今日の雨は、夕方からずっと降っていた。
午後十一時十二分。
私は古びた待合室の隅で、濡れたローファーを見つめていた。
土砂崩れの危険があるらしく、電車は止まっている。次に動くのは早くても明朝。
最悪だった。
「君、高校生?」
顔を上げると、四十代くらいの男が立っていた。
「……はい」
「家の人、迎えに来てくれないの?」
「無理みたいです」
待合室には、ほかに二人。
スマホを何度も確認するスーツ姿の男と、壁にもたれている若い女。
私を入れて四人。
知らない大人たちと一晩。
怖くないと言えば、嘘になる。
*
最初におかしなことが起きたのは、十一時四十分だった。
「……誰だよ」
スーツの男が立ち上がった。
手には一枚の紙。
日付。金額。会社名らしい文字。
私には意味が分からなかった。
けれど男の顔から、血の気が引いていた。
「どこにあったんですか」
「俺の鞄」
「最初から入ってたんじゃ?」
「そんなわけない!」
声が響き、私は肩を震わせた。
「……悪い」
「いえ」
怖かった。
はやく帰りたい。
*
日付が変わる頃、今度は女がスマホを見て固まった。
「なんで……」
画面には暗い駐車場。
女と、知らない男が近い距離で写っていた。
「誰が送ったんだ?」
「知らない番号……」
「その写真は?」
「知らない!」
女が叫んだ。
「あの……」
私はペットボトルを差し出した。
「お水」
「……ありがとう」
手が震えていた。
少し前まで怖いと思っていた大人が、急に小さく見えた。
*
一時を過ぎても、誰も眠らなかった。
「偶然じゃないだろ」
スーツの男が言った。
「ここにいる誰かがやってる」
沈黙。
三人の視線が、最後に私へ向いた。
「……私?」
「こんな子なわけないだろ」
最初の男が私の前へ立った。
「高校生だぞ」
「高校生なら何もできないの?」
女が言う。
私はバッグを抱きしめた。
「私、何も知りません」
「分かってる。怖いよな」
頷いた。
本当に怖かった。
*
一時二十七分。
待合室の古いスピーカーから、突然声が流れた。
『あのときは仕方なかった』
最初の男の声だった。
『俺だって、ああするしか――』
そこで切れた。
「あなたの声でしょ」
「知らねぇって言ってるだろ!」
「何をしたの?」
「何もしてない!」
男が椅子を蹴った。
私は耳を塞いだ。
「やめて……」
「すまん」
男はすぐに目を逸らした。
紙。
写真。
録音。
誰かが何かを知っている。
でも、誰なのか分からない。
三人は互いを疑い始めた。
声が大きくなる。
「お願いだから……」
怖かった。
もうほんとに帰りたかった。
*
二時十三分。
突然、照明が消えた。
いくつものスマホの光が灯る。
「ない……」
「何が?」
「私のスマホ……!」
涙が出た。
数分後、私のスマホは待合室の外にあるベンチの下から見つかった。
「私、外に出てない」
「誰かが持っていった?」
また沈黙。
「もう嫌……」
「朝になれば帰れるから」
最初の男が言った。
「何もしてない人間まで怖がる必要はない」
その言葉で、なぜか誰も喋らなくなった。
*
三時四十六分。
「……待てよ」
スーツの男が顔を上げた。
「俺の紙。あんたの写真。それから、あんたの録音」
最後に私を見る。
「君だけ、何もないな」
「スマホなくなったじゃない!」
「見つかっただろ。俺たちは違う。全部、知られたくないものだ」
「……やめてください」
涙が落ちた。
「私、何も知らない」
「君はどうして今日、ここにいる?」
「電車が止まったから」
「違う。こんな時間まで、どこにいた?」
「やめろよ」
「この子がここへ来る理由がない」
「あるよ」
小さく言った。
「ずっと前から」
*
「……どういう意味?」
私はスーツの男を見る。
「十一か月」
女を見る。
「八か月」
最後の男。
「一年と四か月」
「何の話だ」
「見てた時間」
「……誰を」
「皆さんを」
誰も動かなかった。
「俺たちは今日初めて会った」
「うん、そうだよ」
「じゃあ――」
「私は初めてじゃない」
