした。
「毎度どうも!」
前掛けをして、大きな水色の箱を背負ったカエルさんが玄関の前に立っていた。
「助かるわ。すっかり寝過ごしちゃって……」
「ええ、そんなことだろうと思ってましたよ」
私が「はは」と苦笑いすると、カエルさんは背負っていた大きな箱をドサッと下ろした。
「水と食べ物、これで二、三日は大丈夫ですから」
「あ、お茶ももらおうかしら」
カエルさんは「へいへい」と言って後ろを向き、「おーい!」と叫ぶと、大きなお茶の木が、ゆっさゆっさと枝と葉を揺らしながらやって来て、無理やり玄関から入ろうとした。
「あーここでいいから」と言うと、お茶の木は「んん……」と声のような音を発して止まった。お茶の葉を手でぷつんぷつんと摘み取っていると、新茶の香りがした。
「いい香りね」
「天気のいい日が続きましたからねぇ。この子達も、よく育ってくれましたよ」
カエルさんが得意げに言う。前に来た時は、枝も葉もやせ細っていて心配だったが、今は見違えるほどぷくぷくしていて、健康そのものという感じだ。
「ちょっと多めにもらっていい?」
「ええ、どうぞどうぞ」
お茶の木がいびつな形にならないように、さっきと反対側のところからお茶の葉を摘む。
「ありがとう。もういいわよ」と言うと、お茶の木は「ん」と返事をして、お茶の葉をぽとぽと落としながら玄関から離れた。
「もうすぐ夜の風が来るわ。悪いわね。こんな時間に来てもらっちゃって」
「大丈夫ですよ。今夜は追い風みたいですから」
カエルさんはそう言って笑うと、お茶の木にしがみ付いた。
「気を付けて!」
「またのご利用を!」
手を振ると、お茶の木は風に乗って舞い上がり、あっちにふわふわ、こっちにふわふわしながら夜空に消えて行った。
――大丈夫かな……。
心配になりながら玄関のドアを閉めると、家中の窓がガタガタと音を立てた。風が夜を追いかけているんだ。
カエルさんが置いて行った箱の中からビスケットを取り出し、ひと口かじる。お茶と相性がいい。
私はゴーゴーと風を切る音を聞きながら、丸くなって眠った。おとなしくしていれば、すぐに風は収まるだろう。
翌日、風が止んでいることを確認して玄関のドアを開けると、昨晩、お茶の葉が落ちていた辺りから小さな芽が出ていた。
――次の風が来る前に、森になってくれたら嬉しいな。
私は地面から顔を出した小さな芽に、そっと水をかけた。
(了)
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月の綺麗な夜だった。
私は一人、海辺を歩いていた。
夜の海というのは恐ろしい。
黒い波がどこまでも高く、昼間とは全く違った顔を見せる。
黒々とした海水はその下に異界が広がっているようで得体が知れない。波の音もまた大きく、空に響いているようだ。
だが今宵は満月。
月明かりは波に反射し、小さな金の船が無数に海を覆っているかのようだった。
沈んだ夜の底の金の波。
波の音は聞こえては来るが穏やかで、遠くの汽笛の音を私の元まで運んできてくれる。
月明かりは砂浜に落ちて、私の足跡を白く映し出している。
はるか遠くに見える一列に並んだ街の灯り。
あそこには 私の知らぬ人たちの日々の営みがあるのだろう。
誰かの家族がいて笑い声が聞こえて、幸福な日常がそこにあるのだ。
夜風が髪を乱す。
ボーッと、汽笛の音がする。
ふと、海面で何か大きなものがはねたのが見えた。
魚だろうか、それにしては大きい。
イルカだろうか、こんな沖にやってきたという話は聞いたことがない。
……人魚だ。
そう私は思った。
海で死んだ人間が人魚になって飛び跳ねているのだ。
そう思ったのだ。そんなことはないと人に話せば否定されるかもしれないが、私は直感的に波の間で飛び跳ねたのは人魚だと思った。
死んだ人間が人魚になって沖に帰ってきたのだ。
私は想像した。
『必ず帰ってくる』そう残された人たちに言い残して沈んだ船の人たちは、やがて海の底で人魚になるのだ。
魚の姿になって泳いでもやはり人であったことを忘れることができず、人でも魚でもない姿になって海の底で泳いでいるのだ。
そして沖までやってきて、街の灯りを眺める。
魚である体は海から出ることができず、ただ海から眺めていることしかできない。
こんな綺麗な月の晩はたくさんの人魚たちが沖にやってくるのだ。愛しい相手のことを思いながら。
