ミステリー・サスペンス
3435文字
約7分で読了
「湊孝介くん、ちょっと!」
教室を出たところで他のクラスの女子三人に呼び止められ、連れてこられたのは人気のない体育館裏。
あれからすでに十五分ほど経つが、未だに解放してもらえそうな気配はない。
「|渚《この子》に謝りなさいよ。『俺よりバカな女と付き合うつもりはない』って言ったんでしょ? 自分が学年一位だからってひどくない?」
「そうだよ! ちょっと顔がいいからって調子乗りすぎ! せっかく勇気を出して告白したのに、渚がかわいそうじゃないっ」
……とのことだが、糾弾されている内容に全く覚えがないのだ。
「そもそも、渚って誰?」
もしかしたら十年くらい前の幼稚舎時代の話かと思って尋ねてみたが、
「ひどーい! この子! うちのクラスの河合渚だよ」
「三年になってもう二ヶ月も経つのに、クラスメイトの顔も覚えてないの?」
他クラスと思っていたが、彼女たちも同じクラスだったらしい。
ご紹介を受けた当人は顔色を失ってる。
だが、他クラスだろうと同じクラスだろうと、知らないのだから仕方がない。
大体俺なら、
『俺よりバカな女と付き合うつもりはない』
なんて、そんな面倒くさくなるような断り方はしない。
『今は誰とも付き合う気はない』
それで済む話だ。
身に覚えがないのに、相手は俺だと言う。
これはもう、結論はひとつだ。
「あのさ、」
口を開いた途端、目の前の三人の瞳がギラリと光る。
次に気に入らないことがあったら、引っ叩いてやる、そんな気迫さえ感じる。
嫌な圧に押されながらも、俺はゆっくりと尋ねた。
「それ、本当に俺だった?」
言葉が放たれた途端、目の前の女子たちと、なぜか後ろの木々がざわざわと揺れた。
「何言ってんのよ。渚、あんた|湊孝介《コイツ》に告白したんでしょ」
「う、うん……」
「本当に俺だった? |湊《・》|颯《・》|介《・》じゃなくて?」
「え……?」
湊|颯介《そうすけ》は、隣のクラスの俺の双子の弟だ。
一卵性で身長も同じ。都合よく泣きぼくろがあるわけでもなく、黙っていたら親でもわからない。
小学生の頃は、赤は颯介、青は孝介……のように、色違いの服を着せられていた。
だけど、今は……。
「……っ! 孝介くんだったよ。眼鏡をかけてたし、カバンに入れた手紙を見たから、待ち合わせ場所に来てくれたんでしょ?」
河合渚は記憶を反芻するように、そう口にした。
……眼鏡、か。
中三になって突然悪化した視力のせいで、俺だけ眼鏡をかけている。
それが颯介との違い。
逆に言えばそれしかない。
つまり、
「それ、颯介だよ」
「そんな、だって……!」
「アイツ、家で勝手にカバンの中いじるし。それに、」
メタルフレームの眼鏡を外す。
「眼鏡外した俺、颯介に見えない?」
「……あっ」
ぼやけた世界で女子たちが息を呑むのが聞こえた。
「どう? 本当に俺だった?」
河合さんからよく見えるように、彼女へと顔を寄せていったら、
「っ!ねえ、私、渚じゃないから!」
河合さんじゃなかったらしい。
「……失礼」
目の悪さに絶望しながら、再び眼鏡をかける。
間違えられた女子は顔を紅潮させ、なぜか困ったような、怒ったような表情をしていた。
もうひとりの付き添い女子が、河合さんに問いただす。
「ねえ! どうなの? コイツだったの? 弟の方だったの?」
「……そう言われれば違ったかも」
「そんな……」
自分たちの勘違いと理解したのか、最後まで怒っていた女子が、
「悪かったわね!」
と吐き捨てるように謝ってきた。
「でもね、元はと言えば……」
「颯介が悪い。よく言っておくよ」
「くっ……行こう、渚っ」
「うん……」
「ほら、あんたも!」
一人は腕を引っ張られ、河合さんも一度だけ振り返ったが、女子たちは駆け足で裏門へと向かっていった。
「ひどい目にあったな……」
時計を見ると、十五時四十分。
まあ、いい時間だけど、その前に。
