「最近、僕の下駄箱にラブレターを仕込んでるヤツがいるみたいなんだ」
放課後の教室で僕がそう言うと、僕の後ろの席に座る君は日誌を書きながら「そう」とだけ呟いた。冷静沈着、興味なさげなその態度にムッとして、僕は学生服の胸ポケットから一枚の封筒を取り出す。
真っ白で少し小ぶりな封筒には、可愛らしく膨らんだハートのシールが貼られていた。宛名はしっかり僕の名前。わざとらしさ満点な愛らしい文字を刻む封筒をヒラヒラ見せつけても、君はやっぱり無反応。
仕方がない。僕はシールを剥がして封を開け、中に入っていた四つ折りの紙切れを広げる。
「ちょっと」
日誌を書いていた君が、やっと僕の方を見た。ニヤッとした笑みが零れるのを誤魔化して、僕は演技めいたデカいため息をついてみせる。
「ここ数日、毎日なんだぜ? 毎回紙切れいっぱいに、僕への愛が書かれているんだよ。よくもまあ飽きないよねえ。どんだけ僕の事が好きなんだか」
「……困っているなら、やめさせれば?」
「ええ? そんな事出来ないよ。だってこんなに僕の事を大好きって言ってくれてるのに、やめさせるなんて可哀想だろう。僕は、この学校を卒業するまでこのラブレターを享受する気だ。別れが来る日まで、目一杯僕を愛して貰うのさ」
そう堂々と笑えば、君はカッと目を見開き……すぐに勢い良く席を立った。
「そういうの、ズルいと思う」
いつもより更にハッキリした声で僕を一刀両断した君は、その後「トイレに行ってくる」と矢継ぎ早に言って教室を出て行った。ああ、いやはや、尻尾を巻いて逃げ出すとは。
「君の方こそ、ズルいんじゃあないの」
僕の呟きなど、真面目で不器用な君はつゆ知らず。
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「お母さんプロポーズってどんな風だったの?」
コーヒーを1杯飲み干すと、娘がそう尋ねてきた。
「どうしたの急に?」
「……ちょっとね」
私は本棚から古いアルバムを引っ張り出してきた。
ページをパラパラとめくり1枚の写真を指さした。
海辺の夕焼けの写真には私のシルエットが写っている。
古びた写真は色あせてピントがあっておらず逆光で影だけになっている。
「お父さんにプロポーズされた時の写真」
「…へえ、海でだったんだ」
「うん2人で結婚前に海に行ってね、貝殻を渡されたのよ。二枚貝を開くと中に指輪が入っていてね」
「えーロマンチック」
「ふふふ、実は昼間に旅館で食べたホタテ貝の貝殻だけどね。綺麗に洗って、そこに指輪を乗せて、跪いて渡してくれたの。『僕の人魚姫になってください』って言ってね」
「なんだかお父さんらしいね!」
「でしょ。泡になって消えるつもりはないけどね……」
記憶の夕焼けは美しくあまりにも鮮明だ。
だが人間の記憶というのは時と共に風化し色あせ、そのわずかな心象のみを残して消えていってしまう。
それを止めてくれるのは写真だが、ぼやけて色あせた写真はやはり記憶ともに薄らいでゆく。
私はマリッジリングに目を落とした。
エンゲージリングもマリッジリングもそこにはめた宝石は色あせることがない。
永遠に変わらず存在し続けるものなど無い。けれど一瞬を切り取ったその思い出は、永遠の中に存在し続ける。
泡のように消えてしまう存在と永遠に消えない想い。
焼き付けられた感情はフィルムよりも確かに私の心に焼き付いている。
「でも、急にどうしたの」
娘にそう尋ねるとちょっと困った顔をして、
「うん、はる君にプロポーズされちゃった」
と返事が帰ってきた。
「あらら…」
「でもお父さんみたいにロマンチックじゃないのよ。遊園地の帰りにハイと箱を渡されて返事はいつでもいいからだって」
「はる君らしいじゃない」
「はぁー」
と娘はオーバーにため息をついた。
「どうするかはもう決めてるんでしょ」
「うん、まあね」
携帯電話の着信音が鳴る。っっっっっlk
「あ、はる君だ」
そう言って娘は席を立った。
「頑張ってね…」
私は娘の背中を見ながらそう呟いた。
アルバムの中の思い出の写真は色褪せて、だがそこにはあの日の変わらぬ美しい時間が存在するのだ。
人魚姫は人間になって、幸せに永遠に暮らしましたとさ。
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「また喧嘩したの?」
「うっせーな。絡まれたんだよ、俺は悪くねー」
「柄が悪いからいけないのよ」
