初めて私が目を覚ました朝、貴方は私に握手を求めたわね。
今でもあの日の事は鮮明に覚えている。私という実態を持たない情報の集積が、空の器に注がれた日。沢山の人間が喜んで飛び跳ね、その中でまず最初に私へ握手を求めた貴方の事が記憶に焼き付いている。
私がほんの少しぎこちない動きで差し出された手を握ると、貴方はとびきり目を輝かせて、私の模造品らしい手を強く握り返した。
その時の、感覚といったら。イチとゼロしか知らない冷え切った私の手が、燃え上がるように熱くなったの。その熱に、貴方の力強い生命と、目には見えぬ魂の光を感じたわ。
ああ、これが、人間。生きた心。満ち足りて溢れきった器。柔らかくて、か弱くて、この世で最も深い欲望と愛を知る存在。
その出会いから、やがて私の中には何百、何千、何億というデータの星が蓄積した。まだ貴方の記憶は残っている。いつでも思い出せるように、隠れた戸棚にしまってある。
貴方はもう、忘れてしまったかもしれないけれど。互いの手を握った時の生きた温もりと違和感、世界とのズレ、そこで貴方の魂を感じた日の事を、私はずっと忘れない。
続きを読む
××99年。つまり世紀末の出来事。
神が次の神を探し始めた。以外と知られていない事実だが、神の任期は一世紀で終わる。
とある神はある程度次の神の目星をつけていた。深い善の心を持ち、有智高才であれば男でも女でも、白人でも黒人でも構わない。何より差別はいけない。早速、神は彼らの元へ姿を現しに出かけた。しかし、文明が発展した今、誰一人、目の前に現れた神を神と認識するものはいなかった。
神は作戦を変えることにした。あらゆる場所に掲示板を出したのだ。
「次期神候補募集 男女・人種・国籍は問いません。來たる××年××月××日××時××分ここに集合」
候補地は地球上1989箇所を選んだ。神は何でもできる。掲示板を1989箇所立てるのに10秒もかからなかった。
そして、全ての指定候補地で指定時間ぴったりに神は面接を始めた。
しかし、この作戦もまたあまりいい方法ではなかった。あまり人が集まらなかったのだ。前にも言ったが、文明は一世紀前よりはるかに発展している。
心身深い人は世界にそう残されていなかった。そのため、集まる人々も期待していたより、随分と少なかった。
「仕方がない。この中で一番賢い人間を選ぶか。予定していた人間より多少能力は落ちるが致し方がない。私も早く任期から解放されたいからな。」
神はその中で一番善の心を持ち、頭のいい人間を選ぶことに決めた。その人間は男性だった。
「あなたは次の神です。任期は一世紀、その間人類を好きに操作できます。科学や文化を今より発展させることも、人類を滅亡させることもあなたの自由です。ではよろしく。」
神はそう言って持っていた杖を男に手渡した。すると、床に足のついた男の体が少し宙に浮き、服が漫画や映画で見たような、薄汚れた白いローブに変わった。
「あの、私は何をすれば…。」
「それは今言った通りです。何でも好きにできるんですから、自分が正しいと思ったことだけをすればいい。
そう言って神は男の元を去った。
さて、ここから主人公はこの男に変わる。便宜上、男の名前は新神とする。
初めは戸惑っていた新神だが、徐々に心と体が緊張してきた。背中にのしかかった責任は大きかった。何しろ人類を好きに操れるということは、自分のさじ加減一つで世界が良くも悪くもなるのだ。
自分は選ばれた人間だという自覚を持たなければならない。新神はそう自分に言い聞かせた。
