SF・ファンタジー

涙の使い方

4,229文字 約9分で読了
作者:aoiaoi
 ある夜。  薄い雲をかき分けた向こうにある、こじんまりとしたカクテルバー。  柔らかい照明の灯った仄明るい店内。座っている客は皆それぞれに押し黙り、静かにグラスを呷っている。  そんな壁際の小さなテーブルで、レイは手の中の酒のグラスを見つめて重いため息をついた。  レイは、死神だ。  青白く透けるような頰や澄み切った氷の色をした美しい瞳に、豊かな表情は浮かばない。  そうだろう。生きているものの元へ赴き、死を喚《よ》び、その任務が無事完了するのを見届けるのが、彼女の仕事なのだ。  神だって、疲れた時は酒を呑み、ため息をつきたくなる。  いや——むしろ、神という仕事ほど苦痛に満ちたものはない。  淡い銀色に光る絹のような長い髪が、俯いた額にサラサラとかかる。  それを搔き上げることすら億劫で、レイはそのままテーブルにぐたりと上半身を預け、気怠げな頬杖をついた。 「あれ、キレーなお姉さんがいると思ったら、死神のレイ様じゃない」  不意に、向かい側の椅子がガタリと引かれた。  顔を上げると、そこにはふわりと真紅の華やかなドレスを纏った、なんとも可愛らしい女が立っている。 「——アイ」 「ねー、一人一人で飲んでもつまんないじゃな〜い? 私ここ来てもいーかなあ?」  レイの返事も聞かず、アイと呼ばれたその女は自分のグラスをどんとテーブルに据えてどさりと腰掛けた。相当に酔っているようだ。  何かあったのか、いつもはぱっちりとアーモンド型をしたエメラルド色の瞳は重たく曇り、その美しい唇は苛立たしげに歪んでいる。  柔らかくウェーブしたセミロングの艶やかな金髪も、今日は両手で掻き毟ったかのようにボサボサだ。  レイはすいとグラスを呷ると、ぞんざいな挨拶を投げかける。 「……いつも派手ね、その真っ赤なふわふわドレス」 「は〜? 好きでやってるんじゃないんですけど? 愛の女神って仕事ですからね、仕方ないんですよこの弾けっぷり。ってかレイ様の服がダークすぎるんだって。いっつもそんなグレー一色の最高級イブニングドレスみたいなの着てて楽しい?」 「楽しいわけないじゃない。あなたバカなの?」 「あはは〜、今頃気づいた?」  どこか投げやりな言葉が、それぞれの唇から流れ出す。 「……ってかさ」  グラスをぐいと飲み干し、アイが改まった声を出した。 「なんか、レイ様らしくないんじゃない? いつも冴え冴えとした無表情を崩さない、美しい死神様がこんなとこで酒飲んでため息ついて」  レイは横目でアイを見ながら、抑揚なく返事を返す。 「いろいろあるの。ただただ幸せがぎっしり詰め込まれた『愛』を扱ってるあなたなんかにはわからない、いろいろがね」 「……へえ」  レイのそんな言葉に、アイの眉がぎゅっと険しくなった。 「そういう、『私の苦悩は誰よりも深い』みたいな態度、すっごくムカつく。  苦しいのは、あんただけじゃないわ。  私だって——  私だって、幸せばかりをばらまいているわけじゃない」  カツンとグラスを乱暴にテーブルへ打ち付け、アイは表情を歪めた。 「——今日は、私の届けた愛のせいで、女が一人死んだ」 「——……」  その言葉に、レイは顔を上げてアイを見つめた。 「その男へ私が届けた愛は、『裏切りの愛』だった。  夫が妻以外の女へ向ける、その愛よ。  彼女は、夫の心がもう自分の元へは戻ってこないと思い込み、自ら命を絶った。  私は、ボスから指示された通りに、指定の宛先の人間に『愛』を配達するだけ。受け取った愛をどう扱うのかは、彼ら人間たちの仕事よ。  愛が怒りや憎しみ、悲しみを引き起こす時の凄まじさを、あなたは知らないでしょう?  ——愛が幸せだなんて、決めつけないで」  目の前のグラスを睨むアイの目が、ぶわりと滲む。 「私もあなたも、結局一緒よ。定められた運命を受け入れなければならない人を、ただ見守るだけ……」 「ごめんなさい、アイ」  レイは静かに銀の髪を崩し、アイに深く頭を下げた。  そんなレイを見て、アイはぱっと優しい笑みを作った。 「こういう仕事は、嫌よね。お互いに。  ……レイ様も今、何か悩みを抱えてるんじゃない?」  いつもは、決して弱音を吐くことなどないのだが——アイの温かい微笑みに微かに寄りかかるように、レイは小さく呟いた。 「……今、私が受け持っている人が、とても優しい人で……  優しいのに、不運ばかりを味わってきた人なの」 「……」 「彼は、全部あげてしまった。彼の優しさと愛情深さにたかり、利用するだけの人々に。  彼らは、奪うだけ奪うと、彼を置き去りにして去っていった。  彼はいつでも、黙って微笑んで——それが、彼の人生だった」  テーブルの上に置かれたレイの拳が、ギリギリと固くなる。  小さく震えるその拳を、アイはじっと見つめた。 「彼はもう、病院のベッドから起き上がれない。  彼をそういう状態にしたのは、私。  でも——これ以上、耐え切れないの。  彼の命を断ち切るのが、私の仕事だなんて……」  レイは深く項垂れると、顔を両手で覆った。  しばらく黙り込んだアイは、何かを思いついたようにふっと微笑み、穏やかな眼差しでレイの肩に優しく手を置いた。 「レイ様。  あなたには、まだできる仕事があるわ。  彼には、もう少しだけ、時間があるんでしょう?  その時間を、彼に寄り添って、思い切り幸せを届けるの」  予想していなかった言葉に、レイは顔を上げ、零れそうに涙を湛えた瞳でアイを見つめた。 「レイ様は、彼の病室で、いつもどうしてるの?」 「……ただ、部屋の隅に立って、俯いているだけよ。  私の力のせいで、彼が衰えていくその様子なんて、見ていられるわけがない……」 「あー、それじゃますます部屋が暗くなっちゃうじゃない!  そうじゃなくて。あなたが彼に寄り添って、幸せを届けてあげたらいいのよ。今生きている瞬間が幸せに満ちるように。  暖かい陽射しを注いだり、心地よい風を運んだり、花や鳥を呼び寄せたり。  あなたは強大な力を持つ死神。そのくらい、簡単でしょう?  そして——本当に悲しい時は、彼と一緒に涙を流すの。  今流してる涙を、その人のために使うのよ。残された時間を生きるその人の、幸せのために。  どうかな? 私、愛のことはあなたよりもちょっと知ってるから。  ささやかでも、そういう温かな愛をもらえるって、とても幸せなことだわ」 「……アイ……」  先ほどとは見違えるほどに輝き始めたレイの表情を、アイは優しく見つめて微笑んだ。  夜が明ける前に病室へと戻ったレイは、アイの言葉を思い返しながら、部屋の隅に立った。  日の出の時間がきたが、窓の外は明るくならない。  そう言えば、ここ何日も分厚い雲が空を覆い、冷たい秋雨がしつこく降り続いていた。  レイは眼差しを空へ向け、ふっと微かにその唇から息を吐いた。  その瞬間、重く垂れ込めていた雲が猛烈な風に吹き飛ばされるように、一瞬にして空に大きな切れ目ができた。  雨が止み、眩しい朝日が雲間から窓へ降り注ぐ。  レイが窓へ向けて微かに人差し指を払うと、すっと音もなく病室の窓が開く。  秋の穏やかな風が、ベッドで眠る痩せ細った老人の髪をそよがせ、その削《そ》げた頰を撫でた。  力なく閉じていた瞼が、微かに動く。  老人はうっすらと目を開けた。  輝く朝の日差しが、もうずっと光を取り込んでいなかった彼の虹彩を優しく照らした。 