シャルロット。女性の帽子に見立てたその洋菓子には温かいレモンティーがよく似合う。僕が導き出したわけではないその考えは、コンビニでレモンティーを見るたびに、反射的に思い起こされた。だから僕はいつも目を逸らしながら少しだけ離れたところにあるブラックコーヒーを手に取るようにしていた。僕はそんな僕がきらいだったが、習慣化されつつあることはなかなか変えられず、今日だっていつものように売り場に一直線に向かっていた。すると商品棚の一部に空いているスペースがあるのが遠目にわかった。近づくとそこが、いつも目を逸らしていたレモンティーの置いてある場所だと気がついた。その瞬間、僕はなんだか虚しさに包まれた。わかっていたこと。わかりたくなかったこと。心当たりしかない僕は、その場である決心をした。次の休みの日はそれを実行しようと。
晴天の昼下がり、僕は電気ケトルでお湯を沸かしていた。その横には戸棚に残っていた紅茶のティーバッグ。それに輪切りのレモン。さらに冷蔵庫で冷やしていたシャルロットも並んで、さながらお茶会でも始まりそうな雰囲気である。でも部屋にいるのは僕ひとり。静寂の中、電気ケトルが沸騰を知らせる音を発する。いよいよである。ティーバッグの入ったカップに熱湯を注ぐ。少しの間待ってティーバッグを取り出し、輪切りのレモンを浮かべると、紅茶の色が薄くなる。明るい赤茶のそれはまるで誰かの髪色のようで胸がじんわりする。準備は整った。シャルロットをレモンティー傍らに食す。新しい感覚なのに、どこか懐かしいそれは、心の虚しさを埋めるように満たしていく。そんなとき部屋のインターホンが鳴った。来客モニターの画面を見て、僕は一瞬固まってから玄関に駆けた。
「久しぶり。どう? 雰囲気変わったでしょ?」
はじめて見る黒髪に見惚れてしまう。
「え? てかなんでレモンティー飲んでるの?」
「それは、あれだよ……察しろよ」
「ふふっ、そっかー! ブラックコーヒーもいいなーって思って戻ってきたんだけどなー。そっかー!」
笑顔でよくわからないことを言われ戸惑う僕。
「あ、シャルロット食べる? え、ブラック飲むの?」
「ねー、今日はどう考えてもレモンティーでしょー⁉」
僕がそうやって呆れられたこの日から、ふたりには新しいふたつのおそろいができていました。
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地面に突き立てた剣の先で、白い花びらが散っていった。
膝を付き、剣にしがみつくようにして身体を支え、アディルは粗い息を調えようと、二度三度と深呼吸する。
背を飾った青のマントが、アディルの華奢な身体にのしかかるように纏わり付いている。
銀の軍靴は、力ない少年の震える足を地面に縫い付ける。
襲い来る疲労感に、なけなしの気力で抗うアディルは、首をもたげて空を見上げた。銀の髪がさらりと流れる。紺碧の瞳が映すのは、星も消えた闇の天蓋。
ようやく落ち着いた呼吸の中に、ふ、と失笑が混じる。
身体が傾ぐ。
支えにしていた剣から手が離れ、軍服姿の少年は、大地の上に横倒しになった。一面に咲く白い花。あるものは花びらを舞い上げ、あるものはアディルの下に潰れていく。哀れでか細い命を憂える余裕もなく、彼は己の指先を朦朧とする意識の中で見つめ続けていた。
中指の向こうに、少女の顔があった。
広がる黒髪。白い相貌。赤い唇は緩く結ばれて、長いまつげが縁取る眼は閉じられている。折れてしまいそうな細い首の下には、やはり折れてしまいそうな細い身体があって、あどけない顔に似合わない、黒のドレスで飾られていた。
穏やかな眠りの表情。顔の真横に突き立てられた剣など気にも留めやしない。そんな彼女が暢気に思えて、アディルは頬を少しだけ緩ませる。
「……馬鹿なやつ」
かすれ声が、眼前の小さな花を揺らした。
「黙っていれば、こんなことにはならなかったのに」
アディルの表情が引き攣ったような笑みを作る。
