これでやっとあの人に会える。
この身を魔に染めてまで、会いたかったあの人に。
血肉となる豚肉。
骨となる牛の乳。
魂の糧となる虫の死骸。
他にも干した果実や生魚などを贄とする。
それらを全て鍋へ。
火をかける。
全てがドロドロに混ざるまで何時間でも。
異臭を放つ「それ」を床へと優しく移動する。
最後に自分の血で印を描き、何度も呪言を唱え続ける。
あの世に届くように、喉が枯れても。
この部屋に反響するほどの声で。
ああ、早く会いたいな……。
外が騒がしい。
またあいつらか。
気にせず、呪言を唱え続ける。
鍵をかけたはずのドアを開けられ、何人かが入ってきた。
魔女狩り共め。
また私の儀式の邪魔をするつもりか。
必死の抵抗虚しく、私は奴らの根城に連れて行かれた。
……まあよい、儀式は十分進んだ。
多少、呪言を省いてもきっとあの人は蘇る。
――
「お父様ですね?」
「はい、また娘が申し訳ございません。」
「……異臭に騒音。入院前と併せてこれで四度目の通報です。」
「……」
「警察としてあまり踏み込んだことは言えませんが……。
娘さんの退院はまだ早かったのではないでしょうか?」
「返す言葉もございません……。大変ご迷惑をおかけしました」
娘を自動車に乗せる。
暴れ出すと困るので、医師から処方されている睡眠導入剤を飲んでもらい後部座席へ。
まだ薬が効かないのか、うわ言を呟いている。
やれ、奴らは私の術を恐れて火刑にできない臆病者など。
復活の儀式がどうだの。
正直、私は娘が度々起こすトラブルで全てが面倒になっていた。
「お父さんにも儀式をしたから……。安心してね……。あの人とお母さんとまた四人で……」
ようやく寝てくれた。
どんなに変わっても、愛情深いところは同じだ。
四人でご飯を食べたり、旅行したりたくさんの思い出は私の中にもある。
今でも花畑を背に、四人で撮った写真がスマホに残っている。
みんな笑顔だ。
だからこそ知っている。
義息子、娘の夫がどれだけ誠実で信頼に足る人物だったかも。
きっと、私の中の喪失感は娘のそれとは比べ物にならないだろう。
ずっと変わらない、愛おしい娘だ。
しかし……。
医療費の捻出、度重なる通報の対応とご近所への謝罪。
もう限界……いやどんなに御託を並べても言い訳だ。
私が全てから、逃げ出したくなっただけだ。
ああ、母さん教えてくれ。
私はどうすれば良かったんだ?
私は今から「間違い」を犯す。
恐らく娘の願いは叶わない。
「幸せなあの世」とやらで、三人だけで暮らしてくれ。
きっと私は娘の言う「地獄」行きだから。
そんなことを思いながら、私は包丁を手に取ってしまった。
続きを読む
今から僕は、他人を見下す。
気分が悪いときは、自分よりも下の人間を見ると良い、と誰かが言っていた。多分、そいつは性格が悪い。
今、僕はその性格が悪い人間に成り下がろうとしている。なぜか。そう問うやつには中指を立てたい気分だ。理由を言っても適当な相槌しか打たないくせに、無駄に人の奥底を知ろうとする無責任な奴らは死んでしまえば良い。そうなりゃ、僕のこの鬱屈な気分は少し晴れる。
お察しの通り、僕は気分が悪い。とても、だ。理由を話す気にはならないが、凶悪殺人犯と小一時間談笑できるほど苛ついている、と言えば少しは察していただけるだろうか。
この気分を少しでも晴らそうと、僕は商店街へと歩みを進めた。もちろん、そこで何かを買うわけではない。目的地は商店街の外れにある狭い路地、だ。
昔、自分だけの秘密基地を作ろうと、この辺りを歩き回っていたことがある。そのときに偶然見つけたのが、汚いおっさんだ。おっさんは地面に敷いた薄い段ボールに寝転がり、萎れた煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいた。あの時の香りを思い出すだけで、不思議と気分が高揚してくる。子供ながらに分かった。この人は自分より圧倒的に下の存在だと。そしてこの関係が崩れることは、今後起こり得ないだろう、と。
