喪中ハガキを手にした時、
彼女が死んだことを知った。
もう30年も会ってない友人だ。
同じ中学の同級生。あの頃の一番の親友だった。
毎年、年賀状だけは交換していたのだ。
年賀状の中で少しずつ変わっていく彼女の生活を見ていた。
結婚したこと、息子が生まれたこと。年賀状には毎年家族写真が載っていた。
記憶の中の彼女はあの頃と変わらないのに。
もう彼女がいないのだという実感がわかない。
私はキッチンでコーヒーを1杯入れた。
彼女の家族に連絡を取りたいが、残念ながら電話番号がわからない。しばらく迷って、手紙を書くことにした。
宛先は彼女の家族に。
一言お悔やみを言いたいのと、できればお線香をあげたいので訪問させて欲しいと。
どうして生きているうちに会いに行かなかったのだろう。
たとえ、年賀状だけになったとしても彼女とは毎年一度は繋がっていたというのに…
胸のうちに広がって行くのはコーヒーよりも苦い感情だった。
キッチンにマグカップを置くと郵便局まで自転車で、2〜3日すればきっと手紙は届くだろう。
返事をくれるだろうか…
一抹の不安が胸に宿る。
1週間ほどして彼女の家族から手紙が届いた。
訪問の頼みを快く聞いてくれたのと電話番号が記してあった。
彼女の家に電話して家族に連絡を取る。
私はお線香とお供えを買った。
数日後、彼女の家を訪ねた。
玄関のチャイムを鳴らすとまだ大学生ぐらいの青年が扉を開けてくれる。
結婚が早かった彼女からの手紙には赤ん坊だった頃の彼の姿、小学生になった彼の姿、中学生になった彼の姿、そして大学に入ったことも記されていた。
初めて会ったはずなのに親戚の子供を見たような気分だ。
「母のためにありがとうございます」
そう言って玄関で会釈してくれる。
彼とあったことがないにも関わらず「成長したなぁ」と心の中でつぶやいた。
遺影の写真は着物姿。
おそらくこんなに早くなくなってしまうなんて彼女自身も考えていなくて、家族が後で葬儀屋に合成してもらったのだろう。
私の知っている彼女の印象とはずいぶんと違う。
……家族の目から見ればどうだろう。
やはり不自然な合成写真なのかそれとも実際の彼女に近いのか。
ふと記憶の中の彼女が、頭を持ち上げる。
笑った顔が目の前に浮かぶ。
遺影の写真とは似ていない。
彼女の30年を私は写真でしか知らない。
年賀ハガキでなんとなくはわかっているとはいえ、一体どんな人生だったのだろう。
今となってはもう知るよしもない。
本当に中学の時は仲の良い親友同士だったのだ。
それなのにどうして会わずにいることができたものなのだろう。
私は心の中のどこかで自分よりも先に彼女が死んでしまうことなど考えたこともなかったのだ。
闘病していたことを家族の口から聞いて知った。
年賀状には全く書いていなかった。確かにそんなことは書きたくなるようなことではないのかもしれないが……
電話の1本もすれば良かったと後悔ばかりが募る。
お線香の煙は渦を巻いて上がって行く。
そういえば 死んだ人が食べるのはお線香の煙だっけ。
彼女の遺影の写真が少し線香で霞んでいるように見えた。
声を聞きたい。
そんなことを考えたが、もうそれは決して叶わぬことなのだ。
しっかりとした好青年に育った彼女の息子を見て随分と長い年月が流れたんだと思った。
私の知っている彼女よりずっと大きくなっている彼女の息子。
その歳月を支えてきたのは彼女自身なのだ。
本当に私は彼女のことを何も知らない。
中学の時の思い出がまた頭を持ち上げる。
2人で一緒に帰った部活の後。クラスでつまらない話をして2人でつまらない話で笑って、たまに休日も遊んでたっけ。
別れの挨拶をして家に帰る。
電車の中で女子高生ぐらいだろうか女の子たちが楽しそうに話している。自分の中学時代と重なる。
最も中学生の時は徒歩通学だったが。
こんな風に笑い合い 一緒に帰ったものだ。
夕焼けの空の下町はゆっくり褐色に染まってゆく。
思い出というのはいつもこの夕焼けのような色に染まる。
記憶のフィルターを通し、夕焼け色に染まった思い出たちはいくらか色褪せて辛かったことも楽しかったこともどちらも優しい色に染まっている。
彼女の声が今でも耳の中で響いているような気がした。
死んでしまったという実感がまるで湧かない。
彼女の思い出は永遠に心の中に生きていて、だがゆっくりとそれは夕焼けのように褐色に染まっていくのだ。
家に帰れば子供達が、お腹を空かせて待っている。
夕飯の支度をしなくては。
だがその前に自分の部屋の机のところに行くとバックを置いた。
ふと机の隅にプリクラが貼ってあることを思い出した。
それはとっくに色褪せていた。
私と彼女、狭いプリクラ機の中でピースをして笑ったあの日。
「ねえ、プリクラ撮ろうよ」
「私、撮ったことないよ。どうするの」
「あれそうなの?操作簡単だからさ。いいから入ろ」
彼女にそう言われて一緒に撮った思い出。
色褪せた写真はセピア色
思い出の底に沈んで……
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幸福はどんな色をしているだろう……
それはきっとあの日のきらめきにも似た色。
母が入院したと妹から連絡が入った。
風邪をこじらせての肺炎らしい。
年齢を考えればいつ何があってもおかしくないだろう。
すでにh八十歳。普段はいたって元気らしいが風邪をこじらせてそのまま…なんて言う悪い想像もしてしまう。
お年寄りの死因に一番多いのはやはり肺炎なのだから。
ただの風邪が少し悪化しただけだと妹は言ったが、それでもお見舞いに行くことにした。妹夫婦にばかり母のことを任せてられないだろう。もし、介護が必要になるのなら俺も考えなくては……
