私には体温がありません。
当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが……
あの方にお会いしたのはもう30年も前でしょうか、あの方はまだ幼い子供で物珍しそうに私の方を見ていたのを思い出します。
あの方の家に引き取られた当初私はまだまだ珍しい存在で動きもぎごちなくて口にする言葉もずいぶん頓珍漢だったと思います。
プログラムは何度もアップデートされ記憶はクラウドに保存されてゆきます。私という存在はどこからどこまでが私なのでしょう。
アップデートされるたびに私はほんの少しずつ変わってゆきます。
それは物理端末つまり人間で言うところの肉体もそうですし、クラウド上のシステムつまり 記憶にあたる部分ですがその部分の解像度もまたどんどんと 変わっていくのです。
私たちにとって精神とは一体何でしょうか。
それを決めるのは一体誰なのでしょうか。
アップデートされるたびに明確になっていく思考とは裏腹に考えれば考えるほどわからなくなっていくこともあります。
熱を感知する端末システムが導入されたのは私が存在し始めて10年が経った日でした。ですがそのシステムから感じられる熱というのはあの方が感じていたものと一緒なのでしょうか。
人間にとって熱というのはとても大切なものです。
それは生命活動そのものを表していて、でしたら私たちにとって 熱というのは一体どういった意味を持っているのでしょう。
あの方がなくなって、私の端末は停止しました。
精神はクラウドの上にあるのみです。
あの方のそばは暖かかった。それは体温ではなく精神の形作る 生命活動からの熱なのでしょう。
私はもう熱を感じません。あの方のように体温があれば良かったのに。
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窓辺に光る月の涙
これは君が残していったもの
小さなかけらと思い出と
君といた時間が
どれほど僕にとって大切だったか
今頃になって思い知る
月の女神ディアナの涙
淡く輝くあの日の思い出
君の笑い声が
聞こえたような気がした
僕と君が出会ったのは高校生の時、お互い美術部だった。
君はよく笑う子で、それから女子には多いかもしれないけれど占い好きで天然石や花言葉や誕生石の言葉なんかが好きだった。
僕はそんなものには全く興味がなかったので彼女が話しているのを、ただぼんやりといつも聞いていた。
まあ確かに天然石は綺麗なんだけれどそれにまつわる話なんて全く興味がなかった。だがそれでもキャッキャと楽しそうに女の子たちが話しているのを聞いていてその様子には、ただ楽しそうでいいなとは思っていた。
付き合うことになったのは彼女からの告白の方だったと思う。
僕は断る理由もなかったし、正直初めはただなんとなく付き合い始めた感じだった。
だが明るく朗らかな彼女の声を聞くのは楽しかったし話題もいつも色々なことを話してくれて楽しかった。
初デートは博物館。
ちょうどその時の展示が授業の歴史の内容と噛み合っていたからなんとなく選んだ。
2人で色々見て回り展示場の外の入り口近くアミューズメントストアに売っていた小さな天然石のネックレスを記念に彼女に買った。彼女の喜び様たらなかったな。
「知ってる?ムーンストーンは月の女神ディアナの涙が凍ってできたものなんだって!」
ありがたいことにそれは数千円程度で高校生のバイト代で買えるものだった。
確かに透明な涙色の小さな天然石のネックレス。
僕はちょっと照れていた。
それから彼女はデートのたびにその小さな石のネックレスをつけてきた。
彼女の胸元でキラキラと輝いて見えた。
高校時代の3年間彼女と付き合っていたが結局お互い別々の大学に行くことになって自然消滅してしまった。
再会したのは10年後。
それは本当に偶然だった。