きっとあのおっさんは、僕を見るなり金をせびってくるだろう。それか、無理矢理にでも奪いにくるかもしれない。今の自分よりも下の存在なのだから、もしかしたら惨めったらしく媚を売ってくるかも。
どの想像をしても、不思議と心臓が激しく脈打ってくる。僕に必要な存在は暗がりから救い出してくれるヒーローではない。僕がまだ堕ちきっていないと教えてくれる、最底辺の人間だ。
商店街をするりと抜け、例の路地へ。
歩みを進めるにつれて、あの香りが漂ってくる。
疲れきった煙草の匂いが、
全く美味そうではない缶コーヒーの香りが、
そしてなにより――汚いおっさん自体から発せられる、鬱屈とした臭いが。
それらの香りは、僕の鼻口を侵してくる。酷い匂いだ。だが、今僕はそれを求めている。終わりきった人間の醸し出す終わりきった匂いを、たまらなく求めている。
曲がり角を曲がった先に、そいつはいた。
酷使された段ボール。
うざったい煙草の匂い。
安っぽい缶コーヒーの作られた香り。
そして――汚い、おっさん。
おっさんはこちらを見るなり、「ぁ?」と、底辺の染みついた声を発した。期待通りの姿に、自然と頬が釣り上がっていくのを感じる。
「誰だアンタ?」
おっさんは、僕のことを覚えていないようだった。当たり前だ。あのときから十年は過ぎている。おっさんも記憶の中のものより随分と老けていた。
「大丈夫、別にお前は知らなくて良いから」
指を前に突き出し、僕は告げた。おっさんはぽりぽりと頭を掻き、不思議そうに首を捻っている。
「なんでこんなとこに来たんだ? 迷子か?」
「ちげえよ。あんたに会いに来たんだ」
おっさんが目を見開いた。俺に会いにくるなんてどんな物好きだ? とでも言いたげな顔をしている。
「ほお……そりゃ、なんでまた?」
「見下しに来たんだ、アンタを」
言っていて、吹き出しそうになる。その言葉はあまりにも下卑ていた。だがまあ、こんな奴に何を言おうが罰は当たらないだろう。
「そうかい」
おっさんは驚くでもなく、怒りを露わにするでもなく、ただ手元の缶コーヒーをあおった。
「……は? それだけ?」
「それだけって?」
ゆったりと、おっさんは余裕そうにこちらを見つめた。こちらの全てを見透かしているような、ねちっこい目線。経験を積んできた、大人の眼光。
「もっと……もっと、あるだろ! 歳離れてるガキに見下されようとしてんだぞ!?」
「それがどうしたんだ。今更どれだけ馬鹿にされようが変わらんさ。もう慣れたよ」
その言葉に、少し安堵した。期待していた反応ではなかったが、やはりこいつは終わっている。目的自体は果たせる。
「……あんたさ、恥ずかしくないのか? 大人のくせして、こんなとこで一人でゴロゴロして! どうせ仕事もしてないんだろ? ずっとさ! 正直、見てるだけで反吐が出るね!」
なら見なけりゃ良いだろう、そう囁いてくる心中は無視して、ポケットからスマホを取り出す。
そして、カメラのシャッターを切る。
「あんたのこと、晒してやるよ! 見た奴らの反応が楽しみだね! 友達と一緒に笑い飛ばしてやる!」
友達なんか、いないのに。
「ネットにも載せてやる! あんたが俺から金奪おうとしてきたってな! 叩かれるぜ、あんた! 『高校生から金奪うなんてクズだな。死ねば良いのに』そんなコメントが幾つも来る! それが来るたびに見せに行ってやるよ、アンタがどんだけ社会に必要とされてないか思い知らせてやる」
一番みんなに必要とされてないのは、僕の方だ。
「そんで……そんで、アンタに殴られたって、警察に通報してやるよ! この傷をアンタのせいってことにしてやる!」
そんなことして何になるのだ。僕を殴った奴らにはなんのお咎めもないじゃないか。
「どうだ! 覚悟しろよ! 今言ったこと、全部やってやるからな!」
それをして、何になるというのだろう。
気分は晴れるだろうか?
晴れないだろう。人を不幸にして幸せになんかなれない。
これからの生活は変わるだろうか?
変わるわけがないだろう。原因はこの人じゃない。クラスの奴らと……僕自身だ。
こんなことをして、何になるのだろうか?
