コメディ・日常
3082文字 約7分で読了

三時間スリーパー

山中詩織はショートスリーパーである。  詩織が続けて寝られる時間はいつもきっかり三時間。どんなに体が疲れていても、体調が悪いと思って横になったとしても、睡魔に誘われて目を閉じた時から数えて三時間したら目が覚める。そんな体質だった。  これが不眠症かと悩んだこともある。  近場の不眠外来を調べ、不眠についてのネット記事を適当に読み、たまにテレビで不眠について取り上げられていればチャンネルを変えることなく画面を見つめた。  ただ、詩織は不眠についての情報を得るにつれて、徐々にそれらの行動をやめていった。  だって、わたし、別につらくはないんだもの。  そう、詩織は三時間で終わってしまう睡眠時間を心配こそすれ、特別苦痛には感じていなかった。眠りたいのに、眠れない。そういった感覚とは無縁の三時間睡眠だった。  なんなら、詩織は最近、三時間しか寝られない己の体質を便利に使うようになっていた。起きたい時間の、きっかり三時間前に眠ればいい。いつからかそれが詩織の日常になった。  一応、転ばぬ先の杖として、スマートフォンでアラームはかけるが、大体そのアラームが鳴る前に起きる。ふわりと浮き上がる意識。自然と目は開くし、気分はすっきりとしている。それがたとえ世間一般では深夜と呼ばれる時間帯であってもだ。  詩織を目覚めさせるのは、まだ熱を帯びていない明るさだけが眩い朝の日の光でも、枕元で鼓膜を劈くけたたましいアラームの音でもなかった。詩織の体内にある、形のない無駄に正確に三時間だけ計る砂時計だった。  外の気温が、一日を通して半袖で過ごしやすいと感じられるようになった季節。平日最後の仕事を終えて帰ってきた詩織は、なんとはなしに、そうだ、明日は日の出を見に行こう、と思い立った。  平日の仕事の時は日の出より遅く起きるように調整していたし、休日に朝活と称して活動をしたい時には、日の出前に起きていた。詩織はここ最近、夜明けというものをおざなりにしていたのだった。  詩織の住んでいる単身者向けアパートから、徒歩二十分ほどの場所に小高い丘がある大きめの公園があった。丘の上は詩織の住んでいる街を一望できる、ちょっとした展望台のような作りをしている。詩織は方角の都合なんてろくに考えもせず、そこならば日の出も見られるだろう、と簡単に考えて目的地とした。  スマートフォンで日の出の時間を調べる。四時二十二分。それなら一時に寝たのでは少し遅いか、準備もしたいし零時半までに床につけばいいか、と雑に逆算してみて、夕飯の準備に取り掛かった。  寝る前の歯磨きまで終わらせて、詩織は寝心地はそこそこだが安心感だけはあるベッドに体を放り出していた。スマートフォンを見る。時刻は零時二十一分。まあ、そろそろ寝ておくか、と枕元にある充電ケーブルを手元の端末に挿して、ベッドのヘッドボードにあるちょっとしたスペースにいつも通りにスマートフォンを置いた。  アラームはかけなかった。  詩織の意識が、霧散していたところから徐々に凝り固まっていく。目覚めの感覚だった。まぶたを押し上げてみても日の出前の室内は、いまだ深い夜と同じ息の仕方をしていた。手探りで雑にスマートフォンを探し当てて手繰り寄せる。詩織の指に反応して点灯したブルーライトが、詩織の顔を照らし、明るさに慣れないままの眼球を焼いた。 「はぁ⁉︎」  薄手のかけ布団を蹴り飛ばして、体全体で飛び起きる。予定していた起床時間より三十分遅い。少し余裕を持って起きる予定だったからこそぎりぎり許容できる、しかし、のんびりとしてはいられない程度の寝坊だった。  あと十分で支度をしなければいけない。最近通販サイトで衝動買いをした、エスプレッソマシーンの出番は到底なさそうだった。  五分で顔を洗い、三分で適当な半袖とまあまあコンビニには行ける、というくらいのくたびれ具合をしたスウェットを引っ掴んで着替えた。残り二分、とりあえずストックしてあったペットボトルのお茶と財布、スマートフォンを愛用のショルダーバッグに詰め込んで靴を履いた。いってきます、ひとり暮らしでも挨拶だけは忘れないのは、詩織の母の教育の賜物だった。  街灯が頼りなく道を照らし、自販機のライトがやたらとやかましい住宅街を歩く。丘のある公園は、この道をまっすぐ行った先にある。道は緩やかな上り坂になっていて、日頃、車通勤のおかげで率先して歩かない詩織の足は早々に負担を感じ始めていた。行き先の公園には駐車場がないので、近場のコインパーキング代をケチるには歩かざるを得ないというだけだった。  詩織は歩いた。ゆっくり歩けばなんてことない道なのだろうが、何せ時間が限られている。耳の後ろから、少しだけ速い自分の鼓動を感じる。足に溜まる乳酸。スウェットはしっかりとウエストの紐を結ばなかったせいか、ずり落ちてくる。そんなものも気にせず、詩織はやはり歩いた。  近頃詩織が、時に三時間の睡眠の中に沈め、時に朝活だなんだと雑に放り出すばかりで、その美しさを記憶の彼方にやってしまった朝焼けが、今日はどうしても見たかったから。  公園が見える。中心にある丘も見える。家を出てから十六分、詩織は休まずに歩き続けていた。残り四分で丘を登れば、日の出には間に合う。よっしゃ、勝った。誰との勝負かもわからないまま詩織は内心でガッツポーズをした。  起き抜けから、詩織の体内時計が三時間という感覚を忘れるという事件があったが、結果オーライだと詩織は思っていた。まあ、たまにはこんなこともある。  日の出を見て満足したら、帰って寝直そう、こんな時間に活動していてもコンビニくらいしか開いていないし。  そうこの後の予定を決めながら、詩織は丘の上へ続く幅広の階段を上った。丘の上へ着く。スマートフォンを取り出して時間を確認すれば四時二十分だった。日の出まであと二分。確かに辺りは夜の色を少しずつ薄くしていた。朝の光の、霧散していた意識が凝り固まっていく気配がする。目覚めの感覚だった。  朝は来た。空が薄ら色を変え始めたから、日の出の方角がわからない詩織にもそれはわかった。ただし日の出は見られなかった。なぜならば、厚い雲が空を覆っていたから。 「天気予報、見てなかったなぁ」  詩織ひとりの丘の上、無感動な女の声が小さく地面に落ちて転がった。ペットボトルのお茶を飲む。冷えていないそれは、喉の渇きを潤すよりも、喉の油分を奪って胃に流れていくだけだった。  背中の汗は少し冷えて乾き、両足にじわりと残った疲労がなんだか物言いたげだった。見下ろした両足から目を逸らし、今にも文句を言いそうな心を黙殺する。  よし、帰ろう。だって、日の出見れないし。お店開いてないし。帰るしかないし。  詩織は来た道をとぼとぼと、行きよりいくらか小さくなった歩幅で帰った。帰りの道のりは下りのはずなのに、家に着くまで二十五分かかった。  シャワーで軽く汗を流して、食欲よりも疲労感が強かった詩織は、一度脱いだ寝巻きをまた着て布団を被った。  次に詩織が目覚めた時、ヘッドボード上に置いたスマートフォンの時計は、詩織が不貞寝同然の睡眠に入ってから三時間と三十分経ったことを知らせていた。  詩織は画面に大きく表示されたデジタル表示の時計をまじまじと見て固まった。おかしい。三十分長い。突如生まれた、睡眠時間三時間三十分のルート分岐。これまでには存在しなかった、新しい形のない砂時計。  詩織はこれから寝る度に、今体内にふたつある砂時計のどちらがひっくり返ったのかわからないまま、三十分という不確定要素を抱えて眠りにつくことになることを頭の片隅で悟ったのだった。
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作者:階きざし
2026/09/21 • 👁 99回 • 💬 0件
コメディ・日常
547文字 約2分で読了