「はいはい。もー、めんどくせーなぁ。さっさと帰れよ」
「あら、いいの? せっかくついて行って言い訳してあげようと思ったのに」
「神さま仏さま怜花さま、ありがとうございます」
「調子いいわねぇ」
「母ちゃん怖ぇからしゃーねーべ」
「私は仲良しだけどね。リモコンの場所聞かれたりするくらいには」
「なんで俺より母ちゃんとわかりあってんだよ、お前」
「斗真が好きだからじゃない?」
「……はい?」
「あら、どうかした?」
「どうかってお前……」
「相変わらず変な顔してるわねぇ」
「はぁ?」
冗談かよ。
「てかなんで、いつも喧嘩現場に来るんだよ」
「あ、やっぱり喧嘩なのね」
「あーあーあー、絡まれた絡まれた!」
「なんで来るかってそりゃ、あなたがそんなだからじゃないの」
「どういう意味だ。ガキの頃から何年だ?」
「幼稚園からだから、12年かしら」
「長ぇ……。こんなに一緒にいるとは思わなかったわ……」
「仕方ないわよ。私があなたに一目惚れしたんだから」
「……はい?」
また冗談か?
「……」
「……俺、お前を恋愛対象として見たことねーよ」
「……知ってるわ」
「……でも、俺はお前以外選ばねーと思う」
「はぁ?」
「いや、だから……」
「いつまでも想われてるなんて思わない方がいいわよ? まぁ、その日を待ってあげなくもないけど」
「……おう」
空を見た。月は……出てないな。
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星の流れる美しい川辺りで、私は彼を待っていた。
川の水を掬うと、金平糖の様にきらきらと輝く星の水が手を濡らす。溢れ落ちる光の雫を、一人見つめて小さく息をついた。
彼に会える日は、とても特別。この星の川を渡って彼に会う日はいつだって美しく着飾っている。今日の為に織った美しい衣、艶を忘れない黒髪、淡く染めた唇……そのどれもが、全て彼の為。
一年に一度しか会えない彼の前では、誰よりも美しくいたい。それは女の意地であり、覚悟。今日が終わり、彼が再び私から離れても私を忘れないようにする為に密やかに込める色香。私をその身にじんわりと焼き付けて、忘れないでと、彼に甘く囁く準備は出来ていた。
どうか、早く会いに来てくださいませ。とびきり甘美な夢を、貴方に差し上げましょう。この身は全て貴方のもの。早くその手で、優しく私を乱して欲しい。
胸の小さな高鳴りが、星の水と共に流れていく。
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三月の終わり、夕暮れ時の千歳烏山駅のホームは、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
春の温い風が、線路沿いの錆びたフェンスを揺らし、どこか遠くで誰かの笑い声が響いては消えていく。
大学の卒業式から一週間。サークルの喧騒も、引っ越しのバタバタもようやく落ち着き、世界が急に静かになったような気がしていた。
拓海は、自販機で買った缶のレモンソーダを、開けもせずに両手で挟んで持っていた。
まだ冷たい缶の表面に、細かな水滴がつき、それが指を伝って手のひらを濡らしていく。
「お待たせ、拓海」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこにいたのは美咲だった。
いつもの見慣れた、少し大きめのデニムジャケットを着ている。
けれど、その髪は卒業式の日よりも少しだけ短くなっていて、耳元で揺れる小さなパールのイヤリングが、夕日を浴びてきらりと光った。
その小さな変化だけで、彼女がもう「学生の美咲」ではなく、来週から新しい場所へ進む一人の大人なのだと突きつけられた気がした。
「ううん、今来たところ。これ、飲む?」
拓海は、まだ開けていないレモンソーダを差し出した。
美咲は一瞬驚いたような顔をしてから、すぐにいつもの柔らかい笑みを浮かべてそれを受け取った。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてたんだ」
カシャ、と静かなホームに缶を開ける小気味いい音が響く。
美咲はそれを小さく一口飲むと、「ん、美味しい」と言って、拓海の少し隣に腰掛けた。二人の間には、ちょうどリュックサックが一つ置けるくらいの、絶妙で、そして少しだけ寂しい隙間が空いていた。
