「そなたの拷問がいかに苛烈でも」かの姫騎士は気高くも言い張りました。「わらわが屈することはない」いま彼女が漏らすのは甘い吐息と微かな喘ぎ。「帝国の妓女め……んあっ!」肢体が跳ねる様もお美しい。やんごとなき方ゆえ、決して手荒にできません。けれどエルフの耳は、さぞ感じやすいでしょう。
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微かに雨の匂いがする。
じきに夕立になるのだろう。
雨は好きだ。
初めてあなたを識《し》った時にも、雨の音がしていた。
『そうだな。アディス。お前をアディスと呼ぶことにしよう』
向けられた優しい声に、まぶたが開いた。
体臭に混じって、微かなメンソールの香りがした。
「よろしく、アディス。これからはお前が私の唯一の家族だ。仲よくしよう」
デフォルトの知識しかなかった私に、新たに名前を与えてくれたその人の顔をじっと観《み》た。
躊躇いがちに伸ばされた手に、私はおずおずと唇を押し当て、忠誠を誓った。
あなたは、嬉しそうにほほ笑んでくれた。
頬を、頭をそっと撫でる、あなたの暖かな手の感触。
私は決して忘れない。
私が存在する限りは。
あなたが私を迎えてくれたあの日。
あの日から、流れるだけだった時間は、私にとって特別な『時』になった。
あなたは私に話しかけ、優しく触れ、抱きしめてくれた。
たくさんの情報や常識、必要な知識を惜しげもなく与えてくれた。
家の中だけでなく、オフィスへの行き帰りの道中でも、私たちは一緒だった。
武骨な護衛《ガード》達に挟まれて座るあなたの横で、私はいつも周囲を観《み》ていた。オフィスであれ、レストランであれ、あなたが食事をするときは、まず私が味わった。感情を映さないあなたの冷めた瞳は、私に向けられた時だけは柔らかく瞬いていた。
たくさん恋人がいることは知っていた。
週末、私を置いて出かけたあなたは、いつだって異なる移り香を身に纏っていたから。
あなたは裕福な事業家であり、やり手の経営者。多くの女性たちにとって魅力的な男性。
仕方がないことだ。
それでも、あなたはそんな女たちを自宅に連れ込んだりしなかった。あなたの部屋で共に過ごし、ベッドで戯れあうのは私。彼女たちではなかった。
『あいつらは俺ではなく、俺の金や地位を愛してるのさ。だから俺は相応な見返りを払って楽しませてもらってる。それだけの関係さ。お前とは違う。アディス、俺が信じているのはお前だけだ。お前は決して俺を裏切らないよな?』
私の身体をぎゅっと抱きしめて、そう呟いた声に滲んでいたモノは自嘲という感情?それとも・・・寂しさだったのだろうか?
私にはわからない。あなたの言葉を理解しても、あなたに訊ねることはできなかったから。
あなたが一般的な定義での『善良な市民』ではないことはすぐにわかった。
オフィスや自宅に施された、文字通り、アリ一匹侵入できないほどの最新のセキュリティシステム。外出の際、必ず同伴する護衛《ガード》たち。お抱え運転者に運転させるのは、防弾ガラスがはめ込まれた特別仕様のリムジン。
あなたは決して他人《ひと》に気を許さない。他人を自宅へ招こうともしなかった。
私以外であなたが自宅へ入るのを許可したのは、一人だけ。
あなたによく似た骨格の、あなたによく似た声質の、あなたが<専務>と呼ぶ男。
高圧的な口調でしゃべるあなたに、あいづちを打ち、言い訳を並べ、時には意味もなく笑い声を発てる男。
私は人よりはるかに耳がいい。
男の声には、いつだって怯えと微かな嫌悪があった。
雨は好きだ。
雨がひどく降る日は、あなたは外出を避けるから。
『古傷が傷むんだ。俺も年だな。若い頃は我慢できたんだが。どうしても、右足を引きずってしまう』
見栄っ張りのあなたは、他人に弱みを見せるのを嫌う。おそらく、私以外その事実を知る者はいなかっただろう。
雨が好きだった。雨の日は、私たちの家で、一日中、あなたは私にかまってくれる。私だけのあなたでいてくれるから。
あなたのためなら、私は何でもしただろう。
あなたは私のすべて。私の存在理由。
だから、あなたが悲しむ必要はない。わたしは任務を果たしただけ。
* * *
「すみません。すぐに自分の車で追いかけます。先に行かれてください」
<専務>がへまをすることはよくあること。
だから、書類を取りに戻るというその背を、私は車窓から、ただぼんやりと見送っていた。
その時…
かすかに聞こえてきた彼の声。
「永遠にサヨナラだ、父さん」
呟かれた言葉に込められていたのは、強烈な憎悪。
瞬時に私は判断した。
全力でドアを蹴り飛ばし、あなた共々、車外へと転がり出た。
驚くあなたの袖を捉え、あなたの身体を引きずるようにして駆けた。
かちりと微かな音がした。
間に合わない!
