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1401文字 約3分で読了

まだ記念日は終わらない

「ねぇ、ちょっと入ってみない?」  高校生にしては茶色い髪を風になびかせて笑う詩織。  親から聞いたところ優等生のようで、私は彼女の髪を見るたびに不思議に思う。 「えー、やだよ。濡れちゃうよ」  この暑い時期、詩織に同意する人が多いだろう、だけど私は海に入るのは避けたい。金槌にとって海に入るなんて自殺行為だ。 「ねぇ、膝までだけでもダメ?」 「いやだ、詩織1人で入りなよ」 「そっかぁ、1人で入ってもつまらないよ。澪ちゃんのせいで今年は海に入れなかったよ」  少し意地悪な顔をしながら私を批判する。ただ本気ではないことくらい、短い付き合いの私でもわかる。 「それは残念だね」  そう言いながら、私は聞き流す。 「今年の夏は今年だけだよ?それに来年はもうここにいない」  詩織の指が私の頬に触れる。ただでさえ暑いのに、触られた部分が余計に熱を帯びる。私は暑さにやられたのだろうか。 「また来年こっちにきなよ」  来れないことは分かっている。 「そうだね、それも良いかも」 「来年だったら一緒に海に入ってあげる」  私は出来ない約束をしている。詩織は来ることができないことくらい私が一番分かっている。 「ねぇ、そろそろ夏休みが終わるね、ちゃんと宿題やった?」  おどけた笑顔で詩織が聞いてきた。来年の話をしたくないのだろう。 「ずっと一緒にいたから分かるでしょ、あまりやってない」 「澪ちゃんって優等生みたいな見た目なのに意外だよね」 「詩織は逆だよね、非行少女っぽい」  東京では髪を染めるのは普通なのだろうか、田舎者の私は分からない。 「そうでしょ、実は非行少女なんだ」 「嘘つき、優等生って聞いたよ」 「あ、知ってたんだ。実は真面目に学生してるよ」  親から聞いたよ、と言いかけたが言葉を飲み込んだ。なんとなく言いたくなかった。声を発したいが言葉にできない私は砂浜に落ちていた白く濁ったガラス片をいじることしかできない。 「流石に夏休み中には終わるよね?」 「無理だよ、手伝ってよ」 「できる限りは手伝うけど、もう明後日には東京に戻っちゃうよ」  知っている、私は悪あがきをしている。東京なんか戻らなければ良いのに。 「あ、流木。発見」  詩織がビーチサンダルをパタパタさせながら、大きな流木を持ってきた。 「大きいね、この流木。字が書けそう」  そう言いながら詩織が、落ちている石を使いながら器用に名前を書く。 ―かざましおり・うんのみお―  とても器用だ。 「はい、これプレゼント」 「え、プレゼント?」 「そう、海にきた記念品」  突拍子のないプレゼントだ。短い付き合いの私には理解できない。いや、多分付き合いが長くても詩織の行動は理解出来ないだろう。 「学校でもそんな感じ?」 「え?どういうこと?」  この様子だと普段からこんななのか。 「いいや、とりあえず貰っておくね」 「じゃあ100円ね」  屈託のない笑顔だ。ただ名前を書いただけの流木にお金を取るなんて驚きだ。 「いや、いらないよ」 「しょうがないから、特別に無料であげるよ。記念日」  そう言いながら詩織は砂で汚れた足を払う、私は苦笑いをしながらガラス片を捨て流木を受け取る。とても軽い、流木って軽いんだ。  空がトキ色に染まる。もう親が夕飯を作っている時間だ。  詩織と肩を並べながら、車が通れないような狭い道を歩く。 「ねぇ、その流木。大切にしてよ」 「どうしようかな」  まだ詩織が帰るまで時間はある。  (どこに流木を飾ろう)  詩織が帰ってから流木を飾ろう。まだ記念日は続くから。
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作者:ReiN.
2026/10/01 • 👁 39回 • 💬 0件
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139文字 約1分で読了

甘酸っぱいどころでは

祭りでリンゴ飴を買ったけど、私の口には固すぎて大きすぎる。すると、一緒に来た友人が「貸してよ」と言った。手渡したら彼女は自分でぱくりとかじる。欲しいなら言えばいいのに。ふくれつらの私の顔は、彼女の手で挟まれた。「口移し。女友達ならノーカンよ」待って、本命相手はノーカンじゃない!
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作者:有賀慧
2026/09/30 • 👁 50回 • 💬 0件
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140文字 約1分で読了