大学二年の夏、共通の友人の紹介で知り合ってから、二人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。
映画の好みが驚くほど似ていること、下北沢の古着屋巡りが好きなこと、深夜に近くの公園でどうでもいい将来の話をすること。美咲と過ごす時間は、拓海にとって呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
付き合って二年。大きな喧嘩をしたこともない。周りからは「お前らは絶対に結婚する」なんて冷やかされていた。拓海自身も、なんとなくこのまま、当たり前のように美咲と同じ未来を歩んでいくのだと信じて疑わなかった。
その「当たり前」が崩れ始めたのは、去年の秋口、就職活動が本格的に終わった頃だった。
拓海は地元のインフラ系の企業に就職が決まり、この街に残り、慣れ親しんだ環境で社会人を始めることを選んだ。一方で、美咲の配属先は、東京から遠く離れた福岡の支社に決まった。
「総合職だから、どこに行くか分からないって覚悟はしてたけど……まさか九州だなんてね」
内定式の夜、居酒屋で少し酔った美咲は、寂しそうに、でもどこか期待に満ちた目でそう言っていた。
遠距離恋愛なんて、今の時代いくらでもやりようはある。新幹線もあるし、毎日ビデオ通話だってできる。拓海はそう自分に言い聞かせ、美咲を応援しようと心に決めていた。
けれど、冬が近づくにつれて、二人の会話の空気は少しずつ変わっていった。
美咲の口から出る言葉は、新しく始まる一人暮らしの準備や、研修の課題、新生活への希望で溢れるようになっていった。彼女の視線は、すでにここではない、遠く新しい街を向いていた。
対して、拓海の話はいつも「変わらない日常」のことばかりだった。大学の単位の話、バイト先の後輩の話、地元の友達と行ったラーメン屋の話。
美咲の話を聞くたびに、拓海は自分が彼女の足を引っ張っているような、置いていかれているような、形のない焦燥感に駆られるようになった。
そして、卒業式が終わった次の日の夜。
美咲のアパートで、荷造りがほとんど終わった段ボールに囲まれながら、彼女は静かに切り出した。
『拓海、私ね。向こうに行ったら、きっと自分のことで精一杯になっちゃうと思うの』
美咲の声は震えていなかった。ただ、酷く澄んでいた。
『拓海は優しいから、無理して私に合わせようとしてくれるでしょ? 毎日連絡しなきゃとか、月に一回は会いに行かなきゃとか。でも、そういうの、いつか二人とも苦しくなっちゃう気がするんだ。……だから、お互い新しいスタートを切るために、ここで一度、終わりにしない?』
引き止めようと思えば、いくらでも言葉は出てきたはずだった。
「寂しいけれど頑張ろう」とか、「俺がそっちに会いに行くから大丈夫だ」とか。
けれど、拓海は何も言えなかった。段ボールの隙間から見えた、美咲が大切にしていたお気に入りの小説の背表紙を見つめながら、ただ「そうだね」と短く答えることしかできなかった。
なぜなら、拓海自身も気づいていたからだ。
遠くなる距離を恐れているのは、美咲ではなく、自分の方なのだと。
新しく変わっていく彼女を、変わらないままの自分が繋ぎ止めておくのは、あまりにも身勝手なのだと分かってしまったから。
「ねえ、拓海。向こうの部屋、結構広いんだよ」
ベンチに座る美咲が、缶を両手で包みながら、前を見つめたまま言った。
「そうなんだ。何畳くらい?」
「八畳。ベランダが広くてね、近くに美味しいパン屋さんもあるんだって。今から行くのが、ちょっとだけ楽しみ」
「そっか。美咲なら、どこに行ってもすぐ友達できるよ。パン屋のおじさんとも、仲良くなれるんじゃない?」
「どうかな。最初のうちは、寂しくて泣いちゃうかも」
美咲は小さく笑った。その横顔を見つめながら、拓海は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
もう、この笑顔を一番近くで見ることはできない。彼女が寂しくて泣く夜に、隣で肩を抱き寄せてあげることもできない。その事実が、じわじわと、確かな痛みとなって体に染み渡っていく。
「拓海は? 仕事、大変そう?」
「まあ、最初は覚悟してるよ。覚えることも多いし、へまをやって怒られるんだろうな。でも、地元だからさ、最悪実家に帰ればご飯はあるしね」
「あはは、そうだね。おばさんのご飯、美味しいもんね。またあの唐揚げ、食べたかったな」
