ミステリー・サスペンス
893文字 約2分で読了

名探偵の苦悩

「先生、今回の事件をどうお考えになりますか?」 現場を仕切る警部が、すがるような目で私に問いかけてきた。 私はため息をつきそうになるのをこらえ、応接間を見渡した。床に倒れた被害者、不自然に割られた窓ガラス、そしてテーブルの脇に転がる凶器の灰皿。 この館で起きた殺人事件に、私の心は少しも踊らなかった。 これまで私が解き明かしてきた数々の難事件は、いずれも芸術と呼ぶにふさわしいものばかりだった。 寸分の狂いもない時刻表トリック、物理学の粋を集めた密室、人間の心理の盲点を突いたアリバイ工作。 宿敵と呼べる天才犯罪者たちが仕掛けた謎に挑むとき、私の脳細胞は確かな熱を帯びていた。 それに比べて、今回の事件はどうだ。 偽装工作はあまりにも単純で、幼稚極まりない。至る所に犯人の痕跡が残されている。 こんなものは知恵比べと呼べる代物ではない。焦りと動揺がそのまま形になったような、実にお粗末で程度の低い犯行だ。 私がわざわざ口を挟むまでもなく、警察の捜査力だけで十分に解決できるはずの事件である。 「外部犯の仕業でしょうか。それとも、館の内部にまだ見ぬ仕掛けが……」 警部が的外れな推測を口にする。部下の刑事たちも深刻な顔で頷きながら、窓の外ばかりを調べている。 私は次第に苛立ちが募ってくるのを感じていた。 日頃から私の推理に頼り切っているせいで、彼らは基本的な観察眼すら失ってしまったらしい。なぜそんな明白な手掛かりを見落とすのか。なぜ目の前にある違和感に気づかないのか。 「先生、やはり犯人は相当な手練れですね。これほど手掛かりがないとは」 警部の言葉に、私は思わず眉間を押さえた。 このまま黙って見ていても、彼らが真相にたどり着くことはなさそうだった。 結局、今回も私がすべてを説明し、いつものような解決編をやるしかないのか。そう思うと、ひどく憂鬱な気分になった。 私は頭を抱えながら、かつて対峙した天才犯罪者たちの顔を思い浮かべていた。 彼らの華麗なトリックを暴くたび、私は自分もまた、彼らと同じ天才だと錯覚していた。 だが、現実は違った。 今回の事件で、私は、犯罪者としてはただの素人に過ぎないことを思い知らされたのだった。
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作者:さくら
2026/10/24 • 👁 19回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
118文字 約1分で読了

地下室

我が家には地下室がある。 その中がどうなっているのか気になって僕は扉を開けた。 するとどうだろう。中にもう一つ 扉があるではないか。 僕はその扉も開けた。 するとさらに奥に扉が! さらに扉を開けた。 また扉だ! …… 一体これはどこまで扉が続くのだろう。
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作者:しとえ
2026/10/20 • 👁 19回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
2411文字 約5分で読了

