ホラー・怪談
860文字 約2分で読了

おかえり、ポテトサラダ

 仕事が終わり、帰宅をした。    黒い冷蔵庫を開ける。  彼女と家電量販店に行った時の冷蔵庫。  二人暮らしにちょうどよく気に入っている。 「あ、なにこれ。おいしそう」  入れ物の中には、おいしそうな鮭が入っていた。 「あれ、こんなの作ってたっけ」  冷蔵庫から入れ物を取り、レンジで少しだけ加熱する。 「わ、いい匂い」  蓋を開ける。  少しだけの加熱だから煙は出ない。  見た感じ、温かいかわからない。けど、鮭を一口。 「あ、塩レモンだ」  彼女は、昔からほぼ毎日料理をしている。  仕事で大変なのに、作るのは、好きらしい。  彼女は笑いながら「料理は趣味」と言っている。  ドアが開く音がした。  控えめな音。彼女らしいドアの開き方。 「ただいまー」  彼女が帰ってきた。   「おかえり。これおいしいね。作ってくれてありがとう」  彼女の顔を見る前に大きな声で玄関に向けて声をかける。 「どれのことー?」  カツン。  彼女が玄関でパンプスを揃えている。 「この鮭のやつ」 「鮭?鮭なんか買ってたっけ?」 「仕事帰りに買ったんじゃないの?」 「いや、まだ高いから買ってないよ」  心当たりがないらしい。  軽く首をかしげたまま、リビングへ入ってくる。 「なにこれ?」 「だから、鮭の塩レモン焼き?」  彼女は食べかけの鮭を見つめている。 「私作ってないよ」  彼女が食べかけの鮭を一口。二口。  美味しかったらしい。 「え?いやいや食べたらだめだよ!」 「でも、美味しいし」 「とりあえず、窓鍵かかってるかな」  私は、鍵がかかっているか確認をした。 「特に問題なかった」 「じゃあ、鍵交換と警察だね」  普段通りの声色でいう彼女。  ――――  鍵交換。警察への届け出が終わって数日。  仕事が終わり帰ってきた。 「あ、ポテトサラダがある」  彼女が帰ってくるまで、まだ時間がある。  少しだけ食べよう。 「美味しい」  顔の筋肉が緩む。 「ただいまー」 「おかえり。ポテトサラダおいしいね」 「え?」  彼女が速足でリビングに来る。 「私作ってないよ」 「嘘……」  彼女が考えこんだ。  たまに見る、何かを真剣に考えている顔。 「次は何が入っているかな?」  真剣な顔なのに、言っていることは呑気だった。
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作者:ReiN.
2026/10/13 • 👁 26回 • 💬 0件
ホラー・怪談
663文字 約2分で読了

郵便物

「斎藤 ■■様 ポイントキャンペーンのお知らせ」 銀行からよく見る、キャンペーン資料が届いていた。 しかし、名前が間違っている。 俺の名前は「佐藤」だ。 アパートの前の入居者が登録し忘れたのか? それとも単純に間違えられたのだろうか? だとしたら失礼だなと思い、ごみ箱に捨てた。 今日は金曜日だ。 仕事で疲れて、もう何も考えたくない。 土曜日。 「斎藤 ■■様 ○○創刊号のお知らせ」 また「斎藤」の名前で届いている。 何らかの雑誌、その創刊号のお知らせだ。 こんなお知らせを頼んだ覚えはない。 何なんだ、一体。 せっかくの休みなのに面倒くさい。 連絡して、もう送らないようにしてもらおうか。 はあ、やることが増えてしまった。 ―― 月曜日、結局面倒で何もせず出社する。 こうやって後回しにするから、余計気疲れするんだろうな。 「おーい、さいとうー!こっちちょっと手伝ってくれ」 ん?聞き間違いか? 上司から仕事の指示と書類を受け取る。 あの郵便物を思い出し、自席に座る。 ――思わず、書類を落としてしまった。 「斎藤 ■■」 自席に置かれたネームプレートも、社員証も。 俺の名前じゃない。 あの郵便物に書いていた名前と同じだ。 急いでスマホの連絡帳を見る。 自分:「斎藤 ■■」 父:「斎藤 ■■■」 母:「斎藤 ■」 姉:「斎藤 ■■」 変わっている、何もか蜉ゥ縺代※縲∽ソコ縺ッ譁手陸縺倥c縺ェ縺�ゆソコ繧呈カ医&縺ェ縺�〒菫コ縺ッ菴占陸縺�縲�―――――― ―――― ―― ― 「おい、斎藤」 「はい!」 俺は「斎藤 ■■」、普通の会社員だ。 いつも通り、事務仕事を片付ける。 そう、今日も何も変わらない普通の一日を過ごす。
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2026/10/12 • 👁 33回 • 💬 0件
ホラー・怪談
1304文字 約3分で読了

