コメディ・日常
1156文字 約3分で読了

眠っていた手紙 たち

Day 1:忘れられた手紙 / 最後のメッセージ  父が亡くなったという知らせを聞いた。 父と母が離婚したのはもう30年も前。 父のことはよく覚えていない、私はまだ幼稚園くらいで全く記憶にないといえば嘘になるがうっすらと顔を覚えている程度である。 養育費は払ってくれていたが会いに来てくれたことは一度もない。父と母の離婚の理由は知らない。 浮気などというわけではなさそうだが……  喪主は兄だった。 兄とは十代後半ぐらいになってからたまに会うようになった。 父の方に引き取られて私は母の方。離れ離れて育ったため最初はちょっと戸惑ったものだ。 お葬式の父は笑っている。 私の記憶の中の父親はどんな顔をしていたのかもうよく思い出せない。 私にとって父はほぼ知らない他人と言ってもいいだろう。 父にとって私はどうだったのだろう。 焼香しながら何とも言えない切ない気持ちになった。 当然葬式の親戚はほぼわからない。 兄にこっそりと一体誰なのか聞いてみた。 見知らぬ叔父叔母、父のいとこ、あるいはもっと遠縁の親戚。 会話を聞きながらひどく居心地が悪い気持ちになった。 ……どうして私はここにいるのだろう。  初めて見る甥っ子と兄の妻。 こちらに気を使ってくれているのだろう、なんだか申し訳ない気持ちになる。 葬式が終わり兄の家に1泊することになった。 私はビジネスホテルに泊まると言ったがどうしてもと言われ断りきれなかったのだ。渡したいものもあると言っていた。 おそらく父の遺品になるようなものなのだろう。 受け取るのがどうにも気が重い。 とはいえ遺産相続の話も兄としなくてはならない。そちらはもっと気が重いのだが。  食後に兄が手紙の束を両手に持って現れた。 一つは母の字で父に当てた手紙だった。 封筒の中を一つ一つ開いてゆく。 「これ、お母さんが?」 「うん、父さんに当ててね」 中には私の写真と何があったかが簡単に記されていた。 手紙も写真も汚れていて所々水が染みたような跡がある。 「よく書斎で見ていたよ。家族の前では隠して見てないふりをしていたけどね」 兄が少し苦笑いのような笑みを浮かべて、そう言った。 「……そうなんだ」 私は何だかちょっと複雑な気持ちになった。 私のことを思って心配しておいてくれたのかもしれない。だけど父から電話がかかってきたことはなかったし、便りの一つもなかった。  兄がもう一つの手紙の束を渡す。 それは封が切られていない父から母に当てた手紙だった。 「父さん、これ出せなかったんだよ」 そう言ってまた苦笑いする兄。  父が母と別れた理由は知らない。 おそらく兄の話からすると相当不器用な性格だったらしい。 渡せなかった手紙の束。 伝えられなかった想い。 それを象徴するかのような封の切られていない手紙。  私はそっとハサミで封筒を開く。 ……中には伝えられなかった父の愛が、たっぷりと詰まっていた。
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作者:しとえ
2026/10/15 • 👁 46回 • 💬 0件
ポエム・詩
135文字 約1分で読了

助走

どこまでも行きたいところへ 行けば良いのだと 君は言っていたね。 私にはそんな勇気がなくて いつも足踏みをしてしまった だけど今は思いっきり 走り出しているんだよ。 足踏みは助走だったのかも しれないね。 羽ばたけば空を飛べる 鳥なのかもしれないね。 行けるところまで行って 君に会いに行くよ。
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作者:しとえ
2026/10/15 • 👁 43回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
139文字 約1分で読了

契約不履行につき

伯爵が密室で殺された。捜査に来た紋章官は悪魔崇拝の証拠を発見する。事情を知らぬ夫人と令嬢は内密の処理を願った。さて報告を受けた上司が問う。「おい犯人はどうしたんだ」「悪魔との契約は肉親を差し出す条件だったんです」紋章官が令嬢の見合い絵を示す。母親にはとてもよく似た、噂の美人を。
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作者:有賀慧
2026/10/15 • 👁 32回 • 💬 0件
その他
332文字 約1分で読了