縁切り雀

よう、俺は雀の太郎。みたらし団子みたいにツヤツヤな羽根が自慢のイケてる雀だぜ。  俺は色んな家の木を転々として暮らしている。最近じゃあ、電線に留まる事もしばしばあるが、やっぱり木の質感ってのが俺は好きだね。  少し前は、とある婆さんの家の木にいたんだ。その婆さんは随分手先が器用で、キラキラ光る綺麗な宝石を使った首飾りや、真珠みたいに綺麗な肌をした人形を作ったりしていた。  俺はその婆さんが窓辺で作業をしているのを見るのが好きでさ、よく木の上でチュンチュン鳴いて応援してやったもんだ。  けれど、いつしか婆さんは器用な手先で、光る薄っぺらな板をいじり始めてな。窓辺でブツブツ、ブツブツ……昔居座った寺の坊さんみたいに何かを喋って、ただ板を触るだけになっちまった。  悲しかったよ。俺は、婆さんが綺麗なモノを作ってる姿が好きだったのにな。まあ、仕方あるまいな。そうなっちまったのなら仕方あるまい。それが、アンタの望む事なら。何処にでもいる雀如きが、止められる筈もない。  やがて、太陽が顔を出した朝、俺は婆さんの家の木から飛び立った。あれからしばらく経ったが、婆さんは元気だろうか。顔を見てやりたいが、もうあの家が何処にあるのかも分からんぜ。  何せ俺は、雀の太郎だから。鳥頭の俺には、婆さんの行く末など知る由もねえのだ。
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作者:ころもやぎ
2026/09/20 • 👁 97回 • 💬 0件
コメディ・日常
1885文字 約4分で読了