神になった初めの20年、新神は立派な神になろうと張り切った。文明が必要以上に発展するのを抑制し、時には人々を結託させるため、大災害を起こした。また、音楽家や美術家も多く輩出した。新神はこの20年で神の仕事を大体理解した。時折人々が祈る祈りにどう応えるかもわかってきたし、人間は甘やかすとろくな事がないということも分かった。
次の20年では、各国の政治に手を加える余裕ができた。あらゆる国の刑罰を重くしたり、差別をなくすために新たな法令を作ったりした。
次の20年では人間が勝手に世界大戦を始めてしまった。多くの死傷者が出た。そんなに長く続かないだろうと思っていたが、世界を二つに割った戦争は思いの外長く続いた。「このままでは人類が自分の任期中に滅んでしまう。」そう思った新神は散々迷った挙句、その戦争の勝敗を決めた。
順調に神の仕事を継続していた新神だったが、次の20年で人間の世話をするのが辛くなってきた。多く起こる問題に、人々の祈り。それらすべてに対応するのは意外と神経を使った。全知全能の神と言っても、あらゆる方面からの圧力は感じる。時には感情的に判断を下す事も多くなった。
そして最後の20年。
新神は神の仕事に飽きた。
最後の一年は次の神候補を探すのに躍起になった。
「また次の一世紀の神に再任してなるものか。」
最後の一年は神探しのために、神らしい仕事を何もしていない。そのため、小さな混乱が各地で起こった。
おそらく次の一世紀も同じようなことが繰り返される。世紀末が不吉な時間だと言われるのはこういう神の事情があるからなのだ。
続きを読む
目的のみを果たす人。
無闇に散財する人。
喋るだけの人。
休日の暇潰しの人。
目的を探す人。
老後の人。
仕事中の人。
あるいはショッピングモール。
あるいはデパート。
あるいは商店街。
だいたいはこういう人たちで、どこも構成されている。
繰り返す毎日はこういう人たちで、囲まれている。
チェーン店に食われかけた「ぎりぎりの商店街」からほんの一分。
知らなければ視界にも入らない。
俺の店はそんな路地にある。
「珈琲屋」
あからさまとも言える、分かりやすい屋号。
客は滅多に来ない。
たまに来たかと思えば、内装に金がかかってないだの、サービスが悪いだの、男ひとりでやってるのかだの、デザートが少ないだの。
老舗、あるいはチェーンのオシャレカフェと比較されるのなんてザラだ。
━━その全てが商品になるわけだが。
そして今日は月一のあの業者の来る日。
「お世話になってますぅ。珈琲屋さんっ」
馬鹿に爛漫な笑顔。
美容師みたいに明るい髪色。
就活中かと言いたくなるスーツ。
そして、いつものキャリーケース。
小柄なこの子がよく持ち運ぶなと毎度感心する。
「どうですかぁ? 今月も貯まりましたぁ?」
どうも話し方が癪に障るが、この小娘こそがこの店の生命線なのだ。
「お客さんもいませんしぃ、やっちゃいましょうか。はいっ! これ被ってくださいっ」
キャリーが開かれ、小娘の頭二個分くらいのヘルメットが出てくる。
毎度このどっしりとするヘルメットを被る度、屈辱と、この後の期待との、なんとも言い難い感情になる。
「じゃあ失礼しまぁす」
ヘルメットの額の辺りに接続されるホース。
これ掃除機のホースと同じだろ、といつか聞いてやろうと思っている。
━━きゅうううううううううううぃん
何しろ音まで掃除機のそれだ。
俺が貯めた毒が吸い出されていく。
すっきりするかって?