「颯介、いるんだろ? 出てこいよ」
さっきから知っていたんだ。
颯介が後ろの木々を隠れ蓑にして、こちらを伺っていることは。
「へへ……ばれたか」
ほら、やっぱりな。
ガサガサと茂みをかき分けながら、颯介が姿を現した。
「髪、葉っぱついてる」
「取ってー」
「お前なあ……」
頭を差し出す颯介の子供っぽい所作に、説教する気もなくなる。
自分と同じ触り心地のはずなのに、触れると苛立ちが解けていくのがわかった。
代わりに生まれてくる締め付けるような疼きには、そっと蓋をして。
「もう、あんなことすんなよ」
「あんなことって?」
大人しく髪についた葉っぱを取らせながら、颯介はとぼけてくる。
「俺のフリして、女子をフること」
「へっ? コウはタイプだったわけ? あの子と付き合いたかった?」
「そうやって、煽ってくるのやめろ。今回みたいに面倒なことになるからだよ。やるならもっと上手くやれよ」
「ふぅん、上手くやれればやってもいいんだ?」
「俺にバレずにできるならな。……ほら、全部取れたぞ」
颯介の髪から離れた、名残惜しそうな自分の指を見て苦い笑いが浮かんでくる。
「ちぇ。もうやんないよ」
つまらなそうに、自分と同じ顔が唇を尖らせたのを見て、
「なんで、あんなことやったんだ?」
尋ねてみる。
それは興味と僅かな期待。
けれど……。
「なんでだと思う?」
颯介は首を傾げて可愛い演出をするが、俺は知っている。こういう時のコイツはただの……、
「だってさー! 最近のコウってば勉強ばっかじゃん? 前はよく遊んでくれたのにさ! そんなところに彼女なんかできたら、ますます遊んでくれなくなるだろっ」
「……バカだな。駄々っ子かよ」
「遊んでくれないコウが悪い。なあ、外部受験なんてするつもりなんてないよな?」
俺たちは双子だから。
両親がいない時は二人で過ごしてきた。
シッターや祖父母がいるときも、合言葉や、視線一つで二人だけの会話をする。
登下校も一緒、スクールバスの席は隣。
寂しい日なんて一度もなかった。
そうやってここまできたけど。
「ないよ」
颯介はあからさまに、ほっとした顔をする。
「じゃあ、帰ったら遊ぼうぜ。俺、ゲームランク上がったんだ。コウと同じステージで遊べる!」
「悪い、俺この後用事があって」
きっとがっかりするだろうな――そう思ったとおり、颯介の笑顔はやはり萎んでいった……けれど、
「一緒に行く!」
予想以上に粘ってきたな。
「ブラコンかよ」
「そうだよ! 行っても平気なやつ?」
「職員室だけど」
「げ……」
今度こそ、颯介は意気消沈した。
颯介が近ごろミニテストで、ひどい点数をとっていることは知っている。
……自業自得。本気でやらないからだ。
「先に学校出て、『うしお』で待ってて」
今時珍しい駄菓子屋の名前をあげると、颯介は「助かった」というようなほっとした笑顔になる。
「なるべく早くな!」
弾むように駆けていく弟の姿を見送ってから、俺は校舎へと向かった。
昇降口から、職員室へ続く廊下を急ぐ。
そして職員室を|通《・》|り《・》|過《・》|ぎ《・》ると目の前にある階段を昇り、一番近くのトイレに入った。
洗面台の鏡の前に立つとメガネを外して、ポケットの中に潜ませていた小さなケースを取り出す。
お年玉で買ったコンタクトレンズだ。
颯介に気づかれないように眼科に行くのは苦労した。
そのケースの蓋を開けて、カーブを描く小さなレンズを瞳に入れれば……。
鏡の中に、颯介がいた。
日本人にしては色素の薄い肌、比較的整った顔の作りに、榛色の瞳がこちらを見つめている。
時計を見ると、十六時まであと二分。
待ち合わせの音楽室まで三分ほどだ。
廊下に出てみると、誰の姿も見えなかった。
まるで、理想の世界。
――颯介が欠けている以外は。
「颯介のやつ、どんな顔して生活してるんだ。今月もう、三度目だぞ」