白の嫁入り

「雨って言ってたけど晴れてんじゃん。そろそろ梅雨も終わ……?」 「どうしたのさ」  部屋着のまま外を見ていた兄の言葉が不思議な途切れ方をした。何やら、動揺しているようだ。 「はっ、白米……」 「今朝はパンだよ。白米は昼食べて」 「違うって! 白米! 白米の嫁入り!」 「まだ寝ぼけてんの?」 「だから早く寝ろっていつも言ってんのに」  訳のわからないことを叫ぶ兄を放置し、母と私は食事に戻った。  それでもまだ、兄は外を指差し叫び続ける。 「ほら見ろってこっち! 白米の嫁入り行列だろこれ!」  窓際へ近付き、兄と場所を交代する。外には確かに、白米が列を成していた。  和服に見を包んだ白米達は白い手足を生やし、アスファルトを踏みしめて進んでいる。  中には湯気の上がる桶を持っている白米もいる。あの中に炊きたてのご飯が入っているのかもしれない。 「マジだった……てか白無垢なんだね。やっぱ日本米だから?」 「かもね。黒留袖着てるのもいるし」 「冷静過ぎない? 冷めてんの? 現実に」 「ほらよく見なって。あんたが食べたがってた白米もあるよ」 「炊飯機で炊いたやつがいい」  静々と動き続ける白米達は、よく見れば両端の列でそれぞれ違う旗を掲げている。  どちらの旗にも、何か書いてあるようだ。 「あの旗なんか書いてない? えーっと『夢ぴかり』と『二目惚れ』だって」 「それってどっちも米の品種じゃなかった?」  記憶を探って唸る私と兄を順番に見て、それから再び白米の行列を見遣る母。  真剣な顔をして、口を開いた。 「品種改良の儀、ってこと?」 「えっ、それって俺達が目撃しちゃっててもいいやつなのっ?」 「いいんじゃない? 農家の人見当たらないけど」  そうなのだ。白無垢や紋付袴など神前式スタイルで固めた白米の軍勢はいるのに、道のどこを見ても農家らしき人の姿がない。  人間は、私達のような見物人しかいないようだ。 「品種改良って農家の人抜きでやっていいのかなぁ?」 「そもそも白米同士が意思持ってやることじゃなくない」 「そうなんだけど」  他のギャリーもこれは品種改良の催しだと思っているらしい。 「まぁ何でもいいか。ほら、ご飯食べちゃって」 「はーい」 「米食べたくなってきた」  面白がって見ていたものでも、変化がなければ飽きるというもの。  母達に続き私も窓から離れようとした時、状況に変化が訪れた。 「あ、見て! 見てあれ!」 「なんだよ今度はー。俺腹減ってんだけど?」 「いいから見てってほら! お母さんも!」 「何……?」  白米行列達の進行方向から現れた、新たな影。それは別の白米の群れだった。 「こっちドレス着てるよ。教会式だ!」 「テレビでしか見たことないやつみれるかも」  新たな白米の群れは、純白のウエディングドレスを纏った白米を先頭に、モーニングやドレスを着た白米達で構成されている。  ウエディングドレス白米は、ベールを風にはためかせながら、両手で裾を摘んで一心不乱に走っている。 「今度は『秋男とこまち』だって! 花婿攫いに来たのかな?」 「花婿攫われるパターンをあんまり見たことないね」  あっという間に白無垢と紋付袴の白米の前に立ったウエディングドレス白米は、そのままの勢いを殺すことなく、紋付袴の白米を殴り飛ばした。 「入った右ストレート」  次いで、行列の中へと吹き飛んだ紋付袴の白米の上に、ウエディングドレス白米が何かを振りかける。 「何かけたんだろあれ」 「塩じゃない?」 「白米には塩でしょ」 「俺はお前らが怖い」  塩を振り終えたウエディングドレス白米は、白無垢白米と仲良く手を繋ぎ紋付袴の白米を食べ始めた。  紋付袴の白米の親族らしき白米達は、散り散りになって逃げ出している。 「これが食物連鎖かぁ」 「品種改良じゃなくて?」 「もう……何でもいいよ……」  捕食されていた紋付袴の白米が完全に消え去ると、落ちていた紋付袴側の旗の文言が変化していた。 「『こまち惚れ』か……美味しそうな新品種ができたねー」 「早く食べてみたいな『こまち惚れ』」 「あんなに怖がってたのに?」 「米そのものに罪はない」  白無垢勢とウエディングドレス勢が、元々の白無垢勢の行進方向へと動き出した時、突然発生した霧が、窓から見える全ての景色を包み込んだ。  そして、霧が晴れる頃には何いなくなっていた。 「あ、朝ごはんまだ食べてないわ」 「私もまだ残ってたわ」  兄と揃って食卓へと戻った時、テレビから朝のニュースが聞こえてきた。 「〇〇県が本日、米の新品種『こまち惚れ』を発表しました」  私は黙って兄を見た。  兄は私からまず目を逸らし、テレビに向けた目を逸らし、最後にようやく手元のパンへと視線を固定した。 「食べられるみたいだよ」 「…………買ってみるか」
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作者:周雨
2026/09/20 • 👁 84回 • 💬 0件
コメディ・日常
4312文字 約9分で読了