オルゴール

オルゴールを開くと美しいメロディーが流れた。 それは時の彼方に置き去りにした懐かしい記憶を呼び起こす。 夢の底に沈んでしまった原石のような輝きをもう一度。 オルゴールの上で踊るバレリーナは恋人に会える日を夢見ていた。彼女にはモデルになった女性がいたのだ。 バレリーナは オルゴールの上でくるくると回る。 それを見ながら1人の老人が涙を流した。 亡くなった恋人の姿をバレリーナにしたのだ。 それは彼がとても若い頃。 彼女はもういない。もう何十年も前の話だ。 オルゴールの上のバレリーナだけが彼女がいた記憶を思い出させてくれる。 美しいメロディティはやがてぜんまいが切れて止まり、彼女の美しい姿もまた動きを止めた。 それは失われた時間のように感じて、老人になった彼はまたぽたりと涙を落とした。
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作者:しとえ
2026/10/15 • 👁 51回 • 💬 0件
コメディ・日常
1953文字 約4分で読了

星の見えない夜に

午後六時、星守町には細かな雨が降っていた。 千尋は宿の窓から空を見上げた。山の稜線は灰色の雲に溶け、向かいの家の屋根から雨粒が絶え間なく落ちている。窓の隙間から、濡れた土と草の匂いが流れ込んできた。 取材用の手帳を開く。「星空観察、中止」。書きつけた文字を見て、千尋はペンを置いた。 楽しみにしていた撮影だった。星の軌跡を背景に町の夜景を紹介する。それが今回の記事の柱になるはずだった。明日の朝には東京へ戻らなければならない。天気が回復するのを待つ時間もなかった。 「天文台なら開いてますよ。星は見えませんけど」 宿の主人に勧められ、千尋は傘を差して坂道を上った。 雨粒が傘を細かく叩く。坂の途中には小さな店が並び、軒先から落ちる雫が舗道の水たまりに輪を作っていた。カメラを取り出しかけたが、千尋はやめた。これでは記事に使える写真にならない。そう考えてから、自分が何を撮ろうとしていたのか、少しだけ分からなくなった。 旧校舎を改装した天文台に着くと、扉の向こうから木の匂いがした。長く使われてきた床や机に染みついた、乾いた木の香りだった。外の湿った空気とは違い、室内には雨音が遠く聞こえる静けさがあった。 管理人の修司が椅子を並べていた。その隣では、少女が望遠鏡をのぞき込み、接眼部のねじを指先で回している。 「すず、レンズを拭いてくれたのかい」 「うん。でも、このねじを回すと中がどう動くのか、まだよく分からない」 すずは顔を上げ、望遠鏡の筒を軽くたたいた。 「星を見る道具なのに、仕組みのほうが気になるんですね」 千尋が声をかけると、少女は少し得意そうに笑った。 「だって、開けてみたくなるんだもん」 「壊さない程度にな」 修司が言うと、すずは「分かってるよ」と返し、またねじを回し始めた。 修司は窓の外を指した。 「あの二階の灯りが見えますか。パン屋さんです。朝四時から仕込みをするので、そろそろ休むところでしょう」 千尋は窓に近づいた。 雨に濡れた家並みの向こうで、一つの窓が蜂蜜を溶かしたような色に光っていた。ガラスに雨粒が残り、灯りはその一つ一つに小さく映っている。写真に撮るなら、もう少し暗くなってから露出を調整したい。そんな考えが先に浮かんだ。 「その隣はね、郵便局のおじさん。テレビの音が大きいんだよ」 すずが口を挟んだ。 千尋は思わず笑った。少女は窓の外を指さし、どの家のことか教えようとしたが、似たような屋根が並んでいて、千尋には見分けがつかなかった。 「すずちゃんには、どの家か分かるんですね」 千尋が感心したように言うと、すずは当たり前のように答えた。 「毎日見てるもん」 修司は机の上に町の地図を広げた。家々の位置には小さな丸が描かれ、それぞれに名前が添えてある。手書きの文字は少しずつ大きさが違い、何度も書き直された跡もあった。 「昔、停電した夜にね。子どもたちと、どの家に誰がいるか確認して歩いたんです」 修司は地図の端を指で押さえた。 「暗くなると、いつも見えていたものが見えなくなるでしょう。だから、どこに誰がいるか知っておくのは大事だと思ったんです。それ以来、町の灯りを見るのが癖になりまして」 窓の外へ向ける修司の目は、星を探すときと変わらないようだった。 千尋は手帳を開いた。最初のページには、観光名所の名前と撮影予定時刻が整然と並んでいる。その下にある「星空観察、中止」の文字を見て、しばらく考えた。 それから、その下に「パン屋」「郵便局」「天文台」と書き足した。 宿から天文台までの道も思い返す。雨宿りをさせてくれた店の軒先。道を教えてくれた八百屋。傘を差している千尋に、足元に気をつけてと声をかけてくれた人。名前は知らない。それでも、あの道を歩いたことは、もう単なる移動ではなくなっていた。 「それ、星座みたいですね」 千尋が地図を見ながら言うと、すずは鉛筆をつかんだ。 「じゃあ、パン屋さんが一等星!」 地図の上に丸が一つ増えた。 「郵便局は?」 「二等星。テレビの音が大きいから、すぐ分かるもん」 修司が声を立てて笑った。千尋も笑いながら、宿の位置に小さな星を描いた。そこから天文台まで、雨宿りをした軒先や八百屋の前を線で結ぶ。 「私の今日の星図です」 手帳の上には、観光名所の名前だけではない、小さな点と線が増えていた。 帰り道、雨は上がっていた。 濡れた舗道には街灯が映り、歩くたびに水面が揺れた。冷たい空気の中に、草の匂いがまだ残っている。千尋は傘を閉じ、空を見上げた。 雲の切れ間に星が一つだけ見えた。 足を止めかけた千尋は、手帳を取り出した。星の名前を調べることも、写真を撮ることもしなかった。代わりに、さっき書き足した町の人々の名前を読み返した。 明日の記事に、星の写真は載せられないかもしれない。 それでも、ページはもう空白ではなかった。
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作者:TakaTuki
2026/10/15 • 👁 37回 • 💬 0件
恋愛
729文字 約2分で読了

