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コンセントと彼女
3,430文字
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部屋の電気を点けるのさえ久し振りのように思えた。しばらく洗面台で生気のない男とにらめっこをしてから髭を剃った。
部屋に戻るとエアコンを切り、全開にした窓から頭を出して空を仰いだ。
白く眩しい日差しが部屋へと差し込む。冷たい空気が一気に肺へと流れ込んで、体が目を覚ましたかのように震えた。
「はあーー」
肩を揺らして息を吐くと、体に入った冷たい空気が白い息となって視界を曇らせた。
オーディオ機器の電源を全て切って、うっすらと白く積もった埃を拭き取ってゆく。丁寧に、丁寧に。行き場のない想いを拭いとるように。
**********
就職してからも、よく遊んでいたサークルの後輩だった彼女は、大学を卒業すると俺の所へとやって来た。同棲していた彼氏と別れて行き場がなくなったというのが理由だった。そう知っても、交際を始める事に抵抗はなかった。そして住み慣れた1DKから、同棲できる広さのこの部屋へと引っ越してきた。
リノベーションされた物件も、都内から一駅離れただけで格安になった。道路を挟み、鉄橋のかかった川を臨めるアパートの二階。そこが二人の家になった。
『|代々木《よよぎ》|幸樹《こうき》』
『|佐々木《ささき》|木実《このみ》』
並べた表札は苗字の文字が似ているから、よく夫婦だと間違われた。それで困ることもないから、ふたりとも強く否定する事もなかった。
チェーン経営の弁当屋で彼女はバイトをしていた。それもマネージャー業務を任せられるほどに信頼されていた。キャンセル品などを貰ってきては、それをレンチンせずに再調理して食卓を飾ってくれた。万年コンビニ弁当だった俺に、彼女は食べる喜びは生きる喜びに繋がっていると教えてくれた。そして仕事から帰る楽しみをくれた。
「木実。充電器のコンセント抜いて」
「コンセントは抜けないよ。プラグでしょ」
悪戯に笑う彼女は常に隣にいた。リビングで映画を観る時も。ソファで居眠りする時も。部屋で珈琲と読書をする時も。ベッドで「おやすみ」と囁く時も。
今となっては自分だけが感じていたのかもしれないが、幸せに満ちた生活だった。その生活が変化し始めたのは、彼女がバイト先で社員契約を結んだ時期と、俺の仕事がリモートになった時期が重なった頃からだった。
広告代理店でキャッチコピーを受け持っていた俺は、緊急事態宣言の発令によって自宅作業という事態になった。送られてくる雑誌などの広告ページのデータに、考えたキャッチコピーやフォントのデザインを入れて送り返す。あとは週に一度のオンラインミーティングだけ。家で出来る事をオフィスでやる事で、仕事をした気になっていたのだと気付いた人も多かっただろう。そんな中でバイト先の弁当屋で社員雇用された彼女は、俺が家に居られる時間が増えると喜んでいたのも束の間、デリバリーの需要増加で仕事が増えていった。
ひとりの時間。カチカチとパソコンで仕事を済ませると、映画を観ながら昼寝をした。洗濯も夕食も彼女が帰って来てからやってくれていた。繰り返す日々の中で、俺は実家にでも居るかのようにテレビを観ているだけで、いつしか彼女を気遣う事もしなくなっていた。彼女は何を感じ、どんな風に思っていたのか。その答えは唐突に、しかし当たり前に俺の前に突きつけられた。
いつものように、出勤していた時よりも遅く起きてテレビをつけると、コーヒーメーカーで珈琲をいれた。ソファに座りマグカップに口を付け、テーブルに置かれたメモ用紙を何気なく手に取った。
『お世話になりました! 幸せな時間をありがとう。大好きだったよ、こうくん。』
しばらく停止した思考が、パソコンの再起動みたいに、ゆっくりと動き出しメモ用紙の文字を読み込んでゆく。いつもより冷えた空気に気付き、やっと部屋の空間が広いと感じとった。
きっと少しずつ物は減っていたのだろう。それにさえ気付かずに、最後のメモ用紙一枚になっても理解するのに時間を必要としたなんて。最悪だと思った。彼女の行動よりも、自分の有様に。