勝ち逃げなんて

小学校のかけっこの頃から、アイツとはライバルだ。肩を並べて走り、追いつき追い抜き、けれども追い越される。その瞬間こそ見知った顔が一番輝くんだ。だから、受験のためにアイツが陸上部を辞めると聞いて、わたしはたまらず泣きすがった。「なんでよ! あなたを追いかけて同じ女子高に入ったのに!」
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作者:有賀慧
2026/09/30 • 👁 38回 • 💬 0件
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1973文字 約4分で読了

青いゼリー

 浴室で右腕を掲げた。ダウンライトが明るく肌と靄を照らす。シャワーが降り注ぐ中、ちょうど腕の青い血管に沿って、お湯が伝っていく。  今日起きたこと、昨日起きたこと、明日起きること……全てはタロットカードをシャッフルして、日毎一枚ずつめくるみたいに、一つずつ均等に割り振られたものだとしたら。誰しもが平等に、幸と不幸を体験していくことが、あらかじめ決められたものだとしたら。  これは罰なんかじゃない。 そう、脳内で自分に言い聞かせた。  シャワーが熱いから、湯気は朦々と立ち上り続けた。何分間そうしていたか分からない。腕を降ろして、レバーを下げる。するとお湯は止まった。 ――止めたから、止まるのだ。  肌に弾かれた水滴をみて、私は冷蔵庫にゼリーを冷やしておいたことを思い出す。  後で食べようと思った。  それはとても、私にとっては幸せなこと。そして同時に、あの人にとってはくだらないこと。  好きなものも嫌いなものも、どちらでもないものも、この世には溢れていて……その価値は人によって全く違う。不必要に見えても、ある人には必要であったりする。  目に見えない価値観を並べて数えて、全く同じ人を見つけるなんてこと。きっと月面着陸するくらい難しいんだろう。  そんなことをモヤモヤと考えながら脱衣所に出て、長い髪の水分をバスタオルで拭き取る。この後ドライヤーをしなくてはならないことを思うと、重たく濡れた髪を衝動的に切ってしまいたくなった。  あの人は、怒るだろうか。  薄暗いリビングには、月明かりが漏れている。本当はここが外で、向こう側が部屋なのかも知れないなどと考える。 締め出されるのも、閉じ込められるのも、本人の思考次第なのだ。 私の居たい場所は、一体この世界のどこにあるのだろう。  そんなの誰も教えてくれないし、自分でもよく分からない。  フローリングとスリッパの衝突音だけが響く部屋。時計は午前零時を示している。  今の私は透明人間にかなり近いのではないか。そんなことも最近はよく思い浮かぶ。 透明で軽い命は風に吹かれなくとも、勝手に宙へと浮き上がるもの。私はふいに引きちぎれてしまいそうな、心許ない糸を右手首に巻き付けて、いつでもその浮力に抗っているのだった。  肌を鬱血させながら、地面というものにいつまでも執着している。  ふわふわとした思考を、頭痛が現実に引き戻してくれた。けれど、痛み止めはもう手元に無い。  冷蔵庫をあけると、明朝の卵が一つしかないことに気づいた。私は食べなくてもいいかと過ぎって、やはり私の生活の中心にはあの人がいるのだと思い知る。  バスタオルを巻いた胸元に冷気が当たり、身震いをした。なんだか居心地が悪かった。風邪でもひきそうな気分だけど、それで仕事が休めるのならそれでもいいやとも思う。  フルーツが色々入ったゼリーと、食器棚の引き出しから銀色のスプーンを取り出す。リビングのテーブルは一人で掛けると、やけに悠々としていた。黙り込む、あの人の質量を想う。  今夜はどうやら満月らしく、電気をつけなくても部屋は明るく感じた。薄ら青い月明かりが、スプーンに掬った、偽物みたいな青いゼリーに吸い込まれてゆく。 ――きらきらと。  私はゼリーを舌で潰しながら願う。明日はきっと、このテーブルであの人と話し合うことが出来ますように。  あの人にとって一番価値あるものはプライドだ。私よりもずっと大事なそれを擦り付けて、勝ち誇ってくれてもいい。だけど、私のくだらない話も、時には掬いとってほしい。  結局のところ、私の意見が通らなくたって構わないのだ。私はただ、話し合いたいだけだった。なんでもない事も、大切な事も。多分、こうなってしまう前からずっと。 言葉を失ったら、それは人間と呼べるのだろうか。必要最低限で済ませる暮らしに、何か意味はあるのだろうか。  同じ席に着いて、目を見て話してほしかった。誤魔化さないでほしかった。本音で話してほしかった。  今では問題が起こると、なんだかんだと理由をつけて席を降りるあの人の背中。もう出会った頃のように広くもなく、優しくも見えない。  見て見ぬふりの日常は、一見穏やかにみえる。けれど知っている。ハリボテの日常に、愛は宿らないのだと。  割れたグラスも、二度とは直せない。けれど……どこかに回収されて、高温で融かされて、また同じ顔のグラスに生まれ変わるかもしれない。だとしたらまた、選んでくれるだろうか。私は選びたいと思えるだろうか。  満ちては欠ける、月の夜。変わって欲しいのか、或いは変わりたいのか、それすらももう分からなかった。  もう一口ゼリーを口に運ぶと、爽やかなソーダの香りが広がり、すぐに甘味を失っていくのが分かった。  右腕を掲げると、銀色のスプーンに月光が反射する。てらてらと。白い肌も、発光していたのかも知れない。  それから手首にはまだ、青みがかった血管が薄らと浮かんでいた。
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作者:藍沢ふゆる
2026/09/30 • 👁 104回 • 💬 0件
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1016文字 約3分で読了