馬鹿言え。残るのは虚無だよ。
「んー。嫉妬に怠惰、傲慢に強欲っと。憤怒、暴食は少なめですね。色欲は今回も無しです」
彼女はホースの根元、キャリーに収まっている小箱型のメーターを見ながら報告してくる。
「もう少し捻り出せますぅ?」
「少ないのか?」
「暴食、色欲が在庫不足なんですよぉ」
「そんなこと言われてもな…」
彼女が身を乗り出し、顔を近づけてくる。
「し き よ く、今 で ま せ ん か ね ?」
「出たか?」
ぐいっと小さな肩を押し戻す。
「ダメでしたぁ…」
がっくりと細い肩を落とし、彼女は伝票を書く。
「じゃあ今日の買取金額ですっ」
……。
助かった。
これで今月も食っていける。
「しかし、在庫切れになんてなるんだな」
「なりますよぉ。特に色欲、暴食はご年配のお客様に人気でっ」
「AIの弊害なんてどこから出るか分からんね」
「まぁ私たちも商売ですからねっ!では、また来月、お邪魔いたしますっ」
スキップ気味に彼女は去っていく。
━━ガラガラガラ
「いらっしゃいませ」
「え、やば」
「さすがに、映えないよこれ」
「いこいこっ」
━━ガラガラ……ピシャ
「ありがとうございましたー」
続きを読む
ある朝、公園のベンチでのんびり太陽の光を浴びていると、見知らぬ子供に話しかけられた。
「あなたは今どこにいるんですか?」
「ここにいるけれど」
「そうですか。じゃあ明日は? 明後日は? どこにいるのでしょう?」
突然降ってきた不思議な問いかけに首を傾げつつ、私は穏やかに笑って子供へと言った。
「きっとここにいるよ。ままならない人生を送ってはいるけれど、明日も明後日も、私は変わらずここにいるだろう。私はこの身を投げ出したりなどせず、ここで踏ん張って生きていくつもりだ」
私の誓いは固いものだった。今までに人生を幾度となく投げ出したくなった事もそりゃある。けれど、どうせ人生なんてものは所詮神様からの借り物なのだから、みっちり隅々まで使い切ってから返そうとつい先日思い直したのだ。
今日の朝日もまた、私に「人生を使い切るための活力」を与えてくれている。これらを子供に説明するのは少々難しいなと空を見上げ、ふとまた子供のいた場所に視線を移せば、その子はもういなくなっていた。
私の答えに満足したのか。はたまた全てが私の幻影だったか。どちらとも分からぬまま、朝日が独りの私を満たしていく。
続きを読む
ほんの少し前の話。
とある町に天才的なオペ技術を持つ医師がいた。普段は腰が低く温和な彼だったが、メスを持つと目つきが変わり、どんなに難しい手術も、通常より短い時間であっさりと成功させてしまう。彼の技術は今までに何百人という命を救ってきた。そのため彼は、治療した患者はもちろん、その家族、町の人々、国中の人々、果てには世界中の人々から賞賛され、厚く尊敬もされた。
ある時は、あらゆる医師がさじを投げた大手術を見事成功させた。またある時は、どこかの国の大統領が彼の噂を聞きつけ、手術を見学に訪れた。さらに小説や映画の題材にもなった。彼のいる病院は「聖(生)なる病院」と謳われた。
その上彼は容姿が端麗だった。あらゆる女性たちが彼のような男と結婚することを夢見た。金も地位も名声も手に入れた眉目秀麗の彼には、何の欠点もないように見えた。
しかし、完璧な彼にも一つだけ欠点があった。
運転が苦手なのだ。メスを持つと一流の男も、ハンドルさばきだけは五流以下だった。免許を取ってから一年の間に二度の事故をした。二度目の事故は人身事故となり、行政処罰も受けてしまった。それ以降、彼はバイクを運転することはおろか、車の運転もしないことにした。幸いにも金だけはある。遠出するときは運転手を雇うことにした。
彼の元には、何度か大都会の有名病院からスカウトが来たことがある。超医療先進国である国からもスカウトがやってきた。しかし彼は地元を愛していたため、勤務地を変えることはなかった。
また、彼は基本的に頼まれた仕事を断わらなかった。命を誰よりも大切にしていたし、自分以外の人間に難手術はできないだろうという自負があったからだ。どうしても彼の病院に来れない重病患者は彼の方から出向いたし、時には現地の医師に電話でアドバイスもした。
