「これからもよろしくな」
そう言って微笑んだのは、同じクラスの時田(ときた)くんだった。彼の申し出は大変ありがたいが、同時に私たちの関係性はそこ止まりということになる。
たった今しがた振られたわけだが、まだ同じクラスである事実は消えない。残り八ヶ月の学校生活をともに過ごさなければならない。まあ、わかってて告ったんだけど。
高校三年生の夏休み前。好きで好きであわよくばという欲が出てしまった。本当は高校卒業前に告白しようと思っていたが、万が一、付き合えることができたら?という妄想が止まらなくなったのだ。
そこで夏休み前。もし付き合えたなら、夏休みに一緒に遊ぶことも勉強することもできる。一石二鳥。最高なサマーバケーション。そして見事に玉砕。
夏休みのお陰で気まずさは軽減した。それも計算済み。体育祭と文化祭の準備も始まろうとしていたが、もうだいぶ精神は落ち着きを取り戻していた。
廊下で二人きりですれ違うときなどはさすがにまだそわそわしてしまうが、時田くんの方から
「おはよー」
などと声をかけてきてくれる。よかった。これからもよろしくな、は嘘ではなかった。嘘ではないが、私たち二人の未来は存在しない。これからもよろしくな、は実のところ、これからもよろしくするわけではないのだ。円満な体のいい振られ方である。
二学期が始まり、時田くんとは席が離れた。今までも近いというわけではなかったが、話せない距離ではなかった。しかし、今回の席替えで確実に関係性は失われた。
寂しい反面、ほっとしたのも事実だった。まだ好きだが、未来のない彼との会話は虚しくなるだけ。再度告白するつもりもない。何度も告白する友人もいたが、一度断られたということは、妥協でも付き合えない、と思われたのだと私は判断する。そこは個人の捉え方の自由だと思う。
大学生になったり、大人になったりしてから……そういう時間差の告白ならありえるかもしれないが、今は到底考えられない。
とはいっても大人になったら時田くんと会うこともないんだろうな。同じクラス、という以外接点のない関係だった。連絡先もSNSも知らない。クラスのグループチャットだけ。個人アカウントなんてものを知らなくても、人は人を好きになる。好きになったらその人を知りたくなる。
時田くんの口が固いせいか、私の告白がクラスに広まることはなかった。私も仲のいい一部の友達にしか告白の事実は伝えていない。平穏なものだ。私の心の中はまだまだ凪というわけにもいかないけれど。
「時田ってかっこいいよなぁ、優しいし」
私が彼に振られている事実などつゆ知らず、隣の席の三門(みかど)くんが話しかけてくる。
「……うん、かっこいいよね」
「女子はああいう男子好きでしょ?」
「うん、そうだと思う」
こちとら、好きどころか告白して振られていますからね。
「男子から見たらどうなの?」
「いや、かっこいい。優しい。かっこいい」
「かっこいい、二回言ったね」
思わず笑うが、心からの笑みではない。終始どこかで身構えてしまう。時田くんの話題はまだ心なしかそわそわする。心がざわつく。
時田くんはサッカー部で、やんちゃな感じもありつつ、好青年だった。周りがよく見える。言葉じりがきついこともあったが、いつも言うことは正しかった。
「俺もあの優しさをわけてほしい」
三門くんは、時田くんよりさらにやんちゃでチャラい感じのバスケ部だった。モテることはモテるが、おそらくファン層は違う。私もちょっと距離を置いてしまう。
「おーい、時田ぁ」
急に呼ぶなよ。内心ドキドキしていた。
私のことなど目に入っていないのか、三門くんに呼ばれて迷いなく近づいてくる時田くん。ヤバいヤバいヤバい。三門くんに呼ばれたくらいで来なくていいのに。
「山本がさあ、時田くんかっこいいね、だって」
一気に顔が真っ赤になるのがわかった。うるさいよ、三門。マジ黙れ、三門。急に何を言い出すかと思えば三門のやつ、余計なことをしやがって。お前が言い出したんだろ。私はそんな話題一つも提供していない。同意しただけだ。
無表情を崩さないままそんなことを考え、心の目で三門くんを睨んだ。
「はぁ?何だよ、それ。よくわかんないけどありがとう」
時田くんはほんの少し、一瞬だけ私の方に視線を送るとすぐに三門くんに視線を戻した。横顔はちょっぴり照れくさそう。私ほどではないにしろ、時田くんにも気まずさはあるのだと安心した。
「お前さ~、せっかくチャンスをやったのに全然しゃべんないじゃん」
時田くんが去った後も話題は変わらなかった。勝手に呼んだくせに何でこんなに偉そうなんだ。善意でやってるんだぜ?と得意げな三門くんを見て、どうにも我慢できない気持ちになっていた。
「そりゃそうでしょ。いきなり呼ばれてもどうすりゃいいのよ」
「会話を楽しむ」
「楽しそうに見えましたかね?」
「全然」
「でしょ。余計なことしないでくれる?」
くくく、と三門くんは小さく笑った。