……自分が、浮浪者よりも下の存在だということが証明される。証明、されてしまう。
嫌だ。だが、事実だ。僕は今、この地球上で一番下の人間だ。それは紛れもない事実で、多分、今後一生変わることはない。
「辛かったね」
少し前まで見下していた人間に、ずっと、ずっと欲しかった言葉を言われてしまった。改善案を提示するでも、適当に相槌を打つでもない。ただ、同意してくれる。寄り添ってくれる。こんな、最底辺のクズな野郎に。
「君に何があったのかは知らないが、私は君の気持ちがわかると思う。何があったか、教えてくれないか?」
「なんで、俺みたいな底辺野郎に優しくするんだよ。俺、アンタに酷いこと……」
「私みたいになってほしくないからなぁ。それに、私はもう戻れないが……君ならまだ、這い上がれるだろ?」
喉の塊を呑み込んだ。多分、今僕は酷い顔をしている。涙と鼻水で、汚れきっている。でも、だらしなく笑っている。
「さて……。話そうじゃないか、同じ底辺同士」
この人は、僕を同じレベルで扱ってくれている。最底辺の僕を、あなたと同じ程度だと言ってくれている。全くそんなことないと言うのに。
近くに寄ると、煙草の匂いがした。それと、安っぽい缶コーヒーの香り。そして、人生の年輪を刻んでいる、かっこいい大人の香りが。
続きを読む
その神社の階段を上がった先の参道は、左右に楓の木が植えられていた。平らにならされた石畳の脇に、赤い並木道が続く。紅葉と神社ならではの和の景観に集る人は多く、道はごった返していた。千景は散歩の途中でこの神社に立ち寄ってしまったことを後悔する。
とはいえ、鳥居を潜ってしまった以上引き返すのも気まずく、千景は黒のワンピースの裾を翻して人混みを掻き分けていく。人の多さに反して手水は空いていた。冷たい水に手を濡らし、口を漱ぐ。手巾で水を拭って、参拝の列を見た。あまりに人が多くうんざりして、挨拶するのを断念した。
石畳を外れ、白い玉砂利を踏みしめて、境内の隅に行く。参道から見ると御神木の影に当たる場所に、石でできたベンチがあった。そこに腰掛け、一息吐く。が、すぐに不快に眉を顰めた。参拝客のはしゃぎ声は、人が疎らになったここまで届くのだ。
やはり帰ろうか。腰を浮かしかけたとき、ふとこちらに近づいてくる影に気がついた。白い着物に浅葱色の袴を纏った、角刈りの中年男性。権禰宜(ごんねぎ)だろうか。手に銀の箱を抱えている。
権禰宜は千景の前まで来ると、笑みを貼り付けた細い目で彼女を見下ろした。
「よろしければ、如何ですか?」
千景は首を傾げた。差し出されたのは、その銀の箱だ。アルミでできたそれは、如何にもおせんべいやクッキーが入っていそうな、厚みのある正方形の缶だった。お菓子を勧められたのかと思ったが、蓋はぴったりと閉ざされていて、中身が見えない。結局意図が分からず、千景は権禰宜を見上げた。
「どうぞ」
権禰宜は千景に箱を押し付けた。仕方なく箱ごと受け取る。
箱は、存外ずっしりと重かった。何かがみっちりと詰められている重みに、千景は膝の上に箱を落としかけた。
両手で箱を押さえつけながら権禰宜を見上げると、彼はやはり糸目を細めて千景を促した。
「開けてください」
千景は蓋に手をかけた。左手で箱を抱えて、蓋の縁に右手の指をかける。そのまま一ミリほど浮かしたところで、ふと千景は手を止めた。陽光を弾く銀の蓋。薄っぺらいそれを、中を見透かすように凝視する。
何も、視えない、が。
千景は蓋から手を離した。権禰宜を見上げれば、驚いたように箱を見つめている。そんな彼に千景は問いかけた。
「何が入っているの?」
「それは、開ければ分かりますよ」
権禰宜は再び笑みを貼り付けて答える。
千景は膝から箱を浮かせた。相変わらず重い。両手にずっしりと重みが加わる。少し傾けて見るが、中身が動いている様子はない。やはり何かがみっちりと詰められている。