サニーサイド

 カーテンを一度も開けたことのない窓から陽がさしていた。そしてキッチンから朝を告げる音と香りが届いてきた。 「懐かしいな」  つぶやきながら起き上がりリビングへ向かった。母親以外の背中を見ながら珈琲を飲むのは初めてだ。そこには幸せな一日を予感させる朝があった。     「おはよう」  彼女を驚かせないように、そっと後ろから抱きしめた。彼女は僕の頬にキスを返しながら、手元では卵を焼いていた。白身は軽く焦げ目がついて香ばしく、黄身はぷっくらと半熟な目玉焼き。美味しそうと言いかけた時、彼女は目玉焼きをひっくり返した。 「ええ!」  思わず彼女から体を離すと覗き込んでしまった。その日からよく目玉焼きの定義について議論したものだ。お互い若かったのだと今では笑える。  君はひっくり返して焼きめをつけた少し硬めの白身と、トロリと流れ出る黄身をトーストにはさむのが好きだった。すすめられるがままに食べた俺も、その絶妙なバランスに魅了され今では朝の定番メニューだ。 「何ニヤニヤしてるの。お腹空いたー」  キッチンのカウンター越しに催促がかかった。以前は悲しそうな顔をしていた俺は、今ではニヤニヤしているらしい。 「はい、はい。今できるからお待ちください」  笑いながらフライパンを持つ手に力を込めた。今でも毎朝君を感じる。一緒にいた時間、君は俺の愛を感じただろうか。俺は愛を伝えられただろうか。君は沢山のものをくれた。沢山のことをしてくれた。その何分の一かでも、君に返せただろうか。  窓からさす光。今までと変わらない朝。ふと思う。この時間を大切にする事が、君への恩返しになるのだろうか。  ただ。変わったものと言えば。甘いカフェオレの香りと、君が残してくれた娘のために目玉焼きをひっくり返す俺がいること。 〈Fin〉
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2026/10/15 • 👁 25回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
859文字 約2分で読了

