偽物でもいいからさ、君が帰ってきてくれないかと望む。
偽物でもいいからさ、また君と暮らしたいと望む。
偽物でもいいからさ、君の笑顔が見たいと思う。
偽物でもいいからさ、君にいてほしいと望む。
偽物でもいいからさ、君に会いたいよ。
偽物でもいいからさ、偽物でもいいからさ、偽物でも……
続きを読む
「もし、私の骸が水底に沈んでしまったその時は、貴方が私の声を拾い上げて下さいませ――」
これは恋なぞではない。契約だ。
俺達は、もしも沈没船になってしまった時、互いにその遺体へ残留した言葉を聞き届けるという契りを交わした。
そして俺は、こいつのためならどんな深海にでも潜行してやろう。そのような心地になっていた。俺もまた、こいつになら暴かれてもいい。そう思ったのだ。
探偵なぞを生業にしていると、奇妙な縁を結ぶことがある。その女との出会いは、友人である刑事の依頼から始まった。
俺は辣腕で通っているんだ。ただ、不良なもんで碌な仕事は回ってこない。それを見兼ねた友人が時折、俺に仕事を依頼――押し付けてきた。
拒絶しようにも金が無い。だから俺は、女の住処であるという森の奥へと歩を進めていた。
手土産は遺骨。昼間であるにも関わらず、木漏れ日も殆ど差し込まない鬱蒼とした森を進んでいく。足音は立たず、たまに微風に揺蕩う木々の囀りが鼓膜を震わせると、海底へと沈降していくようでもあった。
やがては、この囀る木々の声色すら、俺の耳に届かなくなるのかも知れない。
そのような妄想を意識の片隅に、俺は奥底へと足を伸ばす。
やがて辿り着いたのは寂れた小屋だった。
さては退屈凌ぎとして肝試しにでも駆り出されたか。そのような雑念を思い浮かべながら、紫煙を燻らせる。火種を潰し、ドアを叩いた。
軋む音を引きずりながらドアが開く。
耳心地の悪い音へ意識を割かれながら、ドアの隙間を注視した。
暗中から浮かび上がったのは細腕だった。白皙の肌の有様を、雪や白磁、あるいは花になぞらえることはよくある。俺が思い浮かべたのは、それらではなかった。
まず、靄を思い浮かべた。冥々とした森の中を漂う朝靄。そのようなものを想起していると、女が姿を現した。
幽鬼。
肝試しで対面した女に、このような比喩は陳腐だろうか。しかし、そのような形容がしっくりと来る。
その白肌から連想したのは虚弱ではない。しかして光明を彷彿とはしない。
実在感が極めて希薄なのだ。この暗がりに溶け込んでしまいそうな白い肌の女は、夜暗を切り取ったような黒いドレスを纏っていた。
結われたアイボリーホワイトの長髪がドレスに垂らされている。その有様は、清流を思い起こさせた。
友人の紹介で訪れた事を告げる。
こちらを向く女の目元は布切れで覆い隠されていた。が、視線を錯覚する。珊瑚ピンクで彩った唇が解けた。
「どうぞ」
女に先導され、俺は止めていた足を運ぶ。ドアが閉じて、不気味な小屋に飲み込まれた。
俺の受けた依頼はこうだ。
森の奥に住むイタコに遺骨を渡し、その声を聞いてくること。
遺骨は俺が解決に助力した事件の被害者であった。
犯人は逮捕されたものの、その全てが詳らかになった訳ではない。死者の声を届けるというイタコの力を借りて、被害者の声を遺族に届けるのが目的だとのことだった。
死人に口なし。そのため、可能な範囲で白日の下に晒すのが、俺たち探偵の仕事だ。その口を借りる人間がいるのだというのだから、とんだオカルトである。
そして、その黄泉と現世を繋ぐ水先案内人の正体が、この亡霊のような麗人だというのだから、御大層な怪談だ。
俺は前方で揺らめく靄から目を離せなくなっていた。
それが、単純に正面へ視線を放っていたからでないことは、知覚していた。清艶だ。そのような感情が、俺の意識へ浮かび上がり始めていたのである。
俺が我に返ったのは、女のか細い声によってだった。不思議な声色だ。柔弱だが、まるで水面を渡る波紋のように、すんなりと聞き入る事が出来る。
俺は女に促されて、彼女と向かい合って座り、遺骨を渡した。
「この遺骨の人物の声を聞きたい。遺族は真実を求めている」
女は遺骨を受け取ると、此方を向いて口を開いた。心なしか、口角が浮かび上がっているようにもうかがえる。
「私は、再生機でございます。この骨に録音された御声をリプレイするのみなのでございます。ですから、必ずしも私の言葉が、要求を満たすとは限りません」
「ああ、分かっている」
真実が理想の通りでないことくらいは、百も承知だ。女の口角が、更に浮かび上がる気配がした。口を開く。
「では、拝戴いたします」
刹那である。
珊瑚ピンクに彩られた女の唇が、骨片を抱擁した。
俺は忘我しながらも、その女の有様へ瞳を釘付けにされていた。
異質な光景であることが一つ。そしてもう一つは女が変質したからである。
喉を震わせた女の容貌が、徐々に明瞭となっていった。
呼吸をしているだけだ。音もなくゆったりと。
判然としなかった女の実在感が、息吹を吹き返すように、迫真性を孕んでいく。
この呼吸は、脈動は、鼓動は、誰のものだ――?
