ホラー・怪談

猿蟹和解譚に関する考察、あるいは猿蟹合戦

3,577文字 約8分で読了
作者:寵鵜
 この論考を書き始めてから、すでに三度書き直している。  最初の稿は、客観的な調査報告として始まった。二稿目は、個人的な経緯を多く含んだものとなった。  三稿目――今あなたが読んでいるこれは、もはや学術論文の体裁を保てていない。それでも提出するのは、書かなければもっと悪いことが起きるという予感があるからだ。  予感。この言葉を使った自分を、ひどく奇妙に思う。私はこれまでの研究生活で、予感などを論拠にしたことは一度もなかった。  「猿蟹合戦」は、日本の昔話で特異な位置を占める。桃太郎や浦島太郎と異なり、主人公が物語の半ばで死ぬからだ。親蟹は猿に騙され、未熟な柿を投げつけられて絶命する。  解決は子蟹たちの復讐という名の私刑によってなされる。臼が落ち、蜂が刺し、栗が弾け、牛糞が滑らせる。子供向けに語られる版でさえ、その実態は集団による執拗な暴力だ。研究者はこれを、秩序の回復や弱者の連帯、あるいは因果応報の教訓と解釈してきた。  どれも間違いではないだろう。だが、私が旧甲嶺国を前身とする甲嶺県北東部の某村で発見した異伝は、そのいずれにも収まらない何かを含んでいた。  現在、時計は午前三時の鐘を打った。  第一章 当該異伝との遭遇  発端は、図書館の地下書庫における整理作業だった。戦前の民俗資料をデジタル化するため、私はひとり地下へ降りた。書庫は湿気が高く、カビの臭いと紙が腐っていく匂いが混ざり合っていた。重たい空気の中で、私は古い和綴じ本を一つずつ記録していった。  四日目、一冊の本を見つけた。表紙に題はなく「山村旧話採集」とだけ墨書きされていた。採集者も地名も不明だ。ただ、紙の質感から明治末期の物と推測された。内容は平凡な昔話の記録だった。私は流し読みを続け、保存状態を評価するメモを取っていた。猿蟹の話が現れたのは、本の後半だった。語り出しから、通常の版とは異なっていた。 「山に蟹が一匹おった。蟹は何かを待っておった」  読み進めるうちに、背中に冷たい息を吹きかけられたような悍ましい寒気を感じた。種の交換や蟹の死といった筋書きは同じだ。  しかし、細部が確実にずれている。柿の種は、単に種とだけ書かれていた。それが何の種かは説明されていない。  蟹が子を集める場面で、採集者はこう注記していた。  ※注 語り手は「集めた」とは言わず「呼んだ」と言った。問い返しても同じ言葉を繰り返すのみ  そして子蟹が仲間を増やす直前、異様な一節があった。 「子蟹らは、まず土に祈った」  それ以上の説明はない。土に祈った。その一行のあとには、もう臼や蜂がそろっていた。  私は帰り際、その本を人目につかないよう、自分の引き出しにそっと隠した。なぜそうしたのか、自分でもわからない。ただ、他人の目に触れさせてはいけないと直感した。  第二章 現地調査  末尾に短い覚え書きがあった。 「甲嶺国某所にて採集。土地の者、この話を好んで語らず。問えば笑うて誤魔化すか、さもなくば黙るか」  私は寄贈者の記録を辿り、白嶺市周辺の山村を特定した。地方史にわずかに記された「蟹の和解」という行事の名だけを頼りに、十月初旬、私は蟹伏集落へレンタカーを走らせた。  集落への道は、山へ入るほどに細くなった。カーナビは途中で機能を停止し、周囲の音も変質していった。風の音も鳥の声も、何かに吸い込まれているような静けさだった。入り口の商店で、一人の老人に出会った。研究者だと名乗ると、老人は私の顔をじっと見つめた。その視線は皮膚に直接触れてくるような、嫌な感触があった。 「よう来なさった」  老人は同じ抑揚で二度言った。  その夜、公民館で住民数人と夕食を共にした。誰もが親切だったが、猿蟹の話を振った瞬間に空気が凍りついた。全員が同時に、二秒ほど沈黙する。 「ああ、あれは、昔のことですから」 「今の人は、もう誰もそんな古い話は知りませんよ」  彼らは同じ構造で話を逸らした。肯定し、逸らし、別の話題へ移る。その一連の動作が、一つの巨大な意志によって統制されているように見えた。  翌朝、集落の中央で「蟹の和解の碑」を見つけた。風化した石の表面には、漢字ともかなともつかない歪な文字が刻まれていた。 その文字列をしばらく眺めているうちに、私はある不快な感覚に気づいた。読めないはずなのに、意味だけが滲んでくる。言語を経由せず、直接に。 その碑の表面は、濡れていた。雨は降っていない。石の内側から、どろりとした何かが滲み出していた。触れた指先が思わぬ熱を持った気がした。  