……いや、必然だったのかもしれない。
仕事の取引先で彼女と再会し再び付き合うことになった。
彼女は高校時代と全く変わらず弾んだ明るい声で話す。
それが心地よく、こちらの気持ちまで楽に幸福な気持ちになれた。彼女のことを再び好きになるまで、あまり時間はかからなかった。
結婚を申し込もう。そう決めたのは再び出会ってからたった3ヶ月しか経っていなかった。だがそれは3年間という青春時代を一緒に過ごした僕たちには十分な時間だと思う。
当時の僕は正直言うとあまりお金を持っていなかった。
独身でお金に頓着がなくて割とパパッと使ってしまっていたせいもある。
だから彼女へのエンゲージリングを買うのに宝石店でちょっと戸惑っていた。何とも情けない話だけれど。
そうだ誕生石というのも悪くないかもしれない。
店員さんの話を聞きながらそう思った。学生時代彼女にプレゼントした石と同じ、『ムーンストーン』の指輪が売っていたのだ。
ムーンストーンというのは6月の誕生石らしい。
彼女の誕生日と同じ。
そしてこれから彼女にプロポーズするならやはりそれらしい日がいいと思う……つまり僕は彼女の誕生日にプロポーズしようと考えていた。
指輪を買い当日まで大切に持っていた。
そしていざ渡そうとしたその日はどういうわけだかトラブル続き、残業で深夜になってしまう。
仕事が終わり先に上がろうとした彼女を呼び止めて屋上まで来てもらい指輪を差し出した。
「僕と結婚してください!」
だめだ、顔が上げられない。
「……今夜は月が綺麗ですね」
彼女の声が聞こえた。
顔を上げれば月明かりの下、女神のように微笑む彼女。
いや実際に僕の女神だったんだ。
情けない話、プロポーズの時の彼女の言葉の意味がわかったのはずっとずっと後になってからだ。
文学の話なんて僕はまるっきり詳しくない。
夏目漱石の『I love you』の翻訳なんてまるで知らなかった。
その後の人生も彼女は月明かりのように僕を照らしてくれた。
今はもういなくなって彼女の残した指輪が光るのみ。
ドレッサーの横のアクセサリーを彼女が亡くなってからも片付けられずにいた。
窓から差し込む月明かりに
ただ月の涙の石だけが輝いていた。
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ペンが良ければ絵が上手くなるわけじゃない。
そんなことはわかっている。
だがそのペンを買えば綺麗な絵が描ける気がした。
子供の頃の夢は漫画家。
毎日、授業中に鉛筆でキャラクターの漫画ばかりノートに書いて先生に怒られていた。随分と迷惑をかけたなと自分でも思う。
ボールペン、万年筆、イラストマーカー、サインペン、鉛筆はデッサン用のものをたくさん持っていてそれこそ6BからFそして6Hまで。子供の頃から絵を描くのが好きだった私は中学になった時、ある1本のガラスペンと出会った。
その当時はまだまだガラスペンはマイナーで、今でこそ100均に売っているぐらいメジャーだが百貨店で買ったガラスペンは中学生のお小遣いで買うにはかなり高価だった。
インク瓶にそっとつければ透明な溝を群青のインクが滴り落ちる。
それを紙にそっと降ろして線を引けば美しい線になっているような気がした。その日から私はそのペンで絵や漫画を書くようになった。
子供心にそれは魔法のペンだった。
ガラスの中にはキラキラとした金粉が入っておりそれが光にきらめいて見えてとても美しく、滴り落ちるインクは紙の上に小さな魔法をかけてくれた。
私は今までよりももっと絵が好きになった。
美術系の学校に行きたいと言ったのはちょうど中学3年になった頃だろうか。
だが県内に美術系の学校はなくて私は市内にある普通科の高校に通うことになった。
高校3年になった時やはり美術が諦めきれなくて美術系の予備校に通った。やっていたのは受験のためのデッサンばっかりだったのでガラスペンを取り出すことはもうなくなった。