あなたをその場に押し倒し、あなたの上に覆いかぶさる。
背後で爆音が弾けた。
わたしの全身は、燃え上がる焔と飛び散る金属片からあなたを守る盾になった。
ぽつりぽつり。
雨粒が落ちてくる。
コンクリートに、すでに移動機能を失った私の身体に。
トクットクットクッ・・・
よかった。
あなたの心臓は正常に機能している。
「救急車を!生きてるぞ!早く!」
「犬が庇ったんだ。いや、これは・・・機械の一部か?」
「まさか、こいつ、ロボットか?」
誰かが叫ぶ。
けたたましいサイレン。
どたどたと駆けつけてくる足音。
あっという間にスコールと化した夕立が、そのすべての音を消していく。
人工知能搭載犬型セキュリティ装置《AI equipped dog-shaped security device》。
サイバー化したリトリバーの肉体にAIを組み込んだ学習する人造ペット兼ボディガード。
それが私。
アディス。
そう名づけてくれたのは、あなた。
損傷が大きすぎた。
叩きつけるように降る雨の中、全身の機能が停止していく。
消えゆく『意識』に最後に閃いたのは、あなたの声、あなたの香り。
誰よりも愛しいあなた《マスター》
私はあなたの家族になれていましたか?
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私はその駅で列車を下りた。 夜はまだ明けておらず、ガス燈の心もとない明かりが、朝の気配をまとった駅員すらいないホームをぼんやりと照らしていた。 ホームの端に立つ古びた駅名標に目をやると、手の中の切符と同じ四文字が刻まれていた。
北の町。
私はしばらく、その文字を見つめた。 どうしてここへ来たのか。何を探しに来たのか。 結局よく分からないままだけれど、どうしてもここへ来なければならないような気がした。
空の下のほうが、ゆっくりとミルク色に染まり始めていた。 私はそれを眺めながら、ほう、と息を吐き、駅を出た。 駅前の大通りに、一軒だけ明かりのついた喫茶店があった。 私は吸い込まれるように、その店へ入った。
そして――北の町で、こんな話を聞いた。
「夢を捨て、妥協《だきょう》をし、様々なことを諦めるのが『大人になる』ということだ。その点からいえば、君はまだまだだな。」
「はあ……、そうですか。」
カフェでコーヒーと読書を楽しんでいると、そんな会話が隣の席から聞こえてきた。少し気になって横目で様子をうかがうと、スーツ姿の男性が二人、向かい合って座っていた。いわゆる「ドヤ顔」で話していた中年男性と、気のない返事をしている若い男性。上司と部下だろうか。
私は、二人の会話を思い返した。 よく耳にする言葉だけれど、改めて聞くと、体裁《ていさい》を良くして恰好《かっこう》つけただけの、自分を誤魔化す言葉にしか聞こえてこない。それだけじゃない。自分の価値観が全てで、絶対的に正しいと思い込んでいる人たちも少なからず存在する。なるほど、あんな風にドヤ顔で話して恍惚感《こうこつかん》に浸るわけだ。目の前の相手はテーブルの下に隠したスマホの画面ばかりを見て、全く話を聞いていないのにも気づかずに。 私はため息をついた。こんなことを考える私も、夢を捨て、妥協をし、様々なことを諦めて日々を生きている、大人なのだ。
「ねえ、知ってる? 子どもにとって、いちばん甘いものは、ドロップスなんだよ。」
カフェの外を通る女の子の言葉が、私の耳と心を直撃した。私はフッと小さく笑った。 ああ、そうか。どんな妥協も諦めも、自分の心を偽ってしまっては、真の大人とは言えないんだ。