一度枯れてしまった花が、萌芽して開花する手筈を、目の当たりにしているような錯覚を受けた。
そして俺は花が咲いた瞬間を目撃する。
目元を覆う布に諸手を当てて外す。伏せていた顔をこちらに向ける。長い睫毛がゆっくりと浮かび上がる。
秘匿されていた女の双眸が露わになった。
それは正しく再現だった。
変化したのは語調ばかりではない。息遣いも変調をしているが、彼女が掬い上げているのは『声』のみだ。口元から言葉が漏れ出し、双眸を震わせても、そこに想念は波を打っていなかった。
女は――いや、再現された被害者は、事件の経緯を細大漏らさず、口述した。深海へ沈没した『船』の内面が、女の声で漏れ出し、水泡の如く浮かび上がる。
俺は、口を挟むことなく、述懐へ耳を傾けていた。
女が言葉を漏らすたびに、沈思していったのだ。
やがて、いか程の時間が経過したのか。
俺がはたと知覚したのは、瞳を瞑る女の姿だった。
紫煙を吹かすように、呼気を押し出す。俺には、被害者の性情を、推測することしか出来ない。だが、女が再生していた間、確かに被害者と対峙しているような心地になっていた。
黙して再び目元を布で覆う女を眺めながら、俺は口を開く。
「あんたは何故、このようなことを――。あんたが警察の依頼をこなしてみたところで、あんたに一文の得もない。名誉を手にするわけでもない。あんたの功績は、全て依頼者の手柄になっちまう。なのに――」
俺は、そこで口を噤んだ。
女の口角が、浮かび上がった気配を感じたからだ。女はそのまま唇を解く。
「私は顕界の声望に興味はございませんもの。『声』を『頂く』。この行為そのものが私にとっては報酬なのです。それ以上は望みません」
女の声色は元に戻っていた。波紋が水面を渡る。
「私はお声を拝聴する際は、海を連想いたします。潜り、潜り、沈船の内側を吸い込むのです。海の底はとても暗く、また、静かで、安らぎすら胸に広がります。私にとりましてもその船体は揺籃のようでもあります。子守歌のようなものなのです」そう告げる女の様相は、再び朧気な靄のように揺蕩う。だが、少女のような無邪気さも孕んでいた。
女は更に言葉を継ぐ。「それに、私が今回のご依頼を引き受けたのは、貴方に興味があったのです」
俄かに話題へ上り、俺は瞳を震わせながら口を挟む。「俺に?」
ええ、と返答をする女の声色は、どこか喜々を帯びたようでもあった。
「だって、探偵というご職業もまた、海に潜る方々ですもの。いいえ、それどころか、私よりも遥かに真正面から、船体のお声を拾い上げていらっしゃるわ。私はただ、すっかりそのまま浮かび上がらせるだけですけれど、探偵さんは、より細部まで、隈なく、掬い上げていく。ですからきっと、私よりも多くの『声』を聴いておいでに違いないですわ」
不思議だ。俺からしてみれば、女の特異な才能を渇望してしまう。けれども女は、俺の仕事を価値のあるもののように語る。
それに自分の仕事を、事件を、沈没船になぞらえた事はなかった。言われてみれば、確かに言い得て妙かも知れない。
無防備に事件の深奥へ足を踏み入れれば、無事では済まない。そして沈黙してしまったものに足を踏み入れ、全貌を白日の下に晒していくという意味では、凡そ該当していた。
女は話を続ける。
「もし、私の骸が水底に沈んでしまったその時は、貴方が私の声を拾い上げて下さいませ――」
女の提案を悪くないと思った。仕事振りは目の前で証明され、そしてこの女も評価をしてくれている。思いも至らなかった本質を口にした女への回答に、間は必要なかった。
「だったら交換条件だ。俺が沈んじまったその時は、あんたが俺の声を聞き届けてくれ」
俺の返答へ、やはり目視するのに明確な変化はないが、女の口角が浮かび上がる気配を感じた。女の唇が解ける。
「ええ、拝戴いたします」
◇ ◇ ◇
俺は燻る紫煙の行方を追っていた。その視界に広がるのは、女の出身である集落だった。
片手には煙草を、もう片方には、骨片が掌中に収まっている。
火種を潰して、手中の骨を指頭で撫でる。触れるたび、女の像と女の言葉を思い返していた。冥々とした森に棚引く朝靄。そこに息吹が芽生え、花が咲く。まだ沈没船の中で揺り籠に揺られながら、微笑みの気配を帯びて子守歌を耳にしているのだろうか。
友人が訃報を告げた時は、心魂に風穴が開いたような心地がしたが、足を止めなかったのは、埋め合わせがあったからだ。果ての知れない海の底へ向かわせたのは、束の間の再生と、交わした女の言葉だった。
「拝戴いたします」
言葉にして、骨片を口腔に収める。
嚥下するように瞼を下す。
あんたの遺骸が船ならば、この村は海か。俺は辣腕で通っているんだ。このまま沈没させたままじゃあ名が廃る。
水面に届くことなく、そっくり泡沫と化すその前に、俺が声を掬い上げてやる。
約束だ。とことん深くまで潜ってやるさ。
下すのと同じ速度で瞼を持ち上げ、集落を見据える。
俺は一つ、足を踏み出した。
