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婚約破棄された結果、得がたい自由の味を知ってしまいました
4,276文字
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王立学園の卒業祝賀会。本来なら、アレクシス王太子の隣に立っているのはエディット・ノーヴェル侯爵令嬢のはずだった。だが今夜、彼の腕に手を添えているのは、彼の色のドレスを纏ったリリィ・フラメル男爵令嬢だった。
それを見た時点で、エディットにはおおよその事情が察せられた。だからといって表情を崩すことはない。未来の王太子妃たる者、衆目の前で感情を露わにしてはならない――そう教えられて、もう十年近くになる。
「エディット・ノーヴェル侯爵令嬢。私は君との婚約を解消したい」
広間のざわめきが、一瞬にして消えた。壇上には国王夫妻もおり、その面前での宣言だった。
エディットは少しだけ目を伏せる。驚きはした。幼い頃から当然のように存在していた未来が、たった一言で消えたのだ。けれど、胸に痛みは感じなかった。そのことの方が、少しだけ寂しかった。
「理由を伺っても?」
「私たちの婚約は政略によるものだ。そこに愛はない。だが私はリリィを愛してしまった。そして、彼女も私を愛してくれている」
隣のリリィが頬を染める。
「私は、彼女と生きていきたい」
「承知いたしました」
「……それだけか?」
むしろアレクシスの方が戸惑った。
「殿下のおっしゃるとおり、わたくしたちの婚約は政略によるものでございましたから」
長年を共にした情はある。けれど、それを恋と呼べるかと問われれば、エディットには分からなかった。
「陛下がお認めになるのでしたら、わたくしから申し上げることはございません」
そう告げて壇上を見る。国王は眉間を押さえ、その隣でエリーサ王妃が微笑んでいた。ただし、あれは機嫌のよいときの笑顔ではない。
「アレクシス」
「はい、母上」
「その娘を次の婚約者にするつもりなのですね?」
「もちろんです。リリィを王太子妃にしたいと考えております」
そこで国王が重々しく口を開いた。
「王家とノーヴェル侯爵家との婚約を、余の許可も得ず破棄すると宣言した。その意味は理解しているな」
「……はい」
「これはお前ひとりの恋愛の話ではないぞ」
アレクシスの口が閉じた。先ほどまで真っ直ぐ国王を見ていた視線も、わずかに下がる。
続いて王妃がリリィへ視線を向けた。
「リリィ・フラメル嬢。あなたは王太子妃になるということでよろしいのですね?」
「はい。殿下をお支えしたいと思っています」
「では、王太子妃教育を受けていただきます」
「……教育?」
リリィの笑顔が固まった。
「一年です。一年後には最低限の公務を務められるようになっていただきます。それ以上は延ばせません」
「母上、さすがに一年では――」
「いいえ、一年です」
王妃はアレクシスの言葉を遮り、その笑みを消した。
「ですが、私はこの令嬢を教育いたしません」
「母上?」
「あなたが選んだのです。その選択に伴う責任を当然のように、誰かが引き受けてくれると思わないことです」
重い沈黙が落ちた。その中で、エディットは別のことを考えていた。
婚約は終わった。だが、自分が十年近くかけて身につけたものはどうなるのだろう。教師たちが費やした時間も、王家が投じた費用も、その多くは国庫から賄われたものだ。
「王妃殿下」
エディットは静かに一礼した。
「リリィ様の教育、わたくしにお任せいただけませんでしょうか」
「エディット?」
アレクシスが目を剥く。王妃も驚いたように彼女を見た。
「……理由を、聞いてもいいかしら」
「はい。殿下との婚約は政略によるもの。ですが、わたくしが受け取った教育まで無価値になったわけではございません」
エディットは胸元で手を重ねる。
「民から納められた税によって得たものです。使わず捨てるのは心苦しゅうございます。――だから、次の王太子妃となる方へ、お渡しできればと思います」
王妃はしばし黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……本当に、あなたという子は。分かりました。お願いします」
こうしてエディットの婚約は終わり、代わりに奇妙な役目がひとつ増えた。
***
翌朝。
「……寝過ごしましたわ!」
エディットは跳ね起きた。窓の外はすでに明るく、時計は八時を回っている。五時に起き、六時から登校まで勉強して、それから学園へ――そこまで考えて、止まった。
学園は昨日卒業した。王太子妃教育も、もうない。
「本日のご予定は午後からでございます」
侍女が告げる。
「……午前は?」
「何もございません」
「何も?」
そんな日が、これまで何度あっただろう。休日にも王太子との茶会や王妃への挨拶があり、教師が来ることも珍しくなかった。十年のうち、本当に自由だった日は数えるほどしかない。
「……もう一度、眠ってもよろしいかしら」
「もちろんでございます」
エディットはおそるおそる枕へ頭を戻した。目を閉じると、驚くほど簡単に眠りに落ちた。
***
数日後。
王宮の一室には、エディットが使ってきた教材が山のように積まれていた。
「……これを全部?」
「いいえ」
青ざめるリリィの前で、エディットは次々と教材を除いていった。
「古典は後回し。舞踏も最低限に。こちらも削れます」
リリィの顔が次第に明るくなる。やがて残った山を見て、王妃が尋ねた。
「ずいぶん減らしたのね」