スーツの男を見る。
「去年の四月十九日。雨の日でした」
「……何を言ってる」
「濡れた革靴のまま家に入るの、嫌いですよね」
男の顔から表情が消えた。
女を見る。
「コーヒーに砂糖入れなくなったの、六月から。でも苦いの嫌いだから、飲むときちょっとだけ眉間に皺が寄る」
「気持ち悪い……」
「かわいいですよね」
最後の男を見る。
「怒ると、左手の親指を握りますよね」
男が自分の手を見る。
握っていた。
「……誰に聞いた」
「誰にも」
「じゃあ、どうやって――」
「ずっと見てきたから」
さっきまであんなにうるさかったのに。
静かになった。
*
「全部、お前だったのか。紙も、写真も、録音も」
「さあ……どうでしょうか」
「答えろ!」
肩が跳ねた。
大きな声は苦手だ。
「怒鳴らないでください」
「ふざけるな!」
「ほら。また時計触ってる」
「……何?」
「嘘つくと、時計触る」
男の手が止まった。
「じゃあ、俺たちが今日ここにいるのも……お前が呼んだのか」
「呼んでないですよ」
「だったら、なんで三人ともここにいる」
「来るようにしただけです」
「同じだろ!」
「皆さん、自分で来たじゃないですか」
「この雨も、電車が止まったのも?」
「それは知らないです」
「は?」
「私も困ってたんですよ。帰りたかったの、本当です」
誰も信じてくれなかった。
「あ、そうだ。スマホは私です」
「……何?」
「私だけ何も起きなかったら、変でしょう?」
「泣いてたのも?」
「怖かったのは本当ですよ」
「何が怖いのよ」
「ばれそうだったから」
女は何も言わなくなった。
*
「なんでこんなことするの」
「皆さんのことが好きだから」
「……何?」
「ずっと観察してたら、好きになりました。だから、これからも見ていたいんです」
「もう私たちに関わらないで!」
胸の奥が少し痛くなった。
「……嫌なんですか?」
「当たり前でしょ!」
「そうなんだ」
私はスマホを取り出した。
「じゃあ、仕方ないですね」
「何が」
「皆さんのこと、知ってる人に教えます。会社とか、ご家族とかに」
三人の顔が変わった。
「今まで通りでいてくれたら、何もしません」
「何をすればいい」
「何も?」
私は首を傾げた。
「普通に暮らしてください。これからも、ずっと私の観察対象でいてくださいね」
三人は呆然と立ち尽くしていた。
「大丈夫です」
私は笑った。
「私がちゃんと、愛でてあげますから」
「断ったら?」
スーツの男だった。
「じゃあ、試してみます?」
スマホの画面を二度触った。
「はい」
「……何した」
「送ってあげました」
男のスマホが震えた。
画面を見た男の顔が変わる。
「……妻からだ」
もう一度、震えた。
「やめろ。取り消せ」
「もう手遅れです」
私は残った二人を見る。
「お二人は、どうしますか?」
返事はなかった。
「……よかった。仲良くできそうですね」
「俺のはもう送ったんだろ」
「はい」
「だったら俺は終わりだ。もう脅せるものがない」
「終わり?」
「だから、俺にはもう――」
「誰が、解放するって言いました?」
男の口が止まった。
「私、そんなことひと言も言っていませんよ」
「だって、もう秘密は――」
「さっき送りました」
「だったら何で俺を――」
「だって」
私は首を傾げた。
「あなたのこと、まだ全部知らないですから」
「……いつまで俺たちを観察する」
「私が満足するまで」
「それはいつだ」
「分かりません。強いて言うなら、飽きるまで、かな」
「それがいつかって聞いてるのよ」
「それを知りたいから、見てるんですよ」
秘密も知っている。
癖も知っている。
どんな顔で嘘をつくのかも。
でも、これから三人がどんな人になるのか。
それだけは、まだ知らない。
だから見ていたい。
「……ねえ。こっち見て」
誰も動かない。
「お願い」
しばらくして、一人が顔を上げた。
次に一人。
最後の一人。
三人と目が合った。
よかった。
私は笑った。
「ようやく会えた」
*
午前六時。
電車が動き始めた。
