児童文学
592文字 約2分で読了

赤い糸

Day 6: 赤い糸 / 見知らぬ町 / 消えた足跡  あるところに刺繍が大好きな女の子がいました。 女の子はある時、赤い糸を1本拾いました。 わぁ、この赤い糸なんてキレイなんだろう。 これで大好きな刺繍をしたらきっとステキ! 女の子はその糸を持って帰ります。 これで何を刺繍しよう!ワクワクしながら針と布を取り出します。 コン、コン、コン! 玄関の扉を叩く音。 「どちら様?」 「こんにちは、あなたが拾った赤い糸、実は私のものなのです」 扉を開くと会ったことのない男性が立っています。 この糸は運命の赤い糸うっかりと切れて落としてしまったのです。 「そうなんだ。それじゃあお返ししないと困るね」 女の子はその人に糸を渡しました。 「ありがとう、あなたの運命の赤い糸もきっと素敵な人に巡り合わせてくれますよ」 そう言って男の人は立ち去りました。 女の子はそう言われて、自分の小指にキラキラときらめく赤い糸が結びつけられていることに気がつきました。 一体この糸はどこに繋がっているのだろう? 糸の先はキラキラとした光になっていてよく見えません。 女の子は男の人に尋ねようと思いましたが、すでに立ち去った後です。 足跡が雪の上にくっきりと残っていましたが、外に出て足跡を追いかけて行くとやがて雪に覆われて消えていました。  私の運命の赤い糸。 いつか見知らぬ町のまだ出会ったことのない素敵な人に繋がっているといいな、と女の子は心の中でつぶやきました。
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 111回 • 💬 0件
児童文学
853文字 約2分で読了

嵐の夜の演奏会

雨風が強い晩でした。 暖炉の火のそばで温まっているとふと扉を叩く音。 コンコン! 誰かが訪ねてきます。 扉を開けると小さな男の子が立っているではありませんか、土でドロドロの足。 「どうしたの坊や?」 「あのねボク空の上から落ちちゃったの」 しょぼんとしている男の子の頭には小さな角。 迷子になった雷の坊やです。 外では雷が響きます。 「坊や!坊や!どこに行った!」 雷のお父さんが探しているのでしょう、外は嵐。 川の水はあっという間に増えて行きます。 「お父さん探してるね」 「どうしよう。ボクがここにいるってどうしたらわかるかな」 「うーん」 私はしばらく考えました。 「雷の音に負けないように大きな声でボクはここだよって言ったら聞こえるかな」 男の子はそう言いました。 「そうだね聞こえるかもしれないね!」 私はもともとミュージシャンでした。 家には楽器や機材、マイクだってあります。 坊やを連れて楽器の部屋へ。 「わーすごい!」 ドラムのセットを見て男の子は大興奮! 「お父さんのみたい!」 「お父さんもこんな感じのドラムを叩いているの?」 「うん、お父さんは雷さまだからすごくタイコが上手いんだ!」 「じゃあこれを叩いてマイクで空に向かって叫んだら お父さんに届くんじゃないかな」 「叩いていいの⁉」 男の子は大喜びでドラムの前に座りました。 夜の演奏会の始まりです。 窓のそばにスピーカー、音を大きくして空にまで届け。 男の子は太鼓を叩きマイクで大きな声で歌い、私はシンセサイザーを弾きました。 大音量が響きます。 その音を聞いた雷さま。 「息子の声がするぞ!上手に叩いているじゃないか!」 慌てて空から降りてきました。 「坊や!」 「あのねお父さん、お姉ちゃんと太鼓を叩いてお父さんに聞こえるように一緒に演奏したんだ」 そう嬉しそうに話す坊や。 「お世話になりました」 そう言って深々と頭を下げる雷さま。 後には晴れ渡った朝の空と虹。 こうして2人は帰って行ったわけですけど、雨の日時々空を見上げては、坊やと雷さまが一緒に演奏しているのかもしれないなと思って私はにっこり微笑みました。
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 94回 • 💬 0件
恋愛
715文字 約2分で読了

金庫の中の手紙

あぁ、もう一度あなた様にお会いしとうございました。お会いしとうございました。 聞いてくださいまし。あなた様に初めてお会いした日を。その白い肌と絹糸のような細い黒髪が、薄紫の藤の花の着物が映えて、まるでこの世のものとは思えぬ花のようでございました。私はあなた様の女学校と同じ学校に入りました。 あなた様は一つ年上の先輩となりました。あなた様といた2年間がどれほど輝いていたことでしょう。素晴らしき日々はあっという間に失われ女学校を卒業した後、あなた様が結婚したことを知りました。 私はどれほど悲しみにくれた事でしょう。 女同士の恋など、どうして認められましょうか。それにこれは一方的な私の片思いでございます。初めからかなわぬ恋。この秘めたる恋心を一体誰に打ち明けられましょうか。 私は決して誰にも悟られぬように、ですがこの恋心を胸に閉じ込めたまま生き続けるのはあまりにも辛うございました。 この手紙は誰にも見せるものではございません。ましてあなた様の目に触れられようものならきっと私は死んでしまうでしょう。誰にも言えぬこの想いをここにしたためる次第でございます。 あなた様の幸福を何よりもお祈り申し上げております。どうかこの手紙を、したためることをお許しください。  私もまたお嫁に参ります。お相手の方は知りません。でも顔の知らない私のことを受け入れてくださる方です。その方のために生きていきたいと思います。 さようならさようなら私の大切なあなた様へ  古い金庫の中から出てきたその手紙はおそらく曾祖母のものだったのだろう。 私は隣の伴侶の手をぎゅっと握った。 時代が違えば私たちのように愛しあうこともできただろうに。 宛先は読めなくなっていた。 涙でにじんで……
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 95回 • 💬 0件
ホラー・怪談
2384文字 約5分で読了