「……振っても?」
尋ねると、権禰宜は細い目をまんまるに見開いた。
「駄目ですよ! 乱暴なことをしたら、可哀想じゃないですか!」
可哀想。
決定的な表現に、千景は箱を開ける気を失くした。
じとっと権禰宜を見上げると、彼は一向に蓋を開けようとしない千景に焦りを覚えたようだった。
「ほら、早く開けましょう?」
急かす権禰宜を無視して、千景は箱に頭を近づけた。息を潜め、耳を澄ます。重い箱は、口を噤んだままだった。生き物が入っている可能性はなさそうだ、と頭を上げかけたとき。
――コンコン。
内側からアルミの蓋が叩かれた。握り込んだ指の関節で、そっと二回、窺うようなノック。
遠慮がちなそれは、周囲の喧騒に紛れてしまいそうなほど微かなものだったが、箱に手を当てている千景には確かに箱が叩かれた衝撃を感じられた。
「さあ」
――コンコン。
先程よりも強く、蓋が叩かれる。開けろ、と無言で訴えかける。
千景は箱を持ち上げた。眉を顰め、唇を引き結び、焦りと苛立ちを人の好さそうな顔に浮かべた権禰宜に差し出す。
「返すわ」
権禰宜の太い眉が垂れた。
「そんな」
権禰宜はだらりと両脇に手を下ろしたまま、受け取ろうとしない。
このままでは埒が明かないと判断した千景は、立ち上がった。ベンチに箱を置く。すると権禰宜は慌てて箱を拾い上げて、もう一度千景に差し出した。
「開けましょうよぉ」
縋るような権禰宜に醒めた眼差しを投げ、千景は踵を返した。
開けましょうよ、開けてくださいよ。権禰宜の声が追い掛ける。しかし千景は気に掛けることなく、紅葉を揺らす風のように境内を去っていった。
家に帰った千景は目を瞠った。畳の居間。早くも準備された炬燵の上に、銀色の箱が置いてある。厚みのある正方形のアルミ缶が木目の天板の真ん中に、我が物顔で鎮座していた。
炬燵の周りには、誰もいない。テレビも消されている。
不気味な沈黙を湛える箱の存在に、千景は障子ガラスに手をかけたまま、立ち竦む。
「おかえり、千景ちゃん」
背後からお手洗いに行っていたらしい祖母が声を掛けてきた。立ち竦んだままの孫娘に小首を傾げると、わずかに腰を曲げて千景の横を通り過ぎ、居間に入っていく。
「お入りなさいな。炬燵、温まってるよ」
祖母は千景を先導するように炬燵へと向かい、途中で「あっ」と顔を上げて行き先を変えた。足向ける先は、珠暖簾で仕切られた台所。
「お茶を淹れるからねぇ、おやつにしよう」
朗らかな声を上げて、祖母は珠暖簾の向こうに消えていく。
祖母が茶葉を急須に入れている音を聞きながら、千景はそろりと畳を踏みしめ、炬燵の一辺に正座した。外光を弾く缶の箱に相対する。蓋はぴったりと閉じられて、何が入っているのか分かりやしない。
膝立ちになって、そろりと白い手を伸ばす。
指先が、冷たい箱の肌に触れる。
「おせんべい、好きなのを食べな」
珠暖簾を潜ってこちらへと姿を現した祖母に、千景は振り向く。祖母は急須を握りしめながらにこにことして、台に載せた電気ポットの前に立った。曖昧に頷いて、箱に目を戻す。
蓋に手をかけ、そっと持ち上げる。
軽さもあってすんなりと開いた箱の中には、緩衝材に包まれて敷き詰められた、個包装の煎餅。紙かプラスチックか判断に困る袋に詰められた、円い形が浮かび上がる。
「さっきねぇ、お客さんが来て――」
湯呑に緑茶を入れながら、祖母はのんきに箱の由来を語り出す。
なんとも平和なその話を聴きながら、千景は人知れず、ほう、と溜め息を漏らした。
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春分の日に祖母はいつも村はずれの樹を訪れていた。日照りには水をやって、世話を欠かしたことはない。いまわの際に孫娘の私に託すほどだ。やがて緑が芽吹き、蕾がつき、迎えた何十回目かの春分。森から出てきた彼女に、私は出会った。祖母から話をいっぱい預かってます。だから泣かないで、妖精さん。