俺がアイツになりすまして、女子からの告白を何度も断っていることを、颯介は知らない。
俺が努力型なら、アイツは天才型だ。
その気になれば簡単に手に入れられる。
ミニテストの点数も、俺のいない未来も。
初めてそのことに気付いた時、背中がゾワっとした。
だから。
したくもない勉強をするし、邪魔なものがいれば排除する。
それもすべて、二人だけの世界への延命措置。
本気になった颯介には、とても追いつけないから。
音楽室の前に立って、一つ深呼吸をする。
引き戸に手をかけスライドさせると、ガラガラという、思いの外大きい音が響き渡った。
その向こうには、颯介と同じクラスの女子が見える。
「湊くん、私……っ!」
こんにちは。
告白相手が誰かも気づかない、哀れな被害者。
顔を赤く染め、こちらを見つめてくる女子に俺は少しだけ目を細めた。
何度も鏡の前で練習した、颯介の笑い方で。
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私は、あの忌まわしい山林に踏み入った、己の好奇心を未来永劫呪い続けるだろう。
あの日、私が外したのは、単なる獣罠ではなかったのだ。それはこの世界の理と名状しがたい異世界の深淵を隔てる、か細き封印の一つであった。
黒光りする鉄の歯に挟まれていたそれは、狸などではなかった。毛皮に覆われているように見えたが、その質感は腐敗した魚の内臓のように粘ついていた。
何よりも違っていたのは、その眼である。黒水晶のごとき双眸には、到底地上の生物には持つことのできない、高度で、底なしの悪意を秘めた知性が宿っていた。
見ないふりをすればよかったのだ。
しかし不可能だった。その眼に宿る邪悪な光に魅入られ、罠をこじ開けた瞬間、指先に痛みが走った。思わず指先を口に含む。舌に広がったのは鉄錆の味ではない。
それは魂をも凍らせるような、まるで次元の裂け目から漏れ出たような冷気であった。
その夜、私の粗末な小屋の戸を叩いたのは、叩いたという表現があっているのかすらわからないが、物質としての手ではなかった。
戸を開く。そこにあったのは、一見して古びた茶釜であった。しかし私はその表面に、その継ぎ目に背筋が凍るような違和感を覚えた。
光の角度によって、その表面は苦悶にゆがむ人間のようにも、あるいは地獄絵図の曼陀羅のようにも見えた。
それらを凝視しているうちに、私の精神はその茶釜の表面にあるゆがみから地獄へと吸い込まれていくような幻覚におそわれた。
「寺に持って行け。俺を売れ」
次の朝、その茶釜は私に命じた。発生された声ではなく、直接精神に作用して響いた命令であった。
私には拒否権はなかった。自由意志はもうとっくにその茶釜に掌握されていたのだ。
茂林寺の和尚は、その釜を一目見るなり、何かに憑かれたように法外な金を私に押し付けた。彼の手が茶釜に触れた瞬間、私は見たのだ。
茶釜の表面が、まるで太古の巨大生物の皮膚のように、あるいは古の不定形の奉仕生物のように、ぶよぶよと波うち、収縮したのを。
幾日が過ぎただろうか。和尚が私のもとを訪れた。
その顔は死人のように蒼白で、眼窩は黒く落ち窪み、その奥の眼はすでにこの世のものとは思えなかった。
「釜が……沸いた湯の中に……」
彼はそこで言葉に詰まったが、振り絞るように言葉を紡いだ。
「釜の底から……地獄が……無数の手がはい出して……」
彼の言葉は正気と狂気の間で振り子のように揺れて霧散した。後日、寺の修行僧たちが、ある者は原因不明の精神崩壊を起こし、ある者は出奔し、一人も帰らなかったと聞いた、
釜は私の手元に戻ってきた。先日の朝と同じ場所に。
「見世物にしろ」と脳内に声が響く。拒否権はない。操り人形のように頷くことしかできなかった。
私は、村はずれ、それを見つけた山のふもとに見世物小屋を建てた。
客は来た。大勢来た。
彼らが見たのは、愛らしい狸の曲芸などではなかった。
