その他
4433文字 約9分で読了

潮が引くのを待つあいだ

 その町は、一日のうち数時間だけ、海と地続きになる。  かつては炭鉱で栄えたというが、今は錆びついた鉄骨の残骸と、潮風に削られて角の丸くなったコンクリートの塊が散らばるだけの、ただの行き止まりの土地だった。  若い人々はとうに移住し、残されたのは、自分がいつからここにいるのかさえ忘れてしまったような老人たちと、いくつかの空き家、そして数軒の潰れかけた店だけである。  シンジがその町にやってきたのは、十月の初め、よく晴れた、しかしどこか冷え冷えとした日の午後だった。  駅とは名ばかりの、一本のレールと古びた上屋があるだけの停留所で降りたのは、シンジ一人だった。  彼の手には、小さな古いアタッシュケースが一つだけ握られていた。  中身は空だった。重さを持たない鞄は、風が吹くたびにシンジの膝を軽く叩いた。  シンジは宛てもなく歩き、やがて波打ち際に面した「水底亭」という看板のある、小さな食堂兼民宿のような建物の暖簾をくぐった。  店内には、潮の匂いと、大根を醤油で煮詰めたような、低く沈んだ匂いが充満していた。奥の帳場に、白髪をきっちりと三つ編みに結った老女が座っていた。彼女はシンジを見ると、驚く風でもなく、ただ小さく頷いた。 「泊まりかね」 「ええ。何日になるかは、まだ分かりませんが」 「いいよ。どうせ部屋はいくらでも空いている。ただね、ここは夜になると電気が消えるよ。町全体の発電機が、もうだいぶ弱っているからね」  老女は「キヨ」と名乗った。彼女が案内してくれた二階の部屋は、窓を開けるとすぐ下に海が迫っていた。満潮に近いのか、波頭が不規則に崩れる音が、床板を通じて足の裏にまで伝わってくるようだった。  シンジが部屋の唯一の家具である文机の前に座ると、キヨは言った。 「何か、書きに来たのかい」 「いいえ。何も」  シンジは答えた。 「むしろ、なくしに来たんです」  キヨはそれ以上何も聞かず、襖を閉めて去っていった。  シンジがここに来た理由は、極めて曖昧だった。東京での生活は、まるで目の粗い紙で皮膚をこすられ続けるような、微小で持続的な痛みに満ちていた。  何が原因というわけではなかった。仕事も、恋人も、友人関係も、すべてが少しずつ、しかし決定的に「どうでもいいこと」に変質してしまっていた。  ある朝、目覚めると、自分の名前の発音が思い出せなくなった。喉の奥でつっかえるその奇妙な音節に耐えかねて、彼は適当な列車に乗り、レールの終着点を目指した。それがこの町だった。  夕方、シンジは海岸へ降りた。  潮は引き始めていた。水が退いていくにつれて、灰色の砂の下から、無数の黒い物体が姿を現した。  それは、かつて人間が使っていた道具の残骸だった。ねじ曲がったスプーン、ガラスの割れた腕時計、あるいは何の機械か分からない歯車。  それらはすべて、海洋生物の死骸やフジツボに覆われ、もはや元の役目を完全に喪失していた。  砂浜の端に、一人の男が立っていた。男はしゃがみ込み、引き抜かれたばかりの海草のように濡れた衣服を身にまとって、砂を掘り返していた。 「何か探しているんですか」  シンジが声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。年齢はシンジと同じくらいに見えたが、その瞳には陽光を全く反射しない、深い濁りがあった。 「探しているんじゃない」  男は掠れた声で言った。 「埋めているんだよ」 「何を?」 「言葉さ」  男は、手のひらに載せた小さな石ころをシンジに見せた。それはただの石ではなく、表面に鋭利な刃物で『昨日』と刻まれていた。 「ここに埋めるとね、次の満潮のときに、海が綺麗に洗っていってくれるんだ。そうすると、頭の中が少しだけ軽くなる」  男はそう言うと、手際よく砂に深い穴を掘り、その石を落として丁寧に砂を被せた。そして、自分の名前は「オサム」だと名乗った。 「君も、何か埋めたいものがあるんだろう。だからこんな、陸の壊死したような場所へ来た」  オサムの言葉は、非難するでもなく、同情するでもなく、ただ事実としてシンジの胸に落ちた。 「僕には、埋めるべき言葉さえ残っていない気がします」 「それはいいことだ」  オサムは立ち上がり、ズボンの砂を払った。 「本当に空っぽになれたなら、あとはここで潮が引くのを待つだけでいい」  その夜、キヨの予告通り、夜の九時を迎えると同時に、町全体の明かりが一斉に消えた。  部屋は完全な闇に包まれた。シンジはベッドに横たわり、目を開けたままでいた。  視覚が奪われると、聴覚が異常なほどに研ぎ澄まされた。窓の外で、波が寄せては返す。その音は、巨大な生き物が規則正しく呼吸しているようでもあり、あるいは、世界そのものがゆっくりと咀嚼されている音のようでもあった。  シンジは自分の胸に手を当てた。心臓は動いている。しかし、その鼓動が誰のためのものなのか、確信が持てなかった。  東京に残してきたアパートの鍵、引き出しの中の未払いの請求書、スマートフォンの画面に並ぶ、もう二度と返信することのない名前たち。  それらが、遠い宇宙の出来事のように思えた。  二日目も、三日目も、シンジはただ砂浜を歩いた。  町には時計がなかった。あるのは、潮の満ち引きという、もっと大きな、そして容赦のない時間の区切りだけだった。  オサムは毎日、同じ場所に現れた。彼は日ごとに異なる石を埋めていた。『約束』、『記憶』、『未来』。  彼が埋める言葉は、どれも一般的なものばかりだったが、オサムにとっては命の一部を削り取るような作業であるらしく、石を埋めるたびに、彼の身体は目に見えて薄くなっていくように思えた。 「すべてを埋め尽くしたら、どうするんですか」  ある午後、シンジは尋ねた。  オサムは、遠くの水平線を眺めながら答えた。 「海の向こうに、もう一つの町があるらしい。そこには、言葉を持たない人たちだけが住んでいて、誰も誰かを傷つけないし、誰かを思い出すこともない。潮が完全に引ききった一瞬だけ、そこへ続く道が現れるんだ」 「それは、おとぎ話でしょう」 「かもしれない。でも、信じるほかに、この波の音に耐える方法がないんだよ」  その日の夕方、シンジはキヨの食堂で、干からびた魚の塩焼きを食べた。キヨは古いラジオから流れる、雑音混じりのクラシック音楽に耳を傾けていた。 「キヨさん」  シンジは箸を置いた。 「オサムさんという人に会いました」  キヨはラジオの音量を少し下げ、シンジを見た。その目は、すべてを知り尽くしているかのように静かだった。 「ああ、あの哀れな子ね」 「彼は、海の向こうの町へ行くと言っていました」 「あの海にはね、何も一方向のものなんてないんだよ」  キヨは静かに言った。 「寄せては返す。それだけさ。あの海に何かを捨てたつもりになっても、それはいつか、形を変えて必ず砂浜に打ち上げられる。あの男の子が埋めているのは、自分がかつて海に捨てて、再び戻ってきたものたちさ。彼は同じことを、もう何年も繰り返している」  シンジは息を呑んだ。 「じゃあ、消えることはできないんですか」 「消える、とはどういうことかね」  キヨはシンジの空のアタッシュケースに目をやった。 「器を空にしても、空気は残る。人間はね、自分が生きてしまったという事実からは、どうやっても逃げられないんだよ。どれだけ遠くへ逃げたつもりでも、足元には常に、自分の影がへばりついているだろう」  その夜、シンジは激しい嵐の音で目を覚ました。  窓ガラスがガタガタと鳴り、激しい雨が容赦なく叩きつけていた。満潮の時刻のようだった。  海は狂ったように咆哮し、まるですぐ下の道路を飲み込もうとしているかのようだった。  シンジはたまらなくなって、部屋を飛び出した。階段を駆け下り、宿の玄関を出ると、容赦のない雨と潮風が身体を叩いた。  彼は導かれるように砂浜へ向かった。  暗黒の海が、白い泡を立てて迫っていた。その波打ち際に、人影があった。オサムだった。  オサムは、濁流のような波の中に膝まで浸かりながら、必死に地面を掘ろうとしていた。しかし、押し寄せる波が瞬時に砂をさらい、穴を作ることを許さない。 「オサムさん!」  シンジは叫んだが、声は風にかき消された。  オサムは振り返った。その顔は、涙か雨か分からない水滴で濡れそぼっていた。  彼の両手には、大きな、何の文字も刻まれていない真っ黒な岩が握られていた。 「重すぎるんだ!」  オサムが叫んだ。 「これが最後の言葉なのに、重すぎて砂に埋まらないんだ!」 「それは何なんです!」 「僕の名前だ!」  オサムは叫び、その岩を海へ投げ込もうとした。しかし、押し寄せた巨大な高波が、オサムの身体を激しく打ち据えた。オサムの身体は力なく後ろへ倒れ、波の渦の中に巻き込まれていった。 「オサムさん!」  シンジは海へ飛び込もうとした。しかし、その瞬間、彼の脳裏にキヨの言葉が蘇った。 『人間はね、自分が生きてしまったという事実からは、どうやっても逃げられないんだよ』  シンジの足が止まった。波が引き、オサムの姿はどこにもなくなっていた。ただ、彼が持っていたはずの真っ黒な岩だけが、波打ち際にぽつんと残され、引き波に洗われていた。  シンジはよろよろと近づき、その岩を拾い上げた。それは、驚くほど軽かった。まるで軽石のように、中身がすべて空洞であるかのように。  岩の表面には、何も書かれていなかった。しかし、シンジには分かった。それは、オサムのものであり、同時に自分のものでもある、形を失った「生」の質量そのものだった。  翌朝、嵐は嘘のように去り、世界には残酷なほどの青空が広がっていた。  潮は、今までにないほど深く引いていた。普段は見ることのできない、沖合の海底の泥や、貝殻の群生が、天日の下にさらされていた。  オサムの言っていた「もう一つの町へ続く道」は、どこにもなかった。あるのは、ただ乾燥していく、広大な、湿った砂の平原だけだった。  シンジはアタッシュケースを持って、水底亭を出た。キヨは帳場に座ったまま、何も言わずに彼を見送った。ただ、彼の手にあるケースが、昨日までとは違って、かすかに重みを持っていることに気づいているようだった。  シンジは駅へ向かう道すがら、もう一度海岸を見下ろした。  遠くの波打ち際で、小さな光の粒が跳ねていた。それは、海が返し続ける、無数の人間たちの記憶の破片のようだった。  シンジはポケットから、小さな石を取り出した。昨夜、オサムの岩のそばで見つけた、小さな、滑らかな石だ。彼はそれに、宿の文机にあったペンで、自分の本当の名前を書きつけていた。  彼はその石を、砂浜に向けて投げたわけではなかった。ただ、そっとポケットの奥深くへ戻した。  消えることはできない。捨てることもできない。  ならば、この重さを抱えたまま、もう一度、あの目の粗い紙のような世界へ戻るしかない。  停留所に、一両きりの列車が近づいてくる音が聞こえた。  レールの軋む音が、潮騒の中に静かに溶けていった。シンジはケースをしっかりと握り直し、ホームへの階段を上り始めた。  潮は、またすぐに満ちてくるはずだった。
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作者:河内謙吾
2026/10/13 • 👁 37回 • 💬 0件
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620文字 約2分で読了

