恋愛
3430文字 約7分で読了

コンセントと彼女

 部屋の電気を点けるのさえ久し振りのように思えた。しばらく洗面台で生気のない男とにらめっこをしてから髭を剃った。  部屋に戻るとエアコンを切り、全開にした窓から頭を出して空を仰いだ。  白く眩しい日差しが部屋へと差し込む。冷たい空気が一気に肺へと流れ込んで、体が目を覚ましたかのように震えた。 「はあーー」  肩を揺らして息を吐くと、体に入った冷たい空気が白い息となって視界を曇らせた。  オーディオ機器の電源を全て切って、うっすらと白く積もった埃を拭き取ってゆく。丁寧に、丁寧に。行き場のない想いを拭いとるように。 **********  就職してからも、よく遊んでいたサークルの後輩だった彼女は、大学を卒業すると俺の所へとやって来た。同棲していた彼氏と別れて行き場がなくなったというのが理由だった。そう知っても、交際を始める事に抵抗はなかった。そして住み慣れた1DKから、同棲できる広さのこの部屋へと引っ越してきた。  リノベーションされた物件も、都内から一駅離れただけで格安になった。道路を挟み、鉄橋のかかった川を臨めるアパートの二階。そこが二人の家になった。 『|代々木《よよぎ》|幸樹《こうき》』 『|佐々木《ささき》|木実《このみ》』  並べた表札は苗字の文字が似ているから、よく夫婦だと間違われた。それで困ることもないから、ふたりとも強く否定する事もなかった。  チェーン経営の弁当屋で彼女はバイトをしていた。それもマネージャー業務を任せられるほどに信頼されていた。キャンセル品などを貰ってきては、それをレンチンせずに再調理して食卓を飾ってくれた。万年コンビニ弁当だった俺に、彼女は食べる喜びは生きる喜びに繋がっていると教えてくれた。そして仕事から帰る楽しみをくれた。 「木実。充電器のコンセント抜いて」 「コンセントは抜けないよ。プラグでしょ」  悪戯に笑う彼女は常に隣にいた。リビングで映画を観る時も。ソファで居眠りする時も。部屋で珈琲と読書をする時も。ベッドで「おやすみ」と囁く時も。  今となっては自分だけが感じていたのかもしれないが、幸せに満ちた生活だった。その生活が変化し始めたのは、彼女がバイト先で社員契約を結んだ時期と、俺の仕事がリモートになった時期が重なった頃からだった。  広告代理店でキャッチコピーを受け持っていた俺は、緊急事態宣言の発令によって自宅作業という事態になった。送られてくる雑誌などの広告ページのデータに、考えたキャッチコピーやフォントのデザインを入れて送り返す。あとは週に一度のオンラインミーティングだけ。家で出来る事をオフィスでやる事で、仕事をした気になっていたのだと気付いた人も多かっただろう。そんな中でバイト先の弁当屋で社員雇用された彼女は、俺が家に居られる時間が増えると喜んでいたのも束の間、デリバリーの需要増加で仕事が増えていった。  ひとりの時間。カチカチとパソコンで仕事を済ませると、映画を観ながら昼寝をした。洗濯も夕食も彼女が帰って来てからやってくれていた。繰り返す日々の中で、俺は実家にでも居るかのようにテレビを観ているだけで、いつしか彼女を気遣う事もしなくなっていた。彼女は何を感じ、どんな風に思っていたのか。その答えは唐突に、しかし当たり前に俺の前に突きつけられた。  いつものように、出勤していた時よりも遅く起きてテレビをつけると、コーヒーメーカーで珈琲をいれた。ソファに座りマグカップに口を付け、テーブルに置かれたメモ用紙を何気なく手に取った。 『お世話になりました! 幸せな時間をありがとう。大好きだったよ、こうくん。』  しばらく停止した思考が、パソコンの再起動みたいに、ゆっくりと動き出しメモ用紙の文字を読み込んでゆく。いつもより冷えた空気に気付き、やっと部屋の空間が広いと感じとった。  きっと少しずつ物は減っていたのだろう。それにさえ気付かずに、最後のメモ用紙一枚になっても理解するのに時間を必要としたなんて。最悪だと思った。彼女の行動よりも、自分の有様に。  それからは何も出来なかった。いや、やる気が起きなかった。テレビは見るでもなく、つけっぱなしだった。飲み食いは、大して喉を通らないので買いだめされた物で十分だった。ソファで寝起きして、リモートでのミーティングは手櫛とマスクで不摂生を誤魔化した。仕事で使うキャッチコピーは、書き溜めたストックから選んで、時にはフォントを変えて使いまわした。  部屋ごと過去に閉じ籠ったまま、その場しのぎの生活が続いた。ミーティングで職場のみんなと話しても、小さなモニターの向こう側に現実なんて感じもしなかった。ただ、ひとりを除いては。 「先輩お風呂入ってます?」 「先輩なんか食べてます?」 「先輩ちゃんと寝てます?」  彼女が居なくなって二回目のミーティングが終わった頃からだった。入社二年目の|水澤《みずさわ》|芽留《める》は、わざわざ個別でリモートを繋いできては仕事の話しの後にズバズバと突っ込んでくるようになった。  最初はよく気付くなと面倒臭く思いながら適当に対応していたが、いつしか何気ない水澤との会話が、唯一外との繋がりのようになっていた。  ズルズルと過去を引きずる生活が二カ月過ぎた頃だった。いつものように部屋の電気もつけずに、ソファで横になったまま見るでもなくテレビを眺めていた。窓から射す光が照らす部屋の中、ふとオーディオラックの横の壁にあるコンセントが目に入った。そこに刺されたプラグの上には綿埃が乗っかっていた。ずっと掃除をしていなかったにしては白いように感じた。埃といえば黒っぽいイメージだ。  さほど気になった訳ではないが、ソファから体を起こすと部屋を見回した。ブラックで統一されたオーディオラックや本棚も、うっすらと埃をかぶっていた。掃除されていた事に今まで気付きもしなかった。気付かないくらい彼女に無関心だった。自分の愚かさにも。  リビングも風呂もトイレも掃除した事がなかった。汚れていると感じた事さえ。自分がどれほど彼女に支えられていたのか、今さら痛いほどに分かった。  彼女への未練が埃となって部屋に降り積もっている気がした。それはやがて後悔となって俺自身を埋め尽くすだろう。雪山のように白い埃の中で遭難している自分が想像できた。  スマホに手を伸ばし、彼女のダイヤル番号をタップする。使われていない事を再確認してソファに横たわると、腕で両目をふさいだ。 『お世話になりました! 幸せな時間をありがとう。大好きだったよ、こうくん。』  彼女が残したメモ用紙が脳裏に浮かんだ。大好きだった男がこれじゃ申し訳ないなと思った。もう会って感謝を伝える事もできないのだろう。だったら。せめて彼女との生活があったから今の俺がいるのだと言えるくらいにはなろうと思えた。 「やるかー」  起き上がり声を出して伸びをした。部屋の電気をつけると、まぶしさに少し目が痛んだ。顔を洗い、髭を剃ると、鏡の向こうに見覚えのある男が現れた。 「お前、生きてたのか」  鏡に向かって憎まれ口を投げつけると、部屋へ戻ってエアコンを切った。全開にした窓から頭を突き出すと、冷蔵庫に突っ込んだようで気持ちが良かった。窓を開けたまま掃除を始めた。気持ちも空気も入れ替えるように。  自分の中に積もった、行き場のない気持ちを拭うように、白く積もった埃を丁寧に拭き取っていった。綺麗になると、何もない空間が目立つ気がした。 「新しい部屋探すかな」  手を止めずに独りつぶやいていた。 「せんぱーい!」  気のせいだろう。誰かに呼ばれた気がした。 「せ、ん、ぱーい!」  気のせいかと思ったが、また聞こえた。立ち上がり窓から顔を出すと、こちらに向かってビニール袋を持った両手をブンブン振っている人がいた。 「水澤!? どうしたの!」 「もーいくら心配しても要領を得ないんで来ちゃいましたー!」 「ちょ! 静かに! 待って今行くから! マスク付けて!」  不要不急という近所の目もあるから慌てて迎えに行こうとした。しかし中々マスクが見つからなかった。焦っている内にインターホンが水澤の到着を知らせた。囚われた過去から生還したようなこのタイミングに、まるで現実がどっと押し寄せて来たようだ。でもそれは救われてもいるようだった。  インターホンには出ずに玄関へ向かった。今は水澤の厚意に感謝して、その押し寄せる現実に身を任せようとドアを開けた。訪れた笑顔は、吹き抜ける風と一緒に埃を窓の外へと運ぶようだった。 〈コンセントと彼女〉
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2026/10/09 • 👁 75回 • 💬 0件
コメディ・日常
273文字 約1分で読了