壁を挟んだ言葉

# 壁を挟んだ言葉  天瀬こよいの進路希望調査票は、高校を卒業して一年半が過ぎても空欄のままだった。 「働くのか、進学するのか。そろそろ何か一つくらい決めなさい。もう大人なんだから」  朝食の席で母からそう言われ、こよいは返事の代わりに味噌汁を飲み干した。  似たような言葉なら、これまでに何度も聞いている。そのたびに求人サイトを眺め、大学や専門学校の資料を取り寄せては、開封すらせず部屋の隅へ積み重ねてきた。  けれど、この日は違った。  午後から、機械工学を学べる専門学校の説明会を予約していた。  こよいは久しぶりに外出着へ袖を通し、細長い黒色のケースを背負って家を出た。中には、サバイバルゲームで使用するアサルトライフル風のエアソフトガンが入っている。  午前中に馴染みの屋内フィールドへ寄ってからなら、その勢いで説明会にも行けると思ったのだ。銃を構え、決められた標的を狙っている間だけは、余計なことを考えずに済む。  だが、標的を撃ち抜くことと、自分の進路を決めることは、まるで別の話だった。  専門学校の前まで来たこよいは、ガラス扉をくぐっていく若者たちを、通りの反対側から眺めていた。  受付開始まで、あと十分。  五分。  一分。  開始時刻を過ぎても、こよいの足は横断歩道の手前から動かなかった。 「……やっぱり無理だ」  信号が青へ変わり、再び赤くなる。  こよいは説明会の予約画面を閉じた。視線を上げると、通りの先に漫画喫茶の看板が見えた。  気づけば、身体はそちらへ向かっていた。  案内された個室へ入り、黒いケースを壁際へ置く。背負っていたものを降ろした途端、外へ出るために集めてきた勇気まで、まとめて床へ落としてしまった気がした。  家には帰りたくない。かといって、今から説明会へ駆け込む勇気もなかった。  机上のパソコンを意味もなく操作していると、画面の隅に小さな広告が表示された。 『名前も顔も知らない誰かに、悩みを話してみませんか?』  顔を知られないのなら、失敗しても逃げられる。  こよいは匿名相談チャットの文字をクリックした。 『ただいま、話し相手を探しています』  三つの点が順番に明滅している。  やはり閉じようとカーソルを動かした瞬間、画面が切り替わった。 『話し相手が見つかりました』 『こんにちは』  こよいは返事を迷ったあと、同じ言葉を打った。 『なにか相談したいことがあるんですか?』  見知らぬ相手に、本当のことを話す必要はない。こよいは別人の話として書くことにした。 『友達のことで、少し』 『そのご友人は、あなたと同じ年齢ですか?』 『はい』 『今日、何かあったのでしょうか』 『専門学校の説明会に行けませんでした』  送信してから、こよいは眉をひそめた。これでは自分の話だと認めているようなものだ。 『なるほど。学校の前までは行けたのですね』 『なんで分かるんですか』 『行こうともしなかった人なら、“行けなかった”ではなく、“行かなかった”と書くと思ったので』  文字の選び方一つで、そこまで考える人がいるらしい。 『行けなかったのは、根性がないからだと思います』 『根性がない人は、説明会を予約して、家を出て、学校の前まで行ったりしません』 『でも、入れなかった』 『それなら今日できなかったのは、最後の一歩だけです』  こよいの指が止まった。  できなかったことなら、数えきれないほど思いつく。けれど、できたことを数えられたのは久しぶりだった。 『どうして、その学校へ行こうと思ったのですか?』  親に言われたから。  何かを決めなければならないから。  どれも間違いではない。それでも、自分の答えではない気がした。 『分かりません』 『では、行きたい場所ではなかったのかもしれませんね』 『そんなことを言ったら、どこにも行けません』 『行き先を決める前に、あなたが何から逃げているのかを考えてみませんか?』  静かな問いかけのはずなのに、胸の奥へ銃口を向けられたような気がした。 『高校のときの先生です』  考えるより先に、指が動いていた。 『先生が怖いのですか?』 『怖くはないです。嫌いなだけ』  人の形をした標的になら、迷わず引き金を引ける。けれど、あの教師の顔を思い浮かべるだけで、今でも指先が重くなった。 『高校三年のとき、進路を決められなかったんです。周りはどんどん決めていくのに、あたしだけ何も書けなかった』 『進路希望調査票ですか?』 『そうです。先生から、いつまでも空欄のままではいられないでしょうって、何度も言われました』  入力欄へ文字を打つたび、あの日の声が耳の奥で繰り返される。 『何か決めなきゃいけないことくらい、分かっていたんです。でも、あたしには何もなかった。先生と話すたび、自分だけが出来損ないみたいに思えてきて』 『それで、学校へ行けなくなったのですか?』 『卒業式にも出ませんでした』  画面には何度か『入力中……』と表示され、そのたびに消えた。 『その先生は、間違えたのだと思います』 『庇わないんですね』 『教師だからという理由だけで、正しいことにはなりません。その言葉であなたが傷ついたのなら、その先生は伝え方を間違えました』  胸の奥に固まっていたものが、少しだけ緩んだ。ずっと誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。 『でも、その先生が間違えたことと、あなたを見捨てたことは同じですか?』 『同じです。卒業してから、一度も会いに来なかったから』 『あなたから会いに行ったことは?』 