休日、二時間ほどかけて病院に行く。
電車から窓の外を見れば空は灰色。
街もまた色味がない。冬の寒空の下で人々はせわしなく動いている。俺はため息を1つついた。
そうだお見舞いを買わなくては……
駅から降りれば近くに総合百貨店があるはずだ。デパ地下なら、お見舞い向きのお菓子や果物も売っているだろう。
母は何が好きだっただろうか。
俺が子供の頃、母は美味しいものを俺たちに優先的にくれた。カステラを切り分けてニコニコしながら俺たちを見ていた母を思い出す。
「お母さん食べないの?」
俺がそう聞くと、
「お母さんお腹いっぱいなの」
と決まって母は言った。
実際は自分も食べたかっただろうに。
そうだカステラもいいかもしれない。
甘くって黄色くてしっとりとした味。
俺は駅に着くと百貨店に向かった。
師走の百貨店は人混みでごった返している。
デパ地下に降りるとやはりあちらこちらの店で行列ができている。
カステラを買おうとしたらやはりその店も長蛇の列ができていてちょっと並ぶのをためらった。
並びながらぼんやりとすぐ隣の青果コーナーを眺める。
大きなバスケットの中に山積みにされた檸檬。
目の覚めるようなレモン色。それは懐かしい記憶を呼び戻す。
幼い頃、決まって十二月になるとインフルエンザになったり風邪になったりで俺は体調を崩していた。
そうすると母は必ず檸檬を買ってくるのだ。
鮮やかな色の檸檬を半分に切ると絞ってはちみつと混ぜ合わせる。
鮮やかな檸檬の果汁は透明な琥珀色のはちみつと混ざり合い金色の液体が瓶の底にたまる。
それを白湯に入れると螺旋の水紋を巻き起こしながらゆっくりと混ざり合ってゆく。
キラキラと輝いて蜜の甘さと檸檬の酸っぱさがゆっくりと溶けてゆく。
「早く良くなってね」
母の笑顔と共に差し出されたはちみつレモン。
優しい笑顔と甘酸っぱさと湯気の熱が風邪の体を癒してくれる。
体調が悪くてぼんやりとしながら飲み干す。
喉の痛みがほんの少し楽になって、母にもっと飲みたいとよく言ったものだ。
あの味が思い出される。
きっとあれは特別な味。
…そうだ風邪には檸檬だ。
やがてそうこうしているうちに自分の番が回ってきた。
笑顔の店員さんがカステラの包みを渡してくれる。
甘い匂いが鼻腔をいっぱいにして、だが俺は一度目に入ってしまった檸檬の色が忘れられない。
すぐに青果コーナーに行って、檸檬を数個買った。
毎日やってくる妹に渡してはちみつレモンにしてもらえばいいだろう。いや、はちみつレモンを病院に持ってくるのはあまり良くないかもしれないが……
母の看護で疲れている妹にも飲んで欲しい。
カステラの紙袋と檸檬のビニール袋。
俺は一つ袋から取り出した。
灰色の空の下、灰色のビルばかり、そんな中にポツンと檸檬。
……幸福はきっとこんな色をしているに違いない。
病院に入って扉を開けば笑顔の母。
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好きだったアーティストがあの世に行ってしまった。
最早好きという言葉で表すことさえ恥ずかしいと思えるほどに、そのアーティストに狂わされていた。彼の作る音、描くストーリー、心を乱す歌詞。どれを取っても彼にしか出せない。私を狂わす、おかしくて優しくてイかれた音。
そんな素晴らしく、美しく、最高で、やばくて、極上で、最強の音楽を奏でる彼が、死んだ。
私のヒーローが、
スターが、
勇者が、
死んでしまった。
訃報を聞いた時、私は、単純に、悲しいと思った。それしか思わなかったことが面白いとも思った。あれほどまでに好いていたアーティストが死んだ時の感想が、「悲しい」だけで終わるとは。陳腐なものだと、嘲笑ったものだ。
死因は自殺――らしい。ぼかされていたので正解かは定かではないが、みんながラブラブなネットではそういうことになっている。
私は毎日、彼の生きた痕跡こんせき――遺した音を辿る。そうすることで、彼が遺した意志を知ろうとする。何を嫌ってこの音を作り、何に疲れてこの歌詞を書き、何に狂ってこの物語を描いたのか。それを知ろうとする。知りたがる。無論、彼が何を思ったかなど、部外者である私が知れるわけがない。私の妄想如きで彼を推し量りなどしたくはなかったが、そうでもしなければ、彼のいない日々には耐えられそうにない。
この行為には、彼のミュージックビデオを用いるのが良い。音だけでは表し切れない感情を、映像が補ってくれるからだ。映像は、いわば助演。音楽という主演と共演することで、素晴らしい世界を形作るのだ。
ミュージックビデオのコメント欄を見るのも良い。生前、コメント欄では、同志が自身の解釈を自分勝手に綴づっていた。私が考えもしなかったような訴えが、視聴者の広場に幾つも共有されていた。同じ趣向を持った人間たちが各々に自身の考えを発信し、議論を飛び交わせ、時には殺害予告まで行われる――そんな、狂信者しかいない其処が、私は大好きだった。
昔は、だが。
今は違う。コメント欄は、彼の死を惜しむものばかりになっていた。狂信者たちの素晴らしい解釈や思いは、その自己中な情報に押し流されていた。
大好きだった曲の解釈。それが「どうして先に行っちゃったの?」そんな、身勝手な、クソみたいな言葉で掻き消される。嫌だ。たまらなく、たまらなく嫌だ。ここはそういう言葉を書く場所じゃない。
薄っぺらい曲の感想を、
曲の自分勝手な解釈を、
自分の好きな箇所を、
自分の嫌いな箇所を、
吐き出して、綴って、紡いで、書き殴る。そういう場所だ。そういう場所であるべきだ。
そうするのが、死んでしまった彼への、最大限の感謝じゃないのか? 素晴らしい音を遺し、狂わせてくれたことに対する仕打ちがこれか?
