「ねえ、海に行こうよ」
彼女がふいにそんな事を言い出した。モノで溢れたおもちゃ箱みたいな六畳間、俺がインターネットで仕事の宣伝をしている横。からかうような可愛い視線が疲れ切った俺の顔を覗き込んでいる。
「海、いいでしょ? 最近、ずっと仕事が~って言って、ネットに張り付いてるじゃん」
「何で海なの? 山とかは?」
「山は嫌い。死にたくなるから」
そんなの海でも同じだろ。まあ、鬱蒼とした森の中を彼女と歩くというのは……想像すると何だか寒気がする。そのまま見知らぬ場所で山に食い殺される気がした。
「海はさ、平坦でしょ。遠くまで世界が見えて、海と空が曖昧で、波の音が優しい。だから、海が良いの。ねえ、ずっとうるさい場所にいて疲れてるの知ってるよ。だから、海に行こうよ」
彼女が微笑む。月の明かりみたいな柔らかい光を放つ、魔性の笑み。 確かに、ここ数日ずっとインターネットにいた。仕事の連絡と宣伝をしながら、インターネットの声に脳を揺さぶられていた。ネットは良くも悪くも、うるさい。人の声が、電子となって牙を向く場所。
「海、行くか」
釣られて言ってみた。すると彼女はとびきり嬉しそうに目を細め、そそくさと分厚い上着を着始めた。え、今から行くの?
「思い立ったが吉日、じゃない?」
細い手が差し伸べられる。この手を取れば、俺はうるさい雑踏の中から抜け出せると、不思議と思えた。迷いなく、手を取る。
「楽しみだね」
甘いその声と共に、俺は電子の海から裸足で逃げ出した。
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「じゃあ、家についたら連絡するね」
「うん、お疲れ様」
駅の改札をくぐり、急いでホームまでの階段をのぼる。
駅構内特有の生暖かい空気が頬と、かじかんだ指先を包む。
1歩、2歩、3歩と小刻みに段差をのぼるたびジャック・オッフェンバックが作曲した『天国と地獄』脳をかすめる。
今日は残業が長かった。
新しいプロジェクトのプロジェクトマネージャーになり数週間。
プロジェクトマネージャー自体は慣れている。
ただ、毎回新しいプロジェクトが立ち上がるたびに、感覚を掴むのが大変だ。
計画書の作成やスケジュールの設定。
そろそろ、実行フェーズに入れる。
この段階で残業とは、私が仕事ができないのだろうか…。
…いいや、考えるのはやめよう。
駅のホームが見えてきた。
シルバーの車体に赤色の帯が装飾されている。
見慣れた電車だ。
すでに、人は乗り始めている。
私は急いで、乗り込もうと走る。
頭の中ではヴァンゲリス『炎のランナー テーマ曲』が流れる。
間に合う、間に合う。
その瞬間、電車のドアが閉まった。
あ…、やばい、閉まる。
シャルル・グノーの『操り人形の葬送行進曲』が流れてきた。
私は会社の操り人形だ。
こんな時間まで、残業をし、挙句の果てには終電を逃した。
携帯のメッセージ音が鳴る。
「電車乗れた?」
あの子からの一言。
冷たくなって関節が動かない指で画面を操作した。
「乗れなかった」
「じゃあ、うち来る?ここ最近一緒にいれなかったし」
シュトラウスII『喜歌劇《こうもり》序曲』が流れる。
私はホームのベンチに座り、真顔で画面を操作する。
「いいの?」
「もちろん、じゃあ、駅の外で待ってるよ。明日はお休みだし二人でゆっくりしようよ」
「わかった。待ってて」
私は急いで、駅のホームをあとにする。
2段、4段、6段と大股に階段をくだる。
さっきまで冷たかった指先が、生暖かい空気のおかげか、熱をおび、頬は少し緩む。
久しぶりのお泊り、何をしようかな。
私は緩んだ頬を隠せないまま、あの子の元へ行く。
遠くからあの子の姿が見える。
エルガー『創作主題による変奏曲《エニグマ》』が大きな音で頭に流れる。
続きを読む
ある昼間の喫茶店で、パシーンと私の頬が軽やかに打たれた。
「甘ったれるな!」
そう怒鳴るのは、私の親友の一人である。しなやかな細い体つきで、背丈もそれなりにあるウルフカットの彼女は、目鼻立ちの整った顔を鬼のように歪ませていた。私を打った綺麗な手は、小刻みに震えている。
「けど、でも、でもさ……」
頬を打たれた私は、それでもヨロヨロと言葉を紡ごうとした。しかし、彼女はそれを「うるさい」の一言で断ち切ってしまう。