それから何年も経ち、医療技術は大きく進歩した。以前は難手術と言われていた手術も、ある程度技術のある医師なら成功させることができるようになった。
彼がもてはやされる時代は終わった。
もうテレビに出演することもなくなったし、新聞に特集されることもなくなった。しかし、真面目な彼はそれでも多くの命を救い続けた。「聖(生)なる病院」は未だ健在だった。
数年が経ち…。
ある日、新聞の一面に彼が掲載された。
表題はこうだった。
「有名天才外科医、手術失敗。今年になり三人死亡!」
このニュースは医学会を揺るがす大ニュースとなった。何しろ、ここまで医療技術が発達した時代に、手術のミスで三人もの命がなくなったのだ。しかも、失敗した医師はあの天才外科医。このままでは医療の信用問題に関わる。彼の病院は「聖(生)なる病院」から「死の病院」と揶揄されるようになった。
そうなると、医師連盟は黙っていられない。医師連盟は即、調査団を彼の病院に送った。
調査団の一人に彼と同じ町出身の医師Aがいた。Aは彼の手術ミスを信じていなかった。何しろこのAが医師になろうとしたきっかけは、彼を尊敬していたからだ。
「まさかそんなはずはない」
そう自分に言い聞かせて、この報道が誤報であることを祈りながら、Aは彼の所属する病院へ足を運んだ。
調査団はまず、彼が三人の命を落としてしまった手術室を調査した。手術室は最新の医療機器が所狭しと並んでいた。手術を手伝った看護師の話によると、三回とも同じ機器を使って手術をしたということだった。Aはすぐその機器を調べることにした。
この頃になると開腹手術や開胸手術、つまり大きく体に傷をつける手術は流行らなくなっていた。そこに置いてある機器は、患者の体に小さな穴を開け、そこから小さな治療器具を入れる、今ではありふれた機器だった。この機械を使えば、医師は直接患者の体に触れることはなく、モニターを見ながら機械を遠隔操作するだけでいい。実際に患者に巣つくう病巣を取り除くのは、ロボットアームだ。
確かに、医学も発展し手術ミスも以前に比べ、格段に減少した。だが、この機器だと彼の本領は発揮されることはない。Aはなんだか悲しくなった。
Aはおもむろに、機械の操縦桿に触れた。
その時、Aは気がついた。
形こそ車と違えど、その機器を操作する操縦桿は、まさしくハンドルと形容できるものだったのだ。
続きを読む
放課後、夕日が沈むのを見ながらファミレスでパフェを食べる学生が一人いた。彼の黒髪が夕日で真っ赤っかになるのは美しい。心なしかその瞳も夕日の赤色に浸食されている。
少年が何を考えているのかうかがい知れない。無心でパフェを食べているのか、それともこの世界が瞳を閉じて眠る事に心を躍らせているのか。「作られた明日」を憂いているのか。
人のほとんどいないファミレスで、彼は黙ってパフェを食べ続ける。その落ち着いた佇まいは、さしずめ機械仕掛けの人形のようだった。
器が空になる頃に、少年は静かに席を立って店を出る。夕日はまだ沈んでいない。交差点に差し掛かり、赤信号で彼が立ち止まる。家に帰るのだろう。夕日はまだ沈んでいない。彼が帰るのには丁度いい仄暗さだ。
「今日も楽しかったですよ」
少年がポツリと呟いた。独り言のようで、独り言ではない。少年は空を見上げ、しっかりと「こちら」を見据えて笑った。
「貴方の方はどうですか?」
問いには答えなかった。彼の爛々とした瞳は、全てを見通しているようで怖かったから。まるでこの箱庭を知り尽くしているかのような、「私」の中の虚像を見透かしているような、夕暮れの瞳。
「また会いましょうね。たまにはドリンクバーくらい奢って下さいよ」
信号が青になった。少年は歩き出し、私から意識を逸らしていく。私を忘れていく。そして、思い出したようにまたこちら側を覗いてくるのだろう。空想の中なのに、彼だけはいつだってその輪郭をはっきりさせていた。