続きを読む
六年生のときに同じクラスだった水原君は、取り立てて目立つ少年ではなかった。少し色が白くて声もそれほど大きくなく、友達も多くなかった。ただ、彼は生き物係を率先して引き受けていた。友人から話を聞くと、彼は毎年いつでも生き物係をしてきたそうだ。先生たちも「水原は他の係はやらないのか」と尋ねていたが、彼は頑なに生き物の世話をし続けていた。
彼について特に思い出があるわけでもなかったが、ひとつだけどうしても忘れられないことがあった。あれは冬休みの直前で、日が極限まで短くなっていた頃だった。家に帰ってから、どうしても明日提出しないといけないプリントを学校に忘れてしまったのを思い出して、私は急いで学校へ戻った。放課後になってそれほど時間が経っていたわけではないのに、日はどんどん傾いてもう辺りに夜の気配が立ち始めていた。その気ぜわしさに、その日の授業で「十二月は師走と言って、先生が走るほど忙しいんだぞ」と習ったことを私は思い出していた。
早く帰りたかったので、上履きに履き替えるのも億劫で私は靴下のまま廊下を歩いた。誰も歩いていない廊下は冷たく、ますます私は早く帰りたいと思った。階段を上って自分の教室のある階につくと、先生がいないのをいいことに私は滑るように教室まで走った。そしてさっさとプリントを持って帰ろうと思って教室のドアを開けると、水原君が窓辺に座っていた。
私はこんな遅くまで教室に誰か残っているとは思わず、心臓が飛び出るくらい驚いた。水原君はガラっと開いた扉の音を聞いて、こちらをゆっくり振り向いた。
「なんだ、真鍋か。こんな時間にどうしたんだ?」
私の登場に水原君は驚かず、私は自分の心臓がまだドキドキしていることが少し恥ずかしくなった。
「忘れ物を取りに来ただけだよ」
「そう」
そう言って、水原君はまた窓辺の方に向き直った。水原君は窓の外を見ているのではなく、教室で飼っている金魚の水槽を見ていたのだった。
「水原君は何してるの」
「金魚見てる」
それは見ればわかるよ、と思った。その金魚は担任の先生が「教室守」と呼んで可愛がっている金魚だった。そして生き物係に餌やりを任命して、時々一緒に水槽を洗っていた。
水槽の中では真っ赤な金魚が一匹と、白がメインの赤い模様がある金魚が一匹、ゆっくりと尾びれを翻していた。エアポンプが吐き出す小さい泡を避けるように金魚はゆらゆらと泳いでた。クラスの皆からその金魚は特別可愛がられているわけではなかったと思うが、ただ金魚はそこにいるだけでよかったのだと今は思っている。
「金魚って、見て楽しい?」
「いや、別に」
楽しくないんだ。それなのに、どうして水原君はこんな時間までずっと金魚を見ていたのか私は気になった。
「楽しくないなら帰れば?」
「そうだね。ありがとう」
そう言って、水原君はランドセルを掴むといそいそと教室から出て行ってしまった。私は短い日が射し込んできた窓辺に近づいて、水槽を覗き込んだ。随分と大きくなった金魚は水槽の中をゆらゆらと漂っていて、射し込んで来た光は金魚の揺れる尾びれと小さな泡の間で弾けていた。
私は呆然と金魚の水槽を覗き込んでいた。随分と大きくなった金魚にとって、この水槽は少し窮屈かもしれない。何度も何度も行ったり来たりを繰り返して、退屈しないのだろうか。そんなことを私は思った。
「あ、そうだ」
開けっぱなしの扉から声がした。急に水原君が戻ってきたのだ。ぼんやり金魚を眺めていた私は、また驚いて教室の入り口に振り返った。
「帰るとき、カーテンしてね。あんまり直射日光当てるとよくないから」
「わ、わかった」
慌てて返事をする私に、水原君は問いかけてきた。
「金魚見て楽しい?」
「ううん、別に」
彼の言うとおり、別に楽しいものではなかった。
「だろう?」
水原君は満足そうに笑って、そしていそいそと帰って行った。私は金魚の水槽と水原君の間に挟まれたような気分になった。それからすぐに思い出したように自分の机からプリントを取って、夢のような気持ちで家に帰った。
それからすぐに冬休みに入り、三学期が始まった。卒業を控えた私たちは師走以上に気ぜわしくなり、私は金魚のことも水原君のことも思い出す暇がなくなった。中学に入ると同時に、水原君は別の学校に行くことになった。私の小学校は近くの中学校に全員持ち上がりのはずであったが、どうして水原君は違う中学に行くのか特に説明はなかった。親の仕事の都合とか、そういうのだろう。何となくそんなことを私は無責任に思っていた。
***
それから随分時が経ち、私も中学生の子供を持つ親の立場になった。古くからの友人に会って話をしているうちに、水原君の話になった。彼女は水原君と高校で同級生だったらしく、様々なことを教えてくれた。そしてそれは、あまり面白い話でもなかった。
久しぶりに会った水原君は、名字が変わっていたという。そして「小学校ぶりだね」と一度話をしたきり、水原君は学校にほとんど来なかったという。気がつけばクラスからいなくなっていて、一年の終わりには退学していたそうだ。
