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967文字 約2分で読了

次の日に何をしよう

 音が止まる。  窓を叩く風の音が止まる。  テレビが止まる。  「……?」  急に全てが止まった。  ふと、腕時計を見る。  19時45分19秒。  そこで秒針が止まっている。  外に出てみる。  全てが止まっていた。  歩く人、落ちかけの葉っぱ、今にも走り出しそうな飼い犬。    ……これはいわゆるSFの時間停止?  とりあえず、家に帰ろう。  冷蔵庫も止まっていた。  何も起きない。だから、何もしない。   ────  それから何回も、19時45分19秒に世界が止まる。  この能力を使っている人はなにか制約があるのだろう。  暇だからぼーっとする。    なぜ止めるんだろう。何かしたいのかな。  犯罪じゃなければいいけれど。  世界が止まっている時間は測れないけど、あまり長くない気がする。  長くても体感30分くらいで日によってバラバラだ。  ぼーっとテレビを見る。  瞬きもせず、口を半開きのままの芸能人。  瞬きしないなんてすごいなぁ。  そりゃそうか、時間が止まっているからね。  私もこの時間停止の間になにか有意義なことをしようかなぁ。  今まで埃を被っていた『アルジャーノンに花束を』を手に取る。  賢くなった気分だけが残る。  でも、明日になったら忘れるだろう。    ────  19時45分19秒。  今日も時間が止まった。  私はいつもの通り、『アルジャーノンに花束を』を開く。  ふと、誰かが家に入った音がする。    時計を確認する。  19時45分19秒。    気づいた。私の家に時間停止した本人がきた。  私は、好奇心で時間が止まったふりをする。  姿勢はどうしよう、本を読んでいて、ふと前を見る姿勢になろう。  そうしたら顔が見える。  ドアがノックされる。  はーい、と内心返事をしながら待つ。  ドアが開く。 「……凛?」  聞き慣れた声。  顔が動かせないが声の主が分かった。  恋人の瑠美の声。 「…あ、凛もやっぱり止まってる」  止まってないよ。  内心冗談を言いながら、瑠美が何をするかドキドキする。  瑠美はそっと、私の髪の毛に触れ、優しく撫でる。  思わず、顔を見そうになる。  そして、瞬きがしたい。 「かわいいね」  ありがとう。  瑠美もかわいいよ。  顔が近づいてくる。  凛の吐息が、唇にかかる。  あ…キスされる。 「初めては、やっぱり凛の意識があるときがいいかな。またね、凛」  私の頬を撫でた後に、ドアノブに手をかける。 「…意気地なし」  私は、小声でつぶやく。  瑠美が、こちらを向いた。  明日は瞬きしてみよう。  キスされる前に。
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作者:ReiN.
2026/10/24 • 👁 4回 • 💬 0件
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1499文字 約3分で読了

秘密の手紙

 書斎の奥の本棚の向こうに隠し部屋があることに気がついたのは家をリフォームしようとした時だった。 大正時代に建てられた我が家は、県の文化財になっているために簡単にリフォームというわけにもいかないので申請して随分と時間がかかった。 本棚をどけて、奥に隠れていた扉を眺める。 引き戸になっているのだが後からつけたと思われる南京錠と錆びついた細い鎖とそれをつないでおく金具。正直に言ってドライバーで金具を外してしまいたいと思ったのだが、文化財である以上勝手なことをするわけにもいかない。結局鍵の専門家の業者に来ていただいて傷つけることなく南京錠を開いた。 隠し部屋と言っても大したものではない。3畳ほどの広さに本棚が一つポツンと置いてある。 隠し部屋という大層なものではなくて、ちょっとした物置だったのかもしれない。だが正直家の中から自分の知らない場所が出てきたことに戸惑いと驚きと何とも言えぬワクワク感が胸を支配していた。  子供が小さな宝物を見つけたみたいな感覚だ。 もっとも子供の宝物なんてちょっと変わった木の実とか綺麗な小石とか、ラムネ瓶の中のビー玉とかそんなものだ。 大したものは入っていないだろう。 そう思いつつそっと中に入ってゆく。  一緒に入ったのは私ばかりではない、妻や息子や母つまり家族全員ということだ。 本棚には数冊の本が並んでいた。 家族とともにその本をリビングに持って行く。 一体何が書いてあるのだろう? 私はそっとページを開いた。 万年筆で書かれたものだろうか、古びていたがインクの匂いがする。黄ばんでボロボロの本の紙はそれでも インクで書かれた文字をはっきりと残していてくれた。 内容は日記らしかった。  最もその内容はといえば、おそらくこれは愚痴なのだろう。 最近の流行歌の『ラッパと娘』が好きだが蓄音機でそれを聞いていたら父に怒られてしまった。素晴らしい曲なのに父は理解ができないからといって何もかもを否定してしまう。本当に頭が固い。金槌みたいに釘が打てるんじゃないのか。 なんてことが書いてある。  私は少し可笑しかった。 これを書いたのは私の祖父だろうか。 そういえば私も十代の頃CDを買って聞いていたら、その曲を気に入らなくて父親が文句を言っていたっけ。 案外私は祖父に似てるのかもしれない。 口元にほんのりと笑みが浮かぶ。 これが書かれたのがいつ頃なのかわからないけれど、きっと私と 変わらぬ十代の頃を過ごし同じように大人になっていったに違いない。  日記とともに手紙の束も出てきた。 どうやらこれは女性からの恋文らしかった。 綺麗な毛筆で書かれている。 私は便箋から手紙を出して開いてそのことに気がついた。 そっと丁寧にたたんでまた便箋の中に直す。 ……この手紙は読んではいけない。 おそらくこれは祖母のものなのだろう。 そこに書かれている恋心に触れてはいけない。 誰にだって見られたくない 大切な思いはあるものだ。 私はそれを読んではいけないと思った。 きっと麗しき乙女だった頃の祖母が祖父に宛てたものなのだろう。 私たち家族はしばらくの間リビングで日記や手紙の話そしてそれ以外に出てきた本の話をしていた。それらのものをどういう風に保存するかと出てきた部屋をどうするか。 やはりここも綺麗に掃除してその後リフォームをお願いして、クローゼット代わりに使うのが一番いいだろうという結論になった。 日記や手紙や本はまた大切に保存しておこう。 家族と話し合いそういう様な話になった。  だが私は手紙の束を持って仏壇へと向かった。 そっと手紙を供えると、線香をつける。 ゆっくりと立ち上る線香の煙とともに手紙とそこに込められた想いが祖父のもとに届きますようにと祈りを込めて。
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作者:しとえ
2026/10/23 • 👁 14回 • 💬 0件
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152文字 約1分で読了

