コメディ・日常
703文字 約2分で読了

帰りの列車は、まだ決めない

勝河町の駅に降りると、結衣はスマートフォンで帰りの列車の時刻を確かめた。農園まで徒歩十五分。見学と昼食を済ませ、午後三時の列車に乗る。予定に狂いはない。 「こっちです」 地元農家の直人は、大通りを外れ、石垣沿いの細道へ入った。 「近道ですか?」 「いえ、遠回りです」 結衣は時計を見たが、黙って後を追った。 畑に着くと、直人はぶどう棚の下で立ち止まった。説明しながら、手慣れた様子で房の向きを直す。 「同じ房でも、日当たりで色づき方が違うんです」 葉の陰には、紫の濃い実と、まだ赤みの残る実が並んでいた。 そこへ姪のハルが駆けてきた。 「おじちゃん、あそこ!」 葉の上に、小さなカマキリがいた。 「これも畑の見どころ?」 結衣が尋ねると、ハルは首をかしげた。 「ここにいるんだから、見どころだよ」 結衣は笑いかけ、ふと口を閉じた。逃げようとするカマキリを、もう一度目で追った。 帰り道、直人は石垣の前で足を止めた。隙間から、小さな白い花が顔を出している。 「春には、もっと咲くんです。毎年、ここを見るのが楽しみで」 「いま秋なのに、春の話?」 「来年も見に来てもらえたらと思って」 結衣は返事の代わりに、花の写真を撮った。 駅へ戻る途中、農家の女性が籠から不揃いのぶどうを一房、ハルに渡した。ハルは粒が落ちないよう、両手でそっと抱えた。 駅に着いたとき、列車の到着まで数分しかなかった。結衣は昼食を諦め、売店でパンを買った。 窓の外に、斜面の畑が流れていく。 取材メモには、名所の名前より、カマキリや石垣の花のことが多く残っていた。 結衣は最後に書き足した。 ――この町は、急いで通り過ぎるには、少し惜しい。 次は春に来よう。 帰りの列車は、まだ決めなくていい。
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作者:TakaTuki
2026/10/19 • 👁 31回 • 💬 0件
恋愛
500文字 約1分で読了

P.S.紫の花が似合うあなたへ

どうして愛してくれてたのか分からなかった。 元彼とひどい別れ方をしたあと、あてつけのようにあなたの告白を受け入れた。 最低だったよね? 同性のあなたへ本当の好意があったか、あの時は分からなかった。 傷心を理由に私は、炎天下で十五分も遅刻して、あなたを待たせたっけ。 銀杏の葉で道路がいっぱいになっていた日に、発露する場所のない怒りと不安をあなたのアパートの壁とお皿にぶつけたっけ。 ねえ、どうして怒り返してくれなかったの? 別れる前に、そっとあなたの机に花飾りがついたヘアピンを最後に置いて帰った。 なんの変哲もないよく見る、あなたの好きな色の花。 そんな花を見るたびに、私を思い出してくれるかなって。 雪の降った昼、あなたの声が聞こえた気がした。 あの公園で一緒にコーヒーを飲んだんだ。 桜の蕾が色づき出したころ、あなたがよく使っていた落ち着く香水の匂いがした気がした。 よくあのスーパーで、その晩食べるものを買ったっけ。 どうして愛してもらえてるのか、理解しようとしなかったんだろう。 私の中であなたの何もかもがまだ鮮明に残ってる。 ようやく、気付けた。 きっと私はあなたが……。 私の宛先の無い、長すぎる追伸はここで終わらせよう。
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2026/10/19 • 👁 21回 • 💬 0件
コメディ・日常
1867文字 約4分で読了

