ああ、今日もジムノペディがこの部屋にはピッタリだ。
昔は悲壮感を感じた。
でも今は……割れたコップの欠片を、もう一度割ったって何も変わらない。
この部屋には余計なものが何もない。
全て、完結している。
友達がおすすめしてくれたマウスを、一昨日燃えるゴミに出した。
あの人と一緒に買ったカトラリーを、昨日燃えないゴミに出した。
家族との思い出がつまったアルバムを、シュレッダーにかけた。
たくさんご飯を食べたローテーブルを。
色んなものをこぼして、はげちゃげた絨毯を。
待ち遠しかった粗大ごみ回収の予約日にようやく出せた。
部屋を見渡した。
家具がないと、こんな広かったんだ。
ここに何年住んだか、もう覚えてないな。
何もないから、音楽が反響して聴こえる。
赤い陽射しが、床に置いたスマホだけを照らしている。
ふと窓の外に目をやると、綺麗な直線の雲が均等に並んでいた。
すじ雲だっけ?
今日は少し風が強いんだね。
でも……嵐じゃない、大雪でもない。
ドラマチックな日じゃない。
今日が何の変哲もないからこそ、ここが現実だって否が応でも理解する。
同じく何の変哲もない私にピッタリだ。
泣いてばかりで。
いつしか泣けなくなって。
ウソの笑顔を通して。
それすら放棄してしまった何の変哲もない私に。
サティは満足しているだろうか?
ちゃんと曲に耳を傾けない、私の部屋にある唯一の「家具」になれて。
ああ、間違っていた。
余計なものがひとつだけあった。
日が暮れて赤色が遠くなるのを見送った。
いつの間にか、音楽がサティの明るい曲に変わっている。
ようやく最後の余計なものを、今から失くす気になれた。
時間差で届く予定のメールを確認する。
封筒にしまった手紙を確認する。
少しでも迷惑が減るかと思ったけど、それでも大家さんには申し訳ない。
出しそびれたシュレッダーゴミくらいは許してくれるよね?
――
夢を見た。
いないはずの両親に抱きしめられる夢。
喧嘩別れした友達と遊ぶ夢。
そして、私の笑顔に泣いてくれたあなた。
私の中に余計なものが満たされる。
ジムノペディはもう聞こえない。
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ありふれた真夜中。ふと、部屋のドアが僅かに開いているのに気付く。
試験勉強の最中だった私は、中途半端に開いているドアの隙間を不気味に感じた。闇の中に紛れ、知っているのに知らない「誰か」がこちらを見ている感じがしたのだ。
私の中で一気に不安感が募り、すぐにドアを閉じに行こうと足早にデスクから離れた。いつから、どうして。そんな事を考えながら、私は暇そうな冷たいドアノブに手を掛ける。
すると、ああ、恐ろしい。廊下から、ぬるい空気と共に「誰か」が私の中へ入って来た。脳内へ一気に話し声が響き渡り、知らない柔軟剤の匂いや見知らぬ人間の指紋、熱を帯びた息遣いがベタベタと身体中を這いずり回る。侵食される。
私は何とかドアを閉めたが、「誰か」の気配は消えない。私の中に居座ろうと走り回り、叫び回って飛び回る。うるさい、黙れと私が叫んだ所で意味などない。この静かな自室で声を上げているのは、私一人だ。
このままでは何もかもが嘘で、何もかもが本当になってしまう。それが嫌だから、私は試験勉強に打ち込んでいた。何が嘘で本当かを、私なりに見極める為に私はこの部屋を守っていたんだ。それなのに「誰か」の所為で、全てが台無しだ。
私はマーブル模様になった視界の中で、机に置いてあったラジカセのスイッチを必死で押し込む。
ノイズと共に、クラシックなピアノが聞こえてくる。滑らかな肌の様に美しい、真珠色の音楽が。美しい、陶器の様に無垢な音が、沁みてくる。
やがて、ピアノが終わる頃。「誰か」は私の頭の中からいなくなっていた。
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あたしはリカ。香山リカ。でも、誰もフルネームで呼んでくれたことはない。
パパはフランス人の音楽家で、ピエール。ママはファッションデザイナーで、織江。でもよく考えたら、パパもママもフルネームでは呼ばれないかもしれない。というか、パパは香山ピエールなの? 婿養子?