『ありません』 『では、二人とも同じ場所で、相手が来るのを待っていたのかもしれませんね』  反論しようとした指は、何も打てないまま止まった。  しばらくして、相手から新しいメッセージが届く。 『今度は、私の相談を聞いてもらえますか?』 『相談する側だったんですか』 『本当は、そのつもりでここへ来ました』 『あたしでよければ』 『私は教師をしています』  こよいの指先が、わずかに強張った。 『以前、進路を決められない生徒を受け持っていました。その子のためだと思い、早く決めるよう何度も促しました』  偶然だ。進路を決められない生徒など、どこの学校にもいる。 『その子は少しずつ学校へ来なくなり、卒業後は一度も会えていません』 『会おうとはしたんですか?』 『何度も連絡しようと思いました。でも、私の言葉が原因なら、会いに行くことも苦しめるのではないかと』 『それで、何もしなかったんですか』 『はい』 『ずるいですね』 『そのとおりです』 『否定しないんですね』 『傷つけることが怖かったのではなく、これ以上嫌われることが怖かっただけなのかもしれません』  画面の向こうにいるのは、自分が知っている教師ではない。それなのに、一言一言が記憶の中にいる先生の声と重なり始めていた。 『謝りたいんですか?』 『謝って許されたいのだと思います』 『それなら、やめた方がいいですね。許してもらうために謝るのは、自分が楽になりたいだけだから』  相手からの返事が途絶えた。 『でも、その子がまだ同じ場所で止まっているなら、迎えに行ってあげてもいいと思います』 『会いたくないと言われても?』 『そのときは、ちゃんと諦めてください』 『厳しいですね』 『会いに行かなかった人に、優しくする理由はありません』 『あなたは、その先生に会いたいですか?』  会いたくない。そう打てばいいだけなのに、指が動かなかった。 『分かりません』 『では、嫌いという気持ちも、本当はまだ決めきれていないだけなのかもしれませんね』 『勝手に決めないでください』 『すみません。教師の悪い癖です』  その言い回しに、こよいは小さな違和感を覚えた。 『気持ちが空白のままだと、どこへも進めませんか?』  確かめるように打つ。 『いいえ。今なら、まだ空欄だから書き直せることもあると思っています』  心臓が強く脈を打った。 『先生の名前は?』 『あなたが本当にご友人の相談をしているのなら、先にあなたのお名前を教えてください』  逃げ道を塞ぐような返し方まで、記憶の中の先生とよく似ている。 『天瀬こよい』  送信した直後、薄い仕切り壁の向こうから通知音が聞こえた。 『聞こえましたか?』  再び、隣の個室から音が鳴る。 『聞こえました』  今度は、こよいの個室で同じ音が響いた。  隣から椅子を立つ音が聞こえる。  こよいも黒いケースを背負い、個室を出た。ほぼ同時に、隣の扉がゆっくりと開く。  中から現れた女性は、こよいの記憶より少し髪が伸びていた。けれど、驚いたときに右手で口元を覆う癖は、あの頃と何も変わっていない。 「……ほのか先生?」  桜庭ほのかは、大きく見開いた目でこよいを見つめた。 「本当に……こよいさんだったんですね」  チャットではいくらでも言葉を交わせたのに、顔を合わせた途端、二人とも何も話せなくなった。 「……とりあえず、出ませんか?」  先に沈黙を破ったのは、ほのかだった。 「ここで立っていると、ほかの方の邪魔になりますから」 「そういうところ、変わってないですね」 「こよいさんも、思ったことをすぐ口にするところは変わっていませんね」  二人は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく吹き出した。  会計を済ませ、漫画喫茶を出る。いつの間にか雨が降ったらしく、濡れた歩道が朝の光を反射していた。 「サバゲーは、まだ続けていたんですね」 「それだけは。相手が何を考えてるか分からなくても、撃たれたら撃ち返せばいいから」 「話し合いより、ずいぶん簡単ですね」 「先生もやってみます?」 「丁重にお断りします」  即答だった。  こよいは久しぶりに、声を出して笑った。  笑い声が途切れると、ほのかは足を止めた。 「こよいさん。ごめんなさい」  言い訳も、許しを求める言葉も続かなかった。 「……まだ、許せないかもしれません。また先生に腹が立つかもしれない」 「それも、仕方ありません」 「でも、さっきの相談相手には助けられました。だから、その人の相談に答えたあたしも、少しくらいは役に立てたと思ってもいいですか?」 「もちろんです」  ほのかは微笑んだ。 「あのとき、私が一方的に助けるのではなく、こうして話せればよかったんですね」 「今さら気づいたんですか?」 「教師も、間違えてから学ぶことだってありますから」  二人は再び歩き出した。 「専門学校のことですが、もう一度探してみませんか。今度は、こよいさんが自分で行きたいと思える場所を」 「また逃げるかもしれませんよ」 「そのときは、逃げた場所まで迎えに行きます」  こよいは足元の水たまりを避け、小さく息を吐いた。 「決めるのは、あたしですから」 「ええ。今度は急かしません」 「……でも、手伝ってください」 「もちろんです」  行き先は、まだ空欄のままだった。  けれど今度の空欄は、何もない場所ではない。  これから自分で書き込める、最初の一行だった。
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2026/09/19 • 👁 104回 • 💬 0件
コメディ・日常
1024文字 約3分で読了