「えー、いいことしてると思ったのになぁ。もしかして他の人がよかった?」
私はキッと三門くんを睨んだ。今日何回目だろう。
「今は呼んでほしい人とかいないから、マジで何もしないで。一言も声を発さないで」
「いや、でも俺のキャラ的に頼みやすいっしょ?遠慮しなくていいからね。いつでも恋のキューピッドになるから」
彼は善意の塊のような顔で大きく笑った。善意というか楽しんでいる節がある。恋のキューピッドになれば女子が喜ぶと思っているのだろう。
確かに……確かに私が振られる前であれば、三門くんつながりでもう少し仲良くなってから告白できたかもしれない。もっと早く三門くんと知り合っていれば。
しかし、私はすでに振られていた。振られておいて、何度も時田くんを呼んでもらうとかどう考えても未練たらたらで気持ち悪いし、そう彼に思われていると考えるとどうにかなりそうだった。
私は覚悟を決めて、三門くんにゆっくりゆっくりと顔を近づけた。
「あのねぇ、驚かないで聞いてほしいんだけど」
「え、な、何?」
さすがの三門くんも何かを察したらしかった。今まで見た中で一番驚いた顔をしていた。むしろ恐怖に怯えている。これはいい、と思った私は、さらに低く響く重低音の声を出した。
「実は私……」
「え、何?」
三門くんが息を呑むのがわかった。
「もう……」
「もう?」
「振られてるの」
三門くんは狐につままれたような顔になった。
「ん?」
「だから、私は、もう振られてるの」
「誰に」
「時田くん」
「時田……?」
「そう、時田くん」
三門くんは両手で口を抑えて大袈裟に驚いた。驚くなっつっただろーが。
「なーるほどねぇ」
急にニタニタし始めた。
「だから余計なことしないでよね」
「時田ぁーー!」
言った側から声を張り上げるので、三門くんの腕を引っ張ってぽかぽか体を叩いた。
「呼ぶなって言ったでしょ!余計なことしないでって」
小声で注意するも三門くんは、今度はけらけらと大声で笑い出した。
「冗談だって」
冗談にしては本気すぎる。声がでかすぎる。だからこういうちゃらちゃらしたやつは嫌いなんだ。
「もう呼ばないから」
「絶対だよ」
「絶対呼ばないって」
「約束ね」
「約束な、だから……」
「だから、何?」
ずいぶん間をもたせてから、三門くんは意味ありげに微笑んだ。
「これからもよろしくな!」
にやける三門くんを見ながら、苦笑するしかなかった。先が思いやられる。何がよろしくだ。
私は大きなため息を一つつくと、ふにゃふにゃと笑う三門くんをもう一睨みした。
(了)
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微かに雨の匂いがする。
じきに夕立になるのだろう。
雨は好きだ。
初めてあなたを識《し》った時にも、雨の音がしていた。
『そうだな。アディス。お前をアディスと呼ぶことにしよう』
向けられた優しい声に、まぶたが開いた。
体臭に混じって、微かなメンソールの香りがした。
「よろしく、アディス。これからはお前が私の唯一の家族だ。仲よくしよう」
デフォルトの知識しかなかった私に、新たに名前を与えてくれたその人の顔をじっと観《み》た。
躊躇いがちに伸ばされた手に、私はおずおずと唇を押し当て、忠誠を誓った。
あなたは、嬉しそうにほほ笑んでくれた。
頬を、頭をそっと撫でる、あなたの暖かな手の感触。
私は決して忘れない。
私が存在する限りは。
あなたが私を迎えてくれたあの日。
あの日から、流れるだけだった時間は、私にとって特別な『時』になった。
あなたは私に話しかけ、優しく触れ、抱きしめてくれた。
たくさんの情報や常識、必要な知識を惜しげもなく与えてくれた。
家の中だけでなく、オフィスへの行き帰りの道中でも、私たちは一緒だった。
武骨な護衛《ガード》達に挟まれて座るあなたの横で、私はいつも周囲を観《み》ていた。オフィスであれ、レストランであれ、あなたが食事をするときは、まず私が味わった。感情を映さないあなたの冷めた瞳は、私に向けられた時だけは柔らかく瞬いていた。
たくさん恋人がいることは知っていた。
週末、私を置いて出かけたあなたは、いつだって異なる移り香を身に纏っていたから。
あなたは裕福な事業家であり、やり手の経営者。多くの女性たちにとって魅力的な男性。
仕方がないことだ。
それでも、あなたはそんな女たちを自宅に連れ込んだりしなかった。あなたの部屋で共に過ごし、ベッドで戯れあうのは私。彼女たちではなかった。
『あいつらは俺ではなく、俺の金や地位を愛してるのさ。だから俺は相応な見返りを払って楽しませてもらってる。それだけの関係さ。お前とは違う。アディス、俺が信じているのはお前だけだ。お前は決して俺を裏切らないよな?』
私の身体をぎゅっと抱きしめて、そう呟いた声に滲んでいたモノは自嘲という感情?それとも・・・寂しさだったのだろうか?