「作者の気持ちを答えよ」

昔、あなたが教えてくれた。 最初の抽象絵画ができた理由を。 何が描いてあるか、分からない。 でも目が離せない。 そんな作品を見た画家が描いた絵がはじまりなんだって、あなたは教えてくれた。 自分の感じたことが、もし作者の意図と違っても別の意味が生まれることもある。 不正解にも意味はある。 とあなたは自分の考えを続けて語った。 私はその時、あなたみたいだと思った。 私はあなたを見つめる。 キラキラした目で、美術館の絵を見つめるあなたの横顔を。 ―― 高校を卒業して、お互いの道に進む。 私は教師を目指し教育学部へ、あなたはずっと夢だった美大に。 学生同士の恋人関係なんて、いつか綻ぶ。 どこか諦めに似た一般論で、大好きなあなたと疎遠になっていく事実から心を守った。 久しぶりに会ったあなたは、絵にのめりこんでいた。 クマすら隠さない、髪はボサボサ。 手先はボロボロ。 「忙しいの?」 「うん。」 「前も言ったけど、あなた体弱いんじゃん。」 「……そうだね。」 「やめろなんて言わないけどさ、例えば画力を活かせる他の道とか……」 「……。」 「……ごめん。ねえ、前に言ったお店行かない? あなたの好きなパンケーキが有名だか――」 「ごめん、忙しいから。」 ガタッと立ち上がりあなたはお金を置いて、そそくさとカフェを出る。 スマホから謝罪のメッセージを送る。 私は理解しようとした。理解できないまま、それでも見ずにはいられなかったあなたを。 大学を卒業し、私は晴れて教師の道に進む。 ほどなくあなたの訃報を聞いた。 お葬式には、もちろん行った。 何度か会ったことのあるあなたのお父さんは涙の止まらないまま、死因を説明してくれた。 ……でもどこか現実味がなくて、その言葉はグシャグシャになった紙のように形を失って、私には届かなかった。 日常に戻る。 不器用な人、スポットライトが当たらない人は世の中にたくさんいる。 そんなことは重々承知だ。 私にとって、それがたまたま最愛の人であっただけ。 ――雫が一滴、書類の上に落ちてしまった。 いけない……、もう思い出すな。 もう思い出すな! 周囲の先生方にばれないように、迷惑にならないよう、涙を拭い心を強く律する。 あなたの言葉を思い出しながら、PCで今期のテスト問題を作成する。 「作者の気持ちを答えよ。」 正解は作らなきゃ。大事でしょ……。 正解から外れたら、バツをつけなきゃいけない。 でも理解できなくても、あなたは鮮やかだった。 不正解でも、あなたとの鮮やかな思い出は消えてくれない。
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2026/09/30 • 👁 83回 • 💬 1件
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417文字 約1分で読了