帰り道、駄菓子屋に立ち寄って、幼い頃に大好きだった金平糖を買った。 ひと粒取り出して夕日にかざすと、陽の光を受けてキラキラと輝いた。
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いったいどうすれば、皆を満足させられるんだ?」
彼はおおいに悩んでいた。
彼は『苦情受理・対応課』課長。
組織における、いわゆる中間管理職だ。
彼が率いるのは、際限なく入ってくる不平不満に耳を傾けて対応するための部署。
苦情を減らし、現状における最大多数を満足させるよう努めるのが、主な業務だ。
対応が悪いと文句を言われることは多い。が、残念ながら、感謝されることはあまりない。
仲間内で『貧乏くじ』係と呼ばれている課でもある。
「できるだけ、あのお方のお気持ちに沿いたいのだが」
彼は天を仰いで、ため息を吐いた。
今日も彼は多忙だった。
彼が、部下たちが、どんなに必死に善処し続けようが、満足することなく自分の要求ばかり通そうとする人間はいつだって存在する。
他のモノが妥協してくれるときでも、人間は自分の利益のみを優先させろと訴える。
あまつさえ、どういう方法かわからないが、忙しい上司に直訴しようとする、不届きな人間まで現れる。
いっそ上司が直接、事にあたってくれればいいのに、と思うこともある。
基盤を築き上げ、運用ルールを定めたのだから、その先を丸投げするのはあんまりじゃないだろうか?
まあ、そういうわけにはいかない決まり事があるのだろうが。
正直言って、頭が痛い。
部下たちはほぼ不眠不休で働いていてくれている。
しかし、彼らの要求はあまりにも多岐にわたる。
一人の願いを叶えても、別の人間の不利益になり苦情の元になってしまう。
そんな事例も少なくない。
上司が掲げる最終目標は『居住者たち全てを満足させて幸せに導くこと』。
そんなの、どうやっても、不可能じゃないだろうか?
(いっそ、不都合なことはすべて忘れてしまえればなあ。そうできれば、少しは気が楽になるんだが)
思わず、そう弱音を吐いたとき、天啓のごとく、解決案が閃いた。
* * *
「愛していたのに!この浮気者!あなたを殺して私も死ぬわ!」
刃物を振り回して恋人に詰め寄っていた女の顔から、すっと怒気が消えた。
「あら、素敵な方。お名前を教えてくださる?」
「こいつの命が惜しければ、社長を連れてこい!」
不当解雇を訴える男が元同僚にナイフを突きつけて叫んだ。
「やむを得まい。射撃班に連絡を」
「しかし、それでは人質の命が」
刑事たちの動きが止まった。
男がナイフを投げ捨てて、周囲を不思議そうに見回していた。
「あれ、刑事さん?何か事件ですか?」
「大変です。A国が我が国に向けて核ミサイルを発射した模様です」
「なんだと!嘘つきDめ。停戦の約束を反故にしやがって。お返しに核ミサイルを首都に食らわせてやれ。国民は核シェルターに緊急避難を」
そう命じた直後・・・
P総統は部下たちと顔を見合して微笑みあっていた。
「なんだか、ひどく穏やかな気分だな。久しぶりにお茶でもどうだ?」
* * *
その日、人類は嫌なこと全てを忘れ去り、誰もが幸せな気分になった。
そして、地上は大混乱に陥った。
彼が上司《神》にこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。
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冒険が終わっての酒場は命の洗濯よ。相方の姫騎士が声を張り上げる。「蜂蜜酒持ってきて!」「ちゃんと肴も注文しなよ」「貴女の腕じゃだめか?」戦士の力こぶをつつきながらのズルい上目遣い。「ほどほどにね」たしなめながら口元が綻ぶ。戦さ場の凛とした顔が蕩けるさまは、いつもあたいのご褒美さ。