ミカとあたしは、特別な縁があったはずだった。名前が似ているから、彼女の祖母が一歳の誕生日に選んでくれたのだ。「ミカにはリカちゃんがぴったりね!」なんて、嬉しそうに言っていたらしい。駄洒落か。
ところが、ミカはあたしを見た瞬間、ギャーッと泣き出した。
「……お母さん、ミカには少し、早かったみたい」とミカの母親が祖母に告げた。
「ええ? 可愛いのに?」
まったく、ひどい話だ。
まつ毛が長くて、目がぱっちりしてるのが怖い? そんなこと、ある?
だが、ミカの反応は顕著だった。泣いて叫んで手をばたつかせ、結果、あたしは箱ごと押し入れ行きとなったのだった。
こうして、あたしの人生の幕開けは、暗闇の中で迎えることになった。
押し入れの奥深く、あたしは静かに眠っていた。いや、正確には「眠らされていた」というべきか。暗闇の中で、どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
最初の頃は、時々、押し入れの扉が開く音がして、少しだけ期待していた。でも取り出されるのは毛布やアルバムばかり。
ちょっと、そろそろ思い出してくれてもいいんじゃない?
そんなあたしの願いは、聞き届けられることはなかった。――その日までは。
ガタガタ、と何かを探す音がして、ミカの母親の声が響いた。
「ミカ、押し入れの中を片付けるわよ。手伝って」
「はーい……えっ?」
小さな手が、あたしを掴む。光が差し込み、久々にまぶた(はないけど)を開いた。
「……これ、なぁに?」
ミカは、あたしをじっと見つめた。次の瞬間、ぱあっと顔を輝かせる。
「かわいい!」
……は? ちょっと待って。泣いて押し入れにぶち込んだの、誰だったかしら?
「えー、なんでしまってたの? これ、リカちゃんだよね?」
「ミカが怖がったからでしょ」母親が苦笑する。
「ええっ、うそ! こんなに可愛いのに!」
あたしは、心の中で腕を組んだ(実際にはできないけれど)。
ふん、都合のいい話ね。
ミカはあたしを抱きしめて、部屋に駆け込んだ。ようやく光の世界に戻れた――と思ったのも束の間、彼女はすぐに別のものを探し始めた。
「そうだ! リカちゃん電話、かけてみよう!」
……ここに、本物がいるのに?
ミカはあたしをそっとベッドに寝かせると、受話器を握りしめた。ピポパというプッシュホンの音が微かに聞こえる。
『もしもし、あたしリカちゃん! お電話ありがとう!』
受話器の向こうから、甘ったるい声が流れてきた。……あんた、誰よ?
『今日のラッキーカラーはピンクよ!』
「ピンクかぁ……じゃあ、リカちゃんもピンクの服着せてあげよう!」
ちょっと待って? あたしの服、これ一着しかないんですけど?
ミカは、あたしを見つめて少し考え込んだ。
「……あれ? そういえば、お着替えどこにあるの?」
ないわよ。最初から。
ミカの「リカちゃん電話」ブームは、しばらく続いた。
毎日せっせとボタンを押し、向こうの『リカちゃん』とおしゃべりする。本物の前で、なぜ偽物とばかり話すの?
それでも、ミカは少しずつ電話先の偽物ではなくて、あたしと向き合うようになった。
髪をとかし、リカちゃんハウスにあたしを座らせる。
「今日はお茶会よ。ここに座ってね!」
ミカはあたしの手を持ち、上品なポーズを取らせた。お茶は紙コップに入った水、ケーキは消しゴムだったが、なかなか悪くない。
こうして、あたしの「愛される日々」が始まった。
――しかし、問題が一つあった。
服が、一着しかない。
色が褪せてきたピンクのワンピース一枚きりのあたしを見て、ミカは首をかしげた。
「ねえ、リカちゃんの服って、これしかないの?」ミカが母親に尋ねた。
「ええ、そうよ。最初から」
「うーん……じゃあ、作ってあげる!」
ミカは意気込んで、母親の裁縫箱を引っ張り出した。
「最初は簡単なのがいいよね……あっ、おばあちゃんが言ってた! 浴衣なら作れるかも!」
……ええと、裁縫をしたことは、あるの?