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「この樹の花を一緒に見ようね、若木ちゃん」彼女と笑顔で交わした約束。よその子供に親達は良い顔をしないが、女子どうしなので黙認されていた。花が咲く頃合いに、約束の場所へ向かう。彼女は、いた。記憶より濃い髪色、高い背丈。面影が残る声が畏まって言う。「若木さまで、いらっしゃいますか?」
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雨の多い町だ。北陸の古い城下町、雨宮では、傘を使い捨てにしない。
石畳の路地には格子戸の町家が並び、軒先の雨樋から細い水が落ちる。川沿いの木橋を渡れば、祖母から継いだ私の傘直し屋がある。
その朝、川向こうの乾物屋の孫が、黄色い傘を抱えてやってきた。
「おじいちゃんの傘、直る?」
「どうしたの、それ。おじいちゃんの大事な傘でしょう」
「転んじゃった。しかられるかな」
骨が二本折れ、布の端がほつれている。継ぎ目には祖母特有の細かな縫い目が残っていた。
「大丈夫。お昼においで」
骨を替え、古い布に合う端切れを探す。祖母の針箱の底から、同じ黄色の布が出てきた。
昼過ぎ、雨が降り始めた頃、男の子がおじいさんを連れて戻ってきた。
「おお、直ったか。世話をかけたね」
老人は傘を開き、ゆっくり回した。
「この色は先代が選んでくれてな。孫が小さい頃、雨の中でも見つけやすいようにと」
私は傘の継ぎ目を指でなぞった。祖母の縫い目に、自分の縫い目が並んでいる。
「お代は?」
「端切れの分だけ、いただきます」
老人は笑い、男の子を傘の下へ招き入れた。
二人は一本の傘で木橋を渡っていく。川面には柳が揺れ、雨に濡れた格子戸の向こうから、焼きたての煎餅の匂いが漂ってきた。
黄色い丸が、灰色の石畳をゆっくり遠ざかる。
軒先で雨宿りする旅人に、私は声をかけた。
「よかったら、中で雨宿りしていきませんか」
祖母もよく、そう言っていた。
今日の雨は、悪くない。
続きを読む
本質とは何かをその男は理解していた。
男の趣味は口髭を珍妙な形に整えることで、職業上マスクと帽子を欠かせない彼の生活スタイルにある意味でとてもマッチしていた。
男の仕事は個人の肉まん屋である。
別に極上の肉まんを目指していたわけではなく、近所にある昔ながらの肉まん屋の亭主が高齢で閉めるというのだから、それはなんだかなぁと思い、これでいいのかなぁと思いながら買い取った経緯がある。
毎年更新される酷暑を台風が舐め、ようやく夜風が心地よくなる時分に、その肉まん屋は毎年同じように賑わいを見せ、店主の男は蒸篭の湯気に包まれる。
いつぞや、「タピオカまん」なる物を思いつきのまま売り出してみた時は大変な行列が出来た。甘く煮込んだタピオカの仕込まれたスカスカのそれに、上等な生クリームを注入して手渡すというものだったのだが、今となっては生温くなるクリームともちゃもちゃした食感を思い出すだけで吐きそうになる。が、再販を求める声は未だ絶えない。
いちごマンやらマンゴーマンやらもやたらと人気でSNSでは不承諾にも関わらず「生まん」などと危険そうなネーミングで呼ばれたりもした。こちらは保温していたあんまんの底から角切りの冷たいフルーツをこれでもかとねじ込んだシロモノで、よくよく標準レベルでは問題のなかった原価が実際でみるとまるで破綻していたのですぐにやめた。再販を求めるDMは後を絶たない。
そんな感じですったもんだしている間に、ファンは弟子になり、フランチャイズの交渉をしてくる奇妙な輩も現れた。
マスクを取る瞬間の相手の反応は至福の時だったが、それもカリスマ性とやらに吸収され途端につまらなくなったので口髭もやめた。