「一年しかございませんので。これ以上減らしますと、公務を任せること自体が危険です」
リリィの笑顔が消えた。
授業は九時から十八時。昼休憩一時間。
「八時間なら……頑張れそうです」
「ええ、できるだけ無理のないよう組みました」
だが、初日の十八時。机に突っ伏しかけたリリィへ、エディットは紙束を差し出した。
「では、こちらが本日の宿題です」
「……宿題?」
「復習と、明日の予習です」
「この量を?」
「かなり減らしております」
嘘ではなかった。
一か月もすると、リリィはすっかり疲れ切っていた。
それでもエディットは無理をさせなかった。体調が悪ければ休ませ、できたことはきちんと褒めた。だからこそ、リリィにもこれが嫌がらせではないと分かっていた。
「エディット様。宿題を減らしていただけませんか」
「構いませんよ」
「本当ですか?」
「はい。その代わり、王太子妃としての公務を減らすよう、王妃様に許可を得てください」
リリィは黙り込む。
「……これ、全部必要なんですか?」
「いいえ」
リリィの顔に希望が浮かぶ。
「これが、必要最低限なのです」
その希望が消えた。
「エディット様は、頭がいいからできたんでしょう」
「いいえ。できるようになるまで、教わったのです」
エディットは首を振った。何度も間違えた。泣いたこともある。夜中まで机に向かったことも、一度や二度ではない。
「ただ、わたくしには十年近い時間がございました。今から一年で覚えなければならないあなたの方が大変です」
二か月目、とうとうアレクシスが口を出した。
「さすがに厳しすぎるのではないか」
「そうでしょうか」
「毎日八時間、そのうえ宿題まであるのだぞ」
「これでも、わたくしの頃よりはかなり余裕がございますが」
「君はどの程度だったんだ」
「朝五時起床、六時から登校まで勉強を。学園を終えてからは、再び王太子妃教育を受けておりました」
「夜まで?」
「時には日付を越えることもありました」
アレクシスが絶句する。
「休日は?」
「殿下とのお茶会などがございましたので」
「……私との?」
「はい」
アレクシスの表情が固まった。彼にとっては婚約者との穏やかな午後だったのだろう。エディットにとっても嫌な時間ではなかった。ただ、それもまた予定のひとつだった。
三か月目に入っても、リリィはどうにか机に向かっていた。
けれど、ある朝。リリィは王都から姿を消した。二日後、実家の男爵領へ戻ったことが確認された。残された手紙には、『王太子妃なんて私には無理でした。本当にごめんなさい』とだけ書かれていた。
アレクシスが迎えに行こうとしたが、国王が許さなかった。そして数日後、アレクシスは王太子の身分を解かれた。王族として一から学び直し、再び後継者とするにふさわしいかは、改めて判断されることになった。
「王太子という立場は、生まれだけで与えられるものではない」
国王の言葉に、アレクシスは黙って頭を下げた。
***
「申し訳ございません」
後日、エディットは王妃へ深く頭を下げた。
「お預かりしたものを、最後までお返しできませんでした」
一年どころか三か月で、リリィは去った。けれど王妃は首を横に振る。
「いいえ、エディット」
「ですが――」
「リリィ嬢は、自分が何を望み、何ができないのかを知ったわ。アレクシスも、自分がどれほど周囲に支えられていたのかを知りました」
そして、柔らかく笑う。
「あなたは、私たちがあなたに与えた以上のものを返してくれました」
エディットは、すぐには返事ができなかった。
十年間、王太子妃になるために学び、振る舞い、誰かの見本であろうとしてきた。それが、終わったのだ。
「……ありがとうございます」
いつものように微笑んだつもりだった。けれど、王妃は目を丸くした。
「あなた、そんなふうに笑う子だったのね」
「昔は、もう少しお転婆だったそうですわ」
「まあ。見てみたかったわ」
「今からでも遅くございませんでしょう?」
自分でも驚くほど軽い言葉だった。
その日の帰り、エディットは王宮の廊下でアレクシスに呼び止められた。
「私は君のことを何も知らなかった」
彼はもう王太子の装いではなかった。
「君が何をしていたのかも、それにどれほどの時間を費やしていたのかも」
アレクシスが少しだけ言い淀む。
「当然のように、君が隣にいると思っていた。……今さらだと分かっている。それでも、もう一度、私と婚約してくれないか」
エディットは少しだけ考えた。
以前なら、考える必要すらなかった。朝五時に起きて、学び、予定をこなし、期待に応える。それが自分の人生だと思っていた。
けれど今は知っている。朝、まだ眠ければ、もう一度布団へ潜ってもいい。読みたい本を読み、何もせず庭を眺める午後があってもいい。
「申し訳ございません、殿下」
「……なぜ?」
エディットは微笑んだ。
「わたくし、得がたい自由の味を知ってしまいましたの」
***
それからしばらく、エディットは社交界から距離を置いた。
新たな婚約者を探すこともなく、本を読み、庭を歩き、気が向けば昼寝をする。ときどき王妃に呼ばれてお茶を飲めば、以前よりずっとよく笑った。
そして、ある朝。
カーテンの隙間から差し込む光に目を覚ます。時計は八時を少し回ったところだった。以前なら、青ざめて飛び起きていただろう。
けれど今は。
「……まだ、少し眠いですわね」
エディットは布団を鼻先まで引き上げる。
そして迷うことなく、もう一度目を閉じたのだった。
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