頭が沸いているとしか思えない。気色が悪い。
そう思いながらも、曲のコメント欄を見てしまう自分に、嫌気がさしてしまう。
私は、彼の歌声を、音を聴きに来たはずなのに。いつの間にか、そこに|赴《おもむ》いてしまう。ファンと呼ぶことさえ甚だしいミーハーどもの言葉に中指を立てる。それが、何故か日課となってしまっている。
ただ、コメント欄を開かなければ良いだけなのだ。ミュージックビデオを再生し、うざったい広告が流れ去るのを待ち、イントロを脳内に流し込み、歌声を飲み、歌詞を咀嚼そしゃくし、生きる糧にする。それだけで良いのに。どうしても、コメント欄を開くのがやめられない。
理由は、分かっていた。
私も、ミーハーどもと同じなのだ。多分。
死んでしまった彼に、「どうして死んでしまったの?」と。
もうこの世にはいない彼に、「また会いたいよ」と。
大好きな彼に、「大好きだったよ」と。
私がそう伝えたいミーハーだからだ。心中では嫌っておきながら、頭では同意してしまっている。
彼の曲を、ただ自身を慰める行為に利用してしまっている。
そんな自分に嫌気が差す。嫌気という軽い言葉で済ましていることに殺意を覚える。
変わりたい。こんな自分を変えてしまいたい。変われないのなら、いっそ終わってしまいたい。
ああ、変えてくれ、マイヒーロー。
あなたの狂った想いで私を殺してくれ。それが私には丁度いい。いや、それが良い。それが良いんだ。
でも、あなたはもうこの世にはいない。
私は多分、あなたなしでは変われない。
あなたはもういないのだから、変わらなくても良いだろうと、あぐらをかいてしまう。
そんな私を、どうか……どうか、赦してほしい。嫌っている奴らに成り下がっている私を、矛盾し続けている私を、どうか、嫌わないでほしい。
ずっと、あなたのファンのふりをするから。
ミーハーな奴らに、中指を立て続けるから。
だから――だから、私を抱きしめてくれ。
私にずっと狂わせて。私の大好きなヒーロー。
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湿った夏風が、古いアパートの廊下を吹き抜ける。
フランス語講師をしている俺は、ただ安さに惹かれてこの「グラン・アントリエール」に引っ越してきた。
「この安さで『グラン』とは…どこが偉大なんだか」
そんなことをつぶやきながら引っ越しの荷解きをし、入居して数ヶ月。
この部屋で、僕は「彼女」と出会うことになった。
それは、月明かりが妙に青白い夜のことだった。
ふと夜中に目を覚まし、喉を潤そうと起き上がった僕の視界に、「それ」が映り込んだ。部屋の隅、ベッドのすぐそばに、人影が立っていたのだ。
心臓が強く動悸し、呼吸が止まる。 幽霊だと理解するよりも先に、本能的な恐怖が体を駆け巡った。
しかし、その恐怖は数秒で奇妙な違和感へと変わる。
そこにいるのは、あまりに場違いな姿をした女性だった。
彼女は、洋風の古風な金色の刺繍が施された、重厚で豪華なドレス、くすんだブレスレットを身に着けていた。
かつては鮮やかであったであろうその服は、焼け焦げ、裾はボロボロに崩れている。
しかし、彼女の肌は霧のような透明感で、その顔立ちは彫刻のように美しかった。
幽霊という存在は、もっと冷たく、恐ろしいなものだと思っていた。
だが、彼女は違った。
彼女は僕をじっと見つめていた。その瞳には、悲しみと、慈愛に満ちた喜びが混ざり合っている。
彼女は、音を立てずに、どこか懐かしげな、それでいて切ない微笑を浮かべていた。
自分が恐れられる存在であることを、
彼女自身が理解しているかのように見えた。
翌日も、彼女はそこにいた。
仕事から帰り、ご飯を食べている時。
部屋の壁際に彼女が立っている。
読みかけの本を置いた拍子に、カーテンの影から彼女のドレスの裾が見える。
最初は気が狂いそうだった。
盛り塩を買いに走り、お守りを並べ、寺に相談に行くこともあった。
しかし、日を追うごとに、不思議な感情が僕の中で芽生え始めていた。
それは、言いようのない「懐かしさ」だった。
彼女の視線は、赤の他人に向けられるものではない。大切な何かを見守るような、温かな眼差し。彼女が言葉を発することはないが、その沈黙は拒絶ではなく、静かな祈りのように感じられた。
ある夜のことだった。僕は仕事の難題を抱え、狭い机の前で唸っていた。
思考は乱れ、解決の糸口は見えない。
僕は無意識のうちに、昔からの癖で、右手の拳を額に強く押し当てた。
眉間にシワを寄せ、拳に体重を預けるようにして考え込む。
その時、部屋の空気が微かに震えた。
顔を上げると、いつもは距離を保っていた彼女が、ほんの少しだけこちらに身を乗り出していた。
数メートル離れた部屋の角で、彼女の瞳が、驚きで見開かれる。そして次の瞬間、彼女は今までに見たことがないほど、鮮やかで、幸福に満ちた笑顔を見せた。
それは美しい微笑みだった。
「……!」
その笑顔が、僕の脳内に眠っていた重い扉を、乱暴に押し開けた。
