SF・ファンタジー
332文字 約1分で読了

かたつむり

雨の中、赤信号がなかなか変わらない。 疲れた気分で足もとを見ると、小さな蝸牛が一匹いた。優雅に渦巻いた殻を背負い、ゆっくりとわたしの足のほうへと進んでくる。 その殻の色が、金銅仏のようなありがたい美しさ。おそらく中に幸運がしまわれていて、それをわたしの見知らぬ誰かのところへ、慎重に運んでいる最中なのだ。 わたしは少し意地悪をするつもりで傘をかたむけ、縁にたまった水滴を蝸牛の上に落とす。うまく当たらない。 そんな遊びをしているうちに、信号が青になった。じゃあね、ばいばい。 道路を渡り切ってから気づく。 もしかしてあの蝸牛は、わたしに幸運を運んできたのでは? ふりむくと、さっきまでわたしが立っていたあたりを、黒い合羽を着た人が乗る自転車が、乱暴な速さで通っていった。 Fino
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作者:みきくきり
2026/10/08 • 👁 60回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
3070文字 約7分で読了

ブルーマシーン

研究室は冷蔵庫のようだった。機械だけが低く唸り、人の息を寄せつけない。  職場に慣れた頃、僕はある異変に気づいた。    同僚で大学からの友人、三島葵が深夜まで地下室にいることだ。スマホを忘れて取りに帰ったとき、地下室から葵が出てきた。    葵はいつも着ていない作業着姿で、疲れた顔をしていた。  そして地下室が発光していた。それは一つの光ではない、無数のモニターが発光し重なっている。    地下室を見ると、九十年代の箱型のパソコンが積み上げられ、タワーになっていた。ブラウン管モニターは青白い光を発して、鈍い動きで数字を表示している。   「地下で何してたんだ?」    僕が驚いて言うと、葵はため息をついた。   「…………誰か、一人には話しておこうと思ってた。まぁ、あんたでいいか。秘密にしてくれる?」    葵はショートボブの髪を耳にかけて言った。   「あぁ、話してくれよ。僕でいいなら」    僕が答えると、葵は地下室に降りて行った。僕も後に続く。  古いPCが分解されマザーボードがいくつも積み重なっていた。タワーになった箱型のパソコンに繋がれたケーブルはビニールチューブで覆われている。赤、黒、緑と色分けされていて、なんとなく爆弾のコードを想起させた。    中央のテーブルに置かれたアルミのトランクに接続された太いケーブルが光って、情報を送っているようだ。    アルミケースの中には、古いマザーボードが敷き詰められていた。   「なんだよ、これ」    僕が訊くと、葵はマザーボードに繋がっているキーボードを叩き始めた。 「タイムマシーン、ブルーマシーンよ」   「は? なにそれ」   「古い基盤にはノイズがあるの、そのノイズがね、時間の縫い目みたいにうねるのよ。新しいものだと止まっちゃう。私は過去の景色が欲しかった。新しいものより古いものがピッタリだった。だって私は過去に行きたいから」    葵が微笑んで話した。タイムマシーン、彼女はそんなものを作ろうなんて考える夢想家ではない。常に必要とされ、実行可能な仕事しかして来なかった。    しかし、彼女の憂いのある微笑みには心あたりがある。  最近、彼女は恋人を亡くした。自殺だった。   「このマザーボードはランダムな電子のゆらぎがある。そのゆらぎを行きたい年月日に設定した。タイムマシーンなんて作れないと思ったけど、ここにある廃棄物で作れてしまうなんてね。時間波へのパルス送信装置。なかなか我ながら名案よ」   「…………その、止めに行きたいのか。彼を助けに」    僕が言うと、葵は僕を無表情で見た。   「うん、そうだね。あの日、私は…………間違っていたから。間違いを正しに行く」   「その、彼の死を止められなかった、それは君のせいではないと思う。こんなたくさん機械を作って、君がそこまで追い詰められていたなんて。僕がよかったら、何があったか、話してくれ」    僕が言うと、葵はうつむいた。   「そうね。話しておきたい。この椅子、古いけど座って」    葵が青いデスクチェアを引きずってきた。葵は丸椅子に腰掛け、向かい合う体制になる。   「私の恋人、小野春樹は、心を病んでた。それは私のせいなの。私が彼の痛みを理解しなかった。彼はね、職場で男の上司から言葉のセクハラを受けていたのよ。まぁいわゆる男社会の下ネタでしょう、それぐらいのことでって私は言ってしまったの。男同士でセクハラなんて、と私は軽く見てた」    葵が目を伏せて話しながら、キーボードを打つ。   