キミのタイムマシーンを魅せて

 聖地巡礼 という言葉があるがこれもそれに該当するのだろうか。 彼女のことを推しだと思えば確かにそうかもしれないが。 駅で降りると雨が降っていた。傘を開く。 君が好きだった赤い色の傘を。 駅前の喫茶店、君とよく一緒に入った。 君はここのチーズケーキが好きで、 残り惜しそうに最後のひとかけらを食べていたことを思い出す。君がいなくなって、もう十年も経つのにここの喫茶店は変わらない。 ――いや、変わったか 。 マスターが息子さんへと代替わりした。 味は一緒。いや、君に言わせたらちょっと違うのかもしれないが。 喫茶店を出ると 2人で一緒に歩いた、通りを歩く。 学生時代この道を何度君と歩いただろう。  君との記憶を遡って行く。 それはタイムマシーンに乗ったかのように。 君がそばにいることがあまりにも当たり前すぎて君のいない日々が来るなんて夢にも思わなかった。君のいない世界をあまりに辛い。  タイムマシーンがあれば、今すぐ君に会いに行くのに。 君の魅力的な笑い声を聞くために……
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作者:しとえ
2026/09/29 • 👁 64回 • 💬 0件
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519文字 約2分で読了

雪の花

この身を花に変えて あなたに会いに行きましょう だからどうか悲しまないで  辺りはまた雪の降る季節になっていた。 遠い昔聞いた雪姫伝説を思い出し窓の外を眺める。 この世界に雪が降り始めるようになったのは、雪姫が会いに来るようになったからだという。 雪姫がまだ人間だった頃、たとえ自分の命が尽きたとしても愛した相手のところにその身を花に変えて会いに行くと約束したそうだ。 以来この地には雪姫が死んだ季節になると雪の花が降るようになったらしい。 「六花起きていたか」 夫の声がした。 「うんまあね…」 余命宣告をされて半年。 あと一体どれだけ生きていられるだろう。 「あのさ、私が死んだら雪姫みたいに雪になってまたあなたに会いに来る」 そう言うと夫は沈黙した。 「バカなこと言うなよ。来年の雪も一緒に見るんだ」 「そうだね。そうなれたらいいな」 窓の外の雪は大きな牡丹雪に変化していた。 真綿のような雪が降る。 きらめく絹でできた真綿の雪が。 「そうだ来年も再来年もその先もずっと」 「うん、そうだね」 きっとそんな日は来ない。 真っ白な雪は全てを埋め尽くす。 真綿のような雪が降る。 きっとお別れの日にも。 そうしたら私は必ず この身を花に変えて あなたに会いに行きましょう だからどうか悲しまないで
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作者:しとえ
2026/09/29 • 👁 87回 • 💬 0件
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3911文字 約8分で読了