黒い手袋を嵌めた手に痺れを感じた。五指がぴくりと蠢いて、握ろうとしては諦めるのを繰り返す。その手がつい先程齎した所業を思い出し、喉に熱いものが込み上げてきたのを覚えた少年は、固く瞼を閉じた。
強く息を吐く。片方の手を持ち上げて、額の上に置く。嗚咽は無理やり飲み込んで、ただじっと胸中の嵐が過ぎ去るのを待った。
――ふと、頬に何かが触れた。
アディルは紺碧の目を見開く。真っ黒だった闇空が淡くなっている。紺色、藍色、緑に水色――端にいくほど白んでいき、地平は赤く染まっていた。
アディルは身を起こした。果てしなく広がる平原の向こうから、朝の気配が押し寄せてくる。風がアディルの銀の髪を揺らし、足元の白く小さな花々を揺らして、誰かを急き立てるように通り過ぎていった。
刻一刻と変わりゆく空に、しばらくのあいだ見惚れて。
「見ろよ、フィーネ」
隣でまだ横たわる少女に、そっと声をかけた。
「世界の端が、光ってる」
日の出が近い。緩く弧を描いた地平線、目を細めても見えないほど遠くの場所が明るくなり始めていた。誰もが心奪われる、美しく神々しい光景。知らず、アディルの目に涙が浮かんだ。
「終わったんだ……終わったんだよ」
声が上擦るのも構わずに、眠り続けたままの少女にひたすら声を掛け続けた。
「もう、この世界に魔女はいないんだ。俺たちはこれから、平和に暮らせる。逃げなくていい。殺さなくていい。何処かの街で、ひっそりと、静かに、穏やかな毎日を暮らしていけるんだ」
右手に体重を掛け、身を乗り出した。眠る少女を起こそうと、その肩に左手を置く。はじめはそっと、次第に強くその身体を揺さぶるが、彼女は一向に目を覚まさなかった。
身動ぐことも、まるでない。
何度も何度も揺さぶり続けて、疲れたところで手を引き戻す。掌を見つめてみれば、黒い手袋にべったりと赤い染みが付いていた。
ああ、と声もなく、溜め息が漏れる。
アディルは左手を握りしめ、拳を額へと押し当てた。固く目を閉じ、嗚咽を殺し、祈るようにそのまま在り続けた。
地平の先から日が昇る。
世界が輝き、色付き始める。
まるで祝福を受けたかのようなこの場所で、彼はただ独り、静かに涙を流し続けた。
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「勇者殿、また月を見ておいでか」同行の賢者が髭を撫でつつ、声をかけてくる。「ええ、美しい」僕は焚き火に薪を放り込んだ。「いずれはこの足で、と」「はは、気宇壮大であられる」火がはぜて、パチリと音が響く。賢者は笑ったが、僕は笑えなかった。夜空にかかる、あの青い星こそ故郷なんだから。
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『いよいよ明日、終末の日を迎えます』
何度目かの国営放送が流れた。テレビもラジオもこのアナウンスがひっきりなしに流れる。
今日は国の規則である予防接種と最後の晩餐の日だ。
なんでも、某大予言のようなものを、本気で信じてその日を痛みなく過ごそうというらしい。
最後とはついているが、既に私は三度経験している。晩餐というには、質素なものだ。
二十四時間眠っていられる錠剤と、誤嚥防止のゼリーだけ。食べる前に、日中に予防接種を受ける。薬の効き目を確実にするためらしい。
毎度、何事もなく過ごせているから、今回も不発だろうと思っている。それに、気になる事もある。
一度目の終末の日を乗り越えた時のことだ。翌日に、ご近所さんが居らず、遠くへ引っ越したと聞いた。二度目の終末の日を乗り越えた時は、翌日から高校の他クラスの生徒が来なくなり、これも遠くへ引っ越したと聞いた。
本当だろうか。
気になった私は、思いついた。
錠剤を飲まずに、終末の日を迎えてみよう、と。
そうすれば、何が起きているのか分かるはずだ。少し怖さはあったが、どうせ今回も不発だとタカをくくっていた私は、好奇心のほうが勝った。
次はいつ訪れるか分からない。何度も起きているとはいえ、不定期だから。
そうして、今日決行することにした。
学校で予防接種を受けて、夜は玄関で父が役人から受け取った錠剤とゼリーが、食卓に並ぶ。ゼリーは半透明のもので、味はついていない。あくまで誤嚥を防ぐためのものだ。