「お待たせしました。もう大丈夫ですよ」
駅員が入ってきた。
「一人だったの?」
三人は少し離れたところにいた。
誰もこちらを見なかった。
「いえ」
「怖かったでしょう。知らない大人ばっかりで」
私は笑顔のまま、
「はい」
と答えた。
本当に怖かった。
最後まで、ばれないかと思って。
嫌われちゃったけど、それくらいなら大丈夫。
バッグを肩に掛ける。
改札へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
三人とも、まだ私を見なかった。
せっかく、やっと会えたのに。
まあ、いいや。
これからも、ずっと見ていられるから。
私は笑った。
続きを読む
スマートフォンが、短い振動を返した。
画面に表示された時刻は、午前一時四十二分。会社からの帰路、人気のない夜道を歩いていた香織は、小さくため息をついて画面をタップした。
大学時代の友人である恵美からのメッセージだった。
『ねえ、最近、鏡を見て「自分じゃない」って思ったこと、ない?』
唐突で、少し不気味な内容だった。香織は歩きながら、冷え切った指先で素早く文字を打ち返す。
『どうしたの急に。疲れてるんじゃない?』
すぐに既読がついた。まるで画面の向こうで、狂ったようにスマホを握りしめているかのような速度だった。
『違うの。本当にいるんだよ。他人の「顔」を集めて回っている、影みたいなやつが。そいつに目をつけられると、少しずつ、自分の顔が「剥がれて」いくの。最初は誰も気づかない。でも、ある日突然、鏡の中にいるのが完全に「知らない誰か」になってるの。お願い、香織、もし自分の顔に違和感があったら、絶対に──』
メッセージは、そこで途切れていた。続きを促す文字を打とうとしたが、香織はなんとなく指を止めた。夜の静寂が、急に重くなったような気がしたからだ。
「……バカバカしい」
香織は呟き、スマホをコートのポケットに押し込んだ。恵美は昔からオカルト好きで、一度思い込むと周囲が見えなくなる悪癖がある。きっとネットの奇妙な都市伝説にでも感化されたのだろう。
カツン、カツン、と香織のヒールの音だけが、コンクリートの道に響く。
街灯がまばらな住宅街の十字路に差し掛かったときだった。
ふと、前方から歩いてくる人影が見えた。
男か女かも分からない。ひどく猫背で、黒いトレンチコートのようなものを羽織っている。その人物は、ゆっくりとした足取りで香織の方へと近づいてきた。
すれ違う瞬間、香織は息を呑んだ。
街灯の淡いオレンジ色の光が、その人物の「顔」を照らし出したからだ。
顔が、なかった。
いや、正確に言うなら、目も鼻も口もある。しかし、それらのパーツが、まるで泥水でかき混ぜられたかのように、ぐにゃりと歪んで判別できなかったのだ。まるで、誰かが描いた人物画の顔を、濡れた雑巾で乱暴に擦ったかのような、おぞましい「平坦さ」だった。
香織は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、うつむきながら足早に通り過ぎた。
背後で、その人物の足音が止まったような気がした。振り返る勇気はなかった。心臓が痛いほどに脈打ち、香織は逃げるように自宅のマンションへと走り込んだ。
部屋に入り、何重にも鍵をかけ、チェーンを下ろしてようやく息をついた。
暖房を入れ、冷え切った手を擦り合わせる。
「……見間違いよ。暗かったし、疲れていたのよ」
自分に言い聞かせながら、バッグをソファに投げ出し、洗面所へ向かった。メイクを落とし、お風呂に入って早く寝てしまおう。そう思った。
洗面台の前に立ち、正面の鏡を見た。
いつもの、自分の顔。少し目の下にクマがあるが、見紛うことなき二十六歳の自分の顔だった。香織はホッと胸を撫でおろし、蛇口をひねってぬるま湯で顔を洗った。
洗顔料を泡立て、目を閉じて顔全体に広げる。
手のひらで肌を包み込み、優しくマッサージするように動かす。
その時だった。
指先に、妙な感覚を覚えた。
(……あれ?)