「アタシ達、もう終わったんだよ。あの人に、アタシ達は選ばれなかった。今はそれだけ。もし奪おうとしてるなら、アタシが許さない。あの人の幸せを壊す権利は、アタシ達にはないんだ」
彼女は私にハッキリとそう言った。そこで私は、この前行ったばかりの、ずっと好きだった同級生の結婚式を思い出す。
彼は幸せそうだった。私でもなく、目の前で顔を歪ませる彼女でもない、全く別の人と幸せそうに祝福のヴェールで包まれていた。それが、今までに見た景色の中で一番美しくて、とてつもなく忌々しかった。
「今すぐ前を向けとは言えない。でも、振り返っても追いかけても、皆不幸になるだけ。だったら、立ち止まって今ここで一生分泣き喚きなさい。通り過ぎた過去へ甘える前に……アタシに甘えてよ。アタシは、今ここにいるんだから」
ゆっくりと席に座った彼女は、放心状態となった私の手を握った。よく見れば、彼女の目元が濡れて光っている。ああ、貴女も、本当は悔しいんだね。それでも、弱音を吐かずに私に寄り添ってくれるんだね。優しくて、カッコよくて、可愛い私の親友。
彼女を前に、随分前から乾いていた頬に温かな涙が伝う。私達の恋が、幕を閉じる音がした。
続きを読む
思ったより体が動く。ハンドルを握る指も、震えていない。
「送ってくれなくてよかったのに」
「さすがに送らせてよ」
いつも以上にハンドルがべたつく。
いつも通っている道。
いつも通り、なかなか青にならない信号。
「あ、唯。赤になったよ」
「うん」
私はアクセルを踏む。
いつもだったら助手席に座るあなた。
今日は荷物があるから後部座席に座っている。
あと10分で駅に着く。
アクセルの踏みが甘くなる。
私は拒否をしなかった。
理由も、はっきりとはわからない。
引き留めもしなかった。
あなたは話すとき、淡々としていた。
だから、私も淡々と返事をした。
その数日後、役所に行き、手続きを済ませた。
それぞれ、家に帰った。
「はい、駅に着いたよ」
「ありがとう」
近くの駐車場に止め、私はあなたと一緒に駅に入る。
「荷物持つよ、重いでしょ」
「大丈夫だよ。気持ちだけ受け取るね」
「うん」
駅のホームに着く。
この季節特有の花粉が、目と鼻を刺激する。
天気予報は当たっていた。
こういうときに限って、薬を飲んでいない。
花粉症の私に比べて、あなたは平然としている。
光沢のあるシルバーのキャリーケース。
あなたによく似合う。
「あとどれくらいで電車がくる?」
「えーと、8分後だよ」
私はあなたと、最後の雑談をする。
「今日の夕飯は何食べるの?」
「うーん、決まってない。多分サラダかな」
あなたは野菜が好きで、
いろいろなドレッシングを揃えていた。
わさびドレッシングだけは、どうしても無理だった。
「今日もわさびドレッシング?」
「ううん、ヨーグルトドレッシング」
「そっか」
電車が来る。
風が起きて、鼻の奥がむず痒くなる。
「じゃあね」
「うん、バイバイ」
またね、は言わない。
視線を前に向けると、桜の花びらが舞っている。
少しだけ、目が痒い。
電車のドアが、あっけなく閉まる。
あなたはもういない。
私は目薬をさした。
続きを読む
ふと目が覚めた。
スマートフォンを確認すると深夜1:57。
「…最悪」
幼い頃から私は夜が苦手だった。
静かな夜に響く、冷蔵庫の機械音、バイクの走行音、ギシギシと鳴る家鳴り、それら全部が、やけに現実的に響く。
夜は寝ているのに、世界だけが進んでいるみたいで。
その感覚になんだか、胸がモヤモヤする。
思わずSNSを開く。
ボーっと眺めていると、様々なタイムラインが流れてくる。
「好きな人が夢にでてきますように!」「このドラマ面白い。」
良かった…。
私は、取り残されていない。
気になるタイムラインが流れてきた。
あの子の非公開アカウントだ。
「寝れない。暇だから誰かメッセージちょうだい。」
私は思わずメッセージを送る。
やっほ、私も寝れないんだよね。
良かったら話そうよ。
-2:06-
すぐに既読がつく。
やっほー!
全然いいよ!メッセージうれしい!
-2:07-
私たちは何気ない会話をラリーする。
コスメの話、ドラマの話、部活の話。
私はあの子に部活の話をする。
あ、明日の朝練何時からいく?
良かったら一緒に行こうよ。
-2:14-
いいよ。
じゃあ、駅のホームで待ってるね?
