コメディ・日常

三時間スリーパー

3,082文字 約7分で読了
作者:階きざし
山中詩織はショートスリーパーである。  詩織が続けて寝られる時間はいつもきっかり三時間。どんなに体が疲れていても、体調が悪いと思って横になったとしても、睡魔に誘われて目を閉じた時から数えて三時間したら目が覚める。そんな体質だった。  これが不眠症かと悩んだこともある。  近場の不眠外来を調べ、不眠についてのネット記事を適当に読み、たまにテレビで不眠について取り上げられていればチャンネルを変えることなく画面を見つめた。  ただ、詩織は不眠についての情報を得るにつれて、徐々にそれらの行動をやめていった。  だって、わたし、別につらくはないんだもの。  そう、詩織は三時間で終わってしまう睡眠時間を心配こそすれ、特別苦痛には感じていなかった。眠りたいのに、眠れない。そういった感覚とは無縁の三時間睡眠だった。  なんなら、詩織は最近、三時間しか寝られない己の体質を便利に使うようになっていた。起きたい時間の、きっかり三時間前に眠ればいい。いつからかそれが詩織の日常になった。  一応、転ばぬ先の杖として、スマートフォンでアラームはかけるが、大体そのアラームが鳴る前に起きる。ふわりと浮き上がる意識。自然と目は開くし、気分はすっきりとしている。それがたとえ世間一般では深夜と呼ばれる時間帯であってもだ。  詩織を目覚めさせるのは、まだ熱を帯びていない明るさだけが眩い朝の日の光でも、枕元で鼓膜を劈くけたたましいアラームの音でもなかった。詩織の体内にある、形のない無駄に正確に三時間だけ計る砂時計だった。  外の気温が、一日を通して半袖で過ごしやすいと感じられるようになった季節。平日最後の仕事を終えて帰ってきた詩織は、なんとはなしに、そうだ、明日は日の出を見に行こう、と思い立った。  平日の仕事の時は日の出より遅く起きるように調整していたし、休日に朝活と称して活動をしたい時には、日の出前に起きていた。詩織はここ最近、夜明けというものをおざなりにしていたのだった。  詩織の住んでいる単身者向けアパートから、徒歩二十分ほどの場所に小高い丘がある大きめの公園があった。丘の上は詩織の住んでいる街を一望できる、ちょっとした展望台のような作りをしている。詩織は方角の都合なんてろくに考えもせず、そこならば日の出も見られるだろう、と簡単に考えて目的地とした。  スマートフォンで日の出の時間を調べる。四時二十二分。それなら一時に寝たのでは少し遅いか、準備もしたいし零時半までに床につけばいいか、と雑に逆算してみて、夕飯の準備に取り掛かった。  寝る前の歯磨きまで終わらせて、詩織は寝心地はそこそこだが安心感だけはあるベッドに体を放り出していた。スマートフォンを見る。時刻は零時二十一分。まあ、そろそろ寝ておくか、と枕元にある充電ケーブルを手元の端末に挿して、ベッドのヘッドボードにあるちょっとしたスペースにいつも通りにスマートフォンを置いた。  アラームはかけなかった。  詩織の意識が、霧散していたところから徐々に凝り固まっていく。目覚めの感覚だった。まぶたを押し上げてみても日の出前の室内は、いまだ深い夜と同じ息の仕方をしていた。手探りで雑にスマートフォンを探し当てて手繰り寄せる。詩織の指に反応して点灯したブルーライトが、詩織の顔を照らし、明るさに慣れないままの眼球を焼いた。 「はぁ⁉︎」  薄手のかけ布団を蹴り飛ばして、体全体で飛び起きる。予定していた起床時間より三十分遅い。少し余裕を持って起きる予定だったからこそぎりぎり許容できる、しかし、のんびりとしてはいられない程度の寝坊だった。  あと十分で支度をしなければいけない。最近通販サイトで衝動買いをした、エスプレッソマシーンの出番は到底なさそうだった。  五分で顔を洗い、三分で適当な半袖とまあまあコンビニには行ける、というくらいのくたびれ具合をしたスウェットを引っ掴んで着替えた。