イツメンとは、『いつものメンバー』の略。
1年C組。
二学期の始まる9月には、クラスにはっきりとした派閥ができあがっていた。
最も大きな派閥は、男女十一人で、クラスの三分の一にあたる僕らのグループだ。
他の奴らとは区別して、仲間内を『イツメン』と呼んでいる。
そして、クラスの奴らはみんな僕ら『イツメン』のメンバーになりたがっている。
小学校の頃仲良かったサトシもそう。でも、サトシはちょっと入れてやれない。
だって、ソウタはクラブチームのレギュラーだし、ミユキは女バスのリーダー、ユキヤは塾で成績一位だ。
僕だって、ホッケーのオリンピック強化選手に選ばれていたりなんかする。
プラス、メンバーは顔面偏差値も高いんだ。
可哀想だけど、サトシでは、アツヤとユイナ、両リーダーの許可が下りないだろう。
僕達、〝イジメ〟なんてやってない。
けれど、〝イジり〟はやっている。
あ、でも誤解しないで。
そんな大げさなものじゃないから。
グループラインで悪口を言ったり、授業の発表を無視したり、机を班編成にするときに皆でちょっと離したりする程度のこと。
ちなみに、標的《ターゲット》は女の子で、浅井イツキ。
きっかけはあまり知らないが、ラインで誰かが〝キモい〟って言ったのが始まりだったような気がする。
でも、アイツだって悪い。
ただの陰キャってだけじゃない。
小学校の時から、よく忘れ物をするし、遅刻もする。
あと、暗くてジメジメしてて、イヤなことされても言い返さない。
いつもただ、ジトッと能面みたいな顔して睨んでくる。
あいつさえいなければ、僕たちクラスの団結力はもっと高くなるだろう。
浅井も早く反省するか、いっそ学校に来なけりゃいいのに。
団結を乱すのは悪。
先生だって、きっと僕らと同じ考えだ。
クラスにおけるマジョリティ。
僕達は、いつだって正しい。
なのにその日。
とうとう、浅井がクラスで泣いた。
土曜日に運動会を終えた、火曜日の登校日。
僕とユイナは、皆の使ったゼッケンとハチマキを集める係をやっていた。
みんなは、家でアイロンをかけてきたやつを、僕らに渡すことになっていた。
僕が男子のを集めていると、
「あ、ゴメン。忘れた」
友達のサトシが額の前に両手を合わせた。
「あ、いいよいいよ、また明日で」
僕が笑って手を振った時、向こうからユイナの甲高い声が聞こえてきた。
「ええ、浅井さん、忘れちゃったの~」
見ると、ユイナと仲間の女子ふたりが、浅井の机を囲んでいた。
「困るんだけど。家に電話して」
先生に持っていくのはまだ先だから、別に困らないんだけどな。
思いながらも眺めていると、浅井が珍しく口ごたえした。
「だって……お母さん、今日仕事だから」
「だからって私達に迷惑かけていいの? 西本先生《ニシセン》に叱られるのは、ユイナなんだよ」
「えー、困るー」
浅井は、俯いて黙りこんだ。
あーあ、だる。
責める女子の金切り声にうんざりしつつも、僕は黙ってそれを眺めていた。
すると、僕と同じように状況を眺めていたアツヤがコールをかけた。
「でーんーわ」
メンバーの何人かが、ゆっくりと席から立ち上がってコールに加わった。
「でーんーわ」
また一人、二人と立ち上がり、浅井の席を取り囲んで、コールは次第に大きくなった。
ああ、僕もでもそろそろ行かなきゃだめかな。
僕はゆっくり席を立つと、その輪の中に加わった。
「でーんーわ」
浅井さんを中心に二重の輪。
クラス中にコールが響き渡った。
そうして。
彼女は泣きながら輪を破り、職員室前の公衆電話に駆けていって__
それっきり、教室には戻らなかった。
一週間後。
放課後僕らは、担任に呼び出され、こっぴどく叱られた。
「何故、イジメなんかするんだ。先生は、君たちを信じていたのに。このことは、親にも連絡するからな」
先生は、紋切り型のつまらない台詞を、何度も繰り返した。
僕は思った。
――大人って、ズルいよな。
近くにいて、今まで見てみないふりしてたくせに。
にしても参った。
親まで巻き込んだとなると、家でもかなり鬱陶しいことになりそうだ。
僕らはその夜、グループラインで話し合った。
「ねえ、私たちばっかりが悪いみたいに言われるなんて、おかしくない?」
「だって、ゼッケン忘れてきたのアイツじゃん。いつも、忘れ物はダメって言うくせに」
「浅井さ、練習来ないで体育祭の日だけリレー参加とかマジありえん。あいつのせいでビリだったしよ」
「オレら、悪くなくない? 親つかうとか、反則だろ」
…………
親指で画面を送りながら、僕は小さく溜め息をついた。
――そうだ、その通りだ。
吹き出しのひとつひとつに頷き、相づちを打ちながら。
けれど、そこに意見を書き連ねることは、なぜか出来なかった。
そのグループラインも長くはもたなかった。
ほどなくして、その存在を知った先生に、解散させられてしまったから。
職員室に抗議にいくぞ!