父と母が錠剤を飲む。私は飲んだフリをして錠剤をポケットに隠し入れた。そして、三人一緒にゼリーを食べて、就寝した。
翌朝、私は目を覚ました。薬が効いているのか、両親はぐっすりと眠っていた。
天気は快晴。小鳥たちも鳴いている。いい天気だ。
午前中をダラダラと過ごしていたが、何も起きない。やっぱり何もないんじゃないか、と思っていると、唐突にアナウンスが流れた。
『ごきげんよう、皆さん。今日はいい天気ですね。さて、規則を守らなかった反乱分子の皆さんは、これから処刑されます。ああ、今から薬を飲んで眠っても無駄ですよ。予防接種で体内に入れたのは、ナノマシンでしてね。こちらで全員監視できるんですよ。諦めてください。それでは、皆さん。良い、終末を』
私は目の前が真っ暗になった。
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飼っていたハムスターが死んだ次の日、ケージの中には、クラスの同級生でもある幼馴染みがいた。
彼女は学校の制服を身にまとい、ハムスターと同じぐらいの大きさで座っている。
最初はお互いにパニックになったが、数日もすれば慣れたものだ。
生徒が一人居なくなったというのに、学校や地域では騒ぎになっていない。
まるで最初から居なかったのが当然とでもいうように、幼馴染みの席は空いていた。
私は出かける前にいつも、幼馴染みのためにご飯を作っておく。量としては一食分。それで一日事足りるのだ。
食べた後、お腹が大きく膨らむが、カラカラをしばらく走っているといつの間にか引っ込んでいる不思議な体だった。
食器や衣類などは、おままごと人形の物を代用した。
風呂はハムスターの飲み水に使っていた箱を、トイレは仕方なく砂の入ったコーナートイレにしてもらっている。
直接見ないようにし、終わったら私が処理して砂を取り換える。
夕飯はいつも私が食べさせている。
幼馴染みはあーんと口を開けて、私は取り過ぎないように気を付けながら彼女の口へ、夕飯を運ぶのだった。
彼女には不便だっただろうが、周囲が知らない二人だけのこの生活が、私は楽しかった。
そんな生活を一ヶ月続けていた。
すると突然、幼馴染みは元の大きさに戻っていた。
周囲は何事も無かったかのように、彼女と接し、普通の生活を送っている。
私は寂しく感じながらも、使っていたゲージをゴミに出して捨てた。
部屋が無駄に広くなったように感じた。
でも、変わらないことが一つあった。
放課後、クラスメイトたちの居ない教室で、昼に食べたのとは別の弁当箱を開ける。
幼馴染みは私の隣の席に座り、口を開いて待っている。
私はこぼさないように気を付けながら、彼女の口へ少し早い夕飯を持っていく。
このやり取りだけは、今も続いているのだ。
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天橋立に来た。
なんとなく、松と白砂の繋がるあの光景を見たくなったから。
小さい頃、家族と一度来たらしい。その時の事を、私は覚えていない。二度目のはずなのに、初めて来た感覚だ。
今、目の前に広がる美しい光景を、当時の私はどう思っていたのだろう。
写真を見ても、思い出せなかった。
親に聞こうか。しかし、何年も会っていない。最近は、連絡も取っていない。
「便りがないのは良い便り」とも言うけれど、あまりにも長く便りがないのは、それはそれで不安になる。
展望台を降りようとすると、看板が見えた。短歌が書かれている。
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
スマホで検索してみる。百人一首の中の一つで、小式部内侍が歌った作品らしい。
大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。
と、現代語訳が出ていた。