引き分け

 殺してやりたいほどの憎悪というものは実在する。  あいつを殺すと決めたのは、数年も前のこと。結婚当時、いい関係は最初だけだと皆にいわれたが、正直、信じてはいなかった。他人事だと思っていた。  何が直接の原因なのかは既に解らないが、修復不可能だということは解る。離婚という冷静な選択は、溢れる憎悪で既になく、だからこそ必死の思いでこの毒薬を入手したのだ。貯金の大半をつぎ込んでしまったが、後悔など微塵もない。  顔も見たくない、ではなく、殺したいのだ。存在そのものに嫌悪感を抱くのだ。  計画は簡単。毒薬を食べ物に混ぜて飲ませ、死体を車で森に運び、埋める。後は警察に行方不明だと通報すればいい。  あいつも私も生命保険に入っているから、保険金目当ての殺害だと疑われるかもしれない。アリバイ工作が必要だろうか? いや、保険金の受け取りは死亡が確認されてからの筈だから、死体が発見されなければ、保険金目当てという動機は成り立たないから大丈夫だろう。あの森の奥の地中深くなら、まず見付からない。  おまけに、世間体はおしどり夫婦で、揉め事の類には一切縁がなく、傍目には動機などないように見える。  ……実行は、今日だ。 「おかえりなさい。あら? それは?」 「ああ、お土産。取引先から頂いた菓子だよ。美味しいんだとさ」 「ふぅん。ご飯、すぐに食べる?」 「頼むよ。……あ、しまった。君、明日出かけるっていってたっけ?」 「ええ、同窓会」 「車、ガレージにそのまま入れちゃったよ。今のうちに君のと入れ替えておくから、キー貸して」 「あなた、久しぶりの休暇なのに、私一人だけ楽しんで、何だか悪いわね」 「いいよ。久しぶりの同窓会なんだろ? こっちはのんびりしてるから」 「……どう?」 「うん、これ、本当に美味しいわ」 「えーっと、へぇ、これって京都の有名な菓子屋じゃなかったっけ?」 「ん? あ、知ってる。前にテレビで観たことあるわ」 「こんな安ビールのつまみにするのは勿体なかったかな?」 「ふふ、そうかもね。お茶にする?」 「ははは、まさか。さてと……」 「あら、もう寝るの? お休みの前なのに?」 「今日、仕事が忙しかったんだ。お先に」 「おやすみなさい」  ……。  ……何だか頭がくらくらする。手がしびれてきた。吐き気も……一体何が?  足に力が入らず、もがいているうちに床が迫ってきた。フローリングに額を打ちつけ、血が広がったが、頭痛の方が激しい。息が苦しい。胸が熱い。水を飲まなければ。喉をかきむしるが、熱いのは内側だ。視界が狭くなってきた。嘔吐、吐しゃ物が狭い視界を埋める。全身が痙攣し、床を何度も跳ねた。  何が、いや、誰が? ……あいつ? ……もう……駄目だ……誰か……。 「――聞き込みは?」 「はい。夫婦仲は問題なかったようです。住宅ローン以外に金銭面のトラブルもありません。仕事も順調ですし、直接の動機は相変わらず見当たりませんね。」 「そうか。全く、俺にはさっぱり解らんね。心中にこんな馬鹿高い薬、使うか?」 「最後の贅沢って奴じゃないですか?」 「ふん。贅沢の割には、見事な死に様じゃないか。お前も見ただろ? 今正に殺されるってな形相。夫婦でにらみ合ってる仏なんて、俺は始めて見たぞ」  ――おわり
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作者:飛鳥弥生
2026/10/12 • 👁 26回 • 💬 0件
ホラー・怪談
1212文字 約3分で読了

ダイバージェンス

 その男は骨の髄まで疲れ果てていた。  工場からの岐路でビールを買って安アパートに辿り着き、すぐさまシャワーで油の匂いを流し、同じく途中で調達した弁当を口に放り込みつつほろ酔いで板のようなベッドに横になり、どうでもいいテレビ番組を眺める。  休息を求める体とゆがんだ思考の只中で、男はそのしみのようにこびりついた疲労を毎日毎日、数年間感じていた。  特別睡眠が少ないわけでもなく、工場での作業も体力的には問題ない。趣味と呼べるものはなく、内容の割に多い報酬は膨大な煙草とスロットと別れて顔も忘れた元女房に吸われているが、それでも生活に支障はない。  自分はごく普通の健全な人間だと疑わないし実際そうなのだろうが、この得体の知れない疲労感は、健全という言葉とは縁遠い、そう毎日感じる。  仕事が終わり岐路に着くと、例の疲労が日課の如く徐々に湧いてくる。  その日、岐路を一本外れたのはただの気まぐれだった。数年間、機械の如く同じ道を歩いていたので、世界に道はこれだけなのだと、或いはこれだけで充分なのだという男にとって、その道は異世界への入り口に等しかった。  コンビニエンスストアを迂回する形になったその道には……何もなかった。  元の道と同じ灰色のくたびれた建物が並ぶ、区別するのが困難なほど同じ景色だった。そのことが男に何を与えたのか当人にも解からなかったが、意思に反して両足は濁った景色をずんずんと流していった。  10分かそこらして辿り着いたのは、いつものコンビニエンスストアの手前の色あせた看板の付いた電柱だった。  その電柱をみた瞬間、男の疲労は頂点に達し、意識にガリガリとノイズが走るのを音として実感した。  コンビニエンスストアに入り、知った顔の若い店員を見て、すぐ手元のマガジンラックを握り、振り上げてその顔を横殴りにする。  無防備だった店員がレジに激突し奇声をあげた。男は店員に背を向けて棚を睨みつけ、磨り減った革靴でそれを蹴飛ばし、残骸を踏みつけた。ずかずかと歩き冷蔵庫の前で一瞬考え、一番大きな瓶を取り出す。酒の入ったそれはよく冷えていた。  振り返り再びレジカウンターに向かうと、若い店員がふるふると立ち上がろうとしていた。大きく振りかぶった瓶が弧を描きその頭を殴りつける。思ったよりも丈夫だったのか瓶は割れず、代わりに店員の頭が割れ、黒い血を撒き散らしながら店員は再び床に倒れた。  一旦瓶を置き、カウンターを乗り越えて再び握ったそれで、倒れている店員をめった打ちにする。  一撃ごとに男は例の疲労が和らいでいくのを感じていた。数年来の付き合いだった忌々しい疲労が綺麗さっぱり晴れたころ、目の前の店員は赤黒い塊となっていた。  晴れ晴れした気分で暮れた岐路につき、安アパートに戻った男は、コンビニエンスストアの店員を打ちのめした冷えた日本酒をぐいと喉に流し、しばらく待って酔いが訪れると同時に横になり、初めて安眠を得たのだった。  何かと引き換えに……。  ――おわり
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作者:飛鳥弥生
2026/10/12 • 👁 22回 • 💬 0件
ホラー・怪談
2005文字 約5分で読了