雪崩のように流れ込んでくる記憶。
それは今世の僕のものではなく、魂の深層に刻まれた、別の時代の記憶だった。
ーーーーーー
彼女は、この屋敷の主の娘エレナ。
美しいドレスを着た貴族の令嬢だった。
そして僕は、この屋敷の馬の世話をする、使用人。
娘は馬が好きでよく馬小屋にきて馬を撫でた。
馬の話をしているうちに、二人は惹かれあい、愛し合うのに時間はかからなかった。交わるはずのない二人の運命は、馬小屋の中で、誰にも知られずに結ばれた。
エレナの誕生日に馬の蹄鉄を薄く延ばして作った、ブレスレットを送った、お金のない使用人である僕にあげられる精一杯の贈り物だった。そんなものでもエレナは太陽のような笑顔で喜んでくれた。
しかし、身分違いの恋。それは許されざる罪であった。
そして秘密の愛をはぐくんで1年ほどがたったある日それは起きた。
ーー燃えていた。
空を焦がすような紅蓮の炎が、豪邸を包み込んでいた。
パチパチとはぜる木材の音。逃げ惑う人々の悲鳴。視界の先には、崩れかけた二階のベランダで、立ち往生しているエレナがいた。
「お嬢様!」
僕は炎の中に飛び込み、崩落しそうな階段を駆け上がった。
ベランダに辿り着いた時、足元の床はすでに崩れ落ち、彼女は手すり一本にぶら下がって宙吊りになっていた。その下は、炎が渦巻く。落ちたら絶対に助からない。
エレナの腕をつかみ引き上げようとする。
しかし、豪華な装飾のドレスはあまりにも無慈悲で重たかった。
全身の筋肉が悲鳴を上げる、それでもこの手を離すことはできない。
「エレナ、手を離さないでください!」
しかし、自身も床の崩落に巻き込まれかけていた。二人の重みを支えられる場所は、どこにも残っていない。このままでは、二人とも火の海に沈むだけだ。
ゆっくりとつかんでいた手が滑り落ち、もうだめかと思った瞬間、あのブレスレットが二人をつなぎとめた。
エレナは僕を見上げた。彼女の顔には火の粉が舞い、ドレスはすでに火を吹いていた。
僕が彼女を助けるために命を捨てようとしていることを悟ったのだろう。
彼女は、ブレスレットを掴む力を、ふっと抜いた。
『ありがとう、来世で、絶対に幸せになろうね』
彼女の唇がそう動いた。
絶叫する僕の手を、彼女は自らの意思で振り払った。
夜の闇と炎の渦の中へ、美しいドレスを翻しながら、彼女は落ちていった。
「エレナーーッ!」
それが、前世の僕が見た、最後のエレナの姿だった。
ーーーーーー
……僕は、アパートの自室で呆然と立ち尽くしていた。 頬を熱いものが伝い、床に落ちる。
「エレナ……」
名前を呼ぶと、彼女――エレナは、愛おしそうに首を傾げた。
彼女は、僕よりも先に今世に生を受けていたのだ。
僕を探し、僕を待ちながら。
だが、運命は過酷だった。彼女はまたしても、僕と出会う前に、若くして命を落としてしまったのだ。
彼女が成仏せず、この世に留まり続けた理由を、僕は直感的に理解した。
もし彼女が魂の循環に戻ってしまえば、次に生まれ変わった時、また僕との間に大きな「時のズレ」が生じてしまうかもしれない。
彼女は、僕が生まれてくるのを、そして僕が彼女を見つけることができる年齢になるのを、霊となって待ち続けていたのだ。
それはどれほど途方もない時間だったのだろう。
「待たせてごめんな」
そうつぶやいた僕を彼女は目を潤しながらあの太陽のような笑顔で答えた。
彼女は僕に、死を強いることは決してなかった。
「早くこちらへ来て」と手招きすることもない。
ただ、僕が朝起きて、仕事に行き、飯を食べ、時に悩み、時に笑いながら、この時代を「生きる」姿を、彼女は満足そうに見守っていた。 僕が風邪を引けば心配そうに傍らに座り、僕がテレビを見て笑えば、彼女も少しだけ口角を上げた。
それからの僕の人生は、一人であって一人ではなかった。
他人からは奇妙に見えたかもしれない。
生涯独身を貫き、古いアパートから引っ越すこともなく、時折、何もない空間に向かって穏やかに微笑かける男。
だが、僕の心は、かつてないほど満たされていた。彼女という静かな光が、僕の日常を照らしてくれていたから。
月日は流れ、僕の髪には白いものが混じり、腰は曲がっていった。
肉体は衰え、死の足音がすぐそばにまで迫ってきたある冬の夜。
僕はベッドの中で、薄れゆく意識を感じていた。
傍らには、あの日と変わらぬ姿の彼女がいた。ボロボロのドレスを纏い、美しい微笑みを浮かべたエレナ。
彼女が、初めて僕の手に触れた。
その手は氷のように冷たかったが、伝わってくる感情は、陽だまりのように温かかった。
「お待たせ、エレナ。やっと、君のところへ行けるよ」
僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
彼女は涙をこぼし、僕の目をそっと閉ざした。
ようやく、二人で帰る時が来たのだ。
前世で果たせなかった約束。今世で待ち続けた時間。
すべては、次の世界を開くための準備に過ぎなかった。