「……いつでも食べにきてよ。実家、逃げないから」
言ってから、拓海は「あ、余計なことを言ったな」と後悔した。
もう、二人は別れたのだ。これから別々の場所へ行くのに、次の約束を匂わせるような言葉は、ただの未練でしかない。
美咲は少しだけ視線を落とし、手の中のレモンソーダを見つめた。
「……うん。ありがとう」
静寂が戻る。ホームに滑り込んできた快速電車が、激しい風と音を置き土産にして通り過ぎていった。
電車の風で美咲の短い髪が大きく揺れ、彼女が小さく身を縮める。拓海は、その肩を抱き寄せたい衝動を必死に抑え、ただズボンのポケットの中で拳を握りしめていた。
「あ、私の乗る電車、次だ」
美咲がスマホの画面を見て立ち上がった。
各駅停車の電車の接近を知らせるアナウンスが、冷徹にホームに流れ始める。
美咲は手元に残ったレモンソーダの缶を、ホームのゴミ箱へ捨てに行った。カラン、と軽い音がして、二人の時間の終わりを告げるピリオドのように響いた。
戻ってきた美咲は、拓海の正面に立った。
その瞳は、夕日の赤さを反射して、少しだけ潤んでいるように見えた。
「拓海。今まで、本当にありがとう。私、拓海と付き合えて、本当に幸せだったよ。楽しかった」
「俺もだよ。美咲と過ごした時間は、全部宝物だから」
拓海は、精一杯の笑顔を作った。情けない顔だけは見せたくなかった。
彼女が新しい街へ、前を向いて歩き出せるように、せめて最後は、彼女が大好きだと言ってくれた笑顔で見送りたかった。
「うん。……じゃあね、拓海。元気でね」
「うん、美咲も。頑張ってね」
電車のドアが開いた。美咲は一度も振り返ることなく、車内へと歩を進めた。
プシュー、と音を立ててドアが閉まる。ガラス越しに、美咲がこちらを向いて、小さく手を振った。
拓海もそれに応えるように、右手を小さく上げた。
ガタゴトと音を立てて、電車がゆっくりと動き出す。車両が一つ、また一つと拓海の前を通り過ぎていき、やがて赤い尾灯だけを残して、線路の向こうへと消えていった。
美咲がいなくなったホームは、驚くほど広かった。
春の風が、拓海の頬を撫でていく。その風は、先ほどまで美咲の髪を揺らしていたものと同じはずなのに、今はもう、ただ冷たく感じられた。
拓海はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩き出し、自販機の前に立った。
先ほど美咲に渡したものと同じ、レモンソーダのボタンを押す。ガコン、と重い音を立てて落ちてきた缶を取り出し、プルタブを引き抜いた。
シュワ……
微かな炭酸の音がして、冷たい液体が喉を駆け抜けていく。
酸っぱくて、ほんの少しだけ苦い、ありふれたレモンの味。
拓海はベンチに腰掛けたまま、缶を握りしめ俯いていた。電車が通り過ぎる度に、冷たい春風が拓海を包む。
気付いた時にはもう、炭酸がすっかり抜けて、甘ったるくて苦いだけのレモン水になっていた。
まるで、引き伸ばしすぎて、瑞々しさを失ってしまった自分たちの関係みたいに。
拓海はもう一度、レモンソーダを口に含んだ。
涙は出なかった。ただ、喉の奥に残る微かな苦味が、いつまでも消えずに残っていた。
遠くの空には、もうすぐ夜の帳が下りようとしていた。新しい季節が、すぐそこまで来ていた。
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今夜は織姫は彦星と会えないだろうか……
一年前留学した彼と会うために、私は商店街の七夕の笹の下でまっていた。アーケードの外はザーザー降りの雨である。
「一年間かぁ、長いね」
「うん」
「でも夢だったんでしょ?絶対に諦めないで行ってよ?」
「ありがとう」
「ふふふ。私たち、織姫と彦星みたいね」
「確かに」
ふと、一年前の会話を思い出した。
けれど実際の 織姫と彦星、つまり琴座のベガとアルタイルだが一年どころの話ではない。
――十五光年。
それほどの距離があるのだ。
光のスピードでその距離なのだから、実際に会えるとしたら一体何千年何万年かかるのだろう……
もちろん星は動かないけれど。
銀河系を挟んで輝く夜空の星に物語を描いた昔の人々は、もちろんその距離を知るよしもない。
私たちは一年経てば再会できるのだ。
それでもその時間というのは一千万年後年彼方の星より遠く感じた。
去年一緒に短冊を書いたことを思い出す。
