「子どもが元気に外を走り回れる世界ってのは、良いモンだな」
昼下がりの公園でそう呟く貴方の横顔は、いつにも増して穏やかに見えました。
「そうですね。こんな日常が、いつまでも続けばいいのにと思います」
僕がそう返すと、貴方は子ども達がはしゃぎ回るのを見ながら眉を吊り下げてみせます。
「ていっても、日常を続けていく義務があるのは俺達大人なんだ。大人が真面目に世界を作っていかなきゃ、子どもが走り回る場所すらなくなっちまう」
「……言いたい事は分かります。ですが、そんなに簡単ではありませんよ。真面目に世界を作るというのは」
意地悪な僕の台詞に、貴方は笑いました。そしてゆっくりこちらを向き、優しい眼差しで言います。
「それでも諦めてないんだろ?」
「……ええ。戦う事しか、出来ませんけれど」
「はは。それがお前なりの一歩なら、否定しないよ。きっとお前の戦った果てには必ず希望があるって……俺は信じてるから」
貴方の義手が、小さく軋む音がしました。僕は、戦いを退いた貴方に希望を託されている。そして僕は貴方の願いを背負うと決めた。だから僕は今もこの世界を守る兵士でいられている。
いつしか訪れた、快晴の公園に似合わぬ僕達の重い沈黙。しかし、それを子ども達の大きな笑い声が引き裂きました。
途端に柔らかく涼しい風が吹き、二人でハッとして顔を見合わせます。
「……平和だな」
「平和、ですね」
陽の光が、温かく降り注ぎます。
子ども達は、変わらず笑い声を上げて無邪気に小さな世界を走り回っていました。
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A「おはようございます! 今日からお世話になります、田中です!」
B「お、待ってたよ。私が教育係の木村な。よろしく。じゃあさっそく、うちの部署の仕事の流れから説明するな。うちは基本的に、クライアントから案件を受注して、それを形にして納品するのがメインやねん」
A「なるほど! もらって、作って、あげるんですね!」
B「……まあ、ざっくり言うたらそうやな。あげるっていうか『納品』な。で、まずは基本として、取引先の人に送る『ビジネスメール』の書き方から覚えてもらおうか」
A「ビジネスメール! やったことないです! あれですよね、最後に『バイバイ』って書くやつですよね!」
B「書くかぁ!!」
A「えっ! 書かないんですか!?」
B「書かへんよ。友達じゃないねんから。ビジネスメールの最後は『よろしくお願いいたします』で締めるのが鉄則やねん。バイバイって送ったら次の日から仕事なくなるわ」
A「よろしくお願いいたします、ですか。なんか、おねだりしてるみたいで恥ずかしくないですか?」
B「おねだりちゃうねん、挨拶や。あとメールの最初には、必ず『お世話になっております』って入れるんやで」
A「お世話になっております……? でも、僕今日入社したばっかりで、その人にお世話になったこと一回もないですよ? 嘘つくことになりませんか?」
B「嘘とかじゃないねん!!」
A「ええっ!?」
B「それがマナー、そういう決まり文句やねん。お世話になってなくても『なっております』って言うのが、社会のルールとしての優しさやねん」
A「社会の優しさ……。じゃあ、まだお世話してくれてないけど、これからよろしくねっていう、未来への投資の言葉なんですね」
B「……まあ、その解釈で納得できるならそれでええわ。で、メールができたら、次は名刺交換の練習もしような」
A「名刺! 自分の名前が書いてある、あのちっちゃいカードですね!」
B「そう。相手から名刺を出されたら、必ず両手で受け取って、『頂戴いたします』って言うんや」
A「両手で。こうですか?」
B「そうそう。で、受け取ったらすぐにポケットに仕舞うのはNG。机の上に綺麗に並べておくのがマナーやからな」