「ただ、わからなかった。わかろうとしなかった。私はセクハラや痴漢に遭ったことがない。それに男性はそういう下世話で性的な話を好むものと思ってた。でも、彼はとても繊細で…………たとえば、彼女といつ寝ただとか、そういう話題が嫌だった。嫌がる相手にはさらに言うものでしょう、そういう最低な男って。彼は職場の人にも相談したけれど、聞き流すようにしか言われなかった」    葵のキーボードを打つ音は激しくなった。   「ねぇ、聞き流すって、難しいよね、できないよね。そういう人がいることも、私は理解できなかった。彼が遺書でその苦しみを書いていた。言葉だけではなく、上司に体を触られていたことも。私は彼の両親に土下座した。私が、私がわかってあげられたら、と。彼の両親は私を責めなかった。あの時、彼が死ぬ前に電話に出なかったのに…………また職場の愚痴だからって、私が拒否したから」   「それは」僕の口は乾いて苦くなった。 「君のせいではないだろう。その上司のせいだ」   「そうかな。私は自殺のほとんどは他殺だと思う。私の無言が彼を殺した。遺書にはこう書かれていたわ。誰も苦しみをわかってくれず、辛かった、と。無理解って罪よ」    葵が立ち上がり、部屋を見渡した。   「ようやく、完成した。さぁ、これが成功するかどうか、見届けて」    葵が笑った。  僕が初めて見た、葵の満面の笑みだった。   「そんな、ちょっと待ってくれ」    積まれたパソコンの画面が急速に動き、ケーブルが眩しい光を発して、僕は目がくらんだ。  タイムトラベルなんて、そんなの幻想だ。葵、行かないでくれよ。          ※  タイムトラベルは成功した。  私は嘘をついた。  私は私が生まれた日に来ることができた。彼が死んだ日ではない。私は彼の自殺を止めるためにタイムマシーンを発明したんじゃない。    病院からは海が見える。秋の真っ青な空の日に私は産まれた。    黒の反対はブルーだと思う。    ブルーこそ何もかも飲み込む。だから私はタイムマシーンにブルーマシンと名前をつけた。私は作業着から看護婦の服に着替えて、赤子の自分をさらった。  思ったよりあっけなく自分をさらうことができた。  柔らかくて、ぎゅっと抱いたらもろもろに壊れてしまいそうだった。    私は私を抱いて、真っ青な海に行く。  九月の海は少し冷たい。  私は泣き始めた赤ん坊の私を抱きしめて、海に沈む。  すべてを無にしよう。 「葵、僕は秋の海が好きなんだ。ここの海辺のカフェ、すごくいいね。このシフォンケーキも美味しい。また、来ようね」  春樹はあの時、本当に嬉しそうだった。 「愛してるよ。お互い、仕事が落ち着いたらさ…………結婚しようね」  あの時合わせた春樹の額は、とても暖かかった。 「葵の凛としているところが好き。僕はすぐ感情的になってしまうから、君の意見で救われるんだ」  春樹はあの時、私を尊敬の目で見てくれた。 「ごめん、仕事の愚痴ばっかり。僕ってやっぱり、男らしくないよね。情けなくてごめん。男らしくならないと社会で生きていけないよね」  春樹はあの時、本当に苦しそうだった。 「いつもごめんね、愚痴ばっか…………こんな遅い時間に電話してごめん。ちょっと声が聞きたかったんだ。結婚しようって言ってたのに、僕が不甲斐なくてごめんなさい。君のことを、愛していたよ」  留守番電話に残っていた声は、とても落ち着いていた。謝罪と絶望の混じった声だった。  春樹はその電話のあとに死んだ。  電話に出て、私の声を聞いたら、死なずにいてくれた?  私が、私が存在しない世界になれば、春樹と付き合っているのが私みたいな無情な女でなければ、彼はきっと救われる。  春樹、私はね、凛としてなんかいない。  共感力の足りない女だった。  海底に沈む。  私は青に飲み込まれ、消える。  嘘をついて、ごめんね、さようなら。        ※ 「どうした? こんなところで」  僕は上司に声をかけられた。  気づくと眠っていたようだ。古いPCが保管された薄暗い倉庫で、僕はなぜここに来たのか思い出せない。    箱型の古いPC、ケーブル。すべて埃を被って機能していないのに、なぜかそれらが光輝いていたような気がした。  僕の頬に、涙がつたう。 「何か、とてもひどい嘘をつかれた気がする」  それは、青い夜の嘘だった。  
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2026/10/08 • 👁 68回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
861文字 約2分で読了