ニューワールド 理解しようとしたら負け

ちょっとした遊び心でノリで書きました。。。  ────ジリジリジリジリ  今日も元気に目覚ましが鳴り響き、俺はむくりと起き上がるとセミを叩き潰した。 「……八時か」  ────ジリジリジリジリ  なかなか鳴り止まないスヌーズ機能に、もう一つおまけにセミを叩き潰す。 「出掛ける準備をしないとな」  ポツリと一人呟くと、身体中に群がる野良猫を一匹ずつ引き離してゆく。今日の記録は十五匹。どうりで暖かかったわけだ。  俺は一人納得をすると、野良猫の尿にまみれたホカホカのパジャマを脱ぎ捨てて新しいパジャマに着替える。 「おっと。もう八時十五分か」  出発の時間まで残り十五分。これは急いで支度をしないと間に合いそうもない。歯磨きをしながら昨夜の残り物の手羽先を口に咥える。これぞ時短だ。  喉に刺さった骨がちょっと気になり、丸呑みにした手羽先の肉の部分をペッと口から吐き出す。 「ご馳走様でした」  革靴を履いて自宅を出ると、車の鍵を持って徒歩で会社へと向かう。 「しまった、髭を剃るのを忘れた」  だが自宅に引き返す時間はない。仕方なく諦めた俺は、鞄と間違えて持ってきた枕をそっと足元に置くと、道路に横になって一旦休憩することにする。今日もいい天気だ。  土砂降りの雨の中シャワーを済ますと、軽く咳き込みながら再び会社へと向かう。  どうやら先程の雨は通り雨だったようで、夏真っ盛りの太陽が昨夜間違えて剃ってしまった俺の頭頂部をジリジリと焼き付ける。これでびしょ濡れになったパジャマもすぐに乾くだろう。 「──あっ! そこ危ないので気を付けて下さい!」  そんな気遣いの言葉に軽く会釈をして通りすぎると、突然現れた暗闇の中で慌てて頭頂部に手を置く。 「大丈夫ですかーー!!?」 「あ、大丈夫です。昨夜間違えて剃ってしまって」  天からのお告げにそう答えると、落ちたマンホールから引っ張り上げてもらった俺は軽く咳き込んだ。 「ゴホゴホゴホッ、ガハッ──」  吐血したと同時に今朝食べた手羽先の骨を吐き出す。喉の違和感の正体はこれだったようだ。 「……本当に大丈夫ですか!?」 「あ、パジャマなんで大丈夫です」  そう答えた後にハッと我に返った俺は、足元を見て|愕然《がくぜん》とした。  しまった、革靴だった。だが今更どうすることもできない。潔く諦めると、擦り傷だらけの身体で再び会社へと向かう。  その途中。一週間程前に盗まれた車を偶然にも発見した俺は、久しぶりに見る愛車に向けてそっと手を伸ばしながら小さく身体を震わせた。どうやら風邪をひいたらしい。  ドキドキと高鳴る胸で車に置いてあったラブレターを手に取ると、ブルブルと震える身体で頬を赤らめる。駐禁・罰金一万の文字。どうやら結婚詐欺だったようだ。  危うく詐欺に騙されそうになった俺は、そのまま車の鍵を持って徒歩で会社へと出向くと、受付にいた顔馴染みの社員に向けてペコリと会釈をする。 「おはようございます」 「……えっ!? どうしたんですか!?」 「昨日間違えて剃ってしまって」 「いや……、身体凄いことになってますけど大丈夫なんですか!?」 「あ、パジャマなんで大丈夫です」  どうやら頭頂部のことではなかったらしい。既に乾ききった泥だらけのパジャマを軽く指で摘むと、気遣いの言葉に感謝しながら軽く会釈をする。  そのままエレベーターに乗って六階まで行くと、階段で三階まで降りて部長に挨拶をする。 「おはようございます」  チラリと掛け時計を見てみると、時刻は九時二十五分。始業時刻の九時半にはなんとか間に合ったようだ。そう思った瞬間、俺は重大なミスに気が付いた。  しまった、財布を忘れた。これでは昼食を買うことができない。 「どっ、どうした|新《あらた》!? 大丈夫か!?」 「すみません、財布を忘れたみたいです」 「いや、そんなことじゃなくて!」 「……あ、昨夜間違えて剃ってしまって」  そう言いながら慌てて頭頂部を隠すと、医務室へ行くようにと部長に促される。寒い。どうやら風邪が悪化したようだ。  近くにあった木製の椅子を叩き壊すと、それに火を付けて焚き火をする。すぐさまスプリンクラー発動。せっかく乾いたパジャマもびしょ濡れだ。  鞄と間違えて持ってきた枕を脇に抱えて寝転がると、俺は天井を眺めながらブルリと震えた。寒い。それにしても身体中がヒリヒリと痛い。  これも全て間違えて頭頂部を剃ってしませいだ。今日は革靴を買って帰ろう。あ。しまった、財布を忘れたんだった。  今日もいい一日だ。  そう思いながら瞼を閉じると、俺はいつものように終業時刻までぐっすりと眠った。  理解しようとしたら負け。それが|新《ニュー》ワールド。 ─完─
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作者:天音ろっく
2026/10/18 • 👁 22回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
992文字 約2分で読了

僕はどこにいる?