こんな時間だし寝坊したらダメだよ。
-2:15-
あの子と登校の約束をした。
逆に興奮して眠れないかもしれない。
ほんの少しだけ、世界が鳴った気がした。
嬉しくてしばらく、画面をボーっと見ていたら、あの子からメッセージがきた。
既読無視しないでー(笑)
-2:17-
私は思わずスマートフォンを触った。
それが間違いだった。
指先の操作を誤って、「大好き」というスタンプを送ってしまった。
そんなキャラじゃないのに…!
急いでメッセージを消した。
けれど、すでに既読は付いてしまった。
あの子からメッセージがくる。
スクショ撮っちゃったよ(笑)
-2:18-
メッセージと共にスクショが送られる。
…まじか。
続けてあの子からメッセージが届く。
このスクショお守りにするね!
明日の朝練楽しみにしてるね。
-2:19-
もっと素直になって良いんだからね…?
-2:20-
私は何も反応できずにいる。
じゃあ、おやすみなさい!
-2:21-
私はしばらく呆けたまま、震えた指で「おやすみ」と返信した。
世界は、私を中心に動きだした気がした。
続きを読む
王立学園の卒業祝賀会。本来なら、アレクシス王太子の隣に立っているのはエディット・ノーヴェル侯爵令嬢のはずだった。だが今夜、彼の腕に手を添えているのは、彼の色のドレスを纏ったリリィ・フラメル男爵令嬢だった。
それを見た時点で、エディットにはおおよその事情が察せられた。だからといって表情を崩すことはない。未来の王太子妃たる者、衆目の前で感情を露わにしてはならない――そう教えられて、もう十年近くになる。
「エディット・ノーヴェル侯爵令嬢。私は君との婚約を解消したい」
広間のざわめきが、一瞬にして消えた。壇上には国王夫妻もおり、その面前での宣言だった。
エディットは少しだけ目を伏せる。驚きはした。幼い頃から当然のように存在していた未来が、たった一言で消えたのだ。けれど、胸に痛みは感じなかった。そのことの方が、少しだけ寂しかった。
「理由を伺っても?」
「私たちの婚約は政略によるものだ。そこに愛はない。だが私はリリィを愛してしまった。そして、彼女も私を愛してくれている」
隣のリリィが頬を染める。
「私は、彼女と生きていきたい」
「承知いたしました」
「……それだけか?」
むしろアレクシスの方が戸惑った。
「殿下のおっしゃるとおり、わたくしたちの婚約は政略によるものでございましたから」
長年を共にした情はある。けれど、それを恋と呼べるかと問われれば、エディットには分からなかった。
「陛下がお認めになるのでしたら、わたくしから申し上げることはございません」
そう告げて壇上を見る。国王は眉間を押さえ、その隣でエリーサ王妃が微笑んでいた。ただし、あれは機嫌のよいときの笑顔ではない。
「アレクシス」
「はい、母上」
「その娘を次の婚約者にするつもりなのですね?」
「もちろんです。リリィを王太子妃にしたいと考えております」
そこで国王が重々しく口を開いた。
「王家とノーヴェル侯爵家との婚約を、余の許可も得ず破棄すると宣言した。その意味は理解しているな」
「……はい」
「これはお前ひとりの恋愛の話ではないぞ」
アレクシスの口が閉じた。先ほどまで真っ直ぐ国王を見ていた視線も、わずかに下がる。
続いて王妃がリリィへ視線を向けた。
「リリィ・フラメル嬢。あなたは王太子妃になるということでよろしいのですね?」
「はい。殿下をお支えしたいと思っています」
「では、王太子妃教育を受けていただきます」
「……教育?」
リリィの笑顔が固まった。
「一年です。一年後には最低限の公務を務められるようになっていただきます。それ以上は延ばせません」
「母上、さすがに一年では――」
「いいえ、一年です」
王妃はアレクシスの言葉を遮り、その笑みを消した。
「ですが、私はこの令嬢を教育いたしません」
「母上?」
「あなたが選んだのです。その選択に伴う責任を当然のように、誰かが引き受けてくれると思わないことです」
重い沈黙が落ちた。その中で、エディットは別のことを考えていた。
婚約は終わった。だが、自分が十年近くかけて身につけたものはどうなるのだろう。教師たちが費やした時間も、王家が投じた費用も、その多くは国庫から賄われたものだ。
「王妃殿下」
エディットは静かに一礼した。
「リリィ様の教育、わたくしにお任せいただけませんでしょうか」
「エディット?」
アレクシスが目を剥く。王妃も驚いたように彼女を見た。
「……理由を、聞いてもいいかしら」
「はい。殿下との婚約は政略によるもの。ですが、わたくしが受け取った教育まで無価値になったわけではございません」
エディットは胸元で手を重ねる。