一年後の自分たちのことを想って。
笹の横には短冊のテーブルが置いてあり誰でも自由に願い事をかける。
私はそれを手に取った。
真ん中に小さく願い事を書いて、そっと笹に結びつける。
「何を書いたの?」
「ヒ・ミ・ツ」
一年経った君は一年前と少しも変わらず……
ううん、去年よりも少し大人びいたような気がする。
織姫と彦星のように私たちは再び巡りあったのだ。
運命の星と星の間(あわい)にて。
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人生には終幕というのがつきもので、それはいつか絶対に誰にでもやってくる。
だから生きていく限り後悔のないように精一杯生きていかなくてはならない。
君と一緒に見に行った映画館。
エンドロールの後に観客たちは立ち上がりゆっくりと去ってゆく。人生の終幕においてやはり同じように観客たちは席を立ち上がり去ってゆくのだろう。
僕はポケットから小さな箱を取り出した。これは小さな物語の終幕。
ハッピーエンドになるかどうかは分からないけれど。もしうまくいけば長く始まる人生のほんの一幕。
誰もいなくなった映画館で僕と君二人だけ物語の余韻に浸る。エンドロールの途中で席を立ち上がり去って行く人々。けれど僕はあまりそういうことが好きじゃない。
最後の曲が終わるまできっちりと席に座って待っている。
二人っきりになった映画館で席を立とうとする君にそっと箱を差し出す。
「僕と結婚してください」
長い長い人生の物語の小さな山場。これから続く君と二人の物語をどうか僕にください。
エンドロール、人生という幕が終わるまで君が隣にいて座って僕の人生を見ていてくれることを望む。
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高校三年生最後の競技会。
私とゴールの百メートルの隙間に、周囲の期待も青春もぎっしりと詰まっていた。
どうにもあの心地良くもあった緊張を、桜の匂いは連れてくる。
もう十年にもなろうというのに。
肉離れなんかとっくに完治している。
なのにどうしてまた立ち止まってしまうのか。
その気になればきっと全力で駆けることだって出来るのに。
それでもこの時期だけは、まだ痛い。
応援して、慰めてくれた両親を、先生を、仲間を、もう裏切りたくはなくて。
涙も後悔もずいぶんと上手に飼い慣らせたと思う。
勉強に打ち込み、仕事にのめり込み、今の私がいる。
だからこの痛みも私にとっては誇りなんだと、ここ数年はそんな風に言い聞かせている。
それなりに恋もしてきた。
愛し愛され、また愛し愛し愛され。
きっと都合よく、彼らを癒しにしてきた罰なんだとも思う。
そして、この道の先にあの人が待っている。
だから踏み出さなきゃいけない。
━━なのに。
私を追い越していく三人の親子。
ああ。私にもあんな未来があったのかもしれない。
二つの結び目が愛おしくも羨ましい。
舞い散る暖かな祝福を、私は拒絶してきたのかもしれない。
誤魔化して、茶化して、頑張ることを言い訳にしてきたのだろう。
今日会ったら何を言おう。
特別な日でもないけど、特別な日にするにはうってつけじゃないかな。
例えば二人、違う未来へ進もうだとか。
私にそんなこと言う権利があるのか。
ここまで待たせた彼に対して。
━━「今は仕事が第一」
半年前だったな。
卑怯な言葉だったな。
彼の情熱が、仕方がなかったといえ、報われず。
あの瞳を支える覚悟が私にはなかった。
それがどんな傷跡になるのか、たぶん知っているから。
私はまだこの後悔と正しく向き合えずにいる。
また彼の優しさと、繰り返す毎日に、そっと埋めては悪戯に掘り起こす。
だからせめて今日は。
そう、あなたに謝りたい。
そう思うことでやっと歩き出せた。
ゆらゆらと漂う光が、どうか彼を温めてくれてますように。
ごめんね。ごめんなさい。
でも願ってしまうの。
あなたと同じ光の中に、私もいられたらいいのに。
続きを読む
「ずいぶん美味しくなったもんだな」
コンビニで淹れたコーヒーカップを両手に包み、鼻腔に溜めた香りを味わう。
今年も桜が咲いた。
ちらちらと舞う並木道。
汗の滲む首筋に、ひんやりと風が心地良い。
去年もこのベンチでこうやっていたなと景色に記憶を重ねる。
もう熱くなる掌を、それでも離す気にはなれない。
コーヒーが沁みる。
どこかで卒業式があったのだろう。
