コメディ・日常
星の見えない夜に
1,953文字
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午後六時、星守町には細かな雨が降っていた。
千尋は宿の窓から空を見上げた。山の稜線は灰色の雲に溶け、向かいの家の屋根から雨粒が絶え間なく落ちている。窓の隙間から、濡れた土と草の匂いが流れ込んできた。
取材用の手帳を開く。「星空観察、中止」。書きつけた文字を見て、千尋はペンを置いた。
楽しみにしていた撮影だった。星の軌跡を背景に町の夜景を紹介する。それが今回の記事の柱になるはずだった。明日の朝には東京へ戻らなければならない。天気が回復するのを待つ時間もなかった。
「天文台なら開いてますよ。星は見えませんけど」
宿の主人に勧められ、千尋は傘を差して坂道を上った。
雨粒が傘を細かく叩く。坂の途中には小さな店が並び、軒先から落ちる雫が舗道の水たまりに輪を作っていた。カメラを取り出しかけたが、千尋はやめた。これでは記事に使える写真にならない。そう考えてから、自分が何を撮ろうとしていたのか、少しだけ分からなくなった。
旧校舎を改装した天文台に着くと、扉の向こうから木の匂いがした。長く使われてきた床や机に染みついた、乾いた木の香りだった。外の湿った空気とは違い、室内には雨音が遠く聞こえる静けさがあった。
管理人の修司が椅子を並べていた。その隣では、少女が望遠鏡をのぞき込み、接眼部のねじを指先で回している。
「すず、レンズを拭いてくれたのかい」
「うん。でも、このねじを回すと中がどう動くのか、まだよく分からない」
すずは顔を上げ、望遠鏡の筒を軽くたたいた。
「星を見る道具なのに、仕組みのほうが気になるんですね」
千尋が声をかけると、少女は少し得意そうに笑った。
「だって、開けてみたくなるんだもん」
「壊さない程度にな」
修司が言うと、すずは「分かってるよ」と返し、またねじを回し始めた。
修司は窓の外を指した。
「あの二階の灯りが見えますか。パン屋さんです。朝四時から仕込みをするので、そろそろ休むところでしょう」
千尋は窓に近づいた。
雨に濡れた家並みの向こうで、一つの窓が蜂蜜を溶かしたような色に光っていた。ガラスに雨粒が残り、灯りはその一つ一つに小さく映っている。写真に撮るなら、もう少し暗くなってから露出を調整したい。そんな考えが先に浮かんだ。
「その隣はね、郵便局のおじさん。テレビの音が大きいんだよ」
すずが口を挟んだ。
千尋は思わず笑った。少女は窓の外を指さし、どの家のことか教えようとしたが、似たような屋根が並んでいて、千尋には見分けがつかなかった。
「すずちゃんには、どの家か分かるんですね」
千尋が感心したように言うと、すずは当たり前のように答えた。
「毎日見てるもん」
修司は机の上に町の地図を広げた。家々の位置には小さな丸が描かれ、それぞれに名前が添えてある。手書きの文字は少しずつ大きさが違い、何度も書き直された跡もあった。
「昔、停電した夜にね。子どもたちと、どの家に誰がいるか確認して歩いたんです」
修司は地図の端を指で押さえた。
「暗くなると、いつも見えていたものが見えなくなるでしょう。だから、どこに誰がいるか知っておくのは大事だと思ったんです。それ以来、町の灯りを見るのが癖になりまして」
窓の外へ向ける修司の目は、星を探すときと変わらないようだった。
千尋は手帳を開いた。最初のページには、観光名所の名前と撮影予定時刻が整然と並んでいる。その下にある「星空観察、中止」の文字を見て、しばらく考えた。
それから、その下に「パン屋」「郵便局」「天文台」と書き足した。
宿から天文台までの道も思い返す。雨宿りをさせてくれた店の軒先。道を教えてくれた八百屋。傘を差している千尋に、足元に気をつけてと声をかけてくれた人。名前は知らない。それでも、あの道を歩いたことは、もう単なる移動ではなくなっていた。
「それ、星座みたいですね」
千尋が地図を見ながら言うと、すずは鉛筆をつかんだ。
「じゃあ、パン屋さんが一等星!」
地図の上に丸が一つ増えた。
「郵便局は?」
「二等星。テレビの音が大きいから、すぐ分かるもん」
修司が声を立てて笑った。千尋も笑いながら、宿の位置に小さな星を描いた。そこから天文台まで、雨宿りをした軒先や八百屋の前を線で結ぶ。
「私の今日の星図です」
手帳の上には、観光名所の名前だけではない、小さな点と線が増えていた。
帰り道、雨は上がっていた。
濡れた舗道には街灯が映り、歩くたびに水面が揺れた。冷たい空気の中に、草の匂いがまだ残っている。千尋は傘を閉じ、空を見上げた。
雲の切れ間に星が一つだけ見えた。
足を止めかけた千尋は、手帳を取り出した。星の名前を調べることも、写真を撮ることもしなかった。代わりに、さっき書き足した町の人々の名前を読み返した。
明日の記事に、星の写真は載せられないかもしれない。
それでも、ページはもう空白ではなかった。
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