独りでも大丈夫

まだ人混みに内臓をかき乱されるけど。 まだ理由のない涙が止まらない時があるけど。 私はもう独りでも大丈夫。 人と上手く話せない。人が当たり前にできることができない。 こんなこと言ったら怒られるだろうけど、もっと社会で生きていくのが中途半端じゃなく下手だったら、早く気付けたのにね。 社会の輪から外れてしばらく。 大切なはずのあなたの言葉すら、怖くて。 本当に大切なのかすら分からなくなって、私は都合良くお布団の中に逃げてしまった。 「ちょっと散歩しない?」 「こういう施設があるらしいよ」 しっかり言葉とタイミングを選んでくれたはずのあなたの優しさを 「うるさい!もう放っておいて!!」と突っぱねて、何度も口論してしまった。 あの時、もう少し自分以外の人の痛みを想像できれば。 自分の「特性」とやらを言い訳にすれば、何してもいいなんて勘違いしなければ。 あなただって、同じ。 悲しむ。怒る。 私と同じ一人の人間だって理解できていたはずなのに。 悔やむことは、燃えないゴミより溜まっている。 でもようやくなんだ。 今日も自分で洗濯をする。 今日も自分で料理をつくる。 私の生活は少しずつ再生していった。 そう、私はもうあなたがいなくても独りで生きていける。 独りでも……。 「ただいまー」 あなたの温かい声が今日も、夕暮れで赤く染まった部屋にこだまする。 私はいつもの拙い笑顔で玄関に向かう。 「おかえりなさい!」 ねえ、独りでも大丈夫だからこそ、あなたとまだ。 ううん、また生きたいって思えたんだ。
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2026/10/13 • 👁 32回 • 💬 0件
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734文字 約2分で読了