友人は「そんな子いたけど、今頃どうしているかねえ」という感じで私に話してくれたが、私の心は一気にあの短くなった日の射し込む誰もいない教室に戻っていた。
誰もいない教室で、面白くもない金魚を、何故水原君は見つめていたのか。
大人になった今なら、どうして彼がそこにいたのか何となくわかった。金魚を眺めることよりも面白くないことがきっとあったのだろう。だから、先生に追い出されるギリギリまで教室で金魚を見て面白くないことから目を反らしていたんだろうか。日の光を浴びてきらきら輝いていた金魚は、現実よりもきっととても面白かったんだと思う。
そんなことを友人に話しても笑われるだけだと思ったので、私はすぐに別の話題を持ちかけて、水原君の話をこれ以上浮かび上がらせるのを阻止した。それは泡のように弾けて、その後は何事もなく私は友人と別れた。
私は友人と別れた後、あの「教室守」の金魚を思い出していた。ただそこに漂うだけで、それだけでよかった金魚。身体が大きくなって少し窮屈になった水槽の中で一心に泳いでいた金魚。そしてその金魚と一緒に泡のように弾けた水原君のこと。
そんなことを考えていると、スマホに夫から「何時に帰ってくるの」とメッセージが届いていた。それを見て、水原君は私の心の中で二度と取りに戻れない忘れ物になってしまったものだと思った。私は「今帰るところ」とだけ返信をした。
〈了〉
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季節を彩る花々を、美しいと感じられなかった。私の魂が醜く汚れていくのがわかったから。誰かが語る明るい未来は、誰かの犠牲で成り立っていると知った。私の深い闇と痛みをこの世の誰も気に留めていないと思ったから。
不登校になってひと月が過ぎたある朝、父さんが無理矢理部屋から私を引きずり出して、何度もぶった。
どうして何も言わないんだ、なぜずっと部屋にこもったままなんだ、と。
だから、私は叫んだ。
「……いじめられてるの! ずっと、ずっと我慢してきたの。でも、もう無理なの! ぶつならもっとぶって。私を殺して! 父さん!」
父さんの、手が止まった。その表情には、大きな驚きと、激しい後悔が浮かんでいた。
母さんはすぐさま私を抱き寄せ、わんわん子供のように泣いた。私の方は、もうとっくに涙が枯れていた。
誰にいじめられてるのかとか、担任は知っているのかとか、父さんは沢山質問したが、私はそれ以上何も答えなかった。
「エリ。……ユカちゃんが来てくれたわよ」
それからまたひと月が経ち、梅雨が明けた。電気もつけず、強い西日をカーテンで遮った部屋のドアの前で、昨夜も一睡もできなかった私に母さんが言った。
ユカは何度も連絡をくれていたけど、私はそれをシカトしていた。
「会いたくないって言って」
私は久しぶりに熱くなった目頭を押さえ込むように、震えた声で答えた。
「……エリ。お願い。エリと、一緒に海を見たくて」
ユカはすでにドアの前にやってきていた。
「ごめん。帰って。ごめんね」
私は何かから逃げるように布団にくるまって言った。
「エリ! ユカちゃん、せっかく来てくれたのに……」
「いいんです、おばさん。また、来ますから。……エリ? ご飯、ちゃんと食べてね」
ユカはそう言い残すと、母さんに挨拶をしてうちを後にした。
静かになった部屋の中。私は、なんとはなしにスマホへ手を伸ばして、布団の中で写真フォルダを開いた。
中学の入学式まで遡る。画像をスワイプしていると、ユカと近所の海をバックに撮った笑顔のツーショット写真で手が止まった。
「ユカ……」
この時は、まさかあんな地獄のような日々が始まるだなんて思っていなかった。一年の半ばで目立つ派手なクラスメイトに目をつけられ、二年でまたその子と同じクラスになり、いじめは更にエスカレートした。
「いじめられる側にも原因がある」。どこかの誰かが言った言葉が蘇る。その人はきっと、いじめられた事がないことだけは確かだ、と私は思った。
その後も週に二度、三度とユカはうちにやって来たが、私はユカに会えなかった。
不登校の決定的な原因は、私を庇ったユカにいじめが飛び火したからだった。ユカはそうなる危険性を知っていながら、抵抗できない私を見かねて守ろうとしてくれたのだ。
それから、いじめの標的が私からユカに移った。私は胸が張り裂けそうになった。怖くて、怖くて、何もできなかった。自分に嫌気が差し、自分の弱さに愕然とし、私は学校へ行けなくなったのだ。そんな私に会いに来てくれるユカ。私には、合わせる顔が無かった。
そして、最後にユカが来てから二週間が過ぎた。
「エリ。ユカちゃんが……」
いつものように真っ暗な部屋。カーテンの隙間に目をやると、外にも光が無い。ユカが来るのはいつも夕方だった。
……今、夜なの?