腹ぺこライオン

ある日 ライオンは恋をした 相手は捕食対象のはずのシマウマ ライオンは生きるため シマウマを狩るが 彼女のいる群れだけは 決して襲う事はしなかった 今日も彼女の無事を確かめながら 恋心は募るばかり そんな ある日の事 別の群れのライオンが 彼女のいる群れを襲うところに出くわした 『今すぐ助けてやる!』 すぐさまライオンは 果敢に飛び出し あのコを助けるべく 必死に闘った 逃げ惑うシマウマの群れ 傷だらけになるライオンの身体 獅子奮迅 血まみれになりながらも なんとか他のライオンを退ける事に成功する 『無事 逃げ延びただろうか…』 そう呟き 周りを見渡すと 傷を負い 逃げ遅れた彼女の姿があった 幸い 命に関わるような怪我ではなさそうだが 痛みと恐怖に身がすくみ 動けないでいる様だった 『大丈夫か?』 同胞を切り裂いた返り血を滴らせながら ライオンはシマウマに近付く 体は痛むが 彼女さえ無事ならば こんなものは痛いうちに入らない しかしシマウマは 身を震わせながら ライオンにこう言った 「お願い… 殺さないで」 血にまみれた 己の体を見回し その一言で 全てを悟った 自分も所詮はライオン 彼女にとっては 畏怖の対象であり 自分を狩る 獰猛な獣でしかない事を 所詮 叶わぬ恋である事を どうせ 叶わぬのであれば 相手は手負いのシマウマである 本能に従って 今この場で彼女を喰らってしまおうか しばらく対峙した末 シマウマはその場から逃げ出した オレはライオン 気高き百獣の王 ライオンが喰らったのは恋心 腹は減るし 傷も痛むが ライオンの心は満たされていた 霞む視界と遠のく意識の中 よろめきながらも遠くへと 逃げるように走り去る彼女の姿を見ては ライオンは静かに目を閉じた 元より 相容れぬ身 きっとこれでよかったのだろう 『君を守れた事を誇りに思う』 愛する者を守り 誇りを貫いた 気高き獣の最期の言葉 ライオンの体はもう動かなかった どうか この勇敢なライオンが 来世ではシマウマと結ばれる事を切に願う (さて 彼が守り抜いた手負いのシマウマが 果たして過酷なサバンナを生き延びられるのだろうか? 残念ながら それはこの物語の顛末とは無関係なので ここでは触れずにおこうと思う)
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作者:lue
2026/10/14 • 👁 54回 • 💬 0件
コメディ・日常
1188文字 約3分で読了