『俺はここにいる』
そう言いながら、金の波から顔を出し海面にその姿を現す。
『必ず帰ってくる』
そう言って旅立つものは大勢いるのだろう。
いいや口にしなくとも、心の中で唱えるだけできっとこれは呪いの言葉だ。愛しいもののところに帰ってくるために、人ならぬものに身を変えて、この世界に帰ってくるのだ。
波間からたくさんの銀色に跳ねる何かが見えた。
月夜の静かな夜に、たくさんの人魚たちが飛び跳ねているのだ。
遠くの汽笛の音がする。
夜と海の間を駆け抜ける風の音がする。
……いいや、あれは人魚の歌声だ。
耳を貸してはいけない。
自分のところに相手を呼ぼうと歌う人魚の声なのだ。
私はいなくなってしまった愛しい人のことを考えていた。
人魚になって私を呼んでいるのかもしれない。
『まだ、そちらに行くわけにはいかないよ』
心の中で一言そう告げて、私は海を後にした。
後にはただ静寂。
続きを読む
僕が彼女と出会ったのは、100均の棚だった。
彼女は、たくさんのカラフルな時計たちの中から、どういうわけか何の洒落っ気もない黒の目覚まし時計を——僕を、選んでくれた。
嬉しかった。
社会人生活と同時に一人暮らしをスタートさせ、希望にキラキラと瞳を輝かせる彼女に選ばれたことを、僕は誇りに思った。
その日から、僕は自分の持てる全力で、彼女のために時を刻んだ。
一分も狂わぬように。
二度と戻ってこない、彼女の大切な時間を——一秒一秒。
僕のアラームを消した後に再び寝込んでしまい、遅刻ギリギリで部屋を飛び出していった朝。
会社で大きなミスをしたと、泣きながら帰ってきた夜。
自分へのご褒美に、人気のケーキ店のスイーツを買って幸せそうに頬張っていた週末。
子供のような泣き顔。弾けるような笑顔。
何かを思い描く微笑み。
困難を乗り越えるたびに大人になってゆく眼差し。
彼女と一緒に積み重ねていくその一瞬一瞬が、僕の幸せだった。
ある日。
彼女が、部屋に恋人を連れてきた。
背の高い、笑顔の優しい青年だ。
やがて、彼女が彼と一緒に選んだ新しい掛け時計が、部屋にやってきた。
銀の華やかなフレームをつけた、美しい音色を奏でる掛け時計。
その日から——
どういうわけか、僕の針はぴたりと動かなくなってしまった。
そんなつもりなど、全くなかった。
なのに、どうやっても僕の身体は言うことを聞かないんだ。
自分の役目は終わった。
僕の針は、馬鹿な僕の脳ミソよりもずっと早く、それに気づいたのかもしれない。
彼女は、泣いてくれた。
僕の全身を撫でながら何度も「ごめんね」と繰り返して、幾つも涙を落とした。
僕は、世界一幸せな時計だ。
最後まで、きみにこんな風に愛してもらえて。
僕の針は、もうきみの時間を刻むことはないけれど——
できるなら、もう少しだけ、きみのそばにいたい。
ちょっと埃っぽいこのカラーボックスの上で、きみを見守っていたい。
その笑顔を、泣き顔を。
そしてまた笑って……そうやって、きみが日々を歩いていく姿を。
どうか、とびきり素敵な時間を重ねていって欲しい。
これからも、ずっとずっと。
愛するきみへ。
もう時を刻まない、ポンコツ目覚ましの願い事だ。
〈了〉
続きを読む
私は、ピアノ。
村はずれの小さな家の、小さな部屋に住んでる。
私の主人は、私を深く愛してくれた。
その指を駆使して——私の声を通して、数え切れない愛を叫んだ。
やがて彼は、その才能を開花させ、世界のあらゆる場所で聴衆を感動させた。
世界中の人が、彼を天才と呼んだ。
けれど、どれだけ名高いピアニストになっても、ここへ帰ってくると彼は必ず私を愛してくれた。
その情熱的な心と指で、一晩中。
その彼は、もういない。
入院していた病院で、昨日息を引き取った。
だから、この家に来る人も、もういない。
ねえ、あなた。
今夜は、私に叫ばせて。
あなたが私に注いでくれた、全ての想いを——身体から溢れ出すままに。
一晩中。ありったけの力で。
どうかこの想いが、空をゆくあなたに追いつきますように。
「あれ……この家、焼けちゃってる」
「人気《ひとけ》のない村はずれですからね。気づいたらこうなってました」
「数日前の真夜中に、素晴らしいピアノの音色がしたのは……ここじゃなかったのかな」
「まさか。ずっと誰も寄り付かなかった家ですよ?