そう思った時だった。
「落ち着いて聞いてね、エリ」母さんは自分を落ち着かせるように一呼吸置いた。「……ユカちゃん、先週から行方不明になってて……今朝、波止場で見つかったそうよ」
……え?
心臓が止まりそうになる。
私は布団を蹴り上げ飛び起きると、ドアに駆け寄って勢いよく開いた。
「母さん、波止場でって……ユカ、ユカ、まさか……」
母さんはしわくちゃな顔をしながら私を強く抱き寄せ、何度も何度も背中をさすった。
「エリ、大丈夫。大丈夫だから」
何が大丈夫なのかわからなかった。全身の血が瞬時に冷たく凍っていく。ブルブルと肩が震えだす。
「ユカ! ……うそ! そんな……。ユカ! ユカァァァァッ!」
優しかったユカ。強かったユカ。私を、守ってくれたユカ。
(エリと、一緒に海を見たくて)
ユカ。辛かったんだね。苦しかったんだね。きっと、弱虫の私なんかよりずっと。ごめん。ごめんね。
枯れていた涙が溢れ出す。動かなくなっていた心が、かつてない痛みと共に急激に息を吹き返す。
「ちょ、ちょっとエリ!」
私はショックで体が動かなくなる前にと、驚く母さんの制止を振り切って勢いよく家を飛び出した。
涙を拭い、潮風を全身に浴びながら月の下を駆け抜ける。
私は走った。
私は急いだ。
二人で写真を撮ったあの海辺へ行けば、ユカが、今もまだ私を待ってくれているような気がして。
ー了ー
続きを読む
死の先は無だ。
哀しみや喪失に想いを馳せるなど、時間の無駄だ。
ずっとそう思っていた。
親の手前、ずっと口先では祈ってはいたが、どうしても違和感が拭えなかった。
墓守の仕事に就いてから、その違和感は確信に変わった。
愛情深い雑貨屋の奥さんも、怪しい連中と取引していた宿屋のあいつも、世話焼きの酒屋のおばさんも、近くで討たれた賊も。
皆等しく、土の下に還っていく。
何なら、敬虔に祈っていた人の方が、惨い死を迎えていることが多い気がする。
これが生前の試練なのか?
その先に、本当に報われる場所があるのか?
どうしたって信用できなかった。
遺された側の哀しみと喪失の穴ぼこを、「埋めるために用意された土」なんじゃないかと思えて仕方なかった。
だから、たとえ刹那であってもこの生に意味を見出した方が、よっぽど有意義だと思った。
けれど、あなただったもの――。
いいや、あなたに。
シャベルで土をかけた時に私の不信心は簡単に揺らいだ。
哀しみや喪失に想いを馳せるなど。
……そのはずだったのに。
ポロポロと小さな小さな雨は、私の瞳から絶えず降り続ける。
どうして私は泣いてる?
死の先は無のはずだろう?
