英会話講師サラは、休日はなるべく人が混まないところを散策する。
別に賑やかなところは嫌いではない。ただ、大都会・東京の静かな街を歩いていると、細い路地の角、古びた石段の上などに、突然立派な寺社が現れることがある。
「宗教が生活に溶け込んでる。これがリアルジャパン!」
英会話スクールでは、比較的生徒が少ない土日のシフトを希望した。人が少ないとレッスンが早めに終わる。そういうときはチャイムが鳴るまでフリートーク。サラはこの時間が楽しくてしかたない。
映画の話をすることがある。「一番好きな映画は?」と聞くと、年齢層高めの生徒では、かなりの確率で「ローマの休日」と答える。若い人でも「ローマの休日」を知ってる人は多い。とても興味深い。
「日本人って、壁を乗り越えてのハッピーエンドよりも、宿命を受け入れるせつない恋が好き?」
土日の生徒は年齢層高めで、日曜日の午後だけ時間が空く子育て中の主婦や、平日は部活で忙しい高校生なんかが交じる。そんな中に、普通のサラリーマンで、いつも日曜の午後にレッスンを入れる30歳くらいの男がいた。サラは男に「なぜ日曜なの?」と聞いたことがある。答えは平凡。
「休日にうちにいても暇だから」
休日に予定がないのがバレるから、普通、若い人は土日は敬遠しがちなんだけど……。「変わってるけど、正直な人」
サラは元々快活でアクティブなオージーガールだから、人が集まるイベントも嫌いではない。今月末の花火大会には、友達と一緒に行く約束をした。
「人混みに行くなら、絶対浴衣! サンダルではなく、ちゃんとした木の下駄!」
花火大会はまだ先だったが、土曜日の仕事終わりに、街で浴衣と下駄を買った。1時間かけて選んで、オーストラリア国旗のような色調の浴衣にした。
翌日の日曜。特に急いだわけではないが、担当したすべてのレッスンで時間が余った。だから、すべてのレッスンで花火大会に着ていく浴衣と下駄を見せて自慢した。ラストのレッスンの生徒は「うちにいても暇だから」男。
飲み込みが早い生徒なので、レッスンは早めに終了。早速、浴衣と下駄を見せた。すると、今までの生徒とは違う反応をした。
「この人、浴衣そっちのけで下駄の鼻緒を指で広げてる。擦れて皮が剥けるのが心配なんだって……」
「浴衣のこと、褒めてくれないなあ。お世辞も言えないなんてコミュニケーション下手? でも親切……」
男は鼻緒に指を引っ掛けて、ぐいぐい引っ張る。額にうっすら汗がにじんでいる。サラは「もういいよ」と言おうとしてやめた。男に任せることにした。
「『誰と行く?』って聞かないの、たぶん世界で彼だけだよ。私に興味ない? そんなこと聞いたらセクハラになると思ってる?」
「私が外国人だから、女として見られない? でも、こんなに優しい」
いろいろ考えた。
「無愛想だけど優しい……。ちょっと変わっててミステリアス」
終了のチャイムが鳴った。男は下駄をサラに返して、花火大会に行く前に下駄を履いて、十分足に慣らすように念を押した。
「サンキュー。バーイ」
サラは教室を出た。
快活でアクティブなオージーガール。サラはいろいろ確かめたい。
「よし、来週は浴衣でレッスンだ!」
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僕がとにかく「じゃんけんが弱い」ということに気付いたのは、5歳の時だった。
ある梅雨の週。ほしぞら幼稚園きりん組の教室の中。はるちゃんと、今日はどちらが『どうぞのいす』の絵本を読むかを決めるためにしたじゃんけん。それで8連敗をしたことがきっかけで、もしかして自分はとんでもなくじゃんけんが弱いのではないかと自覚した。
もちろん、必ずしもじゃんけんに負ける”必敗”というわけではない。普通の人のじゃんけんの勝率が50%だとしたら、僕の勝率は20%くらい、といったところだ。
だから、小学校3年生の時に、クラスメイトの山崎に、「田中、お前めっちゃじゃんけん弱いってマジ?」と聞かれてじゃんけんをしたときに、普通に勝ってしまい、「なんだよ~~!!弱くないじゃん!」と嘘つき扱いされたこともあった。(理不尽だ!!!)