落ちる声

 その通話アプリにはサーバーと呼ばれるコミュニティがあって大きいサーバーだと五千人を超える。テキストチャットと通話が主な目的であり複数人参加は会議と呼ばれ個人同士の場合だと個室などと称されていた。  大型連休になると日本各地の寂しがり屋がこぞって集結し互いの孤独を埋め合い賑わう。  AIの生成した超然とした美男美女のサムネイルを各々が貼り付け、そうなれば当然男女のいざこざは頻発し、すったもんだの果てに相手をブロックやミュートすることは珍しくもない。  当然僕にしたところで例に漏れはしない。  僕がその子に出会ったのはシルバーウィークの初日だった。出会うという表現が正しいかどうかは分からない。 『そろそろ落ちるね〜』  と誰かが言い、 『わたしも〜』 『おれも〜』  と続く。  落ちるとは会議からの離脱を指す。個人同士であっても一人が通話を切っても一人は通話空間に繋いだ状態になるのでそういった表現が適していた。  その日、僕はみんなの談笑をBGMに眠ってしまい気が付けば無音だけが耳に届いていた。  みんな落ちたか、とアプリの画面を見ると僕ともう一人、kanaという表示があった。 「こんばんは。いつからいたの?」 「ずっといましたよ。寝てるようだったので、一人にしちゃいけないかなって」  声が、僕の理想を遥かに超え、心中深くまで刺さった。  その衝撃は中学生の時の初恋すら超えていたかもしれない。  ありがとうございます、と急に敬語になってしまい、たどたどしく上手に話せないのは狼狽していたからに他ならない。  それでもkanaは優しく、よく笑う子で、その日は繋いだまま二人で眠った。  それから僕らは毎夜毎夜言葉を交わし続けた。kanaの言葉がイヤホンから届く度にどうしようもないくすぐったさを覚える。まるで全身の触覚神経が耳に集中したかのように僕はkanaの発する一言一言に、どこまでもどこまでも安堵と昂揚の混合物に陶酔していった。  kanaは毎朝目が覚めると落ちていた。彼女は回線の調子が悪いのかもと言う。回線落ち、というのはよくある現象で最初の頃はどうでも良かった。  繰り返される辟易をとっくに踏み倒した毎日にkanaとの通話は約束された奇跡だったから。  互いが声だけの存在であるにもかかわらず散々甘い言葉も囁いた。 「他の子とは話さないでほしいな」  と彼女は何度か言い、 「もちろん」  と僕は何度でも答えた。  会いたいとは思わなかった。直接触れ合うことを望まなかったのは耳に触れる声だけでもう十分過ぎたから。  でも、いつしか。  「こうあるべき」という強要は衝動やあるいは本能に近く、そいつに捕まるとわざわざ逆らい抗う必要が芽生える。 「いつになったら朝まで繋いでいられるんだ!」  止められなくなった衝動が弾くくだらない激怒はお門違いの怨嗟となり口元のマイクを叩く。  弱々しく小さな声でkanaはごめんねと呟き、そのまま静かに落ちていった。  その日からkanaは通話もテキストチャットすらも返してくれなくなった。  呆気なく一瞬にして僕は孤独の中に放り込まれる。いや、客観的には何ひとつ状況は変わってなどいない。だとしても。  大事なものは失って初めてなどと使い古されているが、つまり僕は不眠症を患った。  夜になるとどこからともなく不安が湧いて出ては1DKを埋め尽くす。  きっと、だからだろう。ある日買い物をしていると、 「え〜それ買うの〜?」  というkanaの燦々とした声が聞こえた。  幻聴、だと思った。  外科的な癒しがすぐにでも必要だと考えた僕は慌てて次の相手を探し始める。  kanaという基準が邪魔をして、深夜になってようやく納得出来る相手を見つけるも、その子は一晩で音信不通となった。  どこまでも孤独で会議にいればいるほどkanaの声が無性に恋しくなる。  睡眠不足が常態化した頭をもたげて、僕は今日も変わり映えのするはずのない駅のホームに立つ。  朝のホームはほとんどみんなが一人ぼっちだ。その多くが家庭から出てきているのだとしても誰かの家からどこかの会社までの間、僕はこの孤独の集合体に接続を許される。  足元の点字ブロックのひとつに自分を重ね、縦横に整列する無機質さに安心を覚える。  そんなことを考えていると、 「おまたせっ。これからはずっと繋いでいられるよ!」  頭の後ろ、首のつけ根辺りから囁くような、しかしはっきりと声がした。  kanaの声だった。  間違えようはない、どこまでも待ち望んだkanaの声。  ぞくりと跳ね上がる鼓動と共に振り返る。  が、そこにいたのはスマートフォンに俯く父親くらいのスーツの男。  浅くなった呼吸とは裏腹に僕は心底落胆する。  電車を知らせるベルがけたたましく無情に響く。  直後。  足首に指が食い込み、掴まれ、引き抜かれる。  景色が倒れ視界が男のスーツの足元へと流れていく。 「あっ!」  という声が聞こえ、僕は線路へと落ちていくのだと知った。  そして、今日も僕は通話相手を探す。  サーバーのどこかを漂いながら。
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作者:珈琲時間
2026/10/11 • 👁 58回 • 💬 0件
ホラー・怪談
2355文字 約5分で読了