男はそれでも湯気のベールの中、肉まんを作り続ける。
王道の肉まんは肉餡がタマネギの量の半分を超えないように絶妙な配合がなされていて、男の唯一のこだわりと言えた。
「本質を大切にしている」
などとよく評された。
「ルールと本質は違う。本質とはその字面の割に、恣意的で刹那的であるいは錯覚であることも吟味する必要を孕み、盲信と疑義を両立させなければならない」
両立させなければならないの部分はさすがに言い過ぎたと反省するも、そうした仏頂面で応じるといつも拍手が起きた。
大将、社長、マスターと好きに呼ばれ、今日は微妙な餡だな、という出来であってもこれこそが唯一無二だと叫ぶ声があった。
今年も台風が去り夜風が羽織物を引っ張り出す。
男は今日も肉まんを作り、売る。蒸篭の息吹きに身を委ねる。
弟子たちもいつしか子を持ち、いつの間にか勝手に暖簾を分けて持っていったりした。
その日店にきた老人は、杖に支えられ皺深い顔の笑みで注文もせずに入り口に立っていた。
「大将、あんた何歳になったんだい」
「ああ、どうだろうな」
「俺はアンタの弟子だから言わせてもらうがね、アンタさすがに狂ってるよ」
「本質ってやつは、そういうもんだ」
続きを読む
月は形を変える。それは月を太陽が照らしているから、と学んだ時は嬉しかった。
暗い夜に浮かぶあの大きな満月は、一人ぼっちではない。
太陽と触れ合っているんだ。
トーマは大きな寝台から出る。か細い足首は、春の夜でも冷えた。眠ろうとしていた体を動かすと咳が出た。
白い寝巻きの襟を立てて喉を守りながら、バルコニーへと歩く。
重いカーテンの隙間に身をすべらせて、両手でバルコニーの扉を開ける。見上げた正面に白い満月があった。
トーマの読み通り、今夜は月が近い。
円形のバルコニーの白い手すりに、トーマは身を乗り出して手を伸ばす。
十三歳の第四王子のトーマは権力にも贅沢にも興味がない。
ひたすらに夜空へ惹きつけられている。
北極星をめぐる星々の物語が、毎夜、楽しみだ。
もう少し、もう少しだけ、きらめく星に近づけたなら。
トーマはかかとを浮かせて、身を乗り出す。
夜風が寝巻きの裾をひるがえした。それに驚いたように胸が苦しくなり、激しい咳が出た。喉がひゅーひゅーと音を立てて、肩が上下する。
手すりにしがみついていた力が抜けた。
トーマの軽い体は、バルコニーから落ちる。
息が苦しくて悲鳴も出ない。頬を切るような風と浮遊で、死を覚悟して強く目を閉じた。
頭を地面に打ちつけて死ぬんだ、と指先が冷たくなった。
トーマの体は暖かい弾力の中に、落ちた。
「あらまぁ、トーマ王子様が落っこちてきたわ」
明るい声がして、おそるおそる目を開ける。
短髪の赤髪に、真っ黒な大きい瞳、肩幅が広い。
メイドのシシリーだ。
「よかった、ここで寝てて。トーマ王子様、また夜空をご覧になっていたのね」
シシリーがここで、と言ったのは王宮内の木のベンチだ。
彼女は変わったメイドだ。女の人なのに男の人みたいに大きくて、たくましい。跳躍魔術が得意で、重い荷物を抱えて飛び回っている。
彼女みたいに強い体に生まれてきたかった、とうらやましくて、多くのメイドの中でも印象に残っていた。
「ありがとう、助けてくれて…………」
「助けられてよかったです」
シシリーはトーマを幼い子供のように抱っこしている。
トーマは恥ずかしくなって、うつむく。
「本当にありがとう。もう大丈夫だから、降ろしてくれない?」
「いいえ、このまま寝室までお送りしますわ」
シシリーが地面を蹴って、飛び上がる。視界がいきなり動いた。さっきとは逆だ。上昇していく感覚は胃がふっと浮くような高揚感がある。
あっという間に寝室のバルコニーまで辿りついたが、シシリーはトーマを降ろさなかった。
「もっと上を見たくありませんか?