オレンジ色のリムライト

美大の合格発表。 あなたの番号はあって、私はなかった。 ―― 「ねえ、りんちゃん、またお絵かきしよ!」 幼馴染でずっと一緒に遊んだ。 「ねえ、今度このコンテスト一緒に出そうよ!」 正直、最初はそこまで絵が好きだったわけじゃなかったと思う。 「え!高校一緒なの?また一緒に描けるね!」 金魚のフンと言われても仕方ないと思う。 「ここの美大、目指そうと思うんだ」 でも――。 「……うん、私も一緒のところだよ。」 美大予備校の順位で悔しくて、しゃがんで泣いているあなたを見た。 あんなに上手い人たちに負けて、本気で悔しがれるあなたを見た。 「全員が筆折るくらい、私の絵で魅させてやる」と殺気立つあなたを見た。 その怖いくらいの熱が、とっても眩しくて羨ましくて。 輪郭から漏れ出た光くらいしか見られなかったんだ。 白飛びした逆光から、わずかに見えるオレンジ色しか。 私はそのオレンジ色を、ずっと見ていたかった。 でも他人に引っ張られて、生きていけるほど甘い世界じゃない。 合格発表の日、ちっとも嬉しそうじゃないあなた。 私を真剣に見つめてくるあなた。 「来年は受かってね、下手くそ。じゃないともう眼中にないから」 あなたの言葉はキツくて、だからこそ奥底の期待が伝わった。 ―― 「うん、ごめん。もう一年挑戦させて。」 両親に無理を言う。今日から晴れて浪人生だ。 もうあのオレンジ色は、遠く向こうへ行ってしまった。 でもあの光と熱が残した「火花」ならある。 まだ光どころか、炎ですらない私の衝動を今日もキャンバスにぶつける。 「眼中にないなら無理やりにでも、振り向かせてやる。」 ついでに、あなたの語気もうつってしまった。 まあそれはいいか。 明日もきっと描ける。 あなたがいなくても、私はもう描ける。 あのリムライトをもう一度、傍で見たいから。
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2026/10/13 • 👁 64回 • 💬 0件
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3058文字 約7分で読了