「民から納められた税によって得たものです。使わず捨てるのは心苦しゅうございます。――だから、次の王太子妃となる方へ、お渡しできればと思います」
王妃はしばし黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……本当に、あなたという子は。分かりました。お願いします」
こうしてエディットの婚約は終わり、代わりに奇妙な役目がひとつ増えた。
***
翌朝。
「……寝過ごしましたわ!」
エディットは跳ね起きた。窓の外はすでに明るく、時計は八時を回っている。五時に起き、六時から登校まで勉強して、それから学園へ――そこまで考えて、止まった。
学園は昨日卒業した。王太子妃教育も、もうない。
「本日のご予定は午後からでございます」
侍女が告げる。
「……午前は?」
「何もございません」
「何も?」
そんな日が、これまで何度あっただろう。休日にも王太子との茶会や王妃への挨拶があり、教師が来ることも珍しくなかった。十年のうち、本当に自由だった日は数えるほどしかない。
「……もう一度、眠ってもよろしいかしら」
「もちろんでございます」
エディットはおそるおそる枕へ頭を戻した。目を閉じると、驚くほど簡単に眠りに落ちた。
***
数日後。
王宮の一室には、エディットが使ってきた教材が山のように積まれていた。
「……これを全部?」
「いいえ」
青ざめるリリィの前で、エディットは次々と教材を除いていった。
「古典は後回し。舞踏も最低限に。こちらも削れます」
リリィの顔が次第に明るくなる。やがて残った山を見て、王妃が尋ねた。
「ずいぶん減らしたのね」
「一年しかございませんので。これ以上減らしますと、公務を任せること自体が危険です」
リリィの笑顔が消えた。
授業は九時から十八時。昼休憩一時間。
「八時間なら……頑張れそうです」
「ええ、できるだけ無理のないよう組みました」
だが、初日の十八時。机に突っ伏しかけたリリィへ、エディットは紙束を差し出した。
「では、こちらが本日の宿題です」
「……宿題?」
「復習と、明日の予習です」
「この量を?」
「かなり減らしております」
嘘ではなかった。
一か月もすると、リリィはすっかり疲れ切っていた。
それでもエディットは無理をさせなかった。体調が悪ければ休ませ、できたことはきちんと褒めた。だからこそ、リリィにもこれが嫌がらせではないと分かっていた。
「エディット様。宿題を減らしていただけませんか」
「構いませんよ」
「本当ですか?」
「はい。その代わり、王太子妃としての公務を減らすよう、王妃様に許可を得てください」
リリィは黙り込む。
「……これ、全部必要なんですか?」
「いいえ」
リリィの顔に希望が浮かぶ。
「これが、必要最低限なのです」
その希望が消えた。
「エディット様は、頭がいいからできたんでしょう」
「いいえ。できるようになるまで、教わったのです」
エディットは首を振った。何度も間違えた。泣いたこともある。夜中まで机に向かったことも、一度や二度ではない。
「ただ、わたくしには十年近い時間がございました。今から一年で覚えなければならないあなたの方が大変です」
二か月目、とうとうアレクシスが口を出した。
「さすがに厳しすぎるのではないか」
「そうでしょうか」
「毎日八時間、そのうえ宿題まであるのだぞ」
「これでも、わたくしの頃よりはかなり余裕がございますが」
「君はどの程度だったんだ」
「朝五時起床、六時から登校まで勉強を。学園を終えてからは、再び王太子妃教育を受けておりました」
「夜まで?」
「時には日付を越えることもありました」
アレクシスが絶句する。
「休日は?」
「殿下とのお茶会などがございましたので」
「……私との?」
「はい」
アレクシスの表情が固まった。彼にとっては婚約者との穏やかな午後だったのだろう。エディットにとっても嫌な時間ではなかった。ただ、それもまた予定のひとつだった。
三か月目に入っても、リリィはどうにか机に向かっていた。
けれど、ある朝。リリィは王都から姿を消した。二日後、実家の男爵領へ戻ったことが確認された。残された手紙には、『王太子妃なんて私には無理でした。本当にごめんなさい』とだけ書かれていた。
アレクシスが迎えに行こうとしたが、国王が許さなかった。そして数日後、アレクシスは王太子の身分を解かれた。王族として一から学び直し、再び後継者とするにふさわしいかは、改めて判断されることになった。
「王太子という立場は、生まれだけで与えられるものではない」
国王の言葉に、アレクシスは黙って頭を下げた。
***
「申し訳ございません」
後日、エディットは王妃へ深く頭を下げた。
「お預かりしたものを、最後までお返しできませんでした」
一年どころか三か月で、リリィは去った。けれど王妃は首を横に振る。