アツヤたち一部のメンバーだけが、暫くの間息巻いていた。
けれど、最初こそ学校にクレーム入れると鼻息を荒くしていた親達も、子どもがスマホに触る時間が減ったことに気がつくと、学校を責める気も失せたらしく、僕らが助けてと言っても、はぐらかすようになった。
僕らもまた、部活の大会やら、塾やらで皆忙しくなり、いつの間にかそんな話も立ち消えた。
その流れに合わせるように、僕らイツメンも、組んだ紐がほどけるみたいに散っていった。
*
「最近、アツヤ達とつるまないのな」
昼休憩。
早々に給食を食べ終えたサトシが、僕の机に来て言った。
「うん、アツヤ、県大会の練習とかで忙しいらしい」
「ふーん、そ。俺にとっちゃよかったけどな。お前のこと、誘いやすいし。な、早く食えよ。体育館行ってバスケやろ」
「ああ、ちょっと待ってて」
僕は、かなり苦手な給食の野菜炒めをパンに詰めこみ、牛乳と一緒くたにかっ込んだ。
先生が来ないのを確認すると、サトシは隣の空席の机に尻を乗せた。
教室を見回し、ポツリと呟く。
「浅井のやつ、まだ来ねーな」
「え……」
指差されたわけでもないのに、僕は顔をあげ、その方向を見てしまった。
運動会以来、ポツンと空いた浅井の席。
「なんかさ、先生が家までいったりしてるらしい」
「……ふうん」
僕は、興味なさそうに給食に目を落とした。
サトシもそれっきり話を変え、昨日放映されたワールドカップの日本代表のプレイについて論じ始めた。
結局のところ。
浅井が学校に来なくなっても、僕達の生活はなにひとつ変わらなかった。
学校も、先生も親も友達も。
特別なことは何もなく、ただ一日が過ぎてゆく。
ただひとつ変わったのは、僕のクラスにはいつも、必ずひとつ空席があることだ。
そこだけが、空間に空いた穴みたいに空虚に。
そして、それを見るたびに、僕の胸は、いつも少しだけ痛くなる。
あと一口のパンの欠片を手にしたまま、僕はチラッとアツヤを見、それからユイナに視線を移した。
相変わらずクラスの中心にいる彼らは、いつも四、五人に囲まれて、楽しそうに笑ってる。
あの時、明らかに首謀者であった彼らは、あのぽつんと空いた席を見て何を思っているのだろうか。
彼らもまた、僕と同じ胸の痛みを感じるのだろうか。
ならば聞きたい、この痛みの正体が一体何であるのかを。
大人たちに引き離されても、僕らは今でも、いつものメンバー、イツメンという、固い絆で結ばれた仲だ。
一度、軽いノリで聞いてみるのもアリかもしれない。
なーんて。バカだな僕は。
そんなノリ、彼らがもっとも嫌うところだったじゃないか。
忘れてた、暫くつるんでなかったから。
「おい、何ひとりで笑ってんの?気持ち悪《わり》いよ」
ふと見ると、サトシが妙な顔つきで僕を見ている。
「何でもない。いこっ」
僕は最後の一欠片を口に放り込むと、サトシより先に、食器を持って駆け出した。
「先に行ったほうが先制」
「あ、こら。せっかく待っててやったのに!」
サトシが慌てて僕の後を追ってきた。
そうさ。
その気持ちを誰かに話して、分け合ったところで、その質量は決して軽くなるわけじゃない。
きっとそれは、みんな知ってても言わずに、胸の中に秘めてる気持ちだ。
大人も子供も、父さんも母さんも、先生も友達もみんな。
その痛みに、いつしか折り合いをつける術を覚えて、僕は僕の周りにいる、自己防衛に長けた大人になっていくんだろう。
《おわり》
続きを読む
秋晴れの十月、小説家の兄が死にました。
僕が兄のアパートへ一ヶ月ぶりに顔を出しますと、兄は敷布団の上で腐り散っておりました。
黒ずんだ手にはボールペンが握られ、近くにあった低い机には「明日目が覚めたら続きを書く」というメモ書きが残っていました。
