ロマンティックなミルキーウェイに浮かぶ小さなカフェ。星くずの舞う宙を度々見ながら、私達は話をしていた。いや、一方的に私が話をしていた。
話の内容は様々だ。私が縁を切ったつもりのアイツや、私の恋愛事情をネットに書きこみやがったアイツの話。私は並べられるだけの罵詈雑言を並べ、ボックス席の向かい側に座る青年にぶちまけていた。
「相変わらず、貴方は口が悪いなあ」
青年はヘラヘラと笑って、私の話を聞いてくれる。彼の相槌は柔らかくて心地いい。彼が笑うと、全てどうでもよくなる。憎かったアイツらが遠ざかっていく。
「にしても随分、遠くまで来たね」
ふいに彼が輝くミルキーウェイを窓から見る。星の海、天の川、牛乳が生クリームになりかけたやつ。綺麗な宇宙を見る青年の睫毛が儚く震える。ミルキーウェイより君が綺麗だと口説いたら、彼は愛想笑いでかわすんだろう。そういうヤツである。
「で、次の作品はいつ出来上がるんですかセンセー」
見惚れていたら、いきなり痛い所を突かれて閉口した。あれだけ威勢よく罵声を発していた口はあっという間に静かになる。青年はそんな私を見てクスクス笑った。
「まあ僕達には途方もない時間があるんだから、一作完成すれば上出来だよ」
時間なんてない。君にはあっても、私には時間がないのだ。私の命は限られている。ミルキーウェイから地球に降り立つ頃、私はもう息絶えているだろう。だから、この場所で書けるだけ文章を書かねばならない。
ペンを取った。私のやるべき事を思い出した。私は文章を書かなければいけなかったんだ。罵声のドミノを一通り倒し終わり、くすんだ紙に文章を書き連ねていく。
夜明けの来ないミルキーウェイ。私達は孤独に宇宙を漂って、死ぬまでの暇つぶしを再開した。
続きを読む
星の流れる美しい川辺りで、私は彼を待っていた。
川の水を掬うと、金平糖の様にきらきらと輝く星の水が手を濡らす。溢れ落ちる光の雫を、一人見つめて小さく息をついた。
彼に会える日は、とても特別。この星の川を渡って彼に会う日はいつだって美しく着飾っている。今日の為に織った美しい衣、艶を忘れない黒髪、淡く染めた唇……そのどれもが、全て彼の為。
一年に一度しか会えない彼の前では、誰よりも美しくいたい。それは女の意地であり、覚悟。今日が終わり、彼が再び私から離れても私を忘れないようにする為に密やかに込める色香。私をその身にじんわりと焼き付けて、忘れないでと、彼に甘く囁く準備は出来ていた。
どうか、早く会いに来てくださいませ。とびきり甘美な夢を、貴方に差し上げましょう。この身は全て貴方のもの。早くその手で、優しく私を乱して欲しい。
胸の小さな高鳴りが、星の水と共に流れていく。
続きを読む
月曜の朝、通い慣れた近くの公園に行くと、私がいつも座る場所に先客がいた。その人は白い半透明のビニールテープで体を覆うミイラさんだった。
「おはようございます」
私がそう話しかけると、ミイラさんはどっしりと構えて何処かを見つめたまま静かに頷いた。反応はしてくれるらしい。
私はベンチの空いたスペースに腰掛けて、ミイラさんへ更に話しかけた。
「昨日は酷い雨だったでしょう。大丈夫でしたか? このベンチも雨のせいで湿り気があって少し心地悪いですよね。それで、今日は朝のお散歩ですか。涼しい風に当たると、肌も少し違いますか」
私が適当に話しかけるのに、ミイラさんはただ頷くだけ。喉が渇いているから喋れないのか。私は途中で買ってきた缶コーヒーをミイラさんに差し出した。
しかし、ミイラさんは首を横に振って受け取らない。コーヒーが好きではないらしい。
「ふむ、では次会う時、麦茶でも持ってきましょう……って、おやまあもうこんな時間。ミイラさん、私は仕事があるので帰りますね」
私がそう言ってベンチから立ち上がってみると、ミイラさんは頷いた。
「さようなら、また会う日まで」
滑らかで少し高い声に、私は驚いた。何だ、喋れるではありませんか。しかも、合唱曲などを粋に引用して。
私は小さく笑い、ミイラさんに言葉を返した。
「ええ。今日の日は、さようなら」
続きを読む
今日の雨は、夕方からずっと降っていた。
午後十一時十二分。
私は古びた待合室の隅で、濡れたローファーを見つめていた。
土砂崩れの危険があるらしく、電車は止まっている。次に動くのは早くても明朝。
最悪だった。
「君、高校生?」
顔を上げると、四十代くらいの男が立っていた。
「……はい」
「家の人、迎えに来てくれないの?」
「無理みたいです」
待合室には、ほかに二人。
スマホを何度も確認するスーツ姿の男と、壁にもたれている若い女。
私を入れて四人。
知らない大人たちと一晩。
怖くないと言えば、嘘になる。
*
最初におかしなことが起きたのは、十一時四十分だった。
「……誰だよ」
スーツの男が立ち上がった。
手には一枚の紙。
日付。金額。会社名らしい文字。
私には意味が分からなかった。
けれど男の顔から、血の気が引いていた。
「どこにあったんですか」
「俺の鞄」
「最初から入ってたんじゃ?」
「そんなわけない!」
声が響き、私は肩を震わせた。
「……悪い」
「いえ」
怖かった。
はやく帰りたい。
*
日付が変わる頃、今度は女がスマホを見て固まった。
「なんで……」
画面には暗い駐車場。
女と、知らない男が近い距離で写っていた。
「誰が送ったんだ?」
「知らない番号……」
「その写真は?」
「知らない!」
女が叫んだ。
「あの……」
私はペットボトルを差し出した。
「お水」
「……ありがとう」
手が震えていた。
少し前まで怖いと思っていた大人が、急に小さく見えた。
*
一時を過ぎても、誰も眠らなかった。
「偶然じゃないだろ」
スーツの男が言った。
「ここにいる誰かがやってる」
沈黙。
三人の視線が、最後に私へ向いた。
「……私?」
「こんな子なわけないだろ」
最初の男が私の前へ立った。
「高校生だぞ」
「高校生なら何もできないの?」
女が言う。
私はバッグを抱きしめた。
「私、何も知りません」
「分かってる。怖いよな」
頷いた。
本当に怖かった。
*
一時二十七分。
待合室の古いスピーカーから、突然声が流れた。
『あのときは仕方なかった』
最初の男の声だった。
『俺だって、ああするしか――』
そこで切れた。
「あなたの声でしょ」
「知らねぇって言ってるだろ!」
「何をしたの?」
「何もしてない!」
男が椅子を蹴った。
私は耳を塞いだ。
「やめて……」
「すまん」
男はすぐに目を逸らした。
紙。
写真。
録音。
誰かが何かを知っている。
でも、誰なのか分からない。
三人は互いを疑い始めた。
声が大きくなる。
「お願いだから……」
怖かった。
もうほんとに帰りたかった。
*
二時十三分。
突然、照明が消えた。
いくつものスマホの光が灯る。
「ない……」
「何が?」
「私のスマホ……!」
涙が出た。
数分後、私のスマホは待合室の外にあるベンチの下から見つかった。
「私、外に出てない」
「誰かが持っていった?」
また沈黙。
「もう嫌……」
「朝になれば帰れるから」
最初の男が言った。
「何もしてない人間まで怖がる必要はない」
その言葉で、なぜか誰も喋らなくなった。
*
三時四十六分。
「……待てよ」
スーツの男が顔を上げた。
「俺の紙。あんたの写真。それから、あんたの録音」
最後に私を見る。
「君だけ、何もないな」
「スマホなくなったじゃない!」
「見つかっただろ。俺たちは違う。全部、知られたくないものだ」
「……やめてください」
涙が落ちた。
「私、何も知らない」
「君はどうして今日、ここにいる?」
「電車が止まったから」
「違う。こんな時間まで、どこにいた?」
「やめろよ」
「この子がここへ来る理由がない」
「あるよ」
小さく言った。
「ずっと前から」
