恋愛
さよなら、炭酸の抜けた僕たちの青
3,711文字
約8分で読了
三月の終わり、夕暮れ時の千歳烏山駅のホームは、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
春の温い風が、線路沿いの錆びたフェンスを揺らし、どこか遠くで誰かの笑い声が響いては消えていく。
大学の卒業式から一週間。サークルの喧騒も、引っ越しのバタバタもようやく落ち着き、世界が急に静かになったような気がしていた。
拓海は、自販機で買った缶のレモンソーダを、開けもせずに両手で挟んで持っていた。
まだ冷たい缶の表面に、細かな水滴がつき、それが指を伝って手のひらを濡らしていく。
「お待たせ、拓海」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこにいたのは美咲だった。
いつもの見慣れた、少し大きめのデニムジャケットを着ている。
けれど、その髪は卒業式の日よりも少しだけ短くなっていて、耳元で揺れる小さなパールのイヤリングが、夕日を浴びてきらりと光った。
その小さな変化だけで、彼女がもう「学生の美咲」ではなく、来週から新しい場所へ進む一人の大人なのだと突きつけられた気がした。
「ううん、今来たところ。これ、飲む?」
拓海は、まだ開けていないレモンソーダを差し出した。
美咲は一瞬驚いたような顔をしてから、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべてそれを受け取った。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ」
カシャ、と静かなホームに缶を開ける小気味いい音が響く。
美咲はそれを小さく一口飲むと、「ん、美味しい」と言って、拓海の少し隣に腰掛けた。二人の間には、ちょうどリュックサックが一つ置けるくらいの、絶妙で、そして少しだけ寂しい隙間が空いていた。
大学二年の夏、共通の友人の紹介で知り合ってから、二人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。
映画の好みが驚くほど似ていること、下北沢の古着屋巡りが好きなこと、深夜に近くの公園でどうでもいい将来の話をすること。美咲と過ごす時間は、拓海にとって呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
付き合って二年。大きな喧嘩をしたこともない。周りからは「お前らは絶対に結婚する」なんて冷やかされていた。拓海自身も、なんとなくこのまま、当たり前のように美咲と同じ未来を歩んでいくのだと信じて疑わなかった。
その「当たり前」が崩れ始めたのは、去年の秋口、就職活動が本格的に終わった頃だった。
拓海は地元のインフラ系の企業に就職が決まり、この街に残り、慣れ親しんだ環境で社会人を始めることを選んだ。一方で、美咲の配属先は、東京から遠く離れた福岡の支社に決まった。
「総合職だから、どこに行くか分からないって覚悟はしてたけど……まさか九州だなんてね」
内定式の夜、居酒屋で少し酔った美咲は、寂しそうに、でもどこか期待に満ちた目でそう言っていた。
遠距離恋愛なんて、今の時代いくらでもやりようはある。新幹線もあるし、毎日ビデオ通話だってできる。拓海はそう自分に言い聞かせ、美咲を応援しようと心に決めていた。
けれど、冬が近づくにつれて、二人の会話の空気は少しずつ変わっていった。
美咲の口から出る言葉は、新しく始まる一人暮らしの準備や、研修の課題、新生活への希望で溢れるようになっていった。彼女の視線は、すでにここではない、遠く新しい街を向いていた。
対して、拓海の話はいつも「変わらない日常」のことばかりだった。大学の単位の話、バイト先の後輩の話、地元の友達と行ったラーメン屋の話。
美咲の話を聞くたびに、拓海は自分が彼女の足を引っ張っているような、置いていかれているような、形のない焦燥感に駆られるようになった。
そして、卒業式が終わった次の日の夜。
美咲のアパートで、荷造りがほとんど終わった段ボールに囲まれながら、彼女は静かに切り出した。
『拓海、私ね。向こうに行ったら、きっと自分のことで精一杯になっちゃうと思うの』
美咲の声は震えていなかった。ただ、酷く澄んでいた。
『拓海は優しいから、無理して私に合わせようとしてくれるでしょ? 毎日連絡しなきゃとか、月に一回は会いに行かなきゃとか。でも、そういうの、いつか二人とも苦しくなっちゃう気がするんだ。……だから、お互い新しいスタートを切るために、ここで一度、終わりにしない?』
引き止めようと思えば、いくらでも言葉は出てきたはずだった。
「寂しいけれど頑張ろう」とか、「俺がそっちに会いに行くから大丈夫だ」とか。
けれど、拓海は何も言えなかった。段ボールの隙間から見えた、美咲が大切にしていたお気に入りの小説の背表紙を見つめながら、ただ「そうだね」と短く答えることしかできなかった。