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魔法の書庫で、老夫婦は一冊の本を開いていた。
紺色の表紙には、題名がない。頁をめくるたび、二人が過ごしてきた景色が浮かび上がる。
初めて並んで歩いた道。
喧嘩をした晩の、冷めた夕飯。
言葉が見つからず、ただ背中をさすっていた夜。
「あら。こんなことまで書いてあるのね」
妻が指でなぞったのは、若い夫が傘を持って迎えに来た頁だった。妻の肩は濡れておらず、夫の片側だけがびしょ濡れになっている。
「あなた、いつも傘をこちらへ寄せすぎるのよ」
「そうだったかな」
「そうでしたよ」
夫は笑って、次の頁をめくった。
そこから先は、白かった。
栞には小さく、こう記されていた。
『次の生へ持ち越す記憶はありません。残したい言葉を、お書きください』
「忘れてしまうんだね」
夫の声に、妻はしばらく答えなかった。
重なっていた二人の手が、少しだけ強く結ばれた。
「せっかく、ここまであなたのことを覚えたのにね」
甘いものを残しておくこと。
寂しいときほど、何でもない顔をすること。
照れると、眼鏡の位置を直すこと。
夫は眼鏡に触れかけた手を下ろし、ペンを取った。
白い頁へ、ゆっくりと言葉を置いていく。
これまで歩んできた、
忘れたい程の苦しみは、
糧となり、生きたい証になるんだよ。
まだ見ぬ来世にも、
いつか死にゆく運命が待っているのだとしても、
きみとなら、
わらって唄って過ごせるだろう。
なにもかも思い出して、
何を忘れていたのか、
忘れてしまうくらいに夢中になって。
いつの時代も、
きみと永遠を刻みたい。
ここまで書いて、ペンが止まった。
「困ったな。誰かが先に読んで、君のふりをしたらどうしよう」
「あなたの相手をしたがる人が、そんなにいるかしら」
妻が笑う。
夫も笑ったけれど、頁を押さえた指は離れなかった。
「それでも、これは君に読んでほしいんだ」
本の最後に、もう一つだけ問いが現れた。
『この本を、誰に開かせますか』
「ぼくたちだけに」
夫が答えると、金色の文字が表紙へ浮かんだ。
禁書。
「ずいぶん大げさな名前ね」
「だれも邪魔できないようにするんだよ」
妻は首を傾げた。
「でも、私たちも忘れるのでしょう。どうやって開くの?」
夫は考え込んだ。
名前も、顔も、合言葉さえ持っていけない。
やがて、妻がペンを受け取った。
『隣の人と、一緒に読もうと思ったとき』
「これでどうかしら」
初めて会った日も、妻はそう言って、読みかけの本を夫の方へ寄せたのだった。
夫はうなずいた。
来世の二人が、どこで暮らすのかは分からない。それでも、本をひとりで閉じる前に、誰かを隣へ招くかもしれない。
その誰かが、また妻であってほしかった。
夫は残りの言葉を書き足した。
ぼくたちの朽ちない幸福が、
未来を呼び覚ましてくれるはずだから。
現世も連れ添ってくれてありがとう。
この一篇の想いを本に託して、
来世に残そう。
色褪せることのない涙を、
本に添えながらきみを想うよ。
愛してる。
最後の文字のそばに、涙が一滴落ちた。
妻はそれを拭わず、乾くまで待った。
それから余白へ、小さく返事を書いた。
『知っていますよ。
来世では、もう少し早く言ってくださいね』
「そんなに待たせたかな」
「ええ。随分と」
妻は夫の肩に頭を預けた。
二人で本を閉じると、書庫の奥へ続く扉が、鈴の音を立てて開いた。誰かの足音が近づいてくる。
夫は本を棚へ戻そうとして、ふと手を止めた。