それなのに、僕の人生は、ここぞというときにじゃんけんをさせられることが多かった。中学2年生のとき、男子と女子のどちらがプールの掃除をするかで、男女それぞれの代表がじゃんけんをして決めることになったときがあった。僕は、「今日この日のために!田中はジャンケンに負け続けたんだよ!!」という山崎の謎理論によって男子代表に選出され、女子代表にあっという間に負けた。(5本勝負で全敗した)
女子たちから「やったー!!コハ最高!」と女子代表が褒められている横で「なんのためにこれまで負け続けたんだよ!」とあまりにもトンチンカンなディスられかたをしたのは今でも覚えている。
唯一、じゃんけんの弱さが功を奏したのは、高校生のとき、ずっと好きだった渡辺さんに告白をしたときだった。渡辺さんは、僕のくだらない話にも笑ってくれて、そんなときに見せる、いたずらっ子みたいな笑顔がとても好きだった。
文化祭の終わりに、一生分の勇気を出して「僕と付き合ってください。」と告白したら、「じゃあ、私に10回中1回でもじゃんけんで勝てたらいいよ?」と返された。
脈ナシ過ぎて遠回しに振られたのかと思ったが、その顔にいたずらっ子みたいな笑顔が浮かんでいるのを見て(かわいい)、行けると思い、絶対に勝つと心に決めた。そして負けた。
見るからに沈んだ僕を見た渡辺さんは、いたずらっ子みたいな笑顔から、申し訳なさそうな笑顔に変わって、「やっぱ田中くんってわかりやすいな。すごくへこんじゃって……。ごめんね、ちょっといじわるしちゃった。付き合おうよ」と言ってくれた。後から聞いたら、7連敗、8連敗と負けを重ねるごとに絶望していった僕が、なんだかかわいく見えてOKしたとのことだった。
そして、付き合って7年記念日の今日。
僕は、渡辺さんにプロポーズをする、最後の勇気が出せないでいた。
準備もしっかりとしたはずだった。しっかり指のサイズや好みもリサーチして、指輪も用意した。ここまでのデートのルートや、感触も上々だった。
もしかしたら自分は、じゃんけんだけでなく、勝負事やここぞという場面全部に弱いのではないか。決心を前にすると、そんなネガティブな感情が浮かんできてしまうのだった。僕は渡す予定の指輪を右手に握りしめ、嫌な気持ちを払おうとする。
すると、渡辺さんが沈黙を破って僕に言った。
「あのさ。今日私に、何か渡そうとしてたものあったんじゃないの?」
「うぐ」僕は動揺する。
「しょうがないなあ」渡辺さんはそういうと、一歩先に進み、僕の方を振り返ってこう言った。
「じゃあ、私と今からじゃんけんして?もし田中くんが勝ったら、観念して、勇気出してよ。」
「な、なんでそれをじゃんけんで…」
「いいから。ここぞというときのために、今まで負け続けてきたんでしょ?」
渡辺さんは、なんで今じゃんけんを選んだんだと、僕の頭は真っ白になった。でも、最後の”ここぞというときのために、今まで負けてきたんでしょ?”の言い方には、有無を言わせない力強さを感じた。
そうだ。今日みたいな日のために、僕は負け続けてきたんだ。それに、もう何を出すかを考える必要もない。僕が出せる手は、一つしかない。
「じゃん、けん、ぽん」
僕は、指輪を握りしめた右手で、そのままグーを出した。
そして、渡辺さんは、チョキを出していた。
「あ……。勝った……」
全身に入っていた力が、ふっと抜ける。ここぞという勝負に、僕は勝ったのだ。
すると、目の前の渡辺さんが、ふふっとふき出して、いたずらっ子の笑顔を浮かべた。
「あははは。やっぱ田中くんわかりやすすぎ!!」
「え、そ、そう?いや、だって僕、じゃんけん超弱いのに。このタイミングで勝てたから……」
「違うよ!ごめんね。田中くんが特別弱いんじゃないんだよ。私が、田中くんのクセを読めるってだけなんだ。だって、”15年以上も一緒にいる”から。ほら、田中くん、別に私以外の相手には、たまには勝ててたでしょ?」