『◼️』

   「あ」と書くと次の語は限定される。それは「あ」の上から「い」を重ねて書いても同じことだった。  僕がこのような手法を思いついたのは、複雑なコーヒーの風味を文字で表して、さもなくばもう高いコーヒーは買わせない、と彼女が決然と主張してきたことに起因する。  そもそも味覚と嗅覚を同時多発的かつ重奏的かつ刹那的かつ無段階的にニュアンスをもたらす「味」という抽象的で主観的で官能的で絶対的なモノを文字で表現しろなどとは無理難題そのものなのだ。文字は縦から下に、あるいは左から右に、その逆であっても不可逆性で単一性の原則からは逃れられない。  故に僕は文字を重ねることにした。これは反逆では決してなくどこまでも誠意に満ちた対応である。  例えば「華々しく」から書き出すとしよう。「華」の上から「々」の上から「し」の上から「く」を書くことになる。「猛々しく」と続けば、更にその上から「猛」と「々」と「し」と「く」を書く。これにより「華々しく」と「猛々しく」は同時性を帯びることとなる。  そうして出来上がる◼️は完璧な文字であり言葉と言えた。  僕はその出来の美しさに震え上がり、過去飲んだいくつものコーヒーの「味」をそこに記し◼️をその数だけ並列した。  やがてそれでは飽き足らず物語を綴るようになった。十万字を重ねた◼️。不思議と指先で触れるとその物語は再生された。細かい些末な微々たる文字の違いはあるかもしれないが、その程度の記憶の齟齬は紙媒体にして同等である。つまり文字は動き蠢いて全体を成している。  物語の◼️もまた並列し増殖した。  半年をかけ一枚の紙の全面を◼️で埋め尽くした時、僕の脳は僥倖一色で満たされた。それは一生をかけ分散して得る幸福を束ね圧縮し一度で味わってしまったのではないかと思われた。  これでまたトップオブトップのコーヒーが買える。  この一枚の傑作集をニスで塗り固めラミネートしジップロックに密閉してから土に埋めようと思う。いつか才能を持った者がそれを掘り当てるだろう。その時ついにこれは、文字を解かれ節となり文となり物語となり書となる、と確信を抱く。  天井を仰ぎ、達成感に身を浸していると、太ももにじんわりとぬるい、熱い、灼熱を感じる。 「ごめん、コーヒーこぼした」  見れば分かる。 「なんかこの紙真っ黒やね。でもほらコーヒーも黒いし。これなんかの現代アート的なやつ?」  重ねられた文字達が解けて爛れて溶けて流れていく。  コーヒーに侵され続けるこの世で一枚の傑作集に指で触れると全てが無惨に無情に融解し霧散していくのが見てとれた。  あっでもほら滲んでもっと現代アートみたいよ、あっこれインスタントコーヒーやからもったいなくはないよ、あっそういえば最近コーヒー屋さん行ってないね今度一緒にいこ、あっそれより熱くない、お風呂入る? あっじゃあせっかくだから一緒に入ろっか。などと彼女が絶望する僕に捲し立てるので、僕は泣いた。
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作者:珈琲時間
2026/10/14 • 👁 35回 • 💬 0件
コメディ・日常
2858文字 約6分で読了