浅瀬の魚と仔猫

 真冬の夜のアスファルトは、凍てつくような冷たさだったろう。街灯もまばらな真っ黒の道は、どれほど心細かったろう。朦朧とする意識の中で、車のライトは怪物に見えたかも知れない。 ――瀕死の仔猫。この時にはまだ、死んでいるように見えた。  側溝の脇にぺたりと倒れていた。一度は車を寄せて止めた父だが、弟が車を降りようとすると渋い顔をした。「やめておけ」そう言う父を無視してドアを開け、歩道へ飛び出た弟。  結局そう言うのなら、何故車を停めたのか私には理解出来なかった。父は矛盾したり、一貫性のない言動をする人だったから。普段はむかつく弟だけど、この時ばかりは少し勇敢に思えた。  父は終始、やれやれといった顔をしていて、私は何も言えずに黙っていた。  12月初旬の夜。学校から帰る車の中。たまたま、父親が学校まで迎えに来てくれた日だった。近くで仕事をしていたらしい。  だけど気分は浮かない。もうすぐクリスマスだというのに、サンタさんなんて居ないと気づいてしまった私の気分は、絵の具をすすいだ後の濁った水のようだった。  さっきまで丁度、文化祭の看板製作をしていたからか、そんなイメージが湧いた。日が落ちるまで毎日作業している間、普段からそんなことを考えていた。暗い夜の学校。体育館の外の蛇口から出る、冷たい水で筆をすすぐ。  そんな日々の帰路に、死にかけの猫なんて、やっぱり神様もいないんじゃないかと思えた。幼い頃から信じていたものが一つずつ無くなっていく感覚が、私の心に影を落とした。  ぽたり。ぽたり。暗い色の絵の具が雨粒のように、心の奥の真っさらなところへ降り注ぐ。  弟が、仔猫をふんわりと抱きかかえて戻ってきた。そのシルエットは、余りにも小さい。  車輪に轢かれたのか、ぶつかったのか……手足は動かずぐたりとしているけど、何故か外傷は無い。それが幸いと言えるのか、私には判断すらつかなかった。もしかすると内臓に損傷があるかも知れない。だとしたら、もうこの小さな命は、消えかけの灯火かも知れない。  瞼を半分だけ一生懸命に持ち上げて、「助けて」と口を開いたかに見えた。少なくとも私には、そう見えたのだった。  家に連れ帰って、まずペットボトルにお湯を入れた即席の湯たんぽを作る。  父も母も、特に何も言わなかった。親とはなんとなく距離があって、弟とはいつも支え合って生きているような感じがしていた。他の家がどうかなんて知らない。  二人で相談して、どうしたら良いかを考えた。中学一年生の私と、小学六年生の弟の知識では不十分に違いなかったけど、仔猫の苦痛を和らげる方法だけを一生懸命考えていた。  仔猫は温かい湯たんぽに、とりあえず一安心したようだった。目を細めて静かに丸まっていた。家でも成猫を飼っていたので、その子の餌を砕いて与えたけど食べなかった。この晩は、つきっきりで見ていた。  翌日、土曜日で学校が休みだったので、ペット用品を弟と買いに出掛けた。  弟と話し合って、動物病院へは連れていかないことにした。手持ちのお小遣いはほとんど無かったし、親に言っても無駄だと確信していたのもある。それに、今朝になったら仔猫はもぞもぞと動くようになっていた。  ミルクを飲ませてあげれば、きっと体力もつくはずだ。  粉雪がちらつくグレーの街並み。普段と変わらない街なのに、私の心は少しうきうきしていた。不謹慎だと思った。けれども、小さな猫をただ、可愛く思えた。元気になってくれたら、どんなに嬉しいことだろう。  弟は、この日はあまり話さなかった。  家に帰ってから仔猫用の粉ミルクを作り、哺乳瓶で与える。ごくごくと勢いよく飲む姿からは、生きたいという思いが伝わってくる。そしてその動作はとても、愛らしかった。  その翌朝、仔猫はまだ治っていない四肢を僅かながらも動かして、懸命に歩こうとしていた。どうやら元気と気力を取り戻したようだ。一日に何度か、ミルクを作って与える……子育てみたいだなぁと思った。  こんなふうに、父と母も私たちを育ててくれたのだろうか。赤ちゃん一人でミルクを飲めるはずは無いから、きっとそうなのだろう。どんな気持ちで育ててくれたのかは分からないけど、なんだか少し想像できて、勝手に嬉しい気持ちになった。  そういえば、中学生になってから、苦しい気持ちばかり多い気がしている。嬉しいことが、減っている。サンタさんのこともそうだけど、周囲の劇的な変化についていけない感覚だ。  例えば、仲の良かった男子に彼女が出来たり。遠慮したり、されたり……色々な人間関係を考えると、以前のように素直に行動してはいけないんだなと知った。  それから、私もよく知らない別のクラスの人に告白されたりもした。とても驚いてしまった。人からどう思われてるのかを考えると、何故だか気持ち悪いと思った。そんなふうに感じてしまうことにも、罪悪感を覚えた。  どうして皆、要領よく生きられるんだろう。ものすごい早さで変わっていく世界に、どうして普通の顔してついていけるんだろう。  海の底へはゆっくり沈まないと、身体が順応できないって聞いたことがある。今の私はまるで、いきなり深海に引きずり込まれた、浅瀬の魚みたい。  ほんとうは帰りたい。何も知らなくても許された場所へ。  猫は、喋らない。ふわふわの毛と、何か言いたげな眼差しで、私を見つめてくれるだけ。私はその眼差しを、都合よく解釈すればいいだけ。  学校から帰ってきて、ご飯とお風呂を急いで済ませて、仔猫と過ごした。とても静かな夜だった。  勝手に温かい気持ちになり、満たされた気分になれる。だから、可愛いって思うのかもしれない。  そして、何日か経った。  弟にミルクのお世話を任せた日の夕方、仔猫は死んだ。突然のことだった。ほんの少し、人間が目を離したその時に。  弟も私も泣いた。  父は、こうなることがわかっていたのだろうか。黙って、死骸になった仔猫を土に埋めた。  命の重さとか、考えてみたけど、ぐちゃぐちゃの思考では何も答えが見当たらなかった。それに、もう先に生きた人たちがずうっと昔から考えてきたことなんでしょ。そう思うと、私が今考えることに意味はあるのか、知ってなんになるのか、そんな思いも湧き上がってくる。  誰も教えてくれない。実感とともに湧き上がる想いは、自分で得ないと分からないんだろう。早く大人になってその答えを知りたいのに、世界のスピードは速いようでいて、こんな時だけはスローモーションのように感じられる。  冬の乾いた風が、頬を撫ぜる。それでも涙は乾かない。  あの日の冷たい路上で、誰にも気づかれること無く死ぬのと、ほんの少しだけ長く生きて、今日死ぬのと、どちらがこの子にとっては幸せだったのだろう。  もしかしたら、苦しくて痛くて、私を恨んでいたかも知れない。  あの時すぐに病院へ連れて行ってあげていれば、今も生きていたかも知れない。  この涙は、人間のエゴだ。分かっているにも拘わらず、私は泣いていた。泣き続けた。助けて良かったのだと、自分自身に言い聞かせるように。  数日後、弟と一緒に野花を摘んで、仔猫のお墓に供えてあげた。  お墓と呼んでいいのかも分からない、ほんの少しだけ盛られた土。  懸命に生きた小さな命は、もう分解され始めてるのかな、なんて考えてやめた。幻のように土に溶けていくんだ。  私だっていつかは死ぬ。仔猫とおなじように。  私は仔猫が幸せな場所へ帰れますようにと、祈った。  ふと、弟と視線があった。  瞳の奥の言いたい言葉が、分かる気がした。  もう泣かない。  いつかまた思い出すよ、私に寄り添ってくれた、君の毛並みを。
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作者:藍沢ふゆる
2026/10/12 • 👁 91回 • 💬 0件
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598文字 約2分で読了

諸行無常DAYS

 目の前で粉々に砕けてしまった硝子のスノードーム。 それは遠い日の大切な思い出の品だった。 あなたと出かけた思い出に、買って帰ったものだ。 自分の不注意にため息が出る。 あなたがいなくなっても、このスノードームの中でだけは永遠に あの日の雪が降っているように思えたのに。 あなたが存在したという証拠がまた一つ消えてしまった。  形があるものが壊れるのは仕方がないのかもしれない。 どうやったって人間は儚い。 永遠に残せるわけがない。そんなことは 十分承知しているはずなのに、また一つあなたの存在が消えてしまった。 私の記憶の中のあなたすらきっといつかは消えてしまうのだろう。 形のあるものはいずれその形を失い、消えてゆく。 この世界のサイクルがそうなっているのだから、それは仕方がないことなのだけど……  どういうわけだか私だけ、その世界から外れているらしい。 私自身がいつから存在しているのかは私ですら もうよくわからない。 千年前の記憶があるからきっと千年前から存在しているのだろうけど。  諸行無常の日々の中で、あなたという存在が失われてしまうのは辛くて仕方がない。いずれあなたは存在したということは 完全にこの世界から消えてしまうのだろう。 だが、あなたが存在したことを私は決して忘れたくない。  硝子の破片を集め、これをもう一度溶かして装飾品にすればあなたのことを思い出し続けることができるだろうか。 形を変えて、何度でもあなたのことを……
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作者:しとえ
2026/10/12 • 👁 54回 • 💬 0件
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348文字 約1分で読了