あ、と思った。思い返せば、そうだった。幼稚園で『どうぞのいす』を取り合った時も、中学校でプールのじゃんけんをしたときも、高校で告白をして10連敗したときも、全て、相手は、今目の前にいる【渡辺小春】さんだった。
これまでの自分の敗北の原因に思いをはせていると、渡辺さんが「ほら」と先を促す。
「はい。じゃあ、約束。君が勝ったから。」
そういうと、渡辺さんは、チョキだった手をパーにして、手の甲を上にして、薬指を強調するように僕に差し出した。
負けないように僕も、グーにしていた手を開いた。
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「なんだったけ?」
私の手には、前に探していた不揃いになったトランプのカード《《ハートの2》》が握られていた。
たしかタロットカードの小アルカナ、《《カップの2》》がその起源。仕事でも恋愛でも、パートナーとの仲を指すカード。喧嘩した後の仲直りや、二人の間の契約といった意味だった。と学生時代に覚えた事に思考がスライドしていってしまい、今は大切な物を探していたんだけど、なんだったけ。となっている真っ最中だ。
インターホンが鳴り応答すると、インターホンの画面に見知らぬ男性が映っていた。私が困ったのを察したのか、男性は数歩下がると、全身が映るようにクルリと回った。両手にはビニール袋。
「あ、今開けますね」
慌てて返事をして開錠のボタンを押した。ヘルパーさんに買い物を頼んだ事を、また忘れていた。
私は四十を過ぎてアルツハイマー型認知症を発症した。今はまだ短期記憶障害の段階で、十歳年下のヘルパーさんが簡単なお手伝いをしてくれている。
「あら、お花まで頼んでいたのね」
彼がテーブルに置いた荷物の中に、透明なシートに包まれた私の好きな花があった。
「これは喜ぶかなと思って勝手に」
「まあ」
優しい心遣いが、また私の心を熱くした。恥ずかしながら、年も離れヘルパーと患者という間柄であるのにも関わらず、私は彼に恋心を抱いてしまっていた。
冷蔵庫に食材をしまった彼は、花瓶を見つけると花を生けた。
「はい、お茶」
両手に湯呑みを持って来た彼は、一つを私の前に置いた。その指には光る物があった。
「ああ」
思わず自嘲ぎみに声を漏らした。
「どうかした?」
優しい彼の瞳に、私の口は気持ちまで言葉にしてしまう。
「もっと若かったら。こんなんじゃなかったら。あなたにプロポーズできたかもーなんて思って。来づらくなってしまったら、ごめんなさい。でも人として好き」
「ありがとう」
彼は少し悲しそうな顔をして、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「僕も好きだよ。だから何度でもプロポーズするよ」
驚く私の手を取ると、彼は指輪を取り出して私の指にはめた。
「あ、探してたやつ」
そして私は思い出す。目の前の湯呑みと彼の湯呑みが、大きさの違う同じ絵柄の色違いの訳を。
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愛していた。本気だった。
なのに……どうしてこんなことになってしまったんだろう。
暗い夜のベンチに、私は一人で座っていた。
雪がひらひらと舞う。
嫌になるくらい、ベンチ横の街灯が明るい。
かじかむ手を、もう、誰も握ってくれない。
あの人がいたときは、ずっと冷たくなかった。
指がひび割れて血が滲む痛さも、外の凍えそうな寒さも。ずっと知らなかった。
手を繋いで帰ってくれた昼のこと。
「寒い?」と上着をかけてくれた夜のこと。
寒かった日もたくさんあったはずなのに、寒かったと覚えている日はなかった。
たくさん笑って過ごしてきたはずなのに、どうして彼の隣は私じゃないの?