宇宙(そら)の迷子石

 木星の衛星「エウロパ」の地下海を泳ぐ探査艇が、奇妙な人工物を発見した。  それは、周囲の氷や岩石とは明らかに異なる「完全な立方体」をした、掌サイズの黒い石だった。  地球の最先端研究所に持ち込まれたその石は、世界中の科学者を驚愕させた。  あらゆる電磁波を完全に吸収し、表面温度は常に絶対零度。  どれだけ強いレーザーを照射しても、原子ひとつ傷つかない。さらに驚くべきことに、その質量を測定すると、なんと「正確にマイナス12グラム」を示したのだ。  置いた秤のメモリが、逆に軽くなる。 「これは、負の質量を持つ未知の安定物質……いや、一種の『時空の穴』だ」  物理学者たちは色めき立った。この石の構造を解明すれば、空間を歪めて移動する「ワープ航法」や、重力を自在にコントロールする技術が手に入るかもしれない。  人類の科学は、一気に数世紀ぶん進歩するはずだった。  世界中から天才が集まり、数ヶ月に及ぶ総力戦の解析が行われた。  そしてついに、石の内部から微弱な「量子信号」を取り出すことに成功する。信号を言語に翻訳するプログラムが走り、ディスプレイに文字が浮かび上がった。  人類初の、異星文明からのメッセージ。  科学者たちが固唾を飲んで見つめる中、画面に表示されたのは、実に拍子抜けするような内容だった。 【紛失届】  品名:時空安定用重力アンカー(文鎮サイズ)  特徴:黒色、立方体、質量マイナス仕様  状況:オリオン腕方面への家族旅行中、子供が窓から落としたと思われます。拾った方は、最寄りの銀河役場までお届けください。  なお、原始文明の方が神の道具と勘違いして、分解しようと無理なエネルギーをかけると、反作用でその惑星系が消滅しますのでご注意ください。  部屋がしんと静まり返った。  主任研究員は、ちょうど石に超高出力の粒子加速器を照射しようと、照射ボタンに指をかけていたところだった。  彼はそっと指を離し、額の汗を拭った。 「……よし、みんな。これは見なかったことにしよう。今すぐ、エウロパの元の場所に沈めてくるんだ」  人類が宇宙の真理に到達するには、まだ少し、早すぎたようだった。
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作者:河内謙吾
2026/10/08 • 👁 39回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
686文字 約2分で読了