私にはわからない。あなたの言葉を理解しても、あなたに訊ねることはできなかったから。
あなたが一般的な定義での『善良な市民』ではないことはすぐにわかった。
オフィスや自宅に施された、文字通り、アリ一匹侵入できないほどの最新のセキュリティシステム。外出の際、必ず同伴する護衛《ガード》たち。お抱え運転者に運転させるのは、防弾ガラスがはめ込まれた特別仕様のリムジン。
あなたは決して他人《ひと》に気を許さない。他人を自宅へ招こうともしなかった。
私以外であなたが自宅へ入るのを許可したのは、一人だけ。
あなたによく似た骨格の、あなたによく似た声質の、あなたが<専務>と呼ぶ男。
高圧的な口調でしゃべるあなたに、あいづちを打ち、言い訳を並べ、時には意味もなく笑い声を発てる男。
私は人よりはるかに耳がいい。
男の声には、いつだって怯えと微かな嫌悪があった。
雨は好きだ。
雨がひどく降る日は、あなたは外出を避けるから。
『古傷が傷むんだ。俺も年だな。若い頃は我慢できたんだが。どうしても、右足を引きずってしまう』
見栄っ張りのあなたは、他人に弱みを見せるのを嫌う。おそらく、私以外その事実を知る者はいなかっただろう。
雨が好きだった。雨の日は、私たちの家で、一日中、あなたは私にかまってくれる。私だけのあなたでいてくれるから。
あなたのためなら、私は何でもしただろう。
あなたは私のすべて。私の存在理由。
だから、あなたが悲しむ必要はない。わたしは任務を果たしただけ。
* * *
「すみません。すぐに自分の車で追いかけます。先に行かれてください」
<専務>がへまをすることはよくあること。
だから、書類を取りに戻るというその背を、私は車窓から、ただぼんやりと見送っていた。
その時…
かすかに聞こえてきた彼の声。
「永遠にサヨナラだ、父さん」
呟かれた言葉に込められていたのは、強烈な憎悪。
瞬時に私は判断した。
全力でドアを蹴り飛ばし、あなた共々、車外へと転がり出た。
驚くあなたの袖を捉え、あなたの身体を引きずるようにして駆けた。
かちりと微かな音がした。
間に合わない!
あなたをその場に押し倒し、あなたの上に覆いかぶさる。
背後で爆音が弾けた。
わたしの全身は、燃え上がる焔と飛び散る金属片からあなたを守る盾になった。
ぽつりぽつり。
雨粒が落ちてくる。
コンクリートに、すでに移動機能を失った私の身体に。
トクットクットクッ・・・
よかった。
あなたの心臓は正常に機能している。
「救急車を!生きてるぞ!早く!」
「犬が庇ったんだ。いや、これは・・・機械の一部か?」
「まさか、こいつ、ロボットか?」
誰かが叫ぶ。
けたたましいサイレン。
どたどたと駆けつけてくる足音。
あっという間にスコールと化した夕立が、そのすべての音を消していく。
人工知能搭載犬型セキュリティ装置《AI equipped dog-shaped security device》。
サイバー化したリトリバーの肉体にAIを組み込んだ学習する人造ペット兼ボディガード。
それが私。
アディス。
そう名づけてくれたのは、あなた。
損傷が大きすぎた。
叩きつけるように降る雨の中、全身の機能が停止していく。
消えゆく『意識』に最後に閃いたのは、あなたの声、あなたの香り。
誰よりも愛しいあなた《マスター》
私はあなたの家族になれていましたか?
続きを読む
私はその駅で列車を下りた。 夜はまだ明けておらず、ガス燈の心もとない明かりが、朝の気配をまとった駅員すらいないホームをぼんやりと照らしていた。 ホームの端に立つ古びた駅名標に目をやると、手の中の切符と同じ四文字が刻まれていた。
北の町。
私はしばらく、その文字を見つめた。 どうしてここへ来たのか。何を探しに来たのか。 結局よく分からないままだけれど、どうしてもここへ来なければならないような気がした。
空の下のほうが、ゆっくりとミルク色に染まり始めていた。 私はそれを眺めながら、ほう、と息を吐き、駅を出た。 駅前の大通りに、一軒だけ明かりのついた喫茶店があった。 私は吸い込まれるように、その店へ入った。
そして――北の町で、こんな話を聞いた。
「夢を捨て、妥協《だきょう》をし、様々なことを諦めるのが『大人になる』ということだ。その点からいえば、君はまだまだだな。」
「はあ……、そうですか。」
カフェでコーヒーと読書を楽しんでいると、そんな会話が隣の席から聞こえてきた。少し気になって横目で様子をうかがうと、スーツ姿の男性が二人、向かい合って座っていた。いわゆる「ドヤ顔」で話していた中年男性と、気のない返事をしている若い男性。上司と部下だろうか。
私は、二人の会話を思い返した。 よく耳にする言葉だけれど、改めて聞くと、体裁《ていさい》を良くして恰好《かっこう》つけただけの、自分を誤魔化す言葉にしか聞こえてこない。それだけじゃない。自分の価値観が全てで、絶対的に正しいと思い込んでいる人たちも少なからず存在する。なるほど、あんな風にドヤ顔で話して恍惚感《こうこつかん》に浸るわけだ。目の前の相手はテーブルの下に隠したスマホの画面ばかりを見て、全く話を聞いていないのにも気づかずに。 私はため息をついた。こんなことを考える私も、夢を捨て、妥協をし、様々なことを諦めて日々を生きている、大人なのだ。
「ねえ、知ってる? 子どもにとって、いちばん甘いものは、ドロップスなんだよ。」