なぜなら、拓海自身も気づいていたからだ。
遠くなる距離を恐れているのは、美咲ではなく、自分の方なのだと。
新しく変わっていく彼女を、変わらないままの自分が繋ぎ止めておくのは、あまりにも身勝手なのだと分かってしまったから。
「ねえ、拓海。向こうの部屋、結構広いんだよ」
ベンチに座る美咲が、缶を両手で包みながら、前を見つめたまま言った。
「そうなんだ。何畳くらい?」
「八畳。ベランダが広くてね、近くに美味しいパン屋さんもあるんだって。今から行くのが、ちょっとだけ楽しみ」
「そっか。美咲なら、どこに行ってもすぐ友達できるよ。パン屋のおじさんとも、仲良くなれるんじゃない?」
「どうかな。最初のうちは、寂しくて泣いちゃうかも」
美咲は小さく笑った。その横顔を見つめながら、拓海は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
もう、この笑顔を一番近くで見ることはできない。彼女が寂しくて泣く夜に、隣で肩を抱き寄せてあげることもできない。その事実が、じわじわと、確かな痛みとなって体に染み渡っていく。
「拓海は? 仕事、大変そう?」
「まあ、最初は覚悟してるよ。覚えることも多いし、へまをやって怒られるんだろうな。でも、地元だからさ、最悪実家に帰ればご飯はあるしね」
「あはは、そうだね。おばさんのご飯、美味しいもんね。またあの唐揚げ、食べたかったな」
「……いつでも食べにきてよ。実家、逃げないから」
言ってから、拓海は「あ、余計なことを言ったな」と後悔した。
もう、二人は別れたのだ。これから別々の場所へ行くのに、次の約束を匂わせるような言葉は、ただの未練でしかない。
美咲は少しだけ視線を落とし、手の中のレモンソーダを見つめた。
「……うん。ありがとう」
静寂が戻る。ホームに滑り込んできた快速電車が、激しい風と音を置き土産にして通り過ぎていった。
電車の風で美咲の短い髪が大きく揺れ、彼女が小さく身を縮める。拓海は、その肩を抱き寄せたい衝動を必死に抑え、ただズボンのポケットの中で拳を握りしめていた。
「あ、私の乗る電車、次だ」
美咲がスマホの画面を見て立ち上がった。
各駅停車の電車の接近を知らせるアナウンスが、冷徹にホームに流れ始める。
美咲は手元に残ったレモンソーダの缶を、ホームのゴミ箱へ捨てに行った。カラン、と軽い音がして、二人の時間の終わりを告げるピリオドのように響いた。
戻ってきた美咲は、拓海の正面に立った。
その瞳は、夕日の赤さを反射して、少しだけ潤んでいるように見えた。
「拓海。今まで、本当にありがとう。私、拓海と付き合えて、本当に幸せだったよ。楽しかった」
「俺もだよ。美咲と過ごした時間は、全部宝物だから」
拓海は、精一杯の笑顔を作った。情けない顔だけは見せたくなかった。
彼女が新しい街へ、前を向いて歩き出せるように、せめて最後は、彼女が大好きだと言ってくれた笑顔で見送りたかった。
「うん。……じゃあね、拓海。元気でね」
「うん、美咲も。頑張ってね」
電車のドアが開いた。美咲は一度も振り返ることなく、車内へと歩を進めた。
プシュー、と音を立ててドアが閉まる。ガラス越しに、美咲がこちらを向いて、小さく手を振った。
拓海もそれに応えるように、右手を小さく上げた。
ガタゴトと音を立てて、電車がゆっくりと動き出す。車両が一つ、また一つと拓海の前を通り過ぎていき、やがて赤い尾灯だけを残して、線路の向こうへと消えていった。
美咲がいなくなったホームは、驚くほど広かった。
春の風が、拓海の頬を撫でていく。その風は、先ほどまで美咲の髪を揺らしていたものと同じはずなのに、今はもう、ただ冷たく感じられた。
拓海はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩き出し、自販機の前に立った。
先ほど美咲に渡したものと同じ、レモンソーダのボタンを押す。ガコン、と重い音を立てて落ちてきた缶を取り出し、プルタブを引き抜いた。
シュワ……
微かな炭酸の音がして、冷たい液体が喉を駆け抜けていく。
酸っぱくて、ほんの少しだけ苦い、ありふれたレモンの味。
拓海はベンチに腰掛けたまま、缶を握りしめ俯いていた。電車が通り過ぎる度に、冷たい春風が拓海を包む。
気付いた時にはもう、炭酸がすっかり抜けて、甘ったるくて苦いだけのレモン水になっていた。
まるで、引き伸ばしすぎて、瑞々しさを失ってしまった自分たちの関係みたいに。
拓海はもう一度、レモンソーダを口に含んだ。
涙は出なかった。ただ、喉の奥に残る微かな苦味が、いつまでも消えずに残っていた。
遠くの空には、もうすぐ夜の帳が下りようとしていた。新しい季節が、すぐそこまで来ていた。
\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