さよならの味は、あまい珈琲

 木漏れ日が白いレースのカーテンを透かし、古い喫茶店の床に不揃いな模様を描いている。 「ここ、本当に変わらないね」  そう言って小さく笑ったのは、七年ぶりに再会した葵(あおい)だった。  学生時代、僕と葵は誰もが認めるお似合いの恋人同士だった。  大学の近くにあるこの喫茶店『ノスタルジア』の、奥から二番目の席が僕たちの指定席。  僕はいつもブラックの珈琲を頼み、葵は決まって、これでもかというほど砂糖とミルクを注いだ甘い珈琲を嬉しそうに飲んでいた。 「そんなに甘くしたら、珈琲の本来の味が分からなくなっちゃうよ」  僕がからかうと、葵はマグカップを両手で包みながら、悪戯っぽく微笑んだものだ。 「いいの。私にとっては、この甘さが幸せの味なんだから。拓海(たくみ)のブラックは、大人の背伸びの味がするよ」  あの頃の僕たちは、お互いの未来に自分がいることを微塵も疑っていなかった。  けれど、現実は甘くなかった。  大学卒業を機に、葵は実家の家業を継ぐために遠く離れた地元へ戻ることになり、僕は東京の建築事務所で働くことになった。遠距離恋愛の始まりだった。  最初は毎日のように電話をしていた。けれど、互いに新しい環境での仕事に追われ、すれ違いが増えていく。  疲労の中でかける電話は、次第に義務感へと変わり、互いを思いやる心の余裕を奪っていった。 「私のこと、本当にまだ好き?」  ある夜、電話越しに泣きそうな声でそう言った葵に、僕は疲れ果てた頭で、冷たい言葉を返してしまった。 「……もう、そういうことで悩む体力が残ってないんだ。ごめん」  それが、僕たちの最後の会話だった。  どちらからともなく連絡を絶ち、僕たちの恋は、燃え尽きるようにして終わりを迎えた。ほろ苦いというには、あまりにも苦すぎる、挫折の記憶だった。 ◆  あれから七年。  お互いに三十歳を目前にした今、葵から突然「東京に行く用事があるから、あの喫茶店で会えないか」と連絡が来たのだった。 「本当に、懐かしいな」  テーブルを挟んで向かい合う葵は、髪を後ろで綺麗にまとめ、上品なブラウスを着ていた。学生時代のあどけなさは消え、すっかり洗練された大人の女性になっている。  それでも、まっすぐな瞳や、少し照れたように笑う癖はあの頃のままで、僕の胸を締め付けた。  カラン、と店員が飲み物を運んできた。  僕の前に置かれたのは、あの頃と変わらないブラック珈琲。そして葵の前に置かれたのは──。 「あれ、ブラックにしたんだ」  葵の前に置かれたのは、湯気だけが立つ、漆黒の珈琲だった。砂糖もミルクも添えられていない。 「うん。あれからいろいろあってね。私も少しは大人になったの」  葵はそう言って、慣れた手つきでカップを持ち上げ、一口すする。眉一つ動かさずに、静かにカップを傾ける。 「……美味しい。昔はこんな苦いもの、よく飲めるなって思ってたのにね」 「そっか」  僕は自分のカップを握りしめた。葵が僕の知らない時間を過ごし、僕の知らない味を覚えたのだという事実が、重く心にのしかかる。  やっぱり、僕たちの時間はあの時、完全に止まって、別々の道を歩み始めてしまったのだ。 「拓海は、相変わらず建築の仕事、頑張ってるんだよね」 「うん。なんとか一人前になって、最近やっと大きなプロジェクトを任せてもらえるようになったよ。葵は? 実家の仕事は順調?」 「ええ。最初は失敗ばかりだったけど、今は私が中心になって動かしてる。毎日忙しいけど、充実してるよ」  近況報告は、驚くほどスムーズだった。まるで行儀の良い旧友のように。けれど、会話の端々に漂う「もう私たちは他人である」という空気感が、たまらなく切なかった。  ひとしきりお互いの仕事の話が終わると、ふっと会話が途切れた。店内に流れる静かなジャズの旋律だけが、僕たちの間を埋めていく。  葵は窓の外を眺めていた。その横顔があまりにも美しくて、そして遠くて、僕は喉の奥がツンと熱くなるのを感じた。 (どうして僕は、あの時もっと葵の手を強く握りしめなかったんだろう)  後悔の念が、七年の時を超えて津波のように押し寄せてくる。仕事のせいにしていた。距離のせいにしていた。本当は、自分が傷つくのが怖くて、向き合うことから逃げただけだったのに。 「ねえ、拓海」  葵が窓から視線を戻し、僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。 「今日ね、拓海に会いに来たのは、ちゃんとお別れを言いたかったからなの」  心臓がどくり、と跳ねた。  お別れ。  やっぱり、そういうことか。彼女は過去を清算しにきたのだ。 「あのね、私、来月結婚するの」  その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。目の前が歪む。耳の奥でキーンという金属音が響く。 「……そう、なんだ。おめでとう」  絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。祝福しなければいけない。それが大人のマナーだ。でも、胸が引き裂かれそうに痛い。涙が溢れそうになるのを、必死で奥歯を噛み締めて堪えた。 