コメディ・日常

虹色の呼吸

1,458文字 約3分で読了
 シャボン玉が、午後の柔らかな光を吸い込んで揺れていた。  公園のベンチに座る僕の目の前を、透明な球体がいくつも通り過ぎていく。近所の子供が吹いているのだろう。薄い膜の上を、七色の油膜のような光が絶え間なく流動している。それはまるで、この世の美しさと儚さを煮詰めて形にしたような存在だった。 「きれいね」  隣に座る彼女の声が、不意に耳の奥で再生される。もちろん、そこにはもう誰もいない。ただ、彼女が好んでつけていたシトラス系の香水の残り香が、春の風に混じって鼻腔をかすめた気がしただけだ。  彼女――奈緒はシャボン玉のような人だった。自由で、軽やかで、それでいて触れればすぐに壊れてしまいそうな危うさを持っていた。付き合っていた三年間、僕はいつも彼女がどこか遠くへ飛んでいってしまわないよう、見えない糸で繋ぎ止めておきたいという衝動に駆られていた。 「ねぇ、シャボン玉って、どうして丸いか知ってる?」  ある日、海が見える高台で彼女はそう尋ねてきた。僕は「表面張力でしょ?」と無粋な答えを返した。理系男子の悲しい性(さが)だ。奈緒はくすくすと笑い、ストローの先に溜まった石鹸液をそっと吹いた。 「違うよ。あれはね、中にある空気が一番心地いい形を探した結果なの。一番優しくて、どこにも角がない形。それが丸なんだよ」  そんな風に世界を解釈する彼女の隣にいると、自分の中の凝り固まった常識が、石鹸水に溶けていくような感覚があった。  しかし、彼女の言う「心地いい形」は、長くは続かなかった。  二年前の冬、奈緒は病に倒れた。進行は驚くほど速く、彼女の身体は日に日に透明度を増していくようだった。  病室の窓から見える景色を眺めながら、彼女は最後まで笑っていた。「私は大丈夫。ちょっとだけ、遠くの空を見に行くだけだから」と。  彼女が旅立ってしまった後、僕はしばらくの間、何も手につかない日々を過ごした。仕事に行き、食事をし、眠る。その全てが、中身のないシャボン玉の皮膜だけで繋がっているような心地がした。 「ねぇ! 見て見て!」  幼い声に引き戻される。見ると、小さな男の子が誇らしげに、特大のシャボン玉を飛ばしていた。それはゆっくりと、重力に逆らうように上昇し、僕のすぐ目の前でピシャリと弾けた。  ふと思った。奈緒が言っていた「中にある空気」とは、思い出のことだったのかもしれない。シャボン玉が割れてしまっても、その中に閉じ込められていた空気は消えてなくなるわけではない。それはただ、自由になって、再び広い世界の一部へと戻っていくのだ。  彼女との思い出も、いつまでも僕の胸の中に閉じ込めておいたら、彼女を苦しめ続けるだけだ。形を失っても、彼女の存在はこの空気の中に、光の中に、そして、僕の呼吸の中に溶け込んでいる。  僕は大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで届いた空気は、心なしか彼女の香りがした。  ベンチから立ち上がり、僕はコートのポケットに手を入れた。そこには、いつか奈緒と一緒に買ったまま、使う機会を逃していた小さなシャボン玉のセットが入っている。  僕はそれを取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。リングを石鹸水に浸し、空に向かってそっと息を吹き込む。シャボン玉が宙を舞う。一つ、また一つと、新しい虹色の呼吸が生まれていく。それは春の風に乗って、どこまでも高く、遠く、青い空へと吸い込まれていった。 「見ててよ、奈緒」  僕は呟いた。  シャボン玉はもう、僕の手の中にはない。でも、その輝きは確かに僕の足元を照らしている。  僕は歩き出す。シャボン玉が弾けた後の、その先にある明日へ向かって。 (了)
2026/09/16 ・ 👁️ 138回 ・ 💬 0件

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