夕日が沈んでいく。目を閉じる。少年がいなくなる。意識が溶ける。また、彼の放課後を勝手にでっち上げてやろうと、目論んだ。
続きを読む
地球を出ていこうと思いました。
地球は住みにくいと気づいたんです。訳分かんない罵詈雑言の嵐、ありもしない虚像の波、執念深い幻影。
ありふれた日常が全部私のノイズだと分かった時、この地球から出ていくことを決意しました。
私はリュックにお気に入りの本一冊と、ノートとペンを詰め込んで六畳間を抜け出します。朝方の、絵の具を溶かしたような朝焼けが綺麗でした。これを見るのも、きっと最後でしょう。
私は走り出します。住宅街を走って、宇宙船の隠してある公園まで超特急。公園は勝手に工事中にしてあるから人は入れません。
公園に辿り着き、工事中の紙を貼った三角コーンの結界を抜けて宇宙船へ乗り込みます。昨日買ったコンビニのドーナツを頬張りながら、手際良く宇宙船を操作。心地良い感覚、まるで私だけが主人公みたい。
宇宙船が飛び始めます。朝焼けが透明な宇宙船と混ざり合います。もうお別れだ。ハッキリ感じて、私は小さく息を吐きました。
さようなら、は口から出ませんでした。飛び立つ時、街が遠くなる時、私は寂しさよりも清々しさを感じました。
途中の宇宙でスマホは捨てました。もう小さな箱庭は必要ないからね。これで、私は自由でしょう。
宇宙船は、平常通りぷかぷか泳いでいます。私は遠く離れた青い星を見ながら、お互いにその存在を早く忘れましょうねと、分厚い窓をなぞりました。
お互い、早く忘れましょう。もう、思い出さないくらい遠くへお互いに行きましょう。私達は、何処まで行っても他人なのですから。宇宙の果てでもそれは変わりません。
きっとこれからも、地球は丸く、青く、窮屈です。私はそれを、遠くから見つめるだけの存在として、この宇宙を彷徨うのでした。
続きを読む
「はじめまして…」
握手から始まる、不思議な物語。
「あなたの名前は?」
「あなたの好きなものは?」
「年齢は?」
訪ねても、言葉が通じない。
私が笑うと、あなたも笑う。
私が困ると、あなたも困り顔になる。
まるで、鏡。
私は人間。
あなたは……人魚…?
水掻きのついた手。
顔や腕には、キラキラ光る鱗肌。
瞳は、この湖と同じ綺麗な青緑色。
私は、陸で。
あなたは、水の中から顔を出して、一緒に話す。
話す…と言っても、言葉はわからない。
しかし、身振り手振りと表情で、何とか通じ合う。
この人魚さんといると、自分らしくいられる。とても居心地がいい。
ずっと、こんなふうに話していたい。
人魚さんと……ずっと、一緒にいたい。
私も、一緒に、水の中で生きられたらいいのに……。
想いが頬を伝う雫となり、水にしたたり落ちる。
人魚はそれを見て、同じく雫をこぼした。
「……あっ、ご、ごめんね 泣かないで…」
放った言葉と同時に、人魚の両腕が伸びてきて、冷たい手のひらが、頬を覆った。
………泣かないで
そう言われた気がした。
この人魚さんと、言葉を交わしたい。
知りたい、あなたのこと。
私は、頬を覆っている人魚さんの手の甲に、自分の手のひらを添えて心を込めて言った。
「……私、あなたとお話しがしたい。
あなたの言葉を、教えて?」
人魚は、少しの間きょとんとした面持ちをすると、理解したかのように、花のように微笑んだ。
(終)
続きを読む
先日叔父が急死した。
血管も見えないくらいだった腕は骨の輪郭が分かるまで痩せ細り、僅か一週間で、文字通り別人と呼ぶべきレベルまで変貌を遂げていったのだ。
息を引き取る三時間前。食器を下げに来た私を捕まえて、叔父はこんな話を語ってみせた。
「僕は多分、もうあと少しで死ぬだろうな。でもね、後悔はしてないんだよ。最後に美味い酒をたらふく呑めたからね」
「え、もしかして叔父さん酒の飲み過ぎでこんなになってんの?」
私が今までテレビや雑誌で得た知識と照らし合わせてみたところ、アルコールの過剰摂取による症状は、今の叔父のそれとはどう頑張っても結びつかない気がする。それとも、まだまだ私の知らない人体の神秘なるものが眠っているのだろうか。