ヴァイラスの憂鬱

久々に実家に帰ったら、裏の勝手口にバラの鉢植えが置いてあった。 何で一鉢だけここに置いてあるのだろう? 母はバラが好きで庭にはいっぱい鉢植えが置いてある。 「あー、おかえり」 勝手口から母が顔を覗かせる。 「ただいま」 私はそう言うと家の中に入って行った。 「仕事は?」 「んー、あんまり変わりないかな」 「そう。何か飲む?」 「とりあえず麦茶。まだまだ外暑いね9月だけど」 「今日は天気もいいからね」 母はそう言って麦茶のコップを渡してくれた。 「そういえばさ!一鉢だけバラがそこに置いてあったけど……」 「あー、あれね。買って帰ってきたらどうもヴァイラスだったみたい」 「ヴァイラス?」 ヴァイラスって何だっけ…… 私は麦茶を飲みながら考えた。 「他に感染したらいけないから、しばらく薬をあげて様子を見てるの」 あぁ、そうだウイルス性の病気のことだった。 「ってか、植物もウイルスに感染するんだ」 母は私の方を見て少し微笑んだ。 「当たり前でしょ、結構デリケートよバラは。虫もつくし病気にもなるし肥料もたくさんあげなきゃダメだし」 「へぇ、そんなに手間がかかるんだ」 「綺麗な花とか美味しい実をつける果物とかすごく手間がかかるよ」 これまで 私は、あまりそんなことは考えたことがなかった。 私は窓から庭の方を眺めた。 秋咲きのバラが一面に咲いていて、とても美しい光景が広がっている。 「それで、植物の病気って治るの?」 「そうねぇ。なかなか時間がかかるからしばらくの間は他のバラと一緒にできないね。ちゃんと治って欲しいけど」 母は微笑みながら少しだけため息をついた。 「元気になるといいね!」 そういえば勝手口のバラの花はつぼみがついていなかった。 春にしか咲かないタイプなのか、あるいは病気のせいなのか…… 母の、植物の世話をしている時の眼差しはとても優しい。  そんな母を思い出し、昔の記憶が蘇った。 私が風邪のウイルスに感染して寝込んでいた時の記憶だ。 お薬に食欲がないからおかゆや消化に良いものを作ってくれたり、人間だってウイルスに感染したらなかなか治らない。 バラの病気はきっと風邪なんかよりはずっと直すのが大変なんだろうなと思ったけれど、植物も人間も同じようなものかもしれない。 母が愛情を込めて世話をすれば、きっと良くなるはずだ。 ヴァイラスの憂鬱に打ち勝ってお日様の中綺麗な花を咲かせてくれるだろう。  どんな色のバラが咲くのだろうか。 私は元気になったバラの花を想像しながら、 ほんの少し微笑んだ。 秋の昼下がりである。
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作者:しとえ
2026/09/19 • 👁 106回 • 💬 0件
コメディ・日常
1019文字 約3分で読了

煌めくトンボたち

田んぼの横には彼岸花が咲いていた。 秋風に心地よく揺れる稲穂は金の実りをたたえていた。 その上を煌めく羽根のトンボたちが飛んで行く。 今年の9月の祝日はとても長い。土日を挟んで5日もあるのだ。 ちょうどお彼岸だ。だから、ほんの少し離れた娘と孫がお彼岸に遊びに行ってくる。 孫は虫取り網を持ってトンボを追いかけていた。 「じいちゃん見てみて!いっぱい捕まえた」 虫かごの中にはトンボがいっぱい。 「ほぉー、すごいじゃないか!」 私はにっこりと笑った。 「いいけど後で逃がしておいてね。かごの中じゃ、かわいそうだし家に持って帰れないからね」 娘は呆れたようにそう言った。  孫は虫取りが好きでよく網を持って捕まえてくるらしい。 そういえば私も子供の頃は虫取り網を持って走り回っていたっけ。 かごいっぱいに捕まえた虫を見てご機嫌だった子供の頃を思い出す。 『童子や童子、それを逃がしてもらえんかの』  ふと、子供の頃に言われたその言葉が耳の中でよみがえった。 あれは私が小学生の3年ぐらいの頃だった。 やはり晴れ渡った空の下、トンボのかごをご機嫌で持って歩いていた時にその声を聞いた。 私は声の主を探して辺りをキョロキョロと見回した。  声の主は神社の高いクスノキの上に腰かけていた。 和服姿の風変わりな少年だった。 少年は木の上からひょいと飛んで私の足元に着地した。 天狗だ! それを見て私はそう思った。 きっと 天狗に違いない。あんな高いところから飛び降りて平気なんて。この辺りの森には天狗が住んでいるという伝承があるのだ。  私は慌てて虫かごを開いた。 トンボたちは一匹ずつ、その美しく輝く羽をはためかせ空へと帰って行く。 ちょうど今はお彼岸じゃ。死んだ者たちがの、ああやってトンボの姿になって帰ってきておるのじゃ』 と、その少年は言った。 少年が指を差し出すと、1匹のトンボがそこに止まったのだ。 『久しいの』 少年は愛しいものを見るかのような目でそのトンボを見つめた。 きっとそのトンボは、死んだものの魂がトンボの姿になって彼のところにやってきたのだと思った。 トンボたちが飛んで行くのを私は彼と見送った。 その少年と会ったのはその一度きりなので、本当のところ彼が 天狗だったのか そうじゃなかったのかは分からない。  孫は虫かごを開いた。 「バイバイまたね!」 虫かごから飛んで行くトンボたちを見ながら孫はそう言った。 青い空に煌めく羽根。 やはりトンボは誰かの魂なのかもしれない。 ……大切な相手のもとへ飛んで行ったのだろうか。
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 95回 • 💬 0件
コメディ・日常
1094文字 約3分で読了