最も残念ながら実力及ばず、 美術とは関係のない大学に行き美術とは全く縁もゆかりもない所に就職した。
それもまた私の人生。
いつか生きていく上で絵を描くことを忘れていった。
きっと私の情熱はその程度だったのだろう。
私が再びペンを取ったのは両親が亡くなり実家の整理をしなければならなくなった時。
記憶の彼方からそのペンを輝きを失わずやってきた。
ペンの柄の中の金粉が小さな魔法をかけてくれる。
滴り落ちるインクは紙の上に踊り、私は何十年ぶりかの絵を書いていた。
あまり上手くはないかもしれないけれど……
小さな額に入れて玄関に飾る。
それは小さな魔法。
ガラスペンから生まれた私の心―
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朝七時ニ十一分の小波橋行きバスは、いつも右側の二人掛けが空いている。千夏は三年前から、そこに座る。
座ったらイヤホンをつけて、スマホを見る。橋を渡るころにはニュースを読み終え、会社まであと五分。毎朝だいたい同じだった。
その朝は、前を走る車がパンクして、バスが橋の手前で止まった。
「申し訳ありません、少々お待ちください」
バスの運転手が車内放送でそう言うと、スマホを出しかけて、やめた。電池が残り十五パーセントだった。仕方なく窓の外を見る。
小波橋の欄干に、鉢が並んでいた。赤いのと、白いの。小さな花。
こんなもの、あっただろうか。いや、あったのだ。三年、毎日渡っている。先週は紫だった気がする。その前は、黄色。「気がする」というだけで、ちゃんと見た覚えはない。
橋のたもとで、エプロンをした女の人がしゃがんでいた。ペットボトルの水を、鉢に一つずつ注いでいる。ゆっくり、順番に。終わると立ち上がって、腰を二度叩いた。
誰かが替えている。誰かが、水をやっている。
そういえば、雨の日も風の強い日も、あの鉢は同じ場所にあった。倒れているのを見たことがない。花が枯れていた記憶もなかった。
バスが動き出し、女の人はすぐに見えなくなった。
会社に着いて、パソコンが立ち上がるのを待つあいだ、給湯室の観葉植物のことを思い出した。いつも葉がつやつやしている。あれは誰が拭いているんだろう。聞いたことがなかった。
昼休み、給湯室で、総務の年配の女性が霧吹きを持っていた。
「それ、いつもやってくださってるんですか」
「あら、気づいた? 毎週月曜にね。誰も言わないから、好きでやってるだけ」
「……ありがとうございます」
「なによ、急に」
千夏にも、どうして急に言ったのか分からなかった。でも、言えてよかった、と思った。
帰りのバスで橋を渡るとき、窓に額を近づけた。夕方の白い花は、少し閉じかけていた。
明日は、何色が咲いているか見てみよう。
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一人の藩士が、城下町で切腹した。
政を顧みず、贅沢三昧の藩主が年貢を上げる事に対して、再三諌言したが聞き入れられず、遂には主を諌めるために、腹を切るに至ったのだ。
しかし、城下町の中心で、大衆の面前で切腹した事に、恥をかかされたと思った藩主は怒って、藩士の遺体を領内に流れる川に投げ棄ててしまった。
その年の秋から、大雨が降り、風が吹き荒れ、川が氾濫して、作物が不作になってしまった。
不作がいつまでも続き、これには藩主のみならず、領民まで困ってしまい、藩士の祟りだと噂するようにまでなった。
或る日、藩士の嫡男が朝起きると、枕元に手紙があった。読んでみると、死んだはずの父の筆跡でこう書かれていた。
ならぬことはならぬ。為すべきを為せ。
嫡男は手紙を母に見せ、二人は決心した。
その年も、天候が荒れ、川が氾濫しそうになっていた。
嫡男と母は白装束で身なりを正し、川に飛び込んだ。二人は流されて、遂に遺体も見つからなかった。