私は今 狂気の瀬戸際にいる 世間的な括りで言えば 私は『行方不明者』だ だが 私は確かにここに存在する さて… これはどういう事だろう? あれは遡る事 数年前 科学者である私は 秘密裏に開発していた 人を透明人間にするマシンの完成にこぎ着けた 手柄を独占したかった私は その事実を誰にも告げる事なく このマシンを使い 自分自身を透明人間にした 見事 透明人間化する事に成功した時は 実に興奮したものである それから しばらく 私は透明人間生活を存分に謳歌した 女の着替えを好き放題に 覗いたりなんかはまだ可愛いもので (お約束であり 透明人間の特権なので許してほしい) 他にも例えば 大物政治家の裏の顔を覗いたり 詳しくは割愛するが 人が透明人間になったら やってみたいと考えるであろう事は 大抵はやってみた まぁ あくまで私は科学者なので 本来 透明人間になってあれやこれやを楽しむために 研究を完成させたわけではない 科学者として 透明人間になるプロセスを完成させた その事実に意義がある 言わば 私は被験体だ マウスでの実験は 確かに成功していたのだが 人間で試してみない事には本当の完成とは言えない さて 実験は成功であり 透明人間生活も存分に楽しんだ え? 透明人間化のプロセスの成功が大事であり 「透明人間になって楽しむためじゃない」のではなかったのかって? それはそれ これはこれである 話を戻して 成果に満足した私は 元の普通の人間へと戻る事にした ちなみに この研究結果や完成したマシンなど 透明人間に関わる全ての事は 先に述べた通り 手柄を独占するためにも 誰にも告げないつもりだ だが そこで気付いた 透明人間になったまではいい しかし どうやって私は 元の体へと戻ればよいのだろうか? 透明人間になる研究には十数年もの歳月を費やした 研究に没頭するあまり あるいは 研究の成功に喜び興奮するあまりに そこまで 気が回っていなかった 透明人間から元に戻る研究を今から始めたとして 完成はいつになるか まるで見当も付かない そもそも 透明人間化の研究自体が 成功には偶然に助けられた面も多分にある 研究をするにも不便な体になってしまった 果たして 透明人間から元に戻るマシンを 本当に完成させられるだろうか? そして 本当に元の体に戻れるのだろうか? 正直なところ 不安は尽きない これからの事を考えると 実に絶望的な気分である …… この手記を読んだ者へ どうか 私を見つけ出してほしい 私はこの世のどこかの片隅に きっとまだ 確かに存在するはずなのだから
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作者:lue
2026/10/18 • 👁 28回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
4285文字 約9分で読了