*
「……どういう意味?」
私はスーツの男を見る。
「十一か月」
女を見る。
「八か月」
最後の男。
「一年と四か月」
「何の話だ」
「見てた時間」
「……誰を」
「皆さんを」
誰も動かなかった。
「俺たちは今日初めて会った」
「うん、そうだよ」
「じゃあ――」
「私は初めてじゃない」
スーツの男を見る。
「去年の四月十九日。雨の日でした」
「……何を言ってる」
「濡れた革靴のまま家に入るの、嫌いですよね」
男の顔から表情が消えた。
女を見る。
「コーヒーに砂糖入れなくなったの、六月から。でも苦いの嫌いだから、飲むときちょっとだけ眉間に皺が寄る」
「気持ち悪い……」
「かわいいですよね」
最後の男を見る。
「怒ると、左手の親指を握りますよね」
男が自分の手を見る。
握っていた。
「……誰に聞いた」
「誰にも」
「じゃあ、どうやって――」
「ずっと見てきたから」
さっきまであんなにうるさかったのに。
静かになった。
*
「全部、お前だったのか。紙も、写真も、録音も」
「さあ……どうでしょうか」
「答えろ!」
肩が跳ねた。
大きな声は苦手だ。
「怒鳴らないでください」
「ふざけるな!」
「ほら。また時計触ってる」
「……何?」
「嘘つくと、時計触る」
男の手が止まった。
「じゃあ、俺たちが今日ここにいるのも……お前が呼んだのか」
「呼んでないですよ」
「だったら、なんで三人ともここにいる」
「来るようにしただけです」
「同じだろ!」
「皆さん、自分で来たじゃないですか」
「この雨も、電車が止まったのも?」
「それは知らないです」
「は?」
「私も困ってたんですよ。帰りたかったの、本当です」
誰も信じてくれなかった。
「あ、そうだ。スマホは私です」
「……何?」
「私だけ何も起きなかったら、変でしょう?」
「泣いてたのも?」
「怖かったのは本当ですよ」
「何が怖いのよ」
「ばれそうだったから」
女は何も言わなくなった。
*
「なんでこんなことするの」
「皆さんのことが好きだから」
「……何?」
「ずっと観察してたら、好きになりました。だから、これからも見ていたいんです」
「もう私たちに関わらないで!」
胸の奥が少し痛くなった。
「……嫌なんですか?」
「当たり前でしょ!」
「そうなんだ」
私はスマホを取り出した。
「じゃあ、仕方ないですね」
「何が」
「皆さんのこと、知ってる人に教えます。会社とか、ご家族とかに」
三人の顔が変わった。
「今まで通りでいてくれたら、何もしません」
「何をすればいい」
「何も?」
私は首を傾げた。
「普通に暮らしてください。これからも、ずっと私の観察対象でいてくださいね」
三人は呆然と立ち尽くしていた。
「大丈夫です」
私は笑った。
「私がちゃんと、愛でてあげますから」
「断ったら?」
スーツの男だった。
「じゃあ、試してみます?」
スマホの画面を二度触った。
「はい」
「……何した」
「送ってあげました」
男のスマホが震えた。
画面を見た男の顔が変わる。
「……妻からだ」
もう一度、震えた。
「やめろ。取り消せ」
「もう手遅れです」
私は残った二人を見る。
「お二人は、どうしますか?」
返事はなかった。
「……よかった。仲良くできそうですね」
「俺のはもう送ったんだろ」
「はい」
「だったら俺は終わりだ。もう脅せるものがない」
「終わり?」
「だから、俺にはもう――」
「誰が、解放するって言いました?」
男の口が止まった。
「私、そんなことひと言も言っていませんよ」
「だって、もう秘密は――」
「さっき送りました」
「だったら何で俺を――」
「だって」
私は首を傾げた。
「あなたのこと、まだ全部知らないですから」
「……いつまで俺たちを観察する」
「私が満足するまで」
「それはいつだ」
「分かりません。強いて言うなら、飽きるまで、かな」
「それがいつかって聞いてるのよ」
「それを知りたいから、見てるんですよ」
秘密も知っている。
癖も知っている。
どんな顔で嘘をつくのかも。
でも、これから三人がどんな人になるのか。
それだけは、まだ知らない。
だから見ていたい。
「……ねえ。こっち見て」
誰も動かない。
「お願い」
しばらくして、一人が顔を上げた。
次に一人。
最後の一人。
三人と目が合った。
よかった。
私は笑った。
「ようやく会えた」
*
午前六時。
電車が動き始めた。
「お待たせしました。もう大丈夫ですよ」
駅員が入ってきた。
「一人だったの?」
三人は少し離れたところにいた。
誰もこちらを見なかった。
「いえ」
「怖かったでしょう。知らない大人ばっかりで」
私は笑顔のまま、
「はい」
と答えた。
本当に怖かった。
最後まで、ばれないかと思って。
嫌われちゃったけど、それくらいなら大丈夫。
バッグを肩に掛ける。
改札へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
三人とも、まだ私を見なかった。
せっかく、やっと会えたのに。
まあ、いいや。
これからも、ずっと見ていられるから。
私は笑った。
続きを読む
三月の終わり、夕暮れ時の千歳烏山駅のホームは、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
春の温い風が、線路沿いの錆びたフェンスを揺らし、どこか遠くで誰かの笑い声が響いては消えていく。
大学の卒業式から一週間。サークルの喧騒も、引っ越しのバタバタもようやく落ち着き、世界が急に静かになったような気がしていた。
拓海は、自販機で買った缶のレモンソーダを、開けもせずに両手で挟んで持っていた。
まだ冷たい缶の表面に、細かな水滴がつき、それが指を伝って手のひらを濡らしていく。
「お待たせ、拓海」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこにいたのは美咲だった。
いつもの見慣れた、少し大きめのデニムジャケットを着ている。
けれど、その髪は卒業式の日よりも少しだけ短くなっていて、耳元で揺れる小さなパールのイヤリングが、夕日を浴びてきらりと光った。
その小さな変化だけで、彼女がもう「学生の美咲」ではなく、来週から新しい場所へ進む一人の大人なのだと突きつけられた気がした。
「ううん、今来たところ。これ、飲む?」
拓海は、まだ開けていないレモンソーダを差し出した。
美咲は一瞬驚いたような顔をしてから、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべてそれを受け取った。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ」
カシャ、と静かなホームに缶を開ける小気味いい音が響く。
美咲はそれを小さく一口飲むと、「ん、美味しい」と言って、拓海の少し隣に腰掛けた。二人の間には、ちょうどリュックサックが一つ置けるくらいの、絶妙で、そして少しだけ寂しい隙間が空いていた。
大学二年の夏、共通の友人の紹介で知り合ってから、二人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。
映画の好みが驚くほど似ていること、下北沢の古着屋巡りが好きなこと、深夜に近くの公園でどうでもいい将来の話をすること。美咲と過ごす時間は、拓海にとって呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
付き合って二年。大きな喧嘩をしたこともない。周りからは「お前らは絶対に結婚する」なんて冷やかされていた。拓海自身も、なんとなくこのまま、当たり前のように美咲と同じ未来を歩んでいくのだと信じて疑わなかった。