最後の敵はいなくなった

 壊れた女が、子どもを産んだ。  その女は、女王となった私の政敵で、異母姉だった。私と争った末に心を壊した。  子どもは男児だった。  石壁がむき出しの部屋で、木の板に藁を置きぼろ布をかぶせただけの寝台の上に座った姉は、人形遊びをするような女児の表情で赤子を抱いていた。赤子はたくさんの空気を吸い込みながら大声で泣きわめいていた。格子の嵌まった窓からの外光が、その輪郭だけを照らす。女と赤子に落ちる影は濃かったが、まるで一つの絵画であるかのようだった。  女がこちらに気づいて顔を上げる。波打つ金髪が、彼女の無邪気な顔を縁取る。 「みて」  差し出すように赤子を抱えた腕を少し伸ばす。 「かわいいでしょ。わたしのこなの」  彼女とは十年にもわたり王座を奪い合い、権謀術数を重ねて命を狙い合った仲であったが、それでも何も知らない子供の時分は、友人のように過ごしたこともあった。ままごとも良くやったものだ。彼女がお妃で、私が侍女で。その逆も然り。――だが、思えばその頃から王座を奪い合っていた。 「このこは、ゆくゆくおうになるわ。きっとりっぱに、このくにをおさめるでしょう」  それは困る。だが、口に出すほど私も愚かではない。壊れた女に通じないこともそうだが、彼女にとって遊びだろうと本気だろうと、今ここで要らぬ波風を立てることはない。 「そうですね」  彼女の足元に跪き、赤子の顔を覗き込む。母親の胸元に縋り付き、やはりあまり質の良くない布に包まって、必死に泣き叫ぶ子ども。お乳をあげたばかりなのに、と女は困った顔をした。赤子の泣き声は必死で、耳を塞ぎたくなるほど声が大きいというのに、何処か頼りない。首が据わっていないどころか身体もふにゃふにゃで、硝子よりも繊細な壊れ物だった。ほんの少しの力で、呆気なく壊れてしまうだろう。 「上手に寝られないのでしょうね」  丁寧に言葉を掛けながら、赤子へと手を伸ばした。 「そうなの?」 「ええ。私の息子もそうでしたから。赤ん坊は、眠り方さえ知らないものです」  もう五年も前のことになるけれど。今は頑健で賢い子に成長している。彼こそ立派な王になることだろう。  代わりましょう。そういうと、女は素直に赤子を差し出した。幼い頃の夢の中にいる彼女は、侍女役の私を信用している。  横抱きにして、右手で首元を掴む。いずれ支えられるようになるとは信じがたいほど、頭は重い。そのくせ頭蓋を覆う骨は柔らかい。指先に力を入れれば容易に凹む。 「少し外を歩けば、気が紛れるかもしれません。私が連れ出してきますから、お妃さまはその間にどうぞお休みを」  幼子のような表情を浮かべていても、彼女の目元には隈があった。夜泣きで満足に眠れていない証拠だろう。頬はそげているし、寝台に目を向ければ赤い染みが付いている。悪露が漏れているようだ。必要最低限の衣食住を与えてはいるけれど、産後の身体を治すには、まだ時間と環境が不足している。  女を閉じ込めた部屋を出て、新しい服とシーツを手配する。赤ん坊を受け取ろうとする本職の侍女の手は断って、私自身が甥を連れて庭に出た。湿気交じりの温い風。眩しい太陽が降り注ぐ。黄色の花が咲き、蝶が飛び、鳥が囀る。春も終わりの頃を迎え、命はますます活気づいていた。  幼子はいつの間にか、泣き止んでいた。小さく口を開け、視線を横に向け、ぼんやりと光を眺めている。何を思っているかは分からない。だが、確実に生まれた世界を肌で、まだ満足に見えぬ目で感じていた。 「……生きていたとて、ろくな人生を送れぬだろうに」  私の息子は、正統な後継者だ。しかし、この子もまた王の血を引く。今でこそ姉は壊れてしまっているが、その前には彼女を担ぎ上げようとした一派がいるわけで。その連中が、いつこの子を担ぎ出そうとするかしれない。私の息子の将来の脅威になりかねないし、新たな戦乱の火種にもなるだろう。  だから私は、この赤子に何らかの処置を下さなければいけない。可哀相だが、ありのままでは生きていけないのだから。  夜になり、私は一人で異母姉の部屋を訪れた。満足に休めたようで、女は暗がりの中でも少しすっきりとした顔をしているようにも見えた。 「姉さん。貴方の息子は、死にました」  悲しそうに顔をゆがめながらも、何処か他人事のようだった。まるで他所の犬が死んだ、と聞かされた時のような反応だった。 「かわいそうに」  それが、彼女が息子に向けた最後の言葉だ。  翌朝、彼女は首を吊っているところを発見された。私が新しく手配したシーツを割いて使ったらしい。  発見者には口止めをし、死体は秘密裡に葬らせた。早朝のことなので、騒ぎになる前に片付けることができた。庭の隅にあったナナカマドの木が、墓標の代わり。彼女は人知れず静かに土に還ることだろう。  私の最後の敵は、こうしていなくなった。  誰かに脅かされることのない生活には、季節が一つ過ぎたころにようやく馴染むことができた。夏の勢いが通り過ぎ、日中の空気も涼やかになった頃、私は一つ新しい試みをする。  庭に面した一室。白に金の模様が入った壁紙の、憩いの部屋。秋の穏やかな日の光が入るそこで、大人にも重みを感じるそれを、息子に手渡す。落とすことのないように椅子に座らせたというのに、受け取った息子の身体は石像のように硬くなっていて、母としては愉快で可笑しくなってしまう。  息子の表情が緩んだのは、数分後。ようやく姿勢にも重みにも慣れたと見える。 「……あ、笑った」  息子が顔を輝かせてこちらを見上げる。私はその腕の中のものに手を伸ばし、指先で軽く小さな胸をくすぐった。 「うー、うー」  弟は兄の顔を見つめて、必死で何かを訴える。口角は少し上がっていて、笑いかけているようだった。聡くもまだ幼い息子は、嬉しくなって顔を綻ばせる。 「ヴィル……おにいちゃんだよ」  首が据わったばかりの弟と、はじめて赤子を抱いた兄が、互いに笑い合う。  窓の外からナナカマドの木が、それを見下ろしていた。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/20 • 👁 24回 • 💬 1件
ミステリー・サスペンス
139文字 約1分で読了