それからは何も出来なかった。いや、やる気が起きなかった。テレビは見るでもなく、つけっぱなしだった。飲み食いは、大して喉を通らないので買いだめされた物で十分だった。ソファで寝起きして、リモートでのミーティングは手櫛とマスクで不摂生を誤魔化した。仕事で使うキャッチコピーは、書き溜めたストックから選んで、時にはフォントを変えて使いまわした。
部屋ごと過去に閉じ籠ったまま、その場しのぎの生活が続いた。ミーティングで職場のみんなと話しても、小さなモニターの向こう側に現実なんて感じもしなかった。ただ、ひとりを除いては。
「先輩お風呂入ってます?」
「先輩なんか食べてます?」
「先輩ちゃんと寝てます?」
彼女が居なくなって二回目のミーティングが終わった頃からだった。入社二年目の|水澤《みずさわ》|芽留《める》は、わざわざ個別でリモートを繋いできては仕事の話しの後にズバズバと突っ込んでくるようになった。
最初はよく気付くなと面倒臭く思いながら適当に対応していたが、いつしか何気ない水澤との会話が、唯一外との繋がりのようになっていた。
ズルズルと過去を引きずる生活が二カ月過ぎた頃だった。いつものように部屋の電気もつけずに、ソファで横になったまま見るでもなくテレビを眺めていた。窓から射す光が照らす部屋の中、ふとオーディオラックの横の壁にあるコンセントが目に入った。そこに刺されたプラグの上には綿埃が乗っかっていた。ずっと掃除をしていなかったにしては白いように感じた。埃といえば黒っぽいイメージだ。
さほど気になった訳ではないが、ソファから体を起こすと部屋を見回した。ブラックで統一されたオーディオラックや本棚も、うっすらと埃をかぶっていた。掃除されていた事に今まで気付きもしなかった。気付かないくらい彼女に無関心だった。自分の愚かさにも。
リビングも風呂もトイレも掃除した事がなかった。汚れていると感じた事さえ。自分がどれほど彼女に支えられていたのか、今さら痛いほどに分かった。
彼女への未練が埃となって部屋に降り積もっている気がした。それはやがて後悔となって俺自身を埋め尽くすだろう。雪山のように白い埃の中で遭難している自分が想像できた。
スマホに手を伸ばし、彼女のダイヤル番号をタップする。使われていない事を再確認してソファに横たわると、腕で両目をふさいだ。
『お世話になりました! 幸せな時間をありがとう。大好きだったよ、こうくん。』
彼女が残したメモ用紙が脳裏に浮かんだ。大好きだった男がこれじゃ申し訳ないなと思った。もう会って感謝を伝える事もできないのだろう。だったら。せめて彼女との生活があったから今の俺がいるのだと言えるくらいにはなろうと思えた。
「やるかー」
起き上がり声を出して伸びをした。部屋の電気をつけると、まぶしさに少し目が痛んだ。顔を洗い、髭を剃ると、鏡の向こうに見覚えのある男が現れた。
「お前、生きてたのか」
鏡に向かって憎まれ口を投げつけると、部屋へ戻ってエアコンを切った。全開にした窓から頭を突き出すと、冷蔵庫に突っ込んだようで気持ちが良かった。窓を開けたまま掃除を始めた。気持ちも空気も入れ替えるように。
自分の中に積もった、行き場のない気持ちを拭うように、白く積もった埃を丁寧に拭き取っていった。綺麗になると、何もない空間が目立つ気がした。
「新しい部屋探すかな」
手を止めずに独りつぶやいていた。
「せんぱーい!」
気のせいだろう。誰かに呼ばれた気がした。
「せ、ん、ぱーい!」
気のせいかと思ったが、また聞こえた。立ち上がり窓から顔を出すと、こちらに向かってビニール袋を持った両手をブンブン振っている人がいた。
「水澤!? どうしたの!」
「もーいくら心配しても要領を得ないんで来ちゃいましたー!」
「ちょ! 静かに! 待って今行くから! マスク付けて!」
不要不急という近所の目もあるから慌てて迎えに行こうとした。しかし中々マスクが見つからなかった。焦っている内にインターホンが水澤の到着を知らせた。囚われた過去から生還したようなこのタイミングに、まるで現実がどっと押し寄せて来たようだ。でもそれは救われてもいるようだった。
インターホンには出ずに玄関へ向かった。今は水澤の厚意に感謝して、その押し寄せる現実に身を任せようとドアを開けた。訪れた笑顔は、吹き抜ける風と一緒に埃を窓の外へと運ぶようだった。
〈コンセントと彼女〉
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