A「あ、机に並べるんですか。じゃあ、相手の名刺がどんどん増えていったら、机の上が名刺だらけになって、トランプの『スピード』みたいになりますね!」
B「遊ぶな仕事中に!!」
A「いや、並べるって言うから!」
B「並べるけど、ゲームはせえへんよ! 相手の名前を忘れないように、確認するために置いておくねん」
A「確認するため……。でも先輩、相手の顔の前に名刺をかざしながら喋ったら、名前を絶対に間違えなくて済むんじゃないですか?」
B「……それは失礼やろ。相手の顔が見えへんし、お前がずっと名刺で顔を隠しながら喋る変な奴になってまうやろ」
A「あ、僕の顔が隠れるんですか」
B「お前が隠してんねん。いいか、名刺は胸の高さで持って、相手の目を見て喋る。これが基本や」
A「胸の高さで、相手の目を見る……」
B「そう、その感じ……って、距離近っ!! なんで俺の5センチ前まで詰めてくんねん!」
A「相手の目をしっかり見ろって言うから! 近くないと黒目の色とか見えないですよ!」
B「黒目の色はどうでもええねん!!」
A「どうでもいいんですか!?」
B「視力を測ってるんちゃうねん。アイコンタクトや。まあ、初日やからな。これから少しずつ覚えていけばええよ。焦らずいこう」
A「はい! 先輩、僕、一生懸命がんばって、この会社の『王様』になります!」
B「社長な!!」
A「あ、社長か!」
B「ごっつい新人が来てもうたわ……」
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突然雨が降り出したので、雨で濡れていた女の子にビニール傘を貸した。
「ありがとう」
お辞儀を一つするとその子は街あかりの下、走って行った。
雨の夜のビニール傘はクラゲに似て、雨粒に街の明かりを反射してきらめいて見えた。
ふと水中にいるような錯覚に陥る。
暗がりの空の下、あの子の傘もまたクラゲになってこの町で輝いているのだろうか。
傘をあげてしまったので、私は数メートル先のコンビニに駆け込んだ。
店の入り口の近くに売ってあるビニール傘。
1本買ってコンビニを出た。
ビニール傘ごしの風景はぼやけて滲んで見える。
街の灯りが雨粒に写りまるで星屑みたいだ。
空の上にいるような軽やかな気分になった。
私は雨の日に星空を片手に町を歩く。
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病から目が覚めた時、俺は慣れ親しんだ光景に驚いた。間違いない、十年以上遊んでいたネットゲームだ! これが異世界転生か! 感動で跳び上がった俺の視界は、瞬く間に暗転した。薄暗い部屋、目の前に黒服のゲームマスターがいる。「なぜここに呼ばれたか分かりますか? 本作にジャンプ動作はありません」
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その町へ行くには、各駅停車の電車を三度乗り継ぎ、最後には一日に数本しか走らない、一両編成のディーゼル車に揺られる必要があった。
線路脇に生い茂る夏草が、電車のボディをパチパチと叩く。そのたびに、私は自分がどこか、取り返しのつかないほど遠い場所へ運ばれていくような錯覚に陥った。
――遠い町のどこかで。
誰が言ったのかも分からないそのフレーズが、窓の外を流れる緑の波に重なっては消える。
三か月前まで、私は東京の広告代理店で、分単位、いや秒単位のスケジュールに追われていた。
深夜、コンビニの冷え切った弁当を食べている途中、ふと自分の指先が震えているのに気づいた。何に対しての恐怖なのかは分からない。ただ、ここではないどこかへ行かなければ、私は私でなくなってしまうという確信だけがあった。
退職届を出し、荷物をまとめ、私はスマートフォンの地図を無造作にスクロールした。指が止まったのは、地図の端、海と山に挟まれた小さな空白の地点だった。