なんなら帳簿の数字まで

俺らの稼業は借金の取り立てだ。一緒に組んでいる兄貴は「観音サマ」とか呼ばれてる。穏やかな笑みで物腰は柔らかく、暴言は使わない。だというのに、今日も店主がきっちり払ってきた。秘訣があるんですかと聞いたら、にんまりと笑われる。「なに、やつが餌付けしてる野良犬の名前を知ってただけさ」
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作者:有賀慧
2026/10/17 • 👁 18回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
369文字 約1分で読了

汚れ仕事

 俺は仕事後は必ず手を洗う。  油汚れを落とすように念入りに、だ。  汚れが気になる業種だし、なにより汚れたままお客様に会うと嫌な顔をされるからだ。  こないだもウッカリ手洗いを忘れて宅配ピザを受け取ったら、ピザ屋の兄ちゃんの第一声が「あっ、ゴメンナサイゴメンナサイ……」だって。そんな10分15分遅れたからってタダにしろ!なんて怒鳴る客じゃないっつーの。  しかし今日の汚れはなかなかガンコだ。こりゃ石鹸だけじゃ落ちねーかも、ブラシ……あれ?どこ置いたっけな。  あ、思い出した。外仕事でたくさんの客相手したときに靴まで汚れが跳ねたから、玄関に置いたままだったわ。  でもそろそろ俺もいい年だし、体力的にもきつくなってきた。カミさん子供を安心して食わせていくなら、別の仕事も考えないとな。  毎度殺しのあとに手を洗うのも億劫だ。そろそろこの仕事から足を洗うとするか。
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作者:一枝春
2026/10/16 • 👁 46回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
139文字 約1分で読了

契約不履行につき

伯爵が密室で殺された。捜査に来た紋章官は悪魔崇拝の証拠を発見する。事情を知らぬ夫人と令嬢は内密の処理を願った。さて報告を受けた上司が問う。「おい犯人はどうしたんだ」「悪魔との契約は肉親を差し出す条件だったんです」紋章官が令嬢の見合い絵を示す。母親にはとてもよく似た、噂の美人を。
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作者:有賀慧
2026/10/15 • 👁 29回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
1251文字 約3分で読了

プレゼント

「どうだ、美味いだろ。ここの定食は」 彼は一口、茶を飲んでから友人に答えた。「ああ、とても美味しかった。また来たいと思う」うんうんと頷いて、友人は自慢げに笑った。 この日は、彼の誕生日であった。仕事の休憩時に、友人に誘われた。 彼と友人は会社の同期であり同い年、誕生日も近く友人は彼の翌日であった。何かと親近感の沸いた二人は意気投合し、いつしかお互いの誕生日にランチをご馳走しあうようになった。 「明日は僕が払うよ」「おう、楽しみだ」会計時に、彼は気になる事があった。 それは財布であった。友人はよく赤色が好きだと言っていた。てっきり私物のほとんどが赤いのかと思っていたが、その財布の色は違った。 「珍しいね。青色の財布なんて」「僕がなんでもかんでも赤だけにしてると思ったら、大間違いだぞ。これはプレゼントで貰ったんだよ」「ふうん、それもそうか」会計が終わり、それ以降は気にも留めずに、友人と会社に戻った。 翌日、彼は友人に誕生日祝いのランチをご馳走し、会社を定時で上がった。すると、一人の女性を見かけた。友人の彼女だった。 「お疲れ様。あいつなら、残業でまだしばらくかかると思うよ」彼女に近づいて声をかける。彼に気付いたのか、彼女は軽く一礼した。 「お疲れ様です。そうですか、ありがとうございます」とある集まりで友人に紹介してからしばらく経ったのち、付き合うことになったと言ってきた時はたまげたが、二人はお似合いだと思った。今では、たまに三人で遊びに行くこともある仲だ。 「今度は何を渡すんだい?」「新しいネクタイとネクタイピンを、渡そうかと。あとは夕飯を作ってあげようと思ってます」そう答えた彼女は、とても幸せそうな笑顔だった。 「去年は財布をプレゼントしました。長く使っていて、そろそろ変えたいと言っていたので」「ああ、あの青い財布だね。あいつにしては珍しいと思ったけど、君のプレゼントだったんだ」 昨日の事を思い出し、彼は何気なく言った。すると、彼女はキョトンとした表情をしていた。しかし、それも一瞬の事で、すぐに笑みを浮かべた。 「え、ええ。たまには、違う色もいいんじゃないかと思いまして。まだかかりそうでしたら、先に晩御飯の材料を買っていこうと思います。失礼します」一礼して彼女は足早に去っていった。 気に障るような事を言ってしまっただろうか。そうであれば、悪いことをしてしまった。今度会ったときに謝ろうと、彼は思った。気まずさを感じながら、彼は帰路についたのだった。 『昨日未明、自宅で男性が刃物で刺され、病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました』 「まさか、こんな事になるなんて。ごめんなさい、ごめんなさい……」彼はうなだれ、懺悔するように一人、ただひたすらに泣いていた。だが、もはやどうする事もできなかった。 ニュースキャスターが無情にも告げた。『警察は、死亡した男性と交際関係にあった女を、殺人容疑で逮捕しました。現在も取り調べが続いています』 テレビの画面には、容疑者として映されている、彼女の姿があった。
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作者:開津文太
2026/10/14 • 👁 38回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
217文字 約1分で読了