きっと、死ぬ寸前まで小説を書く気だったのでしょう。アマチュアよりも未熟で、本も自分が遊ぶ程度にしか作ったことがないくせに。
それから慌ただしく葬儀やアパートの整理が行われ、気づけば僕の手には兄の残したメモ書きと手帳だけが残りました。
僕は、貧乏を極めながら自由にこの世を遊んで暮らす兄が憎かったです。けれど、兄が文章を書き続けられなかったことの方が、もっと憎いです。
僕は、悔しかった。兄がもう文章を書けないことが。悔しい、悔しい、悔しい。僕は初めて、兄のために泣きました。
それから、僕は兄の代わりに文章を書き始めました。兄が、明日目が覚めたら書きたかった続きを、勝手に書き始めました。
それは償いでも、何でもありません。僕が文章を書くのは、何も言わずに遠くへ行った貴い兄への復讐なのです。
続きを読む
操作キャラがアバター形式のゲームをプレイするとき、付ける名前はまちまちだ。自分の名前は当然付けない。SNSのアカウント名で統一したりもしない。はまっている漫画のキャラの名前だったり、単に思いついただけの名前だったり、要は自分の分身に対してこだわりがないのだ。
その一方で、どのゲームにまたがっても、私が絶対に変えないものが一つある。
今やオンラインRPGでは、オープンワールドが当たり前。エリアで区切った方がサーバの管理がしやすいだろうに、みんなが地続きの世界を求めるものだから、メーカ側は需要に応えざるを得なくなっている。
どれだけの規模を考えているのだろうな、と荒野の真ん中をぬるぬる動く我が分身の後姿を眺めて思う。それなりのゲーミングPCを使っていることを横に置いても評価できる処理速度。現実と錯覚しそうなほど滑らかな動きがデータ容量の余裕を伝える。一応世界的シリーズの最新作なんだけど。
知らない開発費用に目がくらみ、企業努力に脱帽する。高い金を払った甲斐があった。昔はまだポリゴンが粗くて、動きも硬かった。2Pコントローラーが動かす男の子の魔法発動のタイムラグに、よくイライラさせられてたような。
相棒のジャッカルも、変にデフォルメされておらず可愛いし。
プレイヤー数も多いので、フレンドもすぐにできた。中には、なじみの顔もいるわけだけど。
待ち合わせの場所は、決まって酒場だ。西部劇に出てきそうな雰囲気なのは、今回の世界観のコンセプトによるものなのか、それとも開発者の誰かの趣味か。ともあれ、そんなところで円卓について、ジョッキを頼む。画だけでは寂しいので、リアルでは缶酎ハイ。ジャッカルを侍らせたいぶし銀のおじさんと赤が眩しいセクシー女戦士が一緒に呑んでいる様子は、なんだかトンチキな映画を観ているようだった。
「リリさんは、今回は赤毛のナイスバディさんですね。クールなレディが好みだと思ってたんだけど、違ったなぁ」
画面右下のチャット欄に打ち込む。最近のゲームのUIは文字が小さめなので、ちょっとキツい。でも、ボイスチャットにする勇気はまだなかった。別のアプリを立ち上げないといけないのも面倒だし。
それに、良い面もある。声による影響がないので、ネカマができる。男にでも女にでもなり放題だ。
「可愛けりゃ陰キャでも陽キャにも、セクシーにもスレンダーにもなりますよぉ。てか、コタローさんって実はけっこうなオジ? ナイスバディって死語でしょ」
「ネトゲで実年齢聞くなんて野暮ですよ。だいたいリリさんだって、その死語知ってんじゃないですか。あと、僕ここでは『ワルサー』なんでよろです」
名乗るたびに脳内に流れる渋い歌声。最近初代アニメにはまっていた。
「前の名前とかすりもせんね。顎髭なんかつけちゃってさ、普通もみあげでしょ、そこは。ネトゲ仲間に知られたくないわけでもなかろーに」
微妙に脱線している会話は、ご愛敬。くだらない会話をできるくらいの関係が、一番居心地が良いのだ。
「リリさんはずっとリリさんですね」