「帰ったら、もう少し一緒に読もうか」
「ええ。まだ途中ですもの」
題名のない本を抱え、二人は立ち上がった。
扉を通るとき、夫はいつものように、妻へ先を譲った。
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「そう言えば、あなたの趣味は何だったの?」
赤ワインのボトルを手にラベルを見つめる男は、声の方へは目線を向けず、呆れ色のした息を一つ、大袈裟に落としてみせる。
「休日は、何してたかって意味でいいのかい?」
そうよ、と半拍も開けずに急かされ、今度は鼻から呆れ色のそれを抜く。
「少し離れたショッピングモールにさ、幼児たちが無料で遊べる施設があるんだよ。そこに行ってたのさ」
「相当な癖をお待ちなことで」
「いや、そうじゃない。いや、いや、そうじゃない訳じゃないが、君が思ってるのは違うと思いたい。僕はこの歳で独身だろう? なんて言うか、紛れると落ち着くんだ。慰めというか」
男の曖昧な主張は沈黙を呼び込み、また誤魔化した自責が嫌に喉元を窮屈にした。やがて、沈黙に耐えきれず、あるいは誤魔化した後悔を取り繕うように男は、深く酸素を取り込み、いっそ雄弁にと再び語り始める。
「いかにも休日の父親なカジュアルになってさ。例えば斜め掛けのボディバッグなんか付けて。見守るように、少し気怠るように、子ども達を眺めるんだ。そうしてると実感が湧いてくる。ああ、この子達は未来と可能性の権化であり、一般的な幸福が結実した成果物なんだなぁって。それが、ただ溢れ出し、そうであることが当然の空間で、そこでの孤独感がどうしようもなく心地よく癖になってるだけであって」
ははーん、なるほど、と納得した訳知り顔の声が男の雄弁を遮る。
「つまり、人妻や子ども達には何の、というより、性的な興味は無い、と」
その通り、と男は人差し指を向けて首肯する。
「でも、それはそれで、残念ですね。だってだとすれば、もうあなたは満たされないもの」
「僕に限らず例えどんな性的趣向であってもそうだと思うがね。しかし、意外だ。まさかすんなりと理解を示されるとは」
「あら? そんなステレオタイプに見えて?」
「いや、見えはしないが。君は車のナンバーを、フィボナッチ数列も知らないのに『・358』にするような人種だと思ってた。ああ、言い方が悪いかもしれないが、一般的な幸せが当然にある層、という意味だ」
「まぁ、否定はなしないわ。旦那さんはまさしくそうだったもの」
ほれやはり、と男は口角を釣り上げ、赤ワインのコルクを無音の内に抜き、グラスに注ぎ、一口で煽る。
「いやに、見せびらかすのね。高いワインなの?」
「そうだとも。今まで手が出なかった程さ。酒屋の主人は顰めっ面をしてたがね。やはり筆舌し難い素晴らしい風味だ。いや、しかし、不思議なもんだ」
「ワインの味?」
「いや、君の記憶さ。さっき旦那の話をしただろう?」
「それが? おかしいの?」
「おかしいとも。少なくとも僕にはそう思える。だって記憶というデータはたんぱく質に蓄積されるものだと考えていたからさ。なんだってゴーストの君が記憶を保持し、またこの一連の会話みたく新たに記憶を蓄積しているんだい」
密室の部屋だというのに、影はゆらりと揺らぎ、それは動揺や困惑を示しているのかもしれなかった。
「そんなこと、ね。だって今さら探求してどうするの?」
「それを言うなよ。必要なんだ。人として生きる為には。どんなに些細で、くだらなくて、価値の無さそうな物でも。目的を必要としている。その自覚が僕にはある」
「目的、ね。皮肉ね。それは皮肉よ」
「ゴーストが皮と肉を口にするのか。笑えるな。ああ、笑えるよ」