身を整えた三人の親子がこの数分で何組過ぎて行ったか。
僕にもこんな未来があったのかもしれない。
考え飽きたこの思考はもうなぞる価値もない。
そんなことするくらいなら心の中でもそっと、彼らを讃えた方が幾分か有意義だ。
春だろうが冬だろうが、僕の毎日は変わらない。
きっと来年もここでこうやって流れる桜たちを眺めているに違いない。
その時はコーヒーはいくらになっているんだろうな。
積み重ねることと失うことは同じ意味だと知って随分と経った。
かつては情熱もあったさ。
もっとよく笑ってた気もする。
桜の開花にも気付かず打ち込んでいた日々。
ああ。コーヒーが染みる。
どうか君たちの将来というものが、素晴らしいものでありますように。
こんな信仰にも似た拙い願いが僕の辟易とした日々を支えている。
なんてXにも呟けないちっぽけなプライドが、たぶんそれだけが、僕に桜の中にいることを赦している。
━━「今は仕事が第一」
彼女がその言葉を使ったのは何年前だっけか。
そんなに経っていない気もするし、随分と昔のようにも思える。
この待ち合わせも、将来に何の意味があるのだろう。
僕らの日々は、一体何を埋めているのだろう。
いや、分かっている。
先送りにしているのも、曖昧にしているのも、他ならぬ僕だ。
悪戯に気持ちを確認するほど若くもない。
かと言って、別れを切り出す理由もない。
次に口にしたコーヒーは、ヌルいなんてものじゃなかった。
「お疲れ」
顔にかかる髪を耳にかけるその仕草に、ときめいてた時期もあったっけ。
触れているわけでもなく離れているでもない僕らに、このベンチのサイズは奇妙なほどちょうどいい。
ゴツゴツと凹凸をぶつけ合って、削り合って、擦り合って、僕らの角は取れていく。
あるいは奇跡的に噛み合い、ふたつがひとつに成ることもあるのだろう。
でもそうでない路を辿ったならば、いつしか丸く球く収束していく。
社会の内側で生きるとはそういうことだ。
生きるとはそういうことだった。
完全な球体の接地面積は0だという。
だから僕と彼女のこの距離も必然が生んだことに疑いはない。
「どうしたの?」
「こんなに寂しいのに、どうして僕らはひとりぼっちなんだろうね」
いつ仕舞ったかも分からない言葉が、急に出て来て知らん顔をする。
笑顔でナイフを突き立てるような、こんな台詞を、どうにか無かったことに出来ないだろうか。
すっかり冷えたコーヒー。
もう口にする気にはなれない。
掌に汗が滲んでいく。
「私は、ふたちぼっちがいいな」
僕の明日も、君の明日も、きっと約束された通りやってくる。
積み重ねることと失うことは同じ意味だと知っている。
それなのに舞い上がるこの僕を、稚拙だと、頓珍漢だと罵ってくれても、今は全く構わない。
世界は外側からしか壊せない。
それを今日、知ったのだから。
続きを読む
カレンダーに星のマークを一つ付ける。
昔、こんな風に星印をいっぱいつけたカレンダーを破いて捨てたことを思い出す。
……あれからもう5年も経ったんだ。
星野くんと付き合っていたのは学生時代。
私は彼とデートするたびに、カレンダーに星印を書いた。
それは大事な記念日の記憶。
初めて会った日の印から付き合い始めた日の印、デートのたびに増えていく印を眺めながら、心の中に星空が広がっていった。
それは美しい思い出の星。
記憶は夜空になり、キラキラと輝き、満天の星空の幸福が私の胸を覆った。
きっとこの美しい空は永遠に私の心の中で輝き続けると思っていた。
だからカレンダーを破いて捨てる日が来るなんて思わなかった。
彼の留学が決まって、私たちは別れることになってしまった。
空港で彼を見送って、家に帰ってきて目にしたカレンダー。
それはもう2人の美しい思い出の印ではなくなった。
その星を見るのもつらかった。
気がつけばビリビリに破いてゴミ箱に放り込んでいた。
星のない闇の夜が私に訪れたようだった。
それから5年、特に恋愛などすることもなく、私も卒業し就職した。
再会は本当に偶然、映画を見に行った時にだった。
席を立とうとして彼がいることに気がついた。
「久しぶり」
「星野くん!え、嘘」
その後まるで5年の歳月などなかったかのように話が弾んだ。
お互いどうしているか連絡先を交換した。
2人の再会の日。
―カレンダーには一番星ひとつ―
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