コメディ・日常
定休日の柿
2,192文字
約5分で読了
蛍橋(ほたるばし)町には、川と柿の木が多い。
初夏の夜には川面を蛍が飛び、秋には、川沿いの石畳へ枝を差しかけた柿の木が一斉に色づく。町じゅうの庭に渋柿があって、家ごとに渋を抜く。焼酎で抜く家、湯で抜く家。そうして甘くなった柿を、この町では「蛍柿」と呼ぶ。
わたしの家は、その川沿いで銭湯をやっている。蛍湯。番台のある銭湯は、今ではずいぶん珍しいらしい。
月曜は定休日だ。
その翌朝、六時。掃除をしようと戸を開けると、入口の段の脇、スロープの手すりの根元に、新聞紙の包みが置かれていた。
赤い紐で結んである。ほどくと、柿がひとつ、ころんと出てきた。橙色の、よく熟れた蛍柿だ。
手紙はない。
「柿の精かな」
父がそう言って笑ったのは、一度目だけだった。二週続くと「ちょっと気味が悪いな」になり、三週目の火曜には「食べたけど旨かった」という身も蓋もない感想になった。
わたしは三つ目の柿を番台に置いて、しばらく眺めた。知らない誰かからの贈り物は、嬉しいより先に落ち着かない。お礼も言えないし、そもそも何のお礼なのかもわからない。
「登美さんじゃないの」
夕方、一番乗りの登美さんに見せると、彼女は柿を鼻に近づけて、首を横に振った。
「うちのは焼酎で抜くから、ほんのり酒の香りがするの。これはしない」
「登美さんじゃあないのね」
「こんな粋なことせずに、置かずに渡すわよ。顔を見て『食べな』って」
確かに、登美さんはそういう人だ。
「柿って、火曜の朝に置いてあるんだって?」
風呂上がりに番台の前で瓶牛乳を飲んでいた、向かいのパン屋の勇さんが会話に加わってきた。
「うちは毎朝四時から仕込みだけど、あの時間は通りに誰もいないからねえ。そういえば火曜の明け方、杖をついた人がゆっくり歩いてたな。散歩かなと思って、声はかけなかったけど」
「杖の人、ですか」
「ここらは年寄りが多いから、そう珍しくもないけどね」
勇さんはそう言って、牛乳の瓶を空にした。
その夜、閉店後に番台で釣り銭を数えていて、ふと手が止まった。
包みの赤い紐を、指でつまむ。
見覚えがあった。
昔、この町には銭湯が三軒あった。どの店も、蛍の季節の七月と八月だけは、回数券を赤い紐で束ねて売った。蛍の灯りの色だと、誰かが言い出したのだ。三軒が一軒になった今も、蛍湯はその習慣を守っている。九月からは紺に替わる。
町の人は、それを「夏の赤」と呼ぶ。
つまり、この紐を持っていたのは、八月までに蛍湯で回数券を買った人だ。
わたしは引き出しから帳面を出した。夏のあいだに赤い紐の券を買ったのは七人。そのうち、いまも券が残っているのは三人だった。
大工の卓さんは、ほぼ毎晩来る。券はもうじき尽きるはずだ。
洋子さんは毎週金曜に来る。先週も来た。
そして、源さん。
八月の終わりに四枚残したまま、帳面の「使用」の欄は止まっている。それ以来、姿を見ていない。
「お父さん、源さんって」
奥の釜場に向かって声をかけると、薪を動かす音に混じって父の声が返ってきた。
「ああ、転んで足をやったって聞いたな。八十二だ。治るのに時間がかかるだろう」
わたしは、入口に置かれていた包みを思い返した。
段を上がらない場所。スロープの手すりの根元。
歩くことはできても、濡れた洗い場や湯船の縁は、杖をつく人には怖いかもしれない。
火曜の朝は、五時半に起きた。
戸口に立つと、息が白かった。川沿いの石畳に、街灯がぽつぽつと落ちている。柿の枝の影が、道の上で揺れていた。
やがて、遠くから音が聞こえてきた。
コツ、コツ、と、杖が石畳を叩く音。
角を曲がって現れた人は、新聞紙の包みを片手に提げていた。わたしに気づいて、足を止める。
「……見つかっちゃったか」
「おはようございます、源さん」
源さんは、ばつが悪そうに杖を握り直した。
「券がね、まだ四枚あるんだよ。使えなくなっちまったから、せめて柿くらいと思ってさ。庭の蛍柿が、毎年なりすぎて困るんだ」
「使えなくなってなんかいません。券に期限はないですから」
「でも、風呂は別だよ。歩くだけなら、人のいない朝の道で何とかなる。だけど濡れた床で杖はつけないし、湯船をまたぐのも怖い。夜の混む時間に、人の邪魔になるのも嫌でね」
「だから、朝です」
わたしは戸を大きく開けた。
中から、ふわりと湯気が流れ出た。
火曜のこんな時間に、釜が焚かれているはずがない。昨夜のうちに、父に頼んでおいた。洗い場には滑り止めのマットを敷き、湯船の縁には、物置から出してきた腰掛け台を置いてある。
奥から父が、首に手ぬぐいをかけて出てきた。釜場の煤で、鼻の頭が黒い。
「湯加減、ちょうどいいぞ」
「柿のお返しは、一番風呂です。誰もいない時間に、ゆっくり。床は滑りませんし、手すりも腰掛けもあります」
源さんはしばらく黙っていた。
それから、包みをそっとわたしの手に預けて、杖を鳴らして一歩、スロープに足をかけた。
番台で、回数券の一枚を切る。
パチン、と鋏の音が、朝の板張りに響いた。
「さよちゃん、これ、柿の包みの紐だろう」
源さんが、わたしの手の中の赤い紐を見て笑った。
「ばれると思ってたんだ。夏の赤だから、わかる人にはわかっちまう」
「わかる人にしか、わからない紐でした」
脱衣所の戸が閉まる。
湯を使う音が、ゆっくりと聞こえてきた。
わたしは包みをほどいて、蛍柿をひとつ、窓辺に置いた。
朝の光を受けた橙色が、銭湯の白いタイルの中で、ひときわ温かく見えた。
\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