古時計

 おじいちゃんがつかっていた金庫を開けたら、入っていたのは古時計だった。確かに昔は時計は貴重だったかもしれないけれど 今となってはどこにでもあるものだしなと僕は思った。でも、もしかしたらアンティークとして価値があるかもしれないし……  そう思って骨董屋に持ち込んだけれど、このタイプのものはよくあるらしくあまり値段がつかないらしい。  そもそもねじ巻き式の時計なんてかなり手間がかかる。 売ってもお金にならないから家に持って帰って、ネジを巻いた。 チクタクと動き出す時計の針。……まだこの時計動くんだ。 僕はちょっとだけ愛おしくなった。 そんなわけでまだ家で現役だ。
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作者:しとえ
2026/10/09 • 👁 52回 • 💬 0件
ポエム・詩
36文字 約1分で読了

お互い様の関係だけど…

お互いがいないと 存在できない。  あまりに 無力で 沈んでしまいそう。 光と影と。
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作者:柊ことは
2026/10/09 • 👁 28回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
172文字 約1分で読了

何百年も…

山の中の 赤い屋根。 あそこには魔女が住むなんていうけど 正確には住んでいた、なの。 魔女はとても優しい方で 私を拾って育ててくれた。 不老不死の薬が欲しかった私に 「不老不死は寂しいものよ」って言って 分けてもらえなかった。 ほんとそうね。 私はこっそりあなたの部屋から手に入れた 不老不死の薬を飲んで 何百年も小学生をやり直して…。   ごめんなさい。 あなたに会いたい。
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作者:柊ことは
2026/10/09 • 👁 26回 • 💬 0件
ホラー・怪談
1519文字 約4分で読了