停電

停電した部室で二人っきり。 懐中電灯の光で一緒に過ごす。 どうしよう、ちょっとドキドキする。 「暗いと困るよね。もしかして怖い?」 君は優しく私に微笑みかけてくれる。 私は頷いた。 本当は怖いんじゃなくて、君と一緒にいたらドキドキしてそれどころじゃないんだ。 きっと君は気づいていない。 ……だって女の子同士なんだもん。
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作者:しとえ
2026/10/23 • 👁 24回 • 💬 0件
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1486文字 約3分で読了

友達以上恋人未満

僕と彼女は仲の良い友人だ。幼馴染であり、腐れ縁でもある。しかし恋人ではない。 僕は彼女を恋愛対象として意識することもあったが、今の関係が壊れてしまうことを恐れて、最後の一歩は踏み出せないでいた。 夫婦漫才のように仲良く喧嘩をしていると、他の友達に二人の仲をよく冷やかされた。そうすると彼女は決まって、こう言った。 「私は男女間の友情は成立すると考えているの。彼のことは親友だと思っているわ」 ある時、彼女と二人で宅飲みをしているときのことだった。 「僕たちは、友達以上恋人未満、というやつなのかな」 「それはちょっと違うわね。強いて言うなら、友達以上親友以下。友情と恋愛感情は一直線上に並べて比べるものではないと思うから」 それを聞いて僕は心底ガッカリした。彼女はどこまでいっても僕のことを友人としか見ていない。普段ならば、そこで引き下がるところだが、そのときは酔っていたせいか、抑えていた気持ちがあふれ出してしまった。 「『男女の友情は成立する』という君の考えが間違っていることを、僕は証明したいんだ」 言い終えてから、ひどく恥ずかしいことを言ってしまったと後悔したが、もう手遅れだった。彼女は驚いて真顔になった後に、すぐに僕が何を言いたいのか察したらしく、ニヤニヤしながら言った。 「……へえ、それは楽しみね。絶対に無理だと思うけど」 自信満々の彼女は賭けを持ちかけてきた。期限を区切り、そこまでに彼女の考えが間違っていると証明できれば、僕の勝ち。そうでなければ、彼女の勝ち。そういう勝負だった。 それから僕は気持ちを切り替えた。彼女に「友人」ではなく「恋人」として認めてもらえるように努力を始めた。 二人で食事をするときは、行き当たりばったりで居酒屋に入るのではなく、事前に雰囲気の良いレストランを調べて予約した。会話では彼女の言葉に肯定的に耳を傾け、歩道では車道側を歩くなど、異性としてのエスコートを徹底した。 ただ、僕のそうしたアピールに対する彼女の反応は鈍かった。気取ったレストランでは退屈そうに視線をさまよわせ、僕が意見を合わせて議論を避けようとすると「なんだかつまらない」と不満を漏らした。客観的に見ても、僕の努力が彼女に刺さっている手応えは全くなかった。 そして期限が迫った日、僕は彼女を夜景の見えるレストランに誘い、正式に告白をした。 「君のことがずっと好きだった。これからは、僕と恋人として付き合ってほしい」 一世一代の告白のつもりだった。しかし、彼女の反応は驚くほどあっさりしたものだった。 「ええ、もちろんOKよ。これからもよろしくね」 これまでと変わらない気安い感じで、グラスを傾けながら彼女はそう答えた。 少し拍子抜けはしたが、ともかく告白は成功し、賭けにも勝ったと僕は喜んだ。 「これで僕の勝ちだね。男女間の友情は成立しなかった」 しかし、彼女はすぐにそれを否定した。 「以前、話したように、友情と恋愛感情は一直線上に並べられるものではないの。別ベクトル。独立したパラメータ。恋愛関係になっても友情には影響がないのよ」 「どういうことだ?」 「あなたとは恋人になったけれど、それと同時に友人関係は続いている。私はそう考えているわ」 僕は混乱した頭で必死に考えた。もしかしたら、最初から全く勝ち目のない勝負をさせられていたのではないか。 嬉しそうに微笑む彼女が追い打ちをかける。賭けに勝った方は、ひとつだけ何でも要求できるという約束だった。 「これからは恋人として付き合っていくけれど、デートは今まで通り気取らない店で食事して、親友として遠慮なく議論を戦わせること。もちろん支払いは割り勘だからね」
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作者:さくら
2026/10/22 • 👁 25回 • 💬 0件
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1890文字 約4分で読了