浮気をされたのなら、まだ諦められた。
相手が悪かったなって責めることもできたのに。
それすら貴方はさせてくれない。
私が悪かったなら、責めてくれたって良かった。
でも、貴方は最後までそうじゃなかった。
「ごめん」ってそれだけ言って。
最後まで、優しかった。
貴方がいなくなった。
もう二度と、私の隣には戻ってこない。
それだけで、私はこんなにも胸に穴が空いたように痛むのに。
……酷い人。
スマホと財布以外、何も持たずに飛び出してきてしまった。
どうしたらいい? これから、どうすればいいの。
俯くと、ポケットから指輪が溢れ落ちた。
これは、あの人から貰った大切な……
ううん、もう要らない。
だって、もう終わったんだから。
私は地面に落ちた指輪を拾う。
川に投げ捨てようとして振りかぶったまま、腕を振り下ろすことができない。
「…………っ」
背中が冷えて痛む。
雪が冷たい。
お願い……早く、迎えに来てよ。
前が見えなくなるほどに、視界が濡れた。
私はギュッと、両手で指輪を強く握りしめた。
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テレビを二人で見ている。
彼女の肩に頭を乗せている。それが私の定位置。
「そういえば、フォトウェディングいつにする?」
「フォトウェディング?何のこと?」
彼女が少しだけ拗ねたように。
「この前、撮ろうねって言ったじゃん。記念に」
「記念?」
「いやいや、誕生日に指輪渡したじゃん」
「……え?」
誕生日の記憶はある。
その日は、仕事があって夜に夜景がきれいなレストランに行った。
ただそれだけ。
彼女は、不機嫌そうな顔をしつつ、困った顔。
「忘れたふり?面白くないよ」
そう言いながらスマホの画面を私に見せる。
画面には、笑いながら泣いている私と照れ臭そうに笑っている彼女の顔。
指には、指輪がはめてある。
スマホから視線を外し、彼女の指を見ると指輪が。
そして、思わず私の指を見たら指輪がはめられていた。
さっきまでは、無かったはずの指輪。
デザインは同じ。緩い曲線をえがいているシンプルな指輪だ。
「…………」
指輪を外して内側を見る。
私と彼女のイニシャルと石がついている。
石は二つ付いている。多分、誕生石。
彼女は、自分の指輪を嬉しそうに撫でている。満足気だ。
「うん。そうだね」
私は相槌を打つことしかできなかった。
自分のスマホを開く。
写真やメッセージ履歴。
確認をしたら、全く記憶にないのに、彼女に指輪を貰ったことは確からしい。
「ねぇ、あの日、なんて言ってくれたっけ?」
記憶がないプロポーズの言葉、聞いていないのが悔しかった。
「また言うの?恥ずかしいから言えないよ」
彼女が指輪を指先で引っ搔きながら言う。
「じゃあ、フォトウェディングの時に、また言ってあげる」
「……うん」
でも、私は最初の言葉を聞いていない。
それが、とても後悔している。
続きを読む
ため息しか出なかった。
このままでは志望校に落ちてしまう。
毎日頑張って勉強しているはずなのに。
日曜日のアルバイトをやめようか……
そうすればもうちょっと勉強できるはず。
とはいえ免許を取るのにアルバイトを辞めたくない。
来年の今頃は一人暮らし。
今すぐ必要なわけじゃないけれど、将来的に運転免許は絶対に必要になるだろう。それに一人暮らしを始めるのなら何かとお金が必要になる。
……その前にまず志望校に受からなくてはいけないけれど。
土曜日は家からそう遠くない図書館に行って自習をする。
いつのまにか正午を過ぎていた。
図書館を出て近くのコンビニでパンを買って、歩きながらかじる。
「よぉ、遥香!」
後ろから声をかけられて振り返る。
「なんだ豊川か」
クラスメイトの豊川がバイクに乗って後ろにいた。
「浮かない顔してるな。ちょっと後ろに乗らないか!ぐるっと回ってたら気分も晴れるぜ」
「それってダメなんじゃないの?だいたい私ヘルメット持ってないし」
「いいから!ちょっとだけなら」
そう言って豊川は笑う。
「……しょうがないな」
私は彼のバイクの後ろに腰掛けた。
やはりどう考えても二人乗りで、ましてやヘルメットもかぶってないのは違法なんじゃないかと思うけど。
そういえば高校生だけど、豊川はいつ免許を取ったんだろうか。
バイクの二輪は高校1年生から取れるんだっけ?