ハミングが聞こえる

 その音を最初に耳にしたのは、三月になったばかりの、雨の降る夜だった。  築三十年を超える木造アパート「木漏れ日荘」の二〇二号室。僕の城であり、同時に檻でもあるその部屋は、深夜になるとあらゆる音を吸い込み、代わりに「静寂」という名の耳鳴りを吐き出す。  フリーランスのライターをしている僕は、毎日言葉の死体遺棄現場をひたすら彷徨っている。今日も仕事を終え、冷めたインスタントコーヒーを口に含んだ。その時――。  ――ふふん、ふふ、ふーん。  鼻歌だった。低く、静かな旋律が、薄い壁の向こう側から染み出してきた。隣の二〇三号室だ。  二〇三号室には先週、新しい住人が越してきた。挨拶はされていない。僕もする気はなかった。都会の、それもこんな安アパートでの近所付き合いは、開けてはいけないパンドラの箱のようなものだ。  そのハミングは妙に耳に残った。曲名は分からない。クラシックのようでもあり、古い歌謡曲のようでもある。ただ、歌い手の機嫌がいいことだけは、壁越しにもありありと伝わってきた。  僕は耳を澄ませた。  ――ふふん、ふふ、ふーん。  その音は、窓を叩く雨の音と、部屋の隅にある古びた空気清浄機の低周波音と共に、奇妙な不協和音を奏でていた。 「呑気なもんだな」  独り言をこぼし、僕はパソコンを閉じた。明日もまた、抜け殻のような文字と、誤字脱字の海に溺れる一日が待っている。  それからというもの、夜のハミングは僕の生活の一部になった。夜の十時。あるいは深夜の一時。僕がノートパソコンに向かっていると、決まって壁の向こうから「それ」はやってくる。  ハミングの主は、おそらく女性だ。声の質感にどこか柔らかさがある。彼女がハミングを始めると、僕の殺風景な部屋に、目に見えない色が薄く塗られていくような感覚があった。  面白いことに、ハミングにはバリエーションがあった。  月曜日は、どこか決意を秘めたような力強い旋律。  水曜日は、疲れを癒すようなスローテンポ。  金曜日は、弾むようなスタッカートが混じる。  僕はいつしか、壁に耳を寄せるようになっていた。変質者だと思われたらおしまいだが、幸い、このアパートで僕の行動を監視する者などいない。  ある雨の夜、僕は衝動的に、壁を指の背でトントンと二回叩いてみた。  ――ハミングが止まった。  心臓が跳ねると同時に、やってしまったと後悔が押し寄せる。苦情だと思われただろうか。壁を叩くなんて、いかにも神経質な隣人の仕業だ。ところが、数秒の沈黙の後、トントン、と壁の向こうから返ってきた。そして、それまでよりも少しだけ大きなボリュームで、同じ旋律が繰り返された。  それは、言葉のない対話だった。僕がキーボードを叩く音と、雨の音、そして彼女のハミングが、木造アパートの脆弱な壁を境界線にして、不思議な調和を保ち始めた。  僕は彼女の正体を想像した。夜中にハミングをするのだから、水商売だろうか。それとも僕と同じような在宅ワーカーか。あるいは、何か大きな哀しみを抱えていて、それを紛らわすために歌っているのかもしれない。  一度だけ、ゴミ出しのタイミングで二〇三号室のドアが開く音がした。僕は慌ててドアの覗き穴にかじりついたが、見えたのはなだらかな曲線を描くベージュのコートの裾だけだった。  季節が三月の終わりへと加速していく。僕の仕事は繁忙期に入っていた。大手出版社からの依頼が重なり、睡眠時間は削られ、胃の辺りには常に重苦しい塊が居座っていた。そんな中、ハミングだけが僕の命綱だった。 「……ふふん、ふふ、ふーん」  しかしその夜、僕は限界だった。クライアントからの理不尽な修正指示、終わりの見えない作業、バチバチと窓を叩く雨。堪らず、僕はデスクに突っ伏した。  壁の向こうからハミングが聞こえる。でも、今日の僕にはそれが、自分を嘲笑っているかのように聞こえてしまった。  僕は無意識に、喉の奥から声を絞り出していた。 「うるさいな……」  その瞬間、ハミングがぴたりと止まった。 僕はハッとして顔を上げる。  ――まさか……。  いや、あんな独り言、壁の向こうに聞こえるはずかせない。だが、ハミングの続きはもう聞こえてこない。ただ、耳障りな雨の音だけが、やたらと大きく部屋の中に響いていた。  翌日も、その翌日も、二〇三号室は沈黙を守った。僕は自分が犯した心の加害に怯えた。  ――ただの偶然だ。  必死でそう思い込もうとした。僕の声が届いたわけではない。彼女が飽きたのか、風邪でも引いたのか。あるいは、僕の気配に嫌気がさしたのか。とにかく、偶然だと。  一週間が過ぎた。  僕の部屋は、再び「静寂」という名の耳鳴りに占拠された。仕事は捗らず、部屋は荒れ、僕は自分がどれほどあの曖昧な旋律に依存していたかを痛感した。  四月一日。外は小雨が降っていた。僕はコンビニへ夕食を買いに行こうと部屋を出た。隣の二〇三号室の前を通ると、ドアには「入居者募集中」の札が下がっていた。  足が止まった。昨日まで、あんな札はなかったはずだ。僕は階段を駆け下り、一階に住む大家さんに声をかけた。 「ああ、二〇三号室の娘さんかい? 今朝、急に引っ越していったよ。なんでも、実家の方に戻らなきゃいけなくなったとかでね。礼儀正しい、いい子だったんだけどねぇ」  大家さんの言葉が、雨音に混じって遠くの方で響いた。  ――彼女はもういない。  僕が壁を叩いた夜も、僕が「うるさい」と毒づいた夜も、彼女はただ、自分の人生の旋律を奏でていただけだったのだ。  部屋に戻り、僕はいつものようにデスクに座った。壁の向こうは、もう完全な「空洞」だ。誰もいない。ハミングもない。  僕はパソコンを立ち上げようとして手を止めた。  ――静かすぎる。  この空白のような静けさに耐えきれず、僕は深く息を吸った。そして、おそるおそる喉を鳴らした。 「……ふふん、ふふ、ふーん」  下手くそな、震えるハミングだった。  彼女がいつも歌っていた、あの正体不明のメロディ。一文字ずつ、記憶を辿るように声を出す。  壁を叩く音は返ってこない。でも、僕の出した声は壁にぶつかり、自分自身へと跳ね返ってきた。  その時、気づいた。ハミングは誰かに聞かせるためのものではない。自分がここにいることを自分自身に確かめさせるための、もっともささやかな儀式だったのだ。もしあの時、僕が「うるさい」という言葉を飲み込んでいたら、彼女は今夜も口ずさんでいただろうか。隣人でいてくれただろうか。  僕はハミングを続けた。  窓の外では、三月の終わりを告げる雨が桜の蕾を濡らしている。僕のハミングは少しずつ熱を帯び、部屋の隅々に溜まった淀んだ空気を震わせていく。  ――ふふん、ふふ、ふーん。  不思議だ。自分が歌っているはずなのに、僕の耳には二人の声が重なっているように聞こえた。薄い壁を越えて、過去と現在が、孤独と孤独が、一瞬だけ同じ旋律を共有する。  ――ハミングが聞こえる。  それは、僕の声で、彼女の声で、この街で息を切らして生きる、名もなき誰かの鼓動だった。  僕はキーボードに指を置いた。今夜の仕事は、いつもより少しだけ早く終わりそうな気がした。 (了)
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2026/10/14 • 👁 113回 • 💬 0件
恋愛
950文字 約2分で読了