告白と秘密

「ねえママどうしてパパと結婚したの」 「ママね、パパ以外の人が好きだったの」 「……え?」 「パパには秘密よ」 「うん……」 「ねえパパどうしてママと結婚したの」 「ママはね、パパ以外の人が好きだったの」 「……えぇ?」 「だけどその人は病気になってしまって、長く生きられなかったんだ。ママは傷ついてしまって、そんなママを支えたかったんだ。ママには内緒だよ」 「うん……」  本当はね、こっそり毒を盛ったんだ。 彼女と結婚したくって。 誰にも言えない俺の告白。
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作者:しとえ
2026/10/12 • 👁 54回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
1301文字 約3分で読了

怨嗟のフェルマータ

 灯りのない箱の中。その一面にだけ張られた硝子窓から、青白い光が入り込む。まるで海の中にいるような四角い部屋の中で、硬質な弦の音が鳴り響いていた。  床を隠す黒い絨毯。その中央に置かれた木の丸椅子に、黒いドレスを纏った少女が一人。凹凸の小さい発達途中の身体のラインが出るシンプルなデザイン。細い肩を覆うフリルが唯一の装飾と言って良い。少女自身は、項にかかる長さの黒髪。大きな杏色の瞳。細い腕は一挺のチェロを抱え、たおやかな指先が弦を押さえる。右手に握る弓が低い音を紡ぎ出す。  少女は、チェロを弾く以外には微動だにしなかった。まるで楽器演奏のための人形。杏色の瞳も青白い側光を弾くのみで、生気というものが感じられなかった。  彼女は、この海底の部屋でひたすらに音楽を奏で続けていた。向かいにある白いソファーには、誰も腰掛けていないのにも関わらず。さらに闇に沈んでいきそうな陰鬱な曲で室内を満たしている。  軋む音がして、部屋に一筋の光が差し込んだ。一心不乱に奏でられたチェロの音がぴたりと止まる。  扉から入ってきたのは、一人の男だ。ビジネススーツ姿の男。年齢は三十前後。上物の仕立てや入室する所作から、男の格が伺える。洗練された動きは、もともとの育ちにしろ、後から自分で掴み取ったものにしろ、それなりの立場にいる者が身に着けるべきものだった。  蝶番を鳴らして扉が閉まる。部屋がまた、深海の闇に包まれる。その間、少女はやはり動かなかった。指一本どころか、瞳を揺らすこともない。男の登場を意に介した様子を見せず、彫像のように立ち尽くす。  白いソファーに腰掛けた男は、低く声帯を震わせて、対面の少女に呼びかける。 「――始めてください」  男の指示を受けた途端、少女の抱えたチェロが、弦を震わせはじめた。低く、硬く、冷たく、深く。無観客のときよりも更に陰鬱に、不安定に。不協和音も交えた短調は、ソファーで脚を組む男を拒絶するかのようで。  しかし、そのただ一人の観客は、天上の音楽を聴いているかのように、少女の旋律に耳を傾けていた。  弦の音がまた低くなっていく。地を這うような旋律は、何処までも硬く冷ややかで。絡みつくようにじっくりと紡がれていく。  それはまるで呪詛だった。少女の抱く憎悪が、言葉ではなく旋律に籠められていた。振りかざされたナイフのように心の中に深く切り込まれ、火で炙ったようにじくじくと浸食していく。  だが男は、恍惚の笑みを浮かべて、愛おしそうに少女を見つめた。 「貴女はさぞかし、私のことを恨んでいるのでしょうね」  語りかけるその瞳には、愉悦と嗜虐の色が浮かぶ。 「彼と共に、終わりたかったことでしょう」  少女の瞼が僅かに震えた。表情を凍りつかせた彼女がはじめて見せた変化。それに、男は気付いたのか否か。唇を歪めたまま、少女を言葉で縛り付ける。 「ですが、貴女はもう私のものだ。私のために奏で、私の手によって壊れるといい」  弓が弦を真横に弾いた。低音のフェルマータ。深淵からの怨嗟の声。地獄へ招くような終奏に、男は拍手もなく立ち上がる。 「また来ます」  少女の小さな肩に手を掛けて耳元で囁くと、彼女は静かに目を伏せた。  海底の部屋が、閉ざされる。
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作者:森陰五十鈴
2026/10/12 • 👁 34回 • 💬 0件
ミステリー・サスペンス
1323文字 約3分で読了