カフェの外を通る女の子の言葉が、私の耳と心を直撃した。私はフッと小さく笑った。 ああ、そうか。どんな妥協も諦めも、自分の心を偽ってしまっては、真の大人とは言えないんだ。
帰り道、駄菓子屋に立ち寄って、幼い頃に大好きだった金平糖を買った。 ひと粒取り出して夕日にかざすと、陽の光を受けてキラキラと輝いた。
続きを読む
僕は総毛立った。それは本日の夕食である秋刀魚の塩焼きのデザートととして出された熊本県産のピオーネの出来が凄まじかったからで、旬の秋刀魚に奇妙な価格高騰を見せる大根をたっぷりとすりおろし、たっぷりと容赦なく口内調理し、狂って頭のおかしくなった残暑の中、先取りした秋の味覚はこの鳥肌と相関は無い。
「口に入れ、舌と上顎の圧力を以て弾け出すのは完璧に調律された糖度と酸味を内包する水分と果肉。この力強さは正に蓄積された陽射しそのものであり、支えているのは徹頭徹尾管理された土壌のもたらす幾何学的持続保持供給力であり、僕はそれを愛と呼ぶ。何故なら穴の開いた傘を差すくらいなら海に飛び込む選択をする輩には絶対に到達出来ない極致だからである」
「ほぉん。それで?」
「愛であることに依拠するが故に舌上に触れる果肉は天使の指先であることに疑いは無いし、例えこの表現が異論を呼ぼうとも僕にとってそれは野鳥の囀りに等しい些事だということは前提として添えておく。またそう信奉するだけの意義と価値とが相待り捻れ、酷く強力無比な綱となり僕の両手は抗いもなく縛られるのだ。結果、不自由こそが幸福の伝道師であると、今日も思い知らされる愚かさをどうか許してほしいと願わずにはいられない。一粒。そして、一粒。一粒。しかし有限である行為の中で可能な限り、僕は反芻しよう。これは宣言であり宣言ではないのだが。不自由の神が遣わす無邪気爛漫な美味という天使。その指先を待つだけの阿呆と化したとて対価は倍補っても余りありその先には閾値を超えた幸福の支配する領域が待っている」
「一房二千五百円した。税抜き」
「しかし、だ。罪深い罪が僕の手に佇む。コロンビアの誇るトップオブトップ。恵まれた地で育まれ天まで積み重なる叡智のみが可能にする発酵の御技。膨張する糖度に人間が使役する言語程度では到底形容し得ない風味特性。もはや嫉妬すら許されない。つまり神に等しい感情を僕は抱く。たった一杯のコーヒーに、だ。そうコーヒーという単語の指す物質は人間言語の性質的欠陥を根源的に示唆し偶に指摘する。木も種も焼焦体も微塵となっても液体となってもまたあるいは牛乳をはじめとする乳脂肪を差し込まれても、コーヒーはコーヒーでコーヒーであるが故にコーヒーはコーヒーたり得るのが一般化して一体幾年が経つのかを我々は胡座をかきながら忘却し続けるという器用な事で器用そうな事を今日においても見事にやってのける。元来、君はあるいは君らはそれを口にする前に問わなければならない。香りを鼻腔に詰め込む前に逡巡を求められる。それはコーヒーがコーヒーである証左はコーヒーにしか求められない事実に向き合う態度を、だ」
「それは百グラム八千円もした」
「模範宇宙的規律が求めるのなら首を垂れ尻尾を振り喜んで懺悔しようとも思う。失禁程度なら厭わない。太陽の雫の詰まった一粒と人類の叡智が神のつま先に触れ結晶化したコーヒーを同時に受肉するというこの事態を。瞬間的には交互にと言う方が正しいのだが、その程度が同時にと見做されるのは許容してあげても構わない。そうだ。僕は罪を犯した。しかし罪は即ち間違いでは無いとここに宣言する。君は、或いは君たちは、罪を避け続けることで間違いを犯し続けるが間違いを避け続け罪を犯さない者もいる。それは確かに稀にだが存在する。僕が罪人であることと君の或いは君以外に対し間違いを指摘してはいけないのかは分けて検討するべきだし、政治家やコメンテーターの奇行的発言にいちいち時系列を吟味することは、それらがただの周波数に分類されるという事実がまず前提として抜けている。故に僕の履歴書がどれほどの密度の直線や曲線の黒線で埋め尽くされようとそれは過去の羅列に他ならないし、現在当人である僕が発する周波数は完全に独立して評価されるべきである。これは二次元と三次元、はたまたそれ以上の次元を混同する認識齟齬が一般的にそういった癖へと全うに属しているからである。黒線と周波数は完全に独立されないという立場には黒線と周波数の因果関係の完結を求める。必ずしもなどという但し書きはこの場合認められない」
「うん。言いたいことはわかった。面接どうやったん?」
「落ちました」
「好き?」
「はい」
「はいじゃ分からん」
「愛してる」
「ほな、許したるわ」
如何してこのような形になったのかは、得てして理解されたいという欲求と理解などされたくもないという欲求同士が長い間同居し繁殖し環境の悪辣さというのが生成にテコ入れした結果があまりに珍妙で滑稽な姿をしていたので果たして進化という評価が正しいのか僕自身分からないから分からない。そのような結果同士が結実したが故であるとする。そのような結果同士がさらにゆい実したが故とされる。
この一連の蜜月の密室での蜜話自体が原始的には仕事として成り立ってしまっているという如何ともし難い事実は、例え口が頚椎まで裂けたとて、到底発音すべきでは無いのはまったくもって明らかである。わざわざ地雷を掘り起こして蹴り上げるほどには明快ですらある。