親元を離れてから、一度も帰省していない。小式部内侍の短歌と違い、天橋立には来た。二度も。連絡して、帰省するのも悪くない。
画面を切り替え、LINEを開く。
母にメッセージを送る。
今度のお盆に、帰ろうと思う。お墓参りもしようと思っている。
母から返事が来た。
『気をつけて帰っておいで』
帰りは行きよりも、足取りが軽く感じた。
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ミステリー・サスペンス
1251文字
約3分で読了
「どうだ、美味いだろ。ここの定食は」
彼は一口、茶を飲んでから友人に答えた。「ああ、とても美味しかった。また来たいと思う」うんうんと頷いて、友人は自慢げに笑った。
この日は、彼の誕生日であった。仕事の休憩時に、友人に誘われた。
彼と友人は会社の同期であり同い年、誕生日も近く友人は彼の翌日であった。何かと親近感の沸いた二人は意気投合し、いつしかお互いの誕生日にランチをご馳走しあうようになった。
「明日は僕が払うよ」「おう、楽しみだ」会計時に、彼は気になる事があった。
それは財布であった。友人はよく赤色が好きだと言っていた。てっきり私物のほとんどが赤いのかと思っていたが、その財布の色は違った。
「珍しいね。青色の財布なんて」「僕がなんでもかんでも赤だけにしてると思ったら、大間違いだぞ。これはプレゼントで貰ったんだよ」「ふうん、それもそうか」会計が終わり、それ以降は気にも留めずに、友人と会社に戻った。
翌日、彼は友人に誕生日祝いのランチをご馳走し、会社を定時で上がった。すると、一人の女性を見かけた。友人の彼女だった。
「お疲れ様。あいつなら、残業でまだしばらくかかると思うよ」彼女に近づいて声をかける。彼に気付いたのか、彼女は軽く一礼した。
「お疲れ様です。そうですか、ありがとうございます」とある集まりで友人に紹介してからしばらく経ったのち、付き合うことになったと言ってきた時はたまげたが、二人はお似合いだと思った。今では、たまに三人で遊びに行くこともある仲だ。
「今度は何を渡すんだい?」「新しいネクタイとネクタイピンを、渡そうかと。あとは夕飯を作ってあげようと思ってます」そう答えた彼女は、とても幸せそうな笑顔だった。
「去年は財布をプレゼントしました。長く使っていて、そろそろ変えたいと言っていたので」「ああ、あの青い財布だね。あいつにしては珍しいと思ったけど、君のプレゼントだったんだ」
昨日の事を思い出し、彼は何気なく言った。すると、彼女はキョトンとした表情をしていた。しかし、それも一瞬の事で、すぐに笑みを浮かべた。
「え、ええ。たまには、違う色もいいんじゃないかと思いまして。まだかかりそうでしたら、先に晩御飯の材料を買っていこうと思います。失礼します」一礼して彼女は足早に去っていった。
気に障るような事を言ってしまっただろうか。そうであれば、悪いことをしてしまった。今度会ったときに謝ろうと、彼は思った。気まずさを感じながら、彼は帰路についたのだった。
『昨日未明、自宅で男性が刃物で刺され、病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました』
「まさか、こんな事になるなんて。ごめんなさい、ごめんなさい……」彼はうなだれ、懺悔するように一人、ただひたすらに泣いていた。だが、もはやどうする事もできなかった。
ニュースキャスターが無情にも告げた。『警察は、死亡した男性と交際関係にあった女を、殺人容疑で逮捕しました。現在も取り調べが続いています』
テレビの画面には、容疑者として映されている、彼女の姿があった。
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砂漠の中を、一人の男がさまよっていた。
延々と続く砂。方角さえ分からないまま、水を求めて歩き続ける。
喉はカラカラで、渇きは限界に達していた。
歩き疲れ、座り込んでしまう男。
ふと、顔を上げると、人だかりのようなものが見えた。
――水を恵んでもらえるかもしれない!