「いいえ、エディット」
「ですが――」
「リリィ嬢は、自分が何を望み、何ができないのかを知ったわ。アレクシスも、自分がどれほど周囲に支えられていたのかを知りました」
そして、柔らかく笑う。
「あなたは、私たちがあなたに与えた以上のものを返してくれました」
エディットは、すぐには返事ができなかった。
十年間、王太子妃になるために学び、振る舞い、誰かの見本であろうとしてきた。それが、終わったのだ。
「……ありがとうございます」
いつものように微笑んだつもりだった。けれど、王妃は目を丸くした。
「あなた、そんなふうに笑う子だったのね」
「昔は、もう少しお転婆だったそうですわ」
「まあ。見てみたかったわ」
「今からでも遅くございませんでしょう?」
自分でも驚くほど軽い言葉だった。
その日の帰り、エディットは王宮の廊下でアレクシスに呼び止められた。
「私は君のことを何も知らなかった」
彼はもう王太子の装いではなかった。
「君が何をしていたのかも、それにどれほどの時間を費やしていたのかも」
アレクシスが少しだけ言い淀む。
「当然のように、君が隣にいると思っていた。……今さらだと分かっている。それでも、もう一度、私と婚約してくれないか」
エディットは少しだけ考えた。
以前なら、考える必要すらなかった。朝五時に起きて、学び、予定をこなし、期待に応える。それが自分の人生だと思っていた。
けれど今は知っている。朝、まだ眠ければ、もう一度布団へ潜ってもいい。読みたい本を読み、何もせず庭を眺める午後があってもいい。
「申し訳ございません、殿下」
「……なぜ?」
エディットは微笑んだ。
「わたくし、得がたい自由の味を知ってしまいましたの」
***
それからしばらく、エディットは社交界から距離を置いた。
新たな婚約者を探すこともなく、本を読み、庭を歩き、気が向けば昼寝をする。ときどき王妃に呼ばれてお茶を飲めば、以前よりずっとよく笑った。
そして、ある朝。
カーテンの隙間から差し込む光に目を覚ます。時計は八時を少し回ったところだった。以前なら、青ざめて飛び起きていただろう。
けれど今は。
「……まだ、少し眠いですわね」
エディットは布団を鼻先まで引き上げる。
そして迷うことなく、もう一度目を閉じたのだった。
続きを読む
あぁ、もう一度あなた様にお会いしとうございました。お会いしとうございました。
聞いてくださいまし。あなた様に初めてお会いした日を。その白い肌と絹糸のような細い黒髪が、薄紫の藤の花の着物が映えて、まるでこの世のものとは思えぬ花のようでございました。私はあなた様の女学校と同じ学校に入りました。
あなた様は一つ年上の先輩となりました。あなた様といた2年間がどれほど輝いていたことでしょう。素晴らしき日々はあっという間に失われ女学校を卒業した後、あなた様が結婚したことを知りました。
私はどれほど悲しみにくれた事でしょう。
女同士の恋など、どうして認められましょうか。それにこれは一方的な私の片思いでございます。初めからかなわぬ恋。この秘めたる恋心を一体誰に打ち明けられましょうか。
私は決して誰にも悟られぬように、ですがこの恋心を胸に閉じ込めたまま生き続けるのはあまりにも辛うございました。
この手紙は誰にも見せるものではございません。ましてあなた様の目に触れられようものならきっと私は死んでしまうでしょう。誰にも言えぬこの想いをここにしたためる次第でございます。
あなた様の幸福を何よりもお祈り申し上げております。どうかこの手紙を、したためることをお許しください。
私もまたお嫁に参ります。お相手の方は知りません。でも顔の知らない私のことを受け入れてくださる方です。その方のために生きていきたいと思います。
さようならさようなら私の大切なあなた様へ
古い金庫の中から出てきたその手紙はおそらく曾祖母のものだったのだろう。
私は隣の伴侶の手をぎゅっと握った。
時代が違えば私たちのように愛しあうこともできただろうに。
宛先は読めなくなっていた。
涙でにじんで……
続きを読む
気だるい日常。
意味のない、何も変わらない毎日。
言葉と数字で埋め尽くされた黒板を見ているだけの
退屈すぎる時間が、どんどんとあたしの心を蝕んでいく。
「……はあ。つまんない」
あたしはため息をついて、周りを見渡した。
くだらないモブたちは
あたしの引き立て役にもならなくて、
本当に灰色のつまらない世界が
あたしの人生を形成していく。
先生の声も、
黒板を走るチョークの音も、
いつしか遠くなっていった。
頬杖をついたまま、あたしはそっと目を閉じた。
――まだ、小学生だった頃。
「待てって! 置いてくなよ!」
ランドセルを揺らしながら、
悠真が後ろから走ってくる。
「遅いからだよ。もう置いてくからね」