キャンパスの光

 一日の授業が終わり、眼鏡を外して軽く伸びをする。窓の外、夏めく木漏れ日が心地良かった。 「ちょっといい?」  振り返ると、男の子が声をかけてきた。 「なん、ですか」  怪訝そうに答える私に、彼はポリポリと黒髪に茶色メッシュの頭をかいた。 「授業、全然頭に入んなくてさ。レポート作るの苦労しそうだから、ノート、コピーさせてもらえないかなって」  私は素朴な疑問をぶつけた。 「どうして私のを?」 「だって、えらく熱心に書いてたから。すげぇなと思ってさ。急で申し訳ないけど、頼むよ」  そう言って、両手を合わせる。  そこまで言われると、私も悪い気はしなかった。 「別にいいけど」  私はびっしり書いたノートを渡した。 「サンキュー! 待ってて」  彼はそう言うなり、教室を飛び出していった。  私は恋愛をした事がない。中高と女子校だったし、無口で暗かったから友達も少なかった。大学でもサークルに入らず、同年代の男の子と話したのも今日が久しぶりだった。 「お待たせ!」  しばらくすると、彼が戻ってきた。 「助かったよ、ありがとう」 「どういたしまして」  私はノートを受け取ると、鞄にそれを詰めて席を立った。 「いたいた。何やってんの?」  ちょうど、学内唯一の友達が教室にやってきた。私はそれを無視するように外へ出る。 「あ、待ってよ!」  友達は、訳もわからず私を追いかけてきた。  正門に向かって二人で並んで歩いていると、友達がニヤニヤしながら言った。 「知ってるよ、さっきの彼。同じ二回生で、結構人気ある人だ」 「そうなの?」  空調の効いた校舎を出たから、真夏の陽気がやけに体を火照らせる気がした。 「もしかして恋の始まり?」 「まさか」  私なんて、誰からも見向きもされない。昔からそうだったんだから。  私は自分にそう言い聞かせながら、正門をくぐった。  数日後の昼。学食でお気に入りのハヤシライスを注文し終えた時だった。 「それ、会計一緒で」  驚いて隣を見ると、先日の彼だった。 「ちょ、ちょっと!」 「ノートのお礼さ。……迷惑?」 「迷惑じゃない、けど」 「ついでに一緒に食おうよ」 「……でも」 「いいからいいから」  彼が笑った。  うまく説明できない感情を覚えながら、私は言われるがまま彼と同じテーブルについた。 「案外気があるんじゃないの?」  構内のカフェでお昼の事を話すと友達が言った。 「ただのお礼だよ」 「化粧っ気無いけど、綺麗な顔してるもんあんた」 「茶化さないで」  彼の事なんて、なんとも思ってない。でも……でも、じゃあなんで友達に話してるんだろう。  私は、汗をかいたグラスに残ったアイスティーを勢いよく飲み干した。  それからの私は、構内で自然と彼を探すようになった。見かけると身を隠して、目で追うだけだけど。  そして、彼が男女問わず友達が多い事がよくわかった。誰にでも明るく笑いかける彼を見て、思っていた通り、私とは住む世界が違う事を知った。  ある日、彼が女の子と二人で帰っているのを見かけた。私は慌てて隠れて、それをやり過ごした。 「……バカみたい」  自分が情けなくなった。彼の事が気になり始めていた事にか、何かを期待していた事にか、それすらもわからず、ただ、胸が苦しかった。  母さんが、自分の価値は自分で作りなさいと、昔からよく言っていた。だから私は勉強に打ち込んできた。皆が謳歌する青春は私に無関係なもの。わかっていた。わかっていた、はずなのに……。 「久しぶり」  校舎の裏に一人佇んでいると、突然彼が声をかけてきた。 「な、なんで……」 「なんでって、見かけたから。なんか最近、避けてない?」 「そんな事……。彼女、待たせちゃ悪いよ」 「彼女? ああ、サークル仲間さ」 「そう、なの」 「俺、なんか気に触る事したかな」 「ううん。なんにも」 「そっか……。なら、いいんだ」  そう言って踵を返す彼の表情は、どこか寂しそうに見えた。 「あ、あの!」  私は意を決して彼を呼び止めた。 「……うん?」 「あの時、なんで私にノート借りたの? 単なる気まぐれ?」  彼は少しだけ困ったような顔をしてから言った。 「笑わないでくれる?」 「うん」 「光みたいに、見えたから」 「……え?」 「真剣にノートをとってる君の横顔がさ。……西日のせいかな」彼はよそ見しながらポリポリと頭をかいて続けた。「輝いてる光に見えたんだ」  鼓動が、速くなる。頭が、ぼうっと熱くなる。  光に? 暗くて無口で、誰にも興味を持たれないはずの、私が? 「また、ノート見せてくれる?」  彼は少し恥ずかしそうに言った。  私は今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えながら、精一杯に強がって笑った。 「……時々、ご飯おごってくれるなら」  澄み渡るキャンパスの青空から、キラキラと眩い光が降り注いでいた。 ー了ー
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作者:七星満実
2026/10/22 • 👁 65回 • 💬 0件
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1976文字 約4分で読了