首領(ドン)パチ

「このゲームで対決しよう」  身なりの良い男が提案した。 「ああ、いいとも」  軍服の男が応える。  二人はそれぞれコントローラーを手にして、画面を注視する。  そのゲームは、国を選んで天下統一を目指す、戦略型シミュレーションゲームだった。  軍服の男は軍備を整えて強い軍隊を作り、武力を持って勢力を拡大していく。  身なりの良い男は、巧みな外交と経済支援で周辺国と同盟を組んだり、傘下に置いて勢力を拡大した。  そしてゲーム内の勢力図は、身なりの良い男の勢力と軍服の男の勢力に、二分された。  一進一退の攻防が続き、だんだん現実でも互いを罵倒するようになった。  やがて業を煮やした二人は、コントローラーを置いて、顔を突き合わせて言った。 「「埒があかねぇ! 現実で決着をつけてやる!」」  こうして二つの超大国は、戦争へと向かっていった。
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作者:開津文太
2026/10/11 • 👁 106回 • 💬 0件
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4123文字 約9分で読了

死んでもうるさい

真冬に熱々のエスプレッソが湯気を立てる。カウンターで受け取ったテイクアウトの客は、すぐに店を出ない。   「今日もいい匂いですね。私、ほんとコーヒー豆の匂いって好き。特にここのお店の匂いが…………好きです」    丸いほっぺが愛らしい女性客が言う。彼女は近くの総合病院のナースだ。夜勤の前、夜勤が終わったあと、昼休憩。いつもはにかんで店にくる。    店主の菅野幸人は、彼女とあまり目を合わせない。仕事道具やカップを磨きながら世間話に応答する。   「では、行ってきます。今日も美味しいエスプレッソで、きつい夜勤も乗り切れそうです」    明るく高い声で行って、客が出ていく。  幸人はほっとして、外に出てシャッターを閉めた。エスプレッソマシンのフィルターを外し、コーヒーかすを瓶の中に捨てる音が「カンッ」と誰もいない小さな珈琲店に響く。    カウンター座席のみ、飾りっ気のない灰色の壁にくすんだ麻袋を無造作にかけてある。  農園から直接、豆を輸入しているという証だ。  幸人なりに「こだわり」を示している。   「あんなにわかりやすく気がある人に、よく冷たい態度取れるよな」    声がした。  幸人はエスプレッソマシンを磨いていた手を止めて、ため息をついた。  当たり前のようにスーツ姿でモップをかけている男は、半透明だ。   「…………気がないのに、気があるフリする方が悪いだろう。接客でも」    幸人は答える。   「はぁ、もったいない。接客業だからこそ、だろう。付き合ってくれとか言われたら断ればいいじゃん。おまえルックスいいから、女性客に人気でそうなのに。この店の外観だって洒落っ気なくてもったいない。俺がせっかく可愛い『コマドリ』って名付けてやったのに」 「おまえは根っからの営業職だよなぁ。俺は無理に馴れ馴れしい接客はできない」   「そんなんじゃ売り上げあがんねーぞ。あのなあ、俺、死んでからずっとこの店にいて思うけど、もっとポテンシャルあるって、この店」   「ほんっとうるさいなあ…………死んでもうるさい奴だ」   「死んでも明るくていいだろう? こうやって店の掃除も手伝ってやって、コンサルもしてやってんだよ。死んでも働くねぇ、俺って」    目の前で笑っている顔が、あの安らかな死に顔を上書きする。 幼馴染の駒田賢介は、一ヶ月前、この店で死んだ。心筋梗塞だった。   「なぁ、そのコーヒーカス、なんで瓶に入れてんの?」    死んだ癖に声がでかい。   「コーヒーカスは色々使える。消臭剤、掃除、肥料とか。常連さんに肥料として分けたりしてる」   「へぇ、エコじゃん。やっぱマメだねぇ、さすが豆にこだわってる珈琲店主だわ」    幸人はグラインダーを黙々と掃除する。残った粉をブラシで払っている静かな時間が好きだったのに、今は台無しだ。   「なんかさぁ、こうやって店じまいのお手伝いしてるとさぁ。なんか同じ店で働いているって感じしない?」    賢介の笑顔を見て、手が止まる。痛むからやめろ、そういう言葉は。おまえが隣にいてくれたら。一人で店の中にいる時、いつだって想っていた。   「あー、なんか思い出した。俺さぁ、中学生の卒業式におまえと約束したんよ。でもおまえ、忘れてやがったよな」   「…………そんな約束、したか?」   「あ、やっぱ忘れてる。あーあ、俺が成仏できない理由一つみっけ。なんで成仏できないかと思ったら心残りか。やりたいけどやれなかったこと。俺言ったよ、高校生になったら同じとこでバイトしてさ、そんで金貯めて旅行とか行ったりしようなーって」    幸人は首を傾げて思い出そうとする。中学の卒業式は心がぐちゃぐちゃだった。賢介と違う高校になって、もう幼馴染関係が解消されるかもしれない、と不安でたまらなかった。   「…………あれ、約束だったのか?」   「えー、気づいてなかった! ひでーなあ。いや、だからさ、せっかく約束したけど一緒にバイトできなかっただろ。それで今こうして、閉店の清掃作業してると、同じバイトしてるみたいな感じだなーって」    賢介の、こういう開けっぴろげな明るい性格が嫌いだ。  嬉しい感情を真っ直ぐに伝えてくるから、苦しくて目を伏せてしまう。   「…………おまえって、ほんと昔のことよく覚えてるよな。俺はあんまり覚えてない」   「もったいないじゃん。いろんな体験とかさ、会話とかさ、覚えて積み重ねるのが生きてるって感じ…………ってあーーー死んじゃったけどね」    賢介の存在が、薄暗い店内で一瞬、霞んだ。  一通りの閉店作業が終わった。煙草を一本だけ吸う、ブラックデビルが灰になったら帰ろうと決める。   「じゃあ、また明日な」    当たり前のように賢介は言う。  なんて答えればいい。  いるはずのない存在が、明日もいる。 それがたまらなく嬉しいと思う。    店の近くのマンションに帰ってすぐ、幸人は玄関で崩れ落ちて泣いた。  