【怪奇小説】案内人

帰宅した私は車を降り、夜露に濡れた庭の砂利を踏んで玄関へと向かった。 郵便受けには、数通のハガキやチラシに混ざって、見慣れぬ一通の手紙が投函されていた。 上質な茶封筒の表には、震えるような達筆の黒インクで私の名が記されている。裏を返せば、差出人欄には見覚えのない男の氏名と、都心から遠く離れた山の麓にある町の住所があった。 心当たりのない不審さを覚えつつ、ジャケットを脱ぎ、静まり返った吹き抜けのホールを抜けて書斎へ向かった。 机のスタンドライトを灯し、ペーパーナイフを封の隙間に滑り込ませる。 中から引き出した便箋には、狂気じみた文字が踊り狂うように、びっしりと文字が連なっていた。 前略 突然このような、悪趣味極まりない告白文を送りつけます非礼をお許しください。 ですが、この手紙を書かざるを得ないほどに追い込まれているのでございます。 私の住まいは、笹倉岳の麓にございます。標高こそ二千メートルに満たないものの、ひとたび登山道を外れれば人を呑み込む底なしの沢が口を開ける山脈です。年間を通じて遭難者が絶えず、携帯電話の電波すら届きません。私は幼い頃からこの山と共に暮らしており、隅から隅まで知り尽くした、いわば、自分の庭のような存在です。 すべての始まりは、十数年前の秋のことでした。 私はいつも通り趣味の登山をしておりました。季節ごとに移り変わる山の景色は何度登ってもそれは美しいものです。 そんな中、山中で道を見失った若い男女三人の登山者を見かけたのです。 これは特に珍しいことでもございません。年間でも何十人と行方不明や遭難の起こる山です。 そこで、私はいつも通り安全な迂回路を教えてやろうとしました。 その時です、私の脳裏に悪魔のような囁きが響きました。 もし、素人では二度と生きて戻れぬ崩落した山道へと誘い込んだら、彼らはどうなるだろうか。 私は極めて自然な、柔らかな微笑みを浮かべ、偽りの近道を教えました。 彼らは私を救世主のように拝み、感謝の言葉を連ねて、私の示した死の待つ暗い沢へと歩いて行きました。 微塵も疑いも持たず、破滅へと一歩ずつ歩を進めてゆくあの無防備な後ろ姿を見送ったとき、私の喉の奥をせり上がってきた甘美な痙攣を、なんと表現いたしましょう。それは、生贄を祭壇へと運ぶ司祭のそれでございました。 そして三日ほど後の事です。 朝刊の片隅、社会面の無機質な活字の中に、彼ら三人が沢の滑落現場で折り重なるようにして遺体で見つかったという記事を目にしたのです。 その瞬間、頭頂から爪先へと突き抜けたあの戦慄すべき歓喜を、私は生涯忘れることができません。 背骨を強烈な電流が駆け抜け、下腹の奥が熱く煮えたぎるような、世のいかなる肉欲をも凌駕する興奮が押し寄せてまいりました。指先ひとつ触れず、私がほんの少しだけ言葉を発しただけで、見ず知らずの健康な男女三人の血肉が、無惨な肉塊へと成り果てたのです。新聞の紙面を震える指でなぞりながら、私は暗がりの中で激しく息を乱し、独り声を殺し笑いました。。この快楽に、私は陶酔しきってしまったのでございます。 その日を境に、山を歩く目的は完全に変貌いたしました。いつもは季節ごとに移り変わる景色を楽しみにしていた山道は、迷える羊を見つけては、あの甘い毒を含んだ笑顔で奈落へと送り届けてやる為の場所へと変わってしまったのです。 それからというもの、何十人、いえ、何百回となくその行為を繰り返してまいりました。具体的な数はもう覚えてはいません。 なんの恨みも関係もない人間へ行う行為です。もし奇跡的に生還した人間がいたところで、好意で教えた道か、悪意で教えたかなんてことは他人からは絶対に分かりません。警察の捜査の目もこちらへ向くことは毛頭ありませんでした。元より行方不明者の極めて多い山です。事故死の数字が多少増加したところで、世間は何の疑問も持たず、何の捜査もされはしないのです。 ですが、昨年の夏から、私は夜眠る事が出来なくなりました。 どうしようもなく、これまで私が偽りの道へ送っていった者たちの声が聞こえるのです。耳元で囁くのです。耳を塞いでも無駄なのです。 枕元で、背後で、四六時中あの者たちの声が湿った息とともに聞こえてきます。 彼らは一様に、あの日と同じように礼を言うのです。 「教えてくださって、ありがとう」 「助かりました」 「麓で会いましょう」 私自身に罪悪感など全くございません。良心の呵責など欠片もないのです。それなのに、目に見えぬ何かが、暗闇の奥からじわじわと私を追い詰めてくる。 完璧だった私に、たった一人だけ、たった一度だけ、偽りの山道から生きて下山したお方がおられました。 そう、何百人の中でただ一人、あの死の山から生きて戻られた、貴方様です。 ですから、たった一人のその貴方様にこの告白文をお送り致します。 あの日、救助ヘリで運ばれた、あなた様のお名前を聞き知って以来、私は取り憑かれたようにあなた様の消息を追っておりました。 全く恨んでいるわけではございません。ただ、誰かに知っておいて欲しかったのです。 私はもう、正気で生きてゆくことはできません。 今夜、私は山へ向かいます。 これまで幾度となく見送ってきたあの谷底で、今度は私自身が、最後を迎えることにいたします。 では、さようなら。 草々 手紙を握りしめたまま、指先が凍りついたように動かなかった。 一年前、肋骨を折り、血と泥にまみれて山中を彷徨ったあの地獄。 絶望の淵にいた私に「この沢を下りればすぐ街だ」と温かい笑顔で教えてくれた、あの親切な初老の男。 恩人などではなかった。 あの男は、最初から私を殺すつもりで手を振っていたのだ。 ぞっとする悪寒とともに顔を上げた瞬間、鼻腔を突いたのは、手入れの行き届いたこの部屋ではあるはずのない、あの山の匂いだった。
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作者:雨宮はな
2026/10/11 • 👁 36回 • 💬 0件
ホラー・怪談
3159文字 約7分で読了