ポケットの中の通り雨

 右のポケットだけが、いつだって少しだけ冷たかった。高校三年生の夏が終わり、秋の気配が校舎の影を長く伸ばし始めた頃から、僕の右ポケットには「通り雨」が住み着いている。  最初は、ただの気のせいだと思っていた。スマートフォンの画面が結露しているのか、あるいはポケットの底に忘れていたキャンディの包み紙が湿気(しけ)ているのだろうと。でも、授業中にそっと制服のブレザーのポケットへ手を滑り込ませると、指先をぽつり、ぽつりと冷たい雫が打つ。それは間違いなく……雨だった。  ポケットに手を突っ込むたび、かすかに夕立の匂いがした。強い日差しで焼けたアスファルトが急激に冷やされた時の、あの懐かしい匂い。そして、思い出すたびに胸の奥をキリキリと締め付ける、あの日の記憶。  あの日も、突然の通り雨だった。高校二年の六月。放課後の帰り道、夕焼けを呑み込むようにして広がった黒い雲から、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。僕とクラスメイトの静香(しずか)は、バス停の古いプラスチック製の屋根の下へとなだれ込んだ。屋根を叩く激しい雨音のせいで、二人の間に流れる沈黙は少しだけやわらいでいた。  静香は曇った空を見上げ、濡れたショートカットの髪を指先で払いながら、「あぁ、傘忘れちゃったな」と困ったように笑った。本当は、僕のカバンの中には折りたたみ傘が入っていた。朝、天気予報を見て母親が持たせてくれた、紺色の地味な傘だ。二人で入るには少し小さいけれど、駅までの数分間を凌ぐには十分だった。  でも、僕は言えなかった。 「傘、あるよ」  その一言が。  二人で一つの傘に入ったら、肩が触れ合ってしまうかもしれない。僕の恋心が、雨の湿気と一緒に彼女に伝わってしまうかもしれない。そんな臆病さと青臭い気恥ずかしさが、僕の口を硬く縫い付けていた。 「ねぇ、一緒に走って帰ろっか」  静香は僕の顔を覗き込むと、いたずらっぽく微笑んで自分のリュックサックを頭の上に掲げた。そして、「せーの!」と声をかけて、勢いよく激しい雨の中へと飛び出していった。雨に濡れて小さくなっていく彼女の背中を、僕はただ立ち尽くして見送るしか出来なかった。  あの時、差し出せなかった傘の重みと、飲み込んで消えた言葉。そして、「もしもあの時、僕が傘を開いて彼女の隣にいたら」という不毛な妄想。それらがギュッと凝縮されて固まり、いつしか僕の右ポケットに小さな雨を降らせるようになったのだと思う。  静香は、その年の冬に遠くの街へ引っ越していった。結局、僕は自分の気持ちを何ひとつ伝えることができないまま、また彼女の背中を見送った。  あれから四年が経ち、僕は二十一歳になった。故郷から遠く離れた東京の大学に通い、古いアパートで一人暮らしをしている。大学の講義、居酒屋のアルバイト、深夜の冷えたコンビニ弁当。目の前の現実に追われる日々の中で、あの夏の記憶は遥か彼方へと遠のいていたはずだった。でも、右ポケットの冷たさだけは、一向に消えてくれなかった。  ある秋の日の夕方。授業を終えた僕は大学近くの古びた喫茶店に立ち寄っていた。飴色に燻(いぶ)された木目調の店内にはジャズが静かに流れていて、マスターがカウンターの奥で珈琲を入れる音が聞こえてくる。  窓の外を見ると、どんよりとした灰色の雲が垂れ込めていた。パラパラとガラス窓を叩く音。また通り雨だ。  僕はコートの右ポケットに手を突っ込んだ。指先にぽつり、ぽつりと落とされる小さな雫。僕は溜息をつき、ポケットの中で指を濡らしながら、あの日から何度繰り返したかわからない問いを心の中で呟いた。  ――もし僕が「傘、あるよ」と言えていたら……。  もしあの時、僕が傘を差し出せていたら。小さめの紺色の傘を二人で分け合い、肩を寄せ合って駅まで歩いていたら、何かが変わっていたんだろうか。「濡れちゃったね」なんて笑い合って、他愛もない話をして、彼女の引越しが決まった時にも、「遠くに行っても連絡するね」と言える関係になれていたのだろうか。  そう思った瞬間――。  ポケットの中で、いつもと違う感触があった。いつもなら指先を濡らすだけのはずの雨粒が、急激に量を増した。ザーッという激しい雨音が、なぜかポケットの奥から響いてくる。 「うわっ……!」  驚いて手を引き抜こうとしたが、ポケットの奥から強い力で引っ張られるような感覚に襲われた。急に視界が揺れ、珈琲の香ばしい匂いとジャズの音色が遠ざかっていく。  代わって僕の全身を包んだのは、アスファルトをバチバチと叩く激しい雨音だった。 「——ねぇ、どうしたの? ぼーっとして」  耳元で懐かしい声が聞こえた。目を開けると、そこはあの古いバス停の小屋だった。錆びついた時刻表と雨粒が弾けるプラスチックの屋根。そして僕の隣には、濡れたショートカットの髪を触りながら、困ったように笑う静香が立っていた。 「……静香?」 「ほら、傘忘れちゃったからさ、雨が上がるまでここで雨宿りさせてもらおうよ」  僕は自分の手元を見た。制服を着ていて、その右手には——しっかりと紺色の折りたたみ傘が握られている。頭が混乱してパンクしそうだった。これは夢なのか。それとも、ポケットの中の通り雨が僕を過去に連れ戻したのか。あるいは、「もしも」の世界線へと繋がってしまったのだろうか。 「あ……あのさ、静香」  僕は大きく息を吸い込み、四年前に言えなかった言葉を口にした。 