降り立った駅は「渚崎(なぎさき)」という無人駅だった。改札を出ると、潮の香りが混じった、少し重たくて温かい風が吹いた。
駅前には錆びた看板を掲げたタバコ屋と、シャッターの下りた文房具店があるだけだ。時間が止まっているのではなく、あまりにもゆっくりと流れているために、動いていることに気づかないだけなのだと感じた。
私が借りたのは、坂の上にある古くて大きな平屋だった。大家さんは足の悪い老婆で、名前をトキさんと言った。
「何もない町だよ、ここは。若者が来るなんて珍しいねぇ」
トキさんはしわくちゃの手で私に麦茶を差し出しながら、不思議そうに笑った。
「何もないのが、いいんです」
本心だった。ここには私を急かすディスプレイも、見知らぬ他人の不機嫌な視線も、何者かにならなければならないという強迫観念もない。
この町での生活は、驚くほど単調だった。朝、鳥の声で目を覚まし、顔を洗って裏庭の小さな畑をいじる。午後は近くの小さな図書館で、ボランティアとして本の整理を手伝う。夜はトキさんから分けてもらった野菜で簡単な食事を作り、暗闇が町を飲み込む前に眠りにつく。
最初の一か月は、その静寂が怖かった。耳鳴りがするほどの静けさの中で、自分の心臓の音だけが大きく響く。私は自分が透明な存在になって、そのまま消えてしまうのではないかと怯えた。
でも、二か月が過ぎる頃、私の感覚は少しずつ変わり始めた。
図書館で古い郷土資料を整理している時、一枚の写真を見つけた。五十年前の、この町の祭りの様子が写っている。白黒の写真の中で、今の私と同じくらいの年齢の男女が満面の笑みで踊っている。背景にある建物は、今では朽ち果てて空き地になっている場所だ。
その時、気づいた。私が「何もない」と思っていたこの場所には、確かに誰かの人生があったのだ。ここで生まれ、恋をし、働き、そして老いていった人たち。彼らにとって、この町は世界の中心であり、帰るべき場所だった。「遠い町」というのは、あくまで私から見た主観に過ぎない。誰かにとっては、ここが唯一の「ここ」なのだ。
ある日の午後、私は防波堤に座って海を眺めていた。すると、地元の女子高校生が一人、隣にやってきた。彼女はセーラー服の襟を風になびかせながら、黙って海を見ていた。
「ねぇ、お姉さん」
唐突に、彼女が声をかけてきた。
「はい?」
「東京から来たんでしょ? 何でこんな、世界の果てみたいなところに来たの? スタバもないし、服を買うところもない。みんな、ここを出て行きたいって思ってるのに」
彼女の瞳には強い憧れと、それと同じくらいの諦めが混じっていた。
私は少し考えてから答えた。
「私はね、自分の場所を見失ったから来たんだと思う。ここに来れば自分が誰なのか、思い出せるような気がして」
彼女は鼻で笑った。
「変なの。私はここじゃないどこかへ行けば、もっと素敵な自分になれると思ってるのに」
彼女との会話は、鏡を見ているようだった。
かつての私は、ここではないどこかを求めて全力で走っていた。そして、今ここにいる私は、かつていた場所から逃げてきた。でも、どこまで逃げても、どこまで追い求めても、私は私を連れて歩くしかない。
「遠い町」なんて、本当はどこにもないのかもしれない。自分が立っている場所を愛せるか、あるいは受け入れられるか、それだけのことなのだ。
夏が終わり、風が秋の気配を運んできた頃、私は一通の手紙を書いた。宛先は、かつての職場の同期だった友人だ。
「お元気ですか? 私は地図の余白みたいな町で、ゆっくりと息をしています。ここは本当に遠い場所です。でも、ここにある風も、光も、人々の営みも、全てが本物です。今まで私は、遠くにあるものばかりを見て、足元の石ころに気づかずに転んでばかりいました。でも今は、その石ころの冷たさや、形の違いを楽しめるようになっています」