その「当たり前」が崩れ始めたのは、去年の秋口、就職活動が本格的に終わった頃だった。
拓海は地元のインフラ系の企業に就職が決まり、この街に残り、慣れ親しんだ環境で社会人を始めることを選んだ。一方で、美咲の配属先は、東京から遠く離れた福岡の支社に決まった。
「総合職だから、どこに行くか分からないって覚悟はしてたけど……まさか九州だなんてね」
内定式の夜、居酒屋で少し酔った美咲は、寂しそうに、でもどこか期待に満ちた目でそう言っていた。
遠距離恋愛なんて、今の時代いくらでもやりようはある。新幹線もあるし、毎日ビデオ通話だってできる。拓海はそう自分に言い聞かせ、美咲を応援しようと心に決めていた。
けれど、冬が近づくにつれて、二人の会話の空気は少しずつ変わっていった。
美咲の口から出る言葉は、新しく始まる一人暮らしの準備や、研修の課題、新生活への希望で溢れるようになっていった。彼女の視線は、すでにここではない、遠く新しい街を向いていた。
対して、拓海の話はいつも「変わらない日常」のことばかりだった。大学の単位の話、バイト先の後輩の話、地元の友達と行ったラーメン屋の話。
美咲の話を聞くたびに、拓海は自分が彼女の足を引っ張っているような、置いていかれているような、形のない焦燥感に駆られるようになった。
そして、卒業式が終わった次の日の夜。
美咲のアパートで、荷造りがほとんど終わった段ボールに囲まれながら、彼女は静かに切り出した。
『拓海、私ね。向こうに行ったら、きっと自分のことで精一杯になっちゃうと思うの』
美咲の声は震えていなかった。ただ、酷く澄んでいた。
『拓海は優しいから、無理して私に合わせようとしてくれるでしょ? 毎日連絡しなきゃとか、月に一回は会いに行かなきゃとか。でも、そういうの、いつか二人とも苦しくなっちゃう気がするんだ。……だから、お互い新しいスタートを切るために、ここで一度、終わりにしない?』
引き止めようと思えば、いくらでも言葉は出てきたはずだった。
「寂しいけれど頑張ろう」とか、「俺がそっちに会いに行くから大丈夫だ」とか。
けれど、拓海は何も言えなかった。段ボールの隙間から見えた、美咲が大切にしていたお気に入りの小説の背表紙を見つめながら、ただ「そうだね」と短く答えることしかできなかった。
なぜなら、拓海自身も気づいていたからだ。
遠くなる距離を恐れているのは、美咲ではなく、自分の方なのだと。
新しく変わっていく彼女を、変わらないままの自分が繋ぎ止めておくのは、あまりにも身勝手なのだと分かってしまったから。
「ねえ、拓海。向こうの部屋、結構広いんだよ」
ベンチに座る美咲が、缶を両手で包みながら、前を見つめたまま言った。
「そうなんだ。何畳くらい?」
「八畳。ベランダが広くてね、近くに美味しいパン屋さんもあるんだって。今から行くのが、ちょっとだけ楽しみ」
「そっか。美咲なら、どこに行ってもすぐ友達できるよ。パン屋のおじさんとも、仲良くなれるんじゃない?」
「どうかな。最初のうちは、寂しくて泣いちゃうかも」
美咲は小さく笑った。その横顔を見つめながら、拓海は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
もう、この笑顔を一番近くで見ることはできない。彼女が寂しくて泣く夜に、隣で肩を抱き寄せてあげることもできない。その事実が、じわじわと、確かな痛みとなって体に染み渡っていく。
「拓海は? 仕事、大変そう?」
「まあ、最初は覚悟してるよ。覚えることも多いし、へまをやって怒られるんだろうな。でも、地元だからさ、最悪実家に帰ればご飯はあるしね」
「あはは、そうだね。おばさんのご飯、美味しいもんね。またあの唐揚げ、食べたかったな」
「……いつでも食べにきてよ。実家、逃げないから」
言ってから、拓海は「あ、余計なことを言ったな」と後悔した。
もう、二人は別れたのだ。これから別々の場所へ行くのに、次の約束を匂わせるような言葉は、ただの未練でしかない。
美咲は少しだけ視線を落とし、手の中のレモンソーダを見つめた。
「……うん。ありがとう」
静寂が戻る。ホームに滑り込んできた快速電車が、激しい風と音を置き土産にして通り過ぎていった。
電車の風で美咲の短い髪が大きく揺れ、彼女が小さく身を縮める。拓海は、その肩を抱き寄せたい衝動を必死に抑え、ただズボンのポケットの中で拳を握りしめていた。
「あ、私の乗る電車、次だ」
美咲がスマホの画面を見て立ち上がった。
各駅停車の電車の接近を知らせるアナウンスが、冷徹にホームに流れ始める。
美咲は手元に残ったレモンソーダの缶を、ホームのゴミ箱へ捨てに行った。カラン、と軽い音がして、二人の時間の終わりを告げるピリオドのように響いた。
戻ってきた美咲は、拓海の正面に立った。
その瞳は、夕日の赤さを反射して、少しだけ潤んでいるように見えた。
「拓海。今まで、本当にありがとう。私、拓海と付き合えて、本当に幸せだったよ。楽しかった」
「俺もだよ。美咲と過ごした時間は、全部宝物だから」
拓海は、精一杯の笑顔を作った。情けない顔だけは見せたくなかった。
彼女が新しい街へ、前を向いて歩き出せるように、せめて最後は、彼女が大好きだと言ってくれた笑顔で見送りたかった。
「うん。……じゃあね、拓海。元気でね」
「うん、美咲も。頑張ってね」
電車のドアが開いた。美咲は一度も振り返ることなく、車内へと歩を進めた。
プシュー、と音を立ててドアが閉まる。ガラス越しに、美咲がこちらを向いて、小さく手を振った。
拓海もそれに応えるように、右手を小さく上げた。
ガタゴトと音を立てて、電車がゆっくりと動き出す。車両が一つ、また一つと拓海の前を通り過ぎていき、やがて赤い尾灯だけを残して、線路の向こうへと消えていった。
美咲がいなくなったホームは、驚くほど広かった。
春の風が、拓海の頬を撫でていく。その風は、先ほどまで美咲の髪を揺らしていたものと同じはずなのに、今はもう、ただ冷たく感じられた。
拓海はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩き出し、自販機の前に立った。
先ほど美咲に渡したものと同じ、レモンソーダのボタンを押す。ガコン、と重い音を立てて落ちてきた缶を取り出し、プルタブを引き抜いた。
シュワ……
微かな炭酸の音がして、冷たい液体が喉を駆け抜けていく。
酸っぱくて、ほんの少しだけ苦い、ありふれたレモンの味。
拓海はベンチに腰掛けたまま、缶を握りしめ俯いていた。電車が通り過ぎる度に、冷たい春風が拓海を包む。
気付いた時にはもう、炭酸がすっかり抜けて、甘ったるくて苦いだけのレモン水になっていた。
まるで、引き伸ばしすぎて、瑞々しさを失ってしまった自分たちの関係みたいに。
拓海はもう一度、レモンソーダを口に含んだ。
涙は出なかった。ただ、喉の奥に残る微かな苦味が、いつまでも消えずに残っていた。
遠くの空には、もうすぐ夜の帳が下りようとしていた。新しい季節が、すぐそこまで来ていた。
続きを読む
A:この間さ、夜中に小腹が空いたから近所のコンビニに行ったのよ。
B:夜中のコンビニはつい行っちゃうよな。肉まんとか買いたくなるし。
A:そうそう。でさ、レジに商品持って行ったら、すっごいハキハキした深夜のバイトの男の子が立ってたのね。
B:あー、夜中なのに元気な店員さんだと、こっちもちょっと嬉しくなるよな。
A:いや、元気とかのレベルじゃないの。俺がカゴを置いた瞬間に、その店員が「いらっしゃいませ! 本日は数あるコンビニの中から、当店をお選びいただき誠にありがとうございます!」って深々とお辞儀したんだよ。
B:丁寧すぎるな。高級ホテルじゃないんだから。