「僕……傘、持ってるんだ。折りたたみで小さいけど」  静香は驚いたように目を丸くし、それからパッと顔を輝かせた。 「本当!? 助かったー! じゃあ、駅まで一緒に入れてもらえる?」 「うん。もちろん」  僕はカバンから傘を取り出し、柄を伸ばしてバサッと開いた。二人で入るにはやっぱり少し小さい傘の中で、僕たちは肩が触れ合わんばかりに寄り添い、雨の街へと踏み出した。  傘を叩くバタバタという雨音と、静香の髪から香るほんのり甘いシャンプーの香りは、僕の心拍数を異次元へと跳ね上げた。 「少し左寄りにさしてよ、僕の肩が濡れるから」 「えー、ごめんごめん! じゃあもっとくっつけばいいじゃん」  そんな冗談を言い合いながら、僕たちは笑って歩いた。  駅に着くまでの数分間、僕たちは他愛もない話をし、改札の前で「また明日ね」と言って手を振り合った。  夢にまで見た展開だった。僕が四年間も後悔し続け、望み続けた理想の過去が目の前で完璧に再現されている。  ――これでよかったんだ。  これで僕の後悔は消え、右ポケットの雨も止むはずだ。  だが、改札を抜けて消えていく静香の背中を見送りながら、僕は胸の奥にどこか奇妙な違和感を覚えていた。  確かに、僕は傘を差し出すことができた。彼女と一緒に雨の中を歩き、笑い合うことができた。でも、なぜだろう。胸の奥にぽっかりと開いた穴は少しも埋まっていない。「また明日」と言って笑った静香の笑顔は、僕が記憶の中で何度も何度も反芻し、美化し続けていた「雨の中へ飛び出していったあの日の静香」とは、どこか違っていた。  雨の中にひとり飛び出していった静香の、あの寂しげで、でもどこか誇り高く、眩しかった背中。何も言えずに立ち尽くしていた僕の、あの情けなくて、かっこ悪くて、痛いくらいに鮮やかだった青春の記憶。  傘を差し出したことで、僕は正しい思い出を手に入れたのかもしれない。でもその代わりに、僕が四年以上も大切に抱え続けてきた切なさの原風景が、跡形もなく書き換えられてしまった気がする。  その瞬間、激しいめまいが僕を襲った。視界が再び濁り始める。駅の改札口、自動販売機の明かり、静香の残像がぐるぐると渦を巻いて遠ざかっていく。  ――待ってくれ!  叫ぼうとしたが、声にならなかった。ポケットの中で、嵐のような雨が吹き荒れていた。  目を覚ますと、僕は喫茶店の席に座っていた。窓の外では、変わらずしとしとと秋の雨が降っている。テーブルの上には、すっかり冷めてしまった珈琲がぽつんと置いてある。僕の服装はコート姿のままで、手元に折りたたみ傘はない。慌てて右ポケットに手を突っ込むと、そこには相変わらず冷たい雨が降っていた。指先を小さな雫が叩く。 「夢……だったのか?」  僕は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体重を預けた。ただの夢とは思えなかった。あの傘の柄の感触、静香のシャンプーの香り、そして「もしも」を叶えたあとに訪れた、あの奇妙な虚無感。全てがリアルだった。  きっと、僕がずっと悔やんでいた「差し出せなかった傘」は、敗北や失敗の証などではなかったのだ。あの時、傘を差し出せなかったからこそ、僕は静香の眩しさを知った。自分の臆病さを知り、誰かを愛おしく思うことの切なさと痛みを学んだのだ。「もしも」を叶えてしまった世界では、僕は傷つかずに済んだかもしれない。でも、そこには僕を人間として少しだけ成長させてくれた、あの強烈な後悔も、愛おしい思い出も存在しなくなってしまう。  僕の右ポケットに降っていた通り雨は、過去をやり直したいという未練の雨などではなく、僕が「あの日の切なさ」を忘れてしまわないように、心の底でずっと守り続けていた宝物だったに違いない。 「マスター、お会計をお願いします」  僕は冷えた珈琲を飲み干し、立ち上がった。喫茶店を出ると、ちょうど雨が止むところだった。厚い雲の隙間から夕暮れ時の橙色(だいだいいろ)の光が差し込み、濡れた街並みをオレンジ色に染め上げていく。  僕はコートの右ポケットに、もう一度だけ手を突っ込んだ。  ――ぽつり。  相変わらず、指先に冷たい雫が当たる。でも、もうその冷たさは僕を凍えさせるものではない。恥ずかしくて誇らしい、青春の欠片(かけら)だ。 「ありがとうな」  僕はポケットの中の小さな雨に向かってそう呟いた。もう、「もしも」なんて望まない。あの日の後悔も、言えなかった言葉も、全部抱えて僕は生きていく。  僕は両手を空に向けて広げた。すると、ポケットの中に閉じ込められていた小さな通り雨が、すっと指の隙間からこぼれ落ちていくような気がした。それは夕暮れの街灯の光を浴びて、きらきらとダイヤモンドダストのように瞬きながら、秋の風に乗って空へと溶けていく。 「ふぅ……」  息を吐きながら空を見上げると、ビルとビルの間に、ほんの少しだけ小さな虹が架かっていた。  アスファルトからは、あの日の雨の匂いが立ち昇っていた。それはきっと、もう戻らない季節の匂いなんだと思う。だからこそ、未来(まえ)へ進まなければならない。  僕は、すっかり軽くなった両手をポケットに突っ込むと、しっかりと自分の足で、新しい季節が待つ家路へと歩き出した。 (了)
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2026/10/18 • 👁 94回 • 💬 0件
児童文学
2111文字 約5分で読了