なかよしの太陽さびしがりの月

《中三の夏》  中学生活最後の夏休みが半分すぎた頃。幼稚園からの親友、|琉生《るい》からメッセージが届いた。 『知ってるか? |結愛《ゆあ》ちゃんが死んだって。病気で』  結愛ちゃんは小学校で、僕らと仲の良かった女子だ。転校してしまうまで、ずっと三人で遊んでいた。 『嘘だろ? 病気で? 一週間前に荷物が届いたばかりだよ』 『そっか。俺の方が先だったのか』  実は結愛ちゃんのことは、荷物が届くまで、すっかり忘れてしまっていた。肌が白くて、静かに笑う子で、どこか守ってやりたくなる子だった。  懐かしくなって、ちょうど琉生に連絡して、また三人で会いたいなと思っているところだった。 『詳しい話は、今度会ったときに』 『オッケー』  久し振りに思い出した友達。その突然の死を、実感できるはずもなかった。僕は棚に飾った、結愛から届いたお土産を手に取った。それは|高崎宮神社《たかさきのみやじんじゃ》の身代わり人形。体が小さく、手足と頭の大きいコミカルな見た目だが、自分の代わりに厄を受けてくれるお守りだ。 「会いたかったな」  さっきの口ぶりだと、琉生にも届いてたみたいだし、覚えていてくれたんだなと嬉しさと淋しさで複雑な気持ちになった。そして僕たちの、ある夏の日を思い出した。 《小四の夏》 「夏休み終わったら、席替えするからなー。ちゃんと机の中を綺麗にして帰れよー」 「わたし後ろの席がいいー」 「俺は、窓がわー」 「はいはい。席は、くじ引きで決めます。文句はなし」 「「ええー!」」  みんなの不満の声を、楽しそうに浴びて先生は教室を出ていった。僕は、どうしたら好きな子と隣の席になれるかを考えていた。  放課後いつものように|琉生《るい》と|結愛《ゆあ》ちゃん、ふたりと一緒に校門を出た。 「今日どうする? 俺、ゲームやりたい」 「じゃあ僕んちにする?」 「わたし図書館で借りたい本があるの」 「じゃあ図書館の前の公園に集合!」  結愛ちゃんの言葉を聞いた琉生が、すぐに行き先を決めた。嫌じゃないけど、先にやられたと思った。 「おかえりなさい。|陽斗《はると》くん、琉生くん、いつも結愛をありがとうね」  下校でも、遊んだあとでも、いつも僕と琉生は、結愛ちゃんを家までおくっていた。 「今日は公園で待ち合わせして、図書館に行きます」  玄関先で迎えてくれた結愛ちゃんのお母さんに、僕はすぐに報告した。僕が一緒だと安心だと思って欲しいからだ。  図書館は好きじゃなかった。教科書みたいなマンガばかりで、僕が好きな物なんてないし、おしゃべりもできない。|結愛《ゆあ》ちゃんが本を探している間、|琉生《るい》は恐竜図鑑を見ていて、僕はただ棚をながめて歩いていた。 『おまじないじてん』  カラフルで女子が好きそうな表紙の本があった。まわりを気にしながら手にとって、もくじのページを開いた。 「あった……」 『席がえで、好きな人の隣になる方法』  家に帰ると、今日覚えた、おまじないのことを考えた。  自分の小指の爪に太陽を書く。これは簡単だ。ただ相手の小指の爪に、月を書くのが難しい。それさえできればいい。さて、どうしよう。  日曜日。琉生に内緒で結愛ちゃんの家に行った。 「あら、いらっしゃい。|陽斗《はると》くん、ひとり? めずらしい」 「結愛ちゃんと、ふたりでやる宿題があって」  あわてて僕はウソをついた。そして家に入れてもらった。すごく悪いことをしているみたいで、少し気持ちが落ちこんだ。だけど結愛ちゃんの顔を見たら、すぐに治った。 「琉生くんは?」 「今日は勉強がしたくて。琉生がいると、遊んじゃうから」 「あー、たしかに」  僕はまたウソをついた。上手く笑えたかわからないけど、結愛ちゃんは笑ってくれた。  いつもは三人でいる部屋に、今日はふたりだけ。すごくノドがかわいて、もらったジュースを飲んでばかりで、目の前のドリルは白紙のままだ。 「|結愛《ゆあ》ちゃんは、ネイルとか、きょうみないの?」 「ネイル? どうして?」 「ほら。こっそり蛍光ペンで爪ぬってる子とかいるし」 「そうなの? 休みの日に、つけ爪してる子いるもんね」  急だったけど、上手く話を続けられた。 「ためしに絵をかいてあげるよ。これなら、すぐに消えるし」  返事も待たずに、僕は黄色の蛍光ペンのフタを取った。 「できるのー?」  静かに笑いながら、結愛ちゃんが手をさし出した。僕はドキドキが伝わらないように、結愛ちゃんの小指にふれて、その爪に月の絵をかいた。 「どう?」 「えーかわいい」  顔の横で小指を立てて笑う結愛ちゃんがかわいくて、僕はドリルに視線を落とした。  ほんとうは消えないようにマーカーペンでかきたかったけれど、それじゃ結愛ちゃんが怒られてしまう。僕ができることはやった。あとは祈るだけだ。  席替えが終わった。僕のとなりには結愛ちゃんがいた。そして、その向こうには|琉生《るい》がいた。三人並べたのは嬉しいけれど、ちょっと残念な気もした。でも、班は琉生とわかれることになった。  おまじないの力か、それともくじ運か。どっちでも僕は、結愛ちゃんに近づけた。これから、もっと仲良くなれると思った。だけど結愛ちゃんは転校して、町からいなくなってしまった。 《中三の夏》 「ねえ、|結愛《ゆあ》ちゃんて覚えてる?」  帰ってきたお母さんに聞いてみた。 「懐かしいわね。大きな病院に入院したわよね」 「え、そうなの?」 「そっか。難しい病気で、結愛ちゃんの希望で、子供たちには転校とだけ伝えたんだっけ」  結愛ちゃんは、ずっと病気だったんだ。知っていれば、お見舞いに行けたのに。もう二度と会えないなんて。ショックを受けていると、お母さんのスマホが鳴った。  話してる声が遠く聞こえた。そして、とつぜん肩をつかまれた。 「|陽斗《はると》、落ち着いて聞いてね。|琉生《るい》くんが交通事故にあってね」  急に胸が苦しくなって、イヤな気持ちが体に広がっていく気がした。 「亡くなったって」 「ウソでしょ……」 『今どこ?』 『今すぐ会えない?』 『これから家に行くよ』  慌てて琉生にメッセージを送っていたら、知らない番号から電話がかかってきた。とっさに琉生かもしれないと思って出てみると、女性の声が聞こえた。 「陽斗くん? 結愛の母です。覚えているかな?」 「え。あ、お久しぶりです」 「お母さまから番号は聞いていたの。荷物は届いたかしら。人形」 「と、届きました。結愛ちゃんからかと」  結愛ちゃんが送れるわけがないのだと、今さら気が付いた。 「そう、よかったー。|結愛《ゆあ》が、ずっと会いたがっていたのよ。ほら、小指の爪に絵をかいてくれたことがあったでしょ。あの時も、消えないようにって、両方の指にばんそうこうをはったりして」  結愛のお母さんの声は、とても嬉しそうだった。でも僕には、気になるところがあった。 「両方の指?」 「そうよー。|琉生《るい》くんと三日月のマークを書いてくれたでしょ」  そうかと思った。琉生もおまじないを使ったんだ。て、ことは。琉生も結愛ちゃんが好きだったんだ。 「仲良しのおまじないだったんでしょ? また仲良くしてあげてね。ふふ」  首すじに冷たい息がかかった気がした。今のは、どういう意味だろう。自然と身代わり人形を見ていた。小さな体。大きな頭。大きな手。大きな足。  つばを飲み込み、人形に手をのばす。足の裏には、神社の印がついた僕の名前がかかれた名札が付いている。握手するみたいに手を握る。指先を見つめる。小指の先。爪のあたり。 「ああ……」  見覚えのある絵だった。もしも結愛ちゃんの小指の爪に太陽がかかれていたら。そんなバカな想像をしてしまった。でも。だけど。だとしたら琉生は。 「そんな、おまじないじゃない!」  僕は人形を床にたたきつけると頭をかかえた。これは、まさか、あの人が……  僕はもうすぐ、その答えを知ることになる。 〈なかよしの太陽さびしがりの月〉
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2026/10/10 • 👁 40回 • 💬 0件
ホラー・怪談
1519文字 約4分で読了