でも——火元は、室内のピアノだったそうです。
なぜ火がついたのかは、いくら調べてもわからないようですけどね」
〈了〉
続きを読む
剣聖ディアスといえば傭兵で知らぬ者はいない。だがヤツも初老になり、いまはさる貴族令嬢の護衛に収まっている。そこで俺達は数を頼んで闇討ちしたが……聞いてねえ、なんだあれ。剣聖様をかばった可憐な少女が薄く笑う。「これは師として相手しなくちゃね」瀑布のような闘気に、俺は顔を青くした。
続きを読む
顔を上げると、隣のベンチに座っていたおばあさんは、いつの間にか姿を消していた。 あのおばあさんから鍵にまつわる不思議な話を聞いたような気がするのだけど、どういうわけか、記憶はぼんやりしているし、そこにおばあさんが座っていた痕跡も気配も感じられなかった。
私は、眉間にしわを寄せ、自分の手の中の缶コーヒーを睨みつけた。
夢でも見ていたのだろうか。 ……いや、そんなはずはない。 眠っていたのなら、缶コーヒーを地面に落としてしまってもおかしくないのに、私の左手は、今も意志を持って缶を握りしめている。 私は強い緊張で震える息を吐き、それにしても、と、つぶやいた。 握りしめた缶コーヒーはすっかり冷たくなっている。冷めた、ではない。キンキンに冷えているのだ。それだけ、時間が経っているということを表していた。 おそるおそる時計を見ると、お昼はとっくに過ぎていた。 この公園に来てから、三時間以上経っている。 全身を震えが駆け巡り、呼吸が苦しくなった。 キンキンに冷えたコーヒーを飲み干すと、空き缶をゴミ箱に入れ、逃げるように公園をあとにした。
いったいここはどこなのだろうか。 私は、どこに来てしまったのだろうか。
どうやら私は、ふらふらと駅まで戻って来たらしい。 この町で暮らしてみようと思ったけれど、得体のしれないこの町に、私は凍りつくような恐怖を覚えていた。
帰ろう。 何を探しに来たのかも、何が見つかるのかもわからないけれど、もう、そんなのはどうでもいい。
駅舎に入ろうとして、私はビクッと身体を震わせ立ち止まった。 駅は、生きていなかった。 建物は蔦(つた)が絡み、中は落ち葉とほこりだらけで、改札口には錆びたチェーンがかけられていた。
混乱する脳内で、たったひとつ理解できたのは、私はこの町に留まらなければならない、ということだけだった。
足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。
とりあえず、何か食べよう。 お腹を満たして、紅茶でも飲んで、心と身体を落ち着けよう。 それからだ、これからどうするのかを考えるのは。
喫茶店に明かりがともっている。 ドアを開けると、今朝と同じ店員がにっこり笑って、いらっしゃいませ、と言った。 私はカウンター席に座り、オムライスを注文した。「すみません、オムライスはやってないんですよ。」 私は目を丸くした。「え、だって、今朝、このお店で一番のおすすめだって……。」 私の言葉を聞いて、今度は店員さんが目を丸くする番だった。「いえ、一番のおすすめはナポリタンです。それに、お客様がこの店にいらっしゃったのは、今が初めてですよ……。」