もし仮に万が一にもそんなことが存在し得る可能性を、貴方が貴女が君がお前が、僕がそんな愚行に指先を触れるかもしれないとウイルスサイズ程度にも邪推したのならn=n+1などという無理難題且つ荒唐無稽な数式を受け入れるに等しく、その認識は現時刻を以て即刻改めるべきだしあらゆる事柄に事物に最優先される改変事案であることを先ず認識しなければならない。それが素朴かどうかは問わない。
無論僕は心底敬服し、彼女を産み出した御先先先先先先先先々々々々々々々々祖様のゾウリムシの繊毛の先に至るまで一切の曇り無き純全とした感謝の意を示している。
諸君。
「何か言ったー?」
「ううん。今日も御御馳走様で御座いました」
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「おい!何ボーッとしてんだ! このデータの入力ミス、全部お前のせいだぞ! 終わらないまま帰ろうとするんじゃねえぞ!」
フロアに響き渡る怒号、充満する安っぽい栄養ドリンクの匂い。
嫌な汗が背中を伝い、画面と睨み合った疲労から、視界の端がぼやけ始めていた。
「申し訳ありません!ただちに修正します!」
深く頭を下げると、弾むような手つきでキーボードを叩き始める。
「おい、ヤマダ!気の緩んだ顔してんじゃねえぞ! もっとシャキシャキしろ、ぶん殴られてえのか!」
「申し訳ありません! ご指導、ありがとうございます!」
隣の席のヤマダも、怒鳴られながら瞳を輝かせている。
「もうすぐ18時だが…、これからがお前らのゴールデンタイムだ!もっと生産性を上げろ!」
「はい! 喜んで!」
慣れた様子で、全員が歓喜の声を揃える。
「終わらない、終わらない!」
大量の書類を抱えた新入りが、弾む足取りでコピー機へと走っていく。
「声が小せえ! 気合が入ってないからミスをするんだ!」
「なんだこの報告書は! 最初からやり直せ!」
「言われたことしかできないのか? 指示待ち人間になるな! 自分の頭で考えろ!」
「勝手な判断で動くなと言っただろ! 誰の許可を得て進めてんだ! 報連相もできねえのか!」
「おい、お前ら、世間では明日は日曜日とか抜かしてるが、ウチには関係ねえからな!」
理不尽の連続。タナカさんは今日もキレッキレだ。素晴らしい。
終電ぎりぎりまで生産を堪能した俺は、重い足を引きずるようにセキュリティゲートへ向かう。
「本日もお疲れ様でした。 1,000円となります。」
今日1日、怒号を浴び、生産し、発生するのはたかが1,000円。何と安いことか。
服も脱がずにベッドへ倒れこむと、柔らかめのマットレスと心地よい疲労感が身体を包み込んだ。
かつて仕事を失い、「こんなのんびりした毎日も悪くないかもな」なんて誤魔化そうとした日もある。
しかし、ただ時間が過ぎるのを待ち、自己肯定感をじわじわと削られていく。
あの感覚の日々には二度と戻りたくない。
俺は今、心から満足している。
理不尽に怒鳴られ、追い詰められながらも、何かを生産し、誰かに必要とされている確かな充実感。
俺の居場所は、ここしかない。
俺は明日も生を実感しに行く。
誰も働かなくなった世界で。
国から支給された金を握り締め。
あのテーマパークへ。
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傾きそうなアパートの一室で絵本を読んでいる私の耳に、祭囃子が聞こえた。
その音にウズウズとしながら、何度も玄関に行ってはため息を吐き、母に笑われる。
「今日は早く帰ってくるって言ったのに」
「もう少し待ってなさい。約束したんでしょ?」
「うん……」
父が約束を破ることはたくさんある。
今日は一緒に寝てくれると言ってても、やっぱり遅く帰ってきて、私はいつもみたく母と寝てる。
どうせまた……。
そんな思いが込み上げた時、外からバイクの音がした。
「お父さん!」
玄関の鍵を開けて飛び出した。少し驚いたような父の顔が嬉しそうに変わっていく。
私はお父さんに捨てられていなかったんだ。
バイクを止めている父の手を、はしゃぎながらもどかしく引いた。
浴衣に着替えた私の写真をたくさん撮る父。
得意げにポーズを取りながらも、祭りが気になって仕方がない。早く行かないと終わってしまう、と騒ぐと、始まったばかりよと母がまた笑う。
「行こうか」
「うん!」
大きく厚い手が私の頭を撫でる。誇らしい気持ちになりながら、手を繋いで夜道を歩いた。
私は父と手を繋ぐのが大好きだ。
理由はぜんぜんない。繋ぎながら背の高い父を何度も見上げ、はしゃいでしまう。
はしゃぎすぎて父の手を離し、ぴょんぴょんぱっと跳ねながら前を行けば、父は楽しそうに笑ってくれる。
それが、とてもとても嬉しいのだ。
祭の太鼓が腹に響くほどになった頃には、私たちは会場にいた。並ぶ屋台を見れば、夏の暑さなんて吹き飛んでしまうくらいワクワクとする。
屋台を見かけたら必ず買ってもらう綿飴は暑さですぐに溶けてしまった。ぺろぺろと手を舐めていると、父にたしなめられる。
「舐めた手を浴衣で拭くな」
「ハンカチ忘れたもん」
「待ってろ……。ない……」
眉が下がる父を見て笑っていると、私のベタベタな手を引いた父がジュース売りの屋台へと連れていく。
「つめたっ!」
「ありがとうございます」
おじさんに水を使わせてもらえるように頼んでいた父は、頭を何度も下げている。私は氷の入った冷たい水の中からジュースを一本取り出した。
お祭りの音楽ってどうしてこんなに楽しくなるんだろう。スキップして人にぶつかりながら、私は父と色んな屋台を見て回った。
「水笛いらんかねー」