水棲の生き物

真夜中の蓮池に、美しい顔が浮かび上がる。  うるおった白い肌に大きな水色の瞳、黒いまつ毛は三日月と同じ角度だ。  蓮と同じ色の唇が、開く。 「水が欲しい、水、水が欲しい」  つややかな低い声が、言う。  呼ばれた人間が駆け寄ってくる。 「水をやろう。どんな水が欲しい」  水色の瞳は、人間の顔を見つめる。 「おまえが美味いと思う水が欲しい」  人間は家にある温泉水を持ってきた。  美しい顔は口を大きく開けて、水を口にそそいでもらう。  満足気に目を細めて、口を閉じる。 「おいしい、おいしい、もっと欲しい」  美しい顔が喜ぶので人間はとても嬉しい気持ちになった。  蓮の花が動く、ざわざわと葉が動く。  美しい顔が浮き上がる。泥を一雫すくったような前髪がずるずると伸びておとがいの下から細く長い首が現れる。  濡れた黒髪に純白の首を見せて、美しい顔は微笑む。甘い微睡みの匂いが蓮池から漂う。月下の桃花色の蓮が揺らいでクスクスと笑っているようだ。 「もっと…………水が欲しい」  美しい顔の声は、いっそう艶を増して、水をくれた人間へと近づく。蓮の葉が美しい顔を押し出すように動く。 「どのような水が欲しい」 「おまえの、水が欲しい。おまえの中にある水が欲しい」 「それは、どのようにすれば与えられる?」 「人差し指を、差し出せ」  その頃にはすっかり、人間は美しい顔に水を与えたい欲望から逃れなれない。   手を、出してしまう。    人間が人差し指を差し出すと、美しい顔は薄紅の唇でぱくりと指にくらいつく。  弾力のある唇がうごめき、指をちゅうちゅうと吸う。美しい顔の頬が蓮と同じ色になる。目を伏せて恍惚の表情でひたすらに指を吸う。    ひときわ大きな葉が、飛び上がる。  白い手が、現れる。白い手のひらを天に向けて長い指を慣らすように動かし、腕が現れ出でる。  手は、人間の手首をしっかりとつかんだ。  人間はもう立っていられないようだ。 「もっと、水が吸いたい」  美しい顔が言うと、反対の手も現れた。  両手で人間の手首をつかみ、飲み干し乾からびた人差し指を口から抜き取り、次は親指にしゃぶりつく。そうしてすべての指から、人間の中の水分を、美しい顔は飲みきる。  人間は骨と皮だけになって、蓮池の側に倒れている。  美しい顔は目を細めた慈悲深い面差しで、人間を蓮池の中に引きずり込む。  美しい顔が天に手を伸ばす。月に引き上げて、とねだるように。  三日月は応じた。  蓮池がどよめくように、波打つ。    引き上げられた美しい顔の胴体は薄く、胸はひらたく、腰はくびれている。白い体が夜空へ、三日月に重なるように身をくるらせる。  腰より下は、あらゆる生き物の集合体。  ドジョウの体にたくさんのカエルの手足、尾はシロサギ、背びれに白い蝶の羽根とトンボの羽根が重なりあっている。  さらにカマキリのカマが腰から尾まであり、夜空に浮かべたことを誇るように、前へ振り下ろす。  美しい顔は、自分のつややかな肌の感触を、自分自身で楽しみように、うっとりとなでる。  ふぅ、と息を吐く。  そして長い人差し指を口にいれて、前後に動かして濡れた音を立てる。  美しい顔が、下を向く。  口を開けて、蓮の花に唾液を垂らす。  とろりとし唾液を受け止めた蓮は丸まって白い球体となり、真ん中からぱっかりと割れて、美しい顔が出現した。  美しい顔は、それを見て満足気に笑って、蓮池から蝶とハチの羽根をさえずらせて飛び、シロサギの尾で月をなぞり、カマキリのカマで前進して遠くへ行く。  新しい美しい顔が言う。次は、紫の瞳をしていた。 「水が、欲しい。水、が欲しい」  その誘う声は、ハチミツを喉に流し込むような、甘い甘い声だった。  三日月の夜に蓮池に近づいてはいけない。  吸い殺される。  はたして、あの水棲の生き物がどこへ行き何をするのか、誰も知らない。         
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2026/10/09 • 👁 64回 • 💬 0件
その他
3286文字 約7分で読了