つま先立ちの未来

 ルベット家は商人を邸に呼び寄せるほどの財力はない。だから買い物は基本的に街に出ることになる。  その日もアリエッタは、キーラお嬢様と買い物に出ていた。目的は特になく、強いて言うならキーラの気晴らしのためだった。  お嬢様とはいえ、お小遣いは子ども用のそれ(それでも市民基準よりは多いが)。アリエッタが手に持てるだけの可愛らしい小物とお菓子を買った帰り道、キーラは突然ある店のショウウィンドウに貼り付いた。 「うわぁ……」  大きな目を輝かせて、キーラが見つめていたのは、白い円形のディスプレイに展示された靴だった。ラズベリー色のパンプス。淡いピンクの花のコサージュが付いている。華やかながらも少し落ち着きのあるその靴は、十代後半の娘たちへと向けたものだろう。  ただ一つ。その靴の踵が高かった。女性の拳くらいの高さがある。社交に出たばかりの娘に履かせるのにも、躊躇う高さだ。 「すてき……欲しいなぁ」  ねぇアリエッタ、とキーラはお付きのメイドを振り仰ぐ。アリエッタは苦笑しつつ首を横に振った。 「無理ですよ。お嬢様にはまだお早いです」  キーラは口を尖らせる。最近の彼女は、背伸びしたいお年頃。お子様扱いを嫌がられる。だから、アリエッタは付け加えた。 「お嬢様、まだヒールを履かれたことないでしょう?」  キーラは足元に視線を落とした。リボンの飾りが付いたシックな黒いパンプスには踵がない。  しかしキーラはキリッと顔を上げた。 「練習すれば、すぐに履けるようになるわ」  気概は結構だが、アリエッタとしてはやはり受け入れられない。 「いきなりあの高さは危険です。足を捻ってしまいますよ」  それでもキーラは諦めがつかないらしい。じとっとラズベリーのパンプスを見つめ続ける。窓に両手を付けて、片恋でもしているかのように、切なそうに。 「そんなに気に入ったんですか?」  アリエッタはさすがに困惑した。この靴はたった今見つけたばかりである。衝動的に欲しくなることはあるかもしれないが、執着するだけの理由が見当たらない。キーラは欲しい物は手に入れないと気がすまないという我儘な性質でもないので、なおさらだ。 「どうしてその靴が欲しいのですか?」 「マリアの靴に似ていると思ったの」  マリアとは、お嬢様が|聖典《バイブル》とみなすほど夢中になっている小説の主人公だ。爵位の低い家に生まれた少女が、成長とともに様々な逆境を乗り越えて幸せを掴む話。自立した精神を持つ彼女にキーラは強く憧れを抱いたようで、たびたびアリエッタに話を聞かせてくれた。というか、アリエッタも読まされた。  確かに、とアリエッタは物語を思い出す。この靴は、マリアがデビュタントを迎えたときの靴を思わせる。  だからといって、いきなりこの靴をキーラに履かせるのは躊躇われた。そもそも、キーラのお小遣いでは買える値段ではない。さすがにその辺りはキーラも理解しているようで、お父様におねだりしようかしら、と呟いている。  アリエッタは頭を捻った。仮にキーラの父が購入を認めてくれたとしても、今その靴を彼女の傍に置いておくことに、アリエッタは賛成できない。あればきっと無茶をしてでも履きたくなってしまう。怪我の要因となりかねない。  だから、お嬢様をひとまず諦めさせるだけの何かが必要だ。 「でしたら、お嬢様。来年のお誕生日のプレゼントにおねだりしてはいかがでしょう」  キーラは窓から視線を外し、アリエッタを見上げた。その眦がきりりと吊り上がる。キーラの誕生日はついこの間過ぎたばかりだ。つまり一年後ということになる。そんなに我慢させられるのか、と不満なのだろう。 「それまでにお嬢様は、その靴が似合うだけの淑女の振る舞いを身に着けましょう」  アリエッタは諭す。無理をして背伸びをしても、履きこなすことなどできはしない。ついでに、靴に合う服もない。せっかくの憧れの靴を手に入れても、悲しい思いをする可能性のほうが高いのだ。 「どうせなら堂々とその素敵な靴を履きたいと思いませんか?」  両手を窓に貼り付かせたまま、キーラは俯く。視線の先は、自らの足元だ。底が扁平な靴の踵を浮かせる。慣れないつま先立ちに、窓に両手をついていてもなお、まだ幼い身体はよろめいた。  現実と理想のギャップを、彼女はどう受け止めたのだろうか。 「……うん。そうね」  踵が地に着き、手がようやくショウウィンドウから離れた。可愛らしい顔に表情はなく、気落ちしているのは確かだった。アリエッタはそんな聞き分けの良い彼女を帰路へ促す。 「帰ったら、旦那様にお話しましょう。ご予約を取っていただかなければ」 「……うん!」  キーラの表情が少し明るくなる。決してその場しのぎで誤魔化されただけではないことが分かったからだろうか。  いきなり高いヒールの靴が欲しいと言われて面食らってしまったが、キーラが淑女教育に前向きになったのは良いことだとアリエッタは思う。ルベット家に生まれたからには、いずれ淑女の振る舞いを求められるだろうから。  そして、キーラが目指す淑女像を具体的に持ったのも良いことだ。  まずは、キーラがヒールに慣れるための、踵低めの靴を手配しなければ。  帰ったら奥様に相談しよう、とアリエッタは心に決めた。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/18 • 👁 20回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
248文字 約1分で読了