沼の花嫁

うらめしや あぁ、うらめしや うらめしや あの人は私のものだったのに 何故奪われ他の女と うらめしや うらめしや この先、何代かかろうとも 必ず奪い返して見せようぞ たとえこの身が妖かしに、なろうとも 逢魔時、闇と昼が交差する 人の境と異形の境もまた 真菰草生える沼の岸辺 この世に恨みを抱え 花嫁装束のまま沈んでゆく 禍々しきや その空の色 禍々しきや 沼の底 恨み辛みの花嫁が 今もそこで待っている 「誠一郎君どこ行っちゃったの、誠一郎君!」 私は一緒に沼地に遊びに来た幼馴染の姿を探していた。 沼はくすんだ真菰色。 緑がかって濁っていて、どこかゾッとするそんな色をしていた。 まるで この世の不安を全て飲み干したかのような色。 嫌な予感がする。 不意にバチャバチャと水音が聞こえ私はそちらの方を見た。 見ると幼馴染の誠一郎君が沼に足を取られ溺れているではないか、私は沼の淵から必死で手を伸ばした。 「捕まって!」 彼の腕を掴み、子供の力で必死にたぐり寄せようとする。 重い、腕がちぎれそうだ… 「誠一郎君を連れてかないでよ!」 私はとっさにそう叫んだ。 その時なぜその言葉が出たのかわからない。 だがそう叫んだと水辺からすっと人の顔が見えた。 その白い手が彼の方を掴んでいた。水辺の人物は当然のようにびっしょり濡れてなぜか頭には白無垢、顎の辺りまで水から顔が見えていたがその唇は口紅で真っ赤に塗られていて青白い顔は何とも不気味だ。血走った赤茶色の目がこっちをじっと見ていて かすかに唇に笑みを浮かべている。 その得体の知れない状況に私はゾッとしながらも必死で彼を引き寄せた。 奪われてたまるか! 私の執念が勝ったのだろうか…女は沼の底に消えてゆき彼は何とか岸から上がることができた。 私は彼の手を引いて急いでその沼から走り去った。 それ以来沼には行っていない。  数年後私たちが中学生になった頃、沼は埋め立てられたと聞いた。 そのことに私はどこかホッとした。 沼で見たものが何だったのか…ある時、私は気になって調べた。 昔あそこに花嫁姿の女性が身投げしたらしいという伝承をその時知った。 愛する男を政略結婚で奪われ、身投げしたらしい。  男の名前は木村誠一郎、そして男と結婚した政略結婚の相手の名前は千代…  それは誠一郎君と私の名前と一致する。 ……ゾッとした。 あの沼の女は私から、私の目の前で、誠一郎君を奪おうとしたのだ。 いや…名前が同じだけで、私も 誠一郎君も伝承の中に出てきた人物とは関係ないはず。あの幽霊だか何だかわからない存在はどうして 誠一郎君を狙ったの……  私と彼はやがて中学を卒業し、高校も卒業し別々の大学に行った。私は地元を離れ卒業し就職し、20年ぶりに故郷に帰ってきた。 実家のことを放ってはおけないし、ちゃんと家業を継ぐ目処が立ったからだ。  誠一郎君が 近くに家を建てて住んでいることを知って引っ越しのご挨拶に行くことにした。 街の様子は随分とかわっていた。 歩きながら彼の家を目指す。 待ってこっちは 沼があった方向じゃないの? 何やら得体の知れない胸騒ぎがする。 そうだ間違いない。埋め立て地になって随分と様子は変わってしまったけれど沼があったあたりだ。 彼の家が見えた。 くすんだオリーブグリーン…というよりこれは真菰色と言った方がいいのかもしれない。何だってこんな色を選んだんだろう? 落ち着いた色というよりはどこか薄気味悪く見える。 玄関のチャイムを鳴らした。 20年ぶりの彼の姿。 それは私の知っているはつらつとした姿ではなく、くたびれた表情をしていた。 20年も経ったんだもの印象が変わるのは仕方がないことだけど。 何とも言えない思いが胸に広がっていく。 「久しぶりだね、どうぞ」 その声を聞いてほんの少し安心する。 リビングに通される。 家の内装は和風モダンといった感じだった。 奥さんの趣味だろうか。少し薄暗い。 たわいのない話をするがどこか彼が上の空のように見える。 玄関先で何か 物音がした。 「あぁ、妻が帰ってきたみたいだね」 「そっかちゃんと挨拶しなきゃ」 私は立ち上がった。 ギィィーッという音。 「紹介するよ家内だ」 白い洋服を着たその女性を見た時私は知っていることに気がついた。 赤い唇、赤茶色のギラギラとした大きな目、青白い顔色。 あの時の女にそっくりなのだ。 沼の女に。 …いや、落ち着け。私はあの時一瞬だけその女を見たのだ。 似ているかどうかなど、どうしてわかる。 きっとただの他人の空似だ。 「初めましてよろしく」 なんとかぎこちない笑顔をして女の手を握る。 ゾッとするほど冷たくてどこか濡れているかのようだった。 「初めまして、久しぶりね、やっとこの人を取り戻せたのよ。もう何世代もかかってしまったわ。何度も何度もやり直してやっとここに連れてくることができたのよ。あなたには分からないでしょうけど、もう決して離さないんだから。残念ねあなたの居場所はもうないの彼は私のものなのよ」 ……この女は初対面の相手に何を言っているのだろう? 女は彼に手を回し口づけをした。 唇が真っ赤に見えて血を貪るように 生気のない彼の顔がゆっくりと彼女を見ていた。 どこか視点があっていない。 私は女の足元を見た。 その影はまるで花嫁衣装の白装束のように裾が広がり腕が骸骨の骨のように見えた。 むさぼり食っている。  頭の中でここに居てはいけないという声が響いている。 「お、お邪魔しました」 私は荷物を掴んで 急いで玄関から飛び出した。 後ろから笑い声が聞こえる。 けらけらと笑い声と祝歌が聞こえる。 お出ましじゃお出ましじゃ花嫁様のお出ましじゃ…  祝詞とお囃子とたくさんの足音、ビシビシと地面にひびが入る音、何か巨大なものが音を立てて崩れていくのが分かった。 私は必死で走った。 そうして沼地 だったところを抜け後ろを振り向けば、ぐしゃぐしゃと家が崩れ地面が崩壊し、彼の家は沼に飲み込まれていったのだった。  血の色の夕焼けがその影だけを映し出していた。
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 100回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
1807文字 約4分で読了