「相手はね、地元の実業家の人で。優しくて、真面目で、私の仕事もすごく応援してくれてるの」  葵は淡々と語る。その表情は、どこか寂しげに見えた。 「そっか。葵を幸せにしてくれる人なら、本当に良かった」 「うん。でもね……」  葵はそこで言葉を区切り、自分のバッグから一冊の古いノートを取り出した。それは、学生時代に二人で使っていた、他愛もない交換日記だった。僕が引っ越しの時に失くしたと思っていたものだ。 「これ、ずっと捨てられなかったの。辛い時も、仕事で挫けそうな時も、これを見て拓海の言葉を思い出してた」  葵の手が、細かく震えている。 「私ね、ブラック珈琲が飲めるようになったの、拓海と別れてからなんだよ」 「え……?」 「拓海がいない世界は、あまりにも苦くて、寂しくて。そしたらね、あんなに苦かったはずのブラック珈琲が、全然苦く感じなくなっちゃったの。むしろ、この苦さが、拓海と繋がっている唯一の感覚みたいで……。だから私、この七年間、ずっとブラックしか飲まなかった」  葵の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、テーブルに小さなシミを作った。 「私、あの人のこと、人としては尊敬してるし、一緒にいれば平穏に暮らせると思う。でも……でもね、心の一番深いところには、いつも拓海がいた。あの苦い別れから、私の心の時間は一歩も進んでなかったの!」  葵の震える声が、僕の胸の奥の、一番柔らかい場所を直撃した。  彼女も、僕と同じだった。あのほろ苦い、いや、苦すぎる別れの味を、ずっと引きずったまま生きていたのだ。 「嘘、だよ……」  僕は気がつけば、テーブルの上の葵の手を、両手で強く包み込んでいた。七年前に手放してしまった、白くて柔らかい、愛しい手。 「拓海……?」 「僕だって、忘れた日なんて一日もなかった!  新しい恋をしようとしても、誰を見ても、葵の笑顔ばかり探してた。仕事で成功しても、それを一番に伝えたいのはいつも葵だった。ごめん、あの時、僕が意気地なしだったせいで、お前にこんなに苦い思いをさせて……!」  堰を切ったように、僕の目からも涙が溢れ出た。視界が涙で滲み、葵の顔が歪んで見える。 「葵、お願いだから、どこにも行かないでくれ。結婚なんて、しないでくれ……」  大人のプライドも、理性も、すべてを投げ捨てて懇願した。今ここでこの手を離したら、僕は一生、本当の意味で生きることはできない。確信があった。  葵は涙に濡れた顔で、僕の顔をじっと見つめていた。そして、ぽろぽろと涙を流しながら、ふっと、あの頃のような悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「……バカ。遅すぎるよ、拓海」 「葵……」 「嘘だよ」  葵は自由になった左手で、自分の目元を拭った。 「結婚するなんて、全部嘘」 「え?」  僕は呆然として、葵の手を握ったまま固まった。 「こうでも言わないと、拓海、絶対に本音を言ってくれないと思ったから。今日会った時も、すっかり格好いい大人のビジネスマンになっちゃってて、私のことなんて過去の友達としか思ってないんじゃないかって、怖くて……」  葵は泣きながら、クスクスと笑った。 「だから、ちょっとだけ意地悪しちゃった。ごめんね」  僕は力の抜けた体に、再び熱いものが駆け巡るのを感じた。怒りなんて微塵も湧かなかった。あるのは、宇宙よりも深い安堵と、愛おしさだけだった。 「本当に、タチの悪い悪戯だよ……。心臓が止まるかと思った」  僕は涙を拭い、葵の手をさらに強く握り直した。 「でも、引き止められて良かった。もう二度と、この手は離さない。絶対に」 「うん……私も、離さない」  僕たちは涙を流しながら、お互いを見つめ合って笑った。その顔は、きっと七年前の、あの甘酸っぱい恋をしていた頃の僕たちに戻っていたはずだ。 「すいません」  僕は店員を呼んだ。 「砂糖とミルクを、たくさんいただけますか」  運ばれてきた角砂糖とミルクを、僕は葵のブラック珈琲の中に、これでもかというほど投入した。そして、スプーンでゆっくりとかき混ぜる。漆黒だった液体が、温かみのある、優しい琥珀色へと変わっていく。 「はい、葵。どうぞ」  葵はマグカップを受け取り、愛おしそうにそれを両手で包み込んだ。そして、ゆっくりと口をつける。 「……あまい」  葵は、今日一番の、とびきり甘い笑顔を咲かせた。 「すごく、甘くて美味しいよ、拓海」  僕たちの過ごした七年間は、確かに苦くて、ビターな時間だった。けれど、その苦しみがあったからこそ、今、目の前にある幸せの甘さが、骨の髄まで染み渡る。  窓から差し込む木漏れ日が、僕たちのテーブルを優しく照らしていた。  もう、苦い珈琲を一人で飲む必要はない。  これからは、二人で、この甘い時間を少しずつ、大切に味わっていこう。
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作者:河内謙吾
2026/09/29 • 👁 85回 • 💬 2件
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2350文字 約5分で読了