釜は手足を生やし、いかにも奇怪な姿で重力を無視して空中に浮かびあがり、手ぬぐいを模した布をまき散らしながら、見る者の三半規管を狂わせた。客は熱狂した。
しかし、それは喜んだのではない。形容しがたい恐怖と精神的な圧迫によって、いわゆる集団ヒステリーに陥ったのだ。
客は次々と押し寄せ、小屋は恐ろしいほどに繁盛した。
しかし奇妙なことに、一度見たはずの者たちが翌日も、その翌日も目を血走らせて並んでいたのだ。
彼らが投げた銭は異形の神への賽銭としか思えなかった。
手足を生やした滑稽なはずの釜は、あの黒水晶の眼で、芸の最中もずっと私を見ていた。私の精神が崩壊し、完全にそれの傀儡になる瞬間を待っているかのようだった。
最初の異変は味覚に現れた。何を食べても砂を噛むような味気無さとともに腐臭が鼻腔を満たすのだ。しまいには水すらうけつけなくなっていた。
次に眠るのが怖くなった。眠りに落ちると、私の魂は果てしない混沌の闇へと引きずり込まれた。そこはあの釜の眼のような、光を反射しない、いや、光すら吸収してしまうような真っ黒で、ただ存在してはならない何かの気配だけが濃密に充満していた。
ある夜、私は釜に尋ねた。
「この世界はどうなるのだ、お前はどうしたいのだ」
釜は沈黙したが、しばらくして答えた。
「もう十分だ。山へ還る」
翌朝、釜は消失していた。残されたものは、銭と、小屋と、釜に魂を削り取られて抜け殻になった私だけだ。
あれからどれくらいの月日が過ぎただろうか。
私はまだあの時のまま自分の小屋を出られずにいる。出る勇気がないのだ。
夜になると土間の地下の深い場所から、あるいは次元を超えた場所から、あの手ぬぐいをまき散らしていた釜のうごめく音が聞こえるのだ。それは時折、湯が沸く音のようにも、人語ではないものの笑い声のようにも思える。
世の無知なる者たちは、これを「タヌキの恩返し」などと呼んで、人口に膾炙させている。
恩返し? 戯言をいうのはやめろ。 あれは、この世界に、彼らの異形の神を降臨させるための、儀式だったのだ。私は、そのための道具に過ぎない。
ただ一つだけ、確実なことがある。 あの忌まわしき日、私が罠から解き放ったものは、決して助けを求めていたのではなかった。
それは、自らを、この物理世界へ繋ぎ止めるための楔を求めていたのだ。 私が罠を外した瞬間、この世界の終焉は帰結した。今夜も土間を見る。
そこには、何もない。まだ、何もない。
しかし、私は知っている。あれは必ず、戻ってくる。
この不浄なる地土に、完全なる混濁をもたらすために。
続きを読む
この論考を書き始めてから、すでに三度書き直している。
最初の稿は、客観的な調査報告として始まった。二稿目は、個人的な経緯を多く含んだものとなった。
三稿目――今あなたが読んでいるこれは、もはや学術論文の体裁を保てていない。それでも提出するのは、書かなければもっと悪いことが起きるという予感があるからだ。
予感。この言葉を使った自分を、ひどく奇妙に思う。私はこれまでの研究生活で、予感などを論拠にしたことは一度もなかった。
「猿蟹合戦」は、日本の昔話で特異な位置を占める。桃太郎や浦島太郎と異なり、主人公が物語の半ばで死ぬからだ。親蟹は猿に騙され、未熟な柿を投げつけられて絶命する。
解決は子蟹たちの復讐という名の私刑によってなされる。臼が落ち、蜂が刺し、栗が弾け、牛糞が滑らせる。子供向けに語られる版でさえ、その実態は集団による執拗な暴力だ。研究者はこれを、秩序の回復や弱者の連帯、あるいは因果応報の教訓と解釈してきた。
どれも間違いではないだろう。だが、私が旧甲嶺国を前身とする甲嶺県北東部の某村で発見した異伝は、そのいずれにも収まらない何かを含んでいた。
現在、時計は午前三時の鐘を打った。
第一章 当該異伝との遭遇