とりあえず、ナポリタンを注文すると、店員さんは調理を始めた。「……オムライスがおすすめと、朝の私が言ったんですね?」 パスタをゆでながら、店員さんがそう言った。「はい、とても美味しかったです。はやりのふわとろではないですが、素朴で、懐かしくて、優しい味でした。」 私は、手元のお冷をもてあそびながら、グラスの水面に映る自分の顔を見つめた。「……今朝、朝早くにそこの駅に降り立って、心細さと混乱の中、このお店の明かりを見つけました。そして、オムライスを頂いて、町を歩いてみようと思えたんです。」 ふう、とため息をつき、ケチャップの少しツンと鼻を刺激する匂いをゆっくり味わった。「でも、不思議なことが続いて、混乱して、もう帰ろうと思ったのに、駅は……空っぽでした。」 お待たせしました、と、店員さんがナポリタンを私の目の前に置いた。 スクランブルエッグが添えられていて、卵とケチャップの香りが私を満たしていった。「このお店を始めるとき、おすすめをオムライスにするかナポリタンにするか迷ったんです。……そうですか、美味しかったですか。」 店員さんは、ゆっくり目を閉じると、銀色のトレーをぎゅっと抱きしめ、嬉しそうに微笑んだ。 そして今度は、ゆっくりと目を開けると、少し悲しそうな瞳を私に向けた。「あの駅は、廃線になってからずっと、何年も前から使われていません。それなのに、ときどき、あの駅に降り立ったとおっしゃる方が、この町にいらっしゃるんです。」 店員さんは、何か言いたそうに顔をゆがめたれど、ごゆっくりどうぞ、と言って、調理場に戻った。
ナポリタンも、オムライスに負けないくらい美味しかった。 食後にレモンティーとケーキを味わっていると、店員さんが私に近づき、あの、と声をかけた。「寝泊まりするところはお決まりですか? もしまだでしたら、ここの二階でよければ空いています。」 私は二、三度まばたきをして、いいんですか? と気の抜けたような、間の抜けた声で聞き返した。「はい。軽食ではありますが、お食事もご用意できます。ご希望であれば、オムライスも。」
こうして私は、北の町で暮らす初めての夜を、喫茶店の二階で過ごした。
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とある異国の旅の途中
名も知らぬ老人に声を掛けられた
刻まれた皺に苦労の陰を忍ばせる老人は かく語りき
「もし そこゆくお方…」
「旅のお方と心得るがいかがかね…?」
私は頷く
「ならば少し 話を聞いてはくれぬだろうか」
老人は何やら 懐をまさぐりながら話を続ける
「私には病床の妻がおってね」
「なんとかしてやりたいのだが…
医者には 途方もない額が必要だと言われたよ」
老人は哀しそうな目をしながら 続ける
「そんな金は残念だが… どこにもない」
「だが私は 妻を助けてやりたかった
どうしても 金が必要だった」
「そんな折 耳にしたのが
なんでも願いを叶えてくれる『奇跡の石』の噂さ」
「噂が真実かは分からなかった
しかし私は藁にもすがる思いで この噂を信じ込んだ」
「きっと この石を手に入れれば
信じられないような金額で売れるだろう と」
「金が手に入る…
さすれば 妻の命も助けてやれるだろうと」
老人は一筋 涙をこぼした
「それから 私は各地をさまよい
『奇跡の石』を探し求めた」
「そして苦労の末に ついにその石を探し当てた」
まさぐっていた懐から 拳大の物体を取り出す
「これがその石さ」
…なるほど
確かに見事 綺麗な石である
奇跡を信じそうになる程には 雰囲気のある石だった
「ところが…だ」
しげしげと石を眺めていた私は 老人の声で我に返る
「いざ石を手に入れても 誰も私の話を信じてはくれなかった」
「そんなのは嘘っぱちだと! その石はインチキだと!」
老人は苦虫を噛み潰したような 悔しそうな表情をする
「旅のお方…」
「どうか この石を買ってはくださらんか」
「きっとこの石は願いを叶える『奇跡の石』」
「どうか 私の妻を助けてはくださらんか…?」
一筋だった老人の涙が
堰を切ったように どんどんと溢れ出す
ふむ…
私はしばし考え込む
そして 涙を流し哀願を続ける老人に言葉を掛ける
「その話は本当に本当なのか?」
「…!」
「ああ 本当だとも!