手紙を持ってポストに行く途中、トキさんとすれ違った。
「おや、顔色が良くなったねぇ。あんた、もうすぐここを発つんだろう?」
図星だった。自分でも無意識のうちに、次の場所へ向かう準備を始めていた。
「分かりますか?」
「何となくね。ここは止まり木みたいなもんだ。羽を休めた鳥は、また飛んでいかなきゃいけない」
トキさんは優しく微笑んで、私の肩を叩いた。
「どこへ行っても、あんたがここで過ごした時間は消えないよ。遠い町のどこか。そこでの記憶が、いつかあんたを支える日が来る」
私は冬が来る前に、この町を発つことに決めた。
最後の夜、私は二階の窓から町を見下ろした。小さな電球の灯りが、ポツリ、ポツリと点いている。それぞれに物語があり、それぞれの「今」がある。
私はこの町の名前を一生忘れないだろう。でも、明日からはまた、別の「ここ」を探して生きていく。
翌朝、駅のホームに立つ私の手には、小さな鞄一つ。そして、やってきた一両編成の電車に乗り込む。ディーゼルの音が響き渡り、ゆっくりと列車が動き出す。
窓の外、ホームの端でトキさんが小さく手を振っているのが見えた。私はその姿が見えなくなるまで、何度も手を振り返した。
電車は、昨日までいた「遠い町」を背にして走る。トンネルを抜けるたびに、空の色が変わっていく。
私は手帳を開き、新しい真っ白なページにペンを走らせた。
「遠い町のどこかで、私は私を見つけた」
書き終えると、心地よい眠気が襲ってきた。
ガタン、ゴトン……と響くリズムは、もう私を急かすことはない。私は目を閉じ、まだ見ぬ次の町へと想いを馳せた。
どこへ行こうと、そこが私の居場所になる。そんな根拠のない、けれど強い確信が、胸の中に静かに灯っていた。
(了)
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1
言葉っていう字は言うと葉って言うけれど、確かに落ち葉のように心に降り積もっていくものなのかもしれない。
私には仲の良い友人がいてそんな彼女が小学4年生の時に 一度不登校になってしまった。
夏休みが明けた登校日、彼女は学校に来なかった。
一体どうしちゃったんだろう……
翌日もその翌日も彼女は学校に来ない。
少し遠回りになるけれど私は彼女の家を訪ねて一緒に学校に行くことにした。
朝いつもより ほんの少しだけ早く出る。
まだまだ日差しは強くって 急ぎ足で歩いていたら体が熱くなってくる。
彼女の家の前でちょっとためらった。
しばらく 迷っていたけれど勇気を出してチャイムを押す。
「はーい」
声がして扉が開くと彼女のお母さんが出てきた。
「あら、夏ちゃん。おはよう」
「春ちゃんのお母さん、おはようございます」
「もしかして春のこと迎えに来てくれたの?」
「うん、春ちゃんいますか?」
「ごめんね、春ちょっと体調が悪いの。せっかく迎えに来てくれたのに」
「そうなんだ…早く元気になってくれるといいな」
「ごめんね。夏ちゃんの気持ち 伝えておくから……」
春ちゃんのお母さんは、申し訳なさそうにそう言った。
翌日、昨日よりはいくらか軽い足取りで 私は彼女の家に向かった。
チャイムをしてまた お母さんが出てくる。
「おはようございます。春ちゃんと一緒に学校に行こうと思って」
だがやはり今日も彼女は出てこない。
一人寂しい気持ちで私は学校へ向かった。
その次の日もその次の日も……
だがいつも同じことだった。
彼女は出てこないでお母さんが代わりに出てくる。
もうずっと彼女の顔を見ていない。
ほんの少しでいいから顔を見せてほしい。
悲しい気持ちが少しずつ朝の挨拶とともに溜まっていった。
言葉というのはやっぱり葉っぱと似ているのかもしれない。
返事が返ってこなければ、話すたびに一つずつ落ちてゆく。
「おはよう」
彼女にそう言いたいだけなのにな……
2
玄関のチャイムが鳴る。
夏ちゃんだ!