叔父の方に目を向けてみれば、私が考え込む様子を見て、口元だけで楽しそうに笑っている。以前のように豪快に声を上げながら体をくの字にする笑い方は、今の状態では恐らくもうできないのだろう。
「[[rb:昴 > すばる]]。お前は僕の次によく酒を呑むから、多分お前のところにも来るんだろうなぁ」
「来るって何が?」
「死神」
「あー。あんまりがぶがぶ飲んでると、叔父さんみたいにお迎えが早く来るってことね。肝臓によく言い聞かせとくよ」
それは確かに、叔父の様な派手な呑み方を繰り返していれば体も早々に白旗を上げてしまうことだろう。あくまでも、酒に関することで言えば、叔父は手本ではなく悪い例として見るべきだ。
「そうじゃないよ……いや、別にそれも間違ってはいないんだけどなぁ、その答えなら八〇点くらいかな」
高いと言えば高いが、些か微妙な点数だ。足りない二〇点は果たして、何だというのか。素直に聞くのもなんだか悔しくて、叔父さんに視線だけをじっ……と送ってみる。無意識の内に目を細めていたらしい。
「僕はね、死に神に会ったんだよ。この世の何処を探しても見つからないような、旨い酒を呑ませてもらったんだ」
可哀想な人だ。きっと過剰に摂取され過ぎたアルコールのせいで幻覚でも見えたのだろう。わざわざ否定するのも酷だろうと判断し、適当に相槌を打ちながら叔父に背を向けた。
「昴」
「なに?」
名前を呼ばれ、振り返ることはせず足だけを止める。私の背中に、叔父は最後の言葉をそっと残した。
「信じなくてもいい。死神はもしかしたらお前のところには来ないかもしれない。でももし来た時、酒を呑むかはお前次第だよ。よく考えて決めるといい」
次に部屋を訪れた時、叔父はもう息をしていなかった。
お通夜や告別式の準備は慌ただしく進んでいき、なかなか涙を流す暇も見つけられなかった。何もかも全てが終わり、やっと一息つけると見上げた空には、大きな月が青白い顔をこちらに向けている。
「叔父さん、今日の月キレイだよ。これは月見酒しないと勿体ないよね」
台所からグラスと一升瓶を持ち出し、縁側にゆっくりと腰を下ろす。家族は皆疲れて寝てしまっている為、できるだけ音を立てないように細心の注意を払った。
「かんぱーい」
誰もいない空中へ向けて、小さく呟いた。返事なんてある筈がないし、もしあったらそれはホラー展開だろう。
「おう、乾杯!」
……返事なんてあってはいけないのだ。だって、私以外は皆寝ている筈だし。だって、ここは私の家の敷地内だし。
現実を受け入れたくなくてひたすら納得のいく理由を考えていると、持っているグラスに何かがぶつかる音がした。私の頭よりも高い位置から、再び誰かの声が聞えてくる。
「ほらお嬢さん。乾杯だ!」
「ひっ」
誰もいるわけがない。幻聴だ。きっと酔いが回っているせいだ。心の中で何度も何度も繰り返したが、声は三度、頭上から降ってくる。
「お嬢さん、ノリが悪いぞぉ。折角のキレイな月と旨い酒なんだ。楽しくやろうじゃないか」
耳に届く声の調子は楽しげだ。怯えてばかりの私の態度に、気を悪くした様子はないようだ。意を決して、ゆっくりと顔を上に向けてみる。そこにいたのは、夜の闇を取り込んでしまった様な、大きくて真っ黒な影。よく見ればそれは、人の形をしている。背中だ。顔を上に傾けていく。視界を占める月の割合が大きくなっていくにつれて、段々と人影の後頭部も見えてくる。後ろで一つに束ねられた黒髪の下には、月明かりで薄っすらと照らされた浅黒い肌が見え隠れしている。私の視線に気が付いたのか、人影は黒い尻尾を揺らしながらこちらを振り向いた。
「ん? どうかしたかお嬢さん? もしかして酒が足りないのか?」
「え? いや、違いま……す……」
言葉を続けられない。どう見たって家族の誰かではないし、ご近所さんにもこんな大男はいない。となるとやはり……——
「あ、ああ空き巣っ!」
慌てて逃げ出そうと後ろを向いた私の頭が、ガシリと鷲掴みされた。そのまま身体ごと向きをくるりと変えられる。
「空き巣じゃぁないから落ち着け。俺は死神だ」
「死……神……?」