A:でさ、俺がポテトチップスとお茶をレジに出したの。そしたら店員が、ポテトチップスの袋を両手でうやうやしく掲げてさ、「こちら、ジャガイモの命を限界まで薄くスライスし、油の海で試練を与えた一品でございます」って紹介してきたんだよ。
B:言い方が大袈裟だよ。ただのうすしお味だろ。
A:お茶の時もすごかったよ。「こちらは、富士山のふもとで育った茶葉が、自らの人生をかけて絞り出した一滴にございます。温めますか?」って。
B:冷たいペットボトルのお茶を温めるなよ。
A:だから俺もちょっと圧倒されちゃって、「いや、そのままで大丈夫です」って言ったの。そしたら店員が「かしこまりました。そのままのあなたを受け入れます」って言ってきた。
B:お前を受け入れるなよ。お茶をそのままにするだけだろ。
A:そこからお会計に移るんだけど、その店員が「ポイントカードはお持ちですか?」って聞いてきたのね。俺、持ってなかったから「ないです」って答えたの。
B:まあ普通はそこで終わりだよな。
A:そしたら店員が、ものすごく絶望した顔になってさ。「……左様でございますか。ポイントという名の『小さな幸せ』を、お客様は自らドブに捨てるお覚悟なのですね」って、泣きそうな声で言ってきたんだよ。
B:ドブに捨ててねえよ。ただカード作ってないだけだろ。
A:あんまり悲しそうな顔をするから、俺も申し訳なくなっちゃって、「じゃあ、今から作れますか?」って聞いたんだよ。そしたら店員が急に笑顔になって、「ありがとうございます! では、こちらの用紙に、お客様の『前世の記憶』をご記入ください」って言ってきた。
B:書けるわけねえだろ。名前と住所を書かせろ。
A:俺も「前世の記憶はちょっと覚えてないです」って断ったら、店員が「チッ、これだから現世の人間は」って小さく舌打ちしたんだよね。
B:急に態度悪くなったな。何なんだよその店員。
A:で、支払いの時さ、俺が千円札を出したの。そしたら店員がその千円札を透かして見て、「お客様、こちらの野口英世ですが、少しお疲れのようでございます。代わりに私が、この英世をマッサージしてもよろしいでしょうか」って言い出した。
B:お札をマッサージすんなよ。シワが伸びるだけだろ。
A:あいつ、レジの下からちっちゃいマッサージ器取り出して、千円札の野口英世の肩のあたりをトントン叩き始めたんだよ。
B:印刷された肩を叩くな。時間の無駄だろ。
A:でさ、やっとお会計が終わって、袋に詰めるってなった時に、店員が「袋はご利用ですか?」って聞くから、俺は「あ、じゃあ一枚ください」って言ったの。
B:今は有料だからな。
A:そしたら店員が、レジ袋をパッと広げてさ、「こちらの袋ですが、最大で『夢と希望』が3キロまで入る仕様となっております。本日はどちらを詰め込みますか?」って聞いてきた。
B:ポテトチップスとお茶を詰めろよ。それ買いに来たんだから。
A:俺もそう言ったの。「ポテチとお茶を入れてください」って。そしたら店員が「……お客様は、現実主義者でいらっしゃるのですね。夢を追うことを忘れた大人ほど、哀しいものはございません」って、また勝手に落ち込み始めたんだよ。
B:うるせえよ。コンビニのレジで人生を説教される筋合いねえわ。
A:最終的にさ、袋に商品を入れて手渡してくれる時に、その店員が俺の目をじっと見てこう言ったんだよね。
B:最後はなんて言ったんだ?
A:ひと言、「お気をつけて。この先、右に曲がると『未来』、左に曲がると『過去』に繋がっております」って。
B:怖いよ。ただの十字路だろ。
A:俺、怖くなって、とりあえず真っ直ぐ進んだの。そしたら、気がついたら自分の家のリビングにいたんだよね。
B:あ、真っ直ぐ行ったら家だったんだ。
A:ううん。コンビニの自動ドアを出て、一歩踏み出したら、もうリビングのソファの上だった。
B:ワープしてんじゃねえか!
A:で、手元を見たら、コンビニの袋の中に、ポテトチップスとお茶じゃなくて、見たこともない「光る球体」が入ってた。
B:それ、さっき店員が言ってた「夢と希望」じゃねえか。
A:いや、店員からの手紙が入ってて、「お買い上げありがとうございます。こちらは店長の生霊でございます」って書いてあった。
B:一番いらねえよ! 返品してこい!
A:いや、もう返品出来ないんだよね。
B:なんでだよ。返すだけだろ。
A:もう食べちゃった。
B:いや、店長の生霊食ったんかい! もういいよ。
A・B:ありがとうございました。
続きを読む
スマートフォンが、短い振動を返した。
画面に表示された時刻は、午前一時四十二分。会社からの帰路、人気のない夜道を歩いていた香織は、小さくため息をついて画面をタップした。
大学時代の友人である恵美からのメッセージだった。
『ねえ、最近、鏡を見て「自分じゃない」って思ったこと、ない?』
唐突で、少し不気味な内容だった。香織は歩きながら、冷え切った指先で素早く文字を打ち返す。
『どうしたの急に。疲れてるんじゃない?』
すぐに既読がついた。まるで画面の向こうで、狂ったようにスマホを握りしめているかのような速度だった。
『違うの。本当にいるんだよ。他人の「顔」を集めて回っている、影みたいなやつが。そいつに目をつけられると、少しずつ、自分の顔が「剥がれて」いくの。最初は誰も気づかない。でも、ある日突然、鏡の中にいるのが完全に「知らない誰か」になってるの。お願い、香織、もし自分の顔に違和感があったら、絶対に──』
メッセージは、そこで途切れていた。続きを促す文字を打とうとしたが、香織はなんとなく指を止めた。夜の静寂が、急に重くなったような気がしたからだ。
「……バカバカしい」
香織は呟き、スマホをコートのポケットに押し込んだ。恵美は昔からオカルト好きで、一度思い込むと周囲が見えなくなる悪癖がある。きっとネットの奇妙な都市伝説にでも感化されたのだろう。
カツン、カツン、と香織のヒールの音だけが、コンクリートの道に響く。
街灯がまばらな住宅街の十字路に差し掛かったときだった。
ふと、前方から歩いてくる人影が見えた。
男か女かも分からない。ひどく猫背で、黒いトレンチコートのようなものを羽織っている。その人物は、ゆっくりとした足取りで香織の方へと近づいてきた。
すれ違う瞬間、香織は息を呑んだ。
街灯の淡いオレンジ色の光が、その人物の「顔」を照らし出したからだ。
顔が、なかった。
いや、正確に言うなら、目も鼻も口もある。しかし、それらのパーツが、まるで泥水でかき混ぜられたかのように、ぐにゃりと歪んで判別できなかったのだ。まるで、誰かが描いた人物画の顔を、濡れた雑巾で乱暴に擦ったかのような、おぞましい「平坦さ」だった。
香織は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、うつむきながら足早に通り過ぎた。
背後で、その人物の足音が止まったような気がした。振り返る勇気はなかった。心臓が痛いほどに脈打ち、香織は逃げるように自宅のマンションへと走り込んだ。
部屋に入り、何重にも鍵をかけ、チェーンを下ろしてようやく息をついた。
暖房を入れ、冷え切った手を擦り合わせる。
「……見間違いよ。暗かったし、疲れていたのよ」
自分に言い聞かせながら、バッグをソファに投げ出し、洗面所へ向かった。メイクを落とし、お風呂に入って早く寝てしまおう。そう思った。
洗面台の前に立ち、正面の鏡を見た。
いつもの、自分の顔。少し目の下にクマがあるが、見紛うことなき二十六歳の自分の顔だった。香織はホッと胸を撫でおろし、蛇口をひねってぬるま湯で顔を洗った。
洗顔料を泡立て、目を閉じて顔全体に広げる。
手のひらで肌を包み込み、優しくマッサージするように動かす。
その時だった。
指先に、妙な感覚を覚えた。
(……あれ?)