「ひでえ! 幼馴染だろ!」
「知らない。勝手に幼馴染になっただけじゃん」
「幼馴染って、勝手になるもんだろ?」
「……っ、うっさい」
あの頃は、くだらないことで笑っていた。
そんな毎日を、今では懐かしく感じる。
学校からの帰り道。
道端に転がっていた石を蹴って、
どっちが遠くまで飛ばせるか競ったり。
あたしが転べば腹を抱えて笑うくせに、
膝から血が出ているのを見つけたら、
急に真面目な顔をして絆創膏をくれたり。
そんな悠真のことを――
あたしは、確かに好きだった。
いつからだろう。
クラスが離れて、
話す回数が減って、
お互いに違う友達ができて。
いつの間にか、
好きだったことさえ昔の出来事になったんだ。
悠真のいない帰り道にも慣れて、
それが普通になっていった。
……そうだ。
あたし、あいつのこと好きだったんだっけ。
「――おい。授業終わったぞ」
「……んぁ?」
顔を上げると、教室には
帰り支度を始める生徒たちがいた。
……なんだ、夢か。
……最悪。
よりによって、なんであいつなんか。
「終わったら、さっさと帰ろ」
鞄に荷物を詰め込んで、
何事もなかったかのように去っていく。
はじめから、ここには
あたしなんていなかったと思わせるくらいに。
これだけが、あたしの
学校における日常の中で唯一のしあわせなのだ。
誰に邪魔されることもなく、帰路につける。
純粋に、ただ、まっすぐに。
すると、そこで呼び止められた。
「……澪、ちょっといいかな」
苛立ったあたしが振り向く。
そこにいたのは――
さっき夢にまで出てきやがった、
小学校からの幼馴染、悠真だった。
悠真は、驚いた顔であたしを見つめていた。
そりゃそうだ。
あたしはいま、あの退屈から抜け出して
しあわせになれる瞬間を謳歌しようとしていたのに。
なにを邪魔してくれてんだ。
ふざけんのも大概にしろ。
……それに。
なんで今日に限って、お前なんだよ。
おいおい、変な感情を放り込んでくれるなよ。
ただでさえ、こちとら感情がごちゃごちゃしてんのに。
「……なに」
声が裏返ってしまった。
誰かと話すのが久しぶりだったのだ。
でも、それだけじゃない。
あたしの声には、他の感情も混ざっていた。
おいおい、嘘だろ。
まさかすぎるだろ。
震える声。
気持ちの戸惑い。
汗ばむ手のひら。
なんか変に、焦りまで感じ始めてしまう。
「お前さ、字綺麗だから……これ、書いてくれない?」
「……はぁ?」
なんだ、お前。
何なんだ。
手紙かなんか知らないけどさ、
文面だったらてめえで書けよ。めんどくさい。
なんであたしがこんなこと……。
話を聞くと、好きな子がいるらしい。
けれど、自分で恋文を書く勇気はない。
おまけに字が汚すぎて、自分で書いた文字すら
後から読めなくなることがあるらしく、
あたしに泣きついてきたのだとか、ぬかしやがるのだ。
殴っていいよね?
ほんとにさ。
「なんであたしが……。こういうのって、自分で書かなきゃ……」
「頼む!」
間髪入れずに遮りやがって。
いまはあたしのターンだろ。
断らなかった、あたしもあたしで腹が立つ。
好きな子が誰なのか聞くのも忘れたし、
ほんとに自分で書いたらどうなんだ。
少しくしゃっとノートの切れ端を握る。
すると、手汗が紙を泣かせてしまう。
「……ああ、もう」
頭をかいて、紙を鞄にしまった。
不貞腐れた仮面をつけて、
あたしはいらいらしながら帰宅した。
しあわせな時間なんて、
とっくに腐って滅んでる。
こういうのって、なにを書くんだ。
待てよ……。
あたし、誰かと話すのは久しぶりだけど、
手紙なんて書いたことあったか?
さすがに鉛筆じゃ駄目だよな。
それともボールペン……。
でも、間違えたらめんどくさいし。
だいたい、お前の気持ちはどうすんだ。
あたしの気持ちをペンに抱かせたって、
全くもって意味ないじゃん。
……やばい。
全然進まない。
とりあえず、書くだけ書いて振られても、
あたしはやることやったんだ。
あとは悠真に任せよう。
知らん知らん。
これ以上、あたしの時間を奪うなよ。
紙を睨みつけながらペンを握ってみたけれど、
意外と出てこないもんなんだよな。
あたしは、当たり障りのない文章で
紙を埋め尽くしていった。
標準語。
テンプレートのお決まり文句。
美化しすぎた言葉たち。
きらきらしてて、吐き気がするわ。
やめだ、やめ。
なんで、
あたしがこんなことをしなくちゃいけないんだ。
このまま破り捨ててしまおうか。
完成した文面を見て、あたしは嘲笑う。
あたし、性格終わってんな。
まじで。
気にすることなく、
くしゃくしゃに丸めてゴミ箱にそのまま捨てた。
やっぱりあたしには無理だった。
誰かのために何かをしたり、求められたり。
なんで、あたしなの?
