ホラー・怪談
【微ホラー】記憶
3,548文字
約8分で読了
湿った夏風が、古いアパートの廊下を吹き抜ける。
フランス語講師をしている俺は、ただ安さに惹かれてこの「グラン・アントリエール」に引っ越してきた。
「この安さで『グラン』とは…どこが偉大なんだか」
そんなことをつぶやきながら引っ越しの荷解きをし、入居して数ヶ月。
この部屋で、僕は「彼女」と出会うことになった。
それは、月明かりが妙に青白い夜のことだった。
ふと夜中に目を覚まし、喉を潤そうと起き上がった僕の視界に、「それ」が映り込んだ。部屋の隅、ベッドのすぐそばに、人影が立っていたのだ。
心臓が強く動悸し、呼吸が止まる。 幽霊だと理解するよりも先に、本能的な恐怖が体を駆け巡った。
しかし、その恐怖は数秒で奇妙な違和感へと変わる。
そこにいるのは、あまりに場違いな姿をした女性だった。
彼女は、洋風の古風な金色の刺繍が施された、重厚で豪華なドレス、くすんだブレスレットを身に着けていた。
かつては鮮やかであったであろうその服は、焼け焦げ、裾はボロボロに崩れている。
しかし、彼女の肌は霧のような透明感で、その顔立ちは彫刻のように美しかった。
幽霊という存在は、もっと冷たく、恐ろしいなものだと思っていた。
だが、彼女は違った。
彼女は僕をじっと見つめていた。その瞳には、悲しみと、慈愛に満ちた喜びが混ざり合っている。
彼女は、音を立てずに、どこか懐かしげな、それでいて切ない微笑を浮かべていた。
自分が恐れられる存在であることを、
彼女自身が理解しているかのように見えた。
翌日も、彼女はそこにいた。
仕事から帰り、ご飯を食べている時。
部屋の壁際に彼女が立っている。
読みかけの本を置いた拍子に、カーテンの影から彼女のドレスの裾が見える。
最初は気が狂いそうだった。
盛り塩を買いに走り、お守りを並べ、寺に相談に行くこともあった。
しかし、日を追うごとに、不思議な感情が僕の中で芽生え始めていた。
それは、言いようのない「懐かしさ」だった。
彼女の視線は、赤の他人に向けられるものではない。大切な何かを見守るような、温かな眼差し。彼女が言葉を発することはないが、その沈黙は拒絶ではなく、静かな祈りのように感じられた。
ある夜のことだった。僕は仕事の難題を抱え、狭い机の前で唸っていた。
思考は乱れ、解決の糸口は見えない。
僕は無意識のうちに、昔からの癖で、右手の拳を額に強く押し当てた。
眉間にシワを寄せ、拳に体重を預けるようにして考え込む。
その時、部屋の空気が微かに震えた。
顔を上げると、いつもは距離を保っていた彼女が、ほんの少しだけこちらに身を乗り出していた。
数メートル離れた部屋の角で、彼女の瞳が、驚きで見開かれる。そして次の瞬間、彼女は今までに見たことがないほど、鮮やかで、幸福に満ちた笑顔を見せた。
それは美しい微笑みだった。
「……!」
その笑顔が、僕の脳内に眠っていた重い扉を、乱暴に押し開けた。
雪崩のように流れ込んでくる記憶。
それは今世の僕のものではなく、魂の深層に刻まれた、別の時代の記憶だった。
ーーーーーー
彼女は、この屋敷の主の娘エレナ。
美しいドレスを着た貴族の令嬢だった。
そして僕は、この屋敷の馬の世話をする、使用人。
娘は馬が好きでよく馬小屋にきて馬を撫でた。
馬の話をしているうちに、二人は惹かれあい、愛し合うのに時間はかからなかった。交わるはずのない二人の運命は、馬小屋の中で、誰にも知られずに結ばれた。
エレナの誕生日に馬の蹄鉄を薄く延ばして作った、ブレスレットを送った、お金のない使用人である僕にあげられる精一杯の贈り物だった。そんなものでもエレナは太陽のような笑顔で喜んでくれた。
しかし、身分違いの恋。それは許されざる罪であった。
そして秘密の愛をはぐくんで1年ほどがたったある日それは起きた。
ーー燃えていた。
空を焦がすような紅蓮の炎が、豪邸を包み込んでいた。
パチパチとはぜる木材の音。逃げ惑う人々の悲鳴。視界の先には、崩れかけた二階のベランダで、立ち往生しているエレナがいた。
「お嬢様!」
僕は炎の中に飛び込み、崩落しそうな階段を駆け上がった。
ベランダに辿り着いた時、足元の床はすでに崩れ落ち、彼女は手すり一本にぶら下がって宙吊りになっていた。その下は、炎が渦巻く。落ちたら絶対に助からない。
エレナの腕をつかみ引き上げようとする。
しかし、豪華な装飾のドレスはあまりにも無慈悲で重たかった。
全身の筋肉が悲鳴を上げる、それでもこの手を離すことはできない。
「エレナ、手を離さないでください!」