よくわからない。
やっぱり早めに私も免許を取りに行きたい。
風が頬を抜ける。
私は彼の背中に頭をもたげかけた。
心地よい風が憂鬱な気分を吹き飛ばしていく。
やがて私たちは海へと着いた。
「お前さー勉強頑張ってるのはわかるけど、最近顔が暗いんだよ。何て言うの?アンニュイ?」
私はそんなに、気だるそうな顔をしているだろうか。
「あんたはアンニュイな気分になりそうにないもんね」
と私が言うと 少し不満そうな表情を浮かべた。
「俺だって、たまにはアンニュイ?な気分になることだってあるんだぜ」
なぜか腕を組んで、偉そうにそう言う。
「そうだね。最近ちょっと勉強ばかりで疲れが溜まってたかも」
波の音が心地よく、はるか先で汽笛の音がするのが聞こえた。
「あーあ、私も早く免許取りに行きた」いな。そしたら、あんたみたいにバイクでどこにでも行けるし
私のため息を波の音がかき消す。
「その時は一緒にツーリングしようぜ!」
「いいかもね」
二人で一緒に、ロードムービーみたいな旅をする。
全ての憂鬱を吹き飛ばして……
アンニュイな心は波の音へと溶けていった。
※ストーリー上の設定になっておりますが、バイクのヘルメットなしの二人乗りは絶対にしないでください。危険です。
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窓辺に光る月の涙
これは君が残していったもの
小さなかけらと思い出と
君といた時間が
どれほど僕にとって大切だったか
今頃になって思い知る
月の女神ディアナの涙
淡く輝くあの日の思い出
君の笑い声が
聞こえたような気がした
僕と君が出会ったのは高校生の時、お互い美術部だった。
君はよく笑う子で、それから女子には多いかもしれないけれど占い好きで天然石や花言葉や誕生石の言葉なんかが好きだった。
僕はそんなものには全く興味がなかったので彼女が話しているのを、ただぼんやりといつも聞いていた。
まあ確かに天然石は綺麗なんだけれどそれにまつわる話なんて全く興味がなかった。だがそれでもキャッキャと楽しそうに女の子たちが話しているのを聞いていてその様子には、ただ楽しそうでいいなとは思っていた。
付き合うことになったのは彼女からの告白の方だったと思う。
僕は断る理由もなかったし、正直初めはただなんとなく付き合い始めた感じだった。
だが明るく朗らかな彼女の声を聞くのは楽しかったし話題もいつも色々なことを話してくれて楽しかった。
初デートは博物館。
ちょうどその時の展示が授業の歴史の内容と噛み合っていたからなんとなく選んだ。
2人で色々見て回り展示場の外の入り口近くアミューズメントストアに売っていた小さな天然石のネックレスを記念に彼女に買った。彼女の喜び様たらなかったな。
「知ってる?ムーンストーンは月の女神ディアナの涙が凍ってできたものなんだって!」
ありがたいことにそれは数千円程度で高校生のバイト代で買えるものだった。
確かに透明な涙色の小さな天然石のネックレス。
僕はちょっと照れていた。
それから彼女はデートのたびにその小さな石のネックレスをつけてきた。
彼女の胸元でキラキラと輝いて見えた。
高校時代の3年間彼女と付き合っていたが結局お互い別々の大学に行くことになって自然消滅してしまった。
再会したのは10年後。
それは本当に偶然だった。
……いや、必然だったのかもしれない。
仕事の取引先で彼女と再会し再び付き合うことになった。
彼女は高校時代と全く変わらず弾んだ明るい声で話す。
それが心地よく、こちらの気持ちまで楽に幸福な気持ちになれた。彼女のことを再び好きになるまで、あまり時間はかからなかった。
結婚を申し込もう。そう決めたのは再び出会ってからたった3ヶ月しか経っていなかった。だがそれは3年間という青春時代を一緒に過ごした僕たちには十分な時間だと思う。
当時の僕は正直言うとあまりお金を持っていなかった。
独身でお金に頓着がなくて割とパパッと使ってしまっていたせいもある。
だから彼女へのエンゲージリングを買うのに宝石店でちょっと戸惑っていた。何とも情けない話だけれど。