花を装う

 政治なんてつまらない。常に腹の探り合い。  王女に生まれたら、問答無用。すれ違う人どころか、世話をしてくれる使用人、血の繋がった家族相手であっても、油断などできはしない。  愛だとか恋だとか信頼だとか、無縁の世界。胸がときめくことも、熱くなることもない。常に冷たい刃を研いで置かねばならぬ、そんな世界。  髪のセットが仕上がったとのことで、レギーナは本を閉じた。くたびれた表紙。黄ばんだ紙。何度この本を読んだことだろう。内容は当然覚えている。それなのに開くのは、この本の文字を追うのが、うんざりする時間の気を紛らわすのにちょうど良いからだ。 「殿下は、真にその御本がお好きですね」  髪を結ってくれていたメイドが、呆れ混じりに声をかける。馬鹿にされているのは、お見通しだ。この本は巷でも有名な少女向けの恋愛小説。それを愛読しているなんて夢見がちだとでも思っているに違いない。  だが、レギーナは無邪気な小娘を装って、花のような笑みを作った。 「だって、とっても美しい物語なんですもの。白馬の王子様との恋……女なら誰しも憧れませんこと?」  あえて主語を大きくし、目を瞬かせながら振り返る。無知な演技は、過剰なくらいのほうが効果的。 「ええ。そうでございますね」  子どもを見るような生温かい視線。十七の乙女に向けるものではなく、心底侮られているのを感じる。あまりに簡単で、取るに足らない相手だ。……まあ、このくらいのほうが、気を揉まなくて良い。そんなことを考えながら、レギーナは本の表紙を撫で、うっとりと溜め息を吐く。 「旦那様とも、このような素敵な恋ができると良いのですけれど」 「ええ。きっと」  おざなりな返事のあと、立つように促される。髪が終わったのなら、次はドレス。ゆるりとしたネグリジェを脱がされて、コルセットを締め上げられる。体型が整ったら、着せられるのは真っ白なドレス。上質な絹と細かな刺繍のAラインは、レギーナの〝少女性〟を飾り立てている。  今日、レギーナは結婚する。  お相手は、隣国の公爵。もちろん、政略結婚だ。会ったこともない相手。十一も歳上であるということくらいしか、レギーナは知らない。  ただ、隣国は今、後継者争いの最中であるという。その公爵様が、他所の王女を手に入れることで、争いの優位に立とうとしていることは、想像が付いた。  レギーナはもう一度溜め息を吐いた。演技ではなく、憂鬱を紛らわすために。  王族に生まれた。それだけで、ずっと権謀術数の最中に身を置いていた。利用するか、されるか。どちらかしかない世界で生きてきた。都合の良いように扱われるのは嫌だったので、馬鹿のふりをして相手をさりげなく転がすことでどうにか凌いできたのだが、さすがに自分より立場が上の者には、どうあっても歯が立たない。  この婚姻は、王太子である兄が進めたものだった。  本当に嫌になる。血の繋がった家族であってさえ、これだ。  親子の情、兄弟の情。愛だの、恋だの、総てが幻想。国益の前に、そんなものに価値はなく、夢見ることすら愚かしい。  ――でも。  絨毯の敷かれた回廊を行く最中、ふと窓の外を見る。麗しき庭木の向こうには、城と街を隔てる壁があった。あの向こうには、レギーナが手に入れられない総てが、幻想でなく確かに在る。手にできる保証はないかもしれないが、物語のような展開を望むくらいは許される世界があるのだ。  空を鳥が翔けている。城を囲む高い壁を容易に飛び越えて、夢ある場所へと消えていく。  レギーナは、冷たい籠の中で見送るだけだ。 「殿下」  呼ばれ、我に帰る。レギーナは笑みを作って、苛立ちを隠そうとする女官たちを振り返った。 「良いお日柄ね。なんて素敵な日なのでしょう」  頭に花が咲いているとしか思えない言葉を紡ぎ、足取りを軽くしてみせて、式の会場に向かう。  観音開きの入口で初めて顔を合わせた旦那様は、なんとも冷めた目をした男だった。口元は作り笑いすら浮かべることなく。道具を見るような眼差しで、レギーナを見定めた。鍛えているのか、武骨な身体。だが、隙が見えないのは、武芸に通じているからではないのだろう。  手強そうな相手だ。頭の中が冷えていく気分を、レギーナは味わった。白馬の王子様など夢のまた夢。結局自分は、政略の世界から逃れることなどできないのだ。 「はじめまして。旦那様」  芳しい花の匂いを吸い込んだときの気分を呼び起こし、幸福な未来に胸を膨らませた純心な少女を身に降ろして、レギーナはドレスの裾を広げた。 「改めまして、レギーナと申します」  白いドレスに包まれるのは、真っ黒な腹の内。隣国の後継争いに一石を投じるのが、王女に当てられた務め。 「どうか、わたくしを、大事にしてくださいましね?」  言葉の裏に隠したのは、宣戦布告。  甘い物語の書かれた本を携えて。花の中にナイフを隠して。  レギーナは、彼の寝首を掻くために、嫁に行く。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/22 • 👁 16回 • 💬 0件
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265文字 約1分で読了