しかし、自身も床の崩落に巻き込まれかけていた。二人の重みを支えられる場所は、どこにも残っていない。このままでは、二人とも火の海に沈むだけだ。
ゆっくりとつかんでいた手が滑り落ち、もうだめかと思った瞬間、あのブレスレットが二人をつなぎとめた。
エレナは僕を見上げた。彼女の顔には火の粉が舞い、ドレスはすでに火を吹いていた。
僕が彼女を助けるために命を捨てようとしていることを悟ったのだろう。
彼女は、ブレスレットを掴む力を、ふっと抜いた。
『ありがとう、来世で、絶対に幸せになろうね』
彼女の唇がそう動いた。
絶叫する僕の手を、彼女は自らの意思で振り払った。
夜の闇と炎の渦の中へ、美しいドレスを翻しながら、彼女は落ちていった。
「エレナーーッ!」
それが、前世の僕が見た、最後のエレナの姿だった。
ーーーーーー
……僕は、アパートの自室で呆然と立ち尽くしていた。 頬を熱いものが伝い、床に落ちる。
「エレナ……」
名前を呼ぶと、彼女――エレナは、愛おしそうに首を傾げた。
彼女は、僕よりも先に今世に生を受けていたのだ。
僕を探し、僕を待ちながら。
だが、運命は過酷だった。彼女はまたしても、僕と出会う前に、若くして命を落としてしまったのだ。
彼女が成仏せず、この世に留まり続けた理由を、僕は直感的に理解した。
もし彼女が魂の循環に戻ってしまえば、次に生まれ変わった時、また僕との間に大きな「時のズレ」が生じてしまうかもしれない。
彼女は、僕が生まれてくるのを、そして僕が彼女を見つけることができる年齢になるのを、霊となって待ち続けていたのだ。
それはどれほど途方もない時間だったのだろう。
「待たせてごめんな」
そうつぶやいた僕を彼女は目を潤しながらあの太陽のような笑顔で答えた。
彼女は僕に、死を強いることは決してなかった。
「早くこちらへ来て」と手招きすることもない。
ただ、僕が朝起きて、仕事に行き、飯を食べ、時に悩み、時に笑いながら、この時代を「生きる」姿を、彼女は満足そうに見守っていた。 僕が風邪を引けば心配そうに傍らに座り、僕がテレビを見て笑えば、彼女も少しだけ口角を上げた。
それからの僕の人生は、一人であって一人ではなかった。
他人からは奇妙に見えたかもしれない。
生涯独身を貫き、古いアパートから引っ越すこともなく、時折、何もない空間に向かって穏やかに微笑かける男。
だが、僕の心は、かつてないほど満たされていた。彼女という静かな光が、僕の日常を照らしてくれていたから。
月日は流れ、僕の髪には白いものが混じり、腰は曲がっていった。
肉体は衰え、死の足音がすぐそばにまで迫ってきたある冬の夜。
僕はベッドの中で、薄れゆく意識を感じていた。
傍らには、あの日と変わらぬ姿の彼女がいた。ボロボロのドレスを纏い、美しい微笑みを浮かべたエレナ。
彼女が、初めて僕の手に触れた。
その手は氷のように冷たかったが、伝わってくる感情は、陽だまりのように温かかった。
「お待たせ、エレナ。やっと、君のところへ行けるよ」
僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
彼女は涙をこぼし、僕の目をそっと閉ざした。
ようやく、二人で帰る時が来たのだ。
前世で果たせなかった約束。今世で待ち続けた時間。
すべては、次の世界を開くための準備に過ぎなかった。
それから、どれほどの時が流れただろうか。
眩しい光が降り注ぐ、現代の街角。
洗練されたビルが立ち並び、人々が忙しなく行き交うアスファルトの上。
紺色のスーツを着た若い男は、駅へと向かって歩いていた。
ふと、彼は立ち止まり、考え事をするように右手の拳を額に当てた。
「……!」
その拍子に、向こう側から歩いてきた一人の女性と、目が合った。
女性は、淡いクリーム色のワンピースを着ていた。風に揺れる髪、そしてどこか異国の面影を感じさせる整った顔立ち。
二人の視線が、交差する。
心臓が、大きく鳴った。
理由のない懐かしさと、こみ上げるような熱い感情。
何千回、何万回と夢に見た、あの微笑みが
目の前の女性の唇に宿っている。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
男は、自分でも驚くほど自然に、彼女に向かって声をかけていた。
「…やっと、見つけた」
街の喧騒は一瞬で遠のき、二人の間には、時代を越えて紡がれ糸が確かに結ばれたのだった。
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