発端は、図書館の地下書庫における整理作業だった。戦前の民俗資料をデジタル化するため、私はひとり地下へ降りた。書庫は湿気が高く、カビの臭いと紙が腐っていく匂いが混ざり合っていた。重たい空気の中で、私は古い和綴じ本を一つずつ記録していった。
四日目、一冊の本を見つけた。表紙に題はなく「山村旧話採集」とだけ墨書きされていた。採集者も地名も不明だ。ただ、紙の質感から明治末期の物と推測された。内容は平凡な昔話の記録だった。私は流し読みを続け、保存状態を評価するメモを取っていた。猿蟹の話が現れたのは、本の後半だった。語り出しから、通常の版とは異なっていた。
「山に蟹が一匹おった。蟹は何かを待っておった」
読み進めるうちに、背中に冷たい息を吹きかけられたような悍ましい寒気を感じた。種の交換や蟹の死といった筋書きは同じだ。
しかし、細部が確実にずれている。柿の種は、単に種とだけ書かれていた。それが何の種かは説明されていない。
蟹が子を集める場面で、採集者はこう注記していた。
※注 語り手は「集めた」とは言わず「呼んだ」と言った。問い返しても同じ言葉を繰り返すのみ
そして子蟹が仲間を増やす直前、異様な一節があった。
「子蟹らは、まず土に祈った」
それ以上の説明はない。土に祈った。その一行のあとには、もう臼や蜂がそろっていた。
私は帰り際、その本を人目につかないよう、自分の引き出しにそっと隠した。なぜそうしたのか、自分でもわからない。ただ、他人の目に触れさせてはいけないと直感した。
第二章 現地調査
末尾に短い覚え書きがあった。
「甲嶺国某所にて採集。土地の者、この話を好んで語らず。問えば笑うて誤魔化すか、さもなくば黙るか」
私は寄贈者の記録を辿り、白嶺市周辺の山村を特定した。地方史にわずかに記された「蟹の和解」という行事の名だけを頼りに、十月初旬、私は蟹伏集落へレンタカーを走らせた。
集落への道は、山へ入るほどに細くなった。カーナビは途中で機能を停止し、周囲の音も変質していった。風の音も鳥の声も、何かに吸い込まれているような静けさだった。入り口の商店で、一人の老人に出会った。研究者だと名乗ると、老人は私の顔をじっと見つめた。その視線は皮膚に直接触れてくるような、嫌な感触があった。
「よう来なさった」
老人は同じ抑揚で二度言った。
その夜、公民館で住民数人と夕食を共にした。誰もが親切だったが、猿蟹の話を振った瞬間に空気が凍りついた。全員が同時に、二秒ほど沈黙する。
「ああ、あれは、昔のことですから」
「今の人は、もう誰もそんな古い話は知りませんよ」
彼らは同じ構造で話を逸らした。肯定し、逸らし、別の話題へ移る。その一連の動作が、一つの巨大な意志によって統制されているように見えた。
翌朝、集落の中央で「蟹の和解の碑」を見つけた。風化した石の表面には、漢字ともかなともつかない歪な文字が刻まれていた。
その文字列をしばらく眺めているうちに、私はある不快な感覚に気づいた。読めないはずなのに、意味だけが滲んでくる。言語を経由せず、直接に。
その碑の表面は、濡れていた。雨は降っていない。石の内側から、どろりとした何かが滲み出していた。触れた指先が思わぬ熱を持った気がした。
指先から広がるひりひりとした痛みのような熱を感じながら、私は広場を離れた。
第三章 口承採録
北の端に住む老人を訪ねた。彼の家は、他の家屋から拒絶されるように離れて立っていた。
「知っとるよ。あれは本当のことじゃて」
老人は茶を啜り、焦点の合わない目で山を見た。
「蟹が呼んだものは、帰らなかった。帰り方を知らんのじゃから、しょうがないでの」
「臼や蜂のことですか」
私が問うと、老人は微かに笑った。笑ったように見えたが、それは口元だけだったかもしれない。
「それは名前じゃ。本当のものに、あとから人間がつけた名前。名前を付けたら安心できるからの」
彼の語り口は、核心を避けて円を描くように曖昧だった。
「蟹は仔らのために呼んだんやない。土が腹を空かしとったんじゃ。蟹はそれを知っとっただけじゃ」