「ゲームアカはみんな統一。だって、他のところで会ってもみんなに分かってもらえるし。何処で誰だったか、自分でもわからなくなりそうだしね」
「意外に覚えているもんスよ」
「そーなのー? 記憶力ヤバー」
タイプの直後、拡げた掌で口元を隠すエモート。今回のリリさんは、ギャル仕様か。しかし、そんなエモートを備えた運営も、それを使いこなしているリリさんもなかなかヤバい。
「でもワルちゃん、ジョブとかクラスとかは、いっつも同じ。相棒がいるやつ」
相棒というのは、このゲームでは私の足元にいるジャッカルのことで。〈獣使い〉、〈魔物使い〉、〈召喚士〉――そういう何か生き物(?)を使う職業やスキルで遊ぶのが、私のプレイスタイルだった。
「そういうの選んで来てますからね」
「相棒の名前も、いっつも同じ。リクくん」
黙り込む。チャットでも、リアルでも。結露したアルミ缶がなんだか妙に滑る気がして、キーボードから離れたところにそっと置いた。
「なんかこだわりがあるの? ペットの名前とか?」
「そんなところです」
「へえ、犬? 猫?」
「いや、鶏で」
ふわー、と気が遠くなっているような表情のリリさんのエモート。演技が細かい。
「はじめて飼った子だったのに……喰われちゃったんですよ、狼に」
「ん? 狼?」
「夜に放牧してたばっかりに」
「牧場ゲームの話かーい! 洒落た名前つけてるな、鶏に」
初期費用ゼロからスタートの〝ほのぼの|生活《ライフ》〟ではじめて購入した家畜に、思い入れがないはずがない。
「ちな、御三家もいつもその名前です」
「こだわってんなー」
「何処に行っても、リクとは一緒です」
「愛だね」
別にそうではないんだけどな、と思いながら、打つ。
「愛です」
チャット欄はしばらく動かなかった。冗談にしてもちょっと重すぎたかな、と後悔する。
彼女は、ただのデータに対する私のこのこだわりを、いったいどう受け止めただろうか。
馬鹿馬鹿しい、ときっと一番思っているのは私自身で。それなのにやめられないこれを。
「お、ギルドに呼ばれた。じゃあ、私は行くけど」
席を立つ女剣士に向けて、いぶし銀なおっさんに手を振らせる。
「僕は今日ソロなんで」
「んじゃあ、リクくんとのデート、楽しんで」
「別に、愛なんかじゃないんだけどねー……妹だし」
もう一人だし、酒場を出て探索フィールドに出てしまってもいるが、二本目の缶チューハイを開ける。ゲームもしたいが、酔いたい気分だった。正確には、現実逃避に浸りたい気分、か。
『リク』の話をしてしまったから。
リリさんにはペットの話とか言ってごまかしたけれど、本当は違う。『リク』は妹がゲームで使っていた名前だった。
私たちが子どもの頃は、まだゲームのキャラクターは男ばかりで、だから名前も男の子寄りのを使っていた。妹は名前にこだわりがあって、いつも『リク』。だから、私はいつも『リク』と冒険をしていた。
二十年も前の話。本当は、両親が不仲で離婚して生き別れになったときに、とっくに終わってしまった話なのだ。
インターネットは発達していなくても、携帯電話はあった時代だ。ゲームなんてなくても交流くらいはできたかもしれないが、新生活やちょうど行き当たった高校受験やらで慌ただしくなって、そのまま疎遠。今ではもう、他人と変わらない。
それを後悔とかしているというわけではない。
家族愛なんてものでもない。
現れた敵キャラクター。ゲームでお馴染みゴブリンのテンガロンハットが可愛い。けれど隣のリクは、そんなものに構わず飛び掛っていく。ボタン入力と実行までのタイムラグなんて、今はほとんど気にしない。
妹が他人となった今も、この地続きな仮想世界を〝妹の代わり〟と一緒に走っている。
それは、陽炎のように私の頭の隅に残っている、妹と一緒にゲームしていたあの瞬間を、今もまだ惜しんでいるだけなのだ。