頬の皮膚が、妙に「柔らかい」のだ。
いつもなら、頬骨の硬い感触が指に伝わるはずだった。しかし今の感覚は、まるで粘土か、熟しきった果実の皮に触れているかのように、指がずるりと沈み込むような、奇妙な弾力を持っていた。
香織は慌てて泡を洗い流した。
水が目に入り、しみうつむきながら、手探りでタオルを掴んで顔を拭く。
そして、恐る恐る、鏡を見上げた。
鏡の中の自分は──変わっていなかった。
いつもの顔だ。目も、鼻も、口も、元の場所にある。
「驚かせないでよ……」
香織は自分の頬を両手で軽く叩いた。やはり、ただの疲れのせいだ。指の感覚がおかしくなっていたのだろう。
その夜は、恵美からの返信は二度となかった。香織もそのまま深い眠りに落ちた。
翌朝。
出勤のために駅へ向かう途中、香織は会社の同期である真由と偶然会った。
「あ、香織、おはよう!」
真由が笑顔で手を振る。香織も「おはよう」と返そうとして、言葉を詰まらせた。
真由の顔が、どこかおかしかった。
どこが、と言われると説明が難しい。目も二つあるし、鼻も高い。しかし、パーツの配置が、ほんの数ミリだけ外側へ広がっているような、あるいは皮膚がピンと張り詰めすぎて、表情が凍りついているような、奇妙な違和感があった。
「香織? どうしたの、私の顔に何かついてる?」
真由が不思議そうに小首を傾げる。その動きに合わせて、彼女の耳の裏側の皮膚が、ほんの少しだけ「浮いて」見えた。まるで、糊の剥がれかけたステッカーのように。
「……ううん、なんでもない。ちょっと寝不足で」
香織は視線を逸らした。
昨日から、自分の感覚が完全におかしくなっている。恵美の不気味なメッセージのせいで、他人の顔に過剰に反応してしまっているのだ。
会社に着き、デスクワークをこなしている間も、違和感は消えなかった。
すれ違う上司、お茶を淹れてくれる後輩、パソコンの画面に映る自分の顔。
すべてが、ほんの少しずつ「ズレて」いるような気がしてならない。
夕方、給湯室で一人になった香織は、ポケットからスマホを取り出した。
どうしても気になり、恵美のメッセージの履歴を開く。そして、彼女が最後に書こうとしていた言葉を、頭の中で繋ぎ合わせた。
『他人の「顔」を集めて回っている、影みたいなやつが……』
『そいつに目をつけられると、少しずつ、自分の顔が「剥がれて」いくの』
まさか。そんなことが、あるはずがない。
香織は自嘲気味に笑い、スマートフォンの画面を消した。黒い画面が鏡のようになり、自分の顔を映し出す。
その画面の中で。
香織の顔の右半分が、ずるりと、下に向かって滑り落ちた。
「え……?」
慌てて自分の顔に触れる。触感は普通だ。硬い骨の感触もある。
しかし、スマホの画面に映る「影」の中の自分は、明らかに歪んでいた。右の目が頬の位置まで下がり、口が耳の近くまで裂けている。まるで、誰かが裏側から、香織の顔の皮を強く引っ張っているかのように。
恐怖で指が震えた。
その時、給湯室の入り口の影から、声がした。
「香織、まだ仕事残ってる?」
真由だった。
彼女は、一歩、一歩と給湯室の中へ入ってくる。
その顔は、今朝見たときよりもさらに歪んでいた。いや、歪んでいるのではない。真由の「本物の顔」の隙間から、全く別の、どす黒い「影」のようなものが覗いているのだ。
真由の目が、不自然に大きく見開かれた。彼女の口が動き、真由のものではない、低く掠れた声が響く。
「それ……いい顔ね。すごく、綺麗に馴染んでる」
「真由……? あなた、何を言って……」
「私ね、自分の顔が剥がれちゃったの。だから、恵美の顔をもらったの。でも、サイズが合わなくて、すぐにシワが寄っちゃうの。ほら、見て」
真由が、自分の顎の下に指を突き立てた。
爪が皮膚に食い込み、血ではなく、ボタボタと黒い泥のような液体が滴り落ちる。真由はそのまま、自分の「顔」を、ペリペリと音を立てて上に向かって剥ぎ取り始めた。
剥がれた皮膚の裏側から現れたのは、肉でも骨でもなかった。
それは、無数の人間の「目」や「口」が、ぐちゃぐちゃに蠢く、生きて動く【黒い影】そのものだった。
「ひ、あ、あああ!」
香織は悲鳴を上げ、真由を突き飛ばして給湯室から飛び出した。
背後から、ペタ、ペタ、と、濡れた肉塊が床を這うような音が追いかけてくる。
「香織! 顔をちょうだい! あなたの顔なら、きっとぴったり合うの!」
香織は狂ったように廊下を走り、エレベーターに飛び込んで「閉」のボタンを連打した。閉まりかける扉の隙間から、顔の皮を半分剥ぎ取った真由──
いや、真由の皮を被った【それ】が、じっとこちらを見つめているのが見えた。
エレベーターが1階に着くと同時に、香織は外へ飛び出した。
もう会社には戻れない。家にも帰れない。あいつはどこまでも追ってくる。
夜の街を、香織は泣きながら走り続けた。
まわりの通行人たちが、みんなこちらを見ているような気がした。すれ違う人々、全員の顔が、仮面のように無機質で、今にも剥がれ落ちそうに見える。
どれくらい走っただろうか。
気づけば、香織は自宅近くの、昨日のあの十字路にたどり着いていた。
息が切れ、足がもつれて、コンクリートの上に激しく倒れ込む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
手のひらから血がにじんでいたが、痛みすら感じなかった。
恐る恐る、顔に触れてみる。
先ほどスマホの画面で見たような、激しい歪みはない。触った感覚も、いつもの自分の顔だ。
(助かった……? 撒けたの……?)
香織は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
あたりは静まり返っている。真由の追ってくる気配もない。
香織は、深く長い息を吐き出し、近くの自動販売機のガラスに映る自分の姿を見た。
ガラスの向こうには、乱れた髪の、疲れ果てた自分の顔があった。
目がある。鼻がある。口がある。
香織はホッとして、胸をなでおろした。
「よかった……私の顔、ちゃんとある……」
しかし、その安心は、次の瞬間に凍りついた。
ガラスに映る「自分の顔」が、香織が口を動かしていないにもかかわらず、にやりと、不気味に微笑んだのだ。
そして、鏡の中の「自分」が、ゆっくりと手を上げ、自分の顎の下に指を突き立てた。
(え……?)
