SF・ファンタジー

ふたりだけの禁書

1,428文字 約3分で読了
 魔法の書庫で、老夫婦は一冊の本を開いていた。  紺色の表紙には、題名がない。頁をめくるたび、二人が過ごしてきた景色が浮かび上がる。  初めて並んで歩いた道。  喧嘩をした晩の、冷めた夕飯。  言葉が見つからず、ただ背中をさすっていた夜。 「あら。こんなことまで書いてあるのね」  妻が指でなぞったのは、若い夫が傘を持って迎えに来た頁だった。妻の肩は濡れておらず、夫の片側だけがびしょ濡れになっている。 「あなた、いつも傘をこちらへ寄せすぎるのよ」 「そうだったかな」 「そうでしたよ」  夫は笑って、次の頁をめくった。  そこから先は、白かった。  栞には小さく、こう記されていた。 『次の生へ持ち越す記憶はありません。残したい言葉を、お書きください』 「忘れてしまうんだね」  夫の声に、妻はしばらく答えなかった。  重なっていた二人の手が、少しだけ強く結ばれた。 「せっかく、ここまであなたのことを覚えたのにね」  甘いものを残しておくこと。  寂しいときほど、何でもない顔をすること。  照れると、眼鏡の位置を直すこと。  夫は眼鏡に触れかけた手を下ろし、ペンを取った。  白い頁へ、ゆっくりと言葉を置いていく。  これまで歩んできた、  忘れたい程の苦しみは、  糧となり、生きたい証になるんだよ。  まだ見ぬ来世にも、  いつか死にゆく運命が待っているのだとしても、  きみとなら、  わらって唄って過ごせるだろう。  なにもかも思い出して、  何を忘れていたのか、  忘れてしまうくらいに夢中になって。  いつの時代も、  きみと永遠を刻みたい。  ここまで書いて、ペンが止まった。 「困ったな。誰かが先に読んで、君のふりをしたらどうしよう」 「あなたの相手をしたがる人が、そんなにいるかしら」  妻が笑う。  夫も笑ったけれど、頁を押さえた指は離れなかった。 「それでも、これは君に読んでほしいんだ」  本の最後に、もう一つだけ問いが現れた。 『この本を、誰に開かせますか』 「ぼくたちだけに」  夫が答えると、金色の文字が表紙へ浮かんだ。  禁書。 「ずいぶん大げさな名前ね」 「だれも邪魔できないようにするんだよ」  妻は首を傾げた。 「でも、私たちも忘れるのでしょう。どうやって開くの?」  夫は考え込んだ。  名前も、顔も、合言葉さえ持っていけない。  やがて、妻がペンを受け取った。 『隣の人と、一緒に読もうと思ったとき』 「これでどうかしら」  初めて会った日も、妻はそう言って、読みかけの本を夫の方へ寄せたのだった。  夫はうなずいた。  来世の二人が、どこで暮らすのかは分からない。それでも、本をひとりで閉じる前に、誰かを隣へ招くかもしれない。  その誰かが、また妻であってほしかった。  夫は残りの言葉を書き足した。  ぼくたちの朽ちない幸福が、  未来を呼び覚ましてくれるはずだから。  現世も連れ添ってくれてありがとう。  この一篇の想いを本に託して、  来世に残そう。  色褪せることのない涙を、  本に添えながらきみを想うよ。  愛してる。  最後の文字のそばに、涙が一滴落ちた。  妻はそれを拭わず、乾くまで待った。  それから余白へ、小さく返事を書いた。 『知っていますよ。  来世では、もう少し早く言ってくださいね』 「そんなに待たせたかな」 「ええ。随分と」  妻は夫の肩に頭を預けた。  二人で本を閉じると、書庫の奥へ続く扉が、鈴の音を立てて開いた。誰かの足音が近づいてくる。  夫は本を棚へ戻そうとして、ふと手を止めた。 「帰ったら、もう少し一緒に読もうか」 「ええ。まだ途中ですもの」  題名のない本を抱え、二人は立ち上がった。  扉を通るとき、夫はいつものように、妻へ先を譲った。
2026/10/02 ・ 👁️ 42回 ・ 💬 0件

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