それから、どれほどの時が流れただろうか。
眩しい光が降り注ぐ、現代の街角。
洗練されたビルが立ち並び、人々が忙しなく行き交うアスファルトの上。
紺色のスーツを着た若い男は、駅へと向かって歩いていた。
ふと、彼は立ち止まり、考え事をするように右手の拳を額に当てた。
「……!」
その拍子に、向こう側から歩いてきた一人の女性と、目が合った。
女性は、淡いクリーム色のワンピースを着ていた。風に揺れる髪、そしてどこか異国の面影を感じさせる整った顔立ち。
二人の視線が、交差する。
心臓が、大きく鳴った。
理由のない懐かしさと、こみ上げるような熱い感情。
何千回、何万回と夢に見た、あの微笑みが
目の前の女性の唇に宿っている。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
男は、自分でも驚くほど自然に、彼女に向かって声をかけていた。
「…やっと、見つけた」
街の喧騒は一瞬で遠のき、二人の間には、時代を越えて紡がれ糸が確かに結ばれたのだった。
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深夜、残業を終え、疲れ果てた足取りで自室のあるアパートの十階へと冷たいコンクリートの折り返し階段を上っていた。
蛍光灯もないその場所は非常口の明かりだけが足元を照らしている。
5階ほどで、ふと何かを感じ、私は手すりの隙間から、階段の底を覗き込んだ。
暗がりの底、一階の踊り場に、ポツンと小さな影が立っていた。
それは子供だった。
顔だけが妙に白く浮き上がって見える。
蛍光灯の反射か、あるいは月明りか。
子供は、口角を耳の付け根まで引き裂いたような満面の笑みを浮かべ、じっと真上の私を見上げていた。
心臓が跳ねる。
見間違えではなかった。
子供は瞬き一つせず、その不気味な笑みを張り付かせたまま、走り出した。
タッタッタッタッ
軽い足音が凄まじい速さで駆け上がってくる。その子供は手すりを掴むこともなく、
重力を無視するかのように、
折り返し階段を登ってくるのだ。
その目は、一瞬たりとも私から外れない。
笑顔のまま。
「…っ!」
私は悲鳴を飲み込み、夢中で階段を駆け上がった。
自分の階はまだ上だ。
恐怖で体が思うように動かない。
だが、背後から迫る足音は、私を嘲笑うかのように距離を縮めてくる。
踊り場を曲がるたび、すぐ下の段に、あの白い顔と裂けたような笑みがチラリと見える。
逃げ場のない階段で、私は恐怖に心臓が張り裂けそうだった。
十階の重い扉に手をかけようとした瞬間、背後に冷たい気配が立ち込めた。
「…待って」
小さく幼い、けれど、
どこかかすれた声が耳元で響く。
振り返ると、子供が立っていた。
間近で見るその顔は、やはり笑っている。
しかし、近くで見ればそれは歓喜の笑みではなく、何かを必死に堪え、縋り付こうとする悲痛な表情の歪みに見えた。
先ほどまでのあの異様な笑顔は自分の恐怖が作り出したものだったのだろうか。
子供は震える小さな手を差し出した。
その指には、一通の手紙があった。
「届けて……」
子供の手から手紙を受取ろうと、手紙に触れた瞬間、その姿は霧が晴れるように消え去った。
足元に落ちたのは、ひどく色褪せ、角の擦り切れた古びた封筒だった。
部屋に戻り、震える手でその手紙を確認する。
消印は数十年前のものだ。
住所をスマートフォンで調べようとするが、検索結果に現れるのは、災害の記録と、かつてそこにあったという村の記録だけ。
現在の地図サービスを開いても、そこにはもう人が住んでいるような建物の姿はなかった。
数日かけて古い地名辞典や郷土資料を漁り、私はようやくその真実に辿り着いた。
その住所は、かつて存在した山間の村だった。
しかし、そこはもう、地図から消えた「亡くなった町」なのだ。
四十年前、その地を襲った凄惨なダムの決壊事故。
集中豪雨によってダムが決壊し流れ出た大量の土砂と水は、眠りについていた小さな町を一瞬にして飲み込んだ。
多くの命が失われたその町は、
今は水の底か、立ち入りを禁じられた廃墟の山林となっている。
手紙の主は、その町で出稼ぎをしていた夫を待つ、若き日の妻だった。
他人の手紙を見るのは抵抗があったが、私は迷いながらも、封を解いた。
中には、古い便箋に丁寧な文字で綴られていた。
仕事はどうですか。元気でやっていますか。
健一がようやく「お父さん」
と呼べるようになったんですよ。
できることなら今すぐにでも会いにいきたいです。
早く帰ってきてね。
あなたが帰ってくる日を、
二人でカレンダーに印をつけて待っています。
寒くなってきました、体に気をつけて。
無理はしないでくださいね。
あなたの帰りを待っています。
かしこ
さゆり・健一
文面に滲むのは、日常の何気ない幸せと、夫への純粋な愛だった。
しかし、この手紙が出されたのは、あの決壊事故が起こるわずか二日前のことだ。
夫は、ダムが決壊したその瞬間に現場で命を落としていた。