トロッコ問題と幸福な生首

幸福な死に顔に、俺は納得できなかった。 ——あいつは、笑って死んでいた。  すぐに喪服をクリーニングに出した。  親友の葬儀の臭いを消したかった。  同じ団地育ちの親友――奴が消えた。  二十になったばかりだった。    線路に落ちた視覚障害者の少年を助けて、電車に轢かれて粉々になった。  あいつは、そういう奴だったよ、昔から。いじめっ子をかばっていじめられ、捨て猫は小遣いをはたいて病院に連れていき、保護猫団体に預けて、人助けしかしてこなかった。  事故が起きた小さな駅には、転落防止のホームドアがなかった。  すべての駅にホームドアをつけろよ、くそ。  |成海《なるみ》とは、長い時間を共有した。  だるい体で、成海が死んだ最寄りの駅に行かなければならない。  私鉄の田舎の小さな駅、地元で見慣れたはずの駅が、ひどく冷たい場所に見えてくる。ここはもう、悲劇の場所に変貌した。  大学入学後も俺と成海は地元に住んでいて、この駅から俺たちはいつも顔を合わせて、それぞれ違う大学に向かった。 「すみません、あの」  電車に乗って吊り革を持ってスマホを見ていると、ハキハキとした少年の声が聞こえた。振り返ると、なで肩で小柄な白いニューエラのキャップを被った少年がいた。ぱっと見ではわからないが、彼は白杖を持っていることから視覚障害者のようだ。  彼の隣には、沈痛な面持ちの、疲れた顔をした二十代後半ぐらいの地味なスーツの女性が立っていた。 「久保成海さんの、ご親友の方ですよね。初めまして。僕は久保さんに助けられた長原龍樹と申します。久保さんについてのお話を聞かせてくださいませんか。僕は、僕を助けてくれた人について、もっと知りたいんです」  少年の声は張り詰めていた。  俺は目を伏せて考える。  話したくねぇよ、辛い。  でも、あいつのことを彼に知ってほしい気持ちが勝った。  少しだけ、俺はため息を吐いてしまう。 「…………わかりました。次の駅で降りて、そこにあるカフェで話しましょうか。あの、あなたはどなたですか?」  俺は龍樹の横にいる女性に視線を向ける。 「龍樹の姉の春香と申します。よろしくお願いします」  春香は緊張した面持ちで言った。俺たちは一緒に隣の駅で降りて、バスのロータリーを歩いた。  龍樹の白杖は、黄色のブロックを丁寧にたどっていく。  俺は黄色のブロックに自転車が置かれているのをどけて、龍樹が安全に通れるようにした。  カフェに入り、三人ともアイスコーヒーを頼んだ。クーラーの効いたカフェで一息つく。 「お時間いただき、ありがとうございます。あの……本当に成海さんのこと…………申し訳なくて。僕は、ちゃんと成海さんの分まで生きたくて。それで、成海さんがしたかったこと、やろうとしてたことを、僕が代わりに少しでも多くしていきたいです。僕は障害者で、健常者のように、うまくできませんけど……」  声をつっかえさせながら、龍樹は苦しそうに話す。膝に置いている手は、きっと震えているだろう。  視覚障害を持ってる人にとって、俺の沈黙は怖いだろう、と想像する。相手の顔が見えない。目の前にある邪魔な自転車にも気付けない。そういう人生がどれだけ大変だろうか、と。  優しすぎた成海なら、きっと想像しただろう。 「そういうのが…………逆にムカつく」  俺の不機嫌な言葉に、ピクッと龍樹の頬が引きつった。 「助けられたなら、堂々としてくれ。成海の人生を君は生きられない。君は君のやりたいことをやったほうがいい。だって、あいつの助けてくれた手に、迷いなんか、なかっただろう?」 「は、はい」 「成海は、そういう奴だった」  俺は考える。彼に成海について、何を話そう。取り留めのない思い出話ではない。  成海がこの場で、彼に自分の死を「納得」させる話を思い出す。 「俺は……成海が死んで、それは信じがたいほどショックだったけど、あいつが君を助けて死んだって聞いた時は、あいつならそうするだろうって思った。生前に、こういう話をしたことがあった」  俺は、あの日の安い酒場で成海と飲んでた夜を思い出す。  市場奥の薄暗い席だった。厨房が近く、焼き鳥の焼ける香ばしい匂いが近かった。  成海は焼き鳥が好きで、うまそうに何本もよく食った。成海は小柄で顔も小さい。目が丸くて、「かっこいい」より「かわいい」でモテる男だった。しかし仕草は男らしく豪快で、焼き鳥の串から歯でかぶりつき、引き抜いて食うのは俺の前でしかしなかった。 「大学の人間関係って、思ってたより複雑だよな。ゼミとかさ。俺、まだ馴染めてないかも。この前もちょっとなんか引かれたかも」  テーブルに肘をついてハイボールをあおり飲み、少し酔った赤い顔で成海が話し出した。 「んー、何? あ、おまえ、俺の分のレバー食った?」 「あ、ごめん。食ったわ」成海が無邪気に笑う。 「俺、レバー好きなの知っててわざとか。で、なんの話だよ。その引かれたってのはさ。またモテ話か」 「違うよ。真面目な話だって。ほらあれ、トロッコ問題ってあるじゃん。あれ、なんかゼミで話題になって。みんなそれぞれ解決法とか言ってくの。俺んとこ心理学だろ。いろんな学者の説とか出すけど、全部ちげぇよなぁって思ってさ」 「あれなー。あれ、どうしようもねぇ意地悪問題だろ。大体、基本の設定が狂気だろ。事故起きないように作業員を配備しろよ」 「あはっ、それめっちゃおまえっぽいなー。だよなー…………どっちかしか救えないとか意地悪問題。レバー変更の岐路に立たされて、五人助けるために一人の犠牲者ですませるためレバーを引くかどうかなんてさ」 「で、おまえの答えは。なんつったの?」 「うん。俺はレバーを引いて、一人の作業員を突き飛ばし、自分がトロッコに轢かれる。目の前で誰か死んだら、なんで助けられなかったかって辛い思いを抱えて生きるなら、自分が犠牲者になった方がいい。それが俺のトロッコ問題の答え。たった一つだけ、他は思いつかない」  成海は少し遠くを見て、かつて失ったものを見るような悲しげな瞳をした。  成海が、ふとした時にたまに見せるこの瞳には、早世の翳りだったと振り返って想う。 「あー、それは自己犠牲で引かれるな。トロッコに自ら轢かれる選択をして、引かれたか」  俺は少し笑った。  成海も頬を少し膨らませて笑った。吹き出すほど面白い、の時にする顔だ。 「それなー。で、おまえどうなん。彼女とは?」 「あー、なんか合わないかもって感じてきた」 「俺は高校の頃よりモテなくなったー。かわいいで売るのは十代までだったな」  成海はそう言って笑い、「すいませーん」と手をあげてハイボールを注文したんだった。あいつはいつも店員さんにはすごく丁寧な態度だったな。  この話を龍樹に話し終えて、俺は悲しみが波のように引いていくのを感じた。  そうか、あいつは、目の前で誰かが死ぬなら自分が犠牲になったほうがいい。  そういう、何億人に一人かのすごい善人だった。  あいつ、天使にされちまったか。  これはちょっとクサいけど、あいつならきっと「だろう、だから若いまま、かわいいまま死んだんだよ」って、白い翼を見せびらかしてきそうだ。  目の前に、花柄のハンカチが差し出される。春香は手で口を抑えて泣いている。そして俺の頬も濡れていた。俺は「いいです」とハンカチを断って、リュックからタオルハンカチを出す。  龍樹の肩も震えている。 「…………ぼ、僕は。作家になるのが夢なんです。見えない僕の世界を書きたいんです。だから、今の成海さんの話。きっと、物語にします。それが僕のしたいことです」 「うん。そうだな、外見はとびっきりの美少年で、背は高くしてやってくれ。ビジュ盛った方が、あいつ、喜ぶから」  俺はそう言って、成海が死んでから初めて、ようやく、笑えた。  成海の体は轢死で砕け散ったが、生首だけはきれいに残っていた。  棺桶の窓を、成海のお母さんが開けて、微笑みながら泣いて言っていた。 「見て、こんなに幸せそうな顔の生首なんて、この世にひとつとしてないわ。見つけてくれた駅員さんも驚いてたそうよ。こんな幸福そうな顔の生首なんて初めて見たって。よかった、この子は本当に……本当に……人を救う祝福の天使だったのよ」  
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2026/10/09 • 👁 69回 • 💬 3件
恋愛
761文字 約2分で読了