「なんかなーちょっとこそばゆいよね」
ギルドメンバーの招集を受けて合流。とはいえ、全員集まるまでまだ時間があるようで、操作を止めてぼーっとしていると、ふと先ほどの〝ワルくん〟との会話が思い出された。
リリは、今でこそ『リリ』と名乗っているが、昔は『リク』だったのだ。
ゲームアバターに女の子が採用されるのが一般的になったので、男の子らしい名前から乗り換えた。女の子で『リク』でも良かったが、やっぱり女の子らしい名前にしたかったので、『リリ』にしたのだ。
それを後悔とかしているというわけではない。
ただ、その名前を見かけると、つい自分に当て嵌めてしまって、こそばゆい気分になってしまうのだ。
「リクなんて、よくある名前だけどさ」
今となっては現実でも、男女問わずよく見かける名前だ。それをゲームキャラに使う人だって多い。リリも何人か見かけたことがある。
だけど、〝ワルくん〟は。こだわりどころか執着さえ感じさせるほどに、相棒に同じ名前を付ける友人については。
「自分が大事にされてるみたいで……ちょっと照れる」
続きを読む
最寄り駅近くの商店街の中には、私が足しげく通うドーナツ店がある。その店はこぢんまりとした佇まいの小さな個人店なのだが、売っているドーナツは味はもちろんのこと個性豊かなものが多く、都会の一等地にでも進出すればたちまち人気店になれるのではないだろうかと思えるほどであった。私は今日もそんなお気に入りの店に足を運んでいた。
「いらっしゃいませー。あ、こんにちは!」
お店に足を踏み入れると、いつも応対してくれる女性店員さんが挨拶をしてくれる。私がよく行く時間帯のシフトに入っているのだろう。お互いもう顔なじみである。そんな彼女が今日は話しかけてきた。
「お客さま、今日は新商品があるんですよ!」
それを聞いてショーケースに目をやると、ど真ん中に今まで見たことのない、きらきらかがやくカラフルなドーナツが並んでいた。私は思わず見惚れてしまう。
「どうですか? ギャラクシードーナツって言うんですけど。あれ? お客さま?」
「めちゃくちゃ……いいですね! これといつものコーヒーをセットでください!」
「あ、はい! ありがとうございます!」
彼女は私の様子に少しおどろきながらも、注文を受けて笑顔で商品を渡してくれた。新商品、ギャラクシードーナツを目の前に私もにこにこである。そのままイートインスペースのいつも利用している席に座ったとき、小さい子供を連れた女性が来店をした。
「あ、このドーナツ、きらきら!」
「ほんとだね、きらきらできれいだね」
その親子連れもギャラクシードーナツに目がいったようで、特に子供は夢中になっているようだった。
「ギャラクシードーナツっていうんですよ!」
すかさず店員の彼女がふたりに商品名を伝える。ただそれを聞いて、子供はキョトンとしてしまった。
「……ギャラクシーってなあに?」
私を含めその場にいた大人全員が「あー」となる。その中で真っ先に母親が子供に説明をはじめた。
「ギャラクシーは銀河って意味なんだよ。それで、銀河は宇宙の中にたくさんあるものなの。わかるかな?」
「うん! わかった! だからきらきら!」
場が和やかになる。そしてさらに子供の言葉は続く。
「このお店、宇宙なんだ!」
一瞬静まり返ってから聞こえる笑い声。私はそれを片耳に、にやにやしながら穴の開いた銀河を頬張った。
続きを読む
放課後、生活指導でこっぴどく叱られ、凹んだまま教室に戻ったときのことです。いつもと変わらないなんてことないはずの教室から美しい歌声が聞こえてきました。私は思わずドアを開けるのを躊躇してしまいます。でも荷物一式を教室に置き去りにしたままだったので、意を決してドアを開けました。すると教室にはクラスメイトの一部からカラスと揶揄されている君がいました。艶やかできれいな黒髪の君は目が切れ長で視線も鋭く、どことなく話しかけづらい雰囲気をまとっています。君はドアの開く音に気づき、視線を私へと向けました。私は思わず固まってしまい、その数秒間はメトロノームの音だけが響いていました。