今夜は月が近いです」
トーマはシシリーの首に腕をまわしていた。
きらきらしている瞳を見つめて、うなずく。
すると待っていました、とばかりにシシリーはバルコニーからさらに高く飛んだ。
物見の塔より高い場所から、トーマはシシリーの腕の中で夜空を見上げた。
「わぁ……」
感嘆の声が漏れる。
バルコニーから見た月は平面に見えたが、今は丸い惑星だとわかる。北極星はいつもと同じ場所で輝いていて、小さな星の瞬きを一つ二つと数える。
「空って、丸いんだね」
「あら、そうですか。それはあらまぁ」
シシリーが笑う。
「新しい発見です。トーマ王子様は天文学にお詳しいのでしょう。なぜ、月は時間によって移動するのですか?」
「それは、地球は一日に一回、西から東へ回っているからだよ」
「地球が回っているのですか」
シシリーが驚いた声をあげた。
「月も動いているんだよ。月は地球の周りを回っているから。この世界は、そうやって動き続けているんだ」
「ふふ、それはわかります。だって人は毎日、変わっていきますから。同じ日なんて、一日もない」
そう答えるシシリーが、トーマには眩しかった。彼女は一日中、城の中で動き回って働いている。トーマは第四王子――いてもいなくても良い王子――として大人しく城の中で過ごしている。
「さて、もう夜も遅いです。また、明日にしましょう」
シシリーがゆっくりと降下する。
「…………明日も、来てくれるの?」
「えぇ、もちろん。トーマ王子様が今夜みたいに、落ちてしまったら大変ですもの」
「ありがとう! 僕、すごく嬉しい」
思わずシシリーの首に抱きついてしまって、トーマは頬を赤くしてパッと離れる。シシリーは大きいけど、まだ十五歳でトーマと歳が変わらない少女だ。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
寝台に入ると、トーマは久しぶりにぐっすり眠ることができた。
それから毎晩、夜の十時になるとシシリーがバルコニーへ飛んできた。少し恥ずかしいけど夜空に近づきたくて、彼女に抱っこしてもらう。
「地球の回転する軸を、北の方へずっと伸ばしていくと、北極星の近くなんだ」
トーマは人差し指を立てて、その周りを片手で回してみせた。
「こっちの指が地球の軸。地球が回っても、軸の向いてる先はほとんど変わらない。だから、北極星は同じ場所にいて、その周りを月や星が回っているように見えるんだよ」
「夜空にも変わらないことがあるんですよ」
「ううん、北極星だって、宇宙の中を動いているよ。永遠に北にいる訳ではないかもしれない。でも、北極星はいつも同じ場所にいてくれるから…………僕は嬉しいんだ。北極星を見ると、悲しいのが少しなくなるから」
「そうですね、星が輝いているのを見ると、安心します。私は勉学は不得意ですが、トーマ王子様のお話はとてもわかりやすいです」
「僕なんて、まだまだだよ…………外に行けたらな。この国にはすごい天文学の先生がたくさんいるんだ。夜空を観測して、記録をし、人はそうやって天体を知っていった」
トーマは視線を下に向ける。まだ明かりがついている家を見ると、学者が今夜の夜空を記録しているように思えた。
風が吹いて、トーマの胸を刺激する。体を折り曲げて激しく咳き込む。シシリーがゆっくり降下してバルコニーに戻るが、トーマの激しい呼吸は治らなかった。
「大変、すごい熱だわ!」
シシリーがトーマの額に手を当てて、寝室を飛び出して行った。トーマは寝台で涙をこぼした。
翌日、医者から肺の病が重くなっていることを告げられた。
「安静にしているように。夜風に当たってはいけませんよ」
「どうせ、死ぬんでしょう! わかります…………僕の肺は病でどんどん悪くなっていく。安静になんて………そんなこと!」
トーマが声を荒げると、母が口を手で覆い、悲しい顔をした。
「僕は、このまま寝たきりで、死にたくありません」
「そう考えるのはおやめになってください。とにかく、安静に」
医師は機械的にそう言って席を立つ。
トーマには泣き叫ぶ体力さえなかった。重い体をベッドに沈めて、浅い呼吸をして涙を流す。
「トーマ、悲しいことは言わないで。きっとよくなるから」
母が頭を撫でてくれる。王宮で自分に関心を寄せてくれるのは、母だけだ。父王は体が弱く、帝王学ではなく天文学に興味を示したトーマを見限っていた。もう父王の顔も忘れかけている。
「…………お母様、お願いがあります」
トーマは、シシリーが夜空を見せてくれることを打ち明けた。
バルコニーから落ちたことを聞いて眉を寄せた母だったが、シシリーが助けてくれたこと、トーマがシシリーに見せてもらった夜空がいかに素晴らしいか話すと、うなずいてくれた。