頬の皮膚が、妙に「柔らかい」のだ。
いつもなら、頬骨の硬い感触が指に伝わるはずだった。しかし今の感覚は、まるで粘土か、熟しきった果実の皮に触れているかのように、指がずるりと沈み込むような、奇妙な弾力を持っていた。
香織は慌てて泡を洗い流した。
水が目に入り、しみうつむきながら、手探りでタオルを掴んで顔を拭く。
そして、恐る恐る、鏡を見上げた。
鏡の中の自分は──変わっていなかった。
いつもの顔だ。目も、鼻も、口も、元の場所にある。
「驚かせないでよ……」
香織は自分の頬を両手で軽く叩いた。やはり、ただの疲れのせいだ。指の感覚がおかしくなっていたのだろう。
その夜は、恵美からの返信は二度となかった。香織もそのまま深い眠りに落ちた。
翌朝。
出勤のために駅へ向かう途中、香織は会社の同期である真由と偶然会った。
「あ、香織、おはよう!」
真由が笑顔で手を振る。香織も「おはよう」と返そうとして、言葉を詰まらせた。
真由の顔が、どこかおかしかった。
どこが、と言われると説明が難しい。目も二つあるし、鼻も高い。しかし、パーツの配置が、ほんの数ミリだけ外側へ広がっているような、あるいは皮膚がピンと張り詰めすぎて、表情が凍りついているような、奇妙な違和感があった。
「香織? どうしたの、私の顔に何かついてる?」
真由が不思議そうに小首を傾げる。その動きに合わせて、彼女の耳の裏側の皮膚が、ほんの少しだけ「浮いて」見えた。まるで、糊の剥がれかけたステッカーのように。
「……ううん、なんでもない。ちょっと寝不足で」
香織は視線を逸らした。
昨日から、自分の感覚が完全におかしくなっている。恵美の不気味なメッセージのせいで、他人の顔に過剰に反応してしまっているのだ。
会社に着き、デスクワークをこなしている間も、違和感は消えなかった。
すれ違う上司、お茶を淹れてくれる後輩、パソコンの画面に映る自分の顔。
すべてが、ほんの少しずつ「ズレて」いるような気がしてならない。
夕方、給湯室で一人になった香織は、ポケットからスマホを取り出した。
どうしても気になり、恵美のメッセージの履歴を開く。そして、彼女が最後に書こうとしていた言葉を、頭の中で繋ぎ合わせた。
『他人の「顔」を集めて回っている、影みたいなやつが……』
『そいつに目をつけられると、少しずつ、自分の顔が「剥がれて」いくの』
まさか。そんなことが、あるはずがない。
香織は自嘲気味に笑い、スマートフォンの画面を消した。黒い画面が鏡のようになり、自分の顔を映し出す。
その画面の中で。
香織の顔の右半分が、ずるりと、下に向かって滑り落ちた。
「え……?」
慌てて自分の顔に触れる。触感は普通だ。硬い骨の感触もある。
しかし、スマホの画面に映る「影」の中の自分は、明らかに歪んでいた。右の目が頬の位置まで下がり、口が耳の近くまで裂けている。まるで、誰かが裏側から、香織の顔の皮を強く引っ張っているかのように。
恐怖で指が震えた。
その時、給湯室の入り口の影から、声がした。
「香織、まだ仕事残ってる?」
真由だった。
彼女は、一歩、一歩と給湯室の中へ入ってくる。
その顔は、今朝見たときよりもさらに歪んでいた。いや、歪んでいるのではない。真由の「本物の顔」の隙間から、全く別の、どす黒い「影」のようなものが覗いているのだ。
真由の目が、不自然に大きく見開かれた。彼女の口が動き、真由のものではない、低く掠れた声が響く。
「それ……いい顔ね。すごく、綺麗に馴染んでる」
「真由……? あなた、何を言って……」
「私ね、自分の顔が剥がれちゃったの。だから、恵美の顔をもらったの。でも、サイズが合わなくて、すぐにシワが寄っちゃうの。ほら、見て」
真由が、自分の顎の下に指を突き立てた。
爪が皮膚に食い込み、血ではなく、ボタボタと黒い泥のような液体が滴り落ちる。真由はそのまま、自分の「顔」を、ペリペリと音を立てて上に向かって剥ぎ取り始めた。
剥がれた皮膚の裏側から現れたのは、肉でも骨でもなかった。
それは、無数の人間の「目」や「口」が、ぐちゃぐちゃに蠢く、生きて動く【黒い影】そのものだった。
「ひ、あ、あああ!」
香織は悲鳴を上げ、真由を突き飛ばして給湯室から飛び出した。
背後から、ペタ、ペタ、と、濡れた肉塊が床を這うような音が追いかけてくる。
「香織! 顔をちょうだい! あなたの顔なら、きっとぴったり合うの!」
香織は狂ったように廊下を走り、エレベーターに飛び込んで「閉」のボタンを連打した。閉まりかける扉の隙間から、顔の皮を半分剥ぎ取った真由──
いや、真由の皮を被った【それ】が、じっとこちらを見つめているのが見えた。
エレベーターが1階に着くと同時に、香織は外へ飛び出した。
もう会社には戻れない。家にも帰れない。あいつはどこまでも追ってくる。
夜の街を、香織は泣きながら走り続けた。
まわりの通行人たちが、みんなこちらを見ているような気がした。すれ違う人々、全員の顔が、仮面のように無機質で、今にも剥がれ落ちそうに見える。
どれくらい走っただろうか。
気づけば、香織は自宅近くの、昨日のあの十字路にたどり着いていた。
息が切れ、足がもつれて、コンクリートの上に激しく倒れ込む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
手のひらから血がにじんでいたが、痛みすら感じなかった。
恐る恐る、顔に触れてみる。
先ほどスマホの画面で見たような、激しい歪みはない。触った感覚も、いつもの自分の顔だ。
(助かった……? 撒けたの……?)