香織は自分の手を動かしていない。自分の体は、恐怖で完全に硬直している。
それなのに、ガラスの中の「自分」は、ペリペリ、ペリペリと、楽しそうに顔の皮を剥ぎ進めていく。
ガラスの向こうの皮が完全に剥がれ落ちたとき、そこに現れたのは、無数の人間のパーツが蠢く、あの黒い【影】だった。
影は、剥ぎ取ったばかりの「香織の顔」を、愛おしそうに両手で掲げ、ガラスのこちら側にいる香織に向けて、掠れた声で囁いた。
「ありがとう。本物のあなたより、私の方が、この顔を上手に使えるわ」
その瞬間、香織の視界が、急激に狭くなっていった。
まるで、頭から分厚い黒い布を、すっぽりと被せられたかのように。
声を上げようとしても、口があるべき場所には、何の感覚も残っていなかった。
香織は、ただの「光を失った影」となり、自分の顔を被って嬉しそうに歩き出す【それ】の背中を、暗闇の底から見つめることしかできなかった。
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ミステリー・サスペンス
3153文字
約7分で読了
「ただいま、お母さん! 今日のタケル探偵は、とっても難しい事件を解決したんだよ!」
夕方、リビングのドアを勢いよく開けて、1年生のタケルが飛び込んできました。
背中の大きなランドセルをよいしょと下ろし、得意げに胸を張っています。
お母さんはキッチンから顔を出し、にっこり笑ってタケルを迎えました。
「おかえり、タケル。今日も『少年探偵』の出番があったのね。どんな事件だったの? おやつを食べながら、お母さんに詳しく教えて?」
テーブルの上に、焼き立てのクッキーと牛乳が並びます。タケルは探偵さながらに、小さめのノートをポケットから取り出して、大真面目な顔でページをめくりました。
「事件が起きたのは、今日の5時間目、図工の時間だよ。1組の全員で『大きなお城』の壁画を作っていたんだ。みんなで画用紙に絵を描いて、ハサミで切り取って、大きな模造紙にペタペタ貼るの。僕の役は、お城のてっぺんに輝く『大きな太陽』を描くことだったんだ」
「ほう、大役じゃない。上手に描けた?」
「うん! クレヨンの一番新しい『だいだいいろ』を使って、ギザギザのカッコいい太陽を描いたんだ。それをハサミで綺麗に切り抜いて、先生の机の上に置いておいたの。のり付けの順番を待つためにね。……なのに、のりを持って戻ってきたら、僕の太陽が、机の上から綺麗に消えちゃっていたんだ!」
お母さんはクッキーを一口かじり、ふむふむと頷きました。
「それは大変。誰かが間違えて持っていっちゃったのかしら?」
「僕も最初はそう思った。でもね、僕の太陽はすごく大きいし、一番目立つ『だいだいいろ』だから、間違えるはずがないんだ。それに、そのとき先生の机のまわりには、5人の友達しかいなかった。……つまり、この5人の中に、僕の太陽を隠した『犯人』がいるってことさ!」
タケルはノートに書かれた5人の名前をお母さんに見せました。
1. ケンタくん(お城の『おふね』を貼りに来た)
2. ミクちゃん(お城の『お花』を貼りに来た)
3. ショウタくん(お城の『兵隊さん』を貼りに来た)
4. ハルトくん(お城の『お星さま』を貼りに来た)
5. サクラちゃん(お城の『お姫さま』を貼りに来た)
「わあ、容疑者が5人もいるのね。タケル探偵、ここからどうやって捜査を始めたの?」
「ふふん、まずは『現場検証』だよ。僕はお母さんがいつも言っている『よーく観察しなさい』って言葉を思い出したんだ。先生の机の上には、僕の太陽はなかった。でも、そのかわりに『手がかり』が残されていたんだ」
「手がかり?」
「そう。先生の机の上に、ちっちゃな『黄色のクレヨンのカケラ』が落ちていたんだ。ポロッて。でもね、僕が太陽を描くのに使ったのは『だいだいいろ』だけ。黄色は一回も使っていない。ってことは、この黄色のカケラを落とした人が、太陽を盗んだ可能性が高い!」
お母さんは感心したように目を丸くしました。
「なるほど、鋭い着眼点ね! じゃあ、その5人の中で、黄色い絵を描いていた人が犯人?」
「そう思うでしょう? だから僕、5人が持っていた絵を順番に見て回ったんだ。……そしたらね、なんと5人全員の絵に『黄色』が使われていたんだよ!」
「あらら、全員? それじゃあ絞り込めないわね」
タケルは悔しそうに牛乳をゴクゴクと飲み、口のまわりに白いヒゲをつけながら続けました。
「ケンタくんのお船は、黄色い旗がついていた。ミクちゃんのお花は、真ん中が黄色。ショウタくんの兵隊さんは、服のボタンが黄色。ハルトくんのお星さまは、全部が黄色。サクラちゃんのお姫さまは、髪の毛が黄色。全員が黄色いクレヨンを使っていたんだ」
「うーん、迷宮入りかしら?」
「ううん、タケル探偵はあきらめないよ! 僕はもう一度、現場に残された『黄色のカケラ』をじーっと見たんだ。そのカケラはね、ただ削れただけじゃなくて、なんだか『ネバネバ』したものが混ざっていたんだよ。ちょっと白くて、ベタベタするやつ」
「白くてベタベタ……? クレヨンじゃなくて、別の何かがついたのかな?」
「そう! そこで僕は閃いたんだ。これは、図工の時間にみんなが使っていた『白いのり』だ、って! 犯人は、自分の絵にのりをつけて、それを先生の机に貼りに来たときに、クレヨンのカケラを落としたんだ。……でもね、ここで不思議なことが起きたんだ。5人の手元を見たら、ケンタくん、ミクちゃん、ショウタくん、サクラちゃんの4人は、みんな『スティックのり』を使っていたんだよ」
「スティックのりは、手が汚れない固形ののりよね。ネバネバはしないわ」
「そう! じゃあ、残りのハルトくんは? って見たら、ハルトくんだけは、指でぬる『ツボのり』を使っていたんだ。ハルトくんの指は、のりでベタベタだった。だから、ハルトくんが星を貼るときに、指についたのりとクレヨンが混ざって、机の上に落ちたんだよ。つまり、現場にカケラを落とせるのは、ハルトくんしかいない!」
お母さんは「パチパチ」と小さく拍手をしました。
「すごいわ、タケル! じゃあ、犯人はハルトくんだったのね。でも、どうしてハルトくんは太陽を隠しちゃったの? 仲が悪かったの?」
タケルは少し真面目な、優しい顔つきになりました。
「ううん、ハルトくんとはいつも仲良しだよ。だから、僕も不思議だった。ハルトくんのところに行って、『ハルトくん、僕の太陽、どこにあるか知ってる?』って優しく聞いたんだ。そしたら、ハルトくん、顔を真っ赤にして、泣きそうな声でこう言ったんだ」
タケルはノートの最後のページを開きました。そこには、ハルトくんの描いた「お星さま」の絵のスケッチが描かれていました。
「ハルトくんはね、『ごめんなさい、タケルくん。僕、お星さまをたくさん描いたんだけど、お昼の明るい空にお星さまを貼ったら、全然見えなくなっちゃうって気づいたんだ。お城のてっぺんには、タケルくんの大きな太陽がピカピカ光るから、僕の星は負けちゃうと思って……悔しくて、太陽を自分の道具箱の中に隠しちゃったんだ』って」
「まあ……。ハルトくんも、一生懸命描いた自分の絵を、みんなに見てほしかったのね」
「うん。ハルトくんの気持ち、僕もよく分かったんだ。自分の絵は一番カッコよく見せたいもんね。だから僕、ハルトくんに言ったんだ。『ハルトくん、それならいいアイデアがあるよ!』って」
「どんなアイデア?」
お母さんが身を乗り出すと、タケルはニヤリと笑いました。
「ハルトくんのお星さまをね、僕の太陽の『まわり』にたくさん貼るんだよ。太陽の光が強すぎて、お星さまがキラキラ輝いてるみたいに見えるようにね! 先生にお願いして、模造紙のてっぺんをそういうデザインにしてもらったんだ。そしたら、ハルトくんの星も、僕の太陽も、どっちもすごくカッコよくなったんだよ!」
「まあ、素敵! 最高の解決方法ね」
「ハルトくん、すっごく喜んで、僕に『ありがとう、タケル探偵!』って言ってくれたんだ。太陽もちゃんと返してくれたよ。だから、今日の事件はこれでおしまい!」
タケルは満足そうに残りのクッキーを口に放り込みました。お母さんはそんな小さな探偵の頭を、愛おしそうに何度も撫でました。
「犯人を見つけるだけじゃなくて、お友達の心までハッピーにするなんて、タケルは本当に名探偵ね」
「えへへ、それほどでもないよ。……あ、そうだ、お母さん!」
「なあに?」
「次の事件は、おうちの中で起きてるよ。僕のノートの虫眼鏡で見ちゃったんだ」
「えっ、なにかしら?」
「お母さん、さっきから僕とおしゃべりしながら、クッキーを僕よりたくさん食べてるでしょ! 犯人はお母さんだ!」
「あら、バレちゃった?」
リビングに、親子の明るい笑い声が響き渡りました。小さな探偵のまわりには、今日も温かくてカラフルな笑顔が満ちあふれています。
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天正十年六月二日、未明。
京都・本能寺は、静寂に包まれているはずだった。
「……ん? 何やら、妙な音が聞こえぬか」
寝所に敷かれた布団の上で、織田信長は薄らと目を開けた。天下統一を目前に控え、常に神経を研ぎ澄ませている信長である。敵の奇襲か、あるいは刺客の足音か。
パチパチという火の音ではない。
──ピコーン。ピコピコピコーン。
聞いたこともない、妙に軽快で電子的な音が、静かな寺の中に鳴り響いている。
信長が不審に思い、枕元に置いてあった愛刀・薬研藤四郎(やげんとうしろう)をひったくって立ち上がったその時、襖が勢いよくスライドした。
「殿! 殿ーーーっ!」
小姓の森蘭丸が飛び込んできた。しかし、その姿がどこかおかしい。
蘭丸の体が、なぜか粗いモザイクのような四角い立方体の集まり──いわゆる「3Dドット」になっており、歩くたびに「ザクッ、ザクッ」と、砂利を踏むような不自然な音が鳴っている。
「なんじゃその姿は! 蘭丸、お前、カクカクしておるぞ!」
「分かりませぬ! 朝起きたら我が肉体がこのような『ろーぽりごん』とやらに変化しておりまして!