最後の砦

「最近よく来るね。 そんなにうちの店が好きかい?」 老婆が意地悪そうに笑う。 「何でもいいでしょ。 私の不安を早く買い取って! こんな私じゃ嫌われちゃう」 と叫ぶと 「おやまぁ、 今日はいっそう元気がいい 不安だこと。 いただいたよ」 その声を合図に 私の心は温かく軽くなる。 「不安なんて売り物になるの? うさんくさいな。 私には不要だからどうでもいいけど」 そうこの店では 長いこと不安が売られている。 もう 私はここがないと 彼と笑顔で向き合うことさえ できない。 ある日 居ても立ってもいられず お店に駆け込もうとしたら 空き地になってた。 私はその場で 崩れ落ちてしまった。
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作者:柊ことは
2026/10/21 • 👁 15回 • 💬 0件
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3697文字 約8分で読了

桜散る、桜咲く

 4月1日。  桜の花びらが、風に吹かれて自室の窓を舞い踊るように横切っていく。  終わってしまった。俺の高校生活が。  なんでこんなにもあっという間なんだろう。  花弁を散らす桜と自分自身がこれほどに重なることがなんだかおかしくて、奇妙な笑いすら漏れる。  まるまる三年前の、入学式の朝。  春光の満ちる体育館で、斜め前に座るブレザーから伸びる真っ直ぐな首筋に釘付けになった。 「春田 櫂《かい》くん」 「はい」  低めの少しハスキーな声と共に、彼はすっと美しい背で立ち上がる。  こんな退屈な儀式のこんな一瞬に、これほど胸が震えるなんて。  知っている。自分の中に芽生えた蕾は、きっと一生開花することはないのだろうと。  中学校時代も、部活の先輩を目で追う自分に気づき、悶々と戸惑う間に先輩の横には可愛い女子が寄り添うようになって。  自分の恋に望みは抱けないのだと、少しずつ脳に刷り込まれた。  脳はそれを学んだはずなのに、心はそんなことには従ってはくれない。  心は脳などに従わないものなんだ。  滑り出した高校の日々の中で、性懲りもなく刺さってくる痛み。心が脳の指令を受け入れてくれたなら、きっとこんなことにはならないのに。  理数科にいたおかげで、クラス替えは免れた。  けれど振り返れば、そのせいで俺の3年間はまるで数時間しかなかったようでもある。  彼しか見ていなかった。彼しか追っていなかった。彼のことしか考えていなかった。ただの一秒も、彼から心が離れなかった。  元々単独行動が好きだったし、クラスメイトも皆さほど他人に興味を示さず、教室は適度に居心地良かった。俺はいつも自分の席でひとりスマホを見るふりをして彼を盗み見た。  明るい茶色の素直な髪。裏表のない笑顔で友達と笑い合う。スケボーが好きらしい。時折頬杖をついて、教室の窓の外をひとりで眺めている。  柔らかそうな髪が風に吹かれて煌めくその残像が、いつまでも瞼から消えなかった。  耳に嵌まったイヤホンの奥に流れる旋律を、いつも聴いてみたくてたまらなかった。  高二の夏休み前。大学入試に向けクラス内の意識が少しづつ高まる。  そんなある昼休み、彼は不意に俺の前の席の椅子を引き寄せ、椅子の背を抱えるようにしながらガタリと跨って俺の正面に座った。 「……」  突然の出来事に目を白黒させる俺に、彼はこともなげに話しかける。ずっと前から親しい友だったかのように。 「な、水島くん。物理教えてくんね?」 「——……え」 「いや、難しーじゃんフツーに。水島くん、物理点数いいらしいって聞いたからさ」 「……お、教えられるかどうか……」  彼は、プッとおかしそうに吹き出した。 「センセーみたいに教えろとは言わないからさ。なんかヒントっぽいものが欲しいってのかな」 「……あ、そ、そういうことなら……」  俺はショートしそうな脳をなんとか動かし、必要な言葉を唇からなんとか押し出した。 「事によれば手伝えなくもないかもしれない」 「はははっ! なんだよその日本語?」  彼の笑顔を、初めて間近で見た。  パチパチと炭酸水みたいに弾ける笑み。遠目から見れば360度綺麗なその顔は、笑うと思った以上に幼い。白く清らかに伸びた首筋と、ボタンの一つ開いた襟元が直視できない。  俺は思わずスマホを取り落としそうになり、手汗で滑る指で必死に端末を握り直した。  俺は、彼にうまく教えられていただろうか。  放課後の図書室やファストフードのテーブル。そんなありきたりな場所が、これほどに特別な場所になろうとは一ミリも想像しなかった。  物理を教える時間は、いつも彼と二人きりだった。 「他の奴らいるとうっさくて集中できねーし、水島も嫌がるだろーと思ってさ」  シャーペンを指先でくるくると弄び、問題文を読みながら彼はさらりとそう話す。  彼は理解が早いし、一度教えたものは間違わない。閃いたようにノートに数式を書き出し、彼は顔をあげるとニカっと微笑んだ。 「ってか、水島の説明聞いてるとセンセの話よりよくわかるわ。なあ、受験まで俺の部屋に住み込みしねえ?」  そういう冗談と笑みが、何度俺の胸を震わせたか。  ——今、好きだって言ったら。  このまま、もうずっと二人きりでいられるんじゃないだろうか。  そんな勘違いが、何度脳をよぎっただろう。  そんな夢みたいな時間は、瞬く間に過ぎていく。  