そう思った男は、フラフラとその人だかりの方へ歩を進めた。
近づくにつれて、人ではないことが分かった。人だと思っていたものは、サボテンであった。
男は希望が砕け散ってしまったように思えた。だが、かすかに覚えていた知識があった。
――サボテンを切れば水が飲める。
男は早速ポケットから折りたたみナイフを取り出し、近くにあるサボテンへ向かった。
ナイフは短く、サボテンの棘が手に刺さり痛みを感じたが、今はそれどころではない。
切り込みを入れると、サボテンから勢いよく水が吹き出した。
その水は赤かった。
男はおっかなびっくり、一度離れたが、背に腹は代えられないと、その水を両手で受け止め、飲んだ。
水は甘かった。
もう一度飲む。やはり甘く、美味かった。
久しぶりの水に歓喜した男は、水を存分に飲む。さらには空になっていた水筒へもその水を入れて補充した。
一しきり水を飲んだ後、辺りを見渡した男は気付いた。
――何かがおかしい。
サボテンはどれも同じ形をしていないのは当然だが、それでもおかしい。
まっすぐに立っているものもあれば、横になっているもの、走っているように見えるもの、両手を合わせ祈っているように見えるものまであった。
嫌な予感がした男は、その場から離れようとした。
しかし、足が動かない。
恐る恐る下を向いた男は絶叫した。見た光景に男は取り乱す。もはや遅かった。
そして、響き渡っていた叫び声が、砂漠から消えた。
砂漠の中で、サボテンが群生している。
その内の一本は干からびていた。
もう一本は、水筒とナイフが持たされているように、サボテンと一体化していた。
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窓を叩く雨音が、やけに大きく室内に響いていた。
時刻は午後八時を回ったところ。
定時をとっくに過ぎたオフィスには、もう私と結月《ゆづき》先輩しか残っていない。
「ひゃっ……冷たっ」
外回りから帰る途中で急な土砂降りに遭い、私はすっかり濡れ鼠になってしまっていた。
傘を持っていなかったため、駅からの短い距離を走っただけで、白いブラウスが肌に張り付くほど濡れてしまったのだ。
「栞《しおり》ちゃん、おかえり。……って、すごい濡れてるじゃない」
パソコンに向かっていた結月先輩が、弾かれたように立ち上がる。
黒髪のボブティアーに、タイトなネイビーのスーツ。いつも隙がなく、社内でも高嶺の花として有名な先輩だ。
「すみません、急に降ってきて……」
「謝らなくていいから。ほら、給湯室に行くよ。タオル貸してあげる」
先輩は私の手首を掴むと、半ば強引にオフィスの隅にある給湯室へと連れ込んだ。
誰もいない、薄暗い給湯室。
蛍光灯のスイッチを点けると、先輩は自分のロッカーから清潔なバスタオルを取り出し、私の頭からバサリと被せた。
「風邪、引いちゃうよ」
そう言いながら、タオル越しに私の髪をわしゃわしゃと拭いてくれる。
先輩との距離が、近い。
普段から憧れていた彼女の、ふわりとしたバニラとムスクが混ざったような香水が、雨の匂いと混ざって私の鼻腔をくすぐった。
「あ、あの、先輩……自分でやりますから……」
「いいの。私にやらせて」
少し低く、耳元で甘く響く声。
その声色にドキリとして顔を上げると、至近距離に先輩の顔があった。
長いまつ毛に縁取られた切れ長の瞳が、獲物をねめ回すように私をじっと見つめている。
「……髪だけじゃなくて、服も下着も透けてる」
先輩の視線が、私の胸元へと下りる。
雨に濡れた白いブラウスは透明度を増し、下に着ていたキャミソールや肌の輪郭までをくっきりと浮き彫りにしていた。
「っ……見ないでください……!」
恥ずかしさで両腕を交差して胸元を隠そうとしたが、それよりも早く、先輩の白く細い指が私の手首をふわりと押さえ込んだ。
「どうして? すごく、綺麗なのに」
「せん、ぱい……?」
いつもの凛とした先輩とは違う。
どこか熱を帯びた、とろけるような瞳。
先輩の手が私の手首から滑り落ち、濡れて冷え切った私の首筋へと触れた。
「ひゃあ……っ」
冷たい肌に、先輩の温かい指先が触れる。
その温度差に、思わず甘い吐息が漏れてしまった。
先輩の親指が、私の鎖骨をなぞるようにゆっくりと這う。
ゾクゾクとするような快感が背筋を駆け抜け、膝の力が抜けそうになる。
「栞ちゃん、震えてる。……寒いの?」
「……さむい、です。だから……」