もしかして、これがすべて、賢介の死がショックで見えている幻覚だとしても、消えて欲しくない。だけど死んでしまっているんだ。賢介の葬儀に行った、仏壇に手を合わせて泣いた。遺骨を胸に抱いた。   「…………どうすればいい」    涙に濡れた独り言を吐き出す。    あの夜、幸人の家で宅飲みしてた日。 日記に挟んだ、告白の走り書き。  あれを読まずに賢介は逝ってしまった、これでよかった。   「なんかさー、色々考えたけど。心残り、真剣なの言うな」    翌日も賢介の霊は現れた。そして真剣な顔を向けた。   「俺、おまえの店で死んで悪かったと思ってる。縁起悪いじゃん…………ここ、事故物件になるし」   「バカなこと言うな!」  幸人は怒鳴った。 「そんなこと、少しも考えたことねぇよ」    むしろあの時、出張帰りでそのまま店に来てくれたことが嬉しかった。そして、息を引き取る賢介を腕に抱いていたことも。死に際に側にいられたことが、幸せだったと思ってしまっている。   「そっか…………うん、おまえならそう言うと思った。けどさ、どーしても考えてしまって」   「考え過ぎんなよ」    幸人はサーバーを洗う手に力を入れる。   「うーん、三十の誕生日前に死んだのが無念なのかも。俺の部署、誕生日は盛大に祝うからさぁ」    賢介の時は29歳で止まった。丸い額の童顔で、丸い目をしていて、ちょっと受け口で。この顔を一生忘れない。   「誕生日ケーキとか用意して欲しいのか?」   「ああ、それそれ。俺、誕生日ケーキ大好き」   「ガキの頃、ケーキにはしゃいで顔突っ込んだことあるもんな」    幸人は笑って言う。   「あー、それそれ。ろうそく消したあとに前のめりになって。セルフケーキダイブやらかした」    ケラケラと賢介が笑った。  こんな明るい幽霊がいたら、縁起悪いどころか店が明るくなりそうだ。  閉店前に賢介と話しながら一日を終える。 それが、幸せな時間となっていく。 消えそうに揺れる賢介を引き止めたい、自分の気持ちが彼を成仏させない。    いつも通り、店のシャッターを閉めようとすると、声をかけられた。彼女を見て幸人は気まずくなる。賢介の妹の雛子だ。   「お話があるんですけど、いいですか?」   「うん、店に入って。カフェオレでいい?」   「はい、ありがとうございます」    雛子は賢介と違って落ち着いたおとなしい子だ。   「仕事終わりにすみません」    雛子はカウンター席に座った。真横にいる賢介に気づいていない。やはり、自分にしか見えないのだろうか。   「雛子、何しにきたん?」賢介が驚いた声をあげるが、雛子は反応しない。   「あの、気になることがあってお話ししたくて」    雛子は耳に長い髪をかけると、トートバッグから赤い革表紙の日記を出した。幸人は目を背ける。   「このメモ…………幸人さんに数学教えてもらった時に見た字と、そっくりで…………」    雛子が真っ直ぐにこちらを見る、賢介とそっくりな目は、潤んでいた。   「これ、幸人さんですね。私、気づいていたんです。あなたの気持ちに」    日記がめくられる。メモ用紙がテーブルに置かれる。   『ずっと愛してる』    酔っ払ったときに書いた走り書き。咄嗟に賢介の日記に挟んだ。何を期待してそんなことしたんだろう。想いを打ち明けよう、この気持ちが報われようなんて考えたこともなかった。  愛しいという気持ちを伝えたかった。   「…………ああ、これ書いたの、俺だよ」    幸人が認めると、雛子は涙を流した。   「私、これ見つけた時、すごく悔しくて。兄さん、こんなに幸人さんに愛されているのを知らずに死んじゃって…………それが悲しいです」   「でも、あいつはゲイじゃない。幼馴染に愛されるなんて、戸惑うだけだったかもしれない」   「幸人さんの愛は、すごく深いよ。恋愛を超えてる、だからきっと兄も愛されて嬉しかった。だって兄さんは幸人さんのこと、大好きだったよ」    大好きだったという気持ち、それは知ってる。幼馴染で、親友で、兄弟のようで。いつも人生の中にお互いがいた。 賢介の方を怖くて見られない。   「…………雛子ちゃん、俺、おかしくなったのかな…………店にさ、賢介の霊が出るんだ。それがやかましくって。まるで生きているみたいでさ…………俺、ずっとこのままあいつが店にいればとか、考えてしまって」    幸人は泣きそうになるのを堪える。   「幽霊?」雛子があたりを見回す。「私には何も見えない…………」   「なんだよ!」  賢介の声がした。 「うわっ」と雛子が驚く。「兄さん!?」   「ああ、ここにいるよ、雛子。それ、持ってきてくれてありがとうな」    賢介は顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。   「一人の人間にさぁ…………ガキの頃から一緒にいるやつにさぁ、愛されてて嬉しい。おまえに大事にされてんのに気づいてた。なのに、こんなに深かったんだ…………」    賢介がメモを手にする。愛している。ずっと進行形の言葉だ。   「俺の気持ち、わかってくれて…………それだけでいい」    幸人は答える。   「愛してくれて、ありがとう、な。けどな」    賢介は涙でいっぱいの顔で笑う。   「…………でもさ、なんかさ、ここにいちゃダメなんだと思う。えっとさぁ、最後に言いたかったこと」    賢介が、霞んでいく。   「店の名前のコマドリ。コマドリって、神話では天から火を運んできた、それで火に焼かれて胸が赤いんだって。そのエピソードが好きだからって名前付けてたの、俺、すごく好き。俺、この胸のとこに赤いハートのあざつけて、生まれ変わってくる」    賢介の体が消えていく。   「だから、見つけてくれな」 「見つけるよ」    忘れない。
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2026/10/11 • 👁 79回 • 💬 0件
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938文字 約2分で読了

