児童文学

つま先立ちの未来

2,111文字 約5分で読了
作者:森陰五十鈴
 ルベット家は商人を邸に呼び寄せるほどの財力はない。だから買い物は基本的に街に出ることになる。  その日もアリエッタは、キーラお嬢様と買い物に出ていた。目的は特になく、強いて言うならキーラの気晴らしのためだった。  お嬢様とはいえ、お小遣いは子ども用のそれ(それでも市民基準よりは多いが)。アリエッタが手に持てるだけの可愛らしい小物とお菓子を買った帰り道、キーラは突然ある店のショウウィンドウに貼り付いた。 「うわぁ……」  大きな目を輝かせて、キーラが見つめていたのは、白い円形のディスプレイに展示された靴だった。ラズベリー色のパンプス。淡いピンクの花のコサージュが付いている。華やかながらも少し落ち着きのあるその靴は、十代後半の娘たちへと向けたものだろう。  ただ一つ。その靴の踵が高かった。女性の拳くらいの高さがある。社交に出たばかりの娘に履かせるのにも、躊躇う高さだ。 「すてき……欲しいなぁ」  ねぇアリエッタ、とキーラはお付きのメイドを振り仰ぐ。アリエッタは苦笑しつつ首を横に振った。 「無理ですよ。お嬢様にはまだお早いです」  キーラは口を尖らせる。最近の彼女は、背伸びしたいお年頃。お子様扱いを嫌がられる。だから、アリエッタは付け加えた。 「お嬢様、まだヒールを履かれたことないでしょう?」  キーラは足元に視線を落とした。リボンの飾りが付いたシックな黒いパンプスには踵がない。  しかしキーラはキリッと顔を上げた。 「練習すれば、すぐに履けるようになるわ」  気概は結構だが、アリエッタとしてはやはり受け入れられない。 「いきなりあの高さは危険です。足を捻ってしまいますよ」  それでもキーラは諦めがつかないらしい。じとっとラズベリーのパンプスを見つめ続ける。窓に両手を付けて、片恋でもしているかのように、切なそうに。 「そんなに気に入ったんですか?」  アリエッタはさすがに困惑した。この靴はたった今見つけたばかりである。衝動的に欲しくなることはあるかもしれないが、執着するだけの理由が見当たらない。キーラは欲しい物は手に入れないと気がすまないという我儘な性質でもないので、なおさらだ。 「どうしてその靴が欲しいのですか?」 「マリアの靴に似ていると思ったの」  マリアとは、お嬢様が|聖典《バイブル》とみなすほど夢中になっている小説の主人公だ。爵位の低い家に生まれた少女が、成長とともに様々な逆境を乗り越えて幸せを掴む話。自立した精神を持つ彼女にキーラは強く憧れを抱いたようで、たびたびアリエッタに話を聞かせてくれた。というか、アリエッタも読まされた。  確かに、とアリエッタは物語を思い出す。この靴は、マリアがデビュタントを迎えたときの靴を思わせる。  だからといって、いきなりこの靴をキーラに履かせるのは躊躇われた。そもそも、キーラのお小遣いでは買える値段ではない。さすがにその辺りはキーラも理解しているようで、お父様におねだりしようかしら、と呟いている。  アリエッタは頭を捻った。仮にキーラの父が購入を認めてくれたとしても、今その靴を彼女の傍に置いておくことに、アリエッタは賛成できない。あればきっと無茶をしてでも履きたくなってしまう。怪我の要因となりかねない。  だから、お嬢様をひとまず諦めさせるだけの何かが必要だ。 「でしたら、お嬢様。来年のお誕生日のプレゼントにおねだりしてはいかがでしょう」  キーラは窓から視線を外し、アリエッタを見上げた。その眦がきりりと吊り上がる。キーラの誕生日はついこの間過ぎたばかりだ。つまり一年後ということになる。そんなに我慢させられるのか、と不満なのだろう。 「それまでにお嬢様は、その靴が似合うだけの淑女の振る舞いを身に着けましょう」  アリエッタは諭す。無理をして背伸びをしても、履きこなすことなどできはしない。ついでに、靴に合う服もない。せっかくの憧れの靴を手に入れても、悲しい思いをする可能性のほうが高いのだ。 「どうせなら堂々とその素敵な靴を履きたいと思いませんか?」  両手を窓に貼り付かせたまま、キーラは俯く。視線の先は、自らの足元だ。底が扁平な靴の踵を浮かせる。慣れないつま先立ちに、窓に両手をついていてもなお、まだ幼い身体はよろめいた。  現実と理想のギャップを、彼女はどう受け止めたのだろうか。 「……うん。そうね」  踵が地に着き、手がようやくショウウィンドウから離れた。可愛らしい顔に表情はなく、気落ちしているのは確かだった。アリエッタはそんな聞き分けの良い彼女を帰路へ促す。 「帰ったら、旦那様にお話しましょう。ご予約を取っていただかなければ」 「……うん!」  キーラの表情が少し明るくなる。決してその場しのぎで誤魔化されただけではないことが分かったからだろうか。  いきなり高いヒールの靴が欲しいと言われて面食らってしまったが、キーラが淑女教育に前向きになったのは良いことだとアリエッタは思う。ルベット家に生まれたからには、いずれ淑女の振る舞いを求められるだろうから。  そして、キーラが目指す淑女像を具体的に持ったのも良いことだ。  まずは、キーラがヒールに慣れるための、踵低めの靴を手配しなければ。  帰ったら奥様に相談しよう、とアリエッタは心に決めた。
2026/10/18 ・ 👁️ 20回 ・ 💬 0件

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