まずは、布選び。母親が手ぬぐいをいくつも持ってきた。ピンクの花柄、青い朝顔、紫の藤――なかなか渋いラインナップだ。
「やっぱりピンクがいいかな?」
ミカが布を切り始める。
「えーっと、袖と、身ごろと……あれ、どっちが前?」
大丈夫? その調子で進めて、あたし、まともな形の浴衣を着られるの?
見守ること数時間、ようやく浴衣らしきものが形になった。……少し歪んでいるが、まあ、最初にしては悪くない。
「できた! リカちゃん、着てみよう!」
ミカは嬉しそうに、あたしに浴衣の袖を通した。袖口の長さは左右で違うし、襟も少し曲がっている。だけど、そんなことはどうでもいい。これは、ミカが初めてあたしのために作ってくれた服なのだ。
ミカは大人になってもあたしを捨てなかった。
もう子どもの頃のように遊ぶことはなくなったけれど、それでもずっとあたしの服を作り続けてくれた。
「リカちゃん、冬だからコートがいるよね」
そう言いながら、小さなボタンを丁寧に縫い付ける。春には薄手のワンピース、夏には麦わら帽子付きのサマードレス。特別な日には、小さなリボンをつけてくれた。
「ねえ、リカちゃん、この服、似合うかな?」
ミカのそんな声を、何度聞いたことだろう。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
どれくらいだろうか。ミカの髪が半分以上白くなるくらいには、日が流れた。
「事故……?」
ミカにそっくりな娘が、呆然とつぶやいた。
交通事故だったらしい。
朝、いつものように家を出たミカは、もう二度と帰ってこなかった。
あたしは、本棚の上でぽつんと取り残されたまま、ただ時間が過ぎるのを感じていた。
葬儀の日、ミカの娘は、あたしをそっとバッグに入れ、斎場へと向かった。
最後のお別れの時間になり、棺の蓋が開くとミカが静かに横たわっていた。参列者が次々と棺の中に思い出の品を納めていく。
ミカの娘は、あたしを見つめ、迷うように手を伸ばし、棺のなかにそっと置いた。
なるほど、そういうことか。
長年一緒にいたあたしが、最後にミカと共に旅立つのは、悪くない話だ。あたしは、ミカのものだったのだから。
そう、考えていたのに。
「ダメ!」
小さな手が、あたしを掴んだ。ミカの孫娘だった。
「それ、わたしの!」
「おばあちゃんの大事なお人形なのよ」
「やだ! わたしのなの!」
ちょっと待って。違う。あたしは、ミカと一緒にいるために生まれてきたの。
孫娘の手の中から、あたしの身体がふっと抜ける。まるで力が抜けたように、スルリと滑り落ちる。
あたしは、棺の中に落ちた。
孫娘が「あっ」と声をあげるが、ミカの娘が係の人に目配せすると、すぐに棺の蓋が閉められた。
あたしはもう、ミカのそばにいた。これでいい。
再びの暗闇は、あたしに優しかった。
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コスモスの街にお邪魔して
「ちょっと聞いてよ!」なんて
話すと
Mrs.コスモスたちが
お茶会を開いてくれて
「あら、それは辛かったわね」
「その人はダメよ」
「でも、その恋がよかったのよね」って
口々に言うから
笑ってしまった。
そしたら最後に
Mrs.チョコレートコスモスが
「チョコレートドリンクはいかが?
甘さは疲れも涙も溶かすのよ」
って振る舞ってくれて。
落ち込んでホッとしたくて
一人で来たコスモス畑で
どんな妄想してんだかって
おかしくなって
帰り道
Mrs.コスモスたちに
「ありがと」って。
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追うほどの恋では
なかったけど
あなたしかいないなど
言うほどでもなかったけど
1年ほど
あったものがなくなるのは
やっぱり
どこかで痛くて。
あなたと出会った頃
かすかに香った
金木犀が痛みを増やす。
金木犀
わたしのために泣きなさい。
そして
オレンジを散らして。
今年だけは早く…!