他にも頼る人ならいるじゃんか。
あれから数時間が経ち、
あたしの時間はさらに狂って、調子が出ない。
悠真さえ、話しかけてこなければ……。
もやもや、いらいらしっぱなしで
全くもって落ち着かない。
深く、長すぎるため息が街中を包み込む。
……ああ、もう。
分かったよ。
書けばいいんでしょ、書けば。
ぶつくさ言いながら、
大事にしていた、好きなバンドのライブで買った
限定の便箋を取り出した。
「……まさか、こんなところで使うことになろうとは」
よく考えてみると、
あたし自身のこともそうだけど、
誰のこともよく知らない、分からないままだった。
悠真を自分だと思い込んで、
文面を書いてみることにした。
手も、心も、時間も止まってしまった。
何も出てこない。
どうして。
さっきまで文句なら、あんなに出てきていたのに。
冷蔵庫から紅茶を出して、
一気に飲んで、ひと息ついた。
誰に出すかは聞かなかったから、
名前は伏せて書いたらいっか。
そして、もう一度ペンを握る。
「あなたを思うと、自分が自分じゃないようで。
授業はおろか、食事にも集中できなくて、
好きなことをしていても楽しくなくて、
あなたのことばかり考えてしまう。
あなたのことが好きなんです。
ぼくとお付き合いしてください」
……こんなもんでいいだろうか。
改めて見ると、恥ずかしい。
考えれば考えるほど、悠真が頭から離れない。
ちょっと待ってよ。
これは手紙を頼まれたから……。
え。
うそ。
やだやだ。
好き……じゃないよな。
ちょっと待ってよ。
焦りまくって、手紙を落とした。
鏡を見ると、
自分じゃなくなったみたいなあたしの姿が、そこに映っていた。
「だれ……あんた。あ、あたしか」
戸惑って、変なことまで言っちゃうし。
急に意識しすぎると、
鼓動の音がうるさくて。
その頃、時間は真夜中で。
落ち着かないあたしは、
コンビニに行くことにした。
点滅してる信号が、
あたしのこころと呼応するみたいに瞬いている。
余計なお世話だ。
黙ってろ。
ドキドキドキドキ。
その場でしゃがみ込んで、泣きそうになる。
嘘だよ……。
前は確かに好きだったけど。
こんなふうに思い出して、
見つめ直しただけで、こんなことありえるの?
あたしの平穏はどこへやら。
やりたいゲームも、
課題も、
趣味も、
部活も。
全部、中途半端に止まって。
優柔不断で、投げ出すことが多いけど。
これだけはちゃんとできたから。
明日、会ったらちゃんと渡そう。
翌日、学校に行って、悠真を呼び出した。
「……これ。で、できたから……」
あたしの心臓が高鳴って、
破裂しそうなのは言うまでもなく。
「おう! サンキュウな!」
手紙を受け取ると、
悠真は走ってどこかへ行ってしまった。
軽すぎんだろうが。
もっと崇めろ。
しあわせを犠牲にして仕上げてやったんだ。
感謝しろよ、まじで。
こんな言葉ならずらずらと出てくるのに、
素直になれないあたしが嫌だ。
この日の授業も退屈で、
あたしはまっすぐ、すぐ帰る。
今日こそは……。
いつものように鞄に荷物をしまって、
何事もなかったかのように去っていく。
やっぱり、これがあたしらしい。
気持ちよくて、清々しくて。
自分の靴に履き替えたら、
あとは自宅に向かって歩いていくだけだ。
雑念も、雑音も、
全部シャットダウンしちゃってさ。
自分の下駄箱に手を伸ばすと、
何かが手に当たった。
「え、なに。怖いんだけど」
取り出してみる。
あたしが書いた手紙だった。
え、うそ。
不備あった?