信じてくれるか 旅のお方」
「それならば」
淀みなく 私は続ける
「その『奇跡の石』を使って 願いを叶えたらどうか」
「…?」
「『奇跡の石』は なんでも願いを叶えるのだろう?」
「ああ… そうだとも」
「ならば その石に願えばいい」
「『妻の病気を治してくれ』と」
「…!」
「生憎だが金はない」
「しかし なんだったらその石に
大金を手に入れられるよう願ってもいい」
「あ… あ…」
「どちらにせよ どう転んでも
それで奥さんの命は 無事 助かるだろう」
「……」
「それではご老人 私は旅を急ぐ身」
身をひるがえし ゆっくりと歩き出す
「これで失礼する」
そして 私は振り返る事なく
老人と『奇跡の石』から遠ざかるのだった
……
その時 老人が
どんな表情をしていたかは 分からない
今となっては
その石が本物だったのかも 知る由もないが
私は旅人
過去は振り返らず
今日も今日とて
あてのない旅を楽しむのである
(これから旅に出る者に
一つ アドバイスをするならば
見知らぬ異国の旅先では
簡単に財布の紐を緩めてはいけないという事だ
「旅は情け人は心」と言うなれど
結局は最後に物を言うのはお金である
そう 先ほどの老人のようにね
以上 その事を胸に刻んで旅を楽しんでほしい)
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ある夜。
薄い雲をかき分けた向こうにある、こじんまりとしたカクテルバー。
柔らかい照明の灯った仄明るい店内。座っている客は皆それぞれに押し黙り、静かにグラスを呷っている。
そんな壁際の小さなテーブルで、レイは手の中の酒のグラスを見つめて重いため息をついた。
レイは、死神だ。
青白く透けるような頰や澄み切った氷の色をした美しい瞳に、豊かな表情は浮かばない。
そうだろう。生きているものの元へ赴き、死を喚《よ》び、その任務が無事完了するのを見届けるのが、彼女の仕事なのだ。
神だって、疲れた時は酒を呑み、ため息をつきたくなる。
いや——むしろ、神という仕事ほど苦痛に満ちたものはない。
淡い銀色に光る絹のような長い髪が、俯いた額にサラサラとかかる。
それを搔き上げることすら億劫で、レイはそのままテーブルにぐたりと上半身を預け、気怠げな頬杖をついた。
「あれ、キレーなお姉さんがいると思ったら、死神のレイ様じゃない」
不意に、向かい側の椅子がガタリと引かれた。
顔を上げると、そこにはふわりと真紅の華やかなドレスを纏った、なんとも可愛らしい女が立っている。
「——アイ」
「ねー、一人一人で飲んでもつまんないじゃな〜い? 私ここ来てもいーかなあ?」
レイの返事も聞かず、アイと呼ばれたその女は自分のグラスをどんとテーブルに据えてどさりと腰掛けた。相当に酔っているようだ。
何かあったのか、いつもはぱっちりとアーモンド型をしたエメラルド色の瞳は重たく曇り、その美しい唇は苛立たしげに歪んでいる。
柔らかくウェーブしたセミロングの艶やかな金髪も、今日は両手で掻き毟ったかのようにボサボサだ。
レイはすいとグラスを呷ると、ぞんざいな挨拶を投げかける。
「……いつも派手ね、その真っ赤なふわふわドレス」
「は〜? 好きでやってるんじゃないんですけど? 愛の女神って仕事ですからね、仕方ないんですよこの弾けっぷり。ってかレイ様の服がダークすぎるんだって。いっつもそんなグレー一色の最高級イブニングドレスみたいなの着てて楽しい?」
「楽しいわけないじゃない。あなたバカなの?」
「あはは〜、今頃気づいた?」
どこか投げやりな言葉が、それぞれの唇から流れ出す。
「……ってかさ」
グラスをぐいと飲み干し、アイが改まった声を出した。
「なんか、レイ様らしくないんじゃない? いつも冴え冴えとした無表情を崩さない、美しい死神様がこんなとこで酒飲んでため息ついて」
レイは横目でアイを見ながら、抑揚なく返事を返す。
「いろいろあるの。ただただ幸せがぎっしり詰め込まれた『愛』を扱ってるあなたなんかにはわからない、いろいろがね」
「……へえ」
レイのそんな言葉に、アイの眉がぎゅっと険しくなった。
「そういう、『私の苦悩は誰よりも深い』みたいな態度、すっごくムカつく。
苦しいのは、あんただけじゃないわ。
私だって——
私だって、幸せばかりをばらまいているわけじゃない」
カツンとグラスを乱暴にテーブルへ打ち付け、アイは表情を歪めた。
「——今日は、私の届けた愛のせいで、女が一人死んだ」
「——……」
その言葉に、レイは顔を上げてアイを見つめた。
「その男へ私が届けた愛は、『裏切りの愛』だった。
夫が妻以外の女へ向ける、その愛よ。
彼女は、夫の心がもう自分の元へは戻ってこないと思い込み、自ら命を絶った。
私は、ボスから指示された通りに、指定の宛先の人間に『愛』を配達するだけ。受け取った愛をどう扱うのかは、彼ら人間たちの仕事よ。
愛が怒りや憎しみ、悲しみを引き起こす時の凄まじさを、あなたは知らないでしょう?