そんな掛け声が聞こえて振り向くと、通り過ぎた屋台の人が、菓子箱を手で抱えている。
「お父さん、ミズブエってなに?」
「水に竹を……見れば分かるよ。難しいぞ?」
「見に行く!」
行ってみると、竹はどこにもなかった。
色とりどりの鳥の形をしたプラスチックだ。
「こういうのだったのか」
「小鳥さんだね」
父が想像していただろう水笛よりも、私は目の前にある可愛い鳥が気になった。
「水をお腹に半分入れるだけで、小鳥の声が出せるよ」
屋台の人が水笛を吹いた。
「鳥だ!」
大はしゃぎした私は、父の手を強く掴みくいくい引っ張る。
「欲しい時は、ちゃんと口に出して言おうな」
「ピンクの小鳥さんが欲しい!」
手に取った初めて見る笛。屋台の人が水を入れてくれたから、すぐに吹けた。
何度も吹きながら父を見上げて得意げにする私。父はずっと優しい笑顔で私を見下ろしていた。
ドンと大きな音が鳴った。花火が始まったのだ。
歩き疲れた私は父におぶられて、肩越しに手を伸ばした。花火を掴みたくて。綺麗なのにすぐに消えてしまうから。
背伸びをして手を伸ばす私を父は、よっこいしょとおぶり直していた。しがみつき過ぎる私を軽口半分でたしなめながら。
ドン
ぱらぱらぱら……
祭囃子に混じった花火の音。太鼓より身体中に響く綺麗なそれを父と一緒に見れた。
今日は父がいてくれている。
帰り道にも、私は父の大きな背に掴まっていた。
足をバタバタさせながら、たくさん喋った。
~完~
続きを読む
グラウンドを走る先輩の姿を3階から眺めていると、トンと背中を叩かれた。
「わ!…もう、ビックリするじゃん!」
「まーた部活サボって先輩見てるんでしょ。そろそろ集まるよ」
「だって…向こうは3年だし、陸上部はもうすぐ引退しちゃうし。見れなくなるんだよ?」
友人はやれやれと私の隣で窓の外を見る。
私達は高1だ。3年の先輩を見れる機会なんてあと少ししかない。
「告っちゃえば?」
茶化してくる友人に私は膨れて見せる。
「喋ったこともないのにムーリー!見てるだけでいいもーん」
「はいはい、もう戻るよ。こっちの先輩達に怒られたくないでしょ?」
そんな先輩らなんてどーでもいい、と言いつつ、私は友人に連れられ自分の部活に戻った。
そんなある日。
バフ!
校舎の曲がり角を右に入ったら、人にぶつかった。
どこ見て歩いてんの?!私は相手をギッと睨み上げた。
「!!!」
陸上部のあの先輩だった。
「あ…ごめん」
「………。」
勢いでつい睨んでしまった。これ絶対引かれてる!
慌てた私は謝ってくれた先輩に何も言わずに走って逃げた。
***
あれから数年後。
私と先輩は社会人になり、飲み友達になっていた。結局想いを伝えることはなかったけど、今はだべりながらお互いの仕事の愚痴を言って笑い合ってる。
「そんなこともあったなぁ。あの時はこえー1年だって思ったわ」
「懐かしい青春の日々だね。輝かしい!可愛い後輩できて良かったじゃん」
先輩は今年、私のあの友人と結婚する。照れくさそうにした二人が揃って打ち明けてきた時は、お祝いだー!なんて大はしゃぎした。
淡い恋心を抱いたあの時期。そして今の居心地の良い距離感。縁って分からない。
仕事の愚痴に話題が戻ってしまった先輩を眺めながら、懐かしいあの日にほんの少し目を細めた。
~完~
続きを読む
ミステリー・サスペンス
3348文字
約7分で読了
もう耐えられない。だけど……
別れを切り出して彼女が納得するとも思えない。一体どうすれば……。
降りしきる雨音に消え入りそうな精一杯の俺の本音。
「ごめん、君にはついていけない。だから……もう会わない」
彼女は優しく微笑んだ。
それは振られた本人には似つかわしくない、晴れやかな笑顔だった。
──3日後
初めてあなたに手紙を書くのだけど、なんだか照れくさいね。
でも、電話もLINEも他のDMもメールも通じないからどうしたのかな、って思って。
ちゃんとご飯食べてる?あなたが好きな料理を作りたいんだけど、いつ部屋に行けばいい?
連絡ちょうだいね。
待ってるから。
──4日後
何となくまた手紙書いてみたの。
手紙って面白いね。もしかしたら今、これをあなたと一緒に見てるかもしれないけど、それも面白いでしょ?
この間、会えないって言われたけど、好きな人が出来たわけじゃないみたいだし、それなら別に気にしなくても良いと思うよ。
仕事、忙しい?最近大変そうだったし、身体もキツそうだったもんね。ちゃんと休まないとダメだよ。
そうそう、これを読んでる時に忘れていなければ電話繋がるようにしてね。声が聞けないのは寂しいよ。
ちゃんと別れたはずなのに何なんだよこれ。彼女なら直接家に来そうなのに。
何で手紙?
俺は頭が混乱する。1通目で思考が停止し、2通目で恐怖を感じた。
──5日後
元気にしてる?
全然連絡着かないけど、こうして手紙を書いてるとなんだかあなたに話し掛けてるみたいで楽しい。でもやっぱり声を聞きたいな。
ところで今度の記念日、どこでしよっか?あなたってばいつも記念日忘れるから事前に教えてあげないとね。
12月2日だよ。前回は11月14日。いつも何の記念日か聞くけど、「今日は〇〇な日だね」って笑い合ったじゃない。ちゃんと写真にあなたの笑顔撮ってあるんだからね。
ああ、楽しみ。予約は私がしておくね。
手紙には写真が同封されていた。
──6日後
あなたがいない……。
私の部屋にも来てくれない。
なんで顔を見せてくれないの?
どうして私を遮断するの?