妻が事故の報を知るより先に投函されたこの手紙は、届くべき場所を失い、受け取るべき相手を失い、その町へと届くことなく、数十年の時を彷徨い続けていたのだ。
あの階段に現れた子供は、手紙に書かれていた「健一君」
君だったのだろうか。
父に会いたかったのか、あるいは母の想いを届けたかった。
その一念が生霊のように、時を超えて私を呼び止めたのかもしれない。
私は手紙を胸に抱き、かつてその町があった場所へと向かった。
今は緑に深く覆われたその地には、事故の犠牲者を弔う小さな慰霊碑と、古い墓石がいくつか並んでいた。
夫の名が刻まれた墓を探し当てるのは、そう難しくはなかった。周囲は静まり返り、ただ風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
私は墓前で膝をつき、手紙を広げた。
「…届きましたよ」
声に出して、ゆっくりと、
最後の一文字まで読み上げると、自然に涙が落ちていた。
四十年の時を経て、ようやく思いが届いたような気がした。
読み終えた手紙をゆっくりと折り畳み、
私はそれを墓石の前にそっと置いた。
山からの強い風に飛ばされてしまわないよう、近くに落ちていた、石を重石にする。
「やっと、届いた…」
背後でそんな声が聞こえた気がして、
振り返ったが…
そこには誰もいなかった。
ただ、今までまとわりついていた重苦しい冷気は消え、西日に照らされた森は穏やかな光に満ちている。
手紙を置いた石を見ていると、山から流れる風が葉音を立てながら私を包む、その瞬間、長い間絡まっていた心の糸が温かな風に解けていくような感覚がした。
長い旅を終えた手紙は、今、ようやく安らかな眠りについたのだ。
続きを読む
私たちは別れることに決めた。
いつか話さなければいけなかったことを、私は目を伏せて伝え、
彼女は無理した笑顔で応えてくれた。
はじめて太陽系外で第二の地球と言える、居住可能惑星が発見されて何十年。
何度も自動ロボットを送り、ついに人類が直接向かう時がきた。
人類の未来を担うパイロット、その中に彼女がいた。
コールドスリープを前提にした往復130年の旅。
もう生きて会うことはない。
でも私は彼女の夢を尊重する。技術者として支援する。
そう決めた。それぞれの人生を送り、お互いを恋人として見ないと。
「『量子もつれ』……。
距離に関係ない通信ができれば、人類史上最長の遠距離恋愛ができたのにね」
「それは無理だって説明したじゃん!」
笑顔で冗談を言い合う。
別れたカップルとは思えない明るいやり取りをする。
そうして、遥か空に旅立つあなたを見送った。
十数年後、航海はまだ目的地までの航路の二割強。
私はまだ独り身。彼女の体感時間ではまだ一週間も経ってないだろうけど。
ぼちぼちアラフォーとも私側は、言えなくなってきている。
上手くいっていれば、船は何光年も離れた先を進んでいる。
定期的にコールドスリープを解き、順調かどうかの通信をしてもらっているが
どうしても今の通信技術では数年単位の遅延が出てしまう。
そんな通信の中に、未練がましいと分かりつつも、私的なメッセージを送ってしまった。
このメッセージが届くのは何年も先のこと。
「起きてる間、ご飯ちゃんと食べてますか?何か困ったことはありませんか?体調を崩していませんか?」
何でもないメッセージ。
別れたときにもう、こういった私的なやり取りはやめるとお互い決めたのに。
あのメッセージを送ってからさらに数年後。
通信の中に、彼女から返信が混じっていた。
いや、返信じゃない。
逆算すると、私が送ったタイミングとほとんど同じ。
「仕事ばっかりしてない?周りとは上手くいってる?無理しないでね。
ごめん、やっぱり愛してる」
内容もほぼ同じ、私を心配するもの。
違ったのは、私が勇気を出せずに書けなかった「愛してる」の一文だけ。
もう少し踏み込んでいたら、私達はちゃんと『もつれた量子』になれたのかな。
続きを読む
あなた、またその瓶を見ているの?
確か、宇宙創造の実験で、珍しいものができたんだっけ。
〝知的生命体の住んでいる惑星〟ですって? 鉱物ばかりの試薬の中から、どうして生命体なんてできるのよ。まして、知性を持つ生き物なんて。
……コンタミには気を付けなさい、とあれほど言ったのに。
硝酸もアルコールも使った? 洗い方が悪かったんじゃない? それともアルコールが残ってたのかしら。アルコールで生命体ができるんだとしたら、それはそれで怖いんだけど。
原因は特定できてるの? まだ? 困るじゃないの、新発見にしても、再現性がないと教授に怒られるわよ、ていうか私が困るの。先輩だからきちんと面倒見ろって言われてるんだから。少なくともデータ出して貰わないと。
当時のデータは残ってるって? あら、記録はきちんと取っているのね。そこは偉いわ。だからそのうち挑戦してみるって……できれば、今して欲しいのだけど。
え? このまま観察していたい?