高3になり、彼に引き続き勉強を教えながら、俺も猛烈に勉強に熱が入った。  同じ大学へ行きたかった。都内でもトップクラスの大学を目指す彼と。  なのに彼は、願書提出直前に突然志望校を変更した。  ここから遠く離れた大学に。  やりたいことがあるんだと言った。そこでしかできないことがある、と。  俺が同じ大学を目指していたなんて、彼はこれっぽっちも気付いていないのだろう。  ——当たり前だ。 「水島も、こっちに変えたらいいじゃん、志望校」 「え?」 「なんでもねーよ」  一度だけ、彼が冗談めかしてそう言った。  俺も彼も、無事に合格した。  嬉しさより悲しみの方が強い合格通知なんて、この世にあるだろうか?  3月6日。まだ肌寒い中、体育館で校長たちの話を聞き、別れの歌を歌い、俺たちはバラバラと校門に向かって歩いた。  高校の卒業式は、誰もが既にそれぞれの未来に目を向けている。深い悲しみに暮れる空気が薄いことが、せめてもの救いだ。 「暇できたら、遊びにこいよ。寺社仏閣巡りツアーやってやるから」 「……あんま興味ない」 「はは、つれねーの」  俺の横で空を仰ぐ彼の顔があまりに陰りなく眩しくて、俺は答える言葉をろくに選びもせず俯いた。 「じゃな」  校門の出口で卒業証書の入った筒を小さく掲げ、彼がいつもの笑顔を見せる。  いつもの笑顔。  最後の笑顔。  ——ずっと好きだった、って伝えたら。  好きでたまらないんだ、と打ち明けたら。  このまま、ずっと一緒にいられるんじゃないか。  この門を出たあとも。  ——やめろ。  この3年間をバケツいっぱいの墨汁で真っ黒に塗り替える気か?  何も答えられずにいる俺を置き去りに、彼はすいと美しい背を見せた。  何の躊躇もなく校門を跨ぐと、彼はそのまま振り向くこともなく淡い日差しの中へ歩み出した。  3年間、片時も胸を離れなかった姿が、滲んで見えなくなる。  彼の中に、俺は残らない。小さな爪痕一つすら。  最後の笑顔すら彼に向けられなかった。別れの一言すら言えなかった。  俺は、ただ肌寒い風に吹かれて校門の前に突っ立っていた。  あの卒業式から、3週間と少し。  暖かい日がだんだん増え、周囲は次第に春へと塗り替えられていく。  部屋の窓から顔を出すと、近くの公園の桜が輝くような花を風に揺らしている。  4月1日。めでたい進学初日に桜が満開を迎えるなんていう心憎い神の計らいも、今の俺にとっては煩わしい皮肉にしか思えない。  彼は、あちらで新生活の準備を整えている頃だろうか。  いつもと変わらない、どこか幼い笑顔で。引っ越したアパートのお隣の住人に挨拶したり、近所の店で自分用のマグカップやスリッパや食器を選んだり、今日の夕飯のメニューを考えたり、面倒くさいから外に食いにいくか、と街を探索に出かけたり……しているのだろうか。  過去の時間など、一秒たりとも思い出す事なく。  自分の中の時間は、一秒も進んでいない。  卒業式の校門前で、がちりと動きを止めたまま。  この針がまた動き出すのは、いつだろう。  それも、なんだかどうでもいい。  あの3年間の、まるで数時間にしか思えないような彼との一瞬一瞬は、もう二度と巡ってこないのだから。  ふと、机のスマホがメッセージの着信を告げる。  のろりと取り上げ、画面を確認した。 『今、何してる?』 「……」  間を開けず、次のメッセージが届く。 『どーせ春休みで暇だろ? 荷解《にほど》き手伝えよ』 「……荷解きって」  こぼれ出した独り言を、そのまま返信する。 『あー悪い。昨日こっちに引っ越ししてさ、今新しい部屋で荷物開けてんだよ。ひとりでだりーし、誰か手伝ってくんねえかなあって。うちの部屋から桜がめっちゃ綺麗に見えるから、ついでに花見できるぞ』 「……」  何を言ってるんだろう。  最後の大事な瞬間に、あんなにあっさり背を向けたくせに。  唇を噛み締めながら返信を打つ。 『……だって、春田はもう、いっちゃったじゃんか。そんな遠いところに』 『は?   遠かったらもう会わねえの? それ何ルールよ?  春休みなんだし、地獄の受験終わったんだし。どうせならしばらくこっちで観光でもすれば?』 「……」  俺の返事を待つような時間が少し開いたが——絶句して突っ立ったままの俺の目の前に、今度は苛立ちを抑えきれないようなメッセージが送りつけられた。 『まさかの既読無視か?  最後の日だってのに最後の最後までお前リアクションうっすいし。死ぬほど迷った挙句こんなクソ恥ずいLINE送ってんだ!! なんとかいえ!!!』  ——ずっと好きだった、って伝えたら。  好きでたまらないんだ、と打ち明けたら。  このまま、ずっと一緒にいられるんじゃないか。  この桜が散った後も。  そんな支離滅裂な思いを押し殺し、俺は震える指で返信を打つ。 『行くよ、明日。  朝イチで』 『——は?   朝イチはやめろ、メーワクすぎる』  HAHAHA!とゴリラが泣き笑いするスタンプがピコンとそこに付け足された。        〈了〉
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作者:aoiaoi
2026/10/21 • 👁 20回 • 💬 0件
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1103文字 約3分で読了