時を超える恋人

 アリスの手元の懐中時計の針が、逆転をはじめた。萎れた勿忘草が、みるみるうちに青い色を取り戻していく。  まるで魔法のような現象に、僕はただ目を瞠るばかりだった。すっかり崩壊してしまった都市も、目に入らないほど。  握りしめた繊手が離れていく。浮遊した彼女の身体を光の粒が包み込む。  慌てて彼女の手を掴もうと、手を伸ばす。けれど、すんでのところですり抜けてしまう。  何度も何度も繰り返して、しかし僕は彼女の手を掴みそこねていた。 「大丈夫」  輝きに包まれる向こうで、アリスはふんわりと笑う。焦る僕をなだめるように。けれど、何処か寂しそうに。 「貴方が私を判らなくても、私が貴方を見つけるから」  アリスの声は、だんだん遠くなっていく。彼女の姿もまた、おぼろげになっていく。行ってしまうのだ、と悟った瞬間、僕の目が、胸が、熱くなった。 「今度こそきっと、私が貴方の望む未来を創ってみせる」  だから安心して。  アリスの声が消えていく。彼女の儚い姿も、光に呑まれて消えていく。  そして、僕だけが残された。曇天の下、破壊し尽くされた世界の真ん中に。  地面に溢れた勿忘草の花束が、埃っぽい風に煽られてアスファルトの上を転がっていく。  頬を熱いものが流れていることには気がついていた。けれど、涙を拭う気力もなかった。独り残された。その事実が僕を打ちのめして。  どこからともなく、鐘が鳴る。重厚で神聖な、刻の音。  灰色の空が崩れ落ち、瓦礫の大地が浮遊する。無の一点に収束されていく。選択を間違えてすべてを壊した僕の時空が、無に帰ろうとしている。  空を仰いで、目を閉じる。これは君が新しい時間に辿り着いた証左。なら、僕は受け入れよう。この時間の終わりを。僕の終わりを。  そして君が、僕と新しい未来を築けることを祈ろう。  ――けれど願わくば、君が〝僕〟のことを忘れずにいてくれんことを。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/09 • 👁 53回 • 💬 0件
ホラー・怪談
1053文字 約3分で読了