老人は急に口を閉ざした。帰り際、彼は私の背後の何もない空間を凝視していた。
公民館で録音を聞き返すと、老人の声に重なって、低い振動音が混じっていた。それは生物の呼吸のようでもあり、地鳴りのようでもあった。そのどちらにも似て、どちらとも違っていた。
第四章 異本発見
二日目の午後、集落の社を訪ねた。厳重に保管されている木箱を見せてもらった。中には、図書館で見た本よりも遥かに古い原本があった。
そこには写しになかった挿絵があった。通常の猿蟹合戦に存在する、仇討ちの場面も描かれていた。
だが、それは私の知る昔話とは似ても似つかないものだった。
子蟹たちは猿を責めなかった。
怒鳴りもせず、恨み言も言わない。ただ猿の周囲を静かに取り囲み、何かを待っているように見えた。
蜂や臼と呼ばれるものも、そこにいた。
だが、それらは加勢したのではなかった。
挿絵の中で、それらは皆、同じ方向を向いていた。猿ではない。猿の下――地面の一点を見ていた。
そして最後の絵で、猿は罰せられていなかった。
絵の中の猿は、死んですらいなかった。形が崩れていた。外傷ではなく、内側から細胞の定義を失ったように、ぐずぐずに溶けていた。ただ目だけが、最後のページまで猿としての理性を湛えて光っていた。
案内人の男は、その絵から目を逸らし、呟いた。
「お客さんが来てくださって、よかった」
神主も頷いている。その言葉の真意を問う勇気は、私にはなかった。
第五章 和解の夜
三日目の夜、儀式が始まった。特別に見学を許された私はカメラを手に広場に向かった。
広場の中央で火が焚かれた。炎の揺らぎは不自然に遅く、まるで粘り気のある液体が踊っているようだった。
火の周りに集まっているのは男と子供だけだった。女はいない。
そういえば、この集落に来てから、一度も女の姿を見ていない——鏡に映る自分以外は。
住民たちは言葉にならない声を出し始めた。最初は人の声だった。それが声から地鳴りに変わった。
裸足の子供達が火のそばでゆらゆらと揺れている。瞬きをせずに。
ある瞬間を境に、それは人間の喉から出る音ではなくなった。
広場全体の地面が、深く息を吸い込むように波打った。石の碑から夜の闇よりも濃い闇が溢れ出たように見えた。
私は逃げようとしたが、足が土に溶け込んで動かなかった。
終章 帰還
宿の主人に名を呼ばれ、目が覚めると、私は山の斜面に倒れていた。体は無傷だったが、靴の中には真っ黒な、細かい土が詰まっていた。
儀式の最中に姿が見えなくなったから探していたという。記憶が曖昧だ。わからない。覚えていない。
集落を去る際、住民たちは昨日までと変わらない態度で私を見送った。また来い、とも、二度と来るな、とも言われなかった。
レンタカーは無事に私を自宅に返してくれた。
カメラを確認したが、木箱と挿絵の写真はすべて消失していた。老婆の録音も、「土が腹を空かしとった」という言葉の直後で断絶していた。
私は今、自室でこの原稿を書いている。数日前から、私は毎晩同じ夢を見る。
私は土の中にいる。無限に続く暗闇の地層で、何かを待っている。そしてそれは恐ろしいもののはずなのに、どこか安心している。
それが何であるか、意識が浮上する瞬間にいつも忘れてしまう。
ただ、私の指先は少しずつ節くれ立ち、内側から押し出されるように硬く変質している。今ではもう、爪を切ることすらできない。
これこそ私が人間という、不自然な形から解放され、母なる土と和解しつつある証左に他ならない。
続きを読む
廃工場に肝試しに行った。
古い機械や寂れた様子にドキドキしながらあちらこちら探索して回る。だが機械の動く音がする。
ここは閉鎖されたんじゃなかったかと音がする方に行った。
すると僕は何者かに捕まってしまった。
気がつけば僕は工場のラインの上にいた。自分の体がセルロイドの作り物になって梱包され出荷される。
助けて! 僕は商品じゃない!