短い時間なら、シシリーと夜空を見に行ってもいいと、許してくれた。
シシリーは心配そうだった。シルクの靴下を履かされ、ブランケットに包みこまれた。
灰色の雲が月を隠す夜も、しとしと雨が降る夜もシシリーはトーマを抱いて跳躍した。トーマの体はシシリーの腕よりも細くなり、目を開けている時間も日に日に少なくなった。
「今日も、北極星は輝いているね」
トーマは円盤状の天文器具、アストロラーベの標準器をのぞいた。咳が出て、力がなくなり、すぐに下ろす。肺から濁った音がする。
「僕が死んでも、北極星は輝き続けてくれる…………それだけでも知ることができて…………天文を学んでよかった」
「そんな寂しいこと…………おっしゃらないで」
シシリーはトーマを抱きしめて泣いた。
「覚えていてね、月は満ち欠け、星々は巡る。そう語った僕のことを」
トーマの視界は白くなっていく。シシリーの首から手が垂れ下がる。
「…………君と出会えて、よかった」
「トーマ!」
シシリーの熱い体の中で、トーマは永遠の眠りについた。
※
シシリーは夜空を飛ぶ。
アストロラーベを天にかざし、標準器をのぞく。
「トーマ王子様、今日の北極星は三十五度ですよ」
シシリーは心の中にいるトーマに話しかける。
「こうして星の高さを測ると、一つ一つの星が特別だと感じられます」
シシリーは今も腕にトーマを抱いて、北極星を見つめている。
続きを読む
亀を助けたのは、本当に善意だったのか。
太郎は竜宮城で、何度もそれを考えた。
ただ、あの助けを求める亀の目が――人間のそれと同じだったから、気味が悪くて、銭を払ってでも逃れたかっただけではなかっただろうか。
竜宮城は美しかった。ただ、おかしなことがあった。
宴の席に並ぶ魚たちが、踊りながら、こちらを見ていなかった。
目は開いているのに、焦点が合っていない。笑っているのに、笑っていない。
よく見れば、動きが全員、寸分違わず同じで、まるで、同じ悪夢を繰り返し見せられているようだった。
毎晩毎晩、村では見たことのないようなご馳走が並んだ。しかし、どれもこれも味がない。見た目は美しく豪華なのに、なにを食っても、咀嚼するごとに不快感が込み上げてくる。砂を噛むような食事の中で、唯一甘さを感じるものは、太郎の口に食事を運ぶ乙姫の指先だけだった。
乙姫は毎晩、太郎の隣に座った。会話をし、時折冷たい手で太郎の手を取り、笑った。
夜にはぬるりと冷たい体で伽をした。海の底に沈んだもののようなにおいが肺に染み込む気がした。
伽を断ることはできなかった。
太郎は自分の鼓動がゆっくりゆっくりと、遅くなるのを感じた。自分が陸の人間ではなくなっていく気がした。
しかし三日目の夜、太郎は気づいた。乙姫が、一度も瞬きをしていないことに。
「楽しゅうございますか」
貼りついたような笑顔のまま、答えられない問いを投げかけてきた。
太郎は翌朝、帰ると告げた。引き止められはしなかった。ただ玉手箱を渡しながら、乙姫はこう言った。
「地上にはもう何も残っておりませんよ」
開けろとも開けるなとも言わず、笑顔のまま。瞬きもせずに。
浜に上がると、村はあった。しかし、おかしかった。
道行く人々の顔が、どこか似ていた。
全員が似ているのではない。何人かに一人、まったく同じ顔をした者がいる。同じ顔が、人混みの中に、点在している。
太郎と目が合うと、その顔たちは、揃って微笑んだ。乙姫と同じ笑い方で。
たまらず太郎は走って逃げた。老人を捕まえて、ここはどこだ、今はいつだと叫んだ。老人は穏やかに答えた。
「もうなにも残っていない……三百年前から、ずっとここはここですよ」
そして老人も、微笑んだ。
白煙が晴れた後、箱の中には何もなかった。太郎の体は老いた。皺が刻まれ、髪が白くなり、立つこともできなくなった。
砂の上に倒れながら、太郎は気づいた。あの、もう今となってはいつのことかも思い出せない、あの助けたはずの亀は。ずっと昔に、竜宮城へ連れて行かれた、本当の自分だったのかもしれない。
薄れゆく視界の中で、太郎は最後に、背後にいる亀の目を見た。
黒く澄んだその瞳はどこかで見たことがあった。
――ああ、そうか。これは俺なのか。
砂の上に倒れ込んだ瞬間、背中に冷たい甲羅の感触が触れた気がした。
甲羅に銭を食い込ませた亀はゆっくりと首を伸ばし、太郎の顔を覗き込んだ。
その目は、人間のものだった。
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あなたとの距離が
だんだん
だんだん
近くなって
見なくていいものが
見えてしまった?
クローズアップで
枯れてしまった
ただ
それだけ。
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