「おはようございます!はるちゃんいますか」
お母さんが私の代わりに玄関に出て行く。
ごめんね夏ちゃん、出て行って その顔を見てお話ししたいのに 今の私にはそれができない……
こんな顔見られたくない。
大好きな夏ちゃんだから余計に。
「夏ちゃん帰っちゃった?」
「うん、とても心配していたわよ」
「そっか…」
私はお母さんの方を見た。
ほっぺに手を当てる。
そこには大きなガーゼが当てられていて、上から医療用テープで止められていた。
8月に親戚の家に遊びに行ったら買飼っている犬に飛びつかれて思いっきりガブリと噛まれたのだ。
まだ傷跡は痛いしガーゼは取れないし、何よりこの傷跡をみんなに見られるのは辛すぎる。
2学期の初めの登校日私はどうしても足がすくんで玄関から出られなかった。
外に出るのが怖い……
そしてこの噛まれた傷跡を見られるのがとても怖い。
みんなに気持ち悪がられたらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
嫌がられたらどうしよう。
不安な気持ちばかりがどんどん渦巻いて外に出ようとするたびにお腹が痛くなる。
そして学校に行けない日は 2日〜3日、1週間とどんどん伸びていく。
毎日なつちゃんの「おはようございます」の挨拶が聞こえて、会いに行きたくて顔を見たくて仕方がないのにガーゼのついた顔を見られるのが嫌で嫌で仕方がない。
泣きたい気持ちばかりが心の中に降り積もってゆく。
やがて 10月の半ばになりガーゼを外しても大丈夫とお医者様から言われた。
それでも、鏡を見るとひどい傷跡になっていてすっかり気が滅入ってしまった。
3
11月になっても彼女は学校に来ない。
私は毎日彼女に手紙を書いて帰り道にポストに入れることにした。
毎日1枚ずつ、書いてはポストに入れ続ける。
日も来る日も…いつのまにか季節は12月になりついに終業式の日になった。
2学期最後の手紙をポストに入れる。
彼女に私の言葉は届いたのだろうか。
会いたいよ春ちゃん。
4
ある時、夏ちゃんから手紙が届くようになった。
毎日毎日学校で会ったことや その日のことを書いてある。
そして最後にはいつも こう書いてあるのだ、
「早く学校に来てね春ちゃん」
その言葉に私はどれほど救われただろう。
手紙は1枚ずつ机の上に重なってゆく。
それを毎日何度も読み返した。
頬の傷は12月に入って少し赤みが薄くなってきたような気がする。
犬に噛まれた恐怖。外に出れない恐怖がほんの少しずつ薄らいでいくような気がする。会いたいな、夏ちゃん。
やがて冬休みになりまた年が明けた。
新学期の準備を始める。
明日から3学期……
私は夏ちゃんの手紙を握りしめた。
5
冬の空は閑散と寒い。
2人の少女が通学路を歩いている。
寒さの冬はもうすぐ終わる。夏の間に生い茂った葉は秋になるとその葉を落とし、やがて腐葉土となって春にはまた新しい木々たちの栄養としてその命を全うする。そして新しい若葉が出てすくすくと成長してゆくのだ。
言の葉もまた、人の心に落ちてやがてその人の心を作っていく。
2人の少女の笑顔を祝福するかのように寒梅が咲いていた。
春はもう少し先……
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「うさぎってさ冬になると毛の色が変わるでしょ。冬毛に生え変わって。雪の中で目立たないように雪そのものにカモフラージュするんだ」
うさぎの背を撫でながら彼女はそう言った。
野生の生物はとてもしたたかで強い。
進化における適応とは生存率を上げるために環境そのものに肉体を変化させる。
最たるものが擬態カモフラージュなのだろう。
彼女はとても目立たない。
だがそれが本当の彼女でないことを私は知っている。
窓辺の3番目の席、そこが彼女の席でいつもそこからどこか遠く窓の外を見ていたのを思い出す。
彼女と仲が良くなったのは高校に入って2学期、ふとしたことからだった。
きっかけはうっかり彼女のノートを私が持って帰ってしまったことだった。