——愛が幸せだなんて、決めつけないで」
目の前のグラスを睨むアイの目が、ぶわりと滲む。
「私もあなたも、結局一緒よ。定められた運命を受け入れなければならない人を、ただ見守るだけ……」
「ごめんなさい、アイ」
レイは静かに銀の髪を崩し、アイに深く頭を下げた。
そんなレイを見て、アイはぱっと優しい笑みを作った。
「こういう仕事は、嫌よね。お互いに。
……レイ様も今、何か悩みを抱えてるんじゃない?」
いつもは、決して弱音を吐くことなどないのだが——アイの温かい微笑みに微かに寄りかかるように、レイは小さく呟いた。
「……今、私が受け持っている人が、とても優しい人で……
優しいのに、不運ばかりを味わってきた人なの」
「……」
「彼は、全部あげてしまった。彼の優しさと愛情深さにたかり、利用するだけの人々に。
彼らは、奪うだけ奪うと、彼を置き去りにして去っていった。
彼はいつでも、黙って微笑んで——それが、彼の人生だった」
テーブルの上に置かれたレイの拳が、ギリギリと固くなる。
小さく震えるその拳を、アイはじっと見つめた。
「彼はもう、病院のベッドから起き上がれない。
彼をそういう状態にしたのは、私。
でも——これ以上、耐え切れないの。
彼の命を断ち切るのが、私の仕事だなんて……」
レイは深く項垂れると、顔を両手で覆った。
しばらく黙り込んだアイは、何かを思いついたようにふっと微笑み、穏やかな眼差しでレイの肩に優しく手を置いた。
「レイ様。
あなたには、まだできる仕事があるわ。
彼には、もう少しだけ、時間があるんでしょう?
その時間を、彼に寄り添って、思い切り幸せを届けるの」
予想していなかった言葉に、レイは顔を上げ、零れそうに涙を湛えた瞳でアイを見つめた。
「レイ様は、彼の病室で、いつもどうしてるの?」
「……ただ、部屋の隅に立って、俯いているだけよ。
私の力のせいで、彼が衰えていくその様子なんて、見ていられるわけがない……」
「あー、それじゃますます部屋が暗くなっちゃうじゃない!
そうじゃなくて。あなたが彼に寄り添って、幸せを届けてあげたらいいのよ。今生きている瞬間が幸せに満ちるように。
暖かい陽射しを注いだり、心地よい風を運んだり、花や鳥を呼び寄せたり。
あなたは強大な力を持つ死神。そのくらい、簡単でしょう?