機械人形は夢を見るのだろうか

人間は死ぬ前に夢を見ると言う―― 幸福な夢。生前生きた記憶が映像として再生され美しい場所に行く夢。 だったら機械人形は夢を見るのだろうか……  彼が私のところにやってきたのは7歳の誕生日の時だった。 兄が欲しいと父と母に泣いてねだったのはその少し前だ。 彼は私の『兄』としてここにやってきた。 当時としてはそのような人型のドロイドはあまりに高級な品だったはずだが、プロトタイプとしてデータを開発元に送る条件で破格の値段で購入したらしいという事をずっと後になって知った。 両親とも仕事で忙しく家には私しかいなかった。 いや正確には私と彼だけだった。 当時の私の環境は小学校の就学とともに家で一人になってしまったのだ。 学童保育は満杯で入れそうになかったため、両親は私を一人で家に置いておくことをためらいこのドロイドの彼の購入を決めたらしい。 見た目は10歳ぐらいの彼だが家事能力と介助能力、ベビーシッターの機能も一応ついているらしかった。 事実その日から家に帰ってくれば彼が食事の準備をして掃除をして私のことを待っていてくれた。 まだまだ当時としては珍しかった家事手伝いドロイドとしての機能をしっかり兼ね備えていたのだ。 家に帰ってくれば彼が「おかえり」と言ってくれる。 私のわがままは何でも聞いてくれる。 悩みも不安も受け止めてくれたのは彼だった。 プレゼントされた当日、私は彼に愛という名前をつけた。 「男の子の人形なのに愛なの…」 母がそう言ったが私はその名前がとても気に入っている。 彼は私に必要な愛をくれた。  やがて私は彼よりも背が伸びグングンと成長していった。 成長期の子供なのだから当たり前なのだがいつのまにか彼の身長を追い抜かし私が彼を見下ろして彼が私を見上げるようになっていた。 とは言ってもやっぱり私にとって彼は『兄』だったのだが…… 高校生になり大学生になった私は一人暮らしを始めることになった。 一人暮らしするアパートに私は彼を連れて行った。 正直に言うと一人で暮らすのが不安だったのと家事能力が残念ながらいまいちだったせいだ。 家に帰ってくれば彼が「おかえり」と言ってくれる。 それは私の気持ちをとても落ち着かせてくれた。  外見は小学生の男の子と大人。 正直に言うと何度か彼の外見を大人のものと交換しようかと考えたことがある。 だがそのためには車が1台分買えるだけの金額を用意しなければならないのとその子供の姿が私にとっては 一番馴染みがあるホッとするものだったのでやはり考えるだけで終わってしまった。 大学を出て就職をしてお付き合いする女性ができて、私は彼のことを話せないでいた。 私にとっては大事な『兄』なのだ。 必死の思いで、私は彼女に彼の話をした。 すると彼女は、 「別にいいよ。私も猫飼ってるし」 という一言が返ってきた。 正直、拍子抜けした。 猫とドロイドではずいぶん違うだろう。 だが、そんな性格の彼女だったから余計に引かれたのかもしれない。 やがて子供が生まれ今度はその子たちの『兄』に愛はなった。 私たちの家族と共に彼はずっといた。 彼は私たちの家族だった。 私と愛が出会ってから80年が過ぎた。  この頃、彼の動きが途中で止まってしまうことがよくある。 心配になって私はメーカーを訪ねた。 メーカーの話ではバッテリーが消耗していてあと10年ほどで停止してしまうらしい。 新しいバッテリーにと思ったが、すでに彼自身はとても古いプロトタイプであるため交換するためにはあちらこちら入れ替えなくてはならない。またバッテリーを入れ替え大幅に修復するためには初期化しなくてはならないらしい。 ……つまりそれは私との思い出が消えてしまうということだ。 もちろんバックアップは取れるらしいがAIの仕様が変わってしまっているために性格に誤差が出てきてしまうらしい。 どの道そうなってしまうともう彼は彼ではなくなってしまう。 あと10年…… 私の命が尽きるのが先か、彼が停止してしまうのが先か…… 私は彼を家に連れて帰った。  妻は3年前に先立った。 子供たちはとっくに成人してそれぞれの家庭を持ち中には孫がいる子供もいる。壁にかけられた写真は私の時間だ。 いや正確には私と彼の時間だ。  夜も更けて布団に入る。 愛もまた同じように布団に入る。 バッテリーの消耗を抑えるために、夜は同じように寝ることにしたのだ。 「おやすみ」 「おやすみなさい」 目をつぶる彼を見て夢を見るのだろうかと思った。 機械人形は夢を見るのだろうか……
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 103回 • 💬 0件
コメディ・日常
1019文字 約3分で読了