そうだ誕生石というのも悪くないかもしれない。
店員さんの話を聞きながらそう思った。学生時代彼女にプレゼントした石と同じ、『ムーンストーン』の指輪が売っていたのだ。
ムーンストーンというのは6月の誕生石らしい。
彼女の誕生日と同じ。
そしてこれから彼女にプロポーズするならやはりそれらしい日がいいと思う……つまり僕は彼女の誕生日にプロポーズしようと考えていた。
指輪を買い当日まで大切に持っていた。
そしていざ渡そうとしたその日はどういうわけだかトラブル続き、残業で深夜になってしまう。
仕事が終わり先に上がろうとした彼女を呼び止めて屋上まで来てもらい指輪を差し出した。
「僕と結婚してください!」
だめだ、顔が上げられない。
「……今夜は月が綺麗ですね」
彼女の声が聞こえた。
顔を上げれば月明かりの下、女神のように微笑む彼女。
いや実際に僕の女神だったんだ。
情けない話、プロポーズの時の彼女の言葉の意味がわかったのはずっとずっと後になってからだ。
文学の話なんて僕はまるっきり詳しくない。
夏目漱石の『I love you』の翻訳なんてまるで知らなかった。
その後の人生も彼女は月明かりのように僕を照らしてくれた。
今はもういなくなって彼女の残した指輪が光るのみ。
ドレッサーの横のアクセサリーを彼女が亡くなってからも片付けられずにいた。
窓から差し込む月明かりに
ただ月の涙の石だけが輝いていた。
続きを読む
デートでは無口なあなたも、枕で向かい合うとおしゃべりだった。そこに嘘偽りはないと思ってた。
でも、それは誰かに見せられない分だけ。私が知っているのは、誰かが知らない一部分。
独りの休日。街であなたを見かけた。
「明日の夜、部屋に行くよ」
その時に届いた通知は、残業という名の約束だった。
奪えるものなら奪いたかった。でも。携帯電話をしまったあなたが、満面の笑みで握っていたのは。
私よりもっともっと小さな掌だった。
続きを読む
部屋の電気を点けるのさえ久し振りのように思えた。しばらく洗面台で生気のない男とにらめっこをしてから髭を剃った。
部屋に戻るとエアコンを切り、全開にした窓から頭を出して空を仰いだ。
白く眩しい日差しが部屋へと差し込む。冷たい空気が一気に肺へと流れ込んで、体が目を覚ましたかのように震えた。
「はあーー」
肩を揺らして息を吐くと、体に入った冷たい空気が白い息となって視界を曇らせた。
オーディオ機器の電源を全て切って、うっすらと白く積もった埃を拭き取ってゆく。丁寧に、丁寧に。行き場のない想いを拭いとるように。
**********
就職してからも、よく遊んでいたサークルの後輩だった彼女は、大学を卒業すると俺の所へとやって来た。同棲していた彼氏と別れて行き場がなくなったというのが理由だった。そう知っても、交際を始める事に抵抗はなかった。そして住み慣れた1DKから、同棲できる広さのこの部屋へと引っ越してきた。
リノベーションされた物件も、都内から一駅離れただけで格安になった。道路を挟み、鉄橋のかかった川を臨めるアパートの二階。そこが二人の家になった。
『|代々木《よよぎ》|幸樹《こうき》』
『|佐々木《ささき》|木実《このみ》』
並べた表札は苗字の文字が似ているから、よく夫婦だと間違われた。それで困ることもないから、ふたりとも強く否定する事もなかった。
チェーン経営の弁当屋で彼女はバイトをしていた。それもマネージャー業務を任せられるほどに信頼されていた。キャンセル品などを貰ってきては、それをレンチンせずに再調理して食卓を飾ってくれた。万年コンビニ弁当だった俺に、彼女は食べる喜びは生きる喜びに繋がっていると教えてくれた。そして仕事から帰る楽しみをくれた。
「木実。充電器のコンセント抜いて」
「コンセントは抜けないよ。プラグでしょ」
悪戯に笑う彼女は常に隣にいた。リビングで映画を観る時も。ソファで居眠りする時も。部屋で珈琲と読書をする時も。ベッドで「おやすみ」と囁く時も。