そんなこと聞いて欲しくないか。だってあなたは疲れてるんだもん。いつもヘトヘトだって言ってたし、ひとりでゆっくりしたい時だってあるよね。気持ちを押し付けすぎてゴメンなさい。
もしこれを読んでくれたなら………
その後の文は文字が乱れすぎていて読めなかった。
「おい、聞いてるか? 」
「え……ああ、すみません! 」
職場の先輩から話し掛けられていたのに気付かなかった。
4通目になる彼女の手紙。
別れたことを彼女も理解しているから家に来ないはずなのに、手紙ではまだ付き合ってることになってる。
「顔色悪いぞ? 風邪か? 」
「いえ、大丈夫です」
仕事にも支障が出てきた。
それにしても不可解なのは、送られてくる手紙は短いことだ。彼女は長い文を書くタイプなのに。
裏をどうしても考えてしまう。
そして、多すぎる記念日にも対応できなかった自分や、幸せそうな笑顔の彼女を思い出す度に罪悪感が込み上げる。
今日も家に帰ったら手紙が届いているんだろうか。精神が持たなくなる前に、しばらく家から遠ざかるべきだと思った。
──7日後
あなたが好き。すごく好き。
胸が熱くなるって不思議な感覚だけど、あなたと離れて帰る時は、いつもこうだったよ。そしてね、切なくて幸せな気持ちになるの。
仕草も匂いも声も少し困った笑顔も全部、好き。今すぐ会いたい。
今ね、あの思い出の場所にいるの。
だって記念日でしょ?
あの時はあなたの助手席にいたけど、今日は寒いな。
今この瞬間のこの景色をあなたにも見せたい。
結局家に帰ってしまった俺は5通目の手紙を読み愕然とする。
「あの場所に? 独りで、ってタクシーだよな?まさか歩いてないよな……」
同封されていた小石が何を意味するのか、考えたくもない。捨てようとしたけれど、他の手紙同様どうすることも出来ずに置いてある。
独りで行かせてしまった。
手紙に書かれてることは本音なんだろうか。あんな場所にたった独りでいて、本当に幸せ何て思うんだろうか。
俺は彼女を最後まで理解できなかった。手紙の言葉が真実か裏があるかも分からないくらい。
楽しいことが好きで、どこか奇抜で、行動力は俺なんかよりずっと凄くて。鈍臭い俺が劣等感だらけの言葉を吐いても、いつも支えて好きでいてくれて……。
「そろそろ連絡くらいしようかな」
気持ちが揺らぐ。いっそのこと直接来て何か言ってくれたら良いのに。
「振ったのは俺だった」
都合の良いことを考えている自分に苛立つ。
彼女の手紙は俺を一切責めてない。別れる時もそうだった。
俺はLINEのブロックを解除して、彼女にメッセージを送った。
『元気? 』
彼女から返事は来なかった。既読も着かない。
──8日目
これ、やっと見つけたの!
ほんとにほんとにすごーく探したんだよ?やっとあなたに渡せるから嬉しくてたまらない。
まだ持ってないよね? 持ってたら残念だなぁ。でも家と職場の往復だし、休みはコンビニかスーパー行くだけだから持ってないはず!
彼女からプレゼントが贈られてきた。
──9日目
……てから……のいて………く………。
ほぼ読めない一文が送られてきた。
***
彼にフラれた時、私はすごく悲しかった。
問い詰めても彼は言葉を濁すだけであやふやな言葉しか返してくれない。どんなに話し合おうとしても煮えきらない彼。最後には頭に来てバッグでぶん殴ってしまった。
「まじクソ男! 」
その日は友達と飲みながら元彼となったあの人の悪口で大いに盛り上がる。店で飲む方が好きな私だけど、友達に泣きながら電話したら家に呼んでくれたのだ。
持つべきものは女友達!
「あんなやつでも好きだったから頑張ったのにさ……。あーあ、男はしばらく懲り懲りだよ」
「んー、でもさ、あたしは良かったと思ってるよ。今言うことじゃないけど」
「え? そうなの? 」
「うん。だってさ、アイツやばかったし。あたし、心配だった……」
別れてから聞く友達の本音。口には出さなくても本当に心配してくれてことが分かり、また泣けてしまった。
──3ヶ月後
「うーん! 今日も良い天気! 」
気持ちが良くて大きく伸びをすると大好きな人が隣で柔らかく笑った。
私は今、新しい恋をしている。
元彼のことは1ヶ月もあればサッサと忘れてしまったけれど、噂好きな友達が何かと情報を仕入れて来るから今じゃ酒のツマミにして笑い話にしてる。
そんなある日、妙なことを聞いた。
「あいつ、仕事辞めたらしいよ」
「へー、元々向いてなさそうだったし良かったね」
「あんたってホント、興味なくなると冷たいよね。でもでも、辞め方が変だったらしいの」
もったいつけて声を潜める。私もふざけて固唾を飲むような顔を作った。
「たぶんあんたと別れてすぐからだと思うけど、全然家から出てこなくなって、会社にも連絡してなかったみたい。で、同僚……ってあたしの友達なんだけど、その人が家に行ってみたら……」
寒いとでも言わんばかりに両腕を掴みさすり、表情を歪めている。
「なーんにも書いてない便箋みたいなの手に持って謝ってたらしいわよ。ブツブツ言ってたのは……あんたの名前だって」
何通もの封筒の中には白紙の便箋が1枚のみ入っており、中には小石や写真が同封されている物もあったとか。声を掛けてもそれらを見るばかりで返事をすることはなかったという。
テーブルに広げられたその手紙の山の前にいる彼は、謝りながらもどこか幸せそうだった、と目撃した人は語っていたらしい。
「バカっかバカしい。理想の私にでも会えたんだろうね」
笑い飛ばしその話を一蹴した私は、内心気味が悪くなり話題を変えた。
友達と別れて家に向かっていると、頬にポツリと冷たい物が当たった。
「やだ! 傘もってきてないのに! 」
雨足はどんどん強くなる。もうすぐ家だし走ろう。
通り過ぎたコンビニで、黒い傘を持っている人が見えた。買おうかな、と迷ったけれど、走り抜けた。
やっと付いた家の前。ずぶ濡れになりながら屋根の下へ駆け込み、ポストを確認する。
「あれ? 手紙だ」
差出人も宛名もない。用心してしっかり触ってみても、振ってみても危険物はなかった。誰かが別の部屋と間違えて入れたのかな?