ガラスペンの魔法

ペンが良ければ絵が上手くなるわけじゃない。 そんなことはわかっている。 だがそのペンを買えば綺麗な絵が描ける気がした。  子供の頃の夢は漫画家。 毎日、授業中に鉛筆でキャラクターの漫画ばかりノートに書いて先生に怒られていた。随分と迷惑をかけたなと自分でも思う。 ボールペン、万年筆、イラストマーカー、サインペン、鉛筆はデッサン用のものをたくさん持っていてそれこそ6BからFそして6Hまで。子供の頃から絵を描くのが好きだった私は中学になった時、ある1本のガラスペンと出会った。 その当時はまだまだガラスペンはマイナーで、今でこそ100均に売っているぐらいメジャーだが百貨店で買ったガラスペンは中学生のお小遣いで買うにはかなり高価だった。 インク瓶にそっとつければ透明な溝を群青のインクが滴り落ちる。 それを紙にそっと降ろして線を引けば美しい線になっているような気がした。その日から私はそのペンで絵や漫画を書くようになった。 子供心にそれは魔法のペンだった。 ガラスの中にはキラキラとした金粉が入っておりそれが光にきらめいて見えてとても美しく、滴り落ちるインクは紙の上に小さな魔法をかけてくれた。 私は今までよりももっと絵が好きになった。 美術系の学校に行きたいと言ったのはちょうど中学3年になった頃だろうか。 だが県内に美術系の学校はなくて私は市内にある普通科の高校に通うことになった。 高校3年になった時やはり美術が諦めきれなくて美術系の予備校に通った。やっていたのは受験のためのデッサンばっかりだったのでガラスペンを取り出すことはもうなくなった。 最も残念ながら実力及ばず、 美術とは関係のない大学に行き美術とは全く縁もゆかりもない所に就職した。 それもまた私の人生。 いつか生きていく上で絵を描くことを忘れていった。 きっと私の情熱はその程度だったのだろう。 私が再びペンを取ったのは両親が亡くなり実家の整理をしなければならなくなった時。 記憶の彼方からそのペンを輝きを失わずやってきた。 ペンの柄の中の金粉が小さな魔法をかけてくれる。 滴り落ちるインクは紙の上に踊り、私は何十年ぶりかの絵を書いていた。 あまり上手くはないかもしれないけれど…… 小さな額に入れて玄関に飾る。 それは小さな魔法。 ガラスペンから生まれた私の心―
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作者:しとえ
2026/10/10 • 👁 49回 • 💬 0件
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566文字 約2分で読了

川

 一人の藩士が、城下町で切腹した。  政を顧みず、贅沢三昧の藩主が年貢を上げる事に対して、再三諌言したが聞き入れられず、遂には主を諌めるために、腹を切るに至ったのだ。  しかし、城下町の中心で、大衆の面前で切腹した事に、恥をかかされたと思った藩主は怒って、藩士の遺体を領内に流れる川に投げ棄ててしまった。  その年の秋から、大雨が降り、風が吹き荒れ、川が氾濫して、作物が不作になってしまった。  不作がいつまでも続き、これには藩主のみならず、領民まで困ってしまい、藩士の祟りだと噂するようにまでなった。  或る日、藩士の嫡男が朝起きると、枕元に手紙があった。読んでみると、死んだはずの父の筆跡でこう書かれていた。  ならぬことはならぬ。為すべきを為せ。  嫡男は手紙を母に見せ、二人は決心した。  その年も、天候が荒れ、川が氾濫しそうになっていた。  嫡男と母は白装束で身なりを正し、川に飛び込んだ。二人は流されて、遂に遺体も見つからなかった。  すると、荒れていた天候は収まり、川も静まり、その年は豊作となった。  領民たちは喜び、藩主もこの話を知り大いに反省して、以降は質素倹約に努め、政にも精を出して名君と言われるまでになった。  この話は今でも地域に残っている。  話に出てくる川は三(さん)洲(ず)と呼ばれており、必ず三人で川に近寄ってはいけないと、今でも伝え続けられている。
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作者:開津文太
2026/10/10 • 👁 36回 • 💬 0件
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3286文字 約7分で読了