今となっては自分だけが感じていたのかもしれないが、幸せに満ちた生活だった。その生活が変化し始めたのは、彼女がバイト先で社員契約を結んだ時期と、俺の仕事がリモートになった時期が重なった頃からだった。
広告代理店でキャッチコピーを受け持っていた俺は、緊急事態宣言の発令によって自宅作業という事態になった。送られてくる雑誌などの広告ページのデータに、考えたキャッチコピーやフォントのデザインを入れて送り返す。あとは週に一度のオンラインミーティングだけ。家で出来る事をオフィスでやる事で、仕事をした気になっていたのだと気付いた人も多かっただろう。そんな中でバイト先の弁当屋で社員雇用された彼女は、俺が家に居られる時間が増えると喜んでいたのも束の間、デリバリーの需要増加で仕事が増えていった。
ひとりの時間。カチカチとパソコンで仕事を済ませると、映画を観ながら昼寝をした。洗濯も夕食も彼女が帰って来てからやってくれていた。繰り返す日々の中で、俺は実家にでも居るかのようにテレビを観ているだけで、いつしか彼女を気遣う事もしなくなっていた。彼女は何を感じ、どんな風に思っていたのか。その答えは唐突に、しかし当たり前に俺の前に突きつけられた。
いつものように、出勤していた時よりも遅く起きてテレビをつけると、コーヒーメーカーで珈琲をいれた。ソファに座りマグカップに口を付け、テーブルに置かれたメモ用紙を何気なく手に取った。
『お世話になりました! 幸せな時間をありがとう。大好きだったよ、こうくん。』
しばらく停止した思考が、パソコンの再起動みたいに、ゆっくりと動き出しメモ用紙の文字を読み込んでゆく。いつもより冷えた空気に気付き、やっと部屋の空間が広いと感じとった。
きっと少しずつ物は減っていたのだろう。それにさえ気付かずに、最後のメモ用紙一枚になっても理解するのに時間を必要としたなんて。最悪だと思った。彼女の行動よりも、自分の有様に。
それからは何も出来なかった。いや、やる気が起きなかった。テレビは見るでもなく、つけっぱなしだった。飲み食いは、大して喉を通らないので買いだめされた物で十分だった。ソファで寝起きして、リモートでのミーティングは手櫛とマスクで不摂生を誤魔化した。仕事で使うキャッチコピーは、書き溜めたストックから選んで、時にはフォントを変えて使いまわした。
部屋ごと過去に閉じ籠ったまま、その場しのぎの生活が続いた。ミーティングで職場のみんなと話しても、小さなモニターの向こう側に現実なんて感じもしなかった。ただ、ひとりを除いては。
「先輩お風呂入ってます?」
「先輩なんか食べてます?」
「先輩ちゃんと寝てます?」
彼女が居なくなって二回目のミーティングが終わった頃からだった。入社二年目の|水澤《みずさわ》|芽留《める》は、わざわざ個別でリモートを繋いできては仕事の話しの後にズバズバと突っ込んでくるようになった。
最初はよく気付くなと面倒臭く思いながら適当に対応していたが、いつしか何気ない水澤との会話が、唯一外との繋がりのようになっていた。
ズルズルと過去を引きずる生活が二カ月過ぎた頃だった。いつものように部屋の電気もつけずに、ソファで横になったまま見るでもなくテレビを眺めていた。窓から射す光が照らす部屋の中、ふとオーディオラックの横の壁にあるコンセントが目に入った。そこに刺されたプラグの上には綿埃が乗っかっていた。ずっと掃除をしていなかったにしては白いように感じた。埃といえば黒っぽいイメージだ。
さほど気になった訳ではないが、ソファから体を起こすと部屋を見回した。ブラックで統一されたオーディオラックや本棚も、うっすらと埃をかぶっていた。掃除されていた事に今まで気付きもしなかった。気付かないくらい彼女に無関心だった。自分の愚かさにも。
リビングも風呂もトイレも掃除した事がなかった。汚れていると感じた事さえ。自分がどれほど彼女に支えられていたのか、今さら痛いほどに分かった。
彼女への未練が埃となって部屋に降り積もっている気がした。それはやがて後悔となって俺自身を埋め尽くすだろう。雪山のように白い埃の中で遭難している自分が想像できた。