「久しぶり。君に謝りに来たよ」
後ろからよく知る声がした。
降りしきる雨音に溶け込むように。
~完~
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朝焼けが ビルの隙間を染めていく
昨日流した涙の色を 塗り替えるように
どこまでも続く 青い静寂(しじま)に
僕らはちっぽけな 呼吸を一つ落とした
風が通り抜けるたびに
何かが胸を締め付けるけど
見上げるたびに 変わらない場所で
その広さを 教えてくれる
あんなに自由な空になれたら
どこへだって 飛んでいけるだろうか
悲しみも 包み込むような 圧倒的な青
僕らが迷わないように
今日もただ そこで微笑んでいる
夕暮れが 影を長く伸ばしていく
茜色に溶ける雲が 少し切なくて
「また明日ね」と 呟いた声は
オレンジのグラデーションに 消えていった
どんなに遠く 離れていても
同じ空の下で 繋がっている
ぬくもりを 運んでくるような 優しい夕映え
一人じゃないと 伝えるように
街の灯(あかり)を 優しく灯していく
一番星が 瞬き始めて
夜の帳(とばり)が 全てを包む
暗闇さえも 拒まない空
その広大さに 寄り添いながら
僕らは 自分の光を 探していくんだ
あんなに自由な空になれたら
どんな涙も 輝きに変えられる
切なさも 温かさも 全部抱きしめて
僕らが歩き出すための
道標(みちしるべ)を 照らし続けている
夜が明けて ビルの隙間を染めていく
新しい一歩を 祝福するように
見上げる空は いつだって自由で
僕らの明日を 静かに待っている
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いったいどうすれば、皆を満足させられるんだ?」
彼はおおいに悩んでいた。
彼は『苦情受理・対応課』課長。
組織における、いわゆる中間管理職だ。
彼が率いるのは、際限なく入ってくる不平不満に耳を傾けて対応するための部署。
苦情を減らし、現状における最大多数を満足させるよう努めるのが、主な業務だ。
対応が悪いと文句を言われることは多い。が、残念ながら、感謝されることはあまりない。
仲間内で『貧乏くじ』係と呼ばれている課でもある。
「できるだけ、あのお方のお気持ちに沿いたいのだが」
彼は天を仰いで、ため息を吐いた。
今日も彼は多忙だった。
彼が、部下たちが、どんなに必死に善処し続けようが、満足することなく自分の要求ばかり通そうとする人間はいつだって存在する。
他のモノが妥協してくれるときでも、人間は自分の利益のみを優先させろと訴える。
あまつさえ、どういう方法かわからないが、忙しい上司に直訴しようとする、不届きな人間まで現れる。
いっそ上司が直接、事にあたってくれればいいのに、と思うこともある。
基盤を築き上げ、運用ルールを定めたのだから、その先を丸投げするのはあんまりじゃないだろうか?
まあ、そういうわけにはいかない決まり事があるのだろうが。
正直言って、頭が痛い。
部下たちはほぼ不眠不休で働いていてくれている。
しかし、彼らの要求はあまりにも多岐にわたる。
一人の願いを叶えても、別の人間の不利益になり苦情の元になってしまう。
そんな事例も少なくない。
上司が掲げる最終目標は『居住者たち全てを満足させて幸せに導くこと』。
そんなの、どうやっても、不可能じゃないだろうか?
(いっそ、不都合なことはすべて忘れてしまえればなあ。そうできれば、少しは気が楽になるんだが)
思わず、そう弱音を吐いたとき、天啓のごとく、解決案が閃いた。
* * *
「愛していたのに!この浮気者!あなたを殺して私も死ぬわ!」
刃物を振り回して恋人に詰め寄っていた女の顔から、すっと怒気が消えた。
「あら、素敵な方。お名前を教えてくださる?」
「こいつの命が惜しければ、社長を連れてこい!」
不当解雇を訴える男が元同僚にナイフを突きつけて叫んだ。
「やむを得まい。射撃班に連絡を」
「しかし、それでは人質の命が」
刑事たちの動きが止まった。
男がナイフを投げ捨てて、周囲を不思議そうに見回していた。
「あれ、刑事さん?何か事件ですか?」
「大変です。A国が我が国に向けて核ミサイルを発射した模様です」
「なんだと!嘘つきDめ。停戦の約束を反故にしやがって。お返しに核ミサイルを首都に食らわせてやれ。国民は核シェルターに緊急避難を」
そう命じた直後・・・
P総統は部下たちと顔を見合して微笑みあっていた。
「なんだか、ひどく穏やかな気分だな。久しぶりにお茶でもどうだ?」
* * *
その日、人類は嫌なこと全てを忘れ去り、誰もが幸せな気分になった。
そして、地上は大混乱に陥った。
彼が上司《神》にこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。
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