恋文を読む人

「あの人、ラブレター読んでる」  オープンテラスのカフェで、向かいに座っている妻が突然言い出した。僕の肩越しに誰かを見ているようだ。 「あー振り向いちゃダメ! 気付かれるから!」  90度動かした首を再び正面――妻の方へと向ける。 「なんでラブレターって分かるの?」 「人差し指でこう……文字をなぞるように読んでるの。横にね。私も昔、ああいう風に読んでたから」 「ラブレターを?」 「そう」  一瞬、「いつ、誰からもらったんだ?」と嫉妬の念に駆られたが、とりあえず耐える。メールやメッセージアプリ全盛の時代、手紙を、しかも文字を指でなぞりながら読むなんて、ずいぶんとロマンがある。 「ちょっと微笑みながら読んでるの。しかも、ラブレターを文庫本で隠してる。道ならぬ恋かしら」 「道ならぬ恋って、ドラマじゃあるまいし」  妻の観察眼と想像力には感心する。でも、そうやって細かく説明されると余計に見たくなってしまう。それを察知したのか、妻は「ダメだからね」と釘を刺す。  確かに、僕が振り返って、もしその人と目が合ったりしたら、それはそれで気まずい。ここは妻のたくましい想像力だけで我慢しよう。 「どんな人?」 「女性で歳は……私達よりちょっと上かな。40の手前くらい。黒髪でウェーブ巻きのセミロング。綺麗な人よ」 「へぇ……」 「あなたの好みのタイプかもね」 「いやいやそんな……」  興味のないフリをして、空(から)になったコーヒーカップに口を付ける。  歳は40前で黒髪でウェーブ巻きのセミロングで、指で文字をなぞりながらラブレターを読んでて……。  ――しかも、僕の好みのタイプだと?  脳が物凄い勢いで女性のイラストを描かく。僕の想像力も、決して妻に負けてない。  あの映画に出てた女優さんか……いや、あのCMに出てたタレントさんか……いやいや、あのドラマのヒロイン役のあの人か……。妄想は止まらない。 「ダメだ! やっぱり気になるよ。そっと見ていい?」  妻が「そっとね」と言うのと同時に、ゆっくり……ゆっくりと首を回転させ、チラッと後ろを見た。しかし、そこには白いベンチがあるだけで、誰もいない。僕は思わず椅子から立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回す。 「バーカ」  驚いて妻を見ると、「あっかんべー」と舌を出している。 「そういうことして、楽しい?」 「うん、すっごく」  あまりにも眩しい笑顔でそう言うので、何だか許す気になった。  僕は店員さんを呼び、無駄に働かせてしまった脳に糖分を送るため、コーヒーのおかわりを頼んだ。 「ふぅ」と一息ついてコーヒーを飲むと、僕の脳は、文字を指でなぞりながらラブレターを読む、妻の姿を描いた。  ――可愛いとこ、あるじゃないか。 (了)
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2026/09/18 • 👁 186回 • 💬 0件
コメディ・日常
712文字 約2分で読了

平穏が見える家

急勾配な坂の上に立つ私の実家は、怠惰でいつも余裕のない父と腰の悪い祖母が住んでいる。  私が数年ぶりに都会のジャングルから古びた二階建ての大きな屋敷へと帰れば、それはそれは酷い有様であった。祖母は自分が住むスペースをとても念入りに綺麗な状態にしているけれど、問題は父が使っているスペースである。  父は中型の犬を数匹室内へ放し飼いにして飼っており、居間は獣の臭いが充満し、居間の家具も服も犬の毛まみれ。おまけに獣臭さは居間から続く風呂場やトイレまで届いており、ひとたび洗面所のタオルで手を拭けば、私の手は犬の毛でモジャモジャになった。  唯一マシなのは、私が一人で使っていた二階の角部屋だろうか。とはいえ、私も怠惰な父に似て物の扱いが雑なので、随分前から漫画本や雑誌が床に置きっぱなしで足の踏み場がなかった。父を痛烈に批判できないのは、私もまた怠惰だからである。  それでもしばらく滞在するのだからと軽い掃除を行い、換気の為にしばらく開いていないであろう錆びれた窓を開けようとして、手前にある締め切られた重いカーテンを開けた。  そこで私は、窓の外に広がる景色に息を呑む。坂の上から、快晴の中で穏やかな顔をする山々と、そこに埋もれる田舎街がまんべんなく一望できたのだ。  酷い有様の実家に落胆する私にとって、その美しい景色は救いだった。こんなに得も言われぬ景色が見られるなんて。掃除の疲労なんて何処へやら。鬱屈した精神なんて何処へやら。胸がスッとする感覚と共に、確かに私の心は喜びで震えた。  相変わらず居間は獣臭い。手はモジャモジャになる。枕が低すぎて眠りは浅い。  けれど、平穏と平和の象徴みたいなこの景色を見る為に、またこの家に帰って来たいと思った。
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作者:ころもやぎ
2026/09/18 • 👁 103回 • 💬 0件
コメディ・日常
685文字 約2分で読了

