SF・ファンタジー
ポケットの中の通り雨
4,285文字
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右のポケットだけが、いつだって少しだけ冷たかった。高校三年生の夏が終わり、秋の気配が校舎の影を長く伸ばし始めた頃から、僕の右ポケットには「通り雨」が住み着いている。
最初は、ただの気のせいだと思っていた。スマートフォンの画面が結露しているのか、あるいはポケットの底に忘れていたキャンディの包み紙が湿気(しけ)ているのだろうと。でも、授業中にそっと制服のブレザーのポケットへ手を滑り込ませると、指先をぽつり、ぽつりと冷たい雫が打つ。それは間違いなく……雨だった。
ポケットに手を突っ込むたび、かすかに夕立の匂いがした。強い日差しで焼けたアスファルトが急激に冷やされた時の、あの懐かしい匂い。そして、思い出すたびに胸の奥をキリキリと締め付ける、あの日の記憶。
あの日も、突然の通り雨だった。高校二年の六月。放課後の帰り道、夕焼けを呑み込むようにして広がった黒い雲から、バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。僕とクラスメイトの静香(しずか)は、バス停の古いプラスチック製の屋根の下へとなだれ込んだ。屋根を叩く激しい雨音のせいで、二人の間に流れる沈黙は少しだけやわらいでいた。
静香は曇った空を見上げ、濡れたショートカットの髪を指先で払いながら、「あぁ、傘忘れちゃったな」と困ったように笑った。本当は、僕のカバンの中には折りたたみ傘が入っていた。朝、天気予報を見て母親が持たせてくれた、紺色の地味な傘だ。二人で入るには少し小さいけれど、駅までの数分間を凌ぐには十分だった。
でも、僕は言えなかった。
「傘、あるよ」
その一言が。
二人で一つの傘に入ったら、肩が触れ合ってしまうかもしれない。僕の恋心が、雨の湿気と一緒に彼女に伝わってしまうかもしれない。そんな臆病さと青臭い気恥ずかしさが、僕の口を硬く縫い付けていた。
「ねぇ、一緒に走って帰ろっか」
静香は僕の顔を覗き込むと、いたずらっぽく微笑んで自分のリュックサックを頭の上に掲げた。そして、「せーの!」と声をかけて、勢いよく激しい雨の中へと飛び出していった。雨に濡れて小さくなっていく彼女の背中を、僕はただ立ち尽くして見送るしか出来なかった。
あの時、差し出せなかった傘の重みと、飲み込んで消えた言葉。そして、「もしもあの時、僕が傘を開いて彼女の隣にいたら」という不毛な妄想。それらがギュッと凝縮されて固まり、いつしか僕の右ポケットに小さな雨を降らせるようになったのだと思う。
静香は、その年の冬に遠くの街へ引っ越していった。結局、僕は自分の気持ちを何ひとつ伝えることができないまま、また彼女の背中を見送った。
あれから四年が経ち、僕は二十一歳になった。故郷から遠く離れた東京の大学に通い、古いアパートで一人暮らしをしている。大学の講義、居酒屋のアルバイト、深夜の冷えたコンビニ弁当。目の前の現実に追われる日々の中で、あの夏の記憶は遥か彼方へと遠のいていたはずだった。でも、右ポケットの冷たさだけは、一向に消えてくれなかった。
ある秋の日の夕方。授業を終えた僕は大学近くの古びた喫茶店に立ち寄っていた。飴色に燻(いぶ)された木目調の店内にはジャズが静かに流れていて、マスターがカウンターの奥で珈琲を入れる音が聞こえてくる。
窓の外を見ると、どんよりとした灰色の雲が垂れ込めていた。パラパラとガラス窓を叩く音。また通り雨だ。
僕はコートの右ポケットに手を突っ込んだ。指先にぽつり、ぽつりと落とされる小さな雫。僕は溜息をつき、ポケットの中で指を濡らしながら、あの日から何度繰り返したかわからない問いを心の中で呟いた。
――もし僕が「傘、あるよ」と言えていたら……。
もしあの時、僕が傘を差し出せていたら。小さめの紺色の傘を二人で分け合い、肩を寄せ合って駅まで歩いていたら、何かが変わっていたんだろうか。「濡れちゃったね」なんて笑い合って、他愛もない話をして、彼女の引越しが決まった時にも、「遠くに行っても連絡するね」と言える関係になれていたのだろうか。
そう思った瞬間――。
ポケットの中で、いつもと違う感触があった。いつもなら指先を濡らすだけのはずの雨粒が、急激に量を増した。ザーッという激しい雨音が、なぜかポケットの奥から響いてくる。
「うわっ……!」
驚いて手を引き抜こうとしたが、ポケットの奥から強い力で引っ張られるような感覚に襲われた。急に視界が揺れ、珈琲の香ばしい匂いとジャズの音色が遠ざかっていく。
代わって僕の全身を包んだのは、アスファルトをバチバチと叩く激しい雨音だった。
「——ねぇ、どうしたの? ぼーっとして」
耳元で懐かしい声が聞こえた。目を開けると、そこはあの古いバス停の小屋だった。錆びついた時刻表と雨粒が弾けるプラスチックの屋根。そして僕の隣には、濡れたショートカットの髪を触りながら、困ったように笑う静香が立っていた。
「……静香?」
「ほら、傘忘れちゃったからさ、雨が上がるまでここで雨宿りさせてもらおうよ」
僕は自分の手元を見た。制服を着ていて、その右手には——しっかりと紺色の折りたたみ傘が握られている。頭が混乱してパンクしそうだった。これは夢なのか。それとも、ポケットの中の通り雨が僕を過去に連れ戻したのか。あるいは、「もしも」の世界線へと繋がってしまったのだろうか。