「そうね。笑ってちょうだい。笑えるにこしたことはないわ。今やあなたを除いて、世界中にはゴーストしかいないのだからね」
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穏やかな春の日に
溶けてゆく雪のように
この胸の悲しみも
溶けてしまえばいいのに
外に見えるはなごり雪
うたたかな光の中で
最後に消える雪の結晶は
一体何を思ふのだろう
私たちの仕事は人間を幸福にすること。
小さな赤ん坊の笑顔とともに生まれその子供が成長していく中で幸福だと感じることを少しでも増やしていくこと。
妖精なんていないっていう人はいっぱいいるけれど、そういう人には私たちの姿は見えない。
きっと分からないだろう。
私たちが生まれてきた意味も。
人間が成長する時に私たちはいっぱい話しかける。
よく天使と悪魔が迷っている時に話しかける図など描かれることがあるが 実際、話しかけているのは私たちだ。
笑い声が聞こえる。
赤ん坊の笑いが。そのキラキラした笑顔と共に妖精たちは生まれるのだ。
だけど妖精というのはその人が不幸になったり悲しんだりすると消えてしまうのだ。
消えていった仲間たちのことを思うと、とっても悲しい。
私たちはどうして生まれてきたのだろうか。
私はずっと彼女の人生を見てきた幸福になれば生まれ不幸になれば消えていく私たちの仲間たち。
一番多いのは赤ん坊の時に生まれてくる妖精たちだけど大人になって幸せな時に生まれてくる妖精もいる。
妖精はみんな幸福の化身なのだ。
彼女が窓の外を見ている。
雪はほとんど消えかけていて、その上の雪の結晶もみんな消えてしまうのだ。
「幸福な人生をありがとう」
その日を見ながら彼女がそう言った。
その言葉はきっと私に言ったんじゃないかなと思う。
彼女の顔、生まれた日に産声と共に生まれて、彼女が年老いて死んでいく今日までずっとそばにいた。
彼女の命が消えてゆくのがわかる。
私もまた消えてゆくのだ。
それは最後の雪のかけらにも似て……
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博物館の中は静まり返っていた。
今日は惑星と惑星が衝突する日だから、こんな日には世界が交差するのだと館長が言っていた。
空には夢から生まれた生き物たちが飛び回っている。
虹の落ちた湖では夜の闇から生まれたクジラたちが泳いでいた。博物館はその湖の真ん中にあるのだ。
水晶でできた吊り橋を渡ると別館の古生物の館に行くことができる。
アノマロカリスが出迎えてくれた。
カンブリア時代の海が目の前に広がっている。
奇妙な姿をした生物たちが私の前を歩いて行く。
それは進化のその先に命を残せなかった者たち。
生きてゆくというのは、命をつないでいくということだ。
それはとても難しい。
どんなに優れた能力を持っていても、どんなに強くても、どんなに美しくても子孫を残さなければ消滅してしまう。
古代の恐竜たちがその大半が滅んでしまったように。
あの美しかった恐竜たちが。
だがここではそれらの生物はまだ存在する。
強くて美しい生物たちが。
生き残るということは何も強さや美しさが有利なだけではない。時には体が小さく生きていくのは困難なものが生き残る。
それは運命とも言えよう。
残念なことに、この別館にいる古代の生物たちはここから出ることができない。彼らが生きていた世界はもうとっくに滅んでしまったからだ。あるいは彼らが生きていた時代は。
私はここから外を見た。
夜の星たちが湖から続々と空に向かって登って行く。
星は無数に存在し、砕けた虹のかけらが星へと変わったのだと私は悟った。