香織は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
あたりは静まり返っている。真由の追ってくる気配もない。
香織は、深く長い息を吐き出し、近くの自動販売機のガラスに映る自分の姿を見た。
ガラスの向こうには、乱れた髪の、疲れ果てた自分の顔があった。
目がある。鼻がある。口がある。
香織はホッとして、胸をなでおろした。
「よかった……私の顔、ちゃんとある……」
しかし、その安心は、次の瞬間に凍りついた。
ガラスに映る「自分の顔」が、香織が口を動かしていないにもかかわらず、にやりと、不気味に微笑んだのだ。
そして、鏡の中の「自分」が、ゆっくりと手を上げ、自分の顎の下に指を突き立てた。
(え……?)
香織は自分の手を動かしていない。自分の体は、恐怖で完全に硬直している。
それなのに、ガラスの中の「自分」は、ペリペリ、ペリペリと、楽しそうに顔の皮を剥ぎ進めていく。
ガラスの向こうの皮が完全に剥がれ落ちたとき、そこに現れたのは、無数の人間のパーツが蠢く、あの黒い【影】だった。
影は、剥ぎ取ったばかりの「香織の顔」を、愛おしそうに両手で掲げ、ガラスのこちら側にいる香織に向けて、掠れた声で囁いた。
「ありがとう。本物のあなたより、私の方が、この顔を上手に使えるわ」
その瞬間、香織の視界が、急激に狭くなっていった。
まるで、頭から分厚い黒い布を、すっぽりと被せられたかのように。
声を上げようとしても、口があるべき場所には、何の感覚も残っていなかった。
香織は、ただの「光を失った影」となり、自分の顔を被って嬉しそうに歩き出す【それ】の背中を、暗闇の底から見つめることしかできなかった。
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車から黒い煙が吹き出し、エンジンがストップした。
クソ!クソクソ!
何度もアクセルを踏むが何の反応もない。
俺はトランクを開けた。
中にはバラバラに刻んだ死体。
口論になってカッしてしまい気がつけばこの有様だ。
適当な雑木林の中まで遺体を運ぶと持ってきたスコップで穴を掘る。
血と泥まみれになりながらなんとか埋め終わる。
……これからどうするか。
携帯の電波は届かないようだ。
もっともカーサービスなど呼ぼうものなら足がついてしまうだろうから結局のところ車を捨てて自力で帰るしかなさそうだ。
……バス停まで歩くか。
道なりに随分と歩いたが一向にバス停に着く気配はない。
空はクリムゾンの禍々しい色をしていた。
民家が見えるので今夜はここで泊まることにする。
そういえばこの辺りは廃村だった。
民家に入ろうとして人影のようなものが見えた。
ぎくりとするがよく見ればそれは案山子だ。
村起こしで案山子祭をやっていたという話を聞いた。
カビが生え黒ずんで気味が悪い事この上ない。
……いや、所詮ただの案山子だ。
夜、廃屋の中で一人寝ていると『ごとり』と音がした。
慌てて振り向くと案山子が立っている。
なんだ、案山子か……
……いや、待て。なぜ案山子がこんな所にある?
おかしい!おかしい動くはずがない!
俺は逃げようと走り出した。その途端ドンと何かにぶつかる。
案山子だ!
案山子に囲まれている!
布の間から殺したあいつの顔が見える!
助けてくれ!
……誰か!
……ねえ知ってる?