「……ああ。  心地いい」  皺に覆われ、乾ききった老人の唇が、微かに微笑んだ。  その朝から、レイは変わった。  死神の存在など、人間にはもちろん見えはしない。  レイは少しずつベッドに近寄り、彼の顔をじっと見つめた。  重たく憂鬱な雲が近付こうものなら、空へ両手をかざして一片残らずその影を追い払った。  柔らかいちぎれ雲。箒《ほうき》ではいたような淡い雲。  彼の心を癒す色と形をした美しい雲を、いくつも空に描いた。  穏やかな日差しと爽やかな秋風が、毎日病室に満ちる。  木々に鳥達の囀りを満たし、たくさんの赤とんぼを窓の外に招いた。  無数の透明な羽が、風に乗りながらキラキラと輝く。  それらの景色を、老人は静かに眺めた。  そして、その度に瞳を微かに輝かせて微笑んだ。 「ああ……楽しかった子供の頃のようだ」  穏やかなその呟きに、レイはこみ上げそうになる涙を必死に押さえ込んだ。  まだだ。  まだ、その時じゃない。  それから数日経った夕方。  日が傾き、病室にも薄暗い闇が少しずつ近づく。  いつもならもう老人が眠り始める時間なのだが、今日はその気配がない。  レイは、彼のベッドへと近づいた。  老人の様子を見て、レイは青ざめた。  彼は、何かを手探りでもするように、弱々しく空中へ手を差し伸べている。 『レイ。彼の手を取りなさい』  突然、指令が下った。 「ボス」からの、冷酷な指令が。  ——自分がその手に触れる瞬間が、終わりの時なのだ。 「嫌だ……  嫌。もう少しだけ」  首を小さく横に振りながら、レイは震える声で呟く。 「ありがとう」  不意に、ベッドから細い声が届いた。  思わず、枕元に駆け寄る。 「ありがとう——  この国にはね、いい言葉があるんだ。 『終わり良ければすべて良し』ってね。  あなたのおかげで——私は、幸せになれた。  ——ありがとう」  人間に、私が見えるはずがない。  彼の視界と意識は、もうすでに混濁し始めているのかもしれない。  けれど——その目は、まっすぐに私を見つめている。  その顔は、私に向けて、微笑んでいる。  レイは、自分の手を伸ばし、彼の細い手をしっかりと握った。  溢れ出てくる涙を、抑えることができない。  両手で彼の手を強く包み、しゃくり上げながら頬を摺り寄せた。  その骨ばった指を、レイの涙が濡らす。 「ああ。……とても温かいね。  私は、幸せだ」  微かにそう唇を動かすと——老人は、静かに目を閉じた。  彼の魂が、沈む太陽の光に照らされて静かに夕空を昇っていくのを、レイは涙を止めることもせず見送った。 *  ある夜。  薄い雲をかき分けた向こうにある、こじんまりとしたカクテルバー。  壁際の小さなテーブルでお気に入りの酒をオーダーし、アイは何気なく窓の外を眺めていた。  今日は、若くて可愛らしい女の子に愛を届けてきた。  あの優しい男の子と二人で、大きく実らせてくれたらいいけど。  ふと、向かい側の椅子が静かに引かれ、アイは顔を上げる。  そこには、銀色の髪をさらりと落としながら微笑む、美しい女がいた。 「——真っ赤なドレスの女が、私に教えてくれてね。  涙が、誰かの幸せのために使えるんだって。  聞いたときは、信じられなかったけど——それ、本当だったわ。  今夜は、その話を聞いてくれる?」 「ええ。いくらでも」  アイは、弾けるような笑顔で死神の微笑に応えた。                       <了>
2026/10/22 ・ 👁️ 16回 ・ 💬 1件

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