愛と魔女と禁忌と

これでやっとあの人に会える。 この身を魔に染めてまで、会いたかったあの人に。 血肉となる豚肉。 骨となる牛の乳。 魂の糧となる虫の死骸。 他にも干した果実や生魚などを贄とする。 それらを全て鍋へ。 火をかける。 全てがドロドロに混ざるまで何時間でも。 異臭を放つ「それ」を床へと優しく移動する。 最後に自分の血で印を描き、何度も呪言を唱え続ける。 あの世に届くように、喉が枯れても。 この部屋に反響するほどの声で。 ああ、早く会いたいな……。 外が騒がしい。 またあいつらか。 気にせず、呪言を唱え続ける。 鍵をかけたはずのドアを開けられ、何人かが入ってきた。 魔女狩り共め。 また私の儀式の邪魔をするつもりか。 必死の抵抗虚しく、私は奴らの根城に連れて行かれた。 ……まあよい、儀式は十分進んだ。 多少、呪言を省いてもきっとあの人は蘇る。 ―― 「お父様ですね?」 「はい、また娘が申し訳ございません。」 「……異臭に騒音。入院前と併せてこれで四度目の通報です。」 「……」 「警察としてあまり踏み込んだことは言えませんが……。 娘さんの退院はまだ早かったのではないでしょうか?」 「返す言葉もございません……。大変ご迷惑をおかけしました」 娘を自動車に乗せる。 暴れ出すと困るので、医師から処方されている睡眠導入剤を飲んでもらい後部座席へ。 まだ薬が効かないのか、うわ言を呟いている。 やれ、奴らは私の術を恐れて火刑にできない臆病者など。 復活の儀式がどうだの。 正直、私は娘が度々起こすトラブルで全てが面倒になっていた。 「お父さんにも儀式をしたから……。安心してね……。あの人とお母さんとまた四人で……」 ようやく寝てくれた。 どんなに変わっても、愛情深いところは同じだ。 四人でご飯を食べたり、旅行したりたくさんの思い出は私の中にもある。 今でも花畑を背に、四人で撮った写真がスマホに残っている。 みんな笑顔だ。 だからこそ知っている。 義息子、娘の夫がどれだけ誠実で信頼に足る人物だったかも。 きっと、私の中の喪失感は娘のそれとは比べ物にならないだろう。 ずっと変わらない、愛おしい娘だ。 しかし……。 医療費の捻出、度重なる通報の対応とご近所への謝罪。 もう限界……いやどんなに御託を並べても言い訳だ。 私が全てから、逃げ出したくなっただけだ。 ああ、母さん教えてくれ。 私はどうすれば良かったんだ? 私は今から「間違い」を犯す。 恐らく娘の願いは叶わない。 「幸せなあの世」とやらで、三人だけで暮らしてくれ。 きっと私は娘の言う「地獄」行きだから。 そんなことを思いながら、私は包丁を手に取ってしまった。
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2026/10/09 • 👁 27回 • 💬 0件
その他
2711文字 約6分で読了

下には下がいる!!