煌めくトンボたち

田んぼの横には彼岸花が咲いていた。 秋風に心地よく揺れる稲穂は金の実りをたたえていた。 その上を煌めく羽根のトンボたちが飛んで行く。 今年の9月の祝日はとても長い。土日を挟んで5日もあるのだ。 ちょうどお彼岸だ。だから、ほんの少し離れた娘と孫がお彼岸に遊びに行ってくる。 孫は虫取り網を持ってトンボを追いかけていた。 「じいちゃん見てみて!いっぱい捕まえた」 虫かごの中にはトンボがいっぱい。 「ほぉー、すごいじゃないか!」 私はにっこりと笑った。 「いいけど後で逃がしておいてね。かごの中じゃ、かわいそうだし家に持って帰れないからね」 娘は呆れたようにそう言った。  孫は虫取りが好きでよく網を持って捕まえてくるらしい。 そういえば私も子供の頃は虫取り網を持って走り回っていたっけ。 かごいっぱいに捕まえた虫を見てご機嫌だった子供の頃を思い出す。 『童子や童子、それを逃がしてもらえんかの』  ふと、子供の頃に言われたその言葉が耳の中でよみがえった。 あれは私が小学生の3年ぐらいの頃だった。 やはり晴れ渡った空の下、トンボのかごをご機嫌で持って歩いていた時にその声を聞いた。 私は声の主を探して辺りをキョロキョロと見回した。  声の主は神社の高いクスノキの上に腰かけていた。 和服姿の風変わりな少年だった。 少年は木の上からひょいと飛んで私の足元に着地した。 天狗だ! それを見て私はそう思った。 きっと 天狗に違いない。あんな高いところから飛び降りて平気なんて。この辺りの森には天狗が住んでいるという伝承があるのだ。  私は慌てて虫かごを開いた。 トンボたちは一匹ずつ、その美しく輝く羽をはためかせ空へと帰って行く。 ちょうど今はお彼岸じゃ。死んだ者たちがの、ああやってトンボの姿になって帰ってきておるのじゃ』 と、その少年は言った。 少年が指を差し出すと、1匹のトンボがそこに止まったのだ。 『久しいの』 少年は愛しいものを見るかのような目でそのトンボを見つめた。 きっとそのトンボは、死んだものの魂がトンボの姿になって彼のところにやってきたのだと思った。 トンボたちが飛んで行くのを私は彼と見送った。 その少年と会ったのはその一度きりなので、本当のところ彼が 天狗だったのか そうじゃなかったのかは分からない。  孫は虫かごを開いた。 「バイバイまたね!」 虫かごから飛んで行くトンボたちを見ながら孫はそう言った。 青い空に煌めく羽根。 やはりトンボは誰かの魂なのかもしれない。 ……大切な相手のもとへ飛んで行ったのだろうか。
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作者:しとえ
2026/09/18 • 👁 90回 • 💬 0件
恋愛
3645文字 約8分で読了