「そっか。じゃあ、温めてあげなきゃね」
言い訳を塞ぐように、先輩の顔が近づいてきた。
チュッ、という小さな水音が給湯室に響く。
唇の端に、先輩の柔らかい唇が落とされた。
「……っ!?」
驚いて目を見開く私を逃がさないように、先輩の片手が私の後頭部を引き寄せる。
そして今度は、まっすぐに唇が塞がれた。
「んっ……ふぁ……」
ちゅ、れろ……という、卑猥《ひわい》な音が静かな空間に響き渡る。
ただ触れ合うだけじゃない。先輩の舌が、私の唇を割り入って、甘い痺れを口内にもたらしていく。
私の舌を絡め取り、味わうように深く、深く。
息継ぎの隙間すら与えられないほどの濃厚なキスに、頭のなかが真っ白になっていく。
「はぁっ……ん、せんぱ……だめ、ここ、会社っ……」
「誰もいないよ。聞こえるのは、雨の音だけ」
唇をわずかに離し、銀色の糸を引きながら先輩が妖艶に微笑む。
その目には、私に対する隠しきれない独占欲が渦巻いていた。
先輩の手が、私のブラウスのボタンへと伸びる。
カチ、と一番上のボタンが外され、濡れた布地がゆっくりと肌から剥がされていく。
「あ……」
「栞ちゃんの肌、すごく冷たい。もっと私が、熱くしてあげるから」
ブラウスの隙間から滑り込んだ先輩の手が、私の腰をそっと撫で上げた。
直接肌に触れる指先は火傷しそうなほど熱く、そこから伝わる熱情に、私の身体はビクビクと反応してしまう。
「声、抑えなくていいよ。……私しか、聞いてないんだから」
耳たぶを甘噛みされ、私は堪えきれずに小さな喘ぎ声を漏らした。
先輩の香りと、まとわりつくような熱い吐息。
濡れた服の冷たさなどとうに忘れてしまうほど、私の身体の中心には熱い火が灯っていた。
「栞ちゃん……可愛い。全部、私のものにしたい」
再び重なる唇。
今度は私から、先輩の首に腕を回してその熱に応えた。
外の雨音は、もう二人の吐息と水音にかき消されて聞こえない。
この嵐が過ぎ去るまで——いや、過ぎ去った後もきっと。
私はこの甘く危険な先輩の腕の中から、抜け出せそうになかった。
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今年の秋は涼しい。
8月が終わるなり毎日のように雨が降って、九月の一ヶ月間はずっと雨だった。
例年 このシーズンになるとまだまだ暑い日々にうんざりしていたのに、今年は早々と 秋物の洋服を出して羽織っている。
十月に入って 久々の晴れ渡った空。
こんなに晴れているんだもの、出かけなくっちゃもったいない。今日は仕事が休みだ。
毎日仕事と育児に追われて、なかなか休める時間がない。
子供を学校に送った後、一人車を走らせて秋のバラが綺麗なそう遠くない名所に行く。
バラで有名なお寺で、定期的にちょっとしたイベントもやっている。中に喫茶店があるから、お寺の拝観の後に、ちょっとよってみることにした。
境内に入ると大量のバラと、幻想的な提灯の飾り付けがでも帰ってくれた。どこか日常の懸想を忘れさせてくれる。
花曼荼羅という言葉があるが、この境内はさながらその花曼荼羅と空中に吊るされた提灯の曼荼羅といったところだろうか。
甘いバラの香りが全身を包み込む。
私は深呼吸をして、一度目をつぶりまたゆっくりと開いた。
先に参拝を済ませよう。
朝露に濡れたバラを見ながら、地蔵観音に手を合わす。
買った お線香に火をつけて、心の中で祈りを捧げる。
考えるのはやはり子供たちのことだ。
お地蔵様は子供達を守ってくれる存在だから。
いいやそれを除いても、きっと私はいつも子供たちのことばかり考えている。
どうにも休めそうで休めていない。
子供のことを考えるのは とても楽しいけれど、自分のことを考えてゆっくりとする時間だってきっと必要だ。
境内をゆっくりと散策しながら、私は奥へと入って行った。
池には大きな鯉が泳いでいる。
一番奥の喫茶店で、ブラックコーヒーと季節のケーキを頂いた。優しい甘さが口いっぱいに広がって現実から切り離された時間が流れて行く。
日の光が差し込んで、サンキャッチャーが輝いていた。
青い空と太陽を言い訳にして、出かけた私だけの休日。
きっと、この一日があるからまた明日も頑張れる。
バラのお守りを1つ買ってキーホルダーにつけると、私は車に乗って 花曼荼羅のお寺を後にした。
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