水棲の生き物

真夜中の蓮池に、美しい顔が浮かび上がる。  うるおった白い肌に大きな水色の瞳、黒いまつ毛は三日月と同じ角度だ。  蓮と同じ色の唇が、開く。 「水が欲しい、水、水が欲しい」  つややかな低い声が、言う。  呼ばれた人間が駆け寄ってくる。 「水をやろう。どんな水が欲しい」  水色の瞳は、人間の顔を見つめる。 「おまえが美味いと思う水が欲しい」  人間は家にある温泉水を持ってきた。  美しい顔は口を大きく開けて、水を口にそそいでもらう。  満足気に目を細めて、口を閉じる。 「おいしい、おいしい、もっと欲しい」  美しい顔が喜ぶので人間はとても嬉しい気持ちになった。  蓮の花が動く、ざわざわと葉が動く。  美しい顔が浮き上がる。泥を一雫すくったような前髪がずるずると伸びておとがいの下から細く長い首が現れる。  濡れた黒髪に純白の首を見せて、美しい顔は微笑む。甘い微睡みの匂いが蓮池から漂う。月下の桃花色の蓮が揺らいでクスクスと笑っているようだ。 「もっと…………水が欲しい」  美しい顔の声は、いっそう艶を増して、水をくれた人間へと近づく。蓮の葉が美しい顔を押し出すように動く。 「どのような水が欲しい」 「おまえの、水が欲しい。おまえの中にある水が欲しい」 「それは、どのようにすれば与えられる?」 「人差し指を、差し出せ」  その頃にはすっかり、人間は美しい顔に水を与えたい欲望から逃れなれない。   手を、出してしまう。    人間が人差し指を差し出すと、美しい顔は薄紅の唇でぱくりと指にくらいつく。  弾力のある唇がうごめき、指をちゅうちゅうと吸う。美しい顔の頬が蓮と同じ色になる。目を伏せて恍惚の表情でひたすらに指を吸う。    ひときわ大きな葉が、飛び上がる。  白い手が、現れる。白い手のひらを天に向けて長い指を慣らすように動かし、腕が現れ出でる。  手は、人間の手首をしっかりとつかんだ。  人間はもう立っていられないようだ。 「もっと、水が吸いたい」  美しい顔が言うと、反対の手も現れた。  両手で人間の手首をつかみ、飲み干し乾からびた人差し指を口から抜き取り、次は親指にしゃぶりつく。そうしてすべての指から、人間の中の水分を、美しい顔は飲みきる。  人間は骨と皮だけになって、蓮池の側に倒れている。  美しい顔は目を細めた慈悲深い面差しで、人間を蓮池の中に引きずり込む。  美しい顔が天に手を伸ばす。月に引き上げて、とねだるように。  三日月は応じた。  蓮池がどよめくように、波打つ。    引き上げられた美しい顔の胴体は薄く、胸はひらたく、腰はくびれている。白い体が夜空へ、三日月に重なるように身をくるらせる。  腰より下は、あらゆる生き物の集合体。  ドジョウの体にたくさんのカエルの手足、尾はシロサギ、背びれに白い蝶の羽根とトンボの羽根が重なりあっている。  さらにカマキリのカマが腰から尾まであり、夜空に浮かべたことを誇るように、前へ振り下ろす。  美しい顔は、自分のつややかな肌の感触を、自分自身で楽しみように、うっとりとなでる。  ふぅ、と息を吐く。  そして長い人差し指を口にいれて、前後に動かして濡れた音を立てる。  美しい顔が、下を向く。  口を開けて、蓮の花に唾液を垂らす。  とろりとし唾液を受け止めた蓮は丸まって白い球体となり、真ん中からぱっかりと割れて、美しい顔が出現した。  美しい顔は、それを見て満足気に笑って、蓮池から蝶とハチの羽根をさえずらせて飛び、シロサギの尾で月をなぞり、カマキリのカマで前進して遠くへ行く。  新しい美しい顔が言う。次は、紫の瞳をしていた。 「水が、欲しい。水、が欲しい」  その誘う声は、ハチミツを喉に流し込むような、甘い甘い声だった。  三日月の夜に蓮池に近づいてはいけない。  吸い殺される。  はたして、あの水棲の生き物がどこへ行き何をするのか、誰も知らない。         
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2026/10/09 • 👁 64回 • 💬 0件
ホラー・怪談
1053文字 約3分で読了