家に帰ってカバンを開けてから気がついた。
ノートにはびっしりと詩が書かれていた。
ただただ、びっくりしてしまった。
話したことがない何を考えているのかわからない、目立たない彼女。
そんな彼女の考えが、それはそれは美しい言葉でつづられていた。
私は文芸に明るい方ではない。
誰かが書いた詩を読んだのなんてそれこそ学校の授業でほんの2から3編ぐらいだろう。
そこには彼女の心があった。
私はその本をすぐに返すことができなかった。
それは、内容を見てしまった気まずさもあったしそこに書かれていた詩が美しくて返したくないという思いもあったからだ。
翌日返しそびれて、さらにその翌日彼女は新しいノートを買っていた。
ノートなしに授業を受けるわけにはいかないので当然といえば当然なのだが……
なんとか覚悟を決めて彼女にノートを返せたのは1週間も経ってからだ。
「ごめん私の荷物に紛れちゃって」
気まずくて何とか言ったのに彼女の対応はあっさりしたものだった。
「あ、そうなの。ありがとう」
ノートを受け取れば本当に何も興味がなくなってしまったかのような彼女。
「あのごめん。ちょっと中身見ちゃった」
私としては思いっきり勇気を出してそう言ったつもりだったがやはり彼女はたいして興味がなさそうに、
「いいよ。中身見ないと誰のかわからないもんね」
と一言返ってきた。
「すごいねノートに書いてあった…詩?」
その一言から少しずつ会話が発展し彼女は自分が書いたものの話や好きなものの話をしてくれるようになった。
そして私たちは友人になったのだ。
それまでの高校生活が一変した。
私には見えていない世界、感じていなかった世界を彼女は感じている。
今までの人生において出会った誰よりも彼女の言葉に惹かれた。
高校生活の3年という歳月がどんな時代よりも鮮やかに記憶に残っているのは彼女がいたからだ。
大学に入り私たちは別々になった。
彼女がその後文学賞を取ったのを私は知っている。
ノートに書かれた詩ではないけれど本という形で私は彼女の作品と再び巡り合った。それは誰もが知っている作品だ。
だが作家の生活というのは表に出てくるものではない。
作者が彼女であることを知っている人間はほんのわずかだろう。
雪に紛れてその姿を隠すうさぎのように彼女の姿を見つけられるものはほんのわずかしかいないのだ。
それはきっと彼女の処世術。この世界に擬態し目立たずに生きている。
だが才能は誰もが愛してやまないものだ。
きっとこの先もずっと……
同窓会に行った時、彼女は来ていなかった。
そのことを気づいていたのは私だけだろうか。
同窓生たちと話すが誰も彼女の名を口にしなかった。
誰も彼女の活躍を知らない。
私は鞄の中の彼女の本を握りしめた。
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どうして、いつも私はこうなんだ。
コンビニに向かう
私の背中や頭や肩に激しい土砂降りが突き刺さる
「ざまあみろ」
「お前だからこうなんだよ」
雨音がそんな風に言っているように聞こえた。
学校もバイト先でもいつも暗くて浮いてる私
意識してるわけじゃないけどさ
そんな風に見えてるらしい。
私は普通に生きてるだけなのに。
どこで何を間違えた、なんて考えるだけ無駄なんだ。
考えたって覆らない。だれも私の言葉に耳を貸さない。
私は異端児で要らない子だから。
何も考えたくなくて、
入ってみたコンビニだけど
別に欲しいものなんて何も無いんだよね。
欲しいものは時間…かな。なんて
嫌なこと言っちゃうし
ほらね、きっとこういうところがダメなんだ。
とりあえず、死なずに今日も生きてくれた自分に
ご褒美ってことでデザートでも買ってあげますか。
何気なく手に取ったモンブランタルトを
見つめながら
「……お前は甘くていいね、甘みも深みも持っててさ」
完全に無意識だった。私から解き放たれた言葉は
いったいどこに向かって世界に溶けたんだろう。
そんなとき有線から流れてきた
ラジオのたった25秒ほどの言葉が
少しだけ、私のこころの中に入り込んできた。