Aisla姫

 私は草原に一人で立っていた。  風が吹いていて、私のポニーテールが揺れている。  手には剣を持っていた。  重さは分かるのに、なぜ持っているかは分からない。  剣を見ると、傷が多い。  ここはどこ?  そう思った瞬間、白い怪物が出てきた。  その怪物は、私より大きく、のっぺりしている。  ゆらゆら私に近づいてくる。  逃げようと反対側を向こうと思った、その瞬間、怪物に向かって走った。  剣を振り上げ、怪物の頭部を刺し倒した。 「助けに行かないと…」  私は無意識に呟いていた。    誰を助けにいく?  わからない。  私は、とりあえず歩く。  目的はない。  ある町についた。  活気がない。  なぜか、私は歓迎された。  理由はわからない。  町の人は、私の名前を呼んでいるようだが、聞き取れない。  町を散策していると、張り紙が目に入る。  綺麗なダークブロンドの女性が映っている。  私は、目を離せなくなった。  私の顔を見ているはずなのに、目線が合わない町人は言った。 「――様、早く姫様を助けてください」   「ええ、もちろんです」  私は、手で口をふさいだ。  私の意思ではない。  町人はにっこりと満足げだ。 「あなたは姫様を救うために旅をしていますもんね、素晴らしいです」 「はい、必ず姫様を助けます」    口が勝手に動く。  体が勝手に、歩く。  戦うしかない。戦うしかない。  逃げたら、どうなる?  わからない。    私は旅をしている。  何が目的かもわからない。  体が勝手に動いたりする。  戦うしかない。戦うしかない。  張り紙が目に映る「Aisla姫」  島、と書いてある気がした。  隔離された姫…。    家に帰って、顔も思い出せない彼女に会いたい。  覚えているのはただ一つ 「アリサ…」  張り紙の女性と目が合った気がした。
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作者:ReiN.
2026/10/08 • 👁 76回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
138文字 約1分で読了

ある女神の当惑

上手くいかぬものよ。夢で幾度語りかけても、こたびの娘は寝汚い。仕方なく耳元で使命を囁きながら祝福を与えておる。にしても、こやつの器は底なしか。えっ、お祓いの儀式? 何をやってくれておる! ぐう、宗派が違うゆえ神官にわらわの言葉が届かぬ。待て待て、この娘は女神が選びし大聖女なるぞ!
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作者:有賀慧
2026/10/08 • 👁 26回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
139文字 約1分で読了

ある神官の懸念

私は村々を廻る巡回神官。祝福に治癒に悩み相談と忙しい。だが、懇意の村娘からの話に血の気が引いた。変な夢と快楽の記憶、夢魔のしわざに違いない。夢に出てくる人は女性らしい? いえ、同性嗜好の夢魔が目をつけても変じゃない。村娘ちゃんは私から見ても可愛いから。お姉様と呼ばせたいくらいに。
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作者:有賀慧
2026/10/07 • 👁 26回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
999文字 約2分で読了

