SF・ファンタジー
誰よりも愛しいあなたへ
2,243文字
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微かに雨の匂いがする。
じきに夕立になるのだろう。
雨は好きだ。
初めてあなたを識《し》った時にも、雨の音がしていた。
『そうだな。アディス。お前をアディスと呼ぶことにしよう』
向けられた優しい声に、まぶたが開いた。
体臭に混じって、微かなメンソールの香りがした。
「よろしく、アディス。これからはお前が私の唯一の家族だ。仲よくしよう」
デフォルトの知識しかなかった私に、新たに名前を与えてくれたその人の顔をじっと観《み》た。
躊躇いがちに伸ばされた手に、私はおずおずと唇を押し当て、忠誠を誓った。
あなたは、嬉しそうにほほ笑んでくれた。
頬を、頭をそっと撫でる、あなたの暖かな手の感触。
私は決して忘れない。
私が存在する限りは。
あなたが私を迎えてくれたあの日。
あの日から、流れるだけだった時間は、私にとって特別な『時』になった。
あなたは私に話しかけ、優しく触れ、抱きしめてくれた。
たくさんの情報や常識、必要な知識を惜しげもなく与えてくれた。
家の中だけでなく、オフィスへの行き帰りの道中でも、私たちは一緒だった。
武骨な護衛《ガード》達に挟まれて座るあなたの横で、私はいつも周囲を観《み》ていた。オフィスであれ、レストランであれ、あなたが食事をするときは、まず私が味わった。感情を映さないあなたの冷めた瞳は、私に向けられた時だけは柔らかく瞬いていた。
たくさん恋人がいることは知っていた。
週末、私を置いて出かけたあなたは、いつだって異なる移り香を身に纏っていたから。
あなたは裕福な事業家であり、やり手の経営者。多くの女性たちにとって魅力的な男性。
仕方がないことだ。
それでも、あなたはそんな女たちを自宅に連れ込んだりしなかった。あなたの部屋で共に過ごし、ベッドで戯れあうのは私。彼女たちではなかった。
『あいつらは俺ではなく、俺の金や地位を愛してるのさ。だから俺は相応な見返りを払って楽しませてもらってる。それだけの関係さ。お前とは違う。アディス、俺が信じているのはお前だけだ。お前は決して俺を裏切らないよな?』
私の身体をぎゅっと抱きしめて、そう呟いた声に滲んでいたモノは自嘲という感情?それとも・・・寂しさだったのだろうか?
私にはわからない。あなたの言葉を理解しても、あなたに訊ねることはできなかったから。
あなたが一般的な定義での『善良な市民』ではないことはすぐにわかった。
オフィスや自宅に施された、文字通り、アリ一匹侵入できないほどの最新のセキュリティシステム。外出の際、必ず同伴する護衛《ガード》たち。お抱え運転者に運転させるのは、防弾ガラスがはめ込まれた特別仕様のリムジン。
あなたは決して他人《ひと》に気を許さない。他人を自宅へ招こうともしなかった。
私以外であなたが自宅へ入るのを許可したのは、一人だけ。
あなたによく似た骨格の、あなたによく似た声質の、あなたが<専務>と呼ぶ男。
高圧的な口調でしゃべるあなたに、あいづちを打ち、言い訳を並べ、時には意味もなく笑い声を発てる男。
私は人よりはるかに耳がいい。
男の声には、いつだって怯えと微かな嫌悪があった。
雨は好きだ。
雨がひどく降る日は、あなたは外出を避けるから。
『古傷が傷むんだ。俺も年だな。若い頃は我慢できたんだが。どうしても、右足を引きずってしまう』
見栄っ張りのあなたは、他人に弱みを見せるのを嫌う。おそらく、私以外その事実を知る者はいなかっただろう。
雨が好きだった。雨の日は、私たちの家で、一日中、あなたは私にかまってくれる。私だけのあなたでいてくれるから。
あなたのためなら、私は何でもしただろう。
あなたは私のすべて。私の存在理由。
だから、あなたが悲しむ必要はない。わたしは任務を果たしただけ。
* * *
「すみません。すぐに自分の車で追いかけます。先に行かれてください」
<専務>がへまをすることはよくあること。
だから、書類を取りに戻るというその背を、私は車窓から、ただぼんやりと見送っていた。
その時…
かすかに聞こえてきた彼の声。
「永遠にサヨナラだ、父さん」
呟かれた言葉に込められていたのは、強烈な憎悪。
瞬時に私は判断した。
全力でドアを蹴り飛ばし、あなた共々、車外へと転がり出た。
驚くあなたの袖を捉え、あなたの身体を引きずるようにして駆けた。
かちりと微かな音がした。
間に合わない!
あなたをその場に押し倒し、あなたの上に覆いかぶさる。
背後で爆音が弾けた。
わたしの全身は、燃え上がる焔と飛び散る金属片からあなたを守る盾になった。
ぽつりぽつり。
雨粒が落ちてくる。
コンクリートに、すでに移動機能を失った私の身体に。
トクットクットクッ・・・
よかった。
あなたの心臓は正常に機能している。
「救急車を!生きてるぞ!早く!」
「犬が庇ったんだ。いや、これは・・・機械の一部か?」
「まさか、こいつ、ロボットか?」
誰かが叫ぶ。
けたたましいサイレン。
どたどたと駆けつけてくる足音。
あっという間にスコールと化した夕立が、そのすべての音を消していく。
人工知能搭載犬型セキュリティ装置《AI equipped dog-shaped security device》。
サイバー化したリトリバーの肉体にAIを組み込んだ学習する人造ペット兼ボディガード。
それが私。
アディス。
そう名づけてくれたのは、あなた。
損傷が大きすぎた。
叩きつけるように降る雨の中、全身の機能が停止していく。
消えゆく『意識』に最後に閃いたのは、あなたの声、あなたの香り。
誰よりも愛しいあなた《マスター》
私はあなたの家族になれていましたか?
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