遠く遠く輝く星

私は浮気をしている。 星のように、遠く。 星のように、輝く。 もう七年も経つのに、あなたの歌は未だに。 在宅ワーク中、ガチャリと扉を開ける音が聞こえた。 「……!」 「……♪」 通話中だったので、お互い手だけ振る。 今でも彼女と同棲しているなんて、信じられない。 彼女はかつて、私の大好きなアーティスト。 そして私はただのファンだった。 ネットシンガーとして、最盛期はかなり人気だった。 でもある時突然、彼女は「自身の活動」に区切りをつけた。 当時は分からなかったが、裏で色々とあったらしい。 引退、失意のどん底。 ……のはずが。 「今日からアルバイトに入りました! 接客業は初めてでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします!」 数日後、同じアルバイトに彼女が入ってきたことで、私の思考は宇宙の彼方へと吹き飛んでしまった。 「おい!四回目だぞ!」 「も、申し訳ございません……」 「失礼しました!お客様。私が代わりに承ります!」 そして彼女は、ただの不器用で手間のかかるバイトの後輩になった。 「う……先輩、本当ごめんなさい」 「いいよ、いいよ! これからも、じゃんじゃん頼っていいからね」 「……」 店側は迷惑だろうが、あなたを独り占めできるのは幸せだった。 でもこの程度の関係なんて、すぐになくなってしまう。 ……何よりまた歌声が聞きたい。 「え……?」 ファンであることを隠して、生まれて初めて同性に告白した。 なんで? もっと方法があっただろう?と今なら思う。 でも当時はそれくらいしか、あなたを繋ぎ止める方法が思い付かなかった。 「あの……はい、私で良ければ……」 そして、なぜか受け入れられた。 数年後、お互い職に就いた。 私はただの事務職に。 あなたはギター教室の先生に。 どうやら、今はバイト時代のような失敗はないようだ。 「先輩、今日もついてきますか?」 「うん!」 仕事も終わり、すぐ準備する。 夕暮れの川辺。 彼女はたまに弾き語りをしている。 ほとんど人のいない川辺で、あなたの声が響く。 下手なら嘲る人もいただろうね。 皆、絶景でも見たかのような顔で足を止める。 今の時間で良かった。 この程度の人だかりで済んで。 「――」 あなたの歌が終わった。 パチパチと拍手が起こる。 歌っている時のあなたは未だ、私から何光年も先へと離れていく。 そうして瞬く。 「先輩ー?そろそろ帰りますよ?」 自分から繋ぎ止めたくせに。 近くのあなたより、星空で輝くあなたの方が好きなんて。 「う、うん」 この浮気は、煌めく星には知られてはいけない。 本当に愛しているのが、何かを知られてはいけない。 悪い、悪い人間だ、私は。 でも。 星空の下のちっぽけな人間で良かった。 きっと、遠くの星にこの気持ちは届かないから。
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2026/10/21 • 👁 9回 • 💬 0件
恋愛
1857文字 約4分で読了