裏切り者の英雄

この瞬間だ。15年。 あなたを、国を、すべてを裏切ってでも、成したかった。 身を汚さずとも、身を汚されずとも、隠しても隠しても、溢れ出る憎悪で真っ黒に染まった身体で剣を突き立てる。 あの人の国を、私の手で壊させたこの悪魔を。 驚いた周りの兵達が、遅れて彼女を射る。 月夜。 賑やかな宴。 似つかわしくない、朱色。 ―― 私の家系は騎士ながら男児に恵まれず、父は仕方なく長女の私に剣術を仕込むことにした。 10になる頃、父に教えられた剣術を磨いていたとき 勉学から逃げ出した姫と、目が合った。 すぐにお付きの者がとんできて、私に姫を見なかったか?と尋ねてきた。 噂に聞いていたため、このお転婆が何をしたかすぐに察した。 (匿って!) 後ろの茂みに素早く隠れ、ギリギリ私に聞こえる声で呼び掛ける 「……後ろの茂みにおります。」 「ちょっと!」 驚いた声で完全に居場所がバレて、子猫のように運ばれる。 とても王族とは思えない姿に、私は苦笑した。 明くる日、姫は懲りずにまた来た。 「……昨日はよくもやってくれたわね!」 無視して鍛錬に臨む私に、キーキーとうるさく文句を垂れる。 「普通、あーいう時は明後日の方向指して助けるもんでしょう!」 「……どこの世界の普通ですか?」 「これ!城下町で流行ってる恋愛小説!」 「そんなの読んでるからバカになるんですよ。」 「な、なんてこと言うの!あなた読んだことあるの!?」 「ありません。そういった類の書物は、読むと父にバカになると教えられておりますゆえ。」 剣を振っているのにも関わらずズカズカと近づき 姫は持っている本を押し付けてきた 「なら、読みなさい。姫としての命令よ。」 「……私が仕えているのは、あなたの父君でございます。」 「いいから!」 姫はその後、また従者に見つかり連れ戻された。 私は鍛錬を終え、父からの指導を終え、眠気まなこをこすり仕方なく押し付けられた本を読む。 私の顔は次第に赤面していった。 「……目に毒だ、こんなもの。」 しばらくあと、また姫が訪ねてきた。 ニヤニヤした顔で私に語る。 「どう?面白かったでしょう?」 「燃やしました。」 「特に星の女王が……え?」 「あんなもの、高貴な方が読むものではありません。」 またキーキーと騒ぐので、すぐ従者に見つかり運ばれて行った。 「……高貴は誤りだったかもしれん。」 その日から、仕返しのごとく姫は訪ねてきた。 やれ、街で流行りのお菓子だの服だの。 鍛錬に集中させてくれ……! 仕方なく、聞き半分に木剣を振るう。 ある日耐えかねて、なぜ突っぱねても私にちょっかいかけるのかと聞いた。 「……だって今も、これからもつまんないことばっかりだから。」 「……」 少し前に聞いた。 彼女はあの帝国に嫁ぐことが決まっている。 そして見たことがある。どこか陰を落としたその顔を。 毎日、鏡で見る私と同じ。 「別にいいじゃないですか。私も姫も今後を考えなくていい。 一心に道を進むのみ。何も悪いことなんてない。」 「……ウソつき。」 「ウソじゃありま」 「私と同じ顔してる。」 木剣を振るう手が止まった。 ―― 父から聞いた話に耳を疑った。 帝国に就く。 この国を裏切る。 街に火を放つ。 仕えてきた王を斬る。 そして…… 姫を含めた王族を捕らえ、見せしめとして処刑する。 王国の行動が、帝国の鼻についたなど。 家を守るためなど、御託を並べる父の話は途中から入ってこなかった。 ―― 決行日、私は父の命令通り動いた。 街も城内も混乱を極めた。 ……背いたことは3つ。 混乱の中で、父の背を斬った。 そして本来その父が行うはずの、王殺しを私が行い首謀者として堂々と名乗りを上げた。 絶望する姫の目の前で。 そしてわざと姫を含めた王族を数人だけ逃がした。 目が合った姫の顔を見て、私は自分の気持ちを初めて自覚した。 ―― 姫達は無事友好国へ亡命できたそうだ。 その事実に、帝国はご立腹だった。 一国を落とした事実より、一つのミスを重視され 私の扱いは騎士のそれとは程遠かった。 殺されなかっただけマシだったかもしれない。 帝国についてからの数年は思い出したくもない。 それでも戦いで幾度となく、敵を斬った。 蝙蝠女と呼ばれ、嫌がらせに刃こぼれした剣で、戦場に駆り出された。 鈍器として割り切り、敵の鎧ごとかち割り続けて生き残った。 残虐にも、武器を持たぬ民衆も何度も斬った。 ようやく下っ端だが、帝国で騎士として認められた。 そして――共に剣を磨いたかつての友を、帝国に仇なす不埒者として斬った。 得た金は生活費以外、危険と知りつつ、情報屋に渡し姫の安否を何度も確認した。 周りから悪鬼と呼ばれるまで、斬って斬って斬り続け、遂に人間扱いされなくなって、ようやく帝王の腹心と呼ぶに相応しい所まで上り詰めた。 その日は、長年の戦争がついに終わり帝国全体が浮ついていた。 コイツが死んでも代わりはいる。 しかし、私は火種だ。 帝国への憎悪は、今や世界に広がっている。 この混乱を見逃すはずがない。 あなたが幸せに暮らす世を作る。 その15年だ、地獄まで付き合ってもらおう偽りの主君よ! ―― その日、彼女の亡命先の国ではザワついていた。 「姫、裏切り者の彼女がその、かの帝王を討ったとの報が入りました。」 「……遺体は?」 「帝国式典中に事を起こしたらしく……」 「そう、もういいわ。」 「姫?」 「報告ありがとう。明日詳しく聞くからもう下がって。」 「し、しかし」 「いいから!」 普段可憐かつ毅然とした姫の荒げた声に驚き、従者は余所余所しく部屋を後にした。 ……静かに泣き崩れた。 あの日初めて出会った時、一目惚れした彼女を想って。 ―― 裏切り者の英雄は、事切れる直前に空を見上げ想った。 奇しくも、後に彼女の訃報を聞いた姫と同じことを。 「どうか許して。まだ、愛おしく想う私を。」 ――ああ、会いたいな。 ウソついて借りたままのあの本、返さなきゃ。
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2026/09/28 • 👁 42回 • 💬 0件
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672文字 約2分で読了