廃村に案山子の村があって、捕まったら案山子にされちゃうんだって。
続きを読む
「スマホ落としましたよ」
そう言ってスマホを渡した相手の男は顔が無かった。
……あぁまたか。
男は横断歩道を渡りきったところで車に轢かれビチャリと俺の足元に手首が転がる。
顔のない人間の姿を見たらその人物は近々死んでしまう。このように死ぬ人間を何度見ただろう。
家に帰って扉を開く。
壁一面に人の顔。
おそらく昼間の男もいるのだろう。
煙草を吹かせばうめき声が聞こえる。
続きを読む
ある日の休日。
家の前で、ポケットから鍵を手探る。
先端を触りながら、鍵を取り出して、ドアを閉める。
何度も使っている鍵だから、見なくても上下はわかる。
私は、買い物のためにスーパーへ向かった。
カゴは二種類あった。
ピンクのカゴ。グレーのカゴ。
私はグレーのカゴを持ち、野菜コーナーへ向かう。
じゃがいも、トマト、にんじん、次々にカゴに入れる。
作りたいものは今のところない。
ただ安いから、それだけ。
お尻のポケットに入っているスマホが震える。
スーパーの店内をうろうろしながら、スマホの通知を確認する。
彼女からだった。
>今から家に行くね。
彼女が私の家に来るらしい。
>今、買い物しているから、ゆっくり来てくれると嬉しいかも。
私は、スマホをお尻のポケットに戻して、買い物を続ける。
スマホが震えたが、多分「わかった」という返事だろう。
その後、私は次々に安い肉や調味料をカゴに入れて、レジでお会計をする。
スーパーを出ると、すでに夕方になっていた。
帰ったら、彼女のために何か作ろう。
早足で家までの道を歩く。
彼女と私の家はそこまで離れていない。
もしかしたら、玄関で待っているかもしれない。
私は、彼女に連絡をするためにスマホを開いた。
>大丈夫だよ。中に入っているね。
彼女からの一言。
私は首を傾げた。
とりあえず、私は買い物袋を持ち直して家へ向かう。
角を曲がったら、家が見えた。
外は薄暗く、ここからの距離だと、見えないはずなのに、家の窓から光が出ていた。
なぜ、家に電気がついているかわからない。
玄関までの道が少し長く感じた。
彼女が中に入っていると言っていた。
家のドアの前についた。
ドアを開けると、彼女のいつもの白いパンプスが目に入った。
彼女が部屋のドアから顔を出した。
「おかえりなさい。待っていたよ」
「来る前にお菓子買ってきたよ。一緒に食べようよ」
そう言いながら、彼女は私の好きなお菓子を見せてきた。
「どうやって入ったの?」
「え、これだよ」
彼女は、鍵を見せてきた。
ところどころ傷が入っている、シルバーの鍵。
「私、鍵渡してないよね?」
彼女は鍵を指先で回した。
続きを読む
うらめしや
あぁ、うらめしや うらめしや
あの人は私のものだったのに
何故奪われ他の女と
うらめしや うらめしや
この先、何代かかろうとも
必ず奪い返して見せようぞ
たとえこの身が妖かしに、なろうとも
逢魔時、闇と昼が交差する
人の境と異形の境もまた
真菰草生える沼の岸辺
この世に恨みを抱え
花嫁装束のまま沈んでゆく
禍々しきや その空の色
禍々しきや 沼の底
恨み辛みの花嫁が
今もそこで待っている
「誠一郎君どこ行っちゃったの、誠一郎君!」
私は一緒に沼地に遊びに来た幼馴染の姿を探していた。
沼はくすんだ真菰色。
緑がかって濁っていて、どこかゾッとするそんな色をしていた。
まるで この世の不安を全て飲み干したかのような色。
嫌な予感がする。
不意にバチャバチャと水音が聞こえ私はそちらの方を見た。
見ると幼馴染の誠一郎君が沼に足を取られ溺れているではないか、私は沼の淵から必死で手を伸ばした。
「捕まって!」
彼の腕を掴み、子供の力で必死にたぐり寄せようとする。
重い、腕がちぎれそうだ…
「誠一郎君を連れてかないでよ!」
私はとっさにそう叫んだ。
その時なぜその言葉が出たのかわからない。
だがそう叫んだと水辺からすっと人の顔が見えた。
その白い手が彼の方を掴んでいた。水辺の人物は当然のようにびっしょり濡れてなぜか頭には白無垢、顎の辺りまで水から顔が見えていたがその唇は口紅で真っ赤に塗られていて青白い顔は何とも不気味だ。血走った赤茶色の目がこっちをじっと見ていて かすかに唇に笑みを浮かべている。
その得体の知れない状況に私はゾッとしながらも必死で彼を引き寄せた。
奪われてたまるか!