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多くを望んではいないのです。
心地の良い音楽に身を委ねていたいだけ。
名声まで必要ありません。
フェッテがきれいに決まったら、褒めてくれればそれで良い。
王子様とのグラン・パ・ド・ドゥでなくていい。白い翼もいらない、黒い衣装でこと足りる。
スポットライトの下でなくても良いから、舞台の上に立たせてください。
愛が欲しいわけではないのです。
望みは一つ。心ゆくまで踊らせて。
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ある晴れた秋の昼下がり、子猫のクロちゃんトラックの上でお昼寝をしました 暖かくてポカポカ 気持ちが良いのです。
すや すや すや
優しい 秋の風が吹きます。
「ちょっと荷物を運んでくるよ」
飼い主の佐藤さんが トラックのエンジンをかけます。
上で子猫のクロちゃんが寝ていることも気づかずに。
トラックはどんどんどんどん走って行きます。
そして大きな建物の前で止まりました。
止まったはずみでクロちゃんは目を覚ましました。
「一体ここはどこだろう?」
クロちゃんはトラックの荷台からぴょんとおりました。
あたり一面、秋桜の花が咲いています。
初めて見る花に大興奮のクロちゃん。
秋桜はそよそよと揺れています。
白、ピンク、赤。黄色や オレンジ色の黄花コスモスもあります。
嬉しくなったクロちゃんは喜んで 花畑の中を走り回りました。
佐藤さんは気づかずにトラックのエンジンをかけて家に帰ってしまいました。
だんだんと空が 茜色に染まって夕方になってきました。
クロちゃんはお腹が空いてきました。
だけどここは一体どこなのでしょう?
お花が綺麗で走り回っていたけれど、知らない場所です。
寂しくなってクロちゃんはにゃーにゃーと、泣きました。
すると そよそよと揺れていた 秋桜 たちがクロちゃんに話しかけます。
「どうしたの猫の坊や、迷子なの?」
「お母さんはどこかしら?それとも飼い主さんと一緒だったの?」
「わかんない、ここはどこ?」
クロちゃんは泣き止んで秋桜たちの方を見上げました。
「それじゃあ坊や向こうにある大きい建物に行ってごらん 。人間がいっぱいいるからきっと力になってくれるよ」
「うん」
クロちゃんは建物の方に向かって歩いて行きます。
自動扉が開いて中に入りました。
職員さんが気がつきます。
「あらあら、子猫ちゃんは一体どこから来たの?」
クロちゃんを抱き上げてそう 尋ねます。
首輪の鈴が チリンとなりました。
「あら名前が書いてあるわね。それに電話番号かしら?」
職員さんは電話をかけて佐藤さんに連絡してくれました。
「ありがとうございました。クロ、どこに行ったか心配したんだぞ」
佐藤さんはクロちゃんを抱き上げてトラックに乗ります。
トラックの窓から秋桜を見る、クロちゃん。
そよそよと秋の風の中、秋桜は気持ちよさそうに揺れていました。
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「今日からこいつはお前の兄弟だ、同じように鍛冶の修行をしてもらう」と。
そう父は言いました。
ある日、私が工房で領主様への納品物を作っていると
父が私と同じ年頃の少年を連れてきたのです。
どこで拾ってきたのか、服はボロボロで「臭い」という言葉では、
到底収まらない異臭を放っており、何を話すにしてもボソボソと喋り聞き取りづらい。
服も臭いも母が、翌日には何とかしたようですが、
そんな奴が兄弟など信じられません。
当然そういった考えは私だけでなく、親方である父の弟子たちは彼に冷たくしました。
彼が間違った方法で作業を進めていても誰も止めない。
そればかりか、父の目を盗んでは嫌がらせなどしておりました。
私はそれを見て止めはしませんでした。
ですがそんな下らないことをしているから、「程度の知れる品」しか作れないのだと、他の弟子達を見下し、知らぬ存ぜぬの態度を貫きました。
父を超える鍛冶師になれるのは、やはり私だけだとまた火の中に金物を入れます。