指先から広がるひりひりとした痛みのような熱を感じながら、私は広場を離れた。  第三章 口承採録  北の端に住む老人を訪ねた。彼の家は、他の家屋から拒絶されるように離れて立っていた。 「知っとるよ。あれは本当のことじゃて」  老人は茶を啜り、焦点の合わない目で山を見た。 「蟹が呼んだものは、帰らなかった。帰り方を知らんのじゃから、しょうがないでの」 「臼や蜂のことですか」  私が問うと、老人は微かに笑った。笑ったように見えたが、それは口元だけだったかもしれない。 「それは名前じゃ。本当のものに、あとから人間がつけた名前。名前を付けたら安心できるからの」  彼の語り口は、核心を避けて円を描くように曖昧だった。 「蟹は仔らのために呼んだんやない。土が腹を空かしとったんじゃ。蟹はそれを知っとっただけじゃ」  老人は急に口を閉ざした。帰り際、彼は私の背後の何もない空間を凝視していた。  公民館で録音を聞き返すと、老人の声に重なって、低い振動音が混じっていた。それは生物の呼吸のようでもあり、地鳴りのようでもあった。そのどちらにも似て、どちらとも違っていた。  第四章 異本発見  二日目の午後、集落の社を訪ねた。厳重に保管されている木箱を見せてもらった。中には、図書館で見た本よりも遥かに古い原本があった。 そこには写しになかった挿絵があった。通常の猿蟹合戦に存在する、仇討ちの場面も描かれていた。  だが、それは私の知る昔話とは似ても似つかないものだった。  子蟹たちは猿を責めなかった。  怒鳴りもせず、恨み言も言わない。ただ猿の周囲を静かに取り囲み、何かを待っているように見えた。  蜂や臼と呼ばれるものも、そこにいた。  だが、それらは加勢したのではなかった。 挿絵の中で、それらは皆、同じ方向を向いていた。猿ではない。猿の下――地面の一点を見ていた。  そして最後の絵で、猿は罰せられていなかった。 絵の中の猿は、死んですらいなかった。形が崩れていた。外傷ではなく、内側から細胞の定義を失ったように、ぐずぐずに溶けていた。ただ目だけが、最後のページまで猿としての理性を湛えて光っていた。  案内人の男は、その絵から目を逸らし、呟いた。 「お客さんが来てくださって、よかった」  神主も頷いている。その言葉の真意を問う勇気は、私にはなかった。  第五章 和解の夜  三日目の夜、儀式が始まった。特別に見学を許された私はカメラを手に広場に向かった。  広場の中央で火が焚かれた。炎の揺らぎは不自然に遅く、まるで粘り気のある液体が踊っているようだった。  火の周りに集まっているのは男と子供だけだった。女はいない。 そういえば、この集落に来てから、一度も女の姿を見ていない——鏡に映る自分以外は。  住民たちは言葉にならない声を出し始めた。最初は人の声だった。それが声から地鳴りに変わった。 裸足の子供達が火のそばでゆらゆらと揺れている。瞬きをせずに。  ある瞬間を境に、それは人間の喉から出る音ではなくなった。  広場全体の地面が、深く息を吸い込むように波打った。石の碑から夜の闇よりも濃い闇が溢れ出たように見えた。  私は逃げようとしたが、足が土に溶け込んで動かなかった。  終章 帰還  宿の主人に名を呼ばれ、目が覚めると、私は山の斜面に倒れていた。体は無傷だったが、靴の中には真っ黒な、細かい土が詰まっていた。  儀式の最中に姿が見えなくなったから探していたという。記憶が曖昧だ。わからない。覚えていない。  集落を去る際、住民たちは昨日までと変わらない態度で私を見送った。また来い、とも、二度と来るな、とも言われなかった。  レンタカーは無事に私を自宅に返してくれた。  カメラを確認したが、木箱と挿絵の写真はすべて消失していた。老婆の録音も、「土が腹を空かしとった」という言葉の直後で断絶していた。  私は今、自室でこの原稿を書いている。数日前から、私は毎晩同じ夢を見る。  私は土の中にいる。無限に続く暗闇の地層で、何かを待っている。そしてそれは恐ろしいもののはずなのに、どこか安心している。  それが何であるか、意識が浮上する瞬間にいつも忘れてしまう。 ただ、私の指先は少しずつ節くれ立ち、内側から押し出されるように硬く変質している。今ではもう、爪を切ることすらできない。  これこそ私が人間という、不自然な形から解放され、母なる土と和解しつつある証左に他ならない。
2026/10/04 ・ 👁️ 61回 ・ 💬 0件

\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ

まだ感想はありません。

0 / 1000文字