「どうしたの?」
君は不思議そうな顔をして私に質問を投げかけます。その雰囲気はどことなく普段とは違いました。
「生活指導で呼び出されちゃって……」
「あらら。でもなんで入り口で突っ立ってるの?」
「あ、いや、その」
今思うとそのときの私は明らかに不審者でした。
「き、きれいな歌声が聞こえてきて……その、えっと」
そこまで言って口ごもると君は笑みをみせます。
「ありがとう。私ね、音楽部に入ってるんだけど知らないよね、クラスで話したことないもん」
どうしてクラスで話さないんだろう? と頭に疑問を浮かべると、君はその答えを話し続けました。
「クラスには私のことをカラスって裏で言ってる人たちがいるでしょ? なんかそういう人たちに知られたくないんだよね。バカにされそうだし」
君の表情が少し翳ってしまった気がします。それがなんだか悔しくて私は思ったことを言い放ちます。
「この歌声をバカにするなんてアホだから気にしない気にしない。そんなのアホウドリだよアホウドリ」
すると君は笑いをこらえながら、身体を震わせます。
「それ、いい! 私のことカラス呼ばわりするようなやつはアホだからアホウドリ。おもしろっ」
前から仲良くなりたかった君のはしゃぐ姿を見て、打ち解けられたのだろうと私はうれしく思えました。
その日は一緒の帰り道、私は君に問いかけます。
「私が鳥だったらなにになる?」
「フクロウかな、指導されるほど授業中寝てるから」
「もう、その話はやめてってー」
そう言い合う君と私には笑顔が溢れていました。
続きを読む
朝七時ニ十一分の小波橋行きバスは、いつも右側の二人掛けが空いている。千夏は三年前から、そこに座る。
座ったらイヤホンをつけて、スマホを見る。橋を渡るころにはニュースを読み終え、会社まであと五分。毎朝だいたい同じだった。
その朝は、前を走る車がパンクして、バスが橋の手前で止まった。
「申し訳ありません、少々お待ちください」
バスの運転手が車内放送でそう言うと、スマホを出しかけて、やめた。電池が残り十五パーセントだった。仕方なく窓の外を見る。
小波橋の欄干に、鉢が並んでいた。赤いのと、白いの。小さな花。
こんなもの、あっただろうか。いや、あったのだ。三年、毎日渡っている。先週は紫だった気がする。その前は、黄色。「気がする」というだけで、ちゃんと見た覚えはない。
橋のたもとで、エプロンをした女の人がしゃがんでいた。ペットボトルの水を、鉢に一つずつ注いでいる。ゆっくり、順番に。終わると立ち上がって、腰を二度叩いた。
誰かが替えている。誰かが、水をやっている。
そういえば、雨の日も風の強い日も、あの鉢は同じ場所にあった。倒れているのを見たことがない。花が枯れていた記憶もなかった。
バスが動き出し、女の人はすぐに見えなくなった。
会社に着いて、パソコンが立ち上がるのを待つあいだ、給湯室の観葉植物のことを思い出した。いつも葉がつやつやしている。あれは誰が拭いているんだろう。聞いたことがなかった。
昼休み、給湯室で、総務の年配の女性が霧吹きを持っていた。
「それ、いつもやってくださってるんですか」
「あら、気づいた? 毎週月曜にね。誰も言わないから、好きでやってるだけ」
「……ありがとうございます」
「なによ、急に」
千夏にも、どうして急に言ったのか分からなかった。でも、言えてよかった、と思った。
帰りのバスで橋を渡るとき、窓に額を近づけた。夕方の白い花は、少し閉じかけていた。