マスカット迷宮

「ただいま、おやつある?」 「おかえり。先に手を洗ってからね」 「はーい」  娘が小学校から帰ってきた。 家に帰ってくればいつもこの調子だ。小学校でたくさん遊んでいるからお腹が空くのだろう。 私は冷蔵庫からマスカットを取り出した。それから戸棚からクッキーあとは紅茶を入れる。 「お母さんマスカット好きだよね!」 娘はマスカットを頬張りながらそう言った。 私も一粒、口へと運ぶ。 「んー、まあね」  マスカットには思い出が詰まっている。 口の中で甘い果汁が溢れて、それは記憶の彼方へと私の心を誘ってくれた。  まだ10代の後半、夫と初めてデートをした時のことだ。 デートの場所はぶどう園。 普通こういう時には遊園地や映画館を選ぶんじゃないの?……なんて思いながらそれでもワクワクしていたっけ。 たわわに実ったマスカットを収穫しながら、初めての経験にとてもドキドキしていた。  淡いマスカットグリーン。 それはマスカットの色だけではなくて、ぶどう園全体が木漏れ日でその色に染まっていた。 迷宮のように広いぶどう園を2人で歩きながら摘み取ったマスカットをテーブルで食べた。 彼と一緒にいれば私が今まで行ったことがないところに連れて行ってくれる。経験したことがないことを一緒に経験できる。 もしかしたら彼の方もそう思っているのかもしれないけれど。 私が彼のことを好きになったのは、結局そういうところからなのだろう。  あれから12年―― 私たちは結婚し娘が生まれた。 秋は実りの季節。今年娘を連れてまた一緒にぶどう園に行く予定だ。マスカットの迷宮を今度は三人で一緒に探索しよう。 爽やかなマスカット色の迷宮の中を。  私はもう一粒 手に取った。
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 93回 • 💬 0件
コメディ・日常
1458文字 約3分で読了

虹色の呼吸

 シャボン玉が、午後の柔らかな光を吸い込んで揺れていた。  公園のベンチに座る僕の目の前を、透明な球体がいくつも通り過ぎていく。近所の子供が吹いているのだろう。薄い膜の上を、七色の油膜のような光が絶え間なく流動している。それはまるで、この世の美しさと儚さを煮詰めて形にしたような存在だった。 「きれいね」  隣に座る彼女の声が、不意に耳の奥で再生される。もちろん、そこにはもう誰もいない。ただ、彼女が好んでつけていたシトラス系の香水の残り香が、春の風に混じって鼻腔をかすめた気がしただけだ。  彼女――奈緒はシャボン玉のような人だった。自由で、軽やかで、それでいて触れればすぐに壊れてしまいそうな危うさを持っていた。付き合っていた三年間、僕はいつも彼女がどこか遠くへ飛んでいってしまわないよう、見えない糸で繋ぎ止めておきたいという衝動に駆られていた。 「ねぇ、シャボン玉って、どうして丸いか知ってる?」  ある日、海が見える高台で彼女はそう尋ねてきた。僕は「表面張力でしょ?」と無粋な答えを返した。理系男子の悲しい性(さが)だ。奈緒はくすくすと笑い、ストローの先に溜まった石鹸液をそっと吹いた。 「違うよ。あれはね、中にある空気が一番心地いい形を探した結果なの。一番優しくて、どこにも角がない形。それが丸なんだよ」  そんな風に世界を解釈する彼女の隣にいると、自分の中の凝り固まった常識が、石鹸水に溶けていくような感覚があった。  しかし、彼女の言う「心地いい形」は、長くは続かなかった。  二年前の冬、奈緒は病に倒れた。進行は驚くほど速く、彼女の身体は日に日に透明度を増していくようだった。  病室の窓から見える景色を眺めながら、彼女は最後まで笑っていた。「私は大丈夫。ちょっとだけ、遠くの空を見に行くだけだから」と。  彼女が旅立ってしまった後、僕はしばらくの間、何も手につかない日々を過ごした。仕事に行き、食事をし、眠る。その全てが、中身のないシャボン玉の皮膜だけで繋がっているような心地がした。 「ねぇ! 見て見て!」  幼い声に引き戻される。見ると、小さな男の子が誇らしげに、特大のシャボン玉を飛ばしていた。それはゆっくりと、重力に逆らうように上昇し、僕のすぐ目の前でピシャリと弾けた。  ふと思った。奈緒が言っていた「中にある空気」とは、思い出のことだったのかもしれない。シャボン玉が割れてしまっても、その中に閉じ込められていた空気は消えてなくなるわけではない。それはただ、自由になって、再び広い世界の一部へと戻っていくのだ。  彼女との思い出も、いつまでも僕の胸の中に閉じ込めておいたら、彼女を苦しめ続けるだけだ。形を失っても、彼女の存在はこの空気の中に、光の中に、そして、僕の呼吸の中に溶け込んでいる。  僕は大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで届いた空気は、心なしか彼女の香りがした。  ベンチから立ち上がり、僕はコートのポケットに手を入れた。そこには、いつか奈緒と一緒に買ったまま、使う機会を逃していた小さなシャボン玉のセットが入っている。  僕はそれを取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。リングを石鹸水に浸し、空に向かってそっと息を吹き込む。シャボン玉が宙を舞う。一つ、また一つと、新しい虹色の呼吸が生まれていく。それは春の風に乗って、どこまでも高く、遠く、青い空へと吸い込まれていった。 「見ててよ、奈緒」  僕は呟いた。  シャボン玉はもう、僕の手の中にはない。でも、その輝きは確かに僕の足元を照らしている。  僕は歩き出す。シャボン玉が弾けた後の、その先にある明日へ向かって。 (了)
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2026/09/16 • 👁 139回 • 💬 0件