薔薇と闇

 ふと、薔薇を買いたくなった。  深い紅色の薔薇を、一本買った。何本も買うほどの経済的余裕はない。  人に贈るためじゃない。絵を描くためだ。  部屋の隅に転がっていた酒の空き瓶を軽くゆすぎ、水を注いで花を挿した。  狭い部屋は、殺伐として散らかり放題だ。けれど紅い薔薇が小さなテーブルに一輪やってきただけで、壁に雑に立て掛けたキャンバスたちも転がった酒瓶もどこか気取った顔になる。  小さなキャンバスをイーゼルに置き、花を見つめた。  複雑な丸みや尖りを主張しながら幾重にも重なる花弁。強く巻いた内側から、外側にいくに従い少しずつ解れるように開いた花の上部。花弁はあっけらかんと開いてしまうのではなく、花の上部から萼《がく》にかけてはふくよかな奥行きを持っている。たくさんの花びらが、艶やかな曲線を描きながら茎に向かいひとつに窄まっていく。   これから開こうという力を内包した、濃い紅色。  見つめていると、音もなく佇んでいるはずのその花から放たれる波動に呑まれそうになる。    普段、花は描かない。存在そのものが既に輝いている対象物を描くのは苦手だ。  何故、薔薇を描きたくなったのか。自分でもよくわからない。  一つだけ考えられる理由は——学生時代に好きだった人が、死んだ。  数日前、友人から連絡をもらった。  その人に何も告げられないまま、卒業した。  どうしてるかと思いながら、連絡もしなかった。 「いい絵だね」  あの日の懐かしい声が、耳に蘇る。  鉛筆を持ち、キャンバスにおおまかな下書きをしていく。  生きる意味はわからないのに、大切なものを失う痛みだけが。  全く理不尽だ。  ラフにスケッチしたキャンバスに、色を広げていく。  紅い薔薇。  描きたくない。こんなもの。  描くのが、苦しい。  君に似ている気がするんだ。  目の前のこの薔薇が。 **    四日後。  仕上げた薔薇の絵を眺め、俺は歯軋りした。  キャンバスの中の薔薇は、死んでいた。  花の色も形も、観たままを全て過不足なく描けている。  なのに。  キャンバスに乗せた花弁の紅色が、沈み過ぎているのだろうか? それとも、部屋の明るさが足りないせいか。適当な酒瓶に挿しているのがいけないのか。  どこにも欠落はないのに、何もかもが納得いかない。訳のわからない苛立ちに駆られながら、キャンバスを新しいものに取り替える。  紅色を明るくしてみた。部屋のカーテンを思い切り開け、光を入れてみた。酒瓶ではなく、テーブルに直に花を置いてもみた。  何を試しても、駄目だった。  描きたい薔薇に、近づけない。  さらに三日が経った。  薔薇は萎れかけ、花弁が崩れそうになっている。  冷たい汗を拭い、拳を握りしめた。  なぜ、描き出してしまったのか。紅い薔薇の絵など。  君を俺がもう一度殺してしまうような、そんな気がした。  そう思えば思うほど、キャンバスの薔薇は描きたいものから遠ざかった。  一晩中筆を動かし続けた俺は、翌朝の夜明けの光が部屋に差し込む頃、枯れた薔薇をゴミ箱に捨てた。  紅い薔薇には、もう、手が届かない。  神様は、最初から決めていたんだろう。  どんなに手を伸ばしても、君はやはり俺の手から零れていくのだと。 **  あれから、一年が経った。  俺の中には、あの紅い薔薇がまだ咲いていた。あの日のまま。  毎夜目を閉じると、鮮やかにその色と形が浮かぶ。  瑞々しいその花びらや葉は、手を伸ばせば触れられそうなほどだ。  描きたい。  どうしても、君の薔薇を。  ガバリとベッドから起き上がった。  部屋の小さな照明をつけ、イーゼルに新しいキャンバスを置いて猛然と筆を握った。  白いキャンバスを、黒く塗りつぶしていく。筆を叩きつけるように。  混じり気のない、美しい黒に澄み切った世界が目の前に出現した。  ——そうか。  色が、間違っていたんだ。  漆黒の背景の上に、純白の花弁を一枚描いた。  その花びらは、なんと生き生きと輝くことか。  君の薔薇は、紅色じゃなかったんだね。  俺の呟きに応えるように、白い薔薇は一層鮮やかに眼裏に咲き誇る。  艶やかに輝く、白い花びら。その一枚一枚の形さえはっきりと目の前に見えている。  筆から、命が迸る。堰を切ったように。  やっとわかった。  闇の中にあるからこそ、その花は眩しいほどの輝きを放つのだ。  何時間、何日経ったのか。  筆を置いた。  漆黒の闇の中、凛と咲き誇る一輪の白い薔薇が、俺を照らしていた。  とうとう、会えた。  君の薔薇に。  キャンバスが乾くまで、流石に少し眠ろうか。  いい絵だろ?  必ず届けるから。今度は、俺の気持ちも一緒に。  だから、少しだけ、待っててくれ。  這うようにして身体を横たえたベッドで、本当に久しぶりに、少しだけ笑った。     〈了〉
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作者:aoiaoi
2026/10/21 • 👁 69回 • 💬 0件