きみの恋を、あたしの文字で。

気だるい日常。 意味のない、何も変わらない毎日。 言葉と数字で埋め尽くされた黒板を見ているだけの 退屈すぎる時間が、どんどんとあたしの心を蝕んでいく。 「……はあ。つまんない」 あたしはため息をついて、周りを見渡した。 くだらないモブたちは あたしの引き立て役にもならなくて、 本当に灰色のつまらない世界が あたしの人生を形成していく。 先生の声も、 黒板を走るチョークの音も、 いつしか遠くなっていった。 頬杖をついたまま、あたしはそっと目を閉じた。 ――まだ、小学生だった頃。 「待てって! 置いてくなよ!」 ランドセルを揺らしながら、 悠真が後ろから走ってくる。 「遅いからだよ。もう置いてくからね」 「ひでえ! 幼馴染だろ!」 「知らない。勝手に幼馴染になっただけじゃん」 「幼馴染って、勝手になるもんだろ?」 「……っ、うっさい」 あの頃は、くだらないことで笑っていた。 そんな毎日を、今では懐かしく感じる。 学校からの帰り道。 道端に転がっていた石を蹴って、 どっちが遠くまで飛ばせるか競ったり。 あたしが転べば腹を抱えて笑うくせに、 膝から血が出ているのを見つけたら、 急に真面目な顔をして絆創膏をくれたり。 そんな悠真のことを―― あたしは、確かに好きだった。 いつからだろう。 クラスが離れて、 話す回数が減って、 お互いに違う友達ができて。 いつの間にか、 好きだったことさえ昔の出来事になったんだ。 悠真のいない帰り道にも慣れて、 それが普通になっていった。 ……そうだ。 あたし、あいつのこと好きだったんだっけ。 「――おい。授業終わったぞ」 「……んぁ?」 顔を上げると、教室には 帰り支度を始める生徒たちがいた。 ……なんだ、夢か。 ……最悪。 よりによって、なんであいつなんか。 「終わったら、さっさと帰ろ」 鞄に荷物を詰め込んで、 何事もなかったかのように去っていく。 はじめから、ここには あたしなんていなかったと思わせるくらいに。 これだけが、あたしの 学校における日常の中で唯一のしあわせなのだ。 誰に邪魔されることもなく、帰路につける。 純粋に、ただ、まっすぐに。 すると、そこで呼び止められた。 「……澪、ちょっといいかな」 苛立ったあたしが振り向く。 そこにいたのは―― さっき夢にまで出てきやがった、 小学校からの幼馴染、悠真だった。 悠真は、驚いた顔であたしを見つめていた。 そりゃそうだ。 あたしはいま、あの退屈から抜け出して しあわせになれる瞬間を謳歌しようとしていたのに。 なにを邪魔してくれてんだ。 ふざけんのも大概にしろ。 ……それに。 なんで今日に限って、お前なんだよ。 おいおい、変な感情を放り込んでくれるなよ。 ただでさえ、こちとら感情がごちゃごちゃしてんのに。 「……なに」 声が裏返ってしまった。 誰かと話すのが久しぶりだったのだ。 でも、それだけじゃない。 あたしの声には、他の感情も混ざっていた。 おいおい、嘘だろ。 まさかすぎるだろ。 震える声。 気持ちの戸惑い。 汗ばむ手のひら。 なんか変に、焦りまで感じ始めてしまう。 「お前さ、字綺麗だから……これ、書いてくれない?」 「……はぁ?」 なんだ、お前。 何なんだ。 手紙かなんか知らないけどさ、 文面だったらてめえで書けよ。めんどくさい。 なんであたしがこんなこと……。 話を聞くと、好きな子がいるらしい。 けれど、自分で恋文を書く勇気はない。 おまけに字が汚すぎて、自分で書いた文字すら 後から読めなくなることがあるらしく、 あたしに泣きついてきたのだとか、ぬかしやがるのだ。 殴っていいよね? ほんとにさ。 「なんであたしが……。こういうのって、自分で書かなきゃ……」 「頼む!」 間髪入れずに遮りやがって。 いまはあたしのターンだろ。 断らなかった、あたしもあたしで腹が立つ。 好きな子が誰なのか聞くのも忘れたし、 ほんとに自分で書いたらどうなんだ。 少しくしゃっとノートの切れ端を握る。 すると、手汗が紙を泣かせてしまう。 「……ああ、もう」 頭をかいて、紙を鞄にしまった。 不貞腐れた仮面をつけて、 あたしはいらいらしながら帰宅した。 しあわせな時間なんて、 とっくに腐って滅んでる。 こういうのって、なにを書くんだ。 待てよ……。 あたし、誰かと話すのは久しぶりだけど、 手紙なんて書いたことあったか? さすがに鉛筆じゃ駄目だよな。 それともボールペン……。 でも、間違えたらめんどくさいし。 だいたい、お前の気持ちはどうすんだ。 あたしの気持ちをペンに抱かせたって、 全くもって意味ないじゃん。 ……やばい。 全然進まない。 とりあえず、書くだけ書いて振られても、 あたしはやることやったんだ。 あとは悠真に任せよう。 知らん知らん。 これ以上、あたしの時間を奪うなよ。 