残り二分、とりあえずストックしてあったペットボトルのお茶と財布、スマートフォンを愛用のショルダーバッグに詰め込んで靴を履いた。いってきます、ひとり暮らしでも挨拶だけは忘れないのは、詩織の母の教育の賜物だった。  街灯が頼りなく道を照らし、自販機のライトがやたらとやかましい住宅街を歩く。丘のある公園は、この道をまっすぐ行った先にある。道は緩やかな上り坂になっていて、日頃、車通勤のおかげで率先して歩かない詩織の足は早々に負担を感じ始めていた。行き先の公園には駐車場がないので、近場のコインパーキング代をケチるには歩かざるを得ないというだけだった。  詩織は歩いた。ゆっくり歩けばなんてことない道なのだろうが、何せ時間が限られている。耳の後ろから、少しだけ速い自分の鼓動を感じる。足に溜まる乳酸。スウェットはしっかりとウエストの紐を結ばなかったせいか、ずり落ちてくる。そんなものも気にせず、詩織はやはり歩いた。  近頃詩織が、時に三時間の睡眠の中に沈め、時に朝活だなんだと雑に放り出すばかりで、その美しさを記憶の彼方にやってしまった朝焼けが、今日はどうしても見たかったから。  公園が見える。中心にある丘も見える。家を出てから十六分、詩織は休まずに歩き続けていた。残り四分で丘を登れば、日の出には間に合う。よっしゃ、勝った。誰との勝負かもわからないまま詩織は内心でガッツポーズをした。  起き抜けから、詩織の体内時計が三時間という感覚を忘れるという事件があったが、結果オーライだと詩織は思っていた。まあ、たまにはこんなこともある。  日の出を見て満足したら、帰って寝直そう、こんな時間に活動していてもコンビニくらいしか開いていないし。  そうこの後の予定を決めながら、詩織は丘の上へ続く幅広の階段を上った。丘の上へ着く。スマートフォンを取り出して時間を確認すれば四時二十分だった。日の出まであと二分。確かに辺りは夜の色を少しずつ薄くしていた。朝の光の、霧散していた意識が凝り固まっていく気配がする。目覚めの感覚だった。  朝は来た。空が薄ら色を変え始めたから、日の出の方角がわからない詩織にもそれはわかった。ただし日の出は見られなかった。なぜならば、厚い雲が空を覆っていたから。 「天気予報、見てなかったなぁ」  詩織ひとりの丘の上、無感動な女の声が小さく地面に落ちて転がった。ペットボトルのお茶を飲む。冷えていないそれは、喉の渇きを潤すよりも、喉の油分を奪って胃に流れていくだけだった。  背中の汗は少し冷えて乾き、両足にじわりと残った疲労がなんだか物言いたげだった。見下ろした両足から目を逸らし、今にも文句を言いそうな心を黙殺する。  よし、帰ろう。だって、日の出見れないし。お店開いてないし。帰るしかないし。  詩織は来た道をとぼとぼと、行きよりいくらか小さくなった歩幅で帰った。帰りの道のりは下りのはずなのに、家に着くまで二十五分かかった。  シャワーで軽く汗を流して、食欲よりも疲労感が強かった詩織は、一度脱いだ寝巻きをまた着て布団を被った。  次に詩織が目覚めた時、ヘッドボード上に置いたスマートフォンの時計は、詩織が不貞寝同然の睡眠に入ってから三時間と三十分経ったことを知らせていた。  詩織は画面に大きく表示されたデジタル表示の時計をまじまじと見て固まった。おかしい。三十分長い。突如生まれた、睡眠時間三時間三十分のルート分岐。これまでには存在しなかった、新しい形のない砂時計。  詩織はこれから寝る度に、今体内にふたつある砂時計のどちらがひっくり返ったのかわからないまま、三十分という不確定要素を抱えて眠りにつくことになることを頭の片隅で悟ったのだった。
2026/09/21 ・ 👁️ 98回 ・ 💬 0件

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