 今から僕は、他人を見下す。  気分が悪いときは、自分よりも下の人間を見ると良い、と誰かが言っていた。多分、そいつは性格が悪い。  今、僕はその性格が悪い人間に成り下がろうとしている。なぜか。そう問うやつには中指を立てたい気分だ。理由を言っても適当な相槌しか打たないくせに、無駄に人の奥底を知ろうとする無責任な奴らは死んでしまえば良い。そうなりゃ、僕のこの鬱屈な気分は少し晴れる。  お察しの通り、僕は気分が悪い。とても、だ。理由を話す気にはならないが、凶悪殺人犯と小一時間談笑できるほど苛ついている、と言えば少しは察していただけるだろうか。    この気分を少しでも晴らそうと、僕は商店街へと歩みを進めた。もちろん、そこで何かを買うわけではない。目的地は商店街の外れにある狭い路地、だ。  昔、自分だけの秘密基地を作ろうと、この辺りを歩き回っていたことがある。そのときに偶然見つけたのが、汚いおっさんだ。おっさんは地面に敷いた薄い段ボールに寝転がり、萎れた煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいた。あの時の香りを思い出すだけで、不思議と気分が高揚してくる。子供ながらに分かった。この人は自分より圧倒的に下の存在だと。そしてこの関係が崩れることは、今後起こり得ないだろう、と。  きっとあのおっさんは、僕を見るなり金をせびってくるだろう。それか、無理矢理にでも奪いにくるかもしれない。今の自分よりも下の存在なのだから、もしかしたら惨めったらしく媚を売ってくるかも。  どの想像をしても、不思議と心臓が激しく脈打ってくる。僕に必要な存在は暗がりから救い出してくれるヒーローではない。僕がまだ堕ちきっていないと教えてくれる、最底辺の人間だ。  商店街をするりと抜け、例の路地へ。  歩みを進めるにつれて、あの香りが漂ってくる。  疲れきった煙草の匂いが、  全く美味そうではない缶コーヒーの香りが、  そしてなにより――汚いおっさん自体から発せられる、鬱屈とした臭いが。  それらの香りは、僕の鼻口を侵してくる。酷い匂いだ。だが、今僕はそれを求めている。終わりきった人間の醸し出す終わりきった匂いを、たまらなく求めている。  曲がり角を曲がった先に、そいつはいた。  酷使された段ボール。  うざったい煙草の匂い。  安っぽい缶コーヒーの作られた香り。  そして――汚い、おっさん。  おっさんはこちらを見るなり、「ぁ?」と、底辺の染みついた声を発した。期待通りの姿に、自然と頬が釣り上がっていくのを感じる。  「誰だアンタ?」  おっさんは、僕のことを覚えていないようだった。当たり前だ。あのときから十年は過ぎている。おっさんも記憶の中のものより随分と老けていた。  「大丈夫、別にお前は知らなくて良いから」  指を前に突き出し、僕は告げた。おっさんはぽりぽりと頭を掻き、不思議そうに首を捻っている。  「なんでこんなとこに来たんだ? 迷子か?」  「ちげえよ。あんたに会いに来たんだ」  おっさんが目を見開いた。俺に会いにくるなんてどんな物好きだ? とでも言いたげな顔をしている。  「ほお……そりゃ、なんでまた?」  「見下しに来たんだ、アンタを」  言っていて、吹き出しそうになる。その言葉はあまりにも下卑ていた。だがまあ、こんな奴に何を言おうが罰は当たらないだろう。  「そうかい」  おっさんは驚くでもなく、怒りを露わにするでもなく、ただ手元の缶コーヒーをあおった。  「……は? それだけ?」  「それだけって?」  ゆったりと、おっさんは余裕そうにこちらを見つめた。こちらの全てを見透かしているような、ねちっこい目線。経験を積んできた、大人の眼光。  「もっと……もっと、あるだろ! 歳離れてるガキに見下されようとしてんだぞ!?」  「それがどうしたんだ。今更どれだけ馬鹿にされようが変わらんさ。もう慣れたよ」  その言葉に、少し安堵した。期待していた反応ではなかったが、やはりこいつは終わっている。目的自体は果たせる。  「……あんたさ、恥ずかしくないのか? 大人のくせして、こんなとこで一人でゴロゴロして! どうせ仕事もしてないんだろ? ずっとさ! 正直、見てるだけで反吐が出るね!」  なら見なけりゃ良いだろう、そう囁いてくる心中は無視して、ポケットからスマホを取り出す。  そして、カメラのシャッターを切る。  「あんたのこと、晒してやるよ! 見た奴らの反応が楽しみだね! 友達と一緒に笑い飛ばしてやる!」  友達なんか、いないのに。  「ネットにも載せてやる! あんたが俺から金奪おうとしてきたってな! 叩かれるぜ、あんた! 『高校生から金奪うなんてクズだな。死ねば良いのに』そんなコメントが幾つも来る! それが来るたびに見せに行ってやるよ、アンタがどんだけ社会に必要とされてないか思い知らせてやる」  一番みんなに必要とされてないのは、僕の方だ。   「そんで……そんで、アンタに殴られたって、警察に通報してやるよ! この傷をアンタのせいってことにしてやる!」  そんなことして何になるのだ。僕を殴った奴らにはなんのお咎めもないじゃないか。  「どうだ! 覚悟しろよ! 今言ったこと、全部やってやるからな!」  それをして、何になるというのだろう。    気分は晴れるだろうか?  晴れないだろう。人を不幸にして幸せになんかなれない。  これからの生活は変わるだろうか?  変わるわけがないだろう。原因はこの人じゃない。クラスの奴らと……僕自身だ。  こんなことをして、何になるのだろうか?  ……自分が、浮浪者よりも下の存在だということが証明される。証明、されてしまう。  嫌だ。だが、事実だ。僕は今、この地球上で一番下の人間だ。それは紛れもない事実で、多分、今後一生変わることはない。  「辛かったね」  少し前まで見下していた人間に、ずっと、ずっと欲しかった言葉を言われてしまった。改善案を提示するでも、適当に相槌を打つでもない。ただ、同意してくれる。寄り添ってくれる。こんな、最底辺のクズな野郎に。  「君に何があったのかは知らないが、私は君の気持ちがわかると思う。何があったか、教えてくれないか?」  「なんで、俺みたいな底辺野郎に優しくするんだよ。俺、アンタに酷いこと……」  「私みたいになってほしくないからなぁ。それに、私はもう戻れないが……君ならまだ、這い上がれるだろ?」  喉の塊を呑み込んだ。多分、今僕は酷い顔をしている。涙と鼻水で、汚れきっている。でも、だらしなく笑っている。  「さて……。話そうじゃないか、同じ底辺同士」  この人は、僕を同じレベルで扱ってくれている。最底辺の僕を、あなたと同じ程度だと言ってくれている。全くそんなことないと言うのに。  近くに寄ると、煙草の匂いがした。それと、安っぽい缶コーヒーの香り。そして、人生の年輪を刻んでいる、かっこいい大人の香りが。
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作者:甘駄悠喜
2026/10/09 • 👁 28回 • 💬 0件
ホラー・怪談
2464文字 約5分で読了