紙を睨みつけながらペンを握ってみたけれど、 意外と出てこないもんなんだよな。 あたしは、当たり障りのない文章で 紙を埋め尽くしていった。 標準語。 テンプレートのお決まり文句。 美化しすぎた言葉たち。 きらきらしてて、吐き気がするわ。 やめだ、やめ。 なんで、 あたしがこんなことをしなくちゃいけないんだ。 このまま破り捨ててしまおうか。 完成した文面を見て、あたしは嘲笑う。 あたし、性格終わってんな。 まじで。 気にすることなく、 くしゃくしゃに丸めてゴミ箱にそのまま捨てた。 やっぱりあたしには無理だった。 誰かのために何かをしたり、求められたり。 なんで、あたしなの? 他にも頼る人ならいるじゃんか。 あれから数時間が経ち、 あたしの時間はさらに狂って、調子が出ない。 悠真さえ、話しかけてこなければ……。 もやもや、いらいらしっぱなしで 全くもって落ち着かない。 深く、長すぎるため息が街中を包み込む。 ……ああ、もう。 分かったよ。 書けばいいんでしょ、書けば。 ぶつくさ言いながら、 大事にしていた、好きなバンドのライブで買った 限定の便箋を取り出した。 「……まさか、こんなところで使うことになろうとは」 よく考えてみると、 あたし自身のこともそうだけど、 誰のこともよく知らない、分からないままだった。 悠真を自分だと思い込んで、 文面を書いてみることにした。 手も、心も、時間も止まってしまった。 何も出てこない。 どうして。 さっきまで文句なら、あんなに出てきていたのに。 冷蔵庫から紅茶を出して、 一気に飲んで、ひと息ついた。 誰に出すかは聞かなかったから、 名前は伏せて書いたらいっか。 そして、もう一度ペンを握る。 「あなたを思うと、自分が自分じゃないようで。 授業はおろか、食事にも集中できなくて、 好きなことをしていても楽しくなくて、 あなたのことばかり考えてしまう。 あなたのことが好きなんです。 ぼくとお付き合いしてください」 ……こんなもんでいいだろうか。 改めて見ると、恥ずかしい。 考えれば考えるほど、悠真が頭から離れない。 ちょっと待ってよ。 これは手紙を頼まれたから……。 え。 うそ。 やだやだ。 好き……じゃないよな。 ちょっと待ってよ。 焦りまくって、手紙を落とした。 鏡を見ると、 自分じゃなくなったみたいなあたしの姿が、そこに映っていた。 「だれ……あんた。あ、あたしか」 戸惑って、変なことまで言っちゃうし。 急に意識しすぎると、 鼓動の音がうるさくて。 その頃、時間は真夜中で。 落ち着かないあたしは、 コンビニに行くことにした。 点滅してる信号が、 あたしのこころと呼応するみたいに瞬いている。 余計なお世話だ。 黙ってろ。 ドキドキドキドキ。 その場でしゃがみ込んで、泣きそうになる。 嘘だよ……。 前は確かに好きだったけど。 こんなふうに思い出して、 見つめ直しただけで、こんなことありえるの? あたしの平穏はどこへやら。 やりたいゲームも、 課題も、 趣味も、 部活も。 全部、中途半端に止まって。 優柔不断で、投げ出すことが多いけど。 これだけはちゃんとできたから。 明日、会ったらちゃんと渡そう。 翌日、学校に行って、悠真を呼び出した。 「……これ。で、できたから……」 あたしの心臓が高鳴って、 破裂しそうなのは言うまでもなく。 「おう! サンキュウな!」 手紙を受け取ると、 悠真は走ってどこかへ行ってしまった。 軽すぎんだろうが。 もっと崇めろ。 しあわせを犠牲にして仕上げてやったんだ。 感謝しろよ、まじで。 こんな言葉ならずらずらと出てくるのに、 素直になれないあたしが嫌だ。 この日の授業も退屈で、 あたしはまっすぐ、すぐ帰る。 今日こそは……。 いつものように鞄に荷物をしまって、 何事もなかったかのように去っていく。 やっぱり、これがあたしらしい。 気持ちよくて、清々しくて。 自分の靴に履き替えたら、 あとは自宅に向かって歩いていくだけだ。 雑念も、雑音も、 全部シャットダウンしちゃってさ。 自分の下駄箱に手を伸ばすと、 何かが手に当たった。 「え、なに。怖いんだけど」 取り出してみる。 あたしが書いた手紙だった。 え、うそ。 不備あった? ちゃんと書いたはずだけど。 慌てて中身を確認する。 そこには、 あたしの名前――『澪』がびっしりと書き込まれていた。 そして最後の最後。 悠真の字で、たった一言。 『大好きです。』 またしても、あたしの時間が止まる。 顔が熱い。 きっと真っ赤だ。 動けない。 「……ふざけんな。」
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2026/09/18 • 👁 91回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
3251文字 約7分で読了