やがて銀河だって生まれるだろう。
夜のクジラたちは星を飲み込み、やがて小さな宇宙へと姿を変える。
ここからまた新しい世界が生まれてくるのだ。
もしかしたら その世界にまた、アノマロカリスは生まれてくるのかもしれない……
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君は覚えていない。
前世では、殺し合っていた。
そして、そのまた前世でも。
だが俺も、君と最初に出会った生を覚えていない。
今世、俺――古賀聖宗は日本に生まれ、この聖・カタリナ学園の教師になった。
〝厄災の魔女〟の生まれ変わり、|朝宮茉莉《あさみやまつり》を見張るために。
「おはようございます、古賀先生」
「古賀先生、ご機嫌よう」
「ああ、おはよう」
正門に立ち、次々と登校してくる女生徒たちと挨拶を交わしつつ、俺はただひとりを待っていた。
そろそろ来る頃だが。
俺は、腕時計に目を落とした。
いつも正門前に横付けされる黒塗りのベンツは、まだ見えない。
「古賀セン、おっはよ!」
肩を叩かれ、顔を上げると、担任しているクラスの生徒だった。
「こら、古賀先生だろう」
背中に向かって声をかけると、彼女はべっと舌を出し、小走りに校舎に消えていった。
のどかな朝の登校風景。
黒い炎に包まれた廃墟、血飛沫、悲痛な叫び声。
身体に染みついた凄惨な戦いの記憶も、今はまるで御伽話のように遠い。
そのとき、低いエンジン音が聞こえた。
顔を上げると、いつもより少し遅れて校門前に黒いベンツが停まり、後部座席のドアから、少女が楚々とした仕草で降り立った。
「お嬢様、いってらっしゃいませ」
「はい、いってまいります」
女性運転手に丁寧に会釈をすると、腰まである長い黒髪が揺れた。
朝宮は今、前世を忘れている。
だが、あの黒髪が紅に染まるとき、〝厄災の魔女〟として覚醒する。
そのとき俺は、朝宮の命を奪わなくてはならない。
「古賀先生、おはようございます」
朝宮は俺の前で歩みを止めると、きちんと礼をした。
顔を上げ、花が綻ぶように微笑んだ。
「ああ、おはよう」
朝宮が俺の前を通り過ぎた。
残り香がふと鼻を掠め、近頃繰り返し見る夢が頭に蘇った。
風がそよぐ葦原に、明るい笑い声が響いている。
紅い巻き毛の少女が金の波を掻き分けてゆく。その後を、銀髪の少年が笑いながら追いかけてゆく。
やがて少女は振り返り、震える手を差し出した。
「お願い、一緒に来て」
だが、少年はその手を取らなかった。
銀髪の少年は、幼い頃の俺とよく似た顔をしていた。
紅い巻き毛の少女は、朝宮……なのか。
覚えている四つの生のどこにもそんな記憶はない。
ならば、これは失った最初の生の記憶なのだろうか。
俺たちは、最初から敵ではなかった……?
一瞬、さらさらと揺れる黒髪に、紅い巻き毛が重なった。
目をこすり、俺は朝宮の背中をもう一度見つめた。
ふと、横から視線を感じた。
発進しかけた黒いベンツの運転席から、女性運転手がじっとこちらを見ていた。
――それは夢ではない。あの方はお前を愛したが、お前はあの方を見捨てた。その痛みこそが、覚醒の引き金だ。
言葉だけが、頭の中に直接響いた。
はっとして振り返ると、いつの間にか朝宮がこちらを見ていた。
黒かった髪の先が、紅に染まり始めていた。
――殺さなくては。
そう思ったのに、耳の奥に、葦原を駆ける少女の笑い声が蘇った。
俺は、朝宮を殺すための一歩を、どうしても踏み出せなかった。
《おわり》
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