愛と魔女と禁忌と

これでやっとあの人に会える。 この身を魔に染めてまで、会いたかったあの人に。 血肉となる豚肉。 骨となる牛の乳。 魂の糧となる虫の死骸。 他にも干した果実や生魚などを贄とする。 それらを全て鍋へ。 火をかける。 全てがドロドロに混ざるまで何時間でも。 異臭を放つ「それ」を床へと優しく移動する。 最後に自分の血で印を描き、何度も呪言を唱え続ける。 あの世に届くように、喉が枯れても。 この部屋に反響するほどの声で。 ああ、早く会いたいな……。 外が騒がしい。 またあいつらか。 気にせず、呪言を唱え続ける。 鍵をかけたはずのドアを開けられ、何人かが入ってきた。 魔女狩り共め。 また私の儀式の邪魔をするつもりか。 必死の抵抗虚しく、私は奴らの根城に連れて行かれた。 ……まあよい、儀式は十分進んだ。 多少、呪言を省いてもきっとあの人は蘇る。 ―― 「お父様ですね?」 「はい、また娘が申し訳ございません。」 「……異臭に騒音。入院前と併せてこれで四度目の通報です。」 「……」 「警察としてあまり踏み込んだことは言えませんが……。 娘さんの退院はまだ早かったのではないでしょうか?」 「返す言葉もございません……。大変ご迷惑をおかけしました」 娘を自動車に乗せる。 暴れ出すと困るので、医師から処方されている睡眠導入剤を飲んでもらい後部座席へ。 まだ薬が効かないのか、うわ言を呟いている。 やれ、奴らは私の術を恐れて火刑にできない臆病者など。 復活の儀式がどうだの。 正直、私は娘が度々起こすトラブルで全てが面倒になっていた。 「お父さんにも儀式をしたから……。安心してね……。あの人とお母さんとまた四人で……」 ようやく寝てくれた。 どんなに変わっても、愛情深いところは同じだ。 四人でご飯を食べたり、旅行したりたくさんの思い出は私の中にもある。 今でも花畑を背に、四人で撮った写真がスマホに残っている。 みんな笑顔だ。 だからこそ知っている。 義息子、娘の夫がどれだけ誠実で信頼に足る人物だったかも。 きっと、私の中の喪失感は娘のそれとは比べ物にならないだろう。 ずっと変わらない、愛おしい娘だ。 しかし……。 医療費の捻出、度重なる通報の対応とご近所への謝罪。 もう限界……いやどんなに御託を並べても言い訳だ。 私が全てから、逃げ出したくなっただけだ。 ああ、母さん教えてくれ。 私はどうすれば良かったんだ? 私は今から「間違い」を犯す。 恐らく娘の願いは叶わない。 「幸せなあの世」とやらで、三人だけで暮らしてくれ。 きっと私は娘の言う「地獄」行きだから。 そんなことを思いながら、私は包丁を手に取ってしまった。
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2026/10/09 • 👁 27回 • 💬 0件
ホラー・怪談
2464文字 約5分で読了