スマホに手を伸ばし、彼女のダイヤル番号をタップする。使われていない事を再確認してソファに横たわると、腕で両目をふさいだ。
『お世話になりました! 幸せな時間をありがとう。大好きだったよ、こうくん。』
彼女が残したメモ用紙が脳裏に浮かんだ。大好きだった男がこれじゃ申し訳ないなと思った。もう会って感謝を伝える事もできないのだろう。だったら。せめて彼女との生活があったから今の俺がいるのだと言えるくらいにはなろうと思えた。
「やるかー」
起き上がり声を出して伸びをした。部屋の電気をつけると、まぶしさに少し目が痛んだ。顔を洗い、髭を剃ると、鏡の向こうに見覚えのある男が現れた。
「お前、生きてたのか」
鏡に向かって憎まれ口を投げつけると、部屋へ戻ってエアコンを切った。全開にした窓から頭を突き出すと、冷蔵庫に突っ込んだようで気持ちが良かった。窓を開けたまま掃除を始めた。気持ちも空気も入れ替えるように。
自分の中に積もった、行き場のない気持ちを拭うように、白く積もった埃を丁寧に拭き取っていった。綺麗になると、何もない空間が目立つ気がした。
「新しい部屋探すかな」
手を止めずに独りつぶやいていた。
「せんぱーい!」
気のせいだろう。誰かに呼ばれた気がした。
「せ、ん、ぱーい!」
気のせいかと思ったが、また聞こえた。立ち上がり窓から顔を出すと、こちらに向かってビニール袋を持った両手をブンブン振っている人がいた。
「水澤!? どうしたの!」
「もーいくら心配しても要領を得ないんで来ちゃいましたー!」
「ちょ! 静かに! 待って今行くから! マスク付けて!」
不要不急という近所の目もあるから慌てて迎えに行こうとした。しかし中々マスクが見つからなかった。焦っている内にインターホンが水澤の到着を知らせた。囚われた過去から生還したようなこのタイミングに、まるで現実がどっと押し寄せて来たようだ。でもそれは救われてもいるようだった。
インターホンには出ずに玄関へ向かった。今は水澤の厚意に感謝して、その押し寄せる現実に身を任せようとドアを開けた。訪れた笑顔は、吹き抜ける風と一緒に埃を窓の外へと運ぶようだった。
〈コンセントと彼女〉
続きを読む
アリスの手元の懐中時計の針が、逆転をはじめた。萎れた勿忘草が、みるみるうちに青い色を取り戻していく。
まるで魔法のような現象に、僕はただ目を瞠るばかりだった。すっかり崩壊してしまった都市も、目に入らないほど。
握りしめた繊手が離れていく。浮遊した彼女の身体を光の粒が包み込む。
慌てて彼女の手を掴もうと、手を伸ばす。けれど、すんでのところですり抜けてしまう。
何度も何度も繰り返して、しかし僕は彼女の手を掴みそこねていた。
「大丈夫」
輝きに包まれる向こうで、アリスはふんわりと笑う。焦る僕をなだめるように。けれど、何処か寂しそうに。
「貴方が私を判らなくても、私が貴方を見つけるから」
アリスの声は、だんだん遠くなっていく。彼女の姿もまた、おぼろげになっていく。行ってしまうのだ、と悟った瞬間、僕の目が、胸が、熱くなった。
「今度こそきっと、私が貴方の望む未来を創ってみせる」
だから安心して。
アリスの声が消えていく。彼女の儚い姿も、光に呑まれて消えていく。
そして、僕だけが残された。曇天の下、破壊し尽くされた世界の真ん中に。
地面に溢れた勿忘草の花束が、埃っぽい風に煽られてアスファルトの上を転がっていく。
頬を熱いものが流れていることには気がついていた。けれど、涙を拭う気力もなかった。独り残された。その事実が僕を打ちのめして。
どこからともなく、鐘が鳴る。重厚で神聖な、刻の音。
灰色の空が崩れ落ち、瓦礫の大地が浮遊する。無の一点に収束されていく。選択を間違えてすべてを壊した僕の時空が、無に帰ろうとしている。
空を仰いで、目を閉じる。これは君が新しい時間に辿り着いた証左。なら、僕は受け入れよう。この時間の終わりを。僕の終わりを。
そして君が、僕と新しい未来を築けることを祈ろう。
――けれど願わくば、君が〝僕〟のことを忘れずにいてくれんことを。
続きを読む