「今日のひとこと。うまくいかなかった日
帰り道にそっと甘いものを買ったなら、
それはボクからの小さなお祝いです。
苦い時間を過ごしたあなたが頑張ってくれて
最後に甘いものをひとつ選んでくれた。
今日はそれだけで、十分。
どうぞ、あたたかくしてお帰りください
これを聴いてくれてるあなたになにか
いいことがありますように」
「…………。」
黙って聴いてしまっている。こんな私が。
なんかちょっといつもとはちがう
そんな風が入ってくる予感だけを残して。
なんだろう。ちょっとだけ嬉しかった。
ほんの少しだけ、まだこの世界にいてもいいのかな
そんな風に思えたからだ。認めてもらえたような気がして
ほんの少しだけ涙ぐんで微笑んでしまった。
だめだ。かなり疲れてんな、私。
今日はもう、早く帰って休もう。
支払いをすべく、私はレジに向かった。
「428円になります」
「はい」
あ…400円しか入っていなかった。これはまずい。
28円足りない…。さっきのラジオのことなんて
頭の中に滞在する余裕がないくらいに
焦りと不安が上書きしていく。
「あ、あの……こっちだけで―」
私が言いかけたタイミングで後ろから
「あ、足りない分はぼくが出しますんで」
若い男性の声だった。
びくっとして私が振り向くと
爽やかで清楚な優しそうな男の子
やば。かっこいい…。じゃなかった。
「……あ、ありがとうございます。すみません」
私は何度も頭を下げた。
申し訳なくて、そそくさと退散しようとしたら
商品を受け取るのを忘れてしまった。
またやってしまった。こんな短い間に。
いろんなことがありすぎたのだ。
こういうとき、時間よ戻れって本気で思う。
こんな見たくもない私を世界に刷り込ませてしまうなら
いっそ何も買わずにコンビニなんて寄らなきゃよかった。
すると足早に足音だけ聞こえてきた。
私はまたびくっとなって振り返る。
「待って……。篠原さんだよね?同じクラスの。はい。商品、忘れてるよ」
どうして私の名前…。いや、そんなことよりも
わざわざ届けてくれた…?こんな私のために?
再び私は何度も頭を下げて消えゆくような声で
お礼を何度も囁いた。
「綺麗な眼と髪だったから、そうかなあと思ってさ」
この日の私の胸の高鳴りが今日1番うるさかった。
そこから家に帰るまでの道は
なんだか少し、くすぐったかった。
雨の音に混じって、さっきの声が蘇る。
「今日はそれだけで、十分」
あの人は私のことなんて知らない。
それでも、あの言葉は確かに私に届いた。
こんな私でも、ちょっと変われる気がした。
まだ私、頑張れるかも。
本当にありがとう。
私は今日もあなたの言葉で生きている
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「つーかーれーたー」
ミーンミーンと蝉の声が煩い。
八田の嘆きは、蝉の大合唱に打ち消された。
「何て?」
「だーかーらー! 疲れたって!
陰で休もーぜ!」
「…………そうやって、さっきから休んでばかりじゃないか。
いつになったら目的地に着くんだ」
山瀬の顔が険しくなる。
「大体、限定グッズがどうとかって言い出したのはお前の方だろう。
この調子じゃ、今日は諦めた方がいいんじゃないか」
山瀬が腕を組み、八田を睨んだ。
「あちーもんはあちーもん! 無理!
休むぅう!!」
八田は数少ない影を目がけて走り出した。
「……ったく。
昼間に歩くなら帽子か日傘でも用意しろよ。
準備不足なんだよ」
山瀬が舌打ちをする。
「おーん? 山瀬だって用意してないじゃん!」
「俺はお前に急に呼び出されたんだから、用意してるわけないだろ」
「行き先聞けば良かったじゃん」
「……駅からこんなに歩くとは思わないだろ……
十五分かけて歩いてもまだ半分だぞ……
っ、バスもねぇしよ……!」
山瀬の眉間のシワが深くなる。
「まーまー、そんなに怒るなって! な?」
「はぁ!? 誰のせいだと……!」
「あ! ジュースめっけ!」
「コラ、聞けや!」
脱兎の如く自動販売機に向かって走っていく八田の背中に、山瀬は声を投げつけた。
「山瀬ー!