誤作動

クローン技術が社会一般に広まったのは遠い昔。 それで自分自身が死んだらクローンで復活するというのが一般化したのもかなり前だ。 それ以来人間はクローンで増えるようになった。 同じクローン体がいくつも存在する。 僕もまたたくさんいるのだ。 だが僕はその他大勢の僕とは外見も性格も違う。 どうやらこれは誤作動らしい。わずかなズレができて、それが元の形とは微妙に違う。 けれどそんな僕を、僕自身はとても気に入っている。 昔は一人一人違う人間だったらしい。 そして一人一人の違いは個性と呼ばれていた。 きっと僕も個性的なんだ。
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作者:しとえ
2026/10/18 • 👁 26回 • 💬 0件
コメディ・日常
629文字 約2分で読了

幸運の手紙

私は昔から、どうにもツキのない人間だった。 子供のころから、大切な場面でじゃんけんをすれば必ず負けて面倒ごとを押し付けられるし、新しい靴を下ろした日に限って泥水を踏んでしまう。二択で迷って選んだ方はいつもハズレで、商店街の福引ではポケットティッシュしか当たったことがない。 そんな長年の不運続きの人生が、つい最近、一変した。 たまたま目にした「占いの館」で開運の無料相談を受けたのがきっかけだった。 そこで教えられたアドバイスを半信半疑で試してみると、効果はすぐに現れた。 占いの館を利用するときに登録した新しい住所宛に、幸運を告げる手紙が次々と届くようになったのだ。 何年も疎遠になっていた昔の友人から、電話番号を教えてほしいという便りが届いた。 有名百貨店からは数万円分の商品券が当選したという知らせが舞い込んだ。 そんなことが幾つか続き、機嫌よく過ごしていると、知人から「何かいいことでもあったのか」と尋ねられるようになった。 しかし、私は笑ってごまかすだけで、誰にも真実は話せなかった。 テレビでもおなじみの芸能人から、密かに悩みを相談されていること。 見知らぬ大富豪の未亡人から全財産を譲りたいという情熱的な申し出があったこと。 どちらも、自分でもにわかには信じがたい話だ。しかし、私の目の前にある手紙が確かな証拠だった。 顔をほころばせて、それを読み返していると、通知音が鳴った。また『手紙』が届いたようだ。 私は、孫に持たされたスマートフォンを、慣れない手つきで操作した。
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作者:さくら
2026/10/18 • 👁 47回 • 💬 2件
恋愛
1111文字 約3分で読了

ご主人様とわたくし

「私の人生は、これまでもこれからも、くだらないおとぎ話を書き連ねる為だけに存在するんだ」  屋敷の一角にある書庫にて、ご主人様がポツリと言った。  彼女は部屋に置かれた机で何やらノートにメモ書きを続けていて、使用人である私の方は一瞥もしない。けれど、私が書庫にいる事を認識している。私の気配を読んでいる。  ご主人様の神経は、常に研ぎ澄まされていた。人の空気や言葉の弾み、ぬるい音、心の温度を徹底的に観察し、それを一冊のおとぎ話へ閉じ込めてしまう。  その敏感過ぎる感覚が故に、彼女は観察目的以外では人と交流しない。使用人に対しても、まるで骨董品を見るかの様な目つきで見る。私はその視線が少し苦手だ。 「ご主人様、お茶の支度が出来ております」  私は至って冷静に話し掛けた。しかし彼女は「あと数分で行く」と言ったままこちらを振り向かない。今までに、何度そうやって時間を先延ばしにされたことか。  私はうんざりして、でも怒るような真似はしたくなかったから、少し緊張した喉元を震わせて彼女へ言った。 「寂しいです」  私がそう言うと、ご主人様の動きが変わった。忙しなく動いていた手が止まり、ゆるりと身体が私のいる方へ向けられる。 「ふふ、そんな風にたしなめられたのは初めてだよ。実に可愛らしい口説き文句で結構だ」  微笑むご主人様は、何とも意地悪な顔をしていらっしゃる。きっと彼女は、予想外な言葉を私から引き出したかったのだろう。相変わらず、他者の言葉から何でもアイデアを得ようとする貪欲な物書きだ。 「私の事も、おとぎ話の一部にするのですか」 「するとも。お前は特に可愛いからな。私のなんでもない物語に登場させるのは楽しそうだ」  そんなのごめんだと言いたかったが、ご主人様は空想に生きる人だ。彼女はこの世にない世界を創造する事でしか息が出来ない。だから、いつまでもおとぎ話の夢を見続け、その夢に私も勝手に利用される。 「……するなら、とびきり愛らしいお姫様にしてくださいませ」 「約束するよ。お前の事は、とびきり可愛がってやる。文字の上でな」  微笑むご主人様は、やけに楽しそうだった。人の言葉や空気を舐め回すように観察して、偉そうに。 「服を脱がしたりしたら、許しませんから」 「善処しよう」  この空想家め。私は優雅に歩いていくご主人様の背を恨めしげに眺めながら、自分がくだらないおとぎ話の一節になるのを想像する。  貴女のお姫様となった私は、どんな顔で、どんな事を思うのでしょう。出来るなら、ロマンチストな騎士と恋に落ちる話にして欲しい。  空想が得意な、おとぎ話の中でしか生きられない騎士。その人と恋が出来るのなら、この世界で生きる私の満たされない想いも、少しは報われるかもしれない。
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作者:ころもやぎ
2026/10/18 • 👁 20回 • 💬 0件
コメディ・日常
1560文字 約4分で読了