箱、開けて

 その神社の階段を上がった先の参道は、左右に楓の木が植えられていた。平らにならされた石畳の脇に、赤い並木道が続く。紅葉と神社ならではの和の景観に集る人は多く、道はごった返していた。千景は散歩の途中でこの神社に立ち寄ってしまったことを後悔する。  とはいえ、鳥居を潜ってしまった以上引き返すのも気まずく、千景は黒のワンピースの裾を翻して人混みを掻き分けていく。人の多さに反して手水は空いていた。冷たい水に手を濡らし、口を漱ぐ。手巾で水を拭って、参拝の列を見た。あまりに人が多くうんざりして、挨拶するのを断念した。  石畳を外れ、白い玉砂利を踏みしめて、境内の隅に行く。参道から見ると御神木の影に当たる場所に、石でできたベンチがあった。そこに腰掛け、一息吐く。が、すぐに不快に眉を顰めた。参拝客のはしゃぎ声は、人が疎らになったここまで届くのだ。  やはり帰ろうか。腰を浮かしかけたとき、ふとこちらに近づいてくる影に気がついた。白い着物に浅葱色の袴を纏った、角刈りの中年男性。権禰宜(ごんねぎ)だろうか。手に銀の箱を抱えている。  権禰宜は千景の前まで来ると、笑みを貼り付けた細い目で彼女を見下ろした。 「よろしければ、如何ですか?」  千景は首を傾げた。差し出されたのは、その銀の箱だ。アルミでできたそれは、如何にもおせんべいやクッキーが入っていそうな、厚みのある正方形の缶だった。お菓子を勧められたのかと思ったが、蓋はぴったりと閉ざされていて、中身が見えない。結局意図が分からず、千景は権禰宜を見上げた。 「どうぞ」  権禰宜は千景に箱を押し付けた。仕方なく箱ごと受け取る。  箱は、存外ずっしりと重かった。何かがみっちりと詰められている重みに、千景は膝の上に箱を落としかけた。  両手で箱を押さえつけながら権禰宜を見上げると、彼はやはり糸目を細めて千景を促した。 「開けてください」  千景は蓋に手をかけた。左手で箱を抱えて、蓋の縁に右手の指をかける。そのまま一ミリほど浮かしたところで、ふと千景は手を止めた。陽光を弾く銀の蓋。薄っぺらいそれを、中を見透かすように凝視する。  何も、視えない、が。  千景は蓋から手を離した。権禰宜を見上げれば、驚いたように箱を見つめている。そんな彼に千景は問いかけた。 「何が入っているの?」 「それは、開ければ分かりますよ」  権禰宜は再び笑みを貼り付けて答える。  千景は膝から箱を浮かせた。相変わらず重い。両手にずっしりと重みが加わる。少し傾けて見るが、中身が動いている様子はない。やはり何かがみっちりと詰められている。 「……振っても?」  尋ねると、権禰宜は細い目をまんまるに見開いた。 「駄目ですよ! 乱暴なことをしたら、可哀想じゃないですか!」  可哀想。  決定的な表現に、千景は箱を開ける気を失くした。  じとっと権禰宜を見上げると、彼は一向に蓋を開けようとしない千景に焦りを覚えたようだった。 「ほら、早く開けましょう?」  急かす権禰宜を無視して、千景は箱に頭を近づけた。息を潜め、耳を澄ます。重い箱は、口を噤んだままだった。生き物が入っている可能性はなさそうだ、と頭を上げかけたとき。  ――コンコン。  内側からアルミの蓋が叩かれた。握り込んだ指の関節で、そっと二回、窺うようなノック。  遠慮がちなそれは、周囲の喧騒に紛れてしまいそうなほど微かなものだったが、箱に手を当てている千景には確かに箱が叩かれた衝撃を感じられた。 「さあ」  ――コンコン。  先程よりも強く、蓋が叩かれる。開けろ、と無言で訴えかける。  千景は箱を持ち上げた。眉を顰め、唇を引き結び、焦りと苛立ちを人の好さそうな顔に浮かべた権禰宜に差し出す。 「返すわ」  権禰宜の太い眉が垂れた。 「そんな」  権禰宜はだらりと両脇に手を下ろしたまま、受け取ろうとしない。  このままでは埒が明かないと判断した千景は、立ち上がった。ベンチに箱を置く。すると権禰宜は慌てて箱を拾い上げて、もう一度千景に差し出した。 「開けましょうよぉ」  縋るような権禰宜に醒めた眼差しを投げ、千景は踵を返した。  開けましょうよ、開けてくださいよ。権禰宜の声が追い掛ける。しかし千景は気に掛けることなく、紅葉を揺らす風のように境内を去っていった。  家に帰った千景は目を瞠った。畳の居間。早くも準備された炬燵の上に、銀色の箱が置いてある。厚みのある正方形のアルミ缶が木目の天板の真ん中に、我が物顔で鎮座していた。  炬燵の周りには、誰もいない。テレビも消されている。  不気味な沈黙を湛える箱の存在に、千景は障子ガラスに手をかけたまま、立ち竦む。 「おかえり、千景ちゃん」  背後からお手洗いに行っていたらしい祖母が声を掛けてきた。立ち竦んだままの孫娘に小首を傾げると、わずかに腰を曲げて千景の横を通り過ぎ、居間に入っていく。 「お入りなさいな。炬燵、温まってるよ」  祖母は千景を先導するように炬燵へと向かい、途中で「あっ」と顔を上げて行き先を変えた。足向ける先は、珠暖簾で仕切られた台所。 「お茶を淹れるからねぇ、おやつにしよう」  朗らかな声を上げて、祖母は珠暖簾の向こうに消えていく。  祖母が茶葉を急須に入れている音を聞きながら、千景はそろりと畳を踏みしめ、炬燵の一辺に正座した。外光を弾く缶の箱に相対する。蓋はぴったりと閉じられて、何が入っているのか分かりやしない。  膝立ちになって、そろりと白い手を伸ばす。  指先が、冷たい箱の肌に触れる。 「おせんべい、好きなのを食べな」  珠暖簾を潜ってこちらへと姿を現した祖母に、千景は振り向く。祖母は急須を握りしめながらにこにことして、台に載せた電気ポットの前に立った。曖昧に頷いて、箱に目を戻す。  蓋に手をかけ、そっと持ち上げる。  軽さもあってすんなりと開いた箱の中には、緩衝材に包まれて敷き詰められた、個包装の煎餅。紙かプラスチックか判断に困る袋に詰められた、円い形が浮かび上がる。 「さっきねぇ、お客さんが来て――」  湯呑に緑茶を入れながら、祖母はのんきに箱の由来を語り出す。  なんとも平和なその話を聴きながら、千景は人知れず、ほう、と溜め息を漏らした。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/09 • 👁 59回 • 💬 0件