明日は、何色が咲いているか見てみよう。
続きを読む
目が覚めた。…まだ薄暗い。
こういう早く目が覚めた朝は、カーテンを開けるよりも先にやる事がある。
体が、温かいものを欲しているんだ。
まずはお湯だ。ケトルに火をかける。
沸騰し過ぎてもいけない。100度にならないぐらいを感覚で探るんだ。
ガラガラ…グラグラッ
「ここだ」
火を止め、ポットに湯を回して温め、捨てる。
このひと手間が、後で香りの立ち方を大きく分ける。
缶の蓋を開ける。ふわりと鼻をくすぐる香り。
今年の春摘みダージリンだ。朝はフレーバーティーよりもピュアティーがいい。
スプーンに二杯。
手軽なティーバッグも悪くないが、紅茶の力を全部引き出すなら、やっぱりリーフに限る。
沸騰したての湯を一気に注ぎ込む。
茶葉が舞い上がり、そしてゆっくり沈む。
そして、また浮かび上がる。
ジャンピングだ。
沸かしたてで空気をたっぷり含んだお湯を使った証。
よし、冷めないうちに蓋をして、ティーコジーを被せる。
ここから4分ほど。じっと待つ。
立ちのぼってきた。
いい匂いだ。フレッシュでどこか甘くて、繊細な花のような香り。
立ち上がる蒸気に部屋の中がふわっとこの上品な香りで満たされてゆく。
いっそ窓を開けて、まだ眠っているこの街じゅうに配って歩きたいくらいだ。
五分経った。
コジーを外す。茶漉しを用意。
今日の相棒は、深い瑠璃色の縁取りに花柄に蝶が舞うカップ&ソーサー。
金の装飾がまた美しい。
ポットを傾ける
おお…澄んだ黄金色だ。カーテンの隙間から刺す光にキラキラと輝いている。
慎重に口に運ぶ。
「…おいしい」
果物みたいな華やかな香りが、口いっぱいにふっと広がる。
そのあとを追ってくる、かすかな渋み。そして、さっぱりとした太いコク。
熱い液体が喉を通り、身体にじんわりと染み渡っていく。
深い満足感と高揚が街まで行き渡っていくようだ。
こういう朝の贅沢が、体に一番効くんだ。
続きを読む
おじいちゃんがつかっていた金庫を開けたら、入っていたのは古時計だった。確かに昔は時計は貴重だったかもしれないけれど 今となってはどこにでもあるものだしなと僕は思った。でも、もしかしたらアンティークとして価値があるかもしれないし……
そう思って骨董屋に持ち込んだけれど、このタイプのものはよくあるらしくあまり値段がつかないらしい。
そもそもねじ巻き式の時計なんてかなり手間がかかる。
売ってもお金にならないから家に持って帰って、ネジを巻いた。
チクタクと動き出す時計の針。……まだこの時計動くんだ。
僕はちょっとだけ愛おしくなった。
そんなわけでまだ家で現役だ。
続きを読む
雨の多い町だ。北陸の古い城下町、雨宮では、傘を使い捨てにしない。
石畳の路地には格子戸の町家が並び、軒先の雨樋から細い水が落ちる。川沿いの木橋を渡れば、祖母から継いだ私の傘直し屋がある。
その朝、川向こうの乾物屋の孫が、黄色い傘を抱えてやってきた。
「おじいちゃんの傘、直る?」
「どうしたの、それ。おじいちゃんの大事な傘でしょう」
「転んじゃった。しかられるかな」
骨が二本折れ、布の端がほつれている。継ぎ目には祖母特有の細かな縫い目が残っていた。
「大丈夫。お昼においで」
骨を替え、古い布に合う端切れを探す。祖母の針箱の底から、同じ黄色の布が出てきた。
昼過ぎ、雨が降り始めた頃、男の子がおじいさんを連れて戻ってきた。
「おお、直ったか。世話をかけたね」
老人は傘を開き、ゆっくり回した。
「この色は先代が選んでくれてな。孫が小さい頃、雨の中でも見つけやすいようにと」
私は傘の継ぎ目を指でなぞった。祖母の縫い目に、自分の縫い目が並んでいる。
「お代は?」
「端切れの分だけ、いただきます」
老人は笑い、男の子を傘の下へ招き入れた。