だが、誰も気がついてくれない……
続きを読む
人造人間を作ろう人間そっくりな。
私が魔法で作った人造人間はやがて増えて、街中にたくさんいるようになった。ますます人間に似てくる。
しかしこのままではどこまでが人造人間なのかわからない。
ある時、私は病気になった。
自分の魔力を回収するために全ての人造人間を消すことにした。
するとどうだろう、世界中から人間が全て消えてしまった。
どうやら私の人造人間しかこの世界にはもういなかったらしい。
続きを読む
黒い羽を持って生まれた天使はみんなが朝の光や昼の太陽の下を飛んでいる時に一緒に飛べなかった。
地上の人間にこの羽を見られたら気持ち悪いと思われるんじゃないかと不安だった。
だから、こっそりと夜に空を飛んだ。
不安な気持ちで泣いている子供や寂しい老人のところに行って心を慰めた。
黒い羽の天使は自分の羽が黒くて良かったと思った。
こうして寄り添えるのだもの。
続きを読む
こっそりベッドを抜け出して仮面舞踏会に行くの。
パパにもママにも内緒よ!
ところで仮面って何をかぶればいいのかしら?
クレヨンで書いたお面をかぶって星空からやってきたペガサスの馬車に乗って、着いたところは天の川。
王子様たちとダンスをするの。
「あらあら、絵を持ったまま寝ちゃったのね」
おやすみなさい、ママはそっと毛布をかけた。
続きを読む
駅前の喫茶店で軽く朝食を済ませると、店員に営業時間を確かめてから店を出た。 素朴だけれど、コーヒーだけでなく料理もおいしかったから、お昼もここでと思ったのだ。 背中でドアが閉まる音を聞いて、私は振り返る。 さっきまで過ごしていた喫茶店をぼんやりと眺め、私は違和感を覚えた。
――明かりがついていない。
私が出た後で明かりを消したのかとも思ったけれど、それなら、暖かさの余韻があるはずだ。でも、窓から漂ってくるのは、静けさと寂しさをたたえた、春を待つ冬のような濃い灰色の闇。明らかに、開店前の店の顔をしていた。
紅茶がお腹に染み渡った感覚を覚えている。 昔ながらのオムライスの、ケチャップと卵の香りが鼻を刺激している。 間違いない。私はここで、朝のひとときを過ごしたんだ。
……過ごしたはずなんだ。
混乱する頭のまま、私はゆらゆらと歩き出した。
しばらく歩いていると、波の音が聞こえ、潮の香りが漂ってきた。
波の音を頼りに海を目指していると、遠くに何かが建っているのが見え、私はそれに近づいた。
「これは、半鐘(はんしょう)?」
古びた木製のやぐらに、小さな鐘がぶら下がっている。火事などの非常時に鳴らし、危険が迫っていることを知らせるためにあるものだ。
やぐらは海に面した場所にあり、北の町を一望できた。
「おや、お客さんとはめずらしいねぇ。」
振り向くと、少し驚いたように微笑むおばあさんが立っていた。
私は小さくおじぎをして軽く自己紹介をした。おばあさんは、千代と名乗った。
「千代さんは、この町の方なんですか?」
「生まれも育ちも、この町さ。」
千代さんは、ゆっくりとやぐらに近づき、柱をそっとなでて半鐘を見上げた。
「戦争が終わってから、もう、何十年も時が過ぎた。あたしはもう、長くはない。」
半鐘を見上げたまま、千代さんは言葉を続けた。
「……玉音(ぎょくおん)放送が流れたあの日も、あたしはこのやぐらの上で、空を見上げていたのさ。」
その言葉から始まった千代さんの物語は、切なくて、胸が張り裂けそうで、終戦という歴史的事実だけでは片づけられない思いであふれていた。
話を終えた千代さんは、ありがとう、と小さくつぶやくと、やぐらに背を向けて歩き出した。
「ああ、そういえば、」
千代さんはそういって足を止め、振り向いて私を見た。
「あんた、作家だと言っていたねえ。」
「はい。いろいろあって、この町まで来ました。」
「おお、そうかい。」
そしてやわらかな笑みを浮かべると、
「大丈夫、きっと、見つかるさ。」
と言って、去っていった。
千代さんを見送りながら、私は、生前に曾祖母(そうそぼ)が話してくれた戦争の話を思い出していた。