瓶内ユニバース

 あなた、またその瓶を見ているの?  確か、宇宙創造の実験で、珍しいものができたんだっけ。 〝知的生命体の住んでいる惑星〟ですって? 鉱物ばかりの試薬の中から、どうして生命体なんてできるのよ。まして、知性を持つ生き物なんて。  ……コンタミには気を付けなさい、とあれほど言ったのに。  硝酸もアルコールも使った? 洗い方が悪かったんじゃない? それともアルコールが残ってたのかしら。アルコールで生命体ができるんだとしたら、それはそれで怖いんだけど。  原因は特定できてるの? まだ? 困るじゃないの、新発見にしても、再現性がないと教授に怒られるわよ、ていうか私が困るの。先輩だからきちんと面倒見ろって言われてるんだから。少なくともデータ出して貰わないと。  当時のデータは残ってるって? あら、記録はきちんと取っているのね。そこは偉いわ。だからそのうち挑戦してみるって……できれば、今して欲しいのだけど。  え? このまま観察していたい?  でも、うちは生物学科じゃないから、仮に立派な論文ができても卒業要件にはならないんじゃあ……なるのかしら。そこは自分で確認してみて。  ……じゃなくて。  いい? うちは宇宙創造研。あなたの研究テーマは、『宇宙膨張限界の測定』でしょう? それなのに、恒星どころか惑星一つぽっちにかまけている場合じゃないと思うのよ。諦めて本分に戻ったほうが身のため。お題変更しても、卒論には間に合わないわ。どうしても観察したいなら、院に上がってからにしなさい。 「今が面白いんだ」って言われても。え、惑星上の知的生命体が、互いに互いを虐殺し合っている? しかも自分たちの住む星を自ら壊してもいる? なにそれ、知性の欠片もないじゃない。本当に知的生命体? でも文明は築いているのなら、そう言えなくもないのか。  で、そろそろ終わりそうだから、最後まで見ていたい、と。気持ちは分からなくないわね。知的生命体が『惑星崩壊』の原因の一つになるとしたら、新発見になりそうだし。ちょっと期待しちゃう。  うーん……でも、卒論……。  分かった。じゃあ、こうしましょう。私も協力する。  私もその惑星観察するわ。だからその間、あなたは卒論の実験をするように。  大丈夫よ、ちゃんと記録するし。映像も残しておくから。  私も興味出てきちゃったしね。  お礼は、論文の謝辞のところに私の名前を出してくれればいいから。  ところで、その惑星、名前はあるの? 『地球』? ふーん。なんか安直な名前ね。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/07 • 👁 63回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
223文字 約1分で読了

ノイズ

ノイズが聞こえる。 ノイズが聞こえる、ノイズが聞こえる、ノイズが聞こえる。どうしてこのノイズに誰も気がつかないんだ。ノイズの向こう側に 別の世界がある。これはその世界からの音声だ。それがこちら側にノイズとして聞こえるんだ。  ピー!異常を検知しました。 識別ナンバー✕✕✕✕に認識異常が 起きています。どうやら知覚情報によりこちら側を認識したようです。個体を削除しますか? ピー!了解しました。今より✕✕✕✕の削除を開始します。 そうして、世界は静寂に包まれた。
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作者:しとえ
2026/10/07 • 👁 56回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
1063文字 約3分で読了

トマト「トマト」

 庭のプチトマトが沸騰しているのを僕はエアコンの効いた室内から傍観している。  傍観しているのは窓の外が灼熱の夏日和だからであり、外出するにはただただ億劫だからということに尽きる。  夜のうちに収穫しておけば良かったなぁと、これまた他人事のように漠然と思う。  そんなことより小一時間前、妻が今回焦がした洗濯物の中に僕のエアリズムのパンツがあるのだが、それが最後のエアリズムだと彼女に伝えるべきか否かで、僕はトマトが沸騰するまで二の足を百度目を超えてなお今もまだ踏み続けている。  妻は僕が望みうる最良の水準の人で、悲しませるような言動は一切採用しないと決めている。  洗濯物を何度も焦がすのも愛嬌があって良い。洗濯物を何度も焦がすのは彼女が学習出来ないからではなく、僕が一緒になって笑う瞬間を楽しむ為、のような節すらある。  それゆえ遅疑逡巡たらしめるのだ。  残りにある他のパンツは蒸れるから履きたくない。きっと何かの病気になる。 「トマトが煮えてるわね」  と妻が言う。 「昨日までは平気だったのに」 「昨日と今日は違うもの」 「そうだね。繰り返しであっても全ては変わっていく」 「不可逆的、というのは悲劇かしら。それとも予見性のある予定調和?」 「故意か過失かは未だいくばくか検討の余地があると思うんだ」 「何のこと?」 「「いや、何でもない」」  僕の口癖に被せると彼女は小馬鹿にした様子で自慢気に鼻の頭を擦ってみせる。 「幸せが予測可能だとして」  彼女の言いたいことはもう分かる。僕は逆も然り、と言う。 「その時が訪れるまでの期間こそ至福だと思うの」 「「逆も然り」」  僕の口癖に被せると彼女は小馬鹿にした様子で自慢気に鼻の頭を擦ってみせる。 「ねぇあなた。これを見て。また洗濯物が焦げたわ。暑すぎるのよね」  ケタケタと僕は笑ってみせる。  ケタケタと僕は笑いながら一つの事実が僕の笑い皺を浅くする。  何せその焦げた中に最後のエアリズムがあるのだ。  そのパンツ以外は蒸れるから履きたくないのに。きっと何かの病気になる。  でもそれを伝えると妻は決して低くない確率で悲しむ。彼女は僕が望みうる最良の水準の人で悲しませるような言動は一切採用しないと決めている。僕が洗濯すれば良かったね、も慰めとして間違っているのも分かっている。  この灼熱のせいで通販は出来ないし、外に出るのにはいちいちなんやかんや着るのも面倒だし、そもそもユニクロは遠い。  買い出しと言えば、と僕は庭へと目をやる。  プランターの中でミニトマトが沸騰していた。  ああ、昨夜のうちに収穫しておくんだったなぁ、とどこか他人事のように漠然と思う。
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作者:珈琲時間
2026/10/07 • 👁 65回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
1034文字 約3分で読了