いちご一粒ぶんの器

白窯町の坂道には、焼き上がった陶器を並べる木棚が続いていた。白や淡い青の器が朝の光を受け、坂の上の窯元からは、薪を焚く匂いが漂っていた。 奈緒は仕事用の鞄を肩に掛け直し、窯元の店先で足を止めた。 棚の隅に、小さな器がひとつ置かれていた。親指ほどの高さしかなく、口の縁がわずかに傾いている。白い釉薬の表面には、光の加減で淡い陰影が浮かんでいた。 「それ、売り物じゃないんです」 工房から出てきた若い職人が言った。 「かわいいのに」 「形が揃わなくて。何に使うかも決めてないんです」 奈緒は器を手のひらに載せた。料理撮影の仕事では、皿を選ぶにも理由がいる。料理の色が映えるか、形が盛りつけの邪魔をしないか、照明を当てたときにどんな陰影が生まれるか。いつもそんなことを考えている。 けれど、この器には何を盛ればいいのだろう。 指先で傾いた縁をなぞっているうちに、ふと、赤いいちごの姿が浮かんだ。 「いちご、一粒とか?」 職人は器をのぞき込み、うなずいた。 「へたを取らずに置いたら、ちょうど収まりそうだ」 奈緒はその器を買った。 坂を下りると、角に小さな茶店があった。仕事でこの町を訪れたときには、ときどき立ち寄る店だった。奈緒は休憩がてら暖簾をくぐった。 店主が、湯気の立つ急須を手に顔を上げた。 「おや、いらっしゃい。今日はずいぶん大事そうな包みを持ってるね」 「さっき、窯元で買ったんです。ちょっと見てもらえますか」 包みを開いて器を見せると、店主は手を拭き、そっと両手で受け取った。 「まあ、小さいこと。何を載せるつもりなの?」 「いちごを一粒、と思ったんです。でも、ほかにも合うものがあるのかなって」 店主は器を窓辺の光にかざし、傾いた縁を眺めた。 「それなら、今日はこれを載せてみようかね」 奥から持ってきたのは、小ぶりの黒糖蒸し菓子だった。 白い器に、淡い飴色の菓子がひとつ収まった。傾いた縁のために、菓子はほんの少し中心からずれている。それでも、まるで初めからそこに置かれるために作られたように、器によく馴染んでいた。 「大きなお皿だと、ほかにも何か足したくなるでしょう。でも、これなら一つをゆっくり味わえそうだね」 店主はそう言って、奈緒の前に温かいお茶を置いた。 奈緒は菓子をひと口かじった。黒糖のまろやかな甘みが広がり、お茶の温かさが喉を通っていく。 いつもの撮影なら、菓子の置き方を直し、器との色の取り合わせを確かめ、光の向きを何度も調整するだろう。写真の中でいちばんおいしそうに見える瞬間を探すのが、彼女の仕事だった。 けれど今は、カメラも構図も照明もない。 奈緒はお茶をひと口飲み、菓子をもうひと口かじった。甘みがゆっくり消えていくのを感じながら、残りのひとかけらをしばらく眺めた。 「なくなるのが、ちょっと惜しいですね」 店主は目尻にしわを寄せた。 「おいしいものは、そうやって食べるのがいいんだよ」 奈緒は笑い、最後のひとかけらを口に運んだ。 東京に戻れば、次の撮影の献立が待っている。料理に合わせて皿を選び、配置を考え、照明を調整する。そんな仕事も嫌いではない。思いどおりの一枚が撮れたときには、今でもうれしくなる。 ただ、仕事で食べ物を選ぶことと、自分が食べたいものを選ぶことは、少し違うのかもしれなかった。 仕事では毎日のように食材を選んでいるのに、自分のためだけに何かを買うことは、いつの間にか少なくなっていた。 店を出ると、坂の上から窯を焚く煙が細く伸びていた。奈緒は器を包み直し、鞄の中にしまった。 帰ったら、いちごを一粒だけ買おう。 大きさの揃ったものを選ばなくてもいい。少し形が歪んでいても、へたが曲がっていてもかまわない。その一粒を、あの器に載せて食べてみたい。 そう考えると、帰り道が少し楽しみになった。 こんな買い物を楽しみにするのは、ずいぶん久しぶりだ。
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作者:TakaTuki
2026/10/18 • 👁 53回 • 💬 2件