それより大変にございます! 外を、明智の軍勢が取り囲んでおります!」
「何、光秀が謀反だと!? 敵の数は!」
「それが……」
蘭丸がドット絵の四角い手を震わせながら、外を指差した。
「敵の総数は『404』でございます!」
「404? 1万3千の間違いではないか?」
「いえ、敵の頭上に大きな文字で【Error 404: Soldiers Not Found】と浮き出ておりまして、それ以上の兵が見当たりませぬ! とにかく、お庭へ!」
信長は刀を抜き放ち、バサリと小袖を羽織って庭へと飛び出した。
本能寺の広大な庭。そこはすでに、現世の理が完全に崩壊した「バグ地帯」と化していた。
まず、本能寺を囲む頑丈な築地塀が消えていた。
代わりに、ピンク色と水色の巨大なプラスチック製のブロックが積み上がっている。
門があった場所には、ガラス製の「自動ドア」が鎮座しており、近づくたびに「ウィーン、いらっしゃいませ」と、どこからともなく女の声が響く。
「な、なんなのだこれは……南蛮の妖術か!?」
信長が呆然としていると、自動ドアの手前で、馬に乗った明智光秀が数人の具足姿の足軽を率いて、激しく困惑していた。
光秀は信長の姿を認めると、慌てて馬から下りて自動ドアの前まで走ってきた。しかし、ドアの手前でピタリと足が止まる。
「お、織田右府様! 謀反にございます! 本日は殿の命を頂戴しに参った……のですが!」
光秀は刀を構えたまま、涙目で自動ドアを指差した。
「この透明な障子に近づくと、我が軍の足軽たちが『いらっしゃいませ』と歓迎されてしまい、戦う戦意が完全に削がれております! しかも、一歩下がると閉まり、一歩進むと開く! 恐ろしくて誰も敷居を跨げませぬ!」
「光秀よ、攻め込む気があるならその妖術の障子を叩き割ればよかろう!」
「割ってみました! しかし、割った瞬間に頭上から【システムエラー:再起動してください】という謎の立て札が降ってきて、我が軍の騎馬隊の馬がすべて『横歩き』しかできなくなってしまったのです!」
見れば、門の外に控える明智軍の馬たちが、カニのように一斉に横を向いてパカパカと不器用にスライド移動している。これでは突撃などできるはずもない。
その時、ドサッと凄まじい地響きがした。
本能寺の本堂の屋根に、空から巨大な「L字型のブロック」が降ってきたのだ。
「殿! また上から四角い塊が!」
蘭丸が叫ぶ。
「先ほどから、あの塊が綺麗に一列に揃うたびに、本能寺の廊下や柱がガシャーンと音を立てて消滅しているのでございます! すでに台所と離れが消えました!」
「待て、それは完全にまずいではないか! このままでは本能寺そのものが消えてまう!」
信長は天を仰いだ。
天下統一の夢、本能寺での最期、燃え盛る炎──。思い描いていた壮絶な歴史の舞台が、謎の「テトリス現象」によってコメディ仕様に侵食されている。
「ええい、光秀! 一旦そこに入れ! 自動ドアをくぐれ!」
「は、ははっ! お邪魔いたします!」
もはや謀反どころではない。光秀は刀を収め、お辞儀をしながら自動ドアをくぐり、信長の前に平伏した。
敵と味方が、本能寺の庭で緊急首脳会談を開始する。
「光秀、お前は真面目で実務に長けておるな。この妖術をどう見る」
「はっ。おそらく、この本能寺の土地そのものの『しすてむ』が過負荷を起こしているかと。先ほど、裏手にある井戸を覗きましたところ、水ではなく『タピオカミルクティー』という、黒くてモチモチした謎の豆が入った南蛮の飲料が無限に湧き出ておりました」
「タピオカだと? 料理番はどうした」
「『美味である』と言って、総出で樽に詰めて売る準備をしております」
「切り替えが早すぎるわ我が家臣ども!」
信長が頭を抱えた瞬間、またしても空から四角いブロックが降ってきた。今度は本堂の真上に綺麗にはまる。
──ガシャーン!!
凄まじい効果音と共に、本能寺の本堂が丸ごと消滅し、そこには広大な「平地」と、なぜか一台の「自動販売機」だけがポツンと残された。
「あああ! 本堂が消えた! 完全に一列揃ってしまった!」
蘭丸がドット絵の頭を抱えて叫ぶ。
「……殿」
光秀が真剣な面持ちで信長を見つめた。
「これは、これ以上の建築は危険にございます。もし、この敷地内がすべてブロックで埋まれば、我らもろともこの世界から『消去(でりーと)』されるやもしれませぬ」
「ならばどうする、光秀。ここで腹を切るか?」
「いえ。この動く床や、無限のタピオカ、そして自動で開く門……。これをひとつの『見世物小屋』として天下に公開し、入場料を取るべきかと存じます。そして、その利益でブロックを消去する職人を雇うのです」
信長は一瞬、目を丸くしたが、すぐにニヤリと豪快に笑った。
「面白い。さすがは予の目に狂いはなかった。光秀、お前を『本能寺テーマパーク・総支配人』に任命する! 謀反の軍勢はすべて、案内係と警備員に配属せよ!」
「ははっ! ありがたき幸せ! では、足軽たちには『いらっしゃいませ』の後に『お一人様五百文になります』と言わせるよう、徹底的に仕込みまする!」
こうして、歴史上最も有名な裏切り劇「本能寺の変」は、時空のバグがもたらした「本能寺が変パニック」へと姿を変え、織田と明智の共同ベンチャー企業として、まさかの大繁盛を記録することになったのである。
後に、この奇妙なテーマパークを訪れた豊臣秀吉は、「あのアヒル隊長が浮かぶ池、天下統一の記念に拙者にくだされ!」と大はしゃぎしたというが、それはまた別の歴史のお話。
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「ねえ、お母さん。どうしてこのクレヨンは『あか』じゃなくて『あかねいろ』って書いてあるの?」
夕飯のあとのリビング。よく使い込まれた12色のクレヨンを広げて、6歳のハルが不思議そうに首を傾げました。
お母さんはお皿を拭いていた手を止め、ハルの隣に座って、その小さな手にあるクレヨンを覗き込みました。
「いいところに気がついたね、ハル。それはね、ただの赤じゃなくて、特別な草の根っこから生まれた色だからなんだよ」
「草の根っこ? クレヨンなのに?」
「そう。昔の人はね、今みたいにチューブやクレヨンがなかったから、まわりにある自然の中から色を見つけていたの。その『あかね』っていうのは、秋に小さな白い花を咲かせる草の名前。その根っこをぐつぐつ煮出すとね、夕焼けみたいな、とっても綺麗な赤が染まるんだって」
ハルは目を丸くして、自分の「あかねいろ」のクレヨンをじっと見つめました。
「じゃあ、このクレヨンの中には、秋の夕焼けが入ってるの?」
「ふふ、そうかもしれないね。色の名前っていうのはね、ひとつひとつが『どこから来たのか』を教えてくれる、魔法の住所みたいなものなんだよ」
お母さんはそう言って、本棚から一冊の大きな絵本を持ってきました。表紙には文字がなく、ただ、虹のようなグラデーションが美しく描かれているだけの本です。