ちゃんと書いたはずだけど。
慌てて中身を確認する。
そこには、
あたしの名前――『澪』がびっしりと書き込まれていた。
そして最後の最後。
悠真の字で、たった一言。
『大好きです。』
またしても、あたしの時間が止まる。
顔が熱い。
きっと真っ赤だ。
動けない。
「……ふざけんな。」
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今日は、彼女が来る日。
付き合い始めて、2回目の来訪。
私は朝から部屋の掃除をし、彼女が来るのを待つ。
来るのは、15時。私は汚くもないのに無駄に部屋を片付ける。
最後の一冊の本を本棚にしまい、掃除が終わる。
お菓子ある。夕飯の材料もある。彼女が好きなポテトも。
チャイムが鳴った。
私は、いつもより音を立てて玄関へ向かう。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
彼女は、昨日まつエクサロンに行ったらしい。
彼女の睫毛を見ると、ブラウンのナチュラルにしたみたいだ。
化粧と相まっていつも以上に柔らかい印象。
「あ、ポテトあるよ。今揚げるね」
「そうなの?ありがとう」
私はポテトを揚げ始める。
「私ポテト好きなんだよね」
知っている。
付き合う前から、外食した時にポテトばかり食べているから。
テーブルの上にポテトが乗った皿を置く。
「ありがとう」
そう言いながら、彼女はポテトを口に運ぶ。
彼女の口は小さい。
本人は少し気にしているけど、私はよく視線が吸い込まれてしまう。
一本目を食べ終える。
彼女はすぐに二本目に行かず、ポテトの上で手を泳がせている。
熱かったらしい。
二本目をとった。
息を吐く。少し浅い息。
私は、それを見ていた。
別に珍しいことじゃない。
ポテトは揚げたてだし、誰だって熱い。
なのに、なぜか目が離せなかった。
ケチャップを付けようとして、少しだけ指先に赤が付く。
彼女は気付かない。
私はトマトが好きだ。
だから、気付いた。
ナプキンを手渡そうと思った。
思っただけだった。
私は、彼女の手元から目が離せない。
彼女の爪は長い。普段ネイルをしている。
私は何気なく自分の爪を見た。
長いけれど、切れば大丈夫。
二本目を食べ終える。
彼女は塩を落とさないように指先を揃える。
少し、塩っ気がある方が好きらしい。
私はそれを見ていた。
ポテトを見ていたわけじゃない。
彼女の指先を見ている。唇を見ている。
私は自分の爪を見た。
ほんの少し指を動かした。
「食べたら?」
彼女が言う。
指の動きが見えたらしい。
「うん」
私はポテトを食べる。
味はした。でも、何の味かはわからない。分からなくていいと思った。
お互いに無言でポテトを食べる。
私は、彼女の指を見ながら。
彼女のネイルは、薄いピンク。
私は、前日に自分のネイルを落としてよかったと安堵する。
今さら見ることじゃない。
彼女の指も、唇も、付き合う前から同じだった。
ポテトを食べ終える。
「ねぇ」
「なに」
「ずっと私のこと見てたでしょ」
彼女には、ばれていたらしい。
私は、そっと窓の外を見た。
窓の外は既に暗くなっていた。もう冬だから日が沈むのが早いらしい。
彼女がナプキンで指先を拭く。
でも、少しだけ赤が残った。
彼女は手を私に見せている。
「手、洗おうか」
「うん」
私は、電気を消して、彼女の赤がついた手を取った。
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「そういえば、貴方、シルバーウィークに予定はあるんですか」
金曜の夜九時を過ぎた頃。テレビを見ている私の横でスケジュール帳に何やら書き入れている彼が言った。
「何だ? そりゃ独居の初老への皮肉かい。休みの日とシルバーとを掛けて……ううむ、皮肉屋になったものだね、君も」
「ち、違いますよ! 僕は普通に予定を聞きたかっただけですッ! まったく……!」
私の鬱陶しい突っ掛かりに全力で乗っかってくる彼の若々しさと来たら。可愛くて、目に入れても痛くないや。
「君は本当に私を飽きさせないね。で、シルバーウィークとやらの予定だが、今のところかポッカリ空いているよ。ああ、もしかしてデートにでも誘ってくれるつもりかな?」
わざとらしく笑ってやると、彼は目を見開き、すぐに視線を逸らした。顔が赤い。あれまあ、図星だったのか。
「……そ、そうだと言ったらどうするんです」
ぎこちない彼の言葉は、一層可愛らしくて頬が緩んだ。
「ふふ……うむうむ、君がどうしてもというのならそのデートに乗ってやろう。勿論、とんでもなくスリリングな場所へ連れて行ってくれるんだろうね」
私が顔を寄せると、彼は困った様に小さく笑った。
「そんな所に行って、貴方に倒れられたら困りますよ。僕は出来るなら、何にもない公園で貴方とのんびり散歩がしたいです。それからお互いの事を、もっと話しませんか」
真摯な言葉の数々に、私は目を丸くして固まった。愛おしそうな目をして……可愛い子だな。私はため息をついて肩をすくめる。
「……そっちの方が、心臓に悪いというものだ」
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