でも、うちは生物学科じゃないから、仮に立派な論文ができても卒業要件にはならないんじゃあ……なるのかしら。そこは自分で確認してみて。
……じゃなくて。
いい? うちは宇宙創造研。あなたの研究テーマは、『宇宙膨張限界の測定』でしょう? それなのに、恒星どころか惑星一つぽっちにかまけている場合じゃないと思うのよ。諦めて本分に戻ったほうが身のため。お題変更しても、卒論には間に合わないわ。どうしても観察したいなら、院に上がってからにしなさい。
「今が面白いんだ」って言われても。え、惑星上の知的生命体が、互いに互いを虐殺し合っている? しかも自分たちの住む星を自ら壊してもいる? なにそれ、知性の欠片もないじゃない。本当に知的生命体? でも文明は築いているのなら、そう言えなくもないのか。
で、そろそろ終わりそうだから、最後まで見ていたい、と。気持ちは分からなくないわね。知的生命体が『惑星崩壊』の原因の一つになるとしたら、新発見になりそうだし。ちょっと期待しちゃう。
うーん……でも、卒論……。
分かった。じゃあ、こうしましょう。私も協力する。
私もその惑星観察するわ。だからその間、あなたは卒論の実験をするように。
大丈夫よ、ちゃんと記録するし。映像も残しておくから。
私も興味出てきちゃったしね。
お礼は、論文の謝辞のところに私の名前を出してくれればいいから。
ところで、その惑星、名前はあるの?
『地球』? ふーん。なんか安直な名前ね。
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蛍橋(ほたるばし)町には、川と柿の木が多い。
初夏の夜には川面を蛍が飛び、秋には、川沿いの石畳へ枝を差しかけた柿の木が一斉に色づく。町じゅうの庭に渋柿があって、家ごとに渋を抜く。焼酎で抜く家、湯で抜く家。そうして甘くなった柿を、この町では「蛍柿」と呼ぶ。
わたしの家は、その川沿いで銭湯をやっている。蛍湯。番台のある銭湯は、今ではずいぶん珍しいらしい。
月曜は定休日だ。
その翌朝、六時。掃除をしようと戸を開けると、入口の段の脇、スロープの手すりの根元に、新聞紙の包みが置かれていた。
赤い紐で結んである。ほどくと、柿がひとつ、ころんと出てきた。橙色の、よく熟れた蛍柿だ。
手紙はない。
「柿の精かな」
父がそう言って笑ったのは、一度目だけだった。二週続くと「ちょっと気味が悪いな」になり、三週目の火曜には「食べたけど旨かった」という身も蓋もない感想になった。
わたしは三つ目の柿を番台に置いて、しばらく眺めた。知らない誰かからの贈り物は、嬉しいより先に落ち着かない。お礼も言えないし、そもそも何のお礼なのかもわからない。
「登美さんじゃないの」
夕方、一番乗りの登美さんに見せると、彼女は柿を鼻に近づけて、首を横に振った。
「うちのは焼酎で抜くから、ほんのり酒の香りがするの。これはしない」
「登美さんじゃあないのね」
「こんな粋なことせずに、置かずに渡すわよ。顔を見て『食べな』って」
確かに、登美さんはそういう人だ。
「柿って、火曜の朝に置いてあるんだって?」
風呂上がりに番台の前で瓶牛乳を飲んでいた、向かいのパン屋の勇さんが会話に加わってきた。
「うちは毎朝四時から仕込みだけど、あの時間は通りに誰もいないからねえ。そういえば火曜の明け方、杖をついた人がゆっくり歩いてたな。散歩かなと思って、声はかけなかったけど」
「杖の人、ですか」
「ここらは年寄りが多いから、そう珍しくもないけどね」
勇さんはそう言って、牛乳の瓶を空にした。
その夜、閉店後に番台で釣り銭を数えていて、ふと手が止まった。
包みの赤い紐を、指でつまむ。
見覚えがあった。
昔、この町には銭湯が三軒あった。どの店も、蛍の季節の七月と八月だけは、回数券を赤い紐で束ねて売った。蛍の灯りの色だと、誰かが言い出したのだ。三軒が一軒になった今も、蛍湯はその習慣を守っている。九月からは紺に替わる。
町の人は、それを「夏の赤」と呼ぶ。
つまり、この紐を持っていたのは、八月までに蛍湯で回数券を買った人だ。
わたしは引き出しから帳面を出した。夏のあいだに赤い紐の券を買ったのは七人。そのうち、いまも券が残っているのは三人だった。
大工の卓さんは、ほぼ毎晩来る。券はもうじき尽きるはずだ。
洋子さんは毎週金曜に来る。先週も来た。
そして、源さん。
八月の終わりに四枚残したまま、帳面の「使用」の欄は止まっている。それ以来、姿を見ていない。
「お父さん、源さんって」
奥の釜場に向かって声をかけると、薪を動かす音に混じって父の声が返ってきた。
「ああ、転んで足をやったって聞いたな。八十二だ。治るのに時間がかかるだろう」
わたしは、入口に置かれていた包みを思い返した。
段を上がらない場所。スロープの手すりの根元。
歩くことはできても、濡れた洗い場や湯船の縁は、杖をつく人には怖いかもしれない。
火曜の朝は、五時半に起きた。
戸口に立つと、息が白かった。川沿いの石畳に、街灯がぽつぽつと落ちている。柿の枝の影が、道の上で揺れていた。
やがて、遠くから音が聞こえてきた。
コツ、コツ、と、杖が石畳を叩く音。
角を曲がって現れた人は、新聞紙の包みを片手に提げていた。わたしに気づいて、足を止める。
「……見つかっちゃったか」