春なんて

鬱陶しく舞う、桃色の花びらが私は大嫌いになった。 大好きなあなたとの別れ。 それを否が応でも理解させられるようで。 ―― あなたの授業は私の胸を暖めた。 内容なんて何も入っていない。 でもあなたの内側を知る私には…… 必死に取り繕う、あなたの姿が可笑しくて愛おしかった。 夜更かしでできた隈を隠すコンシーラー、伸ばしてたのに切った爪。 爪、私があげたネイル使ってくれたんだね。 私もリップ使ってみたよ。 この専門学校では珍しく毎日レディーススーツを着こなし、不真面目な生徒にはしっかり注意する厳しいあなた。 でも私には―― 目が合った、私はいつも微笑む。 先生は一瞬の硬直ののち、踵を返す。 ……分かってるよ。 この教室で私だけが『生徒』じゃない優越感が堪らなかった。 大学受験が嫌で、でも就職も嫌で。 オトナになるまでの時間稼ぎで入った専門学校。 でもあなたのおかげで、学校も学校外も幸せでいっぱいだった。 ああ、温かい手のひらを自分の頬に当てる。 そして安堵する心音に顔をうずめる。 顔を上げ、柔らかい口元に近づく。 これがあれば春なんて…… ――突然だった。 先生が逮捕された。 ざわつく教室のウザい騒音も、落としたカバンとバラけた中身の音も、ガラス窓の向こう側のように遠のき、頭の中があなたの顔とともにドロドロに溶けていく。 乾いてく喉の奥から出た唯一の言葉は 「は?」だった。 先生は赦されないことをしていた。 私もその『一人』だった。 でも誰にもそのことを告げなかった。 ―― 卒業式、当然あなたの姿はない。 ……ねえ、こんなのいらないよ。 大好きだったよ。先生は? 大切な『生徒』からの質問に応えてよ。
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2026/09/28 • 👁 73回 • 💬 0件