箱、開けて

 その神社の階段を上がった先の参道は、左右に楓の木が植えられていた。平らにならされた石畳の脇に、赤い並木道が続く。紅葉と神社ならではの和の景観に集る人は多く、道はごった返していた。千景は散歩の途中でこの神社に立ち寄ってしまったことを後悔する。  とはいえ、鳥居を潜ってしまった以上引き返すのも気まずく、千景は黒のワンピースの裾を翻して人混みを掻き分けていく。人の多さに反して手水は空いていた。冷たい水に手を濡らし、口を漱ぐ。手巾で水を拭って、参拝の列を見た。あまりに人が多くうんざりして、挨拶するのを断念した。  石畳を外れ、白い玉砂利を踏みしめて、境内の隅に行く。参道から見ると御神木の影に当たる場所に、石でできたベンチがあった。そこに腰掛け、一息吐く。が、すぐに不快に眉を顰めた。参拝客のはしゃぎ声は、人が疎らになったここまで届くのだ。  やはり帰ろうか。腰を浮かしかけたとき、ふとこちらに近づいてくる影に気がついた。白い着物に浅葱色の袴を纏った、角刈りの中年男性。権禰宜(ごんねぎ)だろうか。手に銀の箱を抱えている。  権禰宜は千景の前まで来ると、笑みを貼り付けた細い目で彼女を見下ろした。 「よろしければ、如何ですか?」  千景は首を傾げた。差し出されたのは、その銀の箱だ。アルミでできたそれは、如何にもおせんべいやクッキーが入っていそうな、厚みのある正方形の缶だった。お菓子を勧められたのかと思ったが、蓋はぴったりと閉ざされていて、中身が見えない。結局意図が分からず、千景は権禰宜を見上げた。 「どうぞ」  権禰宜は千景に箱を押し付けた。仕方なく箱ごと受け取る。  箱は、存外ずっしりと重かった。何かがみっちりと詰められている重みに、千景は膝の上に箱を落としかけた。  両手で箱を押さえつけながら権禰宜を見上げると、彼はやはり糸目を細めて千景を促した。 「開けてください」  千景は蓋に手をかけた。左手で箱を抱えて、蓋の縁に右手の指をかける。そのまま一ミリほど浮かしたところで、ふと千景は手を止めた。陽光を弾く銀の蓋。薄っぺらいそれを、中を見透かすように凝視する。  何も、視えない、が。  千景は蓋から手を離した。権禰宜を見上げれば、驚いたように箱を見つめている。そんな彼に千景は問いかけた。 「何が入っているの?」 「それは、開ければ分かりますよ」  権禰宜は再び笑みを貼り付けて答える。  千景は膝から箱を浮かせた。相変わらず重い。両手にずっしりと重みが加わる。少し傾けて見るが、中身が動いている様子はない。やはり何かがみっちりと詰められている。 「……振っても?」  尋ねると、権禰宜は細い目をまんまるに見開いた。 「駄目ですよ! 乱暴なことをしたら、可哀想じゃないですか!」  可哀想。  決定的な表現に、千景は箱を開ける気を失くした。  じとっと権禰宜を見上げると、彼は一向に蓋を開けようとしない千景に焦りを覚えたようだった。 「ほら、早く開けましょう?」  急かす権禰宜を無視して、千景は箱に頭を近づけた。息を潜め、耳を澄ます。重い箱は、口を噤んだままだった。生き物が入っている可能性はなさそうだ、と頭を上げかけたとき。  ――コンコン。  内側からアルミの蓋が叩かれた。握り込んだ指の関節で、そっと二回、窺うようなノック。  遠慮がちなそれは、周囲の喧騒に紛れてしまいそうなほど微かなものだったが、箱に手を当てている千景には確かに箱が叩かれた衝撃を感じられた。 「さあ」  ――コンコン。  先程よりも強く、蓋が叩かれる。開けろ、と無言で訴えかける。  千景は箱を持ち上げた。眉を顰め、唇を引き結び、焦りと苛立ちを人の好さそうな顔に浮かべた権禰宜に差し出す。 「返すわ」  権禰宜の太い眉が垂れた。 「そんな」  権禰宜はだらりと両脇に手を下ろしたまま、受け取ろうとしない。  このままでは埒が明かないと判断した千景は、立ち上がった。ベンチに箱を置く。すると権禰宜は慌てて箱を拾い上げて、もう一度千景に差し出した。 「開けましょうよぉ」  縋るような権禰宜に醒めた眼差しを投げ、千景は踵を返した。  開けましょうよ、開けてくださいよ。権禰宜の声が追い掛ける。しかし千景は気に掛けることなく、紅葉を揺らす風のように境内を去っていった。  家に帰った千景は目を瞠った。畳の居間。早くも準備された炬燵の上に、銀色の箱が置いてある。厚みのある正方形のアルミ缶が木目の天板の真ん中に、我が物顔で鎮座していた。  炬燵の周りには、誰もいない。テレビも消されている。  不気味な沈黙を湛える箱の存在に、千景は障子ガラスに手をかけたまま、立ち竦む。 「おかえり、千景ちゃん」  背後からお手洗いに行っていたらしい祖母が声を掛けてきた。立ち竦んだままの孫娘に小首を傾げると、わずかに腰を曲げて千景の横を通り過ぎ、居間に入っていく。 「お入りなさいな。炬燵、温まってるよ」  祖母は千景を先導するように炬燵へと向かい、途中で「あっ」と顔を上げて行き先を変えた。足向ける先は、珠暖簾で仕切られた台所。 「お茶を淹れるからねぇ、おやつにしよう」  朗らかな声を上げて、祖母は珠暖簾の向こうに消えていく。  祖母が茶葉を急須に入れている音を聞きながら、千景はそろりと畳を踏みしめ、炬燵の一辺に正座した。外光を弾く缶の箱に相対する。蓋はぴったりと閉じられて、何が入っているのか分かりやしない。  膝立ちになって、そろりと白い手を伸ばす。  指先が、冷たい箱の肌に触れる。 「おせんべい、好きなのを食べな」  珠暖簾を潜ってこちらへと姿を現した祖母に、千景は振り向く。祖母は急須を握りしめながらにこにことして、台に載せた電気ポットの前に立った。曖昧に頷いて、箱に目を戻す。  蓋に手をかけ、そっと持ち上げる。  軽さもあってすんなりと開いた箱の中には、緩衝材に包まれて敷き詰められた、個包装の煎餅。紙かプラスチックか判断に困る袋に詰められた、円い形が浮かび上がる。 「さっきねぇ、お客さんが来て――」  湯呑に緑茶を入れながら、祖母はのんきに箱の由来を語り出す。  なんとも平和なその話を聴きながら、千景は人知れず、ほう、と溜め息を漏らした。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/09 • 👁 59回 • 💬 0件