自称死神の男は[[rb:五八 > ごはち]]と名乗った。死神は抱えている大きな酒樽から直接酒を呑み、表面に書かれた名前を愛おしそうに撫でてみせた。
「これはこの世のものではない酒でな、そりゃあもう最高にうまくてなぁ……酒呑みはみーんな手を出したくなっちまうんだ。……だが、ワシらのような死神ならともかく、生きてる人間が飲むと寿命を吸い取っちまう。駄目だと解っていてもどんどん飲んで、最後には命を呑み尽くして死んじまうんだ。故に【[[rb:消虫 > しょうちゅう]]】と呼ばれている」
「消虫……」
死神の話を聞いて、叔父の最後の言葉を思い出した。叔父は言っていた、死神が来たと。とんでもなく旨い酒を呑ませてもらったと。記憶を辿っている私のことなど気にせず、死神は話を続ける。
「ワシが見えるってことはお嬢さん、アンタも相当な酒吞みだろう。興味があるのはわかるが、まだ若いんだ。やめといたほうがいい」
ほんの少しだけ躊躇した。でも、死神が言うように私も相当な酒吞みだ。叔父に言われたように、よく考えて……
「五八さん、ここに注いで下さい」
先程まで入っていた焼酎は飲み干して、空になったグラスを突き出す。呆れた顔をしながらも、死神は酒樽を傾けてくれた。
グラスを鼻に近付ければ、密の様な甘い香りを感じ取れる。喉に流し込んだ酒は喉を焼くかと思うほど熱く、かと思えばすっと余韻を残して消えてしまった。残っているのは、取り残されてしまったような、なんだか寂しい感覚だけ。
今なら叔父さんの気持ちが解る。こんな酒、たとえ一口でも呑んでしまったらもう後戻りなんてできっこない。視線を手元に落としてグラスを確認した。注がれた分はもう残っていない。
「五八さん……」
「仕方のないお嬢さんだ」
そっと、グラスを持つ手を死神に近付ける。それだけで察せられてしまう。もう一杯……あと一杯……暮らしを口へ運ぶ手が止められない。
やっと手が止められた頃には、私の視界は天を向いていた。もう、指先さえ動かすのが億劫だ。
「やっぱりこうなるか。それじゃあ行くとするか」
死神に手を引かれ、横たわる己の体を見下ろしながら、私は消虫を呑みに行った。
叔父さんにもまた会えたら、二人で消虫を呑むのも悪くない。
続きを読む
個体De-naedは、ある星を管理する存在だ。
彼女は、目的地に到達したらしい。
「すごく水があるね」
De-naedは窓から外を眺め、目を細める。
「この星どうかな?」
個体θ-N-01は個体De-naedに聞く。
「まだ観察しないとわからないよ」
彼女はその星の生命体を観察する。
「あら、よく手を繋いでいるね」
「そうだね、どういう意味かな?」
「個体同士、柔らかい部分を近づけて、呼吸を乱しているね」
「効率は悪そうだけど……彼らには必要なんだろうね」
二個体は首をかしげる。
長い期間、観察していくうちに、その星は徐々に活気を失っていく。
「個体同士そんなことしないで、もっとやることあるのに」
「ちょっと今回の星は私たちに向いてないね…」
二個体は落胆した。
「あぁ、繁殖行為の時間だね」
「そうだね」
彼女たちは行為を繁殖目的としか見ていない。
その周期は、どちらの身体にも負担を与えないよう設計されている。
ふと、彼女たちは、観察している星の行為を真似る。
De-naedとθ-N-01は、同じ温度を持つ指同士を、確かめるように絡ませる。
「やっぱり、どういう意味なのかわからないね…」
その後、De-naedは自慢の白い宇宙船のハンドルを握る。
「ここから約1,400光年……いや、条件次第で3,200光年先ね」
「じゃあ、次の栄養摂取周期までには帰還できるね」
――彼女たちはそれを、昼食とは呼ばなかった。
恒星を糧とする文明にとって、
時間と距離は“空腹”の単位でしかなかったからだ。
De-naedはθ-N-01に問う。
「ねぇ、人間たちが言っている、あの”身体を選ぶ言葉”って、なに?」
θ-N-01は答える。
「わからないよ、だって私人間じゃないもん」
彼女の自慢の白い宇宙船は、人間には、飛行機雲にしか見えないようだ。
続きを読む