「あ……あのさ、静香」
僕は大きく息を吸い込み、四年前に言えなかった言葉を口にした。
「僕……傘、持ってるんだ。折りたたみで小さいけど」
静香は驚いたように目を丸くし、それからパッと顔を輝かせた。
「本当!? 助かったー! じゃあ、駅まで一緒に入れてもらえる?」
「うん。もちろん」
僕はカバンから傘を取り出し、柄を伸ばしてバサッと開いた。二人で入るにはやっぱり少し小さい傘の中で、僕たちは肩が触れ合わんばかりに寄り添い、雨の街へと踏み出した。
傘を叩くバタバタという雨音と、静香の髪から香るほんのり甘いシャンプーの香りは、僕の心拍数を異次元へと跳ね上げた。
「少し左寄りにさしてよ、僕の肩が濡れるから」
「えー、ごめんごめん! じゃあもっとくっつけばいいじゃん」
そんな冗談を言い合いながら、僕たちは笑って歩いた。
駅に着くまでの数分間、僕たちは他愛もない話をし、改札の前で「また明日ね」と言って手を振り合った。
夢にまで見た展開だった。僕が四年間も後悔し続け、望み続けた理想の過去が目の前で完璧に再現されている。
――これでよかったんだ。
これで僕の後悔は消え、右ポケットの雨も止むはずだ。
だが、改札を抜けて消えていく静香の背中を見送りながら、僕は胸の奥にどこか奇妙な違和感を覚えていた。
確かに、僕は傘を差し出すことができた。彼女と一緒に雨の中を歩き、笑い合うことができた。でも、なぜだろう。胸の奥にぽっかりと開いた穴は少しも埋まっていない。「また明日」と言って笑った静香の笑顔は、僕が記憶の中で何度も何度も反芻し、美化し続けていた「雨の中へ飛び出していったあの日の静香」とは、どこか違っていた。
雨の中にひとり飛び出していった静香の、あの寂しげで、でもどこか誇り高く、眩しかった背中。何も言えずに立ち尽くしていた僕の、あの情けなくて、かっこ悪くて、痛いくらいに鮮やかだった青春の記憶。
傘を差し出したことで、僕は正しい思い出を手に入れたのかもしれない。でもその代わりに、僕が四年以上も大切に抱え続けてきた切なさの原風景が、跡形もなく書き換えられてしまった気がする。
その瞬間、激しいめまいが僕を襲った。視界が再び濁り始める。駅の改札口、自動販売機の明かり、静香の残像がぐるぐると渦を巻いて遠ざかっていく。
――待ってくれ!
叫ぼうとしたが、声にならなかった。ポケットの中で、嵐のような雨が吹き荒れていた。
目を覚ますと、僕は喫茶店の席に座っていた。窓の外では、変わらずしとしとと秋の雨が降っている。テーブルの上には、すっかり冷めてしまった珈琲がぽつんと置いてある。僕の服装はコート姿のままで、手元に折りたたみ傘はない。慌てて右ポケットに手を突っ込むと、そこには相変わらず冷たい雨が降っていた。指先を小さな雫が叩く。
「夢……だったのか?」
僕は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体重を預けた。ただの夢とは思えなかった。あの傘の柄の感触、静香のシャンプーの香り、そして「もしも」を叶えたあとに訪れた、あの奇妙な虚無感。全てがリアルだった。
きっと、僕がずっと悔やんでいた「差し出せなかった傘」は、敗北や失敗の証などではなかったのだ。あの時、傘を差し出せなかったからこそ、僕は静香の眩しさを知った。自分の臆病さを知り、誰かを愛おしく思うことの切なさと痛みを学んだのだ。「もしも」を叶えてしまった世界では、僕は傷つかずに済んだかもしれない。でも、そこには僕を人間として少しだけ成長させてくれた、あの強烈な後悔も、愛おしい思い出も存在しなくなってしまう。
僕の右ポケットに降っていた通り雨は、過去をやり直したいという未練の雨などではなく、僕が「あの日の切なさ」を忘れてしまわないように、心の底でずっと守り続けていた宝物だったに違いない。
「マスター、お会計をお願いします」
僕は冷えた珈琲を飲み干し、立ち上がった。喫茶店を出ると、ちょうど雨が止むところだった。厚い雲の隙間から夕暮れ時の橙色(だいだいいろ)の光が差し込み、濡れた街並みをオレンジ色に染め上げていく。
僕はコートの右ポケットに、もう一度だけ手を突っ込んだ。
――ぽつり。
相変わらず、指先に冷たい雫が当たる。でも、もうその冷たさは僕を凍えさせるものではない。恥ずかしくて誇らしい、青春の欠片(かけら)だ。
「ありがとうな」
僕はポケットの中の小さな雨に向かってそう呟いた。もう、「もしも」なんて望まない。あの日の後悔も、言えなかった言葉も、全部抱えて僕は生きていく。
僕は両手を空に向けて広げた。すると、ポケットの中に閉じ込められていた小さな通り雨が、すっと指の隙間からこぼれ落ちていくような気がした。それは夕暮れの街灯の光を浴びて、きらきらとダイヤモンドダストのように瞬きながら、秋の風に乗って空へと溶けていく。
「ふぅ……」
息を吐きながら空を見上げると、ビルとビルの間に、ほんの少しだけ小さな虹が架かっていた。
アスファルトからは、あの日の雨の匂いが立ち昇っていた。それはきっと、もう戻らない季節の匂いなんだと思う。だからこそ、未来(まえ)へ進まなければならない。
僕は、すっかり軽くなった両手をポケットに突っ込むと、しっかりと自分の足で、新しい季節が待つ家路へと歩き出した。
(了)
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