トロッコ問題と幸福な生首

幸福な死に顔に、俺は納得できなかった。 ——あいつは、笑って死んでいた。  すぐに喪服をクリーニングに出した。  親友の葬儀の臭いを消したかった。  同じ団地育ちの親友――奴が消えた。  二十になったばかりだった。    線路に落ちた視覚障害者の少年を助けて、電車に轢かれて粉々になった。  あいつは、そういう奴だったよ、昔から。いじめっ子をかばっていじめられ、捨て猫は小遣いをはたいて病院に連れていき、保護猫団体に預けて、人助けしかしてこなかった。  事故が起きた小さな駅には、転落防止のホームドアがなかった。  すべての駅にホームドアをつけろよ、くそ。  |成海《なるみ》とは、長い時間を共有した。  だるい体で、成海が死んだ最寄りの駅に行かなければならない。  私鉄の田舎の小さな駅、地元で見慣れたはずの駅が、ひどく冷たい場所に見えてくる。ここはもう、悲劇の場所に変貌した。  大学入学後も俺と成海は地元に住んでいて、この駅から俺たちはいつも顔を合わせて、それぞれ違う大学に向かった。 「すみません、あの」  電車に乗って吊り革を持ってスマホを見ていると、ハキハキとした少年の声が聞こえた。振り返ると、なで肩で小柄な白いニューエラのキャップを被った少年がいた。ぱっと見ではわからないが、彼は白杖を持っていることから視覚障害者のようだ。  彼の隣には、沈痛な面持ちの、疲れた顔をした二十代後半ぐらいの地味なスーツの女性が立っていた。 「久保成海さんの、ご親友の方ですよね。初めまして。僕は久保さんに助けられた長原龍樹と申します。久保さんについてのお話を聞かせてくださいませんか。僕は、僕を助けてくれた人について、もっと知りたいんです」  少年の声は張り詰めていた。  俺は目を伏せて考える。  話したくねぇよ、辛い。  でも、あいつのことを彼に知ってほしい気持ちが勝った。  少しだけ、俺はため息を吐いてしまう。 「…………わかりました。次の駅で降りて、そこにあるカフェで話しましょうか。あの、あなたはどなたですか?」  俺は龍樹の横にいる女性に視線を向ける。 「龍樹の姉の春香と申します。よろしくお願いします」  春香は緊張した面持ちで言った。俺たちは一緒に隣の駅で降りて、バスのロータリーを歩いた。  龍樹の白杖は、黄色のブロックを丁寧にたどっていく。  俺は黄色のブロックに自転車が置かれているのをどけて、龍樹が安全に通れるようにした。  カフェに入り、三人ともアイスコーヒーを頼んだ。クーラーの効いたカフェで一息つく。 「お時間いただき、ありがとうございます。あの……本当に成海さんのこと…………申し訳なくて。僕は、ちゃんと成海さんの分まで生きたくて。それで、成海さんがしたかったこと、やろうとしてたことを、僕が代わりに少しでも多くしていきたいです。僕は障害者で、健常者のように、うまくできませんけど……」  声をつっかえさせながら、龍樹は苦しそうに話す。膝に置いている手は、きっと震えているだろう。  視覚障害を持ってる人にとって、俺の沈黙は怖いだろう、と想像する。相手の顔が見えない。目の前にある邪魔な自転車にも気付けない。そういう人生がどれだけ大変だろうか、と。  優しすぎた成海なら、きっと想像しただろう。 「そういうのが…………逆にムカつく」  俺の不機嫌な言葉に、ピクッと龍樹の頬が引きつった。 「助けられたなら、堂々としてくれ。成海の人生を君は生きられない。君は君のやりたいことをやったほうがいい。だって、あいつの助けてくれた手に、迷いなんか、なかっただろう?」 「は、はい」 「成海は、そういう奴だった」  俺は考える。彼に成海について、何を話そう。取り留めのない思い出話ではない。  成海がこの場で、彼に自分の死を「納得」させる話を思い出す。 「俺は……成海が死んで、それは信じがたいほどショックだったけど、あいつが君を助けて死んだって聞いた時は、あいつならそうするだろうって思った。生前に、こういう話をしたことがあった」  俺は、あの日の安い酒場で成海と飲んでた夜を思い出す。  市場奥の薄暗い席だった。厨房が近く、焼き鳥の焼ける香ばしい匂いが近かった。  成海は焼き鳥が好きで、うまそうに何本もよく食った。成海は小柄で顔も小さい。目が丸くて、「かっこいい」より「かわいい」でモテる男だった。しかし仕草は男らしく豪快で、焼き鳥の串から歯でかぶりつき、引き抜いて食うのは俺の前でしかしなかった。 「大学の人間関係って、思ってたより複雑だよな。ゼミとかさ。俺、まだ馴染めてないかも。この前もちょっとなんか引かれたかも」  テーブルに肘をついてハイボールをあおり飲み、少し酔った赤い顔で成海が話し出した。 「んー、何? あ、おまえ、俺の分のレバー食った?」 「あ、ごめん。食ったわ」成海が無邪気に笑う。 「俺、レバー好きなの知っててわざとか。で、なんの話だよ。その引かれたってのはさ。またモテ話か」 「違うよ。真面目な話だって。ほらあれ、トロッコ問題ってあるじゃん。あれ、なんかゼミで話題になって。みんなそれぞれ解決法とか言ってくの。俺んとこ心理学だろ。いろんな学者の説とか出すけど、全部ちげぇよなぁって思ってさ」 「あれなー。あれ、どうしようもねぇ意地悪問題だろ。大体、基本の設定が狂気だろ。事故起きないように作業員を配備しろよ」 「あはっ、それめっちゃおまえっぽいなー。だよなー…………どっちかしか救えないとか意地悪問題。レバー変更の岐路に立たされて、五人助けるために一人の犠牲者ですませるためレバーを引くかどうかなんてさ」 「で、おまえの答えは。なんつったの?」 「うん。俺はレバーを引いて、一人の作業員を突き飛ばし、自分がトロッコに轢かれる。目の前で誰か死んだら、なんで助けられなかったかって辛い思いを抱えて生きるなら、自分が犠牲者になった方がいい。それが俺のトロッコ問題の答え。たった一つだけ、他は思いつかない」  成海は少し遠くを見て、かつて失ったものを見るような悲しげな瞳をした。  成海が、ふとした時にたまに見せるこの瞳には、早世の翳りだったと振り返って想う。 「あー、それは自己犠牲で引かれるな。トロッコに自ら轢かれる選択をして、引かれたか」  俺は少し笑った。  成海も頬を少し膨らませて笑った。吹き出すほど面白い、の時にする顔だ。 「それなー。で、おまえどうなん。彼女とは?」 「あー、なんか合わないかもって感じてきた」 「俺は高校の頃よりモテなくなったー。かわいいで売るのは十代までだったな」  成海はそう言って笑い、「すいませーん」と手をあげてハイボールを注文したんだった。あいつはいつも店員さんにはすごく丁寧な態度だったな。  この話を龍樹に話し終えて、俺は悲しみが波のように引いていくのを感じた。  そうか、あいつは、目の前で誰かが死ぬなら自分が犠牲になったほうがいい。  そういう、何億人に一人かのすごい善人だった。  あいつ、天使にされちまったか。  これはちょっとクサいけど、あいつならきっと「だろう、だから若いまま、かわいいまま死んだんだよ」って、白い翼を見せびらかしてきそうだ。  目の前に、花柄のハンカチが差し出される。春香は手で口を抑えて泣いている。そして俺の頬も濡れていた。俺は「いいです」とハンカチを断って、リュックからタオルハンカチを出す。  龍樹の肩も震えている。 「…………ぼ、僕は。作家になるのが夢なんです。見えない僕の世界を書きたいんです。だから、今の成海さんの話。きっと、物語にします。それが僕のしたいことです」 「うん。そうだな、外見はとびっきりの美少年で、背は高くしてやってくれ。ビジュ盛った方が、あいつ、喜ぶから」  俺はそう言って、成海が死んでから初めて、ようやく、笑えた。  成海の体は轢死で砕け散ったが、生首だけはきれいに残っていた。  棺桶の窓を、成海のお母さんが開けて、微笑みながら泣いて言っていた。 「見て、こんなに幸せそうな顔の生首なんて、この世にひとつとしてないわ。見つけてくれた駅員さんも驚いてたそうよ。こんな幸福そうな顔の生首なんて初めて見たって。よかった、この子は本当に……本当に……人を救う祝福の天使だったのよ」  
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2026/10/09 • 👁 69回 • 💬 3件