色々御託を並べても、私が死に意味を見出せなかったのは、
きっと。
きっと「あなたが生きるこの世界」が好きだったんだ。
生まれて初めて、心の底から祈った。
初めてちゃんと誰かに、別れを告げた気がした。
これが罰だというのなら。
神様、私を地獄へ。
あの人を天国へ。
続きを読む
教会には鉄の棺が置いてあった。
絶対に開けてはならないという伝承がある。
中には吸血鬼が閉じ込められているらしい。
吸血鬼が鉄に弱いというのは、あちらこちらの伝承で残っている。だからこの中に閉じ込められている吸血鬼も銀の杭で心臓を打たれて鉄の棺に封じ込められたらしい。
一度、化学調査をしようという話が持ち上がった。
鉄の棺が開けられる。中から干からびたミイラのような遺体が出てくる。実際この中に入れられていたのはただの人間で、吸血鬼扱いされて殺害されたのだろうという話だ。
胸の杭が抜かれる。その途端に遺体が動き出し周りにいた人間に噛み付いた。
続きを読む
ザアッ、ザザアアッ。
小波、大波。
重く垂れこめた黒い雲。
波が荒いので有名な白兎海岸だが、今日は珍しく凪いでいる。サーフィン客で賑わう海辺に、今は人っ子一人見あたらない。
私は外科医だ。隣県の山村で小さな医院を経営している。
このザアッ、
ザザアアア…
小波、大波。
重く垂れこめた黒い雲。
波が荒いので有名な白兎海岸だが、今日は凪いでいる。夏にサーフィン客で賑わう海辺には、人っ子一人見あたらない。
私は外科医だ。
隣県の山村で小さな医院を経営している。
私がこの海辺に降り立ったのは、数日前。
「あれまあ、こんな冬場に来んさるなんて」
民宿の女将には笑われたが、今回私は、観光に訪れたのではなかった。
私は、かの有名な日本神話『因幡の白兎」を調べるために来たのだ。
事の発端は二か月前のことだった。
趣味の民俗伝承サークルのオフ会で、興味深い話を聞いた。
「『因幡の白兎』の話を知ってるかい」
「ああ、知ってるさ、それくらい。島に住む兎がサメを騙し、その背を伝って海を渡るが、陸まであと一歩のところで嘘をばらした。怒ったサメが兎を捕らえ、全身の皮を剥いだ、ってやつだろう」
「そう。で、そこにたまたま通りかかった大国主が、兎に治療を施した。兎はめでたく元通り、ってな」
「だが、それがどうしたんだ?」
「いやな、鳥取出身のヤツに聞いた話じゃ、あの時兎が包まっていた"蒲の穂綿"。あれ、マジであるらしい」
「ははっ」
私は思わず失笑した。
だが、そいつは真剣な顔で言った。
「なんでも、海岸沿いに古びた神社があってよ。その山奥の小さな沼に、黄金色に光る|蒲《ガマ》が生えている。心正しき人間にだけ視えるそうだ。なあ、赤むけの兎の皮膚を再生させるんだぜ? 医者のお前なら垂涎ものだろう」
「ふん、バカ言うな」
何とも荒唐無稽な話だと、その時は鼻で嗤ったのだが。
その後、それを探すことを本気で考えだしたのは、我が医院を訪れた患者のためであった。
酷い火傷を負ったその子どもは、将来、酷い跡が残るのが目に見えていた。両親は己の不注意を責め、嘆いていた。
何とか彼らを救いたい。
その日の診察を終えた後、私は半ば勢いで山陰行きの特急に乗りこんだのだ。
数日間、海辺の民宿に泊まり込み、海岸沿いの神社の裏山を、私は足を棒にして探して回った。
それは、あった。
「おおお」
神社の裏山、そのさらに奥の湖沼に、金色に輝く蒲が群立しているのを見た時、私はその美しい光景を、一生忘れないと思った。
*
金の穂から液を抽出し、それを煮詰めて粉状にする。
苦心の末に、体組織の再生薬を作ることに成功し、神話にちなんで『穂綿』と名付けた。
穂綿は、少し患部に振りかけるだけでひどい傷さえ忽ち癒す、まさに魔法の薬であった。
子どもの火傷がすっかり癒えると、両親は涙を流して喜んだ。
嬉しかった。
私はこれを、もっと人助けに役立てたいと考え、治療例を病院のホームページに掲載した。
すると、意外にも大勢の人がこの山奥の医院を訪れるようになった。
中には、とんでもない相談をしにくる人もいた。
贅肉をとりたい、もっと美しくなりたい、といった美容整形の類いである。
彼らは、そのためならばいくら対価を支払っても惜しくはないと言う。
無論それは、穂綿の再生力をもってすれば可能だ。
スタイルであれば余分な贅肉を切除し、顔面であれば、醜いパーツを美しく整形してから、穂綿で必要な組織を戻せばいい。
私は迷った。
なぜならばそれは、健康な皮膚を切り取るという、いわば余分な手術だ。
だが、彼らの事情をよく聞いてみると、それらは実に切実で、中には自殺しかねない人すらいた。
ならばこれは、私が最初の親子にしたのと、何ら変わらぬ人助けだ。
悩んだ末、私はそれを引き受ることにした。
医院には、これまで以上に人が殺到した。
しかし、穂綿は株が少なく、生産量に限りがある。
私は、医院の裏にハウスをつくり、金の蒲の栽培を試みた。
すると、天が私に味方しているように易々と成功した。
気がつけば医院はすっかり有名になっていた。
寒村の開業医に過ぎなかった私には、テレビの出演依頼まで来るようになっていた。
*
そんなある日。
夜間に医院の扉を叩く者があった。
――誰だ、こんな時間に。
夜間診療の依頼は、受けるなと言ったはずだが。
コン、コンコン。
無視していると、しつこく扉を叩いてくる。
――やれやれ、連日の収録で疲れているというのに。
「はい、何でしょうか」
少し戸を開いた途端、押し入るようににぼろを着た女が入ってきた。
「お願いします、私の子どもが……!」
「おお、これは」
女は、手にした赤ん坊を私の前に差し出した。
それは、何とも酷い有様だった。まるで全身に火傷を負ったような、さながら「皮を剥かれて赤裸」だ。
「気の毒に、早速穂綿で……」
私ははたと足を止めた。
――この親子、何者だ?