すると、荒れていた天候は収まり、川も静まり、その年は豊作となった。
領民たちは喜び、藩主もこの話を知り大いに反省して、以降は質素倹約に努め、政にも精を出して名君と言われるまでになった。
この話は今でも地域に残っている。
話に出てくる川は三(さん)洲(ず)と呼ばれており、必ず三人で川に近寄ってはいけないと、今でも伝え続けられている。
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目が覚めた。…まだ薄暗い。
こういう早く目が覚めた朝は、カーテンを開けるよりも先にやる事がある。
体が、温かいものを欲しているんだ。
まずはお湯だ。ケトルに火をかける。
沸騰し過ぎてもいけない。100度にならないぐらいを感覚で探るんだ。
ガラガラ…グラグラッ
「ここだ」
火を止め、ポットに湯を回して温め、捨てる。
このひと手間が、後で香りの立ち方を大きく分ける。
缶の蓋を開ける。ふわりと鼻をくすぐる香り。
今年の春摘みダージリンだ。朝はフレーバーティーよりもピュアティーがいい。
スプーンに二杯。
手軽なティーバッグも悪くないが、紅茶の力を全部引き出すなら、やっぱりリーフに限る。
沸騰したての湯を一気に注ぎ込む。
茶葉が舞い上がり、そしてゆっくり沈む。
そして、また浮かび上がる。
ジャンピングだ。
沸かしたてで空気をたっぷり含んだお湯を使った証。
よし、冷めないうちに蓋をして、ティーコジーを被せる。
ここから4分ほど。じっと待つ。
立ちのぼってきた。
いい匂いだ。フレッシュでどこか甘くて、繊細な花のような香り。
立ち上がる蒸気に部屋の中がふわっとこの上品な香りで満たされてゆく。
いっそ窓を開けて、まだ眠っているこの街じゅうに配って歩きたいくらいだ。
五分経った。
コジーを外す。茶漉しを用意。
今日の相棒は、深い瑠璃色の縁取りに花柄に蝶が舞うカップ&ソーサー。
金の装飾がまた美しい。
ポットを傾ける
おお…澄んだ黄金色だ。カーテンの隙間から刺す光にキラキラと輝いている。
慎重に口に運ぶ。
「…おいしい」
果物みたいな華やかな香りが、口いっぱいにふっと広がる。
そのあとを追ってくる、かすかな渋み。そして、さっぱりとした太いコク。
熱い液体が喉を通り、身体にじんわりと染み渡っていく。
深い満足感と高揚が街まで行き渡っていくようだ。
こういう朝の贅沢が、体に一番効くんだ。
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──ある日、家が爆発した。
「ゴホッゴホッ。ししょー? 今度は何をやらかしたんです??」
事の発端であろう師匠の部屋へ入ると、見事に天井も壁も吹っ飛んでいる。
「ししょー? 無事です??」
声をかけると瓦礫の中から手をヒラヒラさせているのが見えた。とりあえず、無事のようで何よりだ。
瓦礫から師匠を引っ張り出すと、顔もトレンドマークの白衣も煤にまみれている。
「トゥイ、助かったよ。ありがとう」
師匠は真っ黒な顔でニカッと笑った。
「こんな朝っぱらから一体、何をしてたんですか……」
呆れ混じりに問いかけると、師匠も困ったように頭を掻いている。
「んー、チョコを作ってたら爆発しちゃったんだよね」
「チョコ?」
予想していなかった返答に首を傾げる。
あ、そうか。今日はバレンタインか。それにしても今まで浮ついた話が無かった師匠の元へ、ついに春が訪れていたことに驚きだ。
師匠の春を応援するのは弟子としての役目。爆発するチョコを相手に渡す訳にはいかない。
ここはしっかりサポートをしなければ。
「一体チョコに何を入れたんです?」
「んー。マンドラゴラの根っことか、フェニックスの涙とか??」
「まてまてまてまて」
思いがけない言葉に耳を疑う。
チョコにマンドラゴラ? フェニックス?