二人は一本の傘で木橋を渡っていく。川面には柳が揺れ、雨に濡れた格子戸の向こうから、焼きたての煎餅の匂いが漂ってきた。
黄色い丸が、灰色の石畳をゆっくり遠ざかる。
軒先で雨宿りする旅人に、私は声をかけた。
「よかったら、中で雨宿りしていきませんか」
祖母もよく、そう言っていた。
今日の雨は、悪くない。
続きを読む
妻が死んで1年が経った。
法事に来ていた娘たち夫婦は昨日帰ったばかりだ。
妻の墓に今日も線香を供える。
娘夫婦は同居しようと勧めてくれるが、妻と共に過ごしたこの地を離れる気にはなれず断っている。
一人暮らしにはずいぶん慣れてきたと思うが、静かになった家にいればやはり思い出されるのは妻のことばかりだ。
気晴らしの散歩。
だが向かう先はいつも同じで妻の墓だった。
気温はずいぶんと暖かくなってきて桜の花はすっかり散り、若葉の眩しい季節だ。
そういえば妻と出会ったのもこんな季節だったなと思い出す。
妻はほがらかな性格で小鳥を買うのが好きだった。
インコや文鳥といったありふれた鳥ばかりだが、それまで俺は鳥を買ったことなどなかったものだから意外と人懐っこいことに驚いたものだ。
野鳥の鳴く声があちらこちらから聞こえる。
そういえば家の近くでツバメが飛んでいたなということを思い出した。鳥たちも子育ての季節だ。
墓地の井戸のそばで鳥の声がする。
近くまで来ているのだろうそう思って顔を上げたら、水道のすぐそばにスズメのヒナが落ちていた。
チイチイと鳴きながら、こっちを見分ける。
ふと足を怪我していることに気がついた。
本来、野鳥のヒナというのは触ってはいけない。
近くに親鳥がいるだろうし、触ることで親鳥は寄り付かなくなるし、野鳥自身が病気を持っている可能性もある。
人間にとっても野鳥にとっても決して幸福なことにはならない。
だが俺は怪我したスズメの子供を放っておくことができなかった。
……これは緊急保護だ。
自分に言い聞かせてそのヒナを保護し、動物病院に連れて行った。
そうして先生の話のもと数日間ヒナを預かることになった。
怪我が治るまでの間だ。
チイチイという鳴き声を聞きながら、妻が病気だった時のやり取りを思い出していた。
亡くなる1年前、病院での話だ。
「21g何の重さだかわかる?」
「……なんだよ急に」
「魂の重さ21gなんだって。ちょうど小鳥1羽分ぐらいだね」
「……」
「私が死んだら小鳥になって会いに来るからね」
「バカなこと言うなよ」
俺はコーヒーを飲み干した。
そうだスズメのヒナに名前をつけようか。
別に名無しでも困らないと言えば困らないのだが、こうして俺のところに縁があってやってきたわけだから……
しばらく考えてから、チイという名前をつけた。
それはチイチイと鳴くからというのもあるが、独身時代に妻のことを『ちぃちゃん』と呼んでいたからだ。
妻の名前は千春という。
あまりにもバカバカしい考え かもしれないが彼女がこのスズメの子を俺のところによこしてくれた様な気がした。
彼女の魂がスズメになって会いに来たとは思わないが……
チイは日に日に元気になっていった。
初めは入れた餌をちゃんと食べてくれるか心配したものだが全くの杞憂で、もりもり餌を食べおまけにひどく人なつっこい性格らしく、俺の手や肩に乗ってくる。
怪我もずいぶん良くなったらしい。
あちらこちら跳ねながら飛び回っている。
放し飼い状態だからそのうち自然と出て行くのだろうと思う。
穏やかな日差しの中で緑はほんの少しずつ濃くなってゆく。
俺はチイを肩に乗せて妻の墓参りに行った。
いつものように散歩がてら。
チイは初めて会った墓地の水道のあたりで飛び空へ舞い上がっていった。
それは短い間共に過ごしたチイとの別れだった。
青空の下で、妻の笑っている顔がふと思い出された。
続きを読む