……と……?」
「何て!?」
煩く鳴く蝉の声で、八田の声は殆ど掻き消されて届かない。
山瀬は大きくため息をつき、汗で胸元に張り付いた服をパタパタとさせた。
淡いグレーのシャツが、いくつも濃いシミを作っていた。
山瀬は一度天を仰ぐと、八田の元に歩いた。
「早くー」
トボトボとやる気のない山瀬の歩速に、八田からの叱咤が入る。
「コーラとコーラとコーラ! どれがいい?」
八田はニカッと笑って、山瀬の首元にペットボトルを一本あてた。
「冷てっ! ……いや、それは全部コーラだろ」
「いや、これは普通の!これはゼロシュガー!これは……」
「あー、はいはい。普通ので」
山瀬は八田から赤いキャップのコーラを受け取ると、蓋を開けて口をつけた。
喉を通る冷たい水分と、強めの炭酸の泡が心地良い。
山瀬は一気にペットボトルの半分を飲み干した。
「……イベント、何時まで」
「おー? んと、17時まで?」
「あと30分はあるな。……ギリギリだ」
「走ったら間に合う」
八田が山瀬に向かってグーサインを出す。
「……走れるか?」
「おーよ! これ飲んでからな!」
「……コケるなよ」
「あはは! 馬鹿にすんな!」
八田は大きく山瀬の背中を叩いた。
「後で疲れたって泣くなよ」
山瀬が八田を肘で小突く。
「ダイジョーブだって!」
「……お前の大丈夫は大丈夫じゃないんだよなぁ……」
蝉の声が煩くて。
山瀬の声は溶けるように消えていった。
「何て?」
「……何でもない。行くぞ」
残りのコーラを飲み干して、山瀬は一歩踏み出した。
続きを読む
ねんねんころりねんころり
歌う月夜の物語
月のうさぎは 歌います
良い子はお眠り夢の中
ねんねんころりんねんころり
お月様は優しくて
金の毛布をかけてくれるよ
おやすみおやすみ
はるちゃんは暖かなお布団の中
おやすみおやすみねんころり
ねんねんころりねんころり
目を閉じれば優しい子守歌が聞こえてくる。
少し高めの男性の声で。
お父さんの子守歌だ。
記憶の中の父は、いつも気難しい顔をしていた。
しわがれた声で、私が歌うと不機嫌そうな顔をする。
記憶に残る父は歌ったりしない。
私は仏壇にそっとお線香を供えた。
もう父が亡くなってから十年。
色々と思うことはある。
かなり気難しい性格だった父に甘やかしてもらった記憶はない。
だがそんな父とは違う姿が私の記憶の奥底にあるのだ。
若い姿で高い声で歌う父の姿。
その2つは、どうしても重ならなかった。
父はいつからあんなに気難しい性格になったのだろう。
父の書斎を掃除していてある時 一つのカセットテープを見つけた。
母から父が若い頃 歌手を目指していたという話を聞いたことがある。
当然だがその頃はまだ青年と言っていいぐらいの歳で、結婚してからしばらくの間も仕事の合間にあちらこちらで歌う活動をしていたらしい。
私の知らない父の姿。
アルバムの写真の明るい表情の青年はどう考えても記憶に残る父と一致しない。
私が3歳の時に父は甲状腺がんで喉の手術をしたらしい。
それっきり父の夢は断たれてしまった。
歌うのが好きだったらしい父の話を聞きながら、歌の嫌いな父の姿を思い出す。
父にとって歌うということは、辛くて重々しい記憶になってしまったのだ。
そしてそれは幼い娘の私が歌うだけでも嫌だったのだろう。
カセットテープをセットする。
スイッチを押すと父の歌声が聞こえた。
おやすみおやすみ
はるちゃんは暖かなお布団の中
おやすみおやすみねんころり
ねんねんころりねんころり
私のために作ってくれた子守歌。
それは世界でただひとつの幸福な思い出。
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