じゃないじゃないじゃない

 僕は、思う。  エントロピーの先、熱的死まで続くこの宇宙の理を。その過程を担うこの肉体と精神とその刹那を。  僕という個体はあらゆる事物と相関しているが、すなわち因果とは言えない。因果はきっと僕という生涯の中で徹頭徹尾完結している。認識ベクトルの違いだ。他と僕と全ては似たる非としてただ存在している。言うなれば粒子と粒子。結合はしても融合はし得ないどこまでも儚い単位の見る夢。  そんなものがこうやって思考をしてみているのだ。  提示された数字という記号の中から任意という甘い蜜を垂らされ6つの選択を行う。  まるで丸が丸の穴に三角が三角の穴に四角が四角にそれぞれ落ちていくように、僕は提示された数字から選択していく。選択しているかのように選択する。  衝動には経緯があってそのまま動機の弁明に当てはまる。  クソったれな人生だった。  誰も傷付けまいと誓った果て、幾度も裏切られ、それでも人を信じよと世間様はのたまうのだ。  故に僕は逆転を要求する。既にどうしようもない帳尻を合わせる為に、六つの数字を呆けて選び散らすのだ。  今日もこの宝くじ売り場で。 *  私は、思う。  人の気持ちを考えなさいと、そう育てられ育ってきた。でもどう? 実際には慮った瞬間に利用されることを受け入れなければならない底無しのこの理不尽さ。  ただ愛し愛されたいと望む心は、くだらないマウントのシーソーゲームに弄ばれ、とうにすっかりと擦り減ってしまった。  あなたを傷付けたくないのか私が傷付きたくないのか、なんて一体誰が明瞭に答えられるの。  少なくとも私には分からない。分からなかった。  トレードオフでしかないというのならなんて無惨で不条理なのだろう。  あなたが傷付くと私も痛い。それが嬉しい。私が私を傷付けても、傍に空白が生まれるだけだったから。  あなたに傷が付くと私も痛い。それが嬉しかった。その痛みがもう今はどうしようもなく恋しい。愛おしい。  あなたのことは傷付けたくないの。それでも誰かと繋がりたいの。丸は丸い穴に抱かれ三角は三角の穴に抱かれ四角は四角に。そんな風に誰かと誰かに私もなりたいの。  ナイフを介してでも私は触れたい。その為の傷が必要なの。痛いことをしたいの。  無性に。  誰かに。  どこまでも。  無性に。 *  僕は、考える。  この人が一体誰なのかを。何故僕なのかを。  その人の眼には孤独が溢れている。少なくとも僕は毎日鏡に同じ眼を見てきた。  それと同じくらい見てきた妬みの生む不条理でお門違いな怨嗟。あるいは理不尽の妖精?  この僕は、君と同じくらい孤独で、君が妬むような幸福者ではないというのに。君の生む因果は、誰も君を憎みはしないというのに。  だってそうだろうさ。休日の宝くじ売り場にひとりでいる人間に何を期待するというのか。何を望むというのか。この僕の命を誰が惜しむというのか。  何かを言うべきだろうか。恨み言の一つも吐くべきだろうか。  恨み?   何に?  そう、抗えないのだ。  内側に引っ張られた感触の果て、けたたましく熱するこの身の内。体内にあったむず痒い所にようやく触れた安堵感と爽快感の混交。  脳の報酬系が爆発し、生涯をかけて味わう快感を一挙に凝縮したような酩酊感。  ああ、だからこそ僕は君に伝えなければならない。 「僕じゃない。君は間違えた」
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作者:珈琲時間
2026/10/11 • 👁 54回 • 💬 0件