貧しい身なりの母親に、襤褸布で包んだ赤ん坊。医療費はおろか、保険証すら持っていなさそう。
実は最近、穂綿の生産量が落ちてきている。
あれは、整形目的のセレブ達が大金を投じる価値を持つもの。
だがこの母親は、通常の医療費すら払えそうにない。
その上、この時間にこの火傷。児童虐待ではないか。厄介ごとには関わりたくない。
ある時期から私は、医院の規模を大きくするのを止めた。新しく人を雇って、穂綿の秘密を知られるのが嫌だったからだ。
穂綿は、開発者である私のものだ。
その恩恵は、私だけが受けるべきだ。
「すまないが、他をあたってもらえないかね」
「そんな! この子は、こちらでしか直せないのよ」
「いや、それは逆だよ。うちのような小さな病院で、大掛かりな処置はできない。
そうだ、救急車を呼んであげようか」
「いいえ、この子は『穂綿』でしか治せない」
「馬鹿を言うな。そんなもの、うちにはない!」
「ああっ」
振り払った手が赤ん坊に当たり、母親の手から吹っ飛んだ。
ぎ、ぎゃあああ……
悲鳴とも、叫びともつかぬ声があたりに響き渡った。
――しまった。力が入りすぎたか。
途端、七色の煙があたりに立ち込め、私と母子の周りを包んだ。
母子の姿が、みるみるうちに変わってゆく。
母親は、筋骨逞しい男の姿に、赤ん坊は、白い兎の姿に。
――そんな、ばかな。
腰を抜かしている私の頭に、低い声が響き渡った。
『全く、そなたの美しい志に胸を撃たれ、力を授けたというのに。やはり人は、身に余る力を我欲にしか使えぬものか』
『大国主、だからボクは言っただろう? あいつはダメってさ。もう少し待とうよ。きっといつか、本当に美しい魂を持つ人が現れるさ』
『やれ、ならばお前を信じて待とうか……だがその前に』
二人が私を振り向いた。
『弱き者を排し、金銀を欲する魂を浄化せねば』
ぐわん。
二人の声が共鳴した。ギラリと光る四つの瞳が私を捉えた。
「ひ、た、助けて……」
咄嗟に逃げようとしたが、身体が金縛りにあったように固まっていた。
ゴキッ、ゴキゴキッ。
筋骨の音を響かせて、男が私に近づいてきた。
「ま、待ってくれ、心を入れ換える、貧しい人を救うから、だから、あ、あ、ああああっ」
ゴキン。
*
以来、私はここにいる。
無限地獄。生きながらに皮を剥がされ、穂綿に包まり再生する。
それを幾度も、未来永劫繰り返す。
穂綿に包まれる間は、大昔に見た日本神話を思い出した。
大国主は、優しく美しき心の持主。人の縁をつかさどる、別名黄泉の国の王。
ならばひとつ、聞かせてほしい。
私は、それほどの咎を受けるべきなのか。
――さあて、そろそろ治癒したか。
「ああ、嫌だ、あああああっ」
《終》
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「たまには、あなたから注いでくれてもいいのよ? ふふ。冷たいんだから」
グラスを傾け、あなたと交わす他愛のない会話。この時間が一番幸せでいられる。
「課長が新人に優しいのはいんだけどさ。その分の負担は誰がやるんですかって話」
あなたが居てくれるようになって十日。職場の愚痴も、嫌な顔一つしないで聞いてくれるクールさが好き。もっと早く出会いたかった。
酔った目をして私を見つめるあなた。ああ、食事なんて冷めたっていい。今すぐ抱かれたいと|欲《ほっ》してしまう。
「ちょっと熱い? 窓開けよっか」
席を立ちベランダの窓を開ける。晴海ふ頭を一望できる高層マンションは、夜風の通りも良く換気が簡単だ。あなたが買ってくれたこの部屋も、お互い気に入ったこの眺めも。ずっと、ずっと二人だけの物。
あなたの後ろへ回り肩口に手を伸ばす。そのまま抱き締めると、あなたの耳が私の火照った頬に当たり心地いい。
もう無理。テーブルを押し退け、あなたの足を|跨《また》ぎ向かい合う。覆いかぶさるように私から口づけると、あなたの舌がズルリと私の口に入ってくる。
ああ。熱い。
脳が快感に震え、両手であなたの頭を抱え込む。すっかり血の乾いた後頭部。そこに空いた傷口を愛撫する。
「もう帰るなんて言わないでね。奥さんの事は忘れて、私だけを見て」
身も心も上気して、私は息を荒くシャツを脱いだ。虚ろに見上げるあなたの瞳に舌を這わせ、私は絶頂に達した。
〈恋は、お熱く 終〉
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「今日からこいつはお前の兄弟だ、同じように鍛冶の修行をしてもらう」と。
そう父は言いました。
ある日、私が工房で領主様への納品物を作っていると
父が私と同じ年頃の少年を連れてきたのです。
どこで拾ってきたのか、服はボロボロで「臭い」という言葉では、