私の執念が勝ったのだろうか…女は沼の底に消えてゆき彼は何とか岸から上がることができた。
私は彼の手を引いて急いでその沼から走り去った。
それ以来沼には行っていない。
数年後私たちが中学生になった頃、沼は埋め立てられたと聞いた。
そのことに私はどこかホッとした。
沼で見たものが何だったのか…ある時、私は気になって調べた。
昔あそこに花嫁姿の女性が身投げしたらしいという伝承をその時知った。
愛する男を政略結婚で奪われ、身投げしたらしい。
男の名前は木村誠一郎、そして男と結婚した政略結婚の相手の名前は千代…
それは誠一郎君と私の名前と一致する。
……ゾッとした。
あの沼の女は私から、私の目の前で、誠一郎君を奪おうとしたのだ。
いや…名前が同じだけで、私も 誠一郎君も伝承の中に出てきた人物とは関係ないはず。あの幽霊だか何だかわからない存在はどうして 誠一郎君を狙ったの……
私と彼はやがて中学を卒業し、高校も卒業し別々の大学に行った。私は地元を離れ卒業し就職し、20年ぶりに故郷に帰ってきた。
実家のことを放ってはおけないし、ちゃんと家業を継ぐ目処が立ったからだ。
誠一郎君が 近くに家を建てて住んでいることを知って引っ越しのご挨拶に行くことにした。
街の様子は随分とかわっていた。
歩きながら彼の家を目指す。
待ってこっちは 沼があった方向じゃないの?
何やら得体の知れない胸騒ぎがする。
そうだ間違いない。埋め立て地になって随分と様子は変わってしまったけれど沼があったあたりだ。
彼の家が見えた。
くすんだオリーブグリーン…というよりこれは真菰色と言った方がいいのかもしれない。何だってこんな色を選んだんだろう?
落ち着いた色というよりはどこか薄気味悪く見える。
玄関のチャイムを鳴らした。
20年ぶりの彼の姿。
それは私の知っているはつらつとした姿ではなく、くたびれた表情をしていた。
20年も経ったんだもの印象が変わるのは仕方がないことだけど。
何とも言えない思いが胸に広がっていく。
「久しぶりだね、どうぞ」
その声を聞いてほんの少し安心する。
リビングに通される。
家の内装は和風モダンといった感じだった。
奥さんの趣味だろうか。少し薄暗い。
たわいのない話をするがどこか彼が上の空のように見える。
玄関先で何か 物音がした。
「あぁ、妻が帰ってきたみたいだね」
「そっかちゃんと挨拶しなきゃ」
私は立ち上がった。
ギィィーッという音。
「紹介するよ家内だ」
白い洋服を着たその女性を見た時私は知っていることに気がついた。
赤い唇、赤茶色のギラギラとした大きな目、青白い顔色。
あの時の女にそっくりなのだ。
沼の女に。
…いや、落ち着け。私はあの時一瞬だけその女を見たのだ。
似ているかどうかなど、どうしてわかる。
きっとただの他人の空似だ。
「初めましてよろしく」
なんとかぎこちない笑顔をして女の手を握る。
ゾッとするほど冷たくてどこか濡れているかのようだった。
「初めまして、久しぶりね、やっとこの人を取り戻せたのよ。もう何世代もかかってしまったわ。何度も何度もやり直してやっとここに連れてくることができたのよ。あなたには分からないでしょうけど、もう決して離さないんだから。残念ねあなたの居場所はもうないの彼は私のものなのよ」
……この女は初対面の相手に何を言っているのだろう?