転生したら数学者のフェルマーだったから、最終定理解いてみた

『転生したら数学者のフェルマーだったから、最終定理解いてみた』  横断歩道の赤が、ほんの一瞬だけ滲んだ。  ブレーキのきしみ、白い光、浮遊するみたいな無重力感──そして、暗転。  目を開けると、部屋は蝋燭のにおいがした。羊皮紙、砂時計、鉛で黒く汚れた指。窓の外では馬車が石畳を叩き、遠くで教会の鐘が鳴る。歴史の資料映像の中に投げ込まれたみたいだった。 「ムッシュー・フェルマー、またお目覚めだ!」  小間使いが駆け寄ってきて、にこやかにタオルを差し出す。  フェルマー? いやいや、僕はただの日本の理系大学生だ。昨夜はレポートの締切に追われて、起きたら江戸を飛び越えてフランスの──何世紀だこれ。  口を開くと、フランス語がスラスラ出てきた。脳が勝手に意味を解釈する。字幕みたいに頭の中に訳が出る。 《スキル〈言語理解〉を獲得しました》  脳裏に、見慣れないフォントのテロップが浮かんだ。夢なら凝っている。頬をつねると普通に痛い。  洗面台の金属盆で顔を覗く。そこに映ったのは、教科書で何度も見た肖像画の男──丸い額、たっぷりの髭、切れ長の目。  これが僕? いや、これは── 「ピエール・ド・フェルマー?」  自分で口に出すと、部屋の空気が「そうですとも」と頷いた。  ふらつく足で机に近づく。そこには斜めに置かれた羊皮紙の束、鋭い羽根ペン、そして、見覚えのある一行。 「 n>2のとき、Xn+Yn=Zn を満たす整数解は存在しない。」  震える指が、その下に添えられた文言をなぞる。  「だが、この余白は狭すぎる。」  ──余白が足りない。  高校の数学史の授業で先生が微笑みながら話してくれた、お決まりの逸話。あの“軽口”の現場に僕はいる。僕が書いた……のか? いや、僕は“彼”でも“僕”でもある。ややこしい。  試しに簡単な暗算をしてみる。九九どころか、桁の多い掛け算が、湯気のようにスッと消える。  式が見えた瞬間、答えが重力みたいに落ちてくる。 《スキル〈演算能力〉を獲得しました》  これはもう、どうしようもなくゲーム的だ。けれど、確かに頭が軽い。計算が、呼吸になった。  数日後、トゥールーズの学者たちが集う席に招かれた。ワインと議論の香りが満ちた部屋で、僕はテーブルナプキン代わりの羊皮紙にほとんど落書きみたいな速度で証明を書きなぐった。ベクトルとか群とか、この時代にない概念の手前で寸止めしつつ、古典の語彙に合わせて変形させる。  ひとりが唸り、ひとりが怒鳴り、ひとりが笑った。ざわめきが波紋のように広がり、僕は少しだけ楽しくなった。無双──という言葉がふさわしい瞬間って本当にあるんだ。  ……調子に乗りかけたところで、雷のような記憶がよぎる。  フェルマーの最終定理。  たしか、三百数十年後にようやく証明された。つまり、この時点では誰も解けない。ならば、フェルマー本人が解けるわけ──いや、今の僕はフェルマーで、さらにスキル持ちだ。  やってやろうじゃないか。余白どころか、巻物一本使ってやる。  僕は机に突っ伏し、何日も、何夜も、羊皮紙を黒くした。  素朴な整数の海に潜り、見たことのない魚影(アイデア)を追い、網(補題)を編んで投げる。  だが、魚は指の間をするりと抜けるように、最後の一手で消えてしまう。  早い計算は、たしかに強力だ。だが、速さと到達は同じではない。山頂は見えているのに、尾根道が霧で隠れている。あと一石、要る。  僕はとうとう、フェルマーの家の隅々まで漁り始めた。  書棚の裏、引き出しの二重底、暖炉の上の壺の中──ヒントになりそうなものなら何でも。  そして台所で、厚い手書きの本に出会った。表紙には、エレガントな筆致で〈Recettes〉とある。 「レシピ本……?」  ページをめくると、やけに整然とした記述。分量の数字が妙に美しい比を作っている。アーモンド、砂糖、卵白——マカロン? いや、これは……  例えば、砂糖二:アーモンド粉三。そこに“冷ました卵白を静かに折り込む”とある。折り込む──fold。  数学の“剰余類を束ねる”作法に似た言い回しに、僕の職業病が騒いだ。 「暗号か?」  僕はペンを走らせ、置換表を作り、段落ごとに数字へマッピングし、頻度表を作り、出現パターンを洗い出した。  そして── 《スキル〈解読〉を獲得しました》  視界が一瞬、薄く透けた。紙の行間が段差になり、その隙間に別の文字列が落ちているのが見える。  読み取ると、そこにあるのは、驚くほど素朴で、驚くほど慎ましい文章だった。  ──好きな人の手の震え。  ──市場で見かけた青いリボンの女の横顔。  ──焼き菓子がうまく膨らまなかった日の、ふくらまない胸。  食譜は、恋の譜だった。  天才の家の片隅に隠されていたものが、数式じゃなくて恋文だなんて。  胸のどこかが、ほっと救われる。僕は台所の椅子に座って、しばらく笑った。  数学者の家だって、粉糖が舞うのだ。余白の温度。  彼にとって最も証明できなかったのは、恋の方程式だったのかもしれない──  恋文を読み終えた夜、書斎の奥で埃をかぶった薄い小説を引っ張り出した。  見覚えのない作家の、見覚えのある題名。ページを開くと、ひらりと一枚、メモが落ちた。  拾い上げて、息を呑む。  奇妙な記号列。  当時の記法では説明しきれない、未来の概念が、あまりに不器用な手つきで書かれている。  読めないはずの文字が、意味を求めてうごめき、脳の奥で何かがはじけた。 《スキル〈解読〉が発動しました》  世界が一瞬、数式になった。  窓枠は境界条件、蝋燭の炎は局所的な極大、床の木目は写像の軌跡。  音が消え、色が輪郭を脱ぎ、代わりに構造だけが残った。  その構造のど真ん中に、ずっと掴めなかった尾根道が、細い銀線みたいに通っている。  ──これだ。  僕は震える手でペンを握った。  今までの紙束が、意味のある順序で並び替わり、足りなかった石が綺麗に嵌まっていく。  証明は、眼前にある。ただ、説明できる言葉が、まだこの時代にはない。  翌日、僕は人前に立った。  学者たちの視線の先、板の間に広げた紙の海。  僕はゆっくりと話し始めた。整数の性質、無限降下法、既知の補題。  そして、問題の核心に触れるとき──言葉が足りなくなった。  使えない。ここで必要なのは、未来から来た“概念”の梯子だ。  僕が理解しているものを、他人に同時代の語彙で渡せない。  沈黙。一枚の紙切れが、風もないのにふるりと揺れた気がした。  僕は静かに息を吸って、結論だけを置いた。 「 n>2のとき、整数解は存在しない。私は、そのことを確かに見た。だが──」  余白を指さす。  蝋燭の煤が、僕の指の先で揺れた。 「この余白は、まだ狭すぎる」  部屋にざわめき。理解できない、納得できない、しかし否定もできない空気が生まれる。  証明を、僕は持っている。けれど、それをこの時代の文法で記せない。  伝わらなければ、証明ではない。  その夜、僕は机に向かい、ひとつの短い宣言を書き残した。 「世界中で我先に解こうとするだろう。  それでも解けない。  そして──三百五十年は、解けないだろう。」  翌朝、胸が少しだけ痛んだ。  寿命というやつが、いよいよ現実味を帯びる。  死ぬ間際、僕は台所に立ち、あのマカロンのレシピを開いた。  砂糖二、アーモンド粉三。  折り込む、という動詞の美しさ。  この世界もまた、別の世界から折り込まれているのだろうか。  ふと、現代の友人たちの顔が浮かぶ。ゼミ室の匂い、コンビニの明かり。  僕は、静かに目を閉じた。    時が跳ぶ。  石造りの街はガラスと鉄に変わり、羊皮紙は液晶となり、学会のざわめきはネットのざわめきへと形を変えた。  ひとりの数学者が、黒板の前でチョークを握っている。  その手は震えているが、指先は確信に満ちている。  彼の背後で、世界中の耳が息を呑む。  彼は、新しい言葉と新しい梯子を使って、あの細い銀線を他者に渡していく。  証明は、いまや言語になった。誰もが上れるように。  黒板の隅に、彼は小さく書いた。  ──これは、とても古い余白への返事だ。  紙の向こうから、粉糖の甘い匂いがした気がした。  台所の椅子が、きしむ音がした気がした。  そして僕は、どこかで、少しだけ笑った気がした。 了
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作者:河内謙吾
2026/09/18 • 👁 158回 • 💬 2件
ホラー・怪談
978文字 約2分で読了