そして——本当に悲しい時は、彼と一緒に涙を流すの。
今流してる涙を、その人のために使うのよ。残された時間を生きるその人の、幸せのために。
どうかな? 私、愛のことはあなたよりもちょっと知ってるから。
ささやかでも、そういう温かな愛をもらえるって、とても幸せなことだわ」
「……アイ……」
先ほどとは見違えるほどに輝き始めたレイの表情を、アイは優しく見つめて微笑んだ。
夜が明ける前に病室へと戻ったレイは、アイの言葉を思い返しながら、部屋の隅に立った。
日の出の時間がきたが、窓の外は明るくならない。
そう言えば、ここ何日も分厚い雲が空を覆い、冷たい秋雨がしつこく降り続いていた。
レイは眼差しを空へ向け、ふっと微かにその唇から息を吐いた。
その瞬間、重く垂れ込めていた雲が猛烈な風に吹き飛ばされるように、一瞬にして空に大きな切れ目ができた。
雨が止み、眩しい朝日が雲間から窓へ降り注ぐ。
レイが窓へ向けて微かに人差し指を払うと、すっと音もなく病室の窓が開く。
秋の穏やかな風が、ベッドで眠る痩せ細った老人の髪をそよがせ、その削《そ》げた頰を撫でた。
力なく閉じていた瞼が、微かに動く。
老人はうっすらと目を開けた。
輝く朝の日差しが、もうずっと光を取り込んでいなかった彼の虹彩を優しく照らした。
「……ああ。
心地いい」
皺に覆われ、乾ききった老人の唇が、微かに微笑んだ。
その朝から、レイは変わった。
死神の存在など、人間にはもちろん見えはしない。
レイは少しずつベッドに近寄り、彼の顔をじっと見つめた。
重たく憂鬱な雲が近付こうものなら、空へ両手をかざして一片残らずその影を追い払った。
柔らかいちぎれ雲。箒《ほうき》ではいたような淡い雲。
彼の心を癒す色と形をした美しい雲を、いくつも空に描いた。
穏やかな日差しと爽やかな秋風が、毎日病室に満ちる。
木々に鳥達の囀りを満たし、たくさんの赤とんぼを窓の外に招いた。
無数の透明な羽が、風に乗りながらキラキラと輝く。
それらの景色を、老人は静かに眺めた。
そして、その度に瞳を微かに輝かせて微笑んだ。
「ああ……楽しかった子供の頃のようだ」
穏やかなその呟きに、レイはこみ上げそうになる涙を必死に押さえ込んだ。
まだだ。
まだ、その時じゃない。
それから数日経った夕方。
日が傾き、病室にも薄暗い闇が少しずつ近づく。
いつもならもう老人が眠り始める時間なのだが、今日はその気配がない。
レイは、彼のベッドへと近づいた。
老人の様子を見て、レイは青ざめた。
彼は、何かを手探りでもするように、弱々しく空中へ手を差し伸べている。
『レイ。彼の手を取りなさい』
突然、指令が下った。
「ボス」からの、冷酷な指令が。
——自分がその手に触れる瞬間が、終わりの時なのだ。
「嫌だ……
嫌。もう少しだけ」
首を小さく横に振りながら、レイは震える声で呟く。
「ありがとう」
不意に、ベッドから細い声が届いた。
思わず、枕元に駆け寄る。
「ありがとう——
この国にはね、いい言葉があるんだ。
『終わり良ければすべて良し』ってね。
あなたのおかげで——私は、幸せになれた。
——ありがとう」
人間に、私が見えるはずがない。
彼の視界と意識は、もうすでに混濁し始めているのかもしれない。
けれど——その目は、まっすぐに私を見つめている。
その顔は、私に向けて、微笑んでいる。
レイは、自分の手を伸ばし、彼の細い手をしっかりと握った。
溢れ出てくる涙を、抑えることができない。
両手で彼の手を強く包み、しゃくり上げながら頬を摺り寄せた。
その骨ばった指を、レイの涙が濡らす。
「ああ。……とても温かいね。
私は、幸せだ」
微かにそう唇を動かすと——老人は、静かに目を閉じた。
彼の魂が、沈む太陽の光に照らされて静かに夕空を昇っていくのを、レイは涙を止めることもせず見送った。
*
ある夜。
薄い雲をかき分けた向こうにある、こじんまりとしたカクテルバー。
壁際の小さなテーブルでお気に入りの酒をオーダーし、アイは何気なく窓の外を眺めていた。
今日は、若くて可愛らしい女の子に愛を届けてきた。
あの優しい男の子と二人で、大きく実らせてくれたらいいけど。
ふと、向かい側の椅子が静かに引かれ、アイは顔を上げる。
そこには、銀色の髪をさらりと落としながら微笑む、美しい女がいた。
「——真っ赤なドレスの女が、私に教えてくれてね。
涙が、誰かの幸せのために使えるんだって。
聞いたときは、信じられなかったけど——それ、本当だったわ。
今夜は、その話を聞いてくれる?」
「ええ。いくらでも」
アイは、弾けるような笑顔で死神の微笑に応えた。
<了>
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