女は彼に手を回し口づけをした。
唇が真っ赤に見えて血を貪るように
生気のない彼の顔がゆっくりと彼女を見ていた。
どこか視点があっていない。
私は女の足元を見た。
その影はまるで花嫁衣装の白装束のように裾が広がり腕が骸骨の骨のように見えた。
むさぼり食っている。
頭の中でここに居てはいけないという声が響いている。
「お、お邪魔しました」
私は荷物を掴んで 急いで玄関から飛び出した。
後ろから笑い声が聞こえる。
けらけらと笑い声と祝歌が聞こえる。
お出ましじゃお出ましじゃ花嫁様のお出ましじゃ…
祝詞とお囃子とたくさんの足音、ビシビシと地面にひびが入る音、何か巨大なものが音を立てて崩れていくのが分かった。
私は必死で走った。
そうして沼地 だったところを抜け後ろを振り向けば、ぐしゃぐしゃと家が崩れ地面が崩壊し、彼の家は沼に飲み込まれていったのだった。
血の色の夕焼けがその影だけを映し出していた。
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「もう少しで彼女が帰ってくるはず……」
私は時計を確認して、料理を始める。
いつも通りの料理。
基本的に在宅ワークの私が料理を作っている。
作れる方が作ればいいし。
特に凝ったものでもなく、簡単に作れるものを用意した。
カチャ。
「ただいまー」
いつも通り、彼女が帰ってきた。
「おかえり」
私は部屋から顔を出す。
彼女は、少し雑にヒールを脱いでいた。
よほど疲れていたらしい。
「夕飯できてるよ」
「ありがとう」
彼女は顔を緩ませて、リビングに来た。
「今日のご飯なあに?」
「冷蔵庫にあるものを適当に炒めた」
「そっか」
そう言いながら、彼女は冷蔵庫にあるお茶を取り出した。
コップに入れて一気飲みをする。
外が暑かったらしい。けれど、私は在宅ワークで一日中外に出なかったからわからない。
私は、皿に料理を盛り付けてテーブルに置いた。
彼女も椅子に座った。私も椅子に座り二人で食べる。
「今日、外暑かったよ」
そう言う彼女の首筋には水滴がついていた。
「外回りの営業お疲れ様」
「うん、ありがとう」
しばらくして私たちは食事を食べ終わりくつろいでいた。
「先にお風呂入る?」
一日中、外回り営業をしていた彼女が、
先にお風呂に入った方が良いかなと思って。
「大丈夫だよ。先に入っておいで」
「……わかった。ありがとう、先に入るね」
私は脱衣所に入り、服を脱いで浴室へ入った。
水が体に当たる。
一日中、部屋にいたから体が冷えないように少し温かい温度。
汗は出ていないけれど、何となくゴシゴシ洗った。
すべて洗い終わり、浴室を出た。
髪の水滴をタオルでふき取り、ドライヤーを当てる。
カチャ。
「ただいまー」
「……え」
思わず脱衣所から顔を出す。
そこには、首筋に水滴をつけたまま、ヒールを雑に脱ぐ彼女がいた。
「あ、お風呂入ってたんだ」
「あ、うん」
「まだご飯できてないよね?外食でもいいよ」
「え、いや、食べたよ。一緒に食べたじゃん」
「いやいや、何言ってるの、今帰ってきたばかりじゃん」
「帰るって連絡したよ」
私は何も言わず、スマホを開く。
>18:43
今から帰るね。多分、20時前には家に着くかも。
確かに、メッセージが来ていた。
「大丈夫?」
私の顔を覗き込む彼女の首筋には水滴が滲んでいた。
そして、私の頭も水滴が滲んでいるだろう。
右手に持っているドライヤーだけが、何事もなかったように風を送り続けていた。
私は首だけを曲げて、リビングの方向を見た。
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どうも、本日面接に参りましたMと申します。とても酷い大雨で足元も悪い中、こうして面接の機会をいただけてありがたき幸せとしか言いようがありません。
さて、この貴重なお時間の中で少しわたくしめのお話をさせていただきます。わたくしはとある南の地で生まれ、まず家は火事で燃えて家族は皆死んでしまいました。親戚もしばらくして病気でことごとく亡くなり、私は天涯孤独となりました。
その後は何とかして学生生活を終えましたが、私の通った校舎は全てが取り壊しとなり、思い出として語れる場所や風景は今や私にはありません。そして、社会人になってから借りたアパートも住む度に取り壊しとなりまして、今借りておりますアパートも近々取り壊しになるそうです。
そうした状況下で次の引っ越し資金をじっくり貯めたく、御社の面接に伺いました。履歴書に書きました以前の勤め先は、どうにも人の扱いが荒っぽくてなりませんでしたので辞めました。大きな声で怒鳴りましたり、罵詈雑言を浴びせましたり、空気は泥の様に濁っておりました。わたくしが勤める先々は、いつもそうなのでございます。わたくしの目利きが、悪いのでしょうね。
それから、私の渡り歩く会社はほとんどが倒産したり社長や社員が酷い病気で倒れたりと不幸に見舞われがちです。まあ、元が悪いのですから、厄介事が寄ってきても仕方がないのでしょう。
そういえば面接の時間になる前、以前の勤め先から「会社の社員が皆流行り病で倒れた」と電話がありました。どうやら死人が出た様な話も聞きましたが、私は御社の事で頭がいっぱいでそれ所ではありませんでしたから電話はすぐに切りました。
ああ、随分くだらない長話をしてしまいました。では改めまして質疑応答を致しましょう。私達の時間には、限りがあるのですから。
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