奴はまた弟子達の嫌がらせで納品物をダメにし、父に報告しておりました。
父は「そうか」とばかり返します。
頭の良い父が、嫌がらせに気付かないはずないのですが、それ以外は何も言いません。
ますます、奴を連れてきた理由が分からなくなりました。
ですが、その答えはすぐ分かりました。
私が十歳から六年かけて覚えた業を、生意気にも一年で覚えたのです。
その頃から、嫌がらせは目に見えて減るばかりか、自信を無くした弟子達はどんどん辞めていきました。
父は奴の才がどんな言葉よりも鋭く輝くと分かっていたのです。
もう一年が過ぎる頃には、奴は完全に親方の右腕でした。
……そしてある晩、奴と父が話しているのを目にしました。
その話の中で奴が若い父の「過ち」でできた自分の本当の兄弟だと知り、
父は今までの事を、泣きながら謝っていました。
「あいつとは違う。お前には本物の才がある、どうか跡を継いでほしい」
悔しかった。
どんなに屑でも、父の鍛冶師としての腕前と目利きがいかに本物か私は知っています。
私は明くる日から、その悔しさをぶつけるように鍛冶にのめり込みました。
何故か奴は、父とはあまり仕事以外で話さなくなりましたが。
「認められたくせに」と私の嫉妬の火は、工房のそれより更に燃え上がりました。
二人を見返したい一心で鎚を打ちました。
何度も、何度も。
何度も……。
疲労が溜まっていることに気付かず、大怪我を負うまで。
その疲れが足にまで来ていたことに気付かず、私は作業中よろけてしまいました。
そうして思わず鉄すら赤熱させる火の中に一瞬とはいえ、手を入れてしまったのです。
工房中に私の声が響きました。
この際、水につけても心音の度に走る激痛などどうでもよかった。
幸い利き手ではなかったものの、こんな手ではしっかり道具を掴めません。
弟子達の次の嫌がらせ先は、私に向きました。
きっと今までの態度が気に食わなかったのでしょう。
治らない怪我ではないものの、奴との差は開くばかりです。
何度目かの夜に私は自害しようと、自らが昔作った出来損ないの刃物で、
自分の喉を裂くつもりでした。
それを奴は見つけ、必死に止めました。
「離せ!」と叫ぶ私の声に、奴は普段なら考えられない大声で叫び返してきました。
「家族が死ぬのを止めぬ者がいるか!」と。
理解できぬことを言われ、私の手から刃物が落ちると奴は、またボソボソとした喋りに戻り、続けます。
「父は……その……結局は一度、自分を見捨てた者だ。
母も頭では納得しているようだが……。
でも工房に入って、一心不乱に鎚を打つ君を見た。」
「……身近で見てきた君の技術が、な、何より美しく羨ましかった。
自分もこんな凄い物を、作ってみたいと、そう思った」
「本当の、本当の意味で、私の居場所を作ってくれたのは君なんだ……」
そう続けました。
――明くる日、私の知らぬところで何かあったのか。
私への嫌がらせは止みました。
私は……兄の大きな背中を今度こそしっかり見つめ、追いかけようと心に決めました。
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Day 3: チョコレートの匂い / 夜行列車
ほんのりと甘いチョコレートの香りがした。
それは遠い日の記憶へ私を巻き戻してくれる。
10代の後半だった。
私はカバンを一つ持って夜行列車に飛び乗った。
それは意を決しての家出だった。
当時行き場所なんて決めていなかった。
右のポケットには片道切符。
左のポケットにチョコレート。
去ってゆく街を見ながら甘くて苦いチョコレートをかじった。
夕食はそれだけ。
不安な気持ちよりもやっとここから出て行くという期待のようなものが胸に渦巻いていた。
甘さと苦さが入り混じる10代。
青春なんて言葉は分からない。大人になろうと目いっぱい背伸びしていたように思う。
当然だが夕食はチョコレートだけでは物足りずお腹が空いて眠れない。窓の外をぼんやりと眺めていた。
雨だれの音がする。滲んでゆく風景。
きっともう故郷には帰らない。
そんな決意が胸の中に重くのしかかっていた。