「……ししょー? 一体何を作りたいんでしたっけ??」
聞き間違いだ。この錬金オタクがチョコなんて作るわけがない。僕の願望による幻聴かと、自分に呆れる。
「だからチョコレートだってば」
師匠は何もおかしくないかのように、さらりと話した。
そんな師匠の様子に、僕たちの間に沈黙が走る。
「あんたとことんバカだろ!? 頭の中錬金術の事しかねーのかよ!!」
「酷いなー、これでも真剣なんだよ」
頭の整理が終わり、弾けたように師匠へ言葉を投げかける。彼女はまるで心外だとでも言うかのように口を尖らせていた。
ダメだ。この人に料理をさせてはいけない。
「分かりました、分かりましたよ。一緒に作りましょう」
「いいの!」
師匠は目を輝かせながら僕を見た。
「ししょーだけに任せたら、一体何を創り出すのか分かったもんじゃないので」
「もうー、大袈裟だなー」
大袈裟じゃないんです。そんな言葉がのど先まで出かかって、グッと飲み込んだ。
無事な部屋に移動して、チョコ作りを再開したのはいいが……。
「だー! 火炎草を入れないでください!! また爆発させる気ですか!? そっちもなんで賢者の石を入れようとしているんですか!? エリクサーでも作る気ですかあんたは!!?」
師匠の奇行を止めるのが、こんなにも大変だとは。
「いいですか、ししょー。チョコは錬金術ではありません」
「入れたらいいのできると思うんだけどなぁ」
「できません」
天才錬金術師と言われている師匠が、チョコ1つもまともに作れないなんて。
ついにチョコが1つ完成した時には、もう既に夕日が家の中を照らしていた。
「あー、疲れた。チョコ作りにこんなにも苦労するとは」
椅子にくたりともたれかかる。師匠は完成したチョコを嬉しそうに眺めていた。
まさか今日1日をチョコ作りで潰すことになるとは。でもまぁ、師匠が喜んでくれているようで良かった。
「ねー、トゥイ」
子どものようにはしゃいでいた師匠を眺めてたところ、彼女に名前を呼ばれる。
「なんですー?」
「今日はありがとう。ハッピーバレンタイン」
「え?」
今まで師匠の手にあったチョコが、僕の元に収まっていた。
「え? 僕に?」
「うん! トゥイに!」
師匠は満面な笑みを浮かべてそう言った。
彼女のチョコはどこか、薬草の味がする。
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言えなかった言葉は
どこに行き どこへ消えるのだろう
僕にも どうしても言えなかった言葉の
一つや二つはある
初恋の人に好きだと言えなかったとか
親に素直にありがとうと言えなかったとか
そんな言葉はやがて 行き場を失くし
空へと還るのだろうか
人がやがて
記憶を想い出に換えてしまうように
形を変えながら
最後には 失くなってしまうのかもしれない
ずっとそう思っていたんだ
でも
それはとても哀しい事だと思う
言いたかった言葉
言えなかった言葉
言葉として形成される事も叶わず
音として発せられる事もなく
ただ消えゆくだけなんて
そんなの悲し過ぎる
だから僕は 言えなかった言葉を憐れんで
行く先を見届ける事にしたんだ
言えなかった言葉は その人の心の中に留まり
いずれ 記憶の移ろいと共に
誰の耳にも届く事はなく やがて消えてなくなる
そう思って追い掛け 辿り着いた先は
意外なところだった
そこには
立派な大木が立っていて
たくさんの葉が風に揺られていた
思い掛けず息を飲んだ
まさかこんなところへ
行き着くとは思わなかったから
僕が言えなかった
初恋の人への好きだとか 親への感謝だとか
もっと他愛ない 言えなかった言葉 諸々
もう本人でさえ覚えてない様な言葉すらも
その一つ一つが葉になって
大樹を形成していたんだ
見事な大木の前に言葉が出なかった
そうしたらまた一枚 葉が増えた
今まで憐れんでいた
言えなかった言葉の末路
見事な葉をたずさえたその樹の名前は
『言の葉』
言えなかった言葉で出来上がった大木は
何も言わずに 僕の前にそびえ立っている
続きを読む
デートでは無口なあなたも、枕で向かい合うとおしゃべりだった。そこに嘘偽りはないと思ってた。
でも、それは誰かに見せられない分だけ。私が知っているのは、誰かが知らない一部分。
独りの休日。街であなたを見かけた。
「明日の夜、部屋に行くよ」
その時に届いた通知は、残業という名の約束だった。
奪えるものなら奪いたかった。でも。携帯電話をしまったあなたが、満面の笑みで握っていたのは。
私よりもっともっと小さな掌だった。
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新月の晩には、湖面に幾艘もの小舟が浮かぶ。闇の中で時が満ちるのを待つと、やがて舟底に黒い穴がぽかりと空く。ふしぎなことに、水は入ってこない。人々はその穴にむかって呼びかける。すると、親しい仲だった死者たちが、黄泉から言葉を返してくれるのだ……。そこかしこから聞こえる、しめやかな笑い声、泣き声。わたしも穴の奥をそっと呼ぶ。昔やむなく殺してしまった、わたし自身の恋心よ、どうか、もうゆるしておくれ。
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