到底収まらない異臭を放っており、何を話すにしてもボソボソと喋り聞き取りづらい。
服も臭いも母が、翌日には何とかしたようですが、
そんな奴が兄弟など信じられません。
当然そういった考えは私だけでなく、親方である父の弟子たちは彼に冷たくしました。
彼が間違った方法で作業を進めていても誰も止めない。
そればかりか、父の目を盗んでは嫌がらせなどしておりました。
私はそれを見て止めはしませんでした。
ですがそんな下らないことをしているから、「程度の知れる品」しか作れないのだと、他の弟子達を見下し、知らぬ存ぜぬの態度を貫きました。
父を超える鍛冶師になれるのは、やはり私だけだとまた火の中に金物を入れます。
奴はまた弟子達の嫌がらせで納品物をダメにし、父に報告しておりました。
父は「そうか」とばかり返します。
頭の良い父が、嫌がらせに気付かないはずないのですが、それ以外は何も言いません。
ますます、奴を連れてきた理由が分からなくなりました。
ですが、その答えはすぐ分かりました。
私が十歳から六年かけて覚えた業を、生意気にも一年で覚えたのです。
その頃から、嫌がらせは目に見えて減るばかりか、自信を無くした弟子達はどんどん辞めていきました。
父は奴の才がどんな言葉よりも鋭く輝くと分かっていたのです。
もう一年が過ぎる頃には、奴は完全に親方の右腕でした。
……そしてある晩、奴と父が話しているのを目にしました。
その話の中で奴が若い父の「過ち」でできた自分の本当の兄弟だと知り、
父は今までの事を、泣きながら謝っていました。
「あいつとは違う。お前には本物の才がある、どうか跡を継いでほしい」
悔しかった。
どんなに屑でも、父の鍛冶師としての腕前と目利きがいかに本物か私は知っています。
私は明くる日から、その悔しさをぶつけるように鍛冶にのめり込みました。
何故か奴は、父とはあまり仕事以外で話さなくなりましたが。
「認められたくせに」と私の嫉妬の火は、工房のそれより更に燃え上がりました。
二人を見返したい一心で鎚を打ちました。
何度も、何度も。
何度も……。
疲労が溜まっていることに気付かず、大怪我を負うまで。
その疲れが足にまで来ていたことに気付かず、私は作業中よろけてしまいました。
そうして思わず鉄すら赤熱させる火の中に一瞬とはいえ、手を入れてしまったのです。
工房中に私の声が響きました。
この際、水につけても心音の度に走る激痛などどうでもよかった。
幸い利き手ではなかったものの、こんな手ではしっかり道具を掴めません。
弟子達の次の嫌がらせ先は、私に向きました。
きっと今までの態度が気に食わなかったのでしょう。
治らない怪我ではないものの、奴との差は開くばかりです。
何度目かの夜に私は自害しようと、自らが昔作った出来損ないの刃物で、
自分の喉を裂くつもりでした。
それを奴は見つけ、必死に止めました。
「離せ!」と叫ぶ私の声に、奴は普段なら考えられない大声で叫び返してきました。
「家族が死ぬのを止めぬ者がいるか!」と。
理解できぬことを言われ、私の手から刃物が落ちると奴は、またボソボソとした喋りに戻り、続けます。
「父は……その……結局は一度、自分を見捨てた者だ。
母も頭では納得しているようだが……。
でも工房に入って、一心不乱に鎚を打つ君を見た。」
「……身近で見てきた君の技術が、な、何より美しく羨ましかった。
自分もこんな凄い物を、作ってみたいと、そう思った」
「本当の、本当の意味で、私の居場所を作ってくれたのは君なんだ……」
そう続けました。
――明くる日、私の知らぬところで何かあったのか。
私への嫌がらせは止みました。
私は……兄の大きな背中を今度こそしっかり見つめ、追いかけようと心に決めました。
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オルゴールを開くと美しいメロディーが流れた。
それは時の彼方に置き去りにした懐かしい記憶を呼び起こす。
夢の底に沈んでしまった原石のような輝きをもう一度。
オルゴールの上で踊るバレリーナは恋人に会える日を夢見ていた。彼女にはモデルになった女性がいたのだ。
バレリーナは オルゴールの上でくるくると回る。
それを見ながら1人の老人が涙を流した。
亡くなった恋人の姿をバレリーナにしたのだ。
それは彼がとても若い頃。
彼女はもういない。もう何十年も前の話だ。
オルゴールの上のバレリーナだけが彼女がいた記憶を思い出させてくれる。
美しいメロディティはやがてぜんまいが切れて止まり、彼女の美しい姿もまた動きを止めた。
それは失われた時間のように感じて、老人になった彼はまたぽたりと涙を落とした。
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