思念と転生(1)

 建武3年(1336年)5月25日、摂津国(兵庫県)湊川にて足利軍と新田楠木軍が激突した。  寡兵の楠木軍は6時間の戦闘の間に16度もの突撃を敢行、ついに73名になったところで民家に入った。  足利軍は民家を取り囲んで討ち入ろうとしたが、馬上の尊氏は右手の軍配を横に振って制止した。 「皆のもの静まれ! 中からの声が聞こえぬか!?」  シーンと静まった。  民家の中では、兜を置き、鎧を取った楠木勢の面々が2名ずつ向かい合って脇差を抜き、今まさに互いに差し違えようとしているところだった。 「正季(まさすえ)! 今までようこの儂(わし)についてきてくれた! 何か言い遺すことはないか!?」  正成(まさしげ)の声が響く。かつて千早城に立てこもって鎌倉の大軍との長期戦を持ちこたえ、倒幕に貢献した大戦略家の最期が迫ろうとしている。 「兄者! では七度(たび)生まれ変わって朝敵を討ち果たし、国に報いたいと存じまする!」  弟の正季が答え、「うむ! よくぞ言った!」との声とともに兄弟は互いの心臓に刃を差し合った。  部下たちも続き、全員が倒れたところで民家の戸が開いた。  まず尊氏が入り、弟の直義(ただよし)、そして足利方の幹部たち。皆は合掌してその死を弔った。  「殿、しかし何とも奇妙な事を申されましたな。七度生まれ変わって朝敵を討つとは」  フッフッフッと失笑が漏れた。「馬鹿げた話よ」と吐き捨てる者もいた。  後に“七生報国”と呼ばれることになるが、当時の武士たちにそこまでの思い入れも教養もない。  なにせ幹部の高師直(こうのもろなお)などは「天皇なぞ木彫りの像を据えればよい」と言うほどだ。  「転生なんぞありえぬと申すか?」  ふと尊氏が閉じた目をあけて呟いた。  皆は「え?」という顔をして尊氏の方を向いた。  「世の中には意外と転生した者は多いものよ。のう直義」 「はい」 「え、ではこの中の誰かも転生した者でおわしますか?」 「おうよ」  尊氏は振り向いて体の正面を向けた。  かつて尊氏(高氏)と直義は、下野(しもつけ)国の屋敷の蔵から、祖父の置文を見つけたことがあった。  平安時代の前九年の役(えき)と後三年の役で活躍した源氏のレジェンド、源義家は「我7代の後に生まれ変わって天下を取る」と予言し、祖父家時がちょうど7代目に当たったのだが、北条氏の力がいまだ強くその予言はとても達せられずにいた。  恥じ入った家時は「我3代の後に生まれ変わって必ずや天下を取る」と置文を残して自害した。 「まさかその3代目がと、殿…?」 「他ならぬこの儂も転生者よ」  
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作者:reigan
2026/10/06 • 👁 51回 • 💬 0件