20時前には

「もう少しで彼女が帰ってくるはず……」  私は時計を確認して、料理を始める。  いつも通りの料理。  基本的に在宅ワークの私が料理を作っている。  作れる方が作ればいいし。  特に凝ったものでもなく、簡単に作れるものを用意した。    カチャ。   「ただいまー」  いつも通り、彼女が帰ってきた。 「おかえり」  私は部屋から顔を出す。  彼女は、少し雑にヒールを脱いでいた。  よほど疲れていたらしい。 「夕飯できてるよ」 「ありがとう」  彼女は顔を緩ませて、リビングに来た。 「今日のご飯なあに?」 「冷蔵庫にあるものを適当に炒めた」 「そっか」  そう言いながら、彼女は冷蔵庫にあるお茶を取り出した。  コップに入れて一気飲みをする。  外が暑かったらしい。けれど、私は在宅ワークで一日中外に出なかったからわからない。  私は、皿に料理を盛り付けてテーブルに置いた。  彼女も椅子に座った。私も椅子に座り二人で食べる。 「今日、外暑かったよ」  そう言う彼女の首筋には水滴がついていた。 「外回りの営業お疲れ様」 「うん、ありがとう」  しばらくして私たちは食事を食べ終わりくつろいでいた。 「先にお風呂入る?」  一日中、外回り営業をしていた彼女が、  先にお風呂に入った方が良いかなと思って。 「大丈夫だよ。先に入っておいで」 「……わかった。ありがとう、先に入るね」  私は脱衣所に入り、服を脱いで浴室へ入った。  水が体に当たる。  一日中、部屋にいたから体が冷えないように少し温かい温度。  汗は出ていないけれど、何となくゴシゴシ洗った。  すべて洗い終わり、浴室を出た。  髪の水滴をタオルでふき取り、ドライヤーを当てる。  カチャ。 「ただいまー」 「……え」  思わず脱衣所から顔を出す。  そこには、首筋に水滴をつけたまま、ヒールを雑に脱ぐ彼女がいた。 「あ、お風呂入ってたんだ」 「あ、うん」 「まだご飯できてないよね?外食でもいいよ」 「え、いや、食べたよ。一緒に食べたじゃん」 「いやいや、何言ってるの、今帰ってきたばかりじゃん」 「帰るって連絡したよ」  私は何も言わず、スマホを開く。  >18:43  今から帰るね。多分、20時前には家に着くかも。    確かに、メッセージが来ていた。 「大丈夫?」  私の顔を覗き込む彼女の首筋には水滴が滲んでいた。  そして、私の頭も水滴が滲んでいるだろう。  右手に持っているドライヤーだけが、何事もなかったように風を送り続けていた。  私は首だけを曲げて、リビングの方向を見た。
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作者:ReiN.
2026/09/18 • 👁 90回 • 💬 0件
恋愛
1130文字 約3分で読了

私はトマトが好きだ

 今日は、彼女が来る日。  付き合い始めて、2回目の来訪。  私は朝から部屋の掃除をし、彼女が来るのを待つ。  来るのは、15時。私は汚くもないのに無駄に部屋を片付ける。  最後の一冊の本を本棚にしまい、掃除が終わる。  お菓子ある。夕飯の材料もある。彼女が好きなポテトも。  チャイムが鳴った。  私は、いつもより音を立てて玄関へ向かう。 「いらっしゃい」 「お邪魔します」    彼女は、昨日まつエクサロンに行ったらしい。  彼女の睫毛を見ると、ブラウンのナチュラルにしたみたいだ。  化粧と相まっていつも以上に柔らかい印象。 「あ、ポテトあるよ。今揚げるね」 「そうなの?ありがとう」  私はポテトを揚げ始める。   「私ポテト好きなんだよね」  知っている。  付き合う前から、外食した時にポテトばかり食べているから。  テーブルの上にポテトが乗った皿を置く。 「ありがとう」  そう言いながら、彼女はポテトを口に運ぶ。  彼女の口は小さい。  本人は少し気にしているけど、私はよく視線が吸い込まれてしまう。  一本目を食べ終える。  彼女はすぐに二本目に行かず、ポテトの上で手を泳がせている。  熱かったらしい。  二本目をとった。  息を吐く。少し浅い息。  私は、それを見ていた。  別に珍しいことじゃない。  ポテトは揚げたてだし、誰だって熱い。  なのに、なぜか目が離せなかった。  ケチャップを付けようとして、少しだけ指先に赤が付く。  彼女は気付かない。  私はトマトが好きだ。  だから、気付いた。  ナプキンを手渡そうと思った。  思っただけだった。  私は、彼女の手元から目が離せない。  彼女の爪は長い。普段ネイルをしている。  私は何気なく自分の爪を見た。  長いけれど、切れば大丈夫。  二本目を食べ終える。  彼女は塩を落とさないように指先を揃える。  少し、塩っ気がある方が好きらしい。    私はそれを見ていた。  ポテトを見ていたわけじゃない。    彼女の指先を見ている。唇を見ている。  私は自分の爪を見た。  ほんの少し指を動かした。 「食べたら?」  彼女が言う。  指の動きが見えたらしい。 「うん」    私はポテトを食べる。  味はした。でも、何の味かはわからない。分からなくていいと思った。  お互いに無言でポテトを食べる。  私は、彼女の指を見ながら。  彼女のネイルは、薄いピンク。  私は、前日に自分のネイルを落としてよかったと安堵する。  今さら見ることじゃない。  彼女の指も、唇も、付き合う前から同じだった。  ポテトを食べ終える。 「ねぇ」 「なに」 「ずっと私のこと見てたでしょ」  彼女には、ばれていたらしい。  私は、そっと窓の外を見た。  窓の外は既に暗くなっていた。もう冬だから日が沈むのが早いらしい。  彼女がナプキンで指先を拭く。  でも、少しだけ赤が残った。  彼女は手を私に見せている。   「手、洗おうか」 「うん」  私は、電気を消して、彼女の赤がついた手を取った。
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作者:ReiN.
2026/09/18 • 👁 95回 • 💬 2件