空っぽになってしまった左のポケットにはそれでも甘いチョコレートの匂いが漂っていた。
不安な気持ちを抑えるために右ポケットの切符を握りしめる。
電車の揺れが心地よい。
そういえば電車の揺れというのは母親の体内と同じリズムらしい。
母体帰還
私はもう一度ここから生まれてくるのだと思った。
母は私が幼い頃に亡くなってしまい、もう記憶にはない。
父が男手1つで育ててくれたわけだが、やはり父親というのはどうにも子育てに関しては不器用である。
それが分かっていたけれどやはり衝突してしまう。
家を出たのは結局のところ、そういう理由だろう。
写真の中でしか知らない母は私のことをどう思っているだろう。
私は母のような人間にはきっとなれない。
どんな人だったのか全く知らないけど、なんとなくそんな思いがあった。
心地よいリズムの中で毛布に包まって滲んだ風景を眺める。
光の粒が溶けてゆく。
「危ないから走っちゃダメよ」
「すごいね。上手にお絵かきできたね」
「ねんねんころりよ♬こーろりよ♪」
暖かな光の中で母の声がする。
聞いたことがないはずなのに、それは母の声だと私にはわかる。
眩しい光に包まれて、抱きしめられて私は目を開いた。
夜明けとともに駅は終着点へ。
いつのまにか夢を見ていたらしい。
夢の中の母は優しく私を抱きしめてくれた。
眩しい光と雨上がりの澄み切った空。
あの日私は新しい世界へと飛び出した。
チョコレートの匂いと夜の闇と、眩しい朝。
今もあの日のことを思い出す。
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Day 2: 古い鍵
引き出しの中から古い鍵を見つけた。
一体これは何の鍵だろう?疑問に思ったが家族全員に聞いても どこの鍵なのかわからない。
だから、
「この鍵をちょうだい」
と父や母にお願いすると快く承諾してくれた。
私は想像を巡らせた。この鍵は不思議な世界につながっている扉の鍵なのかもしれない。開けてはならない不思議な世界へ!
まだ小学生だった私は鍵を持ちながら、そんなことを考え不思議な空想の世界へと想像を巡らせた。
いやもしかしたら、この家のどこかに隠してある宝箱の鍵かもしれない。美しい金銀財宝が出てくるかもしれない。そしたらお金持ちになれるぞ!綺麗なティアラや指輪も出てくるかもしれない。お姫様みたいだ。
幼い私は自分がプリンセスになった姿を想像する。
それはとても楽しくて愉快な時間だった。
待って!もしかしたら、この鍵は死んだひいおじいちゃんかひいおばあちゃんのものかもしれない!大切な家族の思い出の写真を入れて金庫に鍵をかけてるんだ。
もしかしたらラブレターなんか入れちゃったりしてるかもしれない!そんなの見つけちゃったらどうしよう。家族の大事な秘密を知ることになるかもしれない。仏壇の前で手を合わせながらそんな想像もした。
古びた鍵はもういらないものかもしれない。鍵を開ける鍵穴も扉もあるいは 金庫かもしれないけれど、もう存在しないのかもしれない。もしくはこれは手芸用とかダミーの鍵とかで開ける鍵穴なんて初めからないのかもしれない。
けれど子供だった私には、ただ古い鍵というだけで想像の扉を開けてくれる素晴らしいものだった。
やがて私は成長し、中学高校大学と卒業して就職し一人暮らしを始めることになった。荷物をまとめている時に子供の頃遊んでいた古い鍵を引き出しの奥から見つける。
それは子供の頃への憧れと想像の扉を開く鍵だった。
鍵を眺めながら私は想像する。
これからの未来のことを。
いつかやってくるかもしれない世界。子供の頃は何にでもなれると思っていた。大人になれば開ける扉が減ってしまったような気がした。
……いやでも、これからも新しい扉はいっぱいあるのかもしれない。それを開くための鍵は必要だ。
その古い鍵を持っていれば扉を開くことができるような気がした。
子供の頃の想像の扉を開いたように、未来への扉を開いてくれるかもしれない。
持っていく荷物の中にそっと古い鍵を入れた。
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