お母さんがその表紙を開くと、そこには何も描かれていない、真っ白なページが広がっていました。
「あれ? お母さん、この本、中身が何も書いてないよ?」
「ううん、これはね、おしゃべりをしながら色を塗っていく『おはなし絵本』。ハルが色の名前を呼ぶと、その色の世界がここに現れるの。やってみる?」
「やる! ええとね、じゃあ……まずはこれ! この青いやつ。ぐんじょういろ!」
ハルが少し難しい漢字で書かれたクレヨンを指さした瞬間、真っ白だったページに、シュッと一筋の深い青が走りました。
それはみるみるうちに広がり、夜の始まりのような、吸い込まれそうな深い海のような色でページを埋め尽くしていきました。
「わあ……! すごい、本当に色が変わった!」
「きれいな青ね。ハル、『群青』の『群』は、たくさんの仲間が集まるっていう意味。そして『青』は、むかし海を越えてやってきた『青い石』のこと。つまり、青いお星さまみたいな石が、たーくさん集まってできた色なんだよ」
「お星さまの石? 宇宙から降ってきたの?」
「ううん、地球の深い深い底で見つかる『ラピスラズリ』っていう宝石。昔の絵描きさんはね、その宝石を金槌でトントン、トントンって細かく砕いて、お粉にして、それを絵の具にしていたの。だから、この色はとっても高価で、神様の絵を描くときにしか使えなかったんだって」
「宝石をくだいちゃうの!? もったいないけど……でも、だからこんなにキラキラして見えるんだね。海の底で、お魚たちが眠るときにつかうお布団みたい」
ハルは「群青色」のページを優しく撫でました。するとページの中から、小さなクジラがぷくぷくと泡を吹いて泳いでいくのが見えました。
「じゃあ、次はこれにする! ええとね……『あおみどり』? ううん、あさぎいろって読むの?」
「よく読めたね。浅葱色は、ネギの芽が出たばかりの、あの淡い緑がかった青のこと。少し薄い、すっきりした色でしょう?」
ハルが浅葱色のクレヨンで次のページをトントンと叩くと、今度は爽やかな風が部屋の中に吹き抜けたような気がしました。
ページには、どこまでも続く高い空と、新選組の羽織のような、凛とした青緑色が広がります。
「ネギの色なんだ! ネギって、食べるとからいけど、色はこんなに優しいんだね」
「そうね。でもね、江戸時代っていう、お侍さんがいた昔の日本では、この浅葱色は『ちょっとカッコ悪い色』って思われていた時期もあるのよ」
「えっ? どうして? こんなにかっこいいのに」
「田舎から江戸の町に出てきたばかりのお侍さんがね、みんなこの浅葱色の裏地がついた着物を着ていたの。だから都会の人たちから『ふふん、あいつはまだ田舎っぺだな』って笑われちゃったりしてね。でもね、時が流れて、新選組っていう強いお侍のグループが、この色を『僕たちのユニフォームだ!』って決めて大活躍したら、今度はみんなが『浅葱色、超かっこいい!』って憧れるようになったの」
「へえ! 色にも、人気が出たり出なかったりする歴史があるんだ。おもしろいなぁ。じゃあ、この浅葱色は、がんばり屋さんのお侍の色だね!」
ハルは嬉しそうに笑って、次の色を探しました。クレヨン箱の端っこにある、少し地味な茶色に目が留まります。
「ねえお母さん、この茶色はなんて読むの? 『きつねいろ』?」
「それはね、『狐色(きつねいろ)』とも言うけれど、ここには『琥珀色(こはくいろ)』って書いてあるわ」
「こはく? 」
「琥珀っていうのはね、大昔の木から出たねばねばした『樹液(じゅえき)』が、何万年、何千万年という長い時間をかけて、カチカチに固まって宝石になったものなの。ハル、恐竜の映画で、黄色い石の中に蚊が閉じ込められているのを見たことない?」
「あ! 見たことある! あの、ハチミツが固まったみたいな綺麗な石!」
「そう、それが琥珀。だから琥珀色は、ただの茶色じゃなくて、何千万年もの『時間』がぎゅっと閉じ込められた、黄金色の茶色なのよ」
ハルが琥珀色のクレヨンをページに滑らせると、温かい光がじわっと広がりました。
それはまるで、おじいちゃんの家の古い時計のようでもあり、夕暮れの森でお日様の光を浴びる大きな大樹のようでもありました。
「何千万年かぁ……。僕が生まれるよりも、お母さんが生まれるよりも、もっと前だね。この色を塗ると、なんだか心がぽかぽかして、眠くなってきちゃう」
「安心する色よね。大地や木の色だから、人間にとっては一番ホッとする色なのかもしれないわね」
お母さんはハルの頭を優しく撫でました。ハルはあくびをひとつ噛み殺しながら、最後に残った、一番お気に入りの鮮やかなピンク色を指さしました。
「最後はこれ! 『ときいろ』。鳥のトキさんの色?」
「大正解! 朱鷺色(ときいろ)は、日本に昔からいる朱鷺っていう鳥が、パタパタって羽を広げたときに、羽の裏側に見える、とっても美しいピンク色のこと。空を飛ぶ朱鷺の群れはね、まるで夕焼けの雲が飛んでいるみたいに綺麗だったんですって」
ハルが朱鷺色をページに塗ると、真っ白だった空間に、数え切れないほどの美しい鳥たちが舞い上がりました。
部屋の中が、優しい桜色と桃色のあいのこのような、特別な光で満たされます。
「わあ……きれい……。でもお母さん、朱鷺って、今はもうあんまり見られないんでしょう? 学校の先生が言ってたよ。絶滅しそうだったって」
「そうね、一度は日本の空からいなくなってしまいそうだったの。でもね、たくさんの人が『あの美しい色をもう一度空に戻したい』って一生懸命守って、今では少しずつ、また空を飛べるようになってきたのよ。だからこの色はね、人間の『あきらめない気持ち』と『自然へのごめんね』が詰まった、優しい守り神の色なの」
「守り神の色……」
ハルは、絵本の中で羽ばたく朱鷺たちの姿を、愛おしそうに見つめました。
気がつくと、絵本のすべてのページが、ハルの塗った色と言葉でいっぱいになっていました。群青色の海、浅葱色の空、琥珀色の大地、そしてそこを舞う朱鷺色の鳥たち。
「ハル、どうだった? 色の名前のひみつは」
「うん。ただの『赤』とか『青』とかじゃなくて、名前を聞くだけで、草の匂いがしたり、昔のお侍さんが見えたり、宝石が見えたりする。色の名前って、タイムマシンみたいだね」
「素敵な表現ね、ハル。明日、学校に行くときは、まわりにあるものの『なまえのひみつ』を探してみて。きっと、いつも見ている景色が、もっとカラフルに、もっとおもしろく見えるはずよ」
「うん! 僕、明日は通学路にある『ひまわり色』と『アスファルト色』のひみつを考えてみる!」
ハルはそう言って、クレヨンを丁寧に箱に戻し、パチンと蓋を閉めました。
お母さんに抱きついたハルの目には、もうすぐ訪れる夢の世界の、まだ誰も名前をつけていない素敵な色が、たくさん映っているようでした。
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