母が生まれ育った町は、青森県にある今別町という港町で、曾祖母もそこで暮らしていた。ここから見える景色が、どことなく似ている。
私は、カバンからスケッチのセットを取り出し、半鐘を描いた。それからメモ帳サイズの原稿用紙を取り出して短い物語を書きあげると、今自分が置かれている状況を綴ったメモと猫型の穴が開いた列車の切符とともに、封筒に入れた。
きっと、あの人なら受け取ってくれるだろう。
そう思いながらしっかり封をし、宛先を書いた。
猫叉出版社御中
空の色のような灰色の封筒に切手を貼ってポストに投函すると、晩秋の涼し気な朝の太陽を見上げた。
続きを読む
「すごいね、お父さんって何でもできる!」
自転車の修理をしていたら娘がやってきて感心したようにそう言った。
毎日学校に自転車で通う娘。
パンクして困った顔をして帰ってきたのは昨日の夕方だ。
幸いにも今日は土曜日で仕事は休みだった。
僕はホームセンターで買ってきた自転車の修理キットで修理をした。
実際にこういったことは一度やってしまえば案外簡単だと思えるようになるだろう。
「真理子にも修理の仕方を教えてあげる」
僕がそう言うと娘は慌てて首を振る。
「そんなの私には無理だよ!」
「父さんだって真理子ぐらいの歳の時に初めて自分の自転車の修理をしたんだから、覚えたら すぐにできるようになるよ」
僕がそう言うと娘はちょっと困ったような顔した。
「えー、そんな難しそう!」
「大丈夫、一度やってみたらすぐになれるから」
「今日はもう父さんがやっちゃったから簡単な説明だけしておくよ」
「うーん、覚えられるかな?」
「大丈夫、大丈夫」
僕は娘に説明をしながらパンクの修理を進めた。
「とりあえず空気を入れて少し様子を見て夕方まで空気が抜けてないみたいだったらパンクの修理はできてると思う」
修理が終わり僕はパンク修理に使った道具を片付け始める。
妻が僕たちを呼ぶ声がして、娘と一緒に家の中に入る。
クッキーと紅茶を飲みながら一息つく。
「私とてもできるようになる気がしない。やっぱり、お父さんはすごいね。こんな切り札持ってるなんて!」
そう言われて私はちょっと嬉しいけど恥ずかしくなった。
「切り札なんて大層なもんじゃないよ。何でもやってみたら思ったより難しくないと思えるようになるよ」
「そうかなー」
「そうだよ」
「私もお父さんみたいにいっぱい切り札持てるようになるかな」
「きっとなるさ!」
僕はそう言うと娘はちょっと嬉しそうなを顔した。
クッキーと紅茶の時間はゆっくりと優しく流れていった。
続きを読む
夕暮れの道を君と二人で帰る。
見てよ一番星
君にそう言われて空を見上げれば、金星が輝いていた。
三日月のすぐそばで。まるで小さな月のかけらみたいだ。
太陽の光がゆっくりと街を巨大な影絵に変えて沈んで行く。
月の光はだんだんと強くなっていくように感じた。
「すっかり暗くなっちゃったね」
「うん」
「まあ、文化祭の準備で忙しかったから」
そう言って君は笑う。
君の輪郭が、ほんの少し暗くなってゆく情景の中で見えなくなっていくような気がした。
「最近、日が沈むのが早いね」
「本当だね。あっという間に沈んじゃう」
地球の自転スピードは変わらないはずなのに、秋の夕暮れは日が沈むのが早い。
きっと夕暮れが早く感じるのは、季節の移ろいを早く感じるから。もっと長く君といたいのに、すっかり暗くなってしまって君とお別れしなくちゃならない。
地球の自転がもっとゆっくりだったらいいのに。
君の輪郭がずっとはっきりと見えていたらいいのに。
君もまた影絵のように、暗闇の中に溶けてゆく。
暗がりの中で 君の顔がよく見えなくなってしまう。
「じゃあね、また明日」
「じゃあ、また」
僕と君は駅前で別れる。
街灯の明かりがジジッと、音を立て灯る。
――夜の帳が降りた――
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