おそろい

 シャルロット。女性の帽子に見立てたその洋菓子には温かいレモンティーがよく似合う。僕が導き出したわけではないその考えは、コンビニでレモンティーを見るたびに、反射的に思い起こされた。だから僕はいつも目を逸らしながら少しだけ離れたところにあるブラックコーヒーを手に取るようにしていた。僕はそんな僕がきらいだったが、習慣化されつつあることはなかなか変えられず、今日だっていつものように売り場に一直線に向かっていた。すると商品棚の一部に空いているスペースがあるのが遠目にわかった。近づくとそこが、いつも目を逸らしていたレモンティーの置いてある場所だと気がついた。その瞬間、僕はなんだか虚しさに包まれた。わかっていたこと。わかりたくなかったこと。心当たりしかない僕は、その場である決心をした。次の休みの日はそれを実行しようと。  晴天の昼下がり、僕は電気ケトルでお湯を沸かしていた。その横には戸棚に残っていた紅茶のティーバッグ。それに輪切りのレモン。さらに冷蔵庫で冷やしていたシャルロットも並んで、さながらお茶会でも始まりそうな雰囲気である。でも部屋にいるのは僕ひとり。静寂の中、電気ケトルが沸騰を知らせる音を発する。いよいよである。ティーバッグの入ったカップに熱湯を注ぐ。少しの間待ってティーバッグを取り出し、輪切りのレモンを浮かべると、紅茶の色が薄くなる。明るい赤茶のそれはまるで誰かの髪色のようで胸がじんわりする。準備は整った。シャルロットをレモンティー傍らに食す。新しい感覚なのに、どこか懐かしいそれは、心の虚しさを埋めるように満たしていく。そんなとき部屋のインターホンが鳴った。来客モニターの画面を見て、僕は一瞬固まってから玄関に駆けた。 「久しぶり。どう? 雰囲気変わったでしょ?」  はじめて見る黒髪に見惚れてしまう。 「え? てかなんでレモンティー飲んでるの?」 「それは、あれだよ……察しろよ」 「ふふっ、そっかー! ブラックコーヒーもいいなーって思って戻ってきたんだけどなー。そっかー!」  笑顔でよくわからないことを言われ戸惑う僕。 「あ、シャルロット食べる? え、ブラック飲むの?」 「ねー、今日はどう考えてもレモンティーでしょー⁉」  僕がそうやって呆れられたこの日から、ふたりには新しいふたつのおそろいができていました。
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作者:ゆすら
2026/10/14 • 👁 63回 • 💬 0件