「おはようございます、源さん」
源さんは、ばつが悪そうに杖を握り直した。
「券がね、まだ四枚あるんだよ。使えなくなっちまったから、せめて柿くらいと思ってさ。庭の蛍柿が、毎年なりすぎて困るんだ」
「使えなくなってなんかいません。券に期限はないですから」
「でも、風呂は別だよ。歩くだけなら、人のいない朝の道で何とかなる。だけど濡れた床で杖はつけないし、湯船をまたぐのも怖い。夜の混む時間に、人の邪魔になるのも嫌でね」
「だから、朝です」
わたしは戸を大きく開けた。
中から、ふわりと湯気が流れ出た。
火曜のこんな時間に、釜が焚かれているはずがない。昨夜のうちに、父に頼んでおいた。洗い場には滑り止めのマットを敷き、湯船の縁には、物置から出してきた腰掛け台を置いてある。
奥から父が、首に手ぬぐいをかけて出てきた。釜場の煤で、鼻の頭が黒い。
「湯加減、ちょうどいいぞ」
「柿のお返しは、一番風呂です。誰もいない時間に、ゆっくり。床は滑りませんし、手すりも腰掛けもあります」
源さんはしばらく黙っていた。
それから、包みをそっとわたしの手に預けて、杖を鳴らして一歩、スロープに足をかけた。
番台で、回数券の一枚を切る。
パチン、と鋏の音が、朝の板張りに響いた。
「さよちゃん、これ、柿の包みの紐だろう」
源さんが、わたしの手の中の赤い紐を見て笑った。
「ばれると思ってたんだ。夏の赤だから、わかる人にはわかっちまう」
「わかる人にしか、わからない紐でした」
脱衣所の戸が閉まる。
湯を使う音が、ゆっくりと聞こえてきた。
わたしは包みをほどいて、蛍柿をひとつ、窓辺に置いた。
朝の光を受けた橙色が、銭湯の白いタイルの中で、ひときわ温かく見えた。
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ノイズが聞こえる。
ノイズが聞こえる、ノイズが聞こえる、ノイズが聞こえる。どうしてこのノイズに誰も気がつかないんだ。ノイズの向こう側に 別の世界がある。これはその世界からの音声だ。それがこちら側にノイズとして聞こえるんだ。
ピー!異常を検知しました。
識別ナンバー✕✕✕✕に認識異常が 起きています。どうやら知覚情報によりこちら側を認識したようです。個体を削除しますか?
ピー!了解しました。今より✕✕✕✕の削除を開始します。
そうして、世界は静寂に包まれた。
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庭のプチトマトが沸騰しているのを僕はエアコンの効いた室内から傍観している。
傍観しているのは窓の外が灼熱の夏日和だからであり、外出するにはただただ億劫だからということに尽きる。
夜のうちに収穫しておけば良かったなぁと、これまた他人事のように漠然と思う。
そんなことより小一時間前、妻が今回焦がした洗濯物の中に僕のエアリズムのパンツがあるのだが、それが最後のエアリズムだと彼女に伝えるべきか否かで、僕はトマトが沸騰するまで二の足を百度目を超えてなお今もまだ踏み続けている。
妻は僕が望みうる最良の水準の人で、悲しませるような言動は一切採用しないと決めている。
洗濯物を何度も焦がすのも愛嬌があって良い。洗濯物を何度も焦がすのは彼女が学習出来ないからではなく、僕が一緒になって笑う瞬間を楽しむ為、のような節すらある。
それゆえ遅疑逡巡たらしめるのだ。
残りにある他のパンツは蒸れるから履きたくない。きっと何かの病気になる。
「トマトが煮えてるわね」
と妻が言う。
「昨日までは平気だったのに」
「昨日と今日は違うもの」
「そうだね。繰り返しであっても全ては変わっていく」
「不可逆的、というのは悲劇かしら。それとも予見性のある予定調和?」
「故意か過失かは未だいくばくか検討の余地があると思うんだ」
「何のこと?」
「「いや、何でもない」」
僕の口癖に被せると彼女は小馬鹿にした様子で自慢気に鼻の頭を擦ってみせる。
「幸せが予測可能だとして」
彼女の言いたいことはもう分かる。僕は逆も然り、と言う。
「その時が訪れるまでの期間こそ至福だと思うの」
「「逆も然り」」
僕の口癖に被せると彼女は小馬鹿にした様子で自慢気に鼻の頭を擦ってみせる。
「ねぇあなた。これを見て。また洗濯物が焦げたわ。暑すぎるのよね」
ケタケタと僕は笑ってみせる。
ケタケタと僕は笑いながら一つの事実が僕の笑い皺を浅くする。
何せその焦げた中に最後のエアリズムがあるのだ。
そのパンツ以外は蒸れるから履きたくないのに。きっと何かの病気になる。
でもそれを伝えると妻は決して低くない確率で悲しむ。彼女は僕が望みうる最良の水準の人で悲しませるような言動は一切採用しないと決めている。僕が洗濯すれば良かったね、も慰めとして間違っているのも分かっている。
この灼熱のせいで通販は出来ないし、外に出るのにはいちいちなんやかんや着るのも面倒だし、そもそもユニクロは遠い。
買い出しと言えば、と僕は庭へと目をやる。
プランターの中でミニトマトが沸騰していた